知らない・いらない



初出:92/11/11 00:59


僕は−−

 あなたの歳も知らない。
 あなたの誕生日も星座も知らない。
 あなたが家で何と呼ばれているのか、
 あなたが職場で何をやってるのか、
 あなたが子供の頃どんな子供だったのか、
 あなたが一戸建てに住んでいるのかマンション住まいなのか、
 いつもの場所で別れたあとあなたがどこに帰るのか、
 全部知らない。

 −あなたに恋人や家族がいるかどうかも知らない。



 知らない・いらない。



僕がまだ幼かった頃、
付き合ってる娘のことは何でも知りたかった。
あの頃の僕は、「知る」ことと「理解」することの違いが分からなかった。
だから、知れば知るほど理解出来るのだと、愛が深まるのだと、
そう信じ込んでいた。
その盲目的な間違った確信によって、僕はその娘を追い詰め、
崖から蹴り落とした。
その娘は目を閉じて、安らかに崖から落ちていった。
僕には、どうしてその娘が安らかな顔をしているのか分からなかった。


子供の頃、犬を飼った。
犬は名前が付けられない間は、単に「犬」と呼ばれていた。
「犬」と呼んでも、その犬は尻尾を振って僕を見た。
数日たってその犬には名前が付けられた。
「ジョン」なのか「ポチ」なのか、その名前は忘れてしまったけど、
名前を付けた途端、その犬は、目の前でたちまち一廻り小さくなってしまったようだった。
名前をつけることによって、僕はその犬を束縛し、所有し、そして縮めてしまったのだ。
僕はその犬ととても仲が良かったのだけど、
ある日初めて、その犬につけたばかりの名前で呼んだとき、
その犬はキョトンとした目で僕を見ていた。
それが君の名前なんだよ、と諭すように何度も教えて、
ようやくその犬もそのことが理解できたとき、
その犬の目はもうキョトンとしていなかったけど、
その代わりその犬の目は、『裏切者!!』と僕に罵声を浴びせていた。



その娘と手を携えて洞窟を抜けようとした。
それは、わくわくと心の弾む儀式だった。
恋する男女なら、必ず一度はやる儀式だった。
僕達は、暗い洞窟でも迷わないように、
予め懐中電灯や地図を用意した。
でも、
データーから入って、
理屈の迷路を通るうちに、
僕はいつもその娘とはぐれてしまった。
なんべんやってもいつの間にかはぐれてしまうのだ。


二人はお互いに名前をつけ合って、互いに所有しようとして、
尻尾に付けられたセロテープを取ろうとして一つ所を猛然とくるくると廻る猫のように、くるくると廻った。
僕らは、それを優美な円舞曲とカン違いして、美化していたけど、
実は単にパニックに陥った猫だったのた。
ぐるぐるぐるぐる
ぐるぐるぐるぐる
廻っているうちに、遠心分離器にかかったように、
気がつくと二人はとんでもない地点に飛ばされていた。


『あなたは何も分かってはいない!』
『君こそ何も分かっちゃいないじゃないか!』


だから....
そう。だから、僕達はもっとお互いのことを知らなければいけないねと
こっくりと頷きあって、そして...
そう、そして、不細工なデータの断片を、趣味の悪い原色の布切れをペタペタと張り合わせて、
グロテスクな肖像画を作ることに没頭した。
そして、段々と出来上がってゆくその絵の、そのあまりのグロテスクさに、
僕も君もうんざりしていた。



  −−−−−知らない・いらない−−−−−



僕は、僕と一緒にいないときのあなたの姿を想像することも出来ないけれども、
僕は、僕と一緒にいるときのあなたなら、とても良く分かる。

ねえ
今、手を伸ばせば、あなたに触れることが出来る。
あなたの髪も、鼻梁も、おとがいも、鳩尾も、臍も、恥骨も、膝皿も、アキレス腱も......

あなたはこれで全てなのだ。
なんでこんな簡単なことが今まで分からなかったのだろう?


今こうしてあなたを抱いているとき、あなたの家では誰かが待っているのかも知れないし、
あなたの部屋の留守番電話には誰かからのメッセージが入っているのかもしれないのだけれど、
僕は、もう、そのメッセージの内容を知ることが、あなたを理解し、愛する為に必要なことなのだとは思わない。

もう、そんなことは思わない。


あなたが、「あんまり話したくない」という事柄こそが、
僕らの行く末を決定づけるとても重要な事項であるかのように、思い込んだりもしないよ。
たから、もう、しつこく聞きはしない。

あなたが話したくないと思うことは、
多分今の僕らが生きていくにあたって、特に必要のないことなんだろう。
必要なことは、必要なときに、語られるだろう。



風の強い日だった。
砂塵が舞い上がり、僕は思わず目をかばった。
そのとき、分かったんだ。
僕は五才のときも、十五才のときも、二十五歳のときも、そうやって目をかばってた。
そして、三十五才も、五十五歳も、九十五歳も..もし生きていればの話だけど、
同じように目をかばって、砂塵を避けているだろう。

要するに、僕は僕だったんだ。
すごく色々な面で変化して、それを「成長」と呼びたい自負心と二人三脚をしながら走ってきたんだけども、
僕は相変わらず僕であって、何も変わってはいないのだということを。

だから、昨日あなたと渡ったあの橋を歩いてる僕は、20年後でも同じように渡るだろうと思う。

だから、僕はあなたに、20年後、30年後の僕を約束することが出来るようになった。
と同時に、20年後、30年後のあなたを信じることも出来るようになったんだ。


あなたが何処に行こうが、何をしようが、
あなたがあなたであることに変わりはない。
僕の知らない所で得た経験や知識で、あなたは変わるかもしれないけど、
その変わったあなたは、今、僕の目の前にいる。
だから−−−
いつだって目を真っ直ぐ向けて、あなただけを見ていればいいんだ。
ただ、それだけのことだったんだ。


僕はもうあなたを特別な名前をつけて呼んだりはしないし、
小さな竹籠に鈴虫を飼うように、あなたを僕の心の中の鏡に取り込むこともしない。



僕はあなたが何処で何をしているのか知らないし、
そんなデーターは要らない。
あなたのデーターも、情報も、プロフィールも、何もかも−−
この僕の五感で感じるあなた以外のあなたは−−−



 そんなことは知らないし、
 そんなものはいらない。



随分、長い遠回りをしてしまったけど
やっとスッキリと見ることが出来るようになった。






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