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2014年02月06日


ワーホリ体験談 水貝拓真
 2013年1月渡豪、2014年1月帰国



日本に帰国してからはや2週間近くになります。帰国直前までAUSで蝉の声を聞いていたのでやはりというのか日本の身を切るような寒風が身に堪えます。
体験談の構成ですが主に渡豪前の“暗黒期”〜Aplac到着数日間とラウンド中の7カ月間をメインに書かせて頂きました(というかそうならざるをえませんでした)。
表向きはオーストラリアでのワーホリ体験談ではありますが、裏テーマとして暗黒期当時の自分の心境、どういった心持ちでいたのか、あるいはどういった言葉に励まされたのか等を裏テーマにしています(といってもそんなに緻密ではなく読んで頂ければ一目瞭然ですが...)。
駄文ではありますがご参考にしていただければ幸いです。

暗黒の冬〜心身低下スパイラル

僕の場合は渡豪後よりも前にいささか苦労がありましたので、まずその辺りの事から綴ってみたいと思います。

最初は体調不良

事の発端は自身の体調不良でした。
本来は2012年9月末に渡豪する手筈を整えていたのですが、当時していた仕事や身内の不幸などが重なり8月頃に精神面から体調を大きく崩してしまいました。


この間の過程を、後に田村さんから補充質問を戴いたので、かいつまんで記します。

まず、職場や仕事が原因ということはなかったと思います。
人間関係は全く問題ありませんでしたし、誰かが嫌いだとか上司とそりが合わないという事もありませんでした。仕事内容も理不尽なクレームとか嫌でしたから、まぁ多少のメンタル的な疲労はあったのかもしれませんが精神を病む程忌み嫌ってたわけではありません。後3〜4年続けていても体調が崩れていたとは思えませんし、むしろそういうクレーマーとの対応を楽しんでた時もありました。楽しんでたというと語弊がありますけど、筋の通らない事を主張し続ける奴は嫌いでしたし、そういう客とはたまに喧嘩してました。

やはり、僕の中で決定的な要因となったのは父親の死だと思います。
いやもっと正確に言うと家族が悲しむ姿というのが大きなウエイトを占めていると思います。

それは親父の死に対する僕と家族との温度差というか、受け止め方の違いでした。
僕は当時実家を離れて一人暮らしをしていて、看病などは全て家族が行ってましたから、僕はたまに帰省して顔を見せる程度で終わってました。

親父が死んだ時は勿論悲しかったですけど、逆にほっとした思いもあったんです。
死ぬ間際は片肺が潰れて、声も碌に出せない状態で、息をするのもやっとなくらいで、傍から見ていていてもほんとに苦しそうでした。
最後は睡眠薬を投薬されて寝ている時に逝ってしまったんですが、その時僕は、苦しみ続けていた状態から親父がようやく解放された事に対して、ほっとする気持ちがあったんです。
もちろん悲しかったですけど、不思議と心のつっかえが取れるというか感覚があったんです。医者から余命を告げられたと聞いた時から覚悟も出来てましたし。 つまり、父親に死に直面しても比較的落ち着いてましたし、悪く言えばドライに受け止めてましたね。

でも家族は違いました。
特に母親は当然ですが毎日泣いてました。亡くなった後は毎日毎日泣いてました。3カ月、4ヶ月経っても泣いてました。ここまで長く嘆き悲しむ母親を見たことがありませんでしたし、その姿が胸に突き刺さりました。
僕は強い自責の念に駆られました。
そのあたりの差というのは、やはりずっと一緒にいたかそうでないかというのが大きいのかなと思いますけど、それでも、家族の為にもっと何かできたんじゃないか?と、毎晩寝る時に自責の念に駆られました。

ほぼ毎日自分を責め立ててましたから、それが結局自分のメンタルに負荷がかかり続けた主要因だと思います。 。

でも、僕は性格上誰かに自分の弱さを見せたがらない部分があるので、毎日思い詰めるだけ思い詰めて誰かに相談したりもほとんどしてませんでした。

ここである程度メンタルのメンテナンスをうまく行ってれば自ずと結果は違ってたと思いますが、でも当時としてはそのようなことは思いもよらず、以下のように体調不良として出てきたのではないかと、今振り返れば、そう思えます。


体調が崩れた当初食欲が急激になくなり食べたもの全て下痢となり、また電車にのっては過呼吸に襲われ外に出て歩こうにもすぐに息が切れてしまい、その時は傘を杖代わりにしないと軽い坂でも上れない程体力が著しく低下していました。

病院での診断結果は「逆流性食道炎(以下「逆食」といいます)」との事。
逆流(嘔吐)など一度もした事もないのになぜ?と。
医者からは逆流症状がなくても胃カメラで食道に炎症が確認できるのでそのような診断になったとの事。

当時の僕は体調不良の原因は精神面からくるものではなく、体のどこかの器質的異常(炎症や潰瘍など)から起因するものだと考えていた為、医者の言う事を信じ、過呼吸や著しい体力低下との因果関係まで思い及ぶことなく逆食の処方箋を飲みながら治療しました。

体調が崩れたのが8月中旬頃。
そこから2週間程症状が続いた為堪らず田村さんに10月へ渡豪を延期してほしいと要請。

このような症状は少しずつ治まっていった為10月末を目途に渡豪する旨を田村さんへ連絡。(この間延期要請を3度させてもらいました。あの時はご迷惑をおかけしました...)

一進一退

しかし10月に入ってから持ち直していた体調が再び悪化。
具体的には再度極端な食欲不振や悪心、電車に乗った際の過呼吸症状、胸が圧迫される感覚、喉に常に違和感、動悸、胃に走る痛み...等々

再度病院で診てもらうと悪いところはないので心療内科へ行くようにとの通達。

心療内科や精神科では向精神薬などその種の薬を服用したくなかったので、東洋医学に頼る事にし、漢方薬でしばらく様子をみる事にしました。
漢方薬は少し値段がはるのですが、処方してみると少し改善があり、それまで食べ物を見ても食べる気すらしませんでしたが、茶碗1杯分ぐらいの米とみそ汁ぐらいは飲めるようになりました。

それでも諦めきれない

当時の僕は、電車に乗ると過呼吸や胸部を圧迫される症状に襲われる状態でしたので、とてもじゃありませんが渡豪などできないと判断し、2013年1月に渡豪を再延期する旨を田村さんへ再再再要請しました。

しかし田村さんからは「このままずるずる引っ張るのは良くない」というメールを頂きました。

後述しますが、渡豪に対する不安から体調が悪くなっていた面もあり、その当時僕は自身の体調不良にかまけて問題を先送りにしてしまっていました。

また何度も延期を要請した事によりAplacにおけるビジネス的な側面でご迷惑をおかけしてしまった事もあり、一度キャンセル料をお支払いし渡豪の話は一旦白紙に戻しました。

しかし渡豪を諦めたくなかった僕は当時の心境や体調に関して田村さんへ報告し、なかなか事がうまく進まない事に対してストレスを抱いているなど当時の僕の愚痴を受け止めて頂きました。

何度かメールのやり取りをしていく中で「1週間や10日で帰るワーホリがあってもいい」という言葉に気持ちが楽になったのを覚えています。

田村さんは僕が理想のワーホリを描きそれが達成できないかもしれない事でメンタルに負荷がかかっているという僕の心情を見抜いておられました。

僕はそれまで自分が抱く理想のワーホリが達成できなければオーストラリアに行っても意味がないとずっと考えており、“語学学校→ラウンドでハッピーエンド”という凝り固まった考えを矯正する事ができました。

渡豪後たとえ1週間や10日で日本に帰るような事があったとしても諦めがつく決心が固まり、最終的には年明け1月渡豪で調整して頂く事で話がつきました。


不安神経症へ


年末年始が近づくにつれ漢方薬のおかげもあってか電車に乗っても過呼吸症状は出なくなり、またこれ以上の体力低下を防ぐため毎日1時間近所の公園でウォーキングを行ったりして少しづつ自信が出てきていました。
ただ相変わらずの食事量の為、身長182cmですが体重は65kgを前後していました。

僕はそれまでしていた仕事を辞め、渡豪するまで約4ヶ月程度養生していましたが、何よりもきつかったのがメンタル面の管理でした。

この時期中々治らない事や体が思い通りに動かない事がストレスとなり、家族に対しても少し苛立った態度を取るようになっていました。

また10月に体調が再び悪化した際の精神面での落ち込みは深く、何か他に重い疾病にかかっているのではないかと疑心暗鬼にもなりました。

「若いから大丈夫」という医師の言葉にも猜疑心を抱くようになり、内視鏡検査の他にも精密検査を受けなくてよいのか不安に思い、症状のつらさを理解してもらえなかったり、物事がうまくいかず歯車が狂っているストレスを多分に感じました。

僕は自分の症状をいろいろとネットで検索し、おそらく自律神経失調症なのではないかというふうに感じていましたが確信を持つ事ができませんでした。
それは大海のように広く溢れるネット情報を検索していると、悪い情報も当然目に入り、その中には悪性の癌であるなど気分が上がりようのない情報も目につき、当時の自分はメンタル的にも弱っていた為かなり神経過敏にその情報を読み取っていました。

処方された薬の副作用が気になり出し、入っている成分がどのような効果をもたらすか少しでも副作用に似た症状が出ると薬剤師に問い合わせたり、また癌ではないと自分に解らせる為にネットで一日中情報を検索し、プラスの事が書いてある書き込みを見ては安堵し、マイナスの情報を見ては落ち込んだりしていました。
20代における癌の罹患率はかなり低いにも関わらず、0.1%でも可能性がある場合は僕はそれをネガティブに受け取っていました。
それからある時を境に誰かが死んだという話に異常に敏感になり、自分の死を強く意識するようになってしまっていたのです。

それは知らない内に自分が重篤な病気にかかっているのではないかという思いとリンクしており、ニュースで芸能人の○○逝去、重病...等のニュースを見ただけで自分と関連付けて考えるようになっていました。

なので途中から一切のネット情報を遮断し自分の好きな趣味の情報しか見ていませんでした。

難しい事かもしれませんが、メンタルが弱っている時程気を強くもつようにしないと、もしこの時宗教絡みの勧誘を受けていたら入信してしまっていたのではないかと思うぐらい甘い言葉に弱くなっており、体調が一向に上向かない事に対して漠然とした不安を抱いていました。

再生の春

逆転の発想

またこういった状況時というのは不安になって思いきった事ができなくなってしまいます。

しかし「トラブルが起きるのを待ち望むくらい、逃げるのではなく(トラブルに対して)向かっていく」という風に言い聞かせ、道の途中でぶっ倒れる覚悟で僕は渡豪を決意しました。

この言葉は田村さんから頂いたものですが、当時の自分からしてみれば発想の逆転というか“静”ではなく“動”、攻撃は最大の防御という考えにハッとした思いを抱いたのを覚えています。またいつかは体調が上向く日が来ると信じて十分とは言えませんが英語の勉強は継続してやっていました。

渡豪

そしていよいよ渡豪当日。
それまでずっと「自分は大丈夫だ」と毎日言い聞かせ気分を盛り上げていました。

家族に空港まで送迎してもらいチェックインを済ませ、いよいよ搭乗、、、というところで息が上がり椅子に座りこんでしまいしばらく動けなくなってしまいました。
渡豪を取りやめようかという思いが頭をよぎりましたが、再度「自分は大丈夫だ」と強く言い聞かせ、なんとか飛行機に搭乗しました。
飛行中に疲労からめまいを起こし機内で倒れてしまいましたが横になると楽になり大事には至りませんでした。

到着

紹介文にも載せた写真。
着いた当初の硬直期
経由地のケアンズに着くも東京で大雪が降った関係でシドニー行きの便が日本からこず。そのままケアンズで一泊。翌朝にケアンズからシドニーへ飛び立ちました。


そして空港でようやく田村さんと合流。

「体調は?」と聞かれたので動悸が多少あると答えました。
学校見学を先に済ませた後にAplac邸へ。

僕はようやく目的地に着いたという安堵感と疲労からAplac到着後1〜2時間後には寝てしまいました。

初期パニック

そして入眠から2〜3時間後体に異変が起きました。
これまで経験したことがないくらい激しく、心臓が飛び出さんばかりの動悸が起こり、呼吸がひどく浅くなり苦しくなりだしたのです。

田村さんと同期のA君に助けを求めました。
病院へ行くかどうか迷いましたが、ひとまず再度横になり、田村さんから氷袋をもらいそれを胸にあて様子をみる事にしました。

症状は1時間程続いた為、途中このまま死んでしまうのではないかという不安に襲われ、「あぁやっぱりだめなのか」とその時は日本へ帰る決意をしました。

それまで強く言い聞かせていた暗示のような強い言葉も頭をよぎらず、ひたすらベッドに横になり、症状が治まるのかどうか分からない不安と闘いながら1時間程横になっていました。

しかし1時間程で症状は治まっていき、その夜はなんとか眠る事ができました。

翌朝、食欲は全くなく、また風邪のような症状も出ていた為、その日も一日中ダウン。
ずっとベッドに横になり丸2日間何もする事なく時だけが過ぎていきました。

復調の兆し

この時は早く日本に帰りたいとだけしか思っていませんでしたが、3日目になり症状も軽くなった事と田村さんからの勧めもあり近くの商店街まで散歩しにいきました。

外に出れるようになった自分に少し安心し、体はまだきつかったですがようやく第一歩を踏み出す事ができました。

その時見たAplac〜商店街までの閑静な雰囲気と、夏なのに過ごしやすい気候に心が癒されたのを覚えています。

そして4日目の朝には体調に変化が表れました。
お腹がすく感覚があったのです。


それまでの4カ月間まるっきり経験していなかった感覚です。

他の人にしてみれば至極普通の事ですが、僕にしてみれば久しぶりの快感で、
こんなにもご飯がおいしいと感じた事はありませんでした。

少しづつ


少しづつ体調が良くなってきた為、次の日はシティのトラトラまでバスに乗って、同期のA君と携帯電話を契約しに行くという"冒険"にも出かけました。

トラトラへ行く途中にA君がアポを取っていたシェアハウスのインスペも一緒に行きました。

体調が少しづつ良くなっていくのが感じ取れたので、翌週には学校に申込に行きました。
田村さんのすすめもありまずは1週間だけ申込をして様子を見てみる事に。

融通が利くという事でSCEにしました。
そして1週間が経過し無事通学ができたのでさらに2週間分延長。

その2週間が終わる前段階で長期で通えるという見通しが自分の中で立った為14週を追加で申込しました。

Aplac到着初日の激しい動悸以降、一つづつ階段を踏むようにして物事が進み、並行して体調も上向いていきました。

それは一つづつ目の前にあるタスクをこなしていく事で実感し、「もしかするといけるかも」という思いが日に日に強くなっていきました。

この動悸を境にぼくの体調が上向いたのは間違いありません。

思うに


いつのまにかオーストラリアへ来る事に対する不安が、元々弱っていたメンタルをさらに押しつぶしていましたが、その不安を実際に達成してしまう事で抱いていた潜在的な不安が解消されたのだと思います。

体調が良くなった当初はご飯がおいしい事に感動し、一人でバスや電車に乗れる事に感動し、普通に生活ができるようになった事がなにより嬉しかったです。

これ以降このような激しい動悸に襲われた事は一度もありません。

オーストラリアへ来てなければと思うとゾッとする思いです。

シェア〜シェア変更も

体調に対する不安が和らいだ事もありシェア探しにも取りかかる事ができました。

シェア探しは、到着翌週から始めたと思います。
やはり生の電話英語を聞くのはその時が初めてだったので、一件目のアポ電話をする時はまた違った意味で心臓がどきどきしました。
しかし段々慣れていき、一日平均3〜4件程度のインスペで回っていたと思いますが、それでも良い人には出会えました。

シェア移動時。 一週間でだいぶ表情も和らいだ感じ
最初の住処はBirrongというサバーブに住む中国系オージーとシェア。
元々別の中国系オージーの家をインスペした時に僕が体が悪いという事を伝えると「世話をしてくれる人を紹介してあげる」という事でこのBirrongのオージーを紹介されました。

部屋はオウンルームで週160$、そしてなにより飯付きという天国のようなところだったので迷わず決断しました。ただ2週目にレントを払おうとしたところ翌週から飯代含め280$になると言われたので2週間で引っ越しました。

最初に説明があったのかなかったのか分かりませんが、少しCityからも遠い地域だった事もあり良い機会と捉え再度シェアハウス探しに取りかかりました。

ほどなくしてCanterburyでオウンルームで週170$という物件を発見。
一度インスペをし再び訪問した際に迷っている旨を告げると10$値引きしてもらい、また住んでいたオージーの人柄も良かった為引っ越しを決断。

結局ラウンドへ出る約4カ月間そこに滞在。
一緒に住んでいたオーナーのクリスはおおらかで独り身の当時52歳。「俺は自由が好きなんだ」と言って結婚はしないと言っていました。
彼は朝5時頃には家を出て夜(おそらく)6時頃に帰ってきており、僕も普段は夜9時以降に帰宅していた為平日はほとんど会話をする機会はありませんでしたが、週末時間がある際は、日本の原発や北朝鮮問題、オーストラリアのasylum seekerについて語り合いました。英語が不自由ながらも、そういった事柄を話すのは嫌いではなかったのでおもしろい時を過ごせました。

因みに1年後の帰国前日に彼の下を再訪問しましたが嫌な顔一つせず出迎えてくれました。僕がシドニーにいる間バッパーに滞在している旨を伝えると連絡してくれれば泊めてあげたのにと言ってくれ、長い間会っていなかったにも関わらず彼との信頼関係が途切れていなかった事が嬉しかったです。

学校も

学校はintermediateから始まりupperで卒業しました。
upperで卒業というのがぼくの入学時の青写真だったので、その点については満足しましたが、もっと勉強できたなというのが反省点です。

学校には日本人が多くおり僕は積極的に交流はしていませんでしたが、後半から入学してきた方々とは一緒に旅行に行ったりと仲良くさせてもらいました。彼らとはラウンド中に1週間旅行に出かけるなど良き友達となりました。

ラウンドへ

準備

そして卒業後すぐにラウンドへ出かける準備をしました。

渡豪しバイトを始めた2ヶ月目あたりから体調は人並みぐらいに良くなっており、ほとんど体の事を意識するまでもないぐらいにまで回復していました。
また体力向上を目的にCityから自宅のあるCanterburyまで徒歩で帰宅したりしました(さすがに4日連続で帰った時は脚がボウになりました)。

ぼくは体が良くなった暁には是非ともラウンドをしてみたかったので、不安よりも楽しみの方が勝っていました。

パースへ

時期的に冬が始まったばかり(6月)でまずはアデレードよりも数値上は暖かいパースに行ってみる事にしました。パースに着くとすぐにバスチケット売り場へ。

事前にパース北部へ行くつもりだったのですがどういうわけか南部にあるマーガレットリバー行きのバスチケットを購入していました。

僕はその時マーガレット・リバーの地名を聞いた事はありましたが、実際何がありどういった仕事がgetできるかなど事前情報もゼロだったにも関わらず、無意識の内にチケットを購入していました。

そしてマーガレット・リバー行きのバスの中で去年マーガレットで仕事をしていたという台湾人と一緒になり期待がもてました。


到着翌週の月曜の朝に、宿泊していたYHAで、仕事に出かけるオージーに話しかけたところたまたまファームのsupervisor(現場監督のような意味、以下「SV」という)である事が判明しそのまま仕事をさせてもらえる事に。

仕事内容はvineyard(ブドウ園)でのブドウの木のプルーニング(剪定)jobでした。
ちょうどプルーニングが始まる時期だった為その後2カ月程プルーニングの仕事にありつけました。

雨が多くtoo muchの場合は休みになる為思い通りには稼げませんでしたが、それでも途中でモンキーマイアへ語学学校時代の日本人と旅行をする事ができました。

モンキーマイアへの旅行途中に取った果てしなく続く直線道路です。
これぞ雄大なオーストラリアというのを表わしていてお気に入りの一枚です。

モンキーマイアでのクルーズからの一枚です。
太陽光が海に反射して綺麗です。海の綺麗さにぶったまげた一枚です。
9月の上旬になるとプルーニングが終了し一旦仕事がなくなってしまいました。
ちょうどその時期宿泊していたバッパーに日本人がたくさんおり、仕事も行動を共にしていた為、ぼくの中で焦りが出ていました。

彼らに問題があったわけではなく、自分を取り巻く環境が日本人村化しており、且つ全く知らない地域へ出向いてもう一度一から仕事探しに挑戦してみたかったという思いがありました。

このマーガレット・リバーで仕事を得た経緯があまりにもラッキーの要素が強かったというのもあり、さほど苦労していなかったのでダーウィンへ飛ぶ決意をしました。

ダーウィンへ

ダーウィンを選んだのはマンゴーピッキングが始まるという情報を掴んでいた為です。

この年のNTのマンゴーはかなり不作で労働者も大幅に削減されるという噂を耳にしていましたが、マーガレット時代に共に働いたSVがダーウィンでもマンゴーのSVをやるという事を知り、全くあてがなかったわけではありませんでした。

一緒に働いていた他の皆からは、きちんと仕事が得られると判明してからダーウィンへ飛んだ方がいい、
またプルーニングの後に新芽の摘み取り仕事も始まるのでもう少し滞在すればいいのに、 とも言われましたが、僕はダーウィンで得られる仕事がCityjobでも構わないと意気込んでおり、かつ一刻も早くこの状況から抜け出したかったので、彼らの意見は右から左へ流して、9月中旬頃にダーウィンへ一人で向かいました。

早速到着翌日からダーウィン市内でレジュメ配りを開始。
実はこの時までローカルのレストランやホテルにレジュメを配った事がなかったので最初の数件は緊張しました。

こういった経験がなかったというのも僕を見知らぬ土地へ向かわせた理由の一つでした。
でも慣れてしまえばそういったとまどいも小さくなりましたが、いかんせん暑さの為、多くても一日5〜6枚程度でへばってしまっていました。(これは大きな反省点...)

結局10日程ダーウィン市内で仕事を探すも見つからず。
貯蓄も100$を下回りそうだった為慌ててWWOOFを探しましたが、どこもいっぱいやもうWWOOFerを取っていないとの連絡。

そんな窮地を同じバッパーのエストニア人に話したところHelpex(ヘルペックス)というWWOOFに似た制度があると教えてくれました。そのHelpexで3件に連絡を取ってみたところ1件からofferがあり早速お世話になる旨の返事をしました。

このHelpexで応募する際、WWOOFではただ雛型に個人情報などをあてはめて応募していましたが、Helpexではきちんと自分の言葉で自分は何ができてどういう応募動機であるか等詳しく書いたのが功を奏したような気がします。

僕は比較的writingが得意(といっても知れてますが)だったのでここで役に立ったように思います。
受け入れ先のホストからも誰かにwritingを手伝ってもらったのか?と言われ嬉しかったです。

キャラバンパークのHelpex

仕事内容はキャラバンパーク内の清掃やごみ収集で、「人出が足りない」との事で敷地内にあるレストランでキッチンハンドもしました。キャラバンパークは広く、車で回ってパーク内に落ちているpalmtree(ヤシの木)を集める作業はnever endingだと言われ苦労しました。

ダーウィン近郊のキャラバンでボランティアワークをしてた時の一枚です。
車でごみ収集してごみ捨て場に行く時に牛の大群が横切った時の一枚です。毎朝この牛の大群に遭遇してました。水の少ない地域のせいなのか普通の牛よりやせ細って見えるのが印象的でした。
キッチンハンドはシェフの英語が速すぎて全く聞き取れず、スラングも混じり、一つ言葉をかけられる度に聞き返していた為段々会話をするのが怖くなっていきました。

辛くはありましたが、ある意味本望だったので、なるべく聞き取れない単語などは聞き返して、めげずにやりきる事ができました。このキッチンハンドは給料が出た為ほんの気持ちだけ稼ぐ事ができました。

この施設に滞在したのは約2週間程度でしたが、その間僕はgumtreeで仕事はないかずっと探していました。

カカドゥのハウスキーパー

そしてカカドゥNP内のリゾートでのハウスキーパーjobに応募したところ、offerがあり二つ返事で働く返事を出しました。

そこでは文字通りそれぞれの部屋のクリーニングやベッドメイキングを行いました。やはりボランティアワークとは違いお金が発生する為、スピードが求められ、時間制限もあり、且つ暑さも重なりオーストラリアで一番きつかった仕事でした。

鏡にシミ一つ残らないぐらいのプロフェッショナルさを求められ、性格的に大雑把な僕には少し辛かったですが、お金を稼ぐ厳しさを再認識した仕事でした。

そのハウスキーパーは3週間だけの契約だった事もあり、3週間経過後再びダーウィンに戻らねばなりませんでした。

その時、次の住処や仕事も決まらず、また身内もいないという状況だったので、路頭に迷おうとしている日本の派遣切りにあった人の気持ちが分かったような気がしました。(大袈裟か...)

カカドゥでハウスキーパーをしていた時の同僚のフランス人です。
ラウンド中に出会ったフランス人はみなフレンドリーで、渡豪前に抱いていたイメージとは真逆の国民でした。 彼もその内の一人で仕事中もよく話しかけてくれ、僕がマンゴーjobを探していると言うといろいろ情報提供してくれた心やさしい男です。

ケアンズ近郊のマンゴー・ピッキング

話は戻りますがマーガレット時代に一緒に働いていたSVは、この時ダーウィンから南に4時間ぐらいのキャサリンというところでマンゴーピッキングをしているという情報を掴みました。

マンゴーピッカーにはマーガレット時代に一緒にプルーニングをしていた人もいたので、ぼくも働けないか尋ねたところやはり不作の為もう間に合っているとの事。

ただし11月末からケアンズ近郊のマリーバというところでもマンゴーピッキングを行うという情報を得、さらにぼくも確実に働かせてもらえるらしいとの事。それを聞いてさっそくダーウィンを後にしケアンズへ飛びました。まだ11月中旬だった為末までケアンズ近郊でWWOOFへ行きました。

11月30日からピッキングは始まるという情報を掴んでいた為前日の29日にマリーバへ行く事にしていました。
ただまだ実際に働けるかどうかの確証がなかったので11月28日にアイリッシュのダンへ連絡を取ってみる事に。彼もマーガレット時代に同じファームで働いており顔見知りでした。

smsでmsgを送り彼から返事があると僕は驚きました。
もう本日28日からマリーバでマンゴーピッキングは始っていると返事が。
僕は寝耳に水だったので急いでSVへ連絡してみると、するともう人員はいっぱいだという連絡が入りました。

僕はずっとマリーバで働けると思い込んでいた為かなり落胆してしまいました。
ダンへこれまでの経緯を話しSVへ話をつけてくれないかと頼み込んだところSVから再び連絡が。
「働けるようにしてやるから明日の朝6時にマリーバにいるように」
「それができないなら今後働けるようにする約束はできない」
と言われました。

何故かSVは苛立っており僕は焦りました。
その電話があった時すでに夕刻6時を過ぎておりバスもなかった為、その時滞在していたWWOOFホストへマリーバへの送迎を頼みこむも、「大切な友人が来ており仕事で疲れているので勘弁してほしい」と言われました。
ようやく掴みかけた仕事が手の隙間から抜け落ちていく虚脱感を感じ、僕はやむなくタイミングが悪かったと思いSVへマリーバへは行けない旨を伝えました。

この時2ndの日数が足りてませんでしたので別のWWOOFへ行って1週間後には帰国する決意をしました。とぼとぼと2日後にケアンズへ戻り、新たなWWOOFホストの迎えを待っているとまたもやSVから電話が。「働かせてやるから明朝6時にマリーバにいれるか?」との事。

僕はすぐにyesの返事をし電話を切り、急いで迎えに来ているWWOOFホストへ申し訳ないと断りの連絡を入れました。そのホストはぼくの勝手なキャンセルも快く承諾してくれまた来たくなったら連絡しておいでと言ってくれ救われた思いになりました。


もう帰国する決意を固めていた時点で仕事を得られた喜びから、ダンにSVから連絡があった旨の報告をしてみると、彼がもう一度渋るSVに僕を働かせてくれるように働きかけてくれていたようでした。

ぼくはそれを聞いて彼にとてつもない感謝の念を抱きました。
彼は非常に人徳も厚く信頼の持てる人で、僕より年下ではありましたが、日本人以外でこれ程信頼の持てる人間に出会ったのはシドニー時代のシェアメイトのクリス以来彼が初めてでした。

そして念願叶ってマンゴーピッキングをさせてもらえる事に。
週7日で朝6時に家を出て、夜7時前に帰ってくる日々が続き、休みはクリスマスと正月の2日間だけでしたが僕は一日も休まずに約1カ月間働きました。

マンゴーツリーです。
1ヶ月間働きましたが休みがほぼありませんでしたので最後の方は死人のような顔でピッキングしてました。 1日中この木をみてましたのでストレス解消にマンゴーを投げ合ってました。

そして年が明けvisaが切れるのに伴い、日本へ帰国しました。

実働約4ヶ月で1万2500ドルほど稼ぐ事ができました。
僕はそんなにガツガツいく人間ではないですが、約7カ月のラウンド中は不思議とイケイケモードになりシドニーにいる時とは違い攻める姿勢でいる事ができました。

振り返って



帰国前。紹介文とは別の写真
渡豪したての頃は体の不調もあり1年丸々いられる自信は皆無でしたが、
こんな僕でも仕事を得られ、日本人が一人もいないところでもきちんと仕事をする事ができました。
これに関してはかなり自信になりました。

ラウンド中、体が悪かったというのを忘れて自分の現在地を見失ってしまう時もありましたが、今こうして振り返ってみるとオーストラリアへ来たという一歩がとてつもなく大きな一歩でした。

その一歩が踏めるか踏めないのかが僕の大きな分岐点だったと思います。

渡豪前に抱いていた理想とは違う1年間ではありましたが、理想と現実を埋めるには十分な1年でもありました。

以上


補充質問

補充質問1については、本文中に組み入れたので省略。ただ、最後の再応答の部分のみ記します。

>お母様のお嘆きにつき水貝さんが戸惑っても不思議ではなく、むしろ水貝さんのような受け止め方(ある種ドライとも言える)が、世間の公約数に近いと僕は思います。
というよりも、そこまで悲しめるお母様の存在が凄いというか。つまり、それだけ深い愛情で結ばれたカップルだったんだ、すごい珍しい幸福な配偶だったんだと。そして自分はその結晶なのだという、自分の「出自の尊さ」のようなものを感じてくださいな。 それが一番の供養だと思います。最後はお苦しかったと思いますが、お父さんが真剣に人を愛し、愛されたきた人生の実りをちゃんと受け止め、理解するという。僕もそうなったら、悲しいというよりも、「お見事(な生き様)でございました」って思うと思うし(まだ僕の親父は生きてますけど)。

父は人一倍家族に対する憧憬というのか、思いが強かったのかもしれません。
でもそういった事とは関係なく素晴らしい家庭を築いてくれた事に、今はもうひたすら感謝の念しかありません。


(2)第二に、自分のことを「強い」と思いますか。身体もメンタルも「弱い」かのようなトーンで書かれてますが、実は「強い」のではないか。その強さが逆に問題になっているのではないか?という考え方もあるように思ったから聞くのです。
 もし、初期の体調不良がなんらかのメンタル的な原因によるのだとしたら、本来先にメンタルがヘタっても不思議ではない。でも、フィジカルの方が先にヘタったということは、メンタルは我慢出来てしまったことを意味します。つまりメンタルが強いわけですよ。
 別の言い方をしたらメンタルがヤバいことに鈍感だったとも言えます。だから、身体の方が「ええ加減にせえ」と危険信号を発するために体調不良になったという。
そして、体調不良から始まってるから、今度は身体の不安がメンタルを引きずり下げるという変な悪循環になりますよね。そのあたりはどうお感じになりますか?

当時は自分の事をうつ病や今回の自立神経失調症のようなメンタル系の病気とは無縁の人間だと思ってました。
それはつまりメンタルの強さに対して自信がある事の裏返しになるのかもしれませんが。
だからといって僕は小心者ですし、自身メンタルが強いとはあまり思いません。
ただ一つ言えるのは今回の件に関してはメンタルの異常さには鈍感でした。

「体調が大きく崩れたのが8月」と体験談では書いたのですが、実はその前兆のようなものは2カ月程前からありました。食欲がなかったり胃のあたりに重さを感じたりする日がちょくちょく出てきてました。
でも当時は毎日体調が悪いわけではありませんでした。
たまに体調が快晴みたいな日もあり、毎日悪かったわけではありませんでしたので、それが余計に根本原因の発見を遅らせる一因にもなったと思います。
僕は医者に行って薬を処方してもらうだけで済ましてましたから鈍感そのものでしたね。

またそれまでは健康だけが取り柄の健常者でしたので、メンタルに負荷がかかる事で体にどのような影響を及ぼすかというのが全く想像できませんでした。どれだけの負荷がかかるとヤバくなるというリミットも知りませんでしたし、メンタルが強く問題ないと思うからこそ気に留めてなかったのかもしれません。
実際メンタルが原因じゃないかと気付いたのは10月頃です。
医者から体に(器質的に)悪いところはないと言われて初めて気付きました。


> そして、体調不良から始まってるから、今度は身体の不安がメンタルを引きずり
> 下げるという変な悪循環になりますよね。
> そのあたりはどうお感じになりますか?

まさしくその通りです。
体験談でも書きましたが10月に体調が再悪化する前の9月に一度体は持ち直してますし、田村さんにも10月渡豪でその時はお話させて頂きました。
10月に再悪化した時はかなり落ち込みましたし、自分で自分の体をコントロールできない葛藤に苦しみました。
だからもしかしたらずっと体調が上向かないのではないかという不安は相当生まれましたし、それが徐々にメンタルを蝕んでいったのは間違いないです。
まさに悪循環そのものです。

> (3)こんなプライベートなことを聞くのは、皆にとっても大きな参考になるし、これで救われる人も多いかなと思うからです。
> この「仮説」(実はメンタルが強く、強いから鈍感で、鈍感であることが事態をややこしくしている)を裏付けることとして、復調してからは、多くのワーホリが挫折しそうな部分を、比較的「よっこらしょ」って感じでクリアしてますよね?
> 日本人環境のいない世界へ敢えて飛び、苦労してネイティブ環境で仕事をしていくという、攻めの姿勢と、諦めずに手を打つ続ける持続性は、ある意味、日本人離れしています。
> つまり、そういう部分、心の本質の部分は剛性度が高い。それだけに、そこが浸食されて弱くなっていると、それに気づかないで後手後手に回ってしまうということです。
> また、そこが強いと思うからこそ、「このくらい出来なきゃダメだ」というハードル設定が硬直化するという。


メンタルが強いという事になるのかは分かりませんがラウンド中僕は逆境に置かれた時の自分を楽しんでました、というより楽しもうとしてたと言う方がより正確かもしれません。
お金が少なくなりヤバくなる事で必死さも出ましたし、そこからどう自分をマネジメントしていくかというのをある意味楽しんでた部分はありました。
何か人生の縮小版のような形で。

だから僕自身はそれ程ダーウィンで仕事が見つからず、100$切りそうな時でもそれほど辛い気分ではありませんでした。
実際マーガレットにそのまま残っていれば仕事はあったわけですし、それをほっぽリ出してダーウィンへ飛んだ時も差ほど焦燥感はありませんでした。
むしろ知らない土地で新たに物語が始まる高揚感がありましたし、あのままマーガレットに残ってぬるい環境にずっと身を置いてた方がよっぽど心身を蝕んでたような気はします。

(以下は自分の仮説です。田村さんとは少し逆の意見です)
ただこの当時の自分の心境を書いていてふと思ったのですが、実はメンタルが強いふりをして自分をごまかしてたのではないかと思いました。
上記にある通り楽しもうとしてたというのは、裏返せば本心ではできれば避けたい事ではあったが、状況が状況なだけにそうした、いやせざるを得なかったのではないかと。

お金がなくなりつつある状況や仕事が見つからない状況が全く辛くなかったわけではもちろんありませんし、ごまかしごまかしながら楽しもうとpretendしようとしてた自分がいたように思います。
それは虚栄心とかええカッコしーの精神からくるものではなく、本当は弱い自分のメンタルを守る為じゃないかと。

人は誰でも実態の分からない物には畏怖の念を抱くと思いますし僕も然りです。
僕自身メンタルが強いとは思いませんし、できれば辛い事は避けたい時もあります。

ただ、なぜラウンド中に自分を逆境に追い込む事ができたのかというと、それは一重に弱いメンタルを無意識の内に自分で守っていたからではないかと思います。
ただただ自分の弱いメンタルを全面に出してしまうと未熟な自分が出てしまうだけなので、成熟していない、しきれない人は無意識に自分でメンタルが強いように思い込むようにしているような気がします。

要するに本来の自身のメンタルには嘘をつき続けているわけですから、メンタルが徐々に疲弊しているのに気づくのが遅れる危険性は孕んでいると思います。
そして弱い自分のメンタルに気付いた時には手遅れ...といった感じで。
また弱いメンタルに嘘をついてますから強い偽のメンタルに対して、本来の許容範囲とはかけ離れた高いハードル設定を求めてしまう傾向もあるような気がします。
(仮説終了)


ああ、なるほど、おっしゃる意味はわかります。
しかし、そこまでいくと、なにをもって「強い」といい、何を「弱い」というか、言葉の問題、概念定義の問題になっていきますよね。
かなり他人よりも「強い」状態にあったとしても、さらに強い状態を思いついてしまったら、それよりは「弱い」ってことになりますし。
強さといい、弱さといい、つまるところは相対的な概念です。絶対的にここまでいったら強度80とか無いわけですからね。それにいくら100強度でも、110の負担がきたら折れるわけだし。

「強いふりをして誤魔化す」といえば弱さにつながるような気がしますが、でも、「おし、いけるぞ!」とビビリそうな自分を鼓舞することは普通にありますよね。試合前のボクサーなんかガタガタ震えるそうだし、自分の弱さを克服するために自分でビンタして気合いれたり、吠えたりするらしいですし。いわゆる「武者震 い」だって、本当はそうだと思います。

だとしたら、問題は、それを強いと思うか、弱いとするかという「評価」の問題ではなく、おっしゃるように「自分に嘘をついている」かどうかってことかもしれません。メンタルの状態をちゃんとモニターできているかどうか。心というのは、ちょっと目を離すとすぐに自分に嘘をついたりするので(^^)、そのあたりですよね。

> 結局、そのあたりの自分のメンタルや心身の「取り扱いマニュアル」みたいなものをゲット、ないしはヴァージョンアップ出来たというのが、今回のワーホリの最大の収穫だと思いますが。

それが一番の収穫ですね。

自分では何とも思っていなくてもやはりストレスが溜まっていたんだなと思う例がありました。

ラウンド当初は日本人がいないところを探し求めていました。ダーウィンでは一人も日本人に会いませんでしたし求めてもいませんでした。キャラバンパークで働いた時もハウスキーパーをやった時も日本人はいませんでした(日本語を少し話す台湾人は一人いました)が、僕はそれでも日本語を話したいとは思ってませんでした。

ただやはり同胞の存在というのはとてつもなく大きいです(特にAplac出身の人)。
同期のA君やAplac出身の日本人の友達と電話でお互いの近況報告をすると、凄く気持ちが楽になりましたし、「あぁずっと気を張ってたんだな」と緊張の糸がほぐれた感覚がありました。

なまじ日本人ゼロ環境というのはこの時が初めてだったので、意識的にそういう事(電話)をしていたわけではありませんが、感覚的にそろそろ溜まっていたストレスを解消したがってたのかもしれません。
きっとこういう場合はもうストレスを解消した方がいい、というのを自分の体の中にあるCPUが指示していたのかもしれません。

そういう意味では身体が自然に事前に防衛反応を示している事になるので、体を壊して得た果実は大きいなと思います。



水貝 拓真



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