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吉田宏隆さんのワーホリ&永住権取得体験記
 第一部:ワーホリ編

 

はじめに

最初にお断りしておきますが、私が田村さんにお世話になったのはもう5年以上も前の話です。
結論から言ってしまいますが、5年経った今でも私はまだオーストラリアに居ます。
そして当時田村さんにご指導いただいた事は、以来ずっと生き続けています。

5年間何の連絡もせず全く無礼な私でしたが、突然思い立ってAPLaCへお邪魔する事になりました。
何気ないメールのやり取りの中で“ていうか体験談かきましょうね”と田村さん。
“やっぱ、そう来たかー”(笑)。

5年前のワーホリが終わった時点で 書くべきであった体験記を、今こうして記憶を振り絞りながら書いています。
年に何百人とお世話されている田村さんの事。忘れられていて当然と思いきや、体験談書いてない事までしっかりと覚えていていただいたようです。

ワーホリにいくまで

ずーっと行きたいと思っていました、ワーホリ。
確か22、3の頃だったと思いますが、当時サーフィン仲間を通じて知り合った先輩にワーホリ、オーストラリアの事を聞いて以来、自分もいつか必ず行こうと。

でも、それからが長かった。
結局、決心をしてこちらへ来たのが本当にギリギリの31歳ですから。
日本での仕事を離れるのって勇気要りますよね。
自分の胸の内の思いを押し殺し続けていました。
体によくないですね。今だから言えますけど。

オーストラリアには実は何度か来た事がありました。最初はサーフトリップで友達と。
この頃ワーホリへの思いが始まりました。

その後も幸運にも2回ほど仕事関係で。
私は日本で写真関係の仕事をしていた関係で、海外ロケに行く事も少なくありませんでした。
仕事とはいえタダで海外に行けるという、考えように寄っては夢のような仕事でした。
ところが、撮影関係で海外へ行きますと、必ず現地ですべてお世話してくださるコーディネーターという業種の方たちが存在します。当然通訳も含めてすべてです。
勿論、限られた時間内でプロとしての仕事を確実にこなすためには、彼らの存在は必要不可欠です。
でも私としては何かこう物足りなさというか、納得しがたいものがありまして。
やっぱり自分の力で海外へ出て失敗してもいいから何かに挑戦したいと。
誰も私の事を知らない世界へ行って、自分がどれだけやれるか試したい。そういう思いがいつもありました。

最初の一週間、じゃなくて3日間

いくら“誰も私の事を知らない場所へ”とはいっても最初の目的地くらいは知っておきたいのが人情だとおもいます。
本当に出発間際になってチケットだけポンと買ったはいいものの、語学学校くらいは調べていこうと。

確かもう出発前2週間前後だったと思いますが、そんな中偶然アプラックを発見しました。
皆さんご存知のように、圧倒的な情報量です。

以来、他の留学エージェントや ワーホリ情報サイトへ浮気をする暇もなく自動的に引き込まれました。もう直感的というか強制的ですね。この人に掛けてみようと。

ところでこのアプラックとの出会いは金曜日着のチケットを買った後でした。
アプラックの一括サポートは火曜スタートが基本。田村さんとのやり取りで金曜だと時間的にかなりタイトだよとのアドバイスでしたが、チケットの変更もままならず、そのまま短期決戦へ突入となりました。

さて金曜日、シドニー到着は確か朝8時頃でしたが、その日1日の内に学校見学、携帯入手、学校入学手続き、シティ置き去りサービス、シェア探し、アポ取りをこなすというものでした。

田村さんとの事前の打ち合わせでは、“もしこの1日ですべて決められない場合でも、次週に持ち越しの長期戦で行きましょう”との事でした。
ところが“過去にも金曜着の方達は何人もいて、みなさんビっと決められています”とさり気なくすごいプレッシャー(笑)が掛かったのを覚えています。

結局事前に学校は2校に絞り込んでいた事と、田村さんの的確なサポートにより(特にシェア物件検索)、無事にタイトなスケジュールをこなす事が出来ました。

もちろん学校決める時は真剣に悩みましたし、アポ取り一本目の電話はビビりましたよ。(笑)
一本の電話が無事終わるごとにハァーと胸を撫で下ろしたかった所ですが、間髪いれずに“はい、じゃー次これ”と田村さん。
でもあれが大事だったのですね。
間を空けるとまた恐怖心がわいてくるので。

結局分けも分からないまま終わってみれば確か金土日の3日間(実質土日の2日)で15件前後は見て回れたと記憶しています。
私はその中からニュータウンの物件を選びました。理由はニュータウンの町を一目で気に入ったのと、シェアメイトの国籍のバランスが理想的(オージー、アメリカ人、日本人)に思えたことです。

生活始動

息をつく暇もないまま、語学学校学校がスタートしました。
まだ着いて4日目でしたが、もう10日以上居るような感じ。

スタートの3日間が本当に濃厚でした。
同じ日に入学した他の生徒さんたちが、どことなく緊張してオドオドして見えたのに対して、自分で言うのもなんですけど、なんかもうどっしりと構える事が出来て、何でも来いって感じだったと思います。田村様様です。

学校生活は本当に楽しかったです。12、3年ぶりだったと思います、学生。

30過ぎたオッサンという事で浮いたらどうしようなんて正直不安もありましたが、全然そんなことはありませんでした。

あれ不思議ですね、言葉が不自由だと、言葉以外のコミュニケーションといいますか、お互い理解しようというエネルギーといいますか、とにかく子供時代のように純粋になれるのですね。
おかげで友達も沢山出来ました。 学校帰りにほとんど毎日友達と近くのパブへ行っていたと思います。
お酒がいい具合にみんなとの距離を縮めてくれた気がします。
酔うと英語もスラスラ喋れる気がしますしね。気がするだけですけど。

30を過ぎてからこられる方でもし、年齢が何となく気になっていられるようでしたら、今すぐ忘れた方がいいと思います。
日本人は特に若く見られるというのもありますが、こちらでは年齢は言い訳にすらならないという気がします。
日本でのあの加齢に対するネガティブさって何なんでしょうか。

私個人としては、日本に居た20代のときよりも、今オーストラリアにいる37歳の自分の方が精神的にも肉体的にもずっと若い気がします。
いや実際若返りました。強がりとかではなく。
私は後にTAFEというこちらの職業訓練校に通いました。30代はおろか40代、50代でキャリアを一旦停止して専門学校や大学で学び直しなんて人達ごろごろいるように思います。年寄りぶってる場合ではないですね。

あとこれは余談ですが、語学学校当時は韓国人の友達も沢山できました。
正直なところ、私はそれまで韓国人に対してあまり良いイメージを抱いていなかったのですが、こちらに来てからがらりと変わりました。
やはり広い世界の中で彼らと私たちはほとんど同類というか兄弟みたいなものだという認識に変わりました。
それと彼ら、特に男性は、年齢に対する上下関係がもの凄く厳しいです。
もちろん個人差はありますが、歳が1歳違うだけで絶対服従的な。彼らはこれを日本人にもどういう訳か当てはめていて、私の場合はみんなが慕ってくれるという結果に。
お陰でここでも、私の年齢はプラスに働きました。

とにかく繰り返しですが、私 にとって学校は本当に楽しいものでした。
楽しすぎて離れたくないというくらいに。

卒業後にやってくる英語の壁

それだけに卒業後、 現実のオージー社会との間に大きなギャップがあり、思い悩んだり、苦しんだり、色々ありました。

まず言っておきたいのは、英語に対する考えが私は甘かった。
最初の読みとして、語学学校での4ヶ月しっかり勉強すればそれなりのレベルにはなるだろうと。

私は来る前から是非ローカルの職場でオージーに混じって仕事をしてみたいと思っていました。
それも写真関係で。

勉強はそれなりに頑張ったつもりです。
Student Of The Month と呼ばれる、いわば月間MVPも取りました。事実上の最上級クラスであったビジネス2クラスにもいけました。
卒業するころにはそれなりに自信もついていました。

しかし仕事探しを始めて、いわゆる本物のオージー、ネイティブの人たちとコミュニケーションを取ろうと試みるにつれ、自信は一気に崩れました。
現実は、そこがやっとスタートラインであると。
感覚としてはやっと幼稚園卒園程度。
幼稚園卒で就活に挑もうという、もう世間知らずでは済まされないレベルだったと思います。

最初はもちろん写真関係で探しました。
いわゆるこちらの求人広告サイトなどで見つけて、片端からレジュメ&カバーレターを送りました。
一般的な職種と違いまして、片端といってもたかが知れていてすぐにネタがきれてしまい、今度はイエローページやネットを使って、シドニーを拠点にしているカメラマンや撮影スタジオのサイトなどを見つけては、実際に事務所など訪ねてレジュメを渡したり。

一度だけ日豪プレスで珍しくカメラマンを募集していましたが残念ながらボランティアでした。
“ボランティアでは話にならない”などと思い申請すらしませんでした。
結局ほとんど仕事に就ける気配もない中、時間ばかり過ぎていきます。

ローカル職へのこだわりと反省点

そんな中、それなりに貯めてきたつもりの資金もいよいよ底が見えてきました。
ところが前述のように仕事は絶対にローカルにこだわりたい。ここは揺るぎませんでした。

前述の日豪プレスに今ひとつ興味が湧かなかったのも一つはこの理由からだと思います。
日系企業やジャパレスがどうのこうのというよりは、オーストラリアに居て英語を最大限に延ばしたかったら、絶対にローカルで働くべきだろうと。

今こうして客観的に自分のワーホリ時代を振り返ってみると、色々と突っ込みどころがあるのが分かります。

まず第一に語学学校へ通っている最中から仕事探しをガンガン始めるべきだったと。
当時の自分は英語の勉強に集中して、少しでも英語がましになってからと考えましたが、これが大きな間違いです。

ワーホリの1年は思っているよりもずっと短いです。
仕事探し、特にローカルの場合は経験、スキル、英語が揃っていない限り苦戦は必至だと思います。


次に写真の仕事探しですが、ボランティアでも何でもとにかくトライをしてみて、そこから人脈を広げたりとか、やりようはいくらでもあったのではと思います。
食うためにはジャパレスでもクリーニングでも何でもいいからやって、その傍らで好きな事をボランティアでもやる。

今の自分なら絶対にそうすると思います。

ヤンキー系板金工場で疲弊した件

実は私は日本でカメラマンを目指す前に、自動車の板金塗装工場で塗装工としての経験がありました。
実はこの仕事あまり好きではなかったのですが、そうも言っていられなくなり、さっそく板金塗装屋をイエローページで探し、レジュメを配りました。
これが意外にも配った確か5件目あたりだったと思いますが、その場で仕事のオファーをもらいました。
“いつ始められるか?”との問いに、“いつでも”とこたえたところ、“じゃー明日8時に来い”といった感じでした。
オファーをもらったものの、塗装の仕事を離れてから軽く6年は経っていたことに加え、専門用語、例えば工具や車の部品などに関するボキャブラリーに殆ど自信がなかったので、これはもう手探りというか、体当たり的な働き方になるだろうと覚悟しました。

さて6年振りの板金塗装のしごとですが、仕事勘そのものは意外とすぐに取り戻せたとおもいます。
手は覚えているじゃないですけど。

でも問題はやはりコミュニケーションですね。
みんなが何を言ってるか全然分からないってことけっこうありました。
この時期に自信は粉々に砕かれました。

そして何より一緒に働く事になった人たちですが、彼らはなんと全員レバニーズ、レバノン人です。
この人たち半端じゃなく悪ガキというか、朝からしょっちゅう大声で喧嘩してたり、ドラッグや風俗の話をしてきたり、いわゆる“Fワード”飛び交いまくりであったり、もう完全に圧倒されました。

社長さんだけはギリシャ系のオージーで感じのいい人でしたが。
久しぶりの肉体労働に加え対人的なストレスで、毎日起き上がるのもやっとでした。
“行きたくない”でも“働かなきゃ”という葛藤です。
結局1ヶ月弱だったと思いますが、なんとか仕事には慣れつつあったものの、どうしても相容れないレバノン人1人に我慢出来ず、最後は持っていた道具を放り投げて去りました。いわゆる“Walk away ”ってやつです。

ギリシャ人の社長さんだけには、こんな見ず知らずの、しかも英語もイマイチな自分にすんなりオファーをくれた恩を感じていたので、辞める旨を伝えて謝りました。
この社長さん本当に懐の深い方で、週払いの給料、たしかその週はまだ2日しか働いてなかったのですが、1週間分の給料を慌てて用意して手渡してくれました。
その時ばかりは胸に色々とつかえていたこともあり、もう泣きそうになりました。
いや、泣いちゃったかな、実際。内緒ですけど。

途方に暮れている時期こそが最も重要な転機になること


そんな苦い体験を経て、さてどうしたものかと、途方に暮れました。
ちょっと自分で何をしているのか訳が分からなくなりました。

一つはっきりしていたのは、仕事はイヤイヤやるべきものではないと言う事。
そこでもう一度写真業界に目を向け直すことにしました。

実はかなり昔にシドニーへ仕事で来た際、たまたま現像所で知り合ったカメラマンがいました。
その時もらった名刺を取ってあったのですが、それまで何となく連絡するのを躊躇していました。
しかしこの際と連絡を取ってみたところ、彼が友達のカメラマンを紹介してくれ、ボランティアとして彼のアシスタントをする事に。
とにかく何でもいいから業界に食い込みたいと。
そしてその間にも仕事を何とか探そうと。

ボランティアとはいえ、とりあえず仕事がある、目的があるというのはある意味、一時的な精神的安定を生みました。
金銭的には塗装の仕事でわずかながら持ち直していました。
加えて日本の知り合いから依頼された写真の仕事をこれもわずかですがしていて、しばらくはやりくり出来るという状況でした。

ところがメインの仕事はやはり見つかる気配がありません。
気分的に落ち込むのも時間の問題でした。

落ち込んでいるときに家に居ると更に落ち込むので、私は時間が空いている時によくシティーにある州立図書館へ通っていました。
私はあの図書館の荘厳な雰囲気が好きだったことに加え、Wi-Fi がただで使い放題だったので、仕事検索や、単純に物事を考えたいときに最適だったからです。


この落ち込んでいた時期こそが、自分を見つめ直す大きなきっかけとなりました。

私は自分の本心を探るべく、自分への手紙まで書きました。

自分が自分の中で好きな所、嫌いなところ。自分が好きな事、嫌いな事。
自分が本当にやりたい事、やりたくない事。

具体的には、本当に自分は今後写真で食べていきたいのかとか、どのくらい自分は写真が好きなのかなど。

日本に居るころの自分は、何となく自分の本心に向き合う事から逃げていたと思います。
仕事でも私生活でも何となく、周りの目が第一にあったように思います。
でもここオーストラリア下りまで来て、自分は何をしているのかと。
心からやりたいこと、少なくともそう思える事に挑戦しなくてどうするのだと。

カフェ・バリスタへの挑戦

私はワーホリの1年間ずっとニュータウンに住んでいました。
正確にはニュータウンの中で一度引っ越しましたが。

アプラックへ来られる皆さんは学校終了後にすぐラウンドやファームという流れが主流だと思います。
私の場合はギリホリでセカンドビザの権利がなかった事と、何よりも都市部において写真の仕事に就きたいというのが目標でしたので、シドニー滞在型になりました。
今思えば思い切ってメルボルンへ移る手もあったのかなと思いますが。

ニュータウンの町にはカフェやレストランが沢山あります。
私はコーヒーが好きなので学校へ通っていた時や、仕事へ行く道すがらカフェへ寄る事が沢山ありました。
そんな折よく“ああいうお洒落なカフェでローカルの人たちに混じって仕事がしてみたいな”と思う事が少なくありませんでした。
飲食の経験が殆どなかった私ですので不安はありましたが、この際やりたいと思った事をやろうと。早速バリスタの1日講習を受けました。
この講習は完全ローカル向けで英語も容赦なく、着いていくのがやっとでした。


手始めにニュータウンのカフェにレジュメを配り始めました。
最初の数件は多少ビビりながら、でも数をこなしていくうちに慣れていったように思います。

ニュータウンだけで軽く30件は配ったと思います。
カフェだけではなくコーヒーマシンの置いてあるところならレストランでもベーカリーでもなりふり構わず。

一番多かったのは“今は暇で人は足りてる”“忙しくなったら連絡するからレジュメだけもらっとくよ”など反応はイマイチ。

しかし、なかには“じゃーちょっと入れてみて”という所も数件ありました。
ところがこちらはたった1日の講習を受けただけのみで、まともにできるわけがありません。
もうドキドキしながら、手も震えながら、しかも厳しい視線を感じながらやったのを覚えています。
もちろんボロボロです。
しまいにはあんまりひどいので教えてくれる人まで出でくる始末でした。

このレジュメ配り中に“じゃーやってみて”といわれて実践する事で練習してた気がします。(笑)

なんせコーヒーマシンがないと、練習しようがないですから。

あとよくあったのは、“電話するよー”と言われて”“よしっ”と半ば仕事ゲットした気になるも、一向に電話が掛かってこないパターンです。
これも今だから言えるのですけど、自分から電話するか、再度出向いてみるとかやりようがあったと思います。
まあ当時の自分はそんな勇気どころか、レジュメ配ったはいいものの、本当に電話が掛かってきたらどうしようとか、いざ仕事をゲットしても自分はできるのだろうかなどと思っていたくらいですから、出来なくても無理もないですけど。


結局ニュータウンのコーヒーマシンが置いてある店はすべて制覇?し、その周辺も配り始め優に50件は突破したころ、さすがに落ち込み始めました。

“やっぱりだめかな?”“ラウンド行くべきかな?”“ファームでも行こうかな?”などと考えていました。

その頃たまたま語学学校時代の日本人の友人から連絡があり、日本人だけ何人かで夕食を食べに出かけました。
当然友人達には仕事探しが思うように行かなくて落ち込んでいる話をしました。
その内の1人に“何でシティーに行かないの?”とさり気なく聞かれ、それもそうだなと気を取り直し、翌日さらにレジュメを増刷してシティーへ向かいました。

余談ですが、私は日本人の友達 はとても大切だと思います。
もちろん四六時中彼らと一緒に行動してたらだめですけど、やっぱり日本人同士だからこそ分かち合えることも沢山あると思います。
特に落ち込んでいる時など相談出来る相手が居るというだけで精神的な安定を生みますし、そういうバックアップがあるというのは強みにもなります。

QVBのカフェゲット!

さてタウンホールの駅を降りてカフェと言えばまずQVBだと思います。
QVBだけでカフェは10件近くあるのではないでしょうか。

すかさず最上階まで昇り、上から順番にこれまたカフェというカフェを配り始めました。

確か3、4件目くらいだったと思いますが、そこのマネージャーからいつも通りの“今は暇なんだよねー”の返答。
ところがちょっと間を置いて“でも一応やってみて”と言われ、ベストを尽くしたつもりが 所詮は酷いものでした。

“やっぱりだめだよなー”などと思った私ですが、このマネージャー律儀にも私を席に案内してくれて“ちょっと話そうか”と。結局“君は多分最低2週間くらいはトレーニングが必要だと思うけど、うちでやってみる?”と。

私は彼の言った事が信じられず、聞き間違いと思い、もう一度聞き直しましたが、やはり同じ返答。

その瞬間私は嬉しくて涙が浮かんでくるのをぐっとこらえました。
もう嬉しくて、嬉しくてたまりませんでした。

ワーホリ2度目の泣きが入りました。
でも今回はうれし泣きです。

その後フワフワと軽い足取りで、何度も心の中でガッツポーズを決めながら帰ったのを覚えています。


バリスタの仕事ですが、これが本当に楽しかった。
トレーニングの期間も含めて3、4週間後くらいには大分上達したと思います。

そうです。
よくあるバリスタ1日?数日の講習なんてよくありますが、あんなもんで出来るようになるなら誰も苦労しません。
もし興味がある方はその辺を心得ておいてください。

当時は仕事に慣れるにつれて、毎日行くのが楽しくて仕方がありませんでした。同じ仕事でもこうも違うかと。
結局ワーホリの期限ギリギリまでの4ヶ月余り、このカフェで我武者羅にほぼ毎日働いたと記憶しています。

そしてワーホリ後へ

さて、この時期すでにワーホリも残り4ヶ月を切り、当然先行きを考えなければいけません。
一つ目のオプションはお金を出来るだけ貯めて、ラウンドとは行かないまでも、オーストラリアとアジア諸国をなるべく多く旅して日本に帰国するというものでした。

でも私は日本を離れた時から既に、もしオーストラリアでの生活が気に入ったら、永住権を目指したいと考えていました。
もちろん自慢じゃないですけど、どうやったら永住権取れるかなんてよく知りませんでした。
でもとにかくこの時点で自分の本心としては、ここオーストラリアに残りたいと 。

その後は、永住権獲得までの奮闘の日々になるのですが、今回は私のワーホリ体験談ということで、このあたりで。


では皆さんのオーストラリア生活が充実したものになりますように!

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