写 真



初出:92/04/07 00:00



二人で並んで写した写真は、
とても怖くて見ていられない。

印画紙の中に閉じ込められた僕は、
君の隣で恐怖にこわばっている。









子供の頃、よく扁桃腺を腫らして高熱を出した。
高熱が続くと、頭の中に、妙なイメージが浮かんできていた。

かなりの重量がありそうな大きな金属の球が、宙に浮かんでいる。
ドスンと地表に落ちて、大地を揺るがす。そのコンマ何秒かの手前。

しかし、その球は、宙に浮かんだまま動かない。
引力に逆らって、そして時の流れに逆らって、そのまま静止している。
圧倒的な量感とエネルギーが凍りついた瞬間。
その息詰まるような緊張。
それが無限に続くのだ。

僕は、喉をひりつかせ、舌を上口蓋にひきつけたまま、再び時間が動き出すのを
ただ待っていなければならない。
破局の一瞬前のまま時が静止し、しかし僕も静止し、睨み合っている。

高熱を出すと必ずこの夢を見た。
耐えがたい息苦しさを覚え、呼吸はしばしば途絶しそうになりながら、
一瞬が永遠に続くこの恐怖に、僕は無力におびえつづけた。



◆ ◆ ◆




−−引き出しを開けた拍子に、どういうわけか、机の奥にしまっていた昔の写真が、
床に落ちた。
写真を拾い上げた僕は、軽い驚きと微かな心の痛みを覚えた。
3年前、康子という女と撮った写真だ。
この写真を撮った一週間後、
康子は交通事故で死んだ。




それから時が流れた


−−−引越の為の荷物の整理をしていたとき、本の間から写真がはらりと落ちた。
康子との例の写真だ。
この前見たのは、そう、もう5年も昔の話だ。この写真はそのとき捨てたのでは
なかったのか?おかしいな...疑問を抱きながら、再び写真に目を移した。

『!?』

写真の中の康子の顔が変わっていた。
5年前の記憶、いや、撮ったときから8年も経過しているので、確かな記憶は薄
らいでいるが、康子は、こんな目をした女ではなかった。はみかみ笑いを浮かべ
て僕の左腕にしがみつき、カメラに向かっていた筈だ。

今,僕が手にしている写真の康子は、カメラではなく、横に立っている僕を見上
げていた。そして、もう、笑っていなかった。
康子の目は、怨みで濁っていた。こんな顔の康子を見るのは初めてだった。



さらに時が流れた


−−書斎の窓を開けて、深夜の涼風を部屋に招こうとしたとき、思いがけず強い
風が吹き、書棚から一枚の写真が落ちてきた。
なんだろう?と思って、写真に手をのばしかけた僕は、『!!』声にならない悲
鳴をあげた。

あの写真だった。

10年前のあの時、康子の顔が変わっていた、あの写真。
あのとき、僕は、自分の記憶違いのせいと自分を納得させながら、確かに捨てた
筈だ。なのに、どうして、こんな書棚から舞い落ちてくるのだ?!

指の関節が白くなっているのが分かった。
僕はやっとの思いでその写真をつまみ上げ、見た。
康子は、相変わらず僕の左腕を掴んで、僕を見上げていた。
『なんだ、この前見たのと同じじゃないか..』
僕は、ほっとしながら、捨てたと思ったのは記憶違いだったのかと自分を安心さ
せようと躍起になっていた。

煙草に火をつけ、椅子に腰掛け、再びその写真をしげしげと眺めた。
『ん...?』
写真の中の康子は、その右手で僕の左腕を握っていたが、康子の左手は僕の腕を
握っていなかった。そして、その左手には何かを持っているように見えた。
うすらぼんやりと黒い物を握ってような気がするが、それは古くなった写真の変
色なのか、光線と影の加減でそう見えるのか、判別はつかなかった。

**************************


写真は、あの頃二人で住んでいた小さなマンションの近くの公園で撮った。
僕は最近ではあまり見なくなったラガーシャツを着て、康子はワンピースを着て
いた。『桜が綺麗に咲いてるから、あの下で写真取りましょう』と康子を僕を誘
った。僕は三脚を肩に掛けて、康子の後を追った。

その一週間後、康子は乗っていた自転車ごと、大型トラックの左折に巻き込まれ
、即死した。

そういえば、何故、康子はあの道を、あんな夜中に、自転車で走っていたのだろ
うか?あのときは取り乱してそんなことを考える余裕も無かった。しかし、今、
改めて考えると、幾ら家の近くとはいえ、康子が夜の10時に、事故現場付近を
自転車で走っていなければならない理由が僕には思い当たらなかった。


...............
物思いに耽っていると、急に、自転車のブレーキの音が、外から聞こえてきた。
僕は思わずびくっとして、窓に駆け寄った。窓から見る風景はいつもと変わらず
熱帯夜にうだっており、何の不審もなかった。僕は、苦笑を浮かべようとしたが
上手くいかなかった。まるで康子が自転車に乗って、僕を迎えにきたように思え
たからだ。


突然に、僕は思い出した。
その当時、康子は、僕が、職場の同僚の美穂と浮気をしてるのではないかと、盛
んに問い質していたことを。

それは半分当たって、半分外れていた。
確かに、僕は、美穂と気が合い、度々飲みに連れていったりしたし、男女関係に
なったことも一回だけはある。しかし、それは半ばなりゆきのようなもので、ど
ちらも本心から恋心を持っていたわけではない。また、それも半年以上前のこと
で、当時にはもう、そう飲みに行ったりもしていなかった。

半ば当たっていることと、既に何ともなくなっている気安さで、僕は康子の疑問
に真面目に取り合おうともしなかった。しつこく問い質す康子に、いささかうん
ざりしたものを感じながら....そう、感じながら...僕はあのとき何と康
子に言ったのだろう。
康子は目に涙を浮かべ唇を震わせながら、『そうなったら、貴方を殺して私も死
ぬわ!』と言ったが、こんな康子を見るのは初めてであり多少意外でもあったが
しつこい康子に僕も腹が立っていたので、『うるさい。勝手にしろ』と相手にし
なかった。

康子が死んだ晩、僕は、駅近くの雀荘で同僚といた。康子にも少し遅くなると電
話を掛けていた。
しかし、康子は、自転車に乗って走っていたことになる。何処へ?
自宅と駅とを結ぶ線上を康子は走っていたわけではない。全くの逆方向だ。

僕は座り直して、18年前のあの町の状況を思い出していた。
あの頃は未だデパートも進出してなくて、やたら空き地が多かった。康子が走っ
ていた方向には....そうだ!この写真を撮った公園があった筈だ....
しかし、何故?そんな夜中に。




さらに時が流れた


僕も職場で次長になっており、部下を連れて桜見物に洒落こんでいた。
髪に白いものが大分目立つようになっていたが、まだまだ健康であった。

自宅の高層マンションに帰りつき、3基あるうちの真ん中のエレベーターに乗り
込んだ。
エレベーターが上昇を始める。僕は、ふと、エレベーターの壁に何か貼ってある
のを見つけた。何だろう?管理組合の広報かな、と思ったが、えらく小さな紙だ
った。ほろ酔いで、しかも老眼が始まってる目で、その紙を見たとき、僕は凍り
付いた。

あの写真が貼ってあった。
しかも、写真の康子の左手には、この前は黒くぼやっとしかわからなかった物が
はっきり写っていた。

それは、斧だった。

そして、隣で、康子に左腕を掴まれながら微笑んでいる筈の僕。
その僕の首が無かった。



エレベーターは上昇を続けた。
確かに押した筈の自分の階である12階になっても止まる気配もなく、上昇を続
けた。僕は狂ったようにボタンを押し続けた。徒労だった。

やがてエレベーターは上昇を止め、扉が開いた。
扉の向こうは、あのいつも見慣れた階の廊下ではなかった。
そこには桜が一面に咲いている公園だった。
『あのときの』公園だった。

僕はいつの間にかラガーシャツを着て、ジーパンをはいていた。
ふらふらと公園をさまよいでた僕は、夜空に咲き乱れる白い桜の群れを見回した
。僕は、康子と写真を撮った場所を探した。そんなもの探したくはなかった。こ
れは悪い夢だ、こんな馬鹿なことが..と思っても、無意識的に僕の目は、あの
場所を探し、あの場所に向かっていった。

『あの場所』を探し当てたとき、近くにキコキコキコキコと音が聞こえた。音は
段々と近寄ってきた。
自転車に乗った康子だった。

『康子...お、お前は、あれから20年近くも自転車を走らせて....』
と言いかけた僕は言葉を飲み込んだ。
康子の手に黒い斧が握られていることを見つけたからだ。

『康子、お前、誤解して...』
と言おうとしても、舌がもつれた。
康子は斧を握りしめ、僕の左脇に近寄ってくる。
そして、康子が僕の左腕をつかむのを、僕は、身動き出来ないままずっと待って
いなくてはならない。

 −僕は、喉をひりつかせ、舌を上口蓋にひきつけたまま、再び時間が動き出すのを
 −ただ待っていなければならない。
 −破局の一瞬前のまま時が静止し、しかし僕も静止し、睨み合っている。


◆ ◆ ◆



−−−−−凍結されていた時が、今、動き出した。



二人で並んで写した写真は、
とても怖くて見ていられない。
印画紙の中に閉じ込められた僕は、
君の隣で恐怖にこわばっている。






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