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2016年12月


奥村謙一さんのワーホリ体験記




1.はじめに

 わざわざオーストラリアに行こうと思ったのか、なぜ日本から離れようと思ったのか。
 ここは、人それぞれの動機があるかと思うんですが、僕の場合はこんな感じでした。

 日本のニュースをみていて芸能界のスキャンダルばかりの報道が嫌でした。なぜなら、みんなが何か嫌なことから目をそむけているように感じていたからです。

 僕自身は、直面している問題をないがしろにすることが嫌いな性格でしたし、なんでも決めたら後先考えずやってしまうタイプです。日本では看護師をしていたのですが、そこでは常にリアルタイムに決断を求められ、新しい方法を模索していく場所でした。その判断が結果的に効果的でないこともあり、反省することもありましたし、時には状況が辛く、ストレスフルに感じられることもありました。それでもアドレナリンを全開で、必要なことをどんどん実行できる自由な職場は好きでした。

 職場はそれなりに満足していたのですが、ただ、地図をどんどん広げていくように、現職場から社会全般、さらには自分の人生全体へ視野を拡げていった場合、日本も自分も先行きの不安を感じざるを得ませんでした。しかし、皆が不安に思っているにも関わらず、そういう不安を口に出せない、なかなか行動に移せないで雰囲気があり、そんな世情がだんだんと嫌になっていったわけです。

 日本も、なんとかもがきながら変わっていこうとするならば、僕も別に海外に行こうと思わなかったでしょう。ただ、このままずっと住んでいても何も変わらないだろうなという諦めを含んだ悲壮感は、もっと子供の頃から感じてました。

 そういえば、小中高の社会の時間などで、写真が多く載っているような資料集や文字ばかりの用語集などがありますが、僕は教科書よりそっちに興味がありすぎて授業中にそればかり読んでいました。海外の風景や国ごとの産業などにも自然と親しみを覚えて、学生時代の得意科目は地理でした。もっとも試験で教科書からモロに出題されたりすると、結果は壊滅的でしたが(笑)

 また、(看護師になる前から)アメリカドラマの”ER”という医療ドラマや”アリー・マイ・ラブ”という弁護士の話が好きでした。このドラマでは、毎日、忙しすぎて潰れるような日々を過ごしつつも、チームで訴訟案件をクリアしたり悩んだり、また患者を助けたりしています。真剣な内容でありながらも、登場する人間模様はカジュアルな感じで、仕事やチーム・恋愛に悩んだりもします。人生そのものが映し出されていたり、あらゆるギャップに惹かれていました。

 こういう理由から将来は海外で働いてみたいな〜と思っていました。朝と夕方の通学時から感じる日本の社会は、「不況」という言葉を背負っているような人しかいなくて楽しくなさそうだったからです。おそらく今のオフ会のようなものをもっと早く知っていたならば、ここまで悲壮に感じなくてもよかったのかもしれません。

2.きっかけ

 看護師として働いていると、海外帰りの医療職の方と働く機会もでてきました。そしてワーキングホリデーという制度を知り、海外への情熱が再燃してきました。

 ネットサーフィンをしていて偶然にもAplacのサイトにたどり着きました。検索ワードは【オーストラリア 服装 気温】だったはず。。

 オーストラリアの写真も掲載されており日本のように皆が同じような服装でなく、小学生のように真冬でも半袖・ハーフパンツの人もいる状況に、かなり衝撃を受けました。

 ただの服装なんですけど、僕には「ここには日本より自由があるに違いない!!周りの目を気にせずに自分がしたいことをできる国なんだ」と強く感じられました。自己責任と引き換えに、周囲を気にすることなく自分らしく生きていく開放感がそのページにありました。

 折しもHPの告知で数年ぶりに日本の夏、田村さんが日本を訪れるとの情報がありました。もちろん情熱が冷めない内に勢いあるまま田村さんへコンタクトをとり、真夏の京都は二条周辺で初めてお会いしました。

 第一印象は、Theオーストラリアアン的な感じでした。カジュアルなTシャツ姿にデニムで登場し、いい意味で元弁護士という固い印象はなく、気軽に話掛けしやすい雰囲気がありました。内面的な攻撃性や商業的な雰囲気もなかったですし、先程述べたようなアメリカドラマのような人間味溢れる感じでした。

記録によると2013年8月13日でしたね。以前お世話した桐原さんご夫妻(体験談116ページ以降)の再会の機会にご一緒しました。京都の四条鴨川にて。

 今までにも日本に法人があるエージェントでも、オーストラリアについて話を伺っていたのですがなぜかメリットしか云わないのと選択肢が少ないことに不安がありました。世界一周をごく僅かな資金と溢れんばかりのパッションとバックパック一つでまわっている人がいるにもかかわらず、オーストラリアだけで別に大学になどに進学するわけでない自分が、こんなに多額の資金が必要なのかという疑問もありました。

 ところが、準備資金があればもちろん渡航に問題なく、しかし資金が不足しているならばそれなりの自己努力で渡豪できるという主旨が書かれていたAplac。こんなワクワクさせてくるような謳い文句があるようなHPはみたことがありませんでした。事前に田村さんとも直接お会いすることができたので不安な部分はなく、ここですべての人生をかけてトライしてみようと思いました。

 この感覚は言葉で表現しにくいのですが、コマーシャルな部分がなくて野生の匂いがありました。もともと僕は田んぼのど真ん中を歩くような子ども時代を過ごし、さらに就職先もER(救命救急センター)育ちという、キレイ過ぎる上品な世界が好きではないという性格もあったのかもしれません(Aplacを貶しているような表現だと感じられたら申し訳ありません。)オーストラリアも普通の国なんでしょうが、なにかアドベンチャーなワクワクな感じがあるんだろうなという雰囲気がこのHPにはありました。それに比べると、申し訳ないのですが、僕が知る他のエージェントはJTBなどの観光ツアーにしかみえませんでした。パック旅行が良ければ、仕事を辞めてまで行く必要性は全く無いと思いました。

3.オーストラリアへ〜シドニー時代

 そこからは、看護師をやめることと資金を貯めることを目標に逆算しながら生活を日本で行い、きっぱり日本を辞めた後にシドニーへ渡りました。

 初めて田村さんとお会いした頃と前後して知人の結婚式でシドニーを訪れていたこともあり、今回の渡航は自力で田村さん宅へ向かうことにしました。空港からマイマルチチケットを買って(ここで間違って二枚購入したのもいい思い出です 笑)ノースショア方面へ向かいました。タウンホールについたときに初めて別世界に来たんだと改めて感じました。最終的に日本でなかなか見かけないような心臓破りな坂道を登り、その脇にあるAplacから偶然出てこられた田村さんと京都以来の再会をさせていただきました。ここでやっと僕の人生「第二章」の始まりだなと思いました。

【一括パック】


 一括パックでは同期の2人と和気藹々しながら楽しむことができました。

来たばかりのピカピカな頃

 家探しでは結局のところ、人生初めて電話を通してでありますが英語で会話をしたフラットにしました。
 一応比較していくためにも10件以上はフラットやハウスをまわってみたのですが、この決めた物件=marrickville (マリックビル)のjordan(ヨルダン人)があまりにも印象的でした。

 日本での僕の勝手な印象で、中東の方々への偏見がありました。「目的」という単語が云いたくても”purpose”しか知らないような日本人なので、なかなか自分の発音だけでは相手に通じません。bagもbackと聞き取られるし、なかなか痛烈な印象でした。けれど、めっちゃ話を聞いてくれる彼はともて優しかったです。思いやりというか、ホスピタリティに溢れていました。後に知ったのですが、もともとヨルダンで教師をしていたそうです。

シェア移動の日

シェアの自室で

 住んでみるとまさに期待を裏切ることなく、とっても楽しかったです。
 七人くらいフラットメイトがいましたが、別にバスルームの争奪戦もなかったです。
 時々歯磨きをしていると、バスルームの隣りにあるスペアのトイレから裸のフラットメイトが出てきて、「少しだけ目をつむってて」と云いながらバスルームに行く姿に出会ったり。なぜか隣の家の住人はいつも裸であったりするので、部屋の電気を消してひっそりと鑑賞会(罪もない覗きのようなもの)をみんなでやったりとか、少年時代のイタズラをやってるような中々楽しいひとときでした。

 一方、in the case ofと in case ofの違いやsupposeの意味などもキッチンで延々にジェスチャー交えても教えてもらうなど、英語も教えて貰いました。ジャパレスで働き出してからも、機会があれば彼らの部屋で話し込んだり、映画をみたり時間を忘れるような日々をすごしました。隙間だらけの家だったので少し寒かったけど、いろんな毛布のようなものやブランケットを貸してくれましたし、眠ることに関しては問題もなかったです。

 なんというか、トラブルがトラブルと感じられなくなるような、不便や不都合がエキサイティングなイベントになってしまう環境がとても良かったです。

ヨルダン料理

マリックビルにて学校の友達も参加してパーティー

【語学学校と生活】


 語学学校に行って、まず感じたのは、自分自身の耳を疑うくらいに単語が聴こえてこなかった点です。他方、学校入学とほぼ同時期に始めたジャパレスですが、日本語を話すことが多い環境でした。

 なので自分の心なかで、「これは、耳が英語に慣れるまで相当な時間がかかる状態にいるのではないかな」と思い始めていました。

 とはいうものの、日本語環境のジャパレスを辞めることもなく二ヶ月ほど続けていました。金欠ではないけれど働けば生活費と少しの貯蓄ができるので、なかなかやめられなかったです。

 このジャパレスは忙しいときはめっちゃ忙しくなることろで、iPadのメニューからバンバンとオーダーがやってきます。しかもオーダーの規則性はなく、厨房のオーダー画面にオーダー伝票が単にズラズラと並んでいくだけです。僕達スタッフが作り易い順に並べ直してくれるわけではありません。たとえば餃子一つでも、ディスプレイをみながらいくつ同時に調理できるのか考えたり、improvisation(即興)という近いくらい大変ではあるのですが、日本の救急病棟で働いていた感覚と同じで、臨機応変に計画などを組み立て直することに燃えたりもしました。

 現場の英語に対する戸惑いと葛藤を抱きつつも、ジャパレスのメンバーと旅行に行ったり、学校メンバーとケアンズにいったりそれなにり楽しい一時を過ごしていました。今から思えば、この時点では、まだまだオーストラリアに来て抱いていた自分の目標と目の前の現実が異なっているようで、結局は慣れしたんだ日本の生活延長線上のような感覚で過ごしていたのかもしれません。

 シェア探しであまり電話をしていなかったので、ケアンズの空港でバッパー送迎のバスに電話をした経験はとても良かったです。もちろん話の半分以上は聞き取れんくて、理解したのは「到着時間」と「待ってて」という言葉だけ。最低限の部分だけ聞き取れるまで対応できたのはよかったなという感じでした。

 学校に行っても会話の時間に先生や生徒(話し相手)が何を言っているのか聞き取れないし、さらに他のアジア系の生徒が話す英語は、彼らの現地なまりのリズムで癖の強い感じで、さらに何を言っているのか理解できませんでした。そんなこんなで次第に意欲の減退が始まりました。

 ここは一旦気持ちの切り替えが必要と感じ、1−2週間くらいの期間でホリデー・ブレイクを取りました。その間は、1人でシドニー周辺を探索したりと、初めはワクワクする気持ちが優先していました。けれど次第に落ち着き始めると、悪循環のようにせっせとバイトに勤しむようになりました。

 そして、自分の胴体くらいの大きさの寸胴、そこに入ったスープを入れかえる作業を毎日頻繁にしていると、ついにやってしまいました、「手根管症候群」。これは、寸胴を手首でこねくりすぎることで、手首の筋肉に負担がかかり、竹輪のような筋肉が炎症を起し、内側の血管と神経を圧迫するものです。毎朝、親指のしびれが強くなり中々治らなかったので、初めてのオーストラリアでPT(理学療法・フィジオセラピー)治療を受けました。

 電気振動で神経と筋肉への刺激し回復を促すという治療を受けました。夜は手首を曲げたりしないようにプロクテクターをつけました。最悪治らなければ手術ということでしたが、意外と電気治療の効果が出てきて、手術をしなくても症状が寛解していきました。その治療期間中も 医療英語を生で聞く感じで、PTさんと英語で少し話している自分自身に感動していました。この怪我は微妙に後に残って、ファームのピッキング作業など手首に負担をかけると「しびれ」が発生することがありました。

 まあ元々、日本の頃から筋肉を鍛えるということを怠っていたことで、筋力不足から腕や上半身の筋肉でなく手首を主体に回そうと無意識下で起こった代償行動が原因なので、今後は少しずつ身体を鍛えていかんとあかんなと思いました。オーストラリアにくると身体を鍛えることが当たり前のような文化があり、ブラジル人からもなぜ筋トレをしないのかよく訊かれました。韓国人は兵役があるので、やってくる若い世代は上半身関係なく下腿まで全身筋肉隆々です。やはり、人間は健康が一番なので、身体を鍛える・整えることは大事だとつくづく感じました。この点はデスクワーク中心で、かつオーバーワークでプライベートタイムが中々作れないような日本の方にアドバイスしたいです。ランニングやスクワットと腕立て伏せなど運動をしていると、こっちで役立つことがあると思います。オーストラリアは、Vast open fieldsな場所が多く、運動ができる場所が多いです。日本で運動する習慣があると現地でより一層動機づけが強くなって運動がしたくなると思います。

 そんなシドニー生活では自分の不注意からくるトラブルにもよく出逢いました。ベトナム系レストランで「Pho・ホー」を食べる機会があり、置いてあった浄水器の水が、たまたま薄い麦茶のような黄色い水になっていて、それを何も考えずに飲んでしまいました。午後の授業で食あたり症状が出始め、嘔気と腹痛でソファーにダウンしました。あまりにも動けない自分に対して話かける先生たち、この時初めてヘッドティーチャーが言っている英語を理解できた気がします。早めに病院にったほうがいいGPにみてもらったほうがいいとのことでしたので、なんとかクラスメイトの協力の下、受診できました。この時もらった薬は、英語表記なだけで日本とほぼ同じ名前だったのですぐ理解でき、自分の看護師経験に少し感動しました。みなさんは、黄色い水がでてきてもお茶だと思わず一旦、スタッフの方に訊いてみましょう。笑

攻めあぐねのループ

 学校生活でそんなこともありながら、ボンダイビーチに憧れてマリファナを愛するオーガニック好きなユダヤ人とシェアをしてみたりしました。僕の英語は全く伸びないけれども、sydneyでの土地勘も出てきているので、バスや電車を駆使してシェア探しを順調にすすめられるようになっていました。シェアの移動後も学校生活に変化をとれなくなり、ずるずると流されていくのが嫌で、藻掻きたいという気持ちの行動として学校ホリデーを改めて何度か取得していました。

 学校のホリデー中に現地のテレビを見る機会も増えるのですが、またテレビの言っていることが聞き取れない。予想できない話題になると全くお手上げという状態でした。友達もどんどん増えていくのですが、どうしても付き合いやすい日韓人がメインになり、国籍の広がりが頭打ちになってきて、これでいいのか?と疑問も感じはじめました。

 要するに攻めあぐねていたのです。学校にいっても会話が分からず腐ったりして、自分で自由でやろうとするのだけど、そこでも英語で壁にぶつかり、自分の出来そうなことをやろうとしていると、結局は日本の延長線のような感じになってしまうという。今から思えば、一方では地道に基礎力を付け、他方では思い切って自分の世界を広げることを同時並行でやればよかったのですが、そうはならずにぐるぐるループしていたような感じです。全ては自分の行動力不足の結果なのですが、その現状になんともいえない不甲斐なさを感じ始めました。

 そんなときに一度、改めてaplacの田村さんのところを訪れ、相談し、結果的に学校を長期休学しラウンドすることにしました。長期休学ができるのはワーホリビザの特典だなとつくづく思います。
 ここでもらった田村さんの言葉が、自分の心中まで火に油を注ぐ感じで、未開の地へ旅立てる自分の気持ちを改めて持つことができました!あまり具体的に一言一句を覚えていません。ただ僕自身は、英語に対する不安よりも現状の生活に対する漠然とした不安を抱いているようでしたので、一旦シドニーを離れてぱっと広がるような世界を見てきたらどうかということでした。最初の一括パックのときのような未知なるものに触れるときの興奮、そもそも何のためにオーストラリアに来たの?という原点でもありますが、その原始的な感情を呼び醒ますべきではないかということでした。その際にWA州のエスペランスにある想像を超えるようなビーチとコーヒーの一杯の素晴らしさを聴いて、いかねばなと感じました!!

焼きそばイベント

 旅立前に、たまたま年に一度のアジア系を中心にヌードル(麺)に関するイベント【ヌードルフェスティバル】があるとのことでした。同じaplac出身の紹介もあり、資金稼ぎをするためにハイドパークで催されている 日本の焼きそば屋に採用されました。この焼きそば屋もゴールドコーストなどで経営しているので、いろいろなノウハウをもってシドニーにやって来て焼いていました。毎日昼から夜まで2週間ほど続くので、中々休み無しのハードワークでしたが楽しかったです。ヌードルフェスティバルであるにも関わらず、中国料理や焼き鳥だけ販売の店舗があったりで、こんなところでもこの社会の自由な雰囲気を感じました。

 ひたすら焼き場の仕事が回ってくる程の行列ができるイベントで、15ドル位の焼きそばだけで1日4−5万ドルを稼いでいました。なんか今までのバイトでは考えられない金銭が飛ぶ世界でした。
バイト中も土地勘があるので、お遣いにいったりしてお釣りをお駄賃にもらったり、残りの焼きそばを朝・昼・晩の賄いとして食べたりして細かな部分で節約もでき、10日ほどの期間で、がっつり稼いだ1500ドル程の軍資金でラウンドへ行くことになりました!!

ヌードルフェスティバル


【ラウンド編】

パース

 自分のパターンを変えるためには、まずは環境から、ということで、思いっきり遠い場所、Perthへ行きました。

 まずは、以前に観光ガイドブックで偶然みかけたQuokka(クォッカ)を触りたいという思いもあったので、最寄りの港町であるFremantle(フリーマントル)に向かいました。Backpacker Hosetl(バッパー)で滞在しながらフェリーでついにRottnest island(ロットネスト島)へ行き、念願のクォッカに遭遇できました。こういうモフモフしたものが好きなので、幸せな一時でした。
 綺麗な海と意外と狭い島のおかげで、レンタル自転車は有意義でした。後ろのブレーキは、シフトしてから反応が1秒以上かかりとても遅く、前のブレーキはシフトすると前方方向へサスペンションが揺れながら沈むという素晴らしい自転車でした。島を一周する頃には操作もなれて安全に走ることができました。

 フリーマントルで仕事を見つければと思っていまいしたが、ファーム仕事もなく、あったとしても2年目のビザ対象外の地域でありました。ローカル仕事は、近くに港や工事現場があるので、カフェや工事系の仕事など色々ありそうでした。ここでは1週間契約でバッパーの部屋を借りていたので、昼間から何かないかウロウロしていました。ときにアイルランドの男性に呼び止められ、昼間からパブでビール(もちろんギネスビール)を奢ってもらうこともありました。彼はいろいろな人々に声をかけているようで、僕以外にもアメリカ系とオージーの女性が同席していました。彼の言葉は、本当に聞き取れなくてケアンズやダーウィンのビーチにいる「クロコダイル」の話になっても、ジェスチャーで教えてもらうまでサメの一種を話しているのかなと思うほどでした。英語ネイティブスピーカーの彼女らですら聞き取れないと言っていたので、中々の訛りだったんだと思います。

 ともあれ当初の目的(クオッカ)が達成できたこともあり、パースより北へ3000kmくらいにあるBroom(ブルーム)へ向かうことにしました。

クオッカ

ブルーム

 Bloomは、aplacの体験談で以前に拝見したことがある養殖真珠の仕事をしてみたかったからです。
 ブルームの空港は今までの降りた中でダントツに小さく、visitor centre(観光案内所)や郵便局のような感じでした。まずは何も泊まる場所を決めていなかったので、空港から外に出て、早速みかけたYHAに決めました。ここはプールも有り冷房もルームメイトの誰かが$2払えば電源を入れもてもいいという感じの南国系YHAでした。

 昼間は、陰でうだっていても水分を体中からもっていかれるような土地柄でしたが、夜はプールやシャワーを浴びれば耐え切れる暑さでした。ゆっくり通信速度でありながら無料でwi-fiが使えるのもよかったです。早速、翌日から仕事探しの旅を始めたのですが、養殖真珠のピークは過ぎていました。そんなこともあり、かなり真珠漁をあてにしていた僕にとって仕事探しがいきなり難航しはじめました。YHAのレンタル自転車(ポテンシャルは、ロットネスト島のモノとあまり変わらない)でBroomの街がある半島を走り回って仕事がないか聴きまわってみました。

 そんなことをしていると、僕の拙さ過ぎる英語でも対応をしてくれる人にも多く出会え、さらに予想外にもウォーターサーバーの水を給水させてもらえたり不動産屋の人からジュースをもらったり人の優しさを知ることができました。30件ほどまわるだけまわった就職活動で得た情報の一つは20km先にファームがあるという点でしたが、とてもそこまで進む気力もなく断念しました。この1日の行動だけで体重が減ったなと感じるほど身体はからからになりました。水しか摂取していなくて塩分なども不足していたに違いないと思います。

カナーボン移動と初WWOOF体験

 仕事のみならず、何か経験をしたいという思いもあったので、メールを駆使してWWOOFができる場所を探し、アポイントをとりはじめていました。

 YHAに滞在されていた日本人の女性の方に出逢い、彼女からリゾートホテルのハウスキーピングの仕事の話を聞きました。彼女自身は、ブルームがオフシーズン(雨季)に近づいていくので、何人かのルームメイトと共に南下する予定であり、ついては現在のハウスキーピングの仕事の後釜をやる気はないか?ということでした。願ってもない話でしたので、彼女に仲介していただき、ハウスキーピングの統括マネージャーにお会いしてレジュメを渡しました。しかし、3日経てどもなんの音沙汰もありませんでした。他方、同時進行で探していたWWOOFの方が先が決まり、ハウスキーピングは諦めてWWOOF先であるCarnarvon(カナーボン)へ移動することにしました。

 ブルームからカナーボンまでは、おおよそ1100キロくらいの移動ですが、長距離バスで1日もかからず到着しました。その移動中に、くだんのハウスキーピングのマネージャーから採用の連絡が来たのですが、時は既に遅し!でした。逃した魚は大きいといいますか、時給$28〜32のは少しばかり未練が残りました(笑)。

 さて、carnaravonの長距離バス乗り場に到着し、早速WWOOF先の連絡先へ電話してみたところ、なにやらWWOOF先は取り込み中のようで、半端ない速度で訛りのある英語をまくしたてられて全然わかりませんでした。が、最後に「その場で立って待っといて」という言葉だけは聞き取れました。すでに、辺りは夕方から日没を迎えて不安を湧き上がっていたのですが、電話が繋がって半分安心し、数分後、ビールとジンの缶を呑みながらラウンドクルーザで迎えにやってきたJackaroo(カウボーイのようにオーストラリアの牧場の男性従業員)に会ったときは救われたような気分になりました。

 彼はとてもお人好しでもあり、冗談で日本人の僕のことをニックネームとして「フクシマ」といってくるようなブラックジョークも云える、明るいムードメーカーのような奴でした。僕はここで2週間ほどお世話になりました。

WWOOF
WWOOF

 牧場には、牧場主の家族の世話係として、偶然同じsydneyからキャンピングカーでやってきた老夫婦がいました。彼らは、別に牧場主と血縁関係があるのではなく、彼らの休暇を楽しむ一貫でWWOOFのように寝床と食事を交換にホストの家事を手伝うという旅をしていたのです。僕はこの老夫婦からも日常生活での英語や文化や牧場の仕事など田舎のネイティブな生活を学びました。時にはいっしょに柵の中のヤギを誘導するために追いかけたり、広大な牧場の大地の中にあるゴミ穴と呼ばれる場所までトラックでゴミを捨てにったり、弱った牧場の牛にミルクをあげる仕事をしたり楽みました。

 僕のWWOOFでの仕事は、英語力が大したことがないのでもっぱら庭草いじりなどが多かったです。庭といってもフットサルやテニスを二面以上はとれるテラスのような庭と、さらに庭園があるので、結構広い。僕は、ここでのんびり仕事ができたので、手首の炎症が再発することなく過ごすことができました。大量のゴキブリがベランダと呼ばれる母屋の渡り廊下を這っているのも慣れました。ゴキブリも虫であり夜行性らしい・・


タスマニア

 WWOOFを終えた2週間後、再びパースにもどりaplacのメンバーと再会。次はチェリーで有名なタスマニアへ向かうことにしました。僕が訪れた頃は、タスマニアは思った以上に寒く、いつも曇りでした。ただ野菜や果物はとても美味しくてメルボルンシドニーとの違いを感じるほどでした。レタスなどいつもソースやドレッシングを添えずにバリバリと食べてました。

 ペンギンがビーチ付近で歩いているのを観れるという場所を知り、向かうことにしました。しかし自家用車などなかったし、朝から15km程だったので歩いていこうと思いました。清々しい早朝から出発し10kmほどハイウェイの沿道を歩きながら向かっていると、地元の方が目的地まで車に乗せてくれました。ただ、車の中でペンギンの話をしていると、残念なことに昼間はペンギンが沖で魚を取っているとのことで、現地についてもやはり彼らに会えませんでした。帰りはもちろん徒歩なので、寄り道をしながらのんびりと過ごしました。途中で医療用ポピー畑を覗いたり、北海道にいるような広大な畑を横断したりとそれなり満足できました。

 資金が$400を切り始めた頃、タスマニアでの仕事もなかなか思った結果を得られず、さらに自分自身の行動力の低下ががみられ始めました。そんなときにaplac卒業生の渡辺くんから連絡をもらい、ともにケアンズへ向かうことになりました。今思えば、タスマニアでの圧倒的な勝利も得なかったが負けてもいないような、微妙な戦果で旅立ったわけです。

マリーバ(QLD)

 ケアンズの郊外60kmくらいのところにあるマリーバという町へ、マンゴーファームの仕事求めて出かけたが、結局のところライムファームで働くことになった。ここで、渡辺くんの間近にいて、貴重な仕事探しのノウハウを学ぶことができました。英語ができないなりの社会へ突き進んでいく方法。できないから憂いても何も変わらない。英語を含め人間として成長するまでの期間も活きなければならない。これは僕にとって大きな変革でした。ヨーロピアンと話すという恐怖から開放されたし、改めて彼らと楽しく過ごすコミュニケーション方法を学ぶことができました。これはシドニーに再び戻った後の自分の生活に活かすことがでできました。


【2回目のシドニー生活】


 ラウンドからシドニーに戻った後は、学校の休学分を再開しました。

 昼間のコースを辞めてイブニングコースに変更しました。なぜなら昼間は相対的にアジア系が多かったり、さらに会話の内容もやはり10代の学生向けの感じがあり、かねがね噂では聞いていた大人な雰囲気を持つ学生やヨーロピアンや南米の労働者が多いという、学生でも少し異なる感じに惹かれました。

 実際、昼間はどこかで働いている生徒が多く、国籍的にもヨーロピアンや南米系ばかりで、アジア系は僕だけでした。しかし、その時点では、なぜかそのような状況でも居心地がよくなってました。シドニーへ来た頃は、話すのも苦痛だった彼らと仲良くなれました。未だに永住することになったイタリア人のジアンニとは連絡を取り合う仲です。今後シドニーを訪れるならば、あんなにもお世話になっている田村さんより先に彼のもとへ会いに行こうと思うくらいでした。彼と数人の仲間で、毎日イブニングコースの休み時間に珈琲ショップへ通ったり週末はサーフィンの大会を観に行ったりしました。

後半の語学学校イブニング

卒業の日


帰国後とオフ

 結局、イブニングコースの卒業と共に帰国することになりました。
 ラウンド中に大学時代の恩師から連絡を受けたからです。大学で教員の仕事をしないか?というお誘いでした。今まで、スーツなど着るような月曜から金曜日まで働くサラリーマンを体験してこなかったですし、臨床でも好きであった教える・学ぶという教育分野なので面白いかなと思い、ビザの期間はまだ残っていましたが帰国を決断しました。

 日本への帰国前後、APLACの卒業生掲示板では吉田さん発案でフリースクールについて盛り上がってました。帰国後、今まで学んできた気持ちや経験を忘れたくなくて、掲示板内で参加表明しました。ちょうど田村さんのもとへ連絡を取ったときのようなワクワクな気持ちのままで。。。

 伊勢で初のオフ会が行われ初めて会う方ばかりだったが、aplac繋がりだったこともあり何も違和感なく自由に過ごすことができた。ここが凄いところであるなと感じました。各々のメンバーの体験談は読んでいたので、ある意味一方的な顔見知りであるけれども、ここまで話ができるもんなのかなと思いました。数年間一緒にいても仲良くなったり、過ごしやすい関係になることは日本にいれば難しいのに。

 この体験をきっかけにして、自らホームページを作成し、関西を中心に翼さんを交えてオフ会を始めました。初のオフ会(伊勢サミット)から一年が経った頃には全国オフ会を参加いただけた方々の協力のもとで京都で開催できました。この間に出会った方々が僕にとってのかけがえのない”Close Friends”だと思います。友達は人生の中でいっぱい作れますが、同じような考えや方向を向いた方、職種や経歴、もちろん世代が異なるような方々と出会う機会は早々ないと思います。

 オフ会や現地でここまで本音で話しても苦痛とならない。むしろ前向きで生産的な関係を築いていけるような友人は、お金やその他の対価で得られないと思います。それが今回のワーホリだったのかもしれません。

伊勢での初オフ
関西オフ会

補充質問〜というか助け舟(^^)

なかなかまとめ方が難しい内容で、暗礁に乗り上げてる感もなきしもあらず(笑)。助け舟かたがた僕の方で整理して補充質問という形でお聞きしますね。

ざっと読んだ印象では、
(1)冒頭の部分と締めとがつながっていない〜なんか本音を言おうとしない人間関係がやだなーという気分がありますしたよね。皆がリアルに、本音で生きているって気がしない部分です。それがモチベーションになってオーストラリアに来たわけですけど、結局その思いはどうなったのか?という点です。そこがテーマなのではないか?
(2)関連するのですが、僕が最後の方に直接口頭で指摘した点を覚えてますか?奥村くんは、誰かと一緒にやるときはいいんだけど、一人で切り開く力が弱く、依存的な部分が尚もあるのではないかと。ブルームでも、パースでも、タスマニアでも一人でいるときは、さっさと店じまいしてして誰かと合流するような感じでしょ。普通皆さんもうちょっと粘るし、タスマニアも、渡辺氏の誘いがあったらあっという間に移動している。

 この関係はなんなんだ?ですが、統合的に理解しようと思うと、
 (A)一人で黙々と粘り強く戦線を維持するという点は確かに弱い。他者への依存という部分はある。その裏返しとして、たやすく周囲に影響されがち。だから日本環境で周囲が違う感じで進んでいるとイライラするし、ヨルダン人のシェアや焼きそば、マリーバ、そしてオフなど周囲の人間関係が生産的なときはハッピーに感じる。
 (B)しかし、単に依存性とか自立戦闘能力の不足というだけではなく、そもそも他者と生産的な人間関係を築いていくことが生きていく上で大きな部分を占めているのではないか。一人でおっても手持ち無沙汰というか、そんなに面白く感じないのではないでしょうか?我が道を一人で自由にって一匹狼志向ではなく、チーム医療のように皆と良好な化学反応を生じさせるのが好きなのではないかと。

 つまり半分半分なんだと思います。(A)の克服課題もあるのだけど、それは同時に(B)の本来の目的でもある。

 で、それが端的に出てきたのが帰国後です。2つの柱があって、一つは就職先である大学内のあれこれ(全然書かれてないのですが、直に話をきく限りは非生産的な人間関係であったと)、二つ目はAPLACのオフなどの生産的で楽しい方向。

 このように、行く前になんとなく感じていたことが、帰国後にはこれ以上ない形で明瞭に二極分化したと思うのですよ。てかオフ世界という選択肢がまるまる増えた。これまでと対置する価値世界が出現したわけですな。
 そして、オフにしても誰かの提唱に尻馬に乗るのではなく、自分から積極的に動く、動くってやろうとしてて、これは(A)の克服課題でもあるわけで、それを律儀にやって、現在に至ると。

 以上の点、読んだ上での勝手な印象なんですけど、そのあたりどうでしょうか?


奥村氏の回答

 今回の体験談を通して改めて自分の“今”を振り返ることができました!
 ご指摘のように、僕には依存してしまう部分が多くあり、それをなんとかしたい思いながら帰国後の一年と半年を過ごしていような気がします。

 オーストラリアで学んだ「やっていれば、なんとかなる!」という感覚を忘れたくなかったこともありましたが、オフ会自体も楽しくて苦労することなく開催できていました。本当にオーストラリアでは、移り変わりが激しくてトルコアイスのような粘りが不足していて、僕の本質は、粘りの弱さなのかもしれません。人間関係も趣味も学問も良好な化学反応が起こっているときは、時間を忘れ、疲れ知らずのまま物事をすすめることがきるようです。このようなクレイジー状態を快感にしている部分が自分にあります。だから、どんなに忙しくてストレスフルな環境下でもERを辞めなかったんでしょうし、HPやオフ会を三日坊主することもなかったんだと思います。海外の医療チームに目を向けたのもそういった生産的なチームにあこがれているんだと思います。自分にとっては、どんな劣悪な生活環境でもハーレムやオアシスのように活き活きと感じられる環境であるはずなので。。。

 大学の教員をしていると、やはりと長期で閉鎖的な環境にいるせいか、臨床以上に動きが悪く、先を見越せない人々を多く見かけました。下っ端が言うことなので、“何もわかってない”と上司から云われることもありますが、学生や周囲の環境からも異常と云われるような状態にしているので、彼等の方も相当煮詰まっていると思います。なので自分が、全くめげる理由がありませんでした。日本の看護を動かすような学会を運営する側の人間(上司)に対する、尊敬の念はその時点で失くなっていました。今まで経歴でみて判断してしまっていた部分に対して、オーストラリアでの体験を通してクリアで公平な位置からみることができるようになったので良かったと思います。“解雇されるならしてみろ”という気持ちで、立ち向かいながら大学の不祥事と全面戦争していました。

 未だに公には、この不祥事に関して漏出していません(ジワジワ情報は漏れていると思いますが・・)。なにごともなかったかのように対策を練ることもなく、誰かが先導をきって方法論を考えることもなく、学校運営もされています。おかげさまで醜い部分をみたことで、興ざめすることもできました。僕の学んだ医療は、過程も大事ですが、患者・家族が求める結果も全てであり、そこを如何に叶えられるようにしてくのかが看護だと考えています。

 しかし、大学は臨床のようなエネルギッシュな部分がなく、ただ高齢化するだけの死ぬまで働けたらいいなと考えるような教育者や経営者もおり非生産的な閉塞感に満ち溢れていました。看護を学ぶことは、今後の生活において必要なことの1つだと思いますし、もしこれを読んだみなさんが看護の道を進まれるのであれば、単純に悲観的になる必要はありません。ただ純粋な気持ちを踏みにじるような教育者もいることを忘れることなく、閉塞感の塊の被害者にだけなってほしくないなと感じています。もし僕が改めて働くならば臨床のチームや海外の教育機関や大学だなと思うことができましたので、大学教員生活も良い学びでした。なんとか永住権につなげて、気軽に英語で看護ができるようになれると面白いと思いますが、これはまだまだ先の話ですね。その前に違う方向で、道を切り開いているかもしれません。。笑

 一方、オフ会は、個人のやりたい結果へ向かうための過程を学んだり共有したり、ともて生産的なものだと思います。話している内容は、とても他愛もないこともありますが、結局のところ最後は人間同士の関係性であると感じました。関係性が上手くないと、結局楽しいことも悪くもなることを日本とオーストラリアで学んでいくことができました。そのきっかけをつくるのは、自分の行動でしかなく、オフ会がなければ今の自分もなかったと思います。まだまだ自分の中で不足している部分を自分で切り開きたいと思い続ける気持ちを、オフ会で再確認し、学び続けることができたので、一年経過してもニュージランドへ再挑戦しようという思いに変化はありませんでした。

 いろいろな方々の思いや考えを聴いていると、思い続け、動き続けることを辞めたらあかんなとつくづく感じます。常になにかないだろうか、クリティカル・シンキングの重要性を学んでいます。この“本当にこれで大丈夫なのだろうか、他にもないだろうか”という考えは、臨床でも気持ちが折れるほど考えさせられていました。しかしオフ会などジャンルが異なる方と話し・考えると新たな視点を共有するので、いい学びになりました。

 色々な人々の助けのもとで開催していたオフ会はとても楽しい場であったのですが、今度はこれが新しい依存になる危険性もあったと思います。ただ、これも日本から離れて自分の進みたい方向へ動けるようになったので、少しずつ改善してきているのだと思います。また、オフ会も、もとはといえば発端は田村さんのアドバイスからなので、今度はできればオリジナルで一つ継続できるものをニュージランドでみつけられるといいなと思っています。オークランドで何もできなければカナダに行くかもしれませんが、前回のような依存な部分を失くしてからいきたいと思います。

 その点で、車ビジネスなどにも興味があったりします。保険や修理など幅広い知識や人脈が必要そうなので、それはそれで面白いなと思っています。最近の悩みは、いかに表現したい言葉で英語を表現できるかということにつきています。以前より聞き取れることも増えてくると、それを咄嗟に言い返したいのですが、上手くでてこないことがしばしばありますので、英語での頭の体操と事前シミュレ?ションで語彙を増やすことが必要だと感じています。一万語くらいメモ帳にまとめても、頭の引き出しから出てこなければ言語として英語を活かしきれていないので、悲しいものですね。


"卒業アルバム”から

14年9月 学校の同窓武田くんと、来たばかりのミズキさんと

15年1月 来たばかりの山本さんと。この頃はぐるぐるループで金髪ヤンキーになってますねー。

15年1月。おお、このメンツが(偶然)一同に会していたのかという記念写真 辻、山崎、柴山各氏らと

同上

15年2月 帰国直前 2年WHを終えた愛さんと。



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