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2013年11月(初稿) 2016年02月(完成稿)


植木さんのワーホリ体験記



■はじめに

 僕のワーホリは、31歳になる直前にビザ申請をして渡豪するというギリギリのワーホリとなりました。
 この一年ではITのローカルジョブとビジネスビザGETという大きな目標を持って来たのですが、それは達成出来ず、代わりにもっと大きなものを手に入れました。

 人を信じること、人のせいにしないこと、自分を信じること、友達を大事にすること、自分に価値を感じること、楽しいことをすること。

 一見当たり前のようで難しいことが、今まで出来てこなかったので、この年齢になってオーストラリアに来たんだと思います。

■渡豪まで

 IT業界でシステムエンジニアとして5年程のキャリアを持つ中、29歳の時に同じIT業界で転職をしようと思って、退職を決めて情報収集していました。そしてたまたま本屋の留学コーナーでふと手に取った本が、「日本を脱出する方法」。

 中身をペラペラとめくってみると、永住権やらワーキングホリデーやら投資ビザ・退職ビザなどの詳細が書かれていました。そのころは、腰痛を抱えながらの東京での忙しい生活が限界で、「せっかく仕事をやめるのだから、今しか出来ないことに賭けてみよう。」と思ったのでした。

 仕事を辞めた後も、フリーランスとして仕事をしながら、一年かけてオーストラリアへの渡航準備と貯金をして、2012年11月に31歳でシドニーへ渡りました。(ワーホリビザは31歳になる直前に取得しました。)


■シェアハウスでの生活


来たばかりの頃。まだ表情が固いですねー。同期のリサさんと
シェア電話奮闘中の巻
いよいよシェア移動。最初のシェア先にて

シェアハウスで生活したり、家族以外の人と生活を共にしたことなどなく、人にどう気を使うか、何が常識か、何を頼っていいのか、そんなことが一切わからず、一括パックで田村さん家に滞在していた時から、萎縮して生活する毎日でした。

シェアを20件まわって気に入ったところに引越しても、何度も引越をしても、全てがうまくいくことなど無いのだと悟りました。

トイレを30分占拠するインド人、洗濯物を洗濯機に放置するオーストラリア人、台所掃除をせずに蟻が大量発生しても放置する日本人、料理を台所に一週間放置してカビだらけにするバングラデシュ人、南京虫の大量発生、大音量の音楽、真夜中のパーティー、、、

その問題が問題なのではなく、そこから逃げようとして問題を問題のまま放置してしまう自分自身の態度が問題だということに、何度も引越をして、お金と時間と精神力を使い果たしてどうにもいかなくなった時に、気付きました。

嫌なら嫌という。
解決策を考えて自分から動く。
プライドは捨てる。損得も捨てる。
傷付く覚悟も受け入れる。
とにかく自分と周りが心地よい環境を考えて動く。

動けば何とかなるということを知りました。

自分は小さい。人は自分が思ってる程自分のことを気にしてない。
それがわかってからは、自分を出しても意外と大丈夫なんだ、逆に何か変えたいなら動くしかない、動かないと相手にも伝わらないし理解されない、ということが、感覚的に理解できました。

そんな小さな自分でも、小さな小さな自己主張と気遣いの積み重ねで、本当に人に好かれるということも、わかりました。

シェアでは、住み始めてからも、とにかく相手に聞いて動くということが、大変ながらも快適に生活するコツかなと感じました。

シェアの経歴と構成・トラブルなどの詳細

全てオウンルームでしたが、最初はLane Coveの物件でした。決め手になったのは、国際色豊かであること、部屋も居間も綺麗で広いこと、バス停が近いこと、オーナーが丁寧で優しいことでした。シェアメイトの構成は、オージーの女性が一人、日本人女性一人、インド人男性一人、そして自分の四人でした。

シェアは初めてでしたので、戸惑いも多く、洗濯物を洗濯機に入れっぱなしの人や、台所の掃除当番をさぼる人、ごみが散らかってハエがたかっているのに片付けない人、ひとつしかないトイレを30分以上占拠する人など。。。。
そのとき自分は、きちんと話して解決する、妥協してあきらめる、違うことに目をむけて気にしない、というような当たり前の対処法さえ行うことが出来ませんでした。

なので日々ストレスが溜まり、それを我慢する一方で、日に日に辛くなってゆきました。我慢が限界に達した年末、新しい部屋を見つけてそのシェアハウスは出ました。

2番目のシェアハウスは、Belmoreにある中国人一家でした。ここは気さくなお父さん、おとなしめのお母さん、元気でかわいらしい小学生の男の子と幼稚園の女の子でした。このシェアは最初に田村さんの家から部屋探しをしていた時にもどちらにするか最後まで迷った家でした。とても温かみのある家でした。

ここでは2週間トライアルして、もし良くなかったら出て行ってもいいよというとても良い条件で住ませてもらい始めました。暮らしはとても暖かいもので、子供達と一緒に遊んだり、ピアノを弾いたり、たまにご飯を一緒に食べたりと平和でした。ただ、その時は、子供達がにぎやかすぎて勉強や仕事(フリーランスの仕事を日本から請けて続けていました)できなかったり、台所を使うときに、一家の食事を作るお母さんと気を遣いあってお互いきまずくなったりと、今考えると何とか出来そうな不満が、その時にはつらく、結局は2週間で出ることに決めました。

3番目のシェアハウスは、半年程住んだお気に入りの物件でした。Manlyにあるシェアフラットで、バングラデシュ人2人、日本人と韓国人のハーフ1人、そして自分の4人でした。ここはビーチがすごく近いことと、Manlyというとても綺麗で爽快な環境だったことで、色々な不満はありましたが、引っ越すという選択肢は取りませんでした。不満としては、まず、バングラデシュ人2人が、部屋を綺麗にするという習慣が無いせいで、台所は残飯が散らかり、ハエが集っていました。そして朝早くから音楽をガンガンにしてかけるという。安らぐための部屋が、むしろストレスが溜まる部屋になりました。ただ、マンリーという環境が本当に好きだったので、安易に引っ越すということはせず、じっと耐えたり、外に出たりして、住み続けました。シェアメイトに対する苦情などはオーナーに相談したり、廊下で騒いでいる人達には直接苦情を言ったりしました。今までの自分では出来ないことでしたが、マンリーに住み続けたいという想いが勝ち、勇気を出して行動することが出来ました。

また、すぐに引っ越さなかった理由として、カクテルパーティ(後述します。)にハマっていたということもありました。
しばらくして、その時お付き合いしていた彼女と一緒に暮らすという話になり(結局一緒には暮らさなかったですが)、そこを出ることになりました。

4番目のシェアハウスは、Ashfieldにあるシェアフラットで、中国人のカップルが住んでいて、一部屋空いているということで、一緒に住ませてもらうことになりました。ここは、そのカップルがとても穏やかで優しい人で、不満など何一つなく、とても心地よい関係を築けていました。しかしそこもラウンドに出るために、一ヶ月で出ることになりました。



■学校選び


せっかくオーストラリアに来たのだから、ファンキーな環境でファンキーな自分になろうと、ELSISを選びました。
ファンキーな環境でファンキーな友達が出来るかどうかは、いかに自分が自分の殻を破って前に出られるかで決まるように感じました。

環境が変わっても自分が変わらないと、環境とのギャップで自分への負担がすごく大きくなります。
大きなチャレンジを選んだならとことんチャレンジする、それが負担になりそうなら、チャレンジするハードルを下げる。
そうして心の健康を保つのが、長くチャレンジし続けるコツかなと思いました。

チャレンジは、諦めて辞めたら疲れます。
諦めるのではなく、挑むハードルの高さや種類や方向や時期やアプローチ方向を変えればいいと思います。


たとえばファンキーで積極的な自分になりたいのであれば、まずは大きな声で挨拶するとか、日本人の友達を作って安心してから、一緒にファンキーな人に話しかけてみるとか、趣味を見つけて先にリラックスできる自分になるとか、あくまでも目標は見据えたままで方法や手段を工夫する。

どんな学校を選んでも、色んな人がいるので、そこで自分がプライドや恥を捨ててどう行動するかにかかってるかなと。
そうでなければどの学校を選んでも大差は無いのかなと。
ただ疲れて折れてしまうと続かなくなるので、自分の安心は最低限保てる環境は大事だと思います。


学校でのエピソードとしては、自分が細かいことを気にしすぎて馴染めないことがよくありました。質問の意味がわからなくても、わからないと言えない。クラスメートに休み時間にいっしょにコーヒーを飲みに行きたくても一緒にいきたいと言えない。フレンドリーに話しかけられても、萎縮して自分を出せない。そしてそれを突破するだけのエネルギーがありませんでした。学校はさぼりがちになり、途中休学したりして、一時的に友達はできても、最後まで授業を受けきって卒業したという感覚にはなれませんでした。ただ、学校のパーティーを通して友達は増えたので、学校以外のところで遊んだりと、外で遊ぶことが多くなってゆきました。


■腰痛

今、これを書いていて、大きなことを書き忘れるところでした。
僕は元々腰痛持ちで、オーストラリアに来たときも、二時間も同じところに座っていられない状態でした。

飛行機でも頻繁に立ってストレッチしたり、マットレスや低反発座布団を日本から持って来たり、学校で立ったまま授業を受けたり。

こんな腰痛があっても、それでも自分は日本を脱出して海外生活で自分を変えたかった。
腰痛よりも、心のモヤモヤのほうが大きかった。プライベート生活を楽しめない、満たされないそんな生活を変えたかった。

腰痛を受け入れてそれでもチャレンジしようと動いていると、助けてくれる人も出て来て、腰痛があっても何とかなるんだと思えるようになりました。

腰痛を抱えながらのチャレンジする過程で気付いたことは、常識に囚われず行動してみることが大事ということでした。
授業を立って聞こうが、ストレッチしようが、教室を抜け出そうが、誰も気にしません。むしろ助けてくれます。

バイト先で腰痛があると伝えても、できる限りのことをすれば、サポートもしてくれます。
マンリーのローカルの倉庫で働いたときも、仕事の合間を見つけてはストレッチしながら、働きました。

障害があるから出来ないではなくて、障害をどう障害でなくしていくかが、道を作って生きていく時の核になる考え方かなと思います。

腰痛対策


2006年頃から持っていました。きっかけは引越。ギクッとやってしまってから、それが長引いて悪化し、軽度の腰椎椎間板ヘルニアになりました。筋肉も落ちてしまっていたので、ちょっとでも無理をするとぎっくり腰になるという、ガラスのような腰でした。日本では仕事はデスクワークをしていましたが、長く座ることが困難でしたので、仕事は立ってしていました。いざオーストラリアへという段階でも、マイクッションやマイマットは欠かせないですし、飛行機も、隣が空いていて横になれることを神頼みのごとく祈って、オーストラリアまで来ました。当然家族は心配しましたし、喧嘩もしました。当然ですよね。ただ自分は、年齢的にギリギリでしたし、何が何でもという想いが強く、その状態のまま、渡航を決めたのでした。

シェア探しの時も、重いものを持たずによく動いて、公園でねころがったり、ようは僕の場合は椅子に長時間座らなければいい話なので、寝るか動くかを心がけてました。そしてガラスのような腰にはそれを支えるための適した椅子やマットレスが必要でした。休みの日に現地のIKEAにいって、ひたすら座ったり寝たりして、良さそうなものを選び、郵送してもらいました。
運よくAPLACでワーホリをやっていた元鍼灸師の女の子がいて、田村さんに紹介してもらい、毎週のようにその子に鍼を打ってもらってました。
ラウンドでは長時間のバスや、アジア旅行などもしたのですが、その頃には少しずつ腰痛も良くなっていたので、なんとかこなすことができました。

マンリーの倉庫バイトについて


田村さん経由でご紹介いただきまして、Warringah Mallの近くにある倉庫で、サンプル用品の発送や管理を一括で担う会社でした。作業は、印刷された宛名シールを専用の封筒に貼ったり、倉庫からサンプル用品(化粧品・おむつ・お酒など)を運んできて、封筒に入れたり梱包したり発送の手続きをしたりするものでした。
作業の流れは、朝8:55ぴったりに開始し(早くスタートしても遅くスタートしても駄目)、午前中ひたすら仕事をし、お昼休憩もきっちり30分、そして午後もひたすら仕事して、4:25になると所長が各持ち場の担当者に握手をして回り、握手された時点で仕事が終了です。
レイジーなオージーというイメージとは違い、
一分たりとも無駄にしないかわりに、残業は0という、とても効率的でオンオフのはっきりした職場でした。
時給も15.5ドルとなかなか良かったですし、英語環境でしたので、とても勉強になりました。

■仲間との出会い


オーストラリアでは沢山の仲間に出会いました。100人以上友達が増えました。

移民の国だけあって、出会う人出会う人が、色々な人生を歩んでいて、とても刺激を受けました。
また、本当に苦労している人が多いので、学ぶこともとても多く、尊敬できる沢山の人達に出会えました。

日本では、自分自身が何かはじけられない、突き抜けられない感覚がして、友達と一緒にいても、なんだか満たされない、本当に大事と思えない、そんなことがよくありました。

学校の友だちと
学校の友だちと

オーストラリアに来ても、出会いと別れのスピード感ある友達付き合いも、心を開けず終わったり不満や不安を感じて避けたり、そんなことも起こりましたが、何ヶ月とかけて、自分を出すことや人を許すことや人を信じることを学び、終盤に連れてどんどん仲良しの友達が増えていきました。

自分が尊敬できる人を、本気で大事にして、自分をさらけ出して、楽しい時間も辛い時間も共有して、仲間がいるから頑張れる。そんな人間関係が本当に築けるとは日本にいたときは思えなかった。

何度会っても相手を大事にして尊重できる。
会う度、会う度、初めて会った時の相手を尊重する気持ちが続く。
そんな素敵な仲間が沢山出来ました。

フィリピン旅行の際のスナップ
皆ですき焼きやったときのもの


■カクテルパーティー


オーストラリアに来てから、イベントの企画が好きな友達の影響で、自分が好きなカクテル作りでよくパーティーを開きました。

シェイカーを振る植木氏。カッコい〜

材料や道具の調達や、人集めなど、とても苦労しましたが、自分が作るカクテルを人に飲んでもらえるのなら、自分も美味しいカクテルを飲めるのならと、頑張って実現させた甲斐がありました。

人を喜ばせることが好きなんだなと、再認識しました。


そもそも何故カクテルパーティを開きたいと思ったかというと、元々カクテルがとても好きでしたが、お店で飲むとお金がかかる上に、すごく美味しいカクテルに出会えるのはなかなか難しい。自分で作るにしても、材料が高く、買い揃えるのもなかなか大変でした。
ならば、飲みたい人を集めて、パーティにして楽しんでしまおう!自分も美味しいし楽しいし、周りの人にもカクテルの美味しさをわかってもらえる!と思ったのがきっかけでした。

人数が増えるにしたがって、自分が会話やパーティを楽しむ余裕が無くなっていきましたが、それでも、それを上回るほど、「自分がこのパーティを作って参加してくれた人を楽しませているんだ」という思いで嬉しかったです。シドニーを去る直前に、マンリーのシェリービーチで25人ほど参加してくれたカクテル&BBQパーティを開いたのですが、水場が乏しい屋外で、材料の搬入(タクシーを使い、友達に手伝ってもらいました)や、カクテルを提供するというのが、自分にとってチャレンジで、そのチャレンジ自体がとてもわくわくすることでした。「自分の好きなマンリーという地で、好きなカクテルで、今まで誰もやったことのないことを成し遂げたい!」という思いが、実現への原動力となりました。

マンリーでのカクテルパーティ
マンリーでのカクテルパーティ

来てくれた人達はとても喜んでくれて、隣でバーベキューしてたオージーグループも興味深そうに話しかけてきてくれたりしました。

■ラウンド


ローカルのIT企業就職を目指し、学校卒業する頃から色々と活動していました。ただ、それがうまくいかないのと、プライベートでの問題など、ストレスがかかりすぎてパンクしてしまいました。
その時はオーストラリアの冬で、日本に帰るか迷いましたが、ここで帰ると意味がないと思い、なんとかへばりつきながら、暖かいダーウィンにWWOOFに行くことを決めました。

ラウンドは一ヶ月間と短く、半月WWOOF、三日間ダーウィンのツアー、五日間フィリピン(国外)、四日間タイ(国外)、三日間パース、そしてシドニーに戻るという、ダイナミックなものになりました。

ここで楽しまないと中途半端に辛いままシドニーに帰ることになるなと思い、同じAPLACの友達も一緒にタイで合流し、楽しみました。

パースにて
フィリピン旅行にて


お金がなくても、遠くても、腰が痛くても、アジアでぼったくられても、素晴らしい景色や人と出会いながら楽しい一ヶ月になりました。

シドニーのように便利ではないので辛いことはもちろんありましたが、自分で行き先を決めてやりたいことをやって、なんで学校終わってすぐいかなかったのだろうと後悔しそうなほど楽しい時間でした。

ダーウィンもフィリピンもタイも、現地の人と仲良くなって一緒に飲む時間が最高で、力を抜いて自分自身が楽しむことが人が寄ってくるキーポイントなのかなと思います。

WWOOFについて


ダーウィンから300キロほど南下したところにあるキャサリンという小さな町で、半月ほどボランティアをしました。そこはオージーのホストファザーとホストマザーがいる家で、子供達は独立して家を出ているようでした。庭が大きな家で、自分の仕事は、その庭の手入れでした。キャサリンは熱帯地方で、ちょうどその頃は乾期でしたので、毎日快晴で、昼過ぎには35度以上になるとても暑い毎日でした。仕事内容は具体的には、ウッドチップという木屑を、庭にまんべんなく巻いてゆく仕事でしたが、このウッドチップが土のように重く、押し車とスコップを使っての肉体労働でした。腰痛はその頃にはかなり良くなっていて、うまく体を使いながら作業をすると、一日四時間程度のウッドチップ撒きはなんとかこなせる程度でした。

WWOOF
WWOOF

WWOOF先で寿司を作る


他にもフランス人男の子とドイツ人男の子のウーファーがいて、週末などは夜になると、もちまわりで自国の料理を作ってみんなで食べたりしました。フランス人の彼の作ったクレープは美味しかった。自分は巻き寿司を作りましたが、割と好評でした。

普段の食事は、肉、肉、肉。夜は大体焼いた肉と野菜とポテトです。日によってラムになったりポークになったりビーフになったりするものの、基本的にバーベキュー台で焼いた肉でした。

英語力があまりなかったので、とても仲良くなるというところまではいけませんでしたが、良い経験になったと思います。


ダーウィンのツアーについて


二泊三日のツアーで、バックパッカーの近くで申し込みましたら、次の日、22名の参加者ほぼ全員、ヨーロッパの20代のバックパッカーでアジア人は自分一人という、なかなかハードで楽しいツアーになりました。
カカドゥ自然公園などダーウィンの観光地をバスで回りながら、キャンプをするものでした。
人見知り発動して最初は無口で過ごしていましたが、徐々に慣れてきて、フランス人の子やスイス人の男の子など、仲良くなってゆきました。
自分は、日本から脱出してオーストラリアへ来て、シドニーから遠いダーウィンにきて、そこでヨーロッパの若者達と一緒にキャンプをして、日本で現実と思われるものから遠ざかっていることに対して、「今、自分は何をしているんだろう。面白い。」と思いました。

■自分にとってのオーストラリアワーホリ


色々計画を立てて始めた生活ですが、大事なのは計画をこなすことよりも、何故それをしたいと思ったのか、計画通りいかないときにどうするかのほうが大事に感じました。

また、自分の大きな目標を達成したり仕事に向けて努力する中で、やはりプライベートの充実というのは必要不可欠かなと思います。

プライベートの充実は、人を大事にすること、積極的に行動すること、自分の気持ちに正直であること、これらが出来ていれば、自然と、やりたいことを好きな人と出来るようになっていきました。

生き方を学べた素晴らしい一年で、このエネルギーを、次はこのまま向かうカナダのワーホリでガッツリと活かしていきたいと思います。

ピアノについて


日本にいるときから、クラシックピアノを小さい頃からやっていて、大人になっても趣味程度で弾いていました。ピアノを弾くことがとてもリフレッシュになるので、オーストラリアでもピアノを弾ければいいなと思い過ごしていました。

そんなときJamsの掲示板で見つけたのが、「中古ピアノを200ドルで売ります」との記事。オーストラリア駐在の日本人家族が、日本に帰国するということで、見学後、購入を決めました。電子ピアノではなく、生の重さ200キロあるピアノです。

そのとき住んでいたのはマンリーのシェアフラットでしたので、部屋においていいか、弾いていいかをオーナーに確認後、購入しました。搬送に関しては、ピアノ専門業者だと高くなるので、韓国人の引越屋さんにお願いしました。
マンリーの部屋は細い廊下と階段を上がった二階にありましたので、引越屋さん2人(3人で来るはずが一人病欠で2人で来てました)だけではとても持ち上げることは出来ずに、自分も加勢し、カーペットでツルツル滑る廊下を、30分以上かけて一段一段上げていきました。

自分の部屋に生ピアノが来た!今考えるととんでもないことをしていたと思います。そしてそのとんでもないことが可能になるのもオーストラリアならではかなと思います。
毎日のようにクラシック音楽(ショパンやベートーベンなど)を弾いて、リラックスしていました。カクテルパーティを開いた時などにも、みんなで弾いたりして遊べたのでよかったかなと思います。
引越のタイミングでピアノも引越したりしましたが、最終的に帰国するときは、貰い手も買い手もつかず、アーターモンの処理場で廃棄しました。さよならありがとう。


■よりディープなツッコミ編

以下では、さらに田村さんからのディープなつっこみ質問に答えていきます。

(1)なぜオーストラリアに来たのか

田村さんの質問:植木さんは、経歴をみるかぎり、おそらくは学業優秀で就職もそつ無くこなし、また仕事もそれほど破天荒ってわけではなかったと思われます。いわば、今の日本社会で、いちおうの「あがり」というか、一種の完成形にあったと思うのです。それを敢えて叩き壊してやってきた、しかも30というギリホリでやってきて、ちゃっかりカナダまでやっている、やはり相当の「なんだかな」感があったと思われます。それは何でしょう?
これだけ世間的客観的には「成功」しているのに、主観的には納得出来ないというギャップがあるわけですよね。そのギャップはなんなのでしょう。

自分の答え:
一言で言えば、もっとやれた感と、窮屈な日本で萎縮してる自分が辛かったからです。
進学校 - 国立大学 - 途中フリーター - IT企業と、なんとかレールに乗りつつある程度納得できそうな経歴でしたが、なんというか、人間関係も、恋愛も、学校の授業も、仕事も、もうあとひとふんばりというところで逃げてきて、本当の自信が培われないまま生きてきた感じがしていました。心の中では、もっと出来るのに、もっと出来るのに、と思いながら、行動できずにモヤモヤ不安になって、ふんばりがきかずに表面的に繕って、、、と。

人の目がとにかく気になる性格で、学校でも職場でも、いつもビクビクソワソワしていました。
もともと好奇心は旺盛でチャレンジャーな性格なので、本当はこうしたいのに、という想いと、怖くて出来ない、という想いが拮抗して、心の中で闘ってエネルギーを消費して疲れてしまうという人生でした。

「このままじゃ疲れて日本で暮らせない」と思い、海外在住を目標にして、(もしそれが出来なくても、二年間海外にいれば強くなって日本でも生きやすくなるだろう)という、せっぱつまりながらも、計画的にワーホリを決めました。本当は留学をしたかったのですが、お金と時間と準備するエネルギーが無かったので、エネルギー切れになるまえに渡ってしまおうと思いました。

(2)オーストラリアでの心の揺れ動き

田村さんの質問:植木さんのオーストラリアでの軌跡をみていますと、「新旧の相克」という気もします。旧体制というか、これまでやってきた方法論、地道に頑張って資格やキャリアを身につけてより安定したレールに乗るという「工程」的な方法論があります。これはお得意だと思います。
だけど、新体制は、そういった結果に向けて全てがつながっている世界観ではなく、その場その場の「今」をどう本物にするか、どう自分らしく充実させるかというA地点→B地点への移動的な発想ではなくなっていきますよね。
とは言うものの、そんなにスパンと替われるものではなく、いわば折衷案的に、レイドバックしたオーストラリア環境も楽しみつつ、仕事でもキャリアを〜って感じだったと思います。特にローカルの仕事をゲットしようとか、日系のIT系仕事をゲットしようとか、そのあたりの難しいトライもされていましたよね。ある程度いい感触も得ていたわけで、それをそのまま続けていくということも出来たのに、ドーンとラウンドいったり、タイにいったりして、それが良かったりもしてます。

つまり将来のためにキャリアを身につけなきゃという事務作業の桎梏もありつつ、いや、それよりも大事なことがあるんじゃ、、という気持ちがありつつ、、その相克というか、調整をおやりになっていたと思います。また、カナダでもその延長戦をやっておられたのでしょう。1年を通して、このあたりの心の揺れというか、動きというか、徐々にわかっていく感じというか、そのあたりはいかがでしょうか?

自分の答え:
実はラウンド行ったのは、失恋がきっかけだったりします。本当はオーストラリアでの旅行は、ビジネスビザや永住権が取れた後でいいやと思って、IT職をGETするための活動に意識を注いでいました。カクテルパーティもピアノも飲み会も、全て、その辛い作業をするためのモチベーションや息抜きの位置づけでした。

ただ、自分のそれまでの生き方のスタイル「持ち前の勤勉さと器用さで、問題を回避して進む」だけでは、立ち行かなくなっていました。怖いことから逃げずに突破することがとても下手でした。そしてカクテルパーティもピアノも、その大きな目的と問題からすると、(というか問題から逃げている自分に気付かないようにするエネルギー消費が問題)、気休め程度にしかなりませんでした。

その頃できた彼女にも協力してもらったりしていたのですが、遠距離になったこともあり、失恋し、生活はうまくいかない、IT職も特にGETできない(日系のビザ支給がないIT職はGETできましたが)、その中で、仕事もままならないような精神状態になり、「このままでは潰れてしまう、せっかくなら楽しもう」と思って、ラウンドにでかけました。傷心旅行みたいなものですね。

今これを書いているのは、カナダから帰国して日本でIT企業に勤めている後ですが、ひとついえることは、自分の能力を過信しすぎていたことと(自信が無く経験も無いから過信することで勢いをつけていた)、一歩一歩着実に進むということが下手だったことだと思います。また、それを嫌がっていた。

今は東京で外資系のIT企業でほとんど英語で仕事しています。ワーホリは自分に思った以上の効果をもたらしました。ただ、地理的にも人生の選択肢的にも一周して戻ってきて、今思うのは、何かを変えたいならば、日常生活の本当に小さなことを、変えてゆくことが大事なのだなと感じています。


(3)植木さんってどんな人なんですか?

田村さんの質問:以前、会う度にイメージが変わってるって言いましたけど、ほんとどんどん変わっていきましたよ。  地で持っていた面白さ、面白がり屋さんの部分がどんどん出てきた。でなきゃ、カクテルにあそこまで凝ったり、大型自動車の運転が趣味とか、そういうことはないわけですよね。  ピアノだって再発見はわかるにしても、自分で買うってところまで行く。つまり好きとか趣味はわかるんだけど、「普通、そこまでせんだろ」ってところまで植木さんは行っちゃうんですよね。流し場にも苦労するシェリービーチで25人パ―ティなんて、普通やらないですよ。バーベーキューやってビール飲んでれば済むのに、カクテルにこだわる。でも、自分は忙しくて楽しめない。でもやる。
 ね、面白い人だと思いませんか、自分で?
 そのあたりはどうお考えでしょうか。そして、どういう人なの?どういう人になりたいの?ってあたりをお聞きしたいです。

自分の答え:
もしかしたら、人見知りで自分を出して楽しめなかった学生時代や、社会人生活が心の中でしこりを作って、楽しむためにはと考えたときに、持ち前の行動力や発想が手助けして、極端な方向に突き抜けたのかもしれないと思います。
普通は、自分をさらけだし、さらけだすことで失敗もし、人に気を使えるようになり、仲間が増えていき、プライベートが充実する、、、 というステップを踏むのでしょうが、僕の場合はそのステップを踏まずに、自分をさらけ出さずに究極の理想を追い求めたのが、そういった形で出たのかなと。半ば強迫的にやっていた部分もあると思います。

シドニー時代のカクテルパーティ
ただ、多趣味と好奇心旺盛なのは元からなので、そういった無理して何かをする部分が無くなっていったとしても、無理のない範囲で何か新しいことはしていきたいなと思っています。(先日知人と、東京のバーを貸しきってカクテルパーティ兼異業種交流会を行いました。)

お金払ったからといって自分が本当に望むものは得られないなと思います。たとえば飲食でも、営利を追求する団体が提供する料理と、本当に採算度外視で好きな人がこだわって作った料理では、後者のほうが材料や時間をかけられる分、美味しいものが出来ると思うんです。カクテルもしかり。

好きで趣味であるというだけで錬金術のように勝手にエネルギーと価値が沸いてくると思うので、それを形にして拡張させていくことが出来ればなーと思います。

さらにツッコミ

思うに、植木さんの究極的な目標は、「等身大の無理のない自分をいかに実現するか」だったと思いました。
それが結論として、「自分の能力を過信しすぎていたことと(自信が無く経験も無いから過信することで勢いをつけていた)、一歩一歩着実に進むということが下手だったことだと思います。また、それを嫌がっていた。」という結びにつながるのだと思います。

この「一歩づつ着実に進む」という部分ですね。いきなりボーンと発展するのではなく、自分が出来ることをやっていく、それを地道に積み重ねていくんだって悟りみたいな部分です。それが等身大の半分の意味です。

等身大のもう半分の意味ですが、逃避だとかエクストリームだとか書いてらっしゃいますが、ピアノもカクテルも植木さんのパーソナリティを構成する大事な部分だと思うのですよ。そこはメインの焦点になってはいないのだけど、でも等身大の自分でもある。そういったメインでない補助的な自分のキャラや属性が、自分自身を助けてくれ、自分に何がしかのいい影響を与えたと思うのです。それらの部分が寄り添ってくれて、力を支えてくれた分、肩の力が多少は抜け、楽にもなれ、知らない間に「一歩づつ着実に」って気持ちになれたのではないか?と。

意味わかりますか?

つまり、なりたい自分と今の自分のGAPや欠落感が大きいと、必死になって飛ぼうとするけどズレが大きすぎて疲れてしまう。しかし、パーティにせよラウンドにせよピアノにせよ、何かをやることでごきげんになれる自分、肯定できる自分が増えてくると、その欠落感もまた少なくなってくるように思うのです。「あ、自分も結構今のままでも楽しくなれるんだな」って認識は、肩の力を抜くにはいいサポートになったと思うのですよ。だからこそ、「一歩づつ」という欲張らない発想が自然とでてきたんじゃないかと。その意味で、ピアノだなんだってアクティビティは、当初の感覚では逃避や余技に過ぎないものであったとしても、でも実は、「一歩づつ」を実現するため、等身大の自分を獲得するための大事なステップだったんじゃないかな〜と。つまりは、ピアノも何もそのこと自体が「一歩」だったと。

そうでも考えないと、「逃避」と言ってしまうには、あまりにも植木さん楽しそうだったし(笑)、また僕には、植木さんがそれによって開かれていったように思えるのですよ。リアルタイムでそう感じたのですよ。会うたびに花が開いていくように、どんどん開放的なオーラになっていくのは確かに感じたんですよね。


そうですね。確かに等身大の自分であって、ピアノもカクテルも、自分にとっては”着実な一歩”だったのかもしれません。
購入してシェア先で弾いていたピアノ

ピアノの値段も、運びいれたことも、無理をしたとも思ってませんし、カクテルパーティも、楽しいことを出来ることからコツコツやっていたので、自分にとっては一歩だったのかもしれないです。

>あ、自分も結構今のままでも楽しくなれるんだなって認識は、肩の力を抜くにはいいサポートになったと思うのですよ。だからこそ、「一歩づつ」という欲張らない発想が自然とでてきたんじゃないかと。

そうですね。自分に自信がついてきてからは、一歩ずつという発想が出てきたと思います。仕事や勉強に関しては特にそうです。ただその中でもイベント企画やら何やらを、前と同じように楽しくできるということは、それが自分の一歩であって、等身大なのかもしれないです。

世間と比べて自分の一歩を決めようとすると、窮屈ですし、大事なことを見落としてしまうなと思いました。



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