1. Home
  2. 語学学校研究
  3. ワーホリの部屋
  4. 体験談
  5. S.Naomiさんのワーホリ体験談
2014年07月12日


ワーホリ体験記 S.Naomiさん

 2012年11月渡豪〜2013年10月帰国


日本脱出までの道のり

まず私がワーホリへ行きたいと思ったのは今から14年も前、18歳の時でした。でもその時は海外へ旅行した事すらなくただの夢のままに終わり、専門学校へ進学し地元企業へ就職しました。

そうだ、夢だったワーホリがまだ間に合う!ワーホリへ行こう!と決意したのは、それから10年経った28歳の時。安定はしていたものの代わり映えのしない生活に閉塞感を覚えてのことでした。

英語の勉強とお金の準備をして29歳の時には出発する予定でしたが、その年の3月に東日本大震災が発生。
私は生まれも育ちも福島っ子なんですが、地元が原発事故で大変な事になりました。私の街から避難する人、避難区域(原発から半径30km圏内)から流入してくる人…人の大移動が起こって街はごった返しました。幸い家族も周囲も直接的に大きな被害はありませんでしたが2011年は職場も家も震災・原発事故関連の対応に追われあっという間に過ぎてしまいました。

そして震災とは別に、これは今悩んでいる人がきっといると思うのでぜひここに書いておきたいのですが、当時私は仕事を辞める勇気がなかなか出なかったのです。
私は新卒で20歳のときに採用されてから9年、生え抜き社員として働いてきました。広告制作の仕事は楽しく、ちょっとマンネリながらも会社を辞めたいと思った事はありませんでした。これが嫌な仕事だったらさっさと退職願を書いてオーストラリアへ行ったのですが…。

この仕事を辞めて海外で長期間生活なんてできるのだろうか。日本で再就職できるのだろうか。
氷河期世代のせいなのか、職の少ない地方にいるせいか、とにかく仕事を手放すことに不安ばかり感じていたように思います。

結局上司には「1年間産休育休に入ったと思って」とかなんとか言って交渉し、会社に戻る前提で一旦退職することになりました。今振り返れば我ながら意気地がないと思います。

とにかくそうやって日本を脱出する目処がつきました。
震災前に一度取得していたビザが有効期限切れで失効し、再度取得し直して、Over30(というかこの時点で31歳)のギリホリ中のギリホリは2012年の11月に無事スタートできました(※ワーホリビザは一度取得すると失効しても再取得できない国もあるので注意)。


シドニー('12.11〜'13.3)

シェアハウス探し

 今までの先輩達の体験談を読んでいたので「シェアハウスはいずれすぐ見つかるだろう」と思っていたら同期3人揃ってまるまる2週間田村家に居候することになってしまいました。田村さんに「揃って2週間いるなんてあんたら最長記録かも」なんて言われました。

 バスや電車で毎日いろいろな町に行き、特にバーウッドは数回行って、街自体気に入っていたのでここに決めようかなとほぼ気持ちを固めていました。しかし翌朝、ハーバーブリッジ目の前のマンションの一室に募集が出ていたので軽い気持ちで行ってみてそこに住むことを即決。

Aplac同期3人で。それぞれのシェア先へ移動の日
 なぜなら私が最初にシドニーに来たのはAplacの田村さんに会うためと、もうひとつの目的はニューイヤーズイブのカウントダウンの花火を見ることだったからです。ここからならばっちり花火が見える!ということで、それまで考えていたいろいろな条件をすっとばして直感で最後にすんなりと決まったのでした。

 一緒にふるさとから出てきたベトナム人学生3人が住む家に加わった形になりました。のちに彼らは仲間割れをしてそのゴタゴタに巻き込まれる形で私は家を出ることになるのですが。言い分にいろいろ納得がいかなくてその後はニュートラルベイの日本人専用のシェアハウスに引っ越したりレーンコーブの母子家庭のお宅に住んだりもしました。


語学学校


酔いやすいので不安だったけど船通学は全く問題なかったです
 語学学校はSCEでした。プレインターミディエイトからのスタート。3ヶ月通って最後になんとかインターミディエイトに進級できました。

 家がノースシドニーのMcMahons Pointの目の前だったので毎日船でサーキュラーキーまで行き、そこからバスに乗っていました。

 年明けと同時にバイトを始めたので、学校の宿題をやる時間がなくなってしまい、毎朝船とバスの中で必死に宿題を解いていました。

 そのため、朝はのんびりと風景を楽しむことはあまりできませんでしたが、それでも毎日ハーバーブリッジをくぐって船通学なんて日本ではできない体験で面白かったです。

バイト

仕事先から散歩して見えた景色
 学校が始まってからは学業に専念しようと思いバイトを探していなかったのですが、気がつけばお金がなくなってしまいました。

 バイト先をいろいろあたっては見たもののなかなか決まらず、お金もピンチで、オーストラリア滞在中精神状況が一番悪かったのがこの頃だと思います。シドニーに着いて2ヶ月経った頃、私の所持金は数百ドルしかなくなってしまった。学校の友達はブルーマウンテンへの旅行の計画なんかをしている中一人で鬱々としていました。

 そんなとき運良くニュートラルベイのジャパレスでウエイトレスとして働けることになりました。

ジャパレスにて
人気店で忙しかったけどやりがいありました
 このお店には年末から3月までお世話になりましたがオーナー家族やTAFE留学生やワーホリ仲間など学校では会えない人たちと交流できたし、とても良くしてもらいました。

 何より新卒でずっと同じ仕事ばかりしてきた私にはウエイトレスの仕事がとても新鮮で楽しかったです。

学校を卒業した後はモスマンでフランス人夫婦が営むカフェで皿洗いのバイトも始めました。しかしオーナーの都合で、あまり忙しくないとすぐ帰されてしまうし時給も悪く、そのくせこちらに求めてくるレベルは高くて嫌になり、こちらは数回やってすぐに辞めました。


NYE Fireworks 〜年越し花火大会

 花火を見ることを本当に楽しみにしていた私は、自分でフライヤーまで作って友達を誘ってパーティしようと計画していました。しかしその企画の話が学校内で広がり過ぎ、気がつけば30人前後が参加するような大掛かりなものになってしまっていました。私の家の前は花火鑑賞スポットとしてシドニーの中でも有名な場所で(シドニーのサイトによるとオペラハウス前に次いで混雑するスポットだったと思う)、混雑するのは目に見えていたし、まだまだ言葉も不自由な外国で初めての場所でパーティがうまく行くのか不安でした。

12-13年越しの花火の直後にみんなで
 当日朝、私は食材の買い出しにシティまで出て行ったのですが、そのとき既に座る場所がないほど人で溢れていました。買い出しが終わり帰ってくるとマンション前のセキュリティのおじさんに止められ、腕のスタンプかリストバンドをみせるように言われました。何のことかわからなくて、私は自分宛の郵便物や身分証明書を提示したけれどラチがあきませんでした。その時は、自分の持っている英語総動員でおじさんに身の潔白(?)を説明しました。なんとか管理人室に連れて行ってもらい住人照会までしてもらったけれど、登録していたのはオーナーの名前でそこに間借りして住んでいた私は当然ダメで"あなたの言うことはわかった。でも規則なんだ"と言われ10ドルを払って自分の家に入るという残念な結果になりました。あれほど必死で英語で相手を説得したことは後にも先にもありません。

 それをルームメイトのベトナム人・ライアン君に話すと、"一階の掲示板に一ヶ月前から告知してあったし、こないだ説明したじゃん!"と言われてしまいました。私は掲示板の告知も理解していなかったし、ライアン君の説明もなにか勘違いしてしまっていたようです。

 肝心のパーティは集合時間の3時間前に道路が入場規制で封鎖されるし、人が集まりすぎて料理作る量が多くて、本当は友達に手伝ってもらって楽しくやるはずだったのに、家に入るのに10ドル払わなくちゃ行けないしで、結局私と友達の二人だけで作りました。料理を運ぶだけでも一苦労でした。今思い出したら苦笑って感じですが、あの時は言葉がわからないことで予定がどんどん崩れ、髪を振り乱しながら必死でした。日本を出る前から楽しみにしていた念願の花火が打上った時は"はぁ〜"ってため息と安堵と脱力。そして花火の迫力が凄過ぎて気がつくとただ笑っていました。本当に疲れました。

 その後、慣れない海外生活やら金欠やらニューイヤーズイブの疲れやらで、新年早々高熱を出して結構長いこと寝込んでいました。

 今思えば結構アグレッシブでビターながらも良い思い出なんですが、当時はいろいろ消耗してクヨクヨしっぱなしでした。もっとクールに花火を楽しむ予定だったのに!って。


 語学学校は3ヶ月で終わりその後しばらくバイトを続けていました。漠然と次はタスマニアに行こうと思っていて、いろいろ調べて具体的な場所や仕事等を絞り込みました。とにかく移動して仕事を見つけるまでの最低資金しかありませんでした。

 でもバイト先の先輩ワーホリさんたちのお金がなかった武勇伝(?)を聞いていたし、今の私は収入もあるしそんなにひどい状態じゃないと思っていたので不思議と不安等はなくシドニーを離れるのが楽しみでした。


いよいよラウンドに出発
シドニーはいつも虹が出ていました

タスマニア('13.3〜'13.5)

イチゴとリンゴ〜台湾人の仲間と

ホバート


 まずホバートへ行き、そこから車で一時間ほどのヒューオンビルという町にバスで行きました。

シーズン終わりでイチゴが少なく、これを埋めるのに2時間かかった
 ここのバッパーに予約をとっていてイチゴのピッキングの仕事も紹介してくれました。
 しかしあまり収入の良い仕事ではなかったです。

 宿についてすぐ、同じ部屋のコリアンの女の子に"お金が稼ぎたいんだったら今すぐここを出た方がいいよ!"とアドバイスされました。彼女の言う通りで、イチゴは既にシーズンが終わりかけでたくさんはとれませんでした。

 1コンテナで4.5ドル。それをイチゴで埋めるのに1〜2時間かかっていました。完全に赤字です。バッパーに住んでいましたが一週間の宿泊費にも全然足りません。

道にワイルドベリーがなっているのを採りためて冷凍しておやつにしてました

 それでもセカンドビザが欲しい人たちは頑張っていました。が、私はすでに30歳を越え、セカンド目的ではなくただ単にオーストラリアのファームを体験してみたい&できればお金を稼ぐのが目的だったため、早々にツラくなり一日3〜4コンテナ収穫した後はイチゴをつまみながらその辺を散歩したり、のんびりと過ごしていました。


りんごファーム。毒々しいほどの赤
重労働でもイチゴよりは良かった
 そこで仲良くなった台湾人たちに"もっと収入のいい仕事があるけど一緒にやる?"と誘ってもらえて、イチゴはわずか2週間くらいでやめて、次はリンゴのピッキングに行くことになりました。

 ただリンゴファームは宿から結構遠く、片道40kmの距離を山を越えて行かなければならなかったので、みんなで隣町のシェアハウスを借りることになりました。

 仲間の一人が車を買ったばかりでしたが、彼は台北の都会育ちでペーパードライバーで運転をしたことがなく、他のみんなも同様でした。なので私が往復の運転を担当し、そのかわり夕飯は彼らが私の分まで作ってくれて毎日が過ぎて行きました。

 この頃はタスマニアはすっかり冬の始まりで朝晩は霜が降りたり山に雪が積もったりしていました。

あの映画の舞台と噂のパン屋
川沿いの赤い絨毯。秋です
 リンゴ園は広大でまわりに人がおらず、たまに採ったリンゴコンテナを回収にくるスーパーバイザーと世間話をするくらいでした。割と孤独でしたが必死にリンゴを採っていると一日はあっという間に終わりました。

 週末はみんなでホバートへ買い出しに行ったり、近くの湖のほとりでBBQをしたり、近くのブルーニーアイランドへ行ったり、魔女の宅急便の舞台と噂されるロスのパン屋さんへ行ったりと、思い出がたくさんできました。

クレイドルマウンテンのふもとで野生のウォンバットに接触
 リンゴの仕事を4月の終わりで辞めてタスマニア島を縦断する計画を立てていると、台湾人の友人二人も一緒に行くことになりました。彼らは車を持っていたので助かりました。

 ローセンストンで2泊してその後デボンポートへ行くと、友達が"ウォンバットがみたい"と言い出し、クレイドル山に行きました。吹雪いて人もほとんどいない中湖の周りをハイキングしました。

 ウォンバットだけが目的だったのでクレイドル山が世界遺産とは知らず、山小屋にあったユネスコマークを見てビックリしました。帰り際、お目当てのウォンバットもそこら中に現れて楽しかったです。オーストラリアに来てからずっとお金の心配ばかりして観光らしいことをしていなかったなぁと感無量でした。

 私はその後デボンポートから少し離れた場所でHelpXをすることになっており、彼らもWWOOFに行くのでそこで別れました。

Helpex脱出とケイとの邂逅

 そのHelpXの滞在先は公共の交通手段がないのでヒッチハイクで行くしかありませんでした。重い荷物を引きずって道路沿いを歩きちょっと止まれるスペースがあるような道に着いて"さあ、初めてのヒッチハイクしよう!"とドキドキしていると、私の前に勝手に車がとまり"Need some help?"と聞かれました。その車にはおかあさんと小学生の子供2人が乗っていました。厚意に甘えて乗せてもらい行き先を言うと、先に寄りたいところがあるけれどその後でもいい?と言われました。話を聞くとその家族はデボンポートの街の中に住んでいて、逃げてしまった愛犬を探しているとのこと。私の目的地に行く前にみんなでペットシェルターに行きました。でもそこに犬はいませんでした。その後目的地まで送り届けてもらいました。私の初めてのヒッチハイクでしたが、愛犬(しかも子犬)が逃げるという家族の一大事なのに見ず知らずの異国人を助けてくれるとはなんて親切なんだろうと思うと感謝の気持ちでした。

 HelpXの滞在先では主に庭仕事をしました。家のオーナーは夫婦二人。彼らはフルタイムで町中で働いています。なので日中は私一人でした。しかも私はひとりでトレーラーに住んでいました。食事は自分持ちだったし、本当に誰とも会話のない毎日です。WWOOFにしておけばよかったかなと、住んで二日目で後悔しはじめました。大変な田舎だったので電気は自家発電、水は雨水で生活している家だったのです。ある日起きると、朝から水も電気も止まってしまいました。オーナー夫妻はすでに仕事へ行った後で携帯の電波も全くない圏外です。飲み水もなくてこのまま夜まで待つことはムリそうだし、隣の家というのもかなり離れています。段々のどが乾いてきたけど水の一滴も出ない、どうしよう…。命の危険を感じてきました。

 そこで町で水や食料を調達してこようと再びヒッチハイクに挑戦しました。家の前で合図をすると幸運にも一台目で止まってもらえました。その車にはおばちゃん二人が乗っていました。運転はかっぷくのいいおばちゃん、助手席にはガリガリで体中にタトゥを掘りまくったおばちゃん。ふたりとも推定50代。衝撃でしたが、町まで行ってもらえるか尋ねるとOKとのこと。私が今までの事情を話して、さらに"せっかくのHelpXだから動物の世話とかしてみたかったのに、今の家には飛びかかってくる大型犬しかいない"などと愚痴をこぼしました。HelpXの家では庭仕事だけで、本当はやりたかった動物の世話は全くできていなかったのです。その話をした時に、運転していたおばちゃんから「じゃあうちに寄って行かない?動物たくさんいるよ!」と提案があったので喜んでついていきました。

ケイ宅にやってきた2匹の羊。日本語のマ行の名前をつけることになったのでマリとミチにした
家の羊に餌付け
 おばちゃんの家につくと飲み物をごちそうしてくれました。のどが乾ききっていたのでありがたかったです。そしておばちゃん家には広大な庭に放し飼いしている動物がたくさんいました。鶏、羊、犬、馬、小鳥。そして今私を拾ってくれたのは離れた場所で飼育している豚の世話をした帰り道でした。

 久々にまともに人との交流ができて動物もいっぱいで楽しかったです。

 つかの間の楽しい時間が過ぎておばちゃんは、自分は特に用事はないのに親切にも街まで送り届けてくれました。その時に街で食料の買い出しをすること、それと街のネットができる場所で次の移動先の手配をしようと思っている事を言うと「それならうちに来なさい。動物の世話や庭の手入れをしてくれればベッドと食事を提供するよ。どう?」と言ってくれました。私の大好きなジブリアニメ"魔女の宅急便"のような展開にテンションが上がりました。すぐにでも移動したかったのですが、今の滞在先との契約もあったのでその日のうちに出て行く旨を伝え、その二日後からかっぷくのいいおばちゃん・ケイとの暮らしが始まったのでした。

道ばたでマッシュルーム狩り
暖炉の着火材にするのによく拾った松ぼっくり
 ケイは大きな一軒家に一人で住んでいました。旦那さんは西オーストラリアでマイニングの仕事をしているので(いわゆるFIFO)たまにしか帰ってこないそうで、わたしも2週間の滞在中に会う事はできませんでした。ケイは数年前に病気で当時27歳の娘さんを亡くしており、よく娘さんの話をしてくれました。

 ケイは住む条件として最初に手伝う事を提案しましたが、いざ私が手伝おうとすると「いいのよ、この家ではなにも気にせずゆっくりしてね」と言ってばかりで私は完全に戦力外のお客様状態でした。

 またケイは大変な料理上手で毎日手間をかけてオーストラリアの家庭料理をふるまってくれました。その他、四輪バギーを運転させてもらったり、一緒に羊を買いに行ったり、道ばたでマッシュルーム狩りをしたり、オージーのホームパーティに連れて行ったりもしてくれました。夜は割った薪をくべてテレビや映画をみたりいろんな話をして過ごしました。毎日新鮮で懐かしくてあったかくて、本当に幸せな時間を過ごしていたと思います。

低温火傷

 その頃のタスマニアはとても寒い季節でした。ある夜、私はシリコンの湯たんぽを持っていたのでお湯を沸かしてベッドの中にセッティングして眠りました。明け方なんとなく足がむず痒くて目を覚ますと、足首を一目見てマズい状態なのがわかりました。湯たんぽに接したまま寝てしまった部分が低温やけどを起こして腫れ上がっていたのです。急いで氷水をビニールにセットして足首を冷やしているとケイが起きてきました。

ERで足の診察待ち
 状況を説明すると幸い近所に大きな救急病院があり、ケイがそこへ連れて行ってくれて診察を受ける事ができました。私は昔アメリカドラマのERが大好きだったので「これが本物のERか!」などと言ってドクターに苦笑される元気はありました。

 しかしこの片田舎にろくに英語がしゃべれない日本人が運び込まれてきた事を、ナースやドクターやいろいろな人から不思議がられていきさつを尋ねられました。そこでケイが「彼女は私の友達でヒッチハイクしていたところを家で一時的に一緒に住む事になった」というと、みんな眉をひそめました。そしてドクターから強い口調で「ヒッチハイクはもう二度としてはいけない!本当に危険なんだよ」と注意されました。これはケイと住みはじめてからまわりのオージーにも何度か言われていた事で、口調で判断する限り本気で私の事を心配して言ってくれているようでした。

TASの川は本当に奇麗。カモノハシやマスが住んでいる
 これはその後知ったのですが、人の良いケイはよく私のような放浪者を好意で家に泊めてはものを盗まれる被害にあっていたようです。ヒッチハイクする私の身の安全も保証がされていない一方で、乗せる方もまた危険にさらされる…たしかに日本だったら知らない人の車に簡単に乗って泊まり込むなんてことはやらないはずです。まして海外でそれをやるリスクを考えると、私はただ単に運がよかったのだと思います。足のやけどのこともあり、今まで浮ついた行動をとってきてしまった上にケイの仕事を増やしてしまったなと、この時はとても反省しました。

二人で帰ってから、家の仕事でただでさえ忙しいケイに「私のせいで忙しくさせてしまってごめんなさい」と謝りました。
 その時ケイから"Sometimes things just happen."と言われ、その言葉が新鮮で印象に残りました。

 今まで私はよく"物事の因果"だとか"原因と結果"だとか考えてしまうタチだったのですが "時々物事はただ起こるだけ"って、いろいろな事を超越して許されてしまう気がして少し楽になりました。英語では「しかたないよ」っていう軽いニュアンスなのかもしれませんが、私にとってはいろいろ考えるきっかけとなるフレーズでした。

 足のやけどという予想外の出来事はありましたが、2日後にはロンセストンからメルボルンへ移動する事になっていました。タスマニア最後の夜には何度か会っていたケイの友達を呼んでみんなに和食をふるまいました。何品か作った中でも、とくに茶碗蒸しはあっさりとしているのが受けたのか好評でした。

空港でケイとお別れの時


 いろんな人に恵まれてすばらしい思い出ができたタスマニアですが、最後の唯一思い残すのはオーロラです。
 2013年は世界的にオーロラの当たり年で、タスマニアでもサザンライツが出現しまくっているという情報でしたが、私はついにみる事はありませんでした。現地のオージーにオーロラをみた事があるか聞いても、みんなあまり興味がない様子。前にマーケットで会ったオーロラ写真家の方が撮影するのがとても大変と言っていたので、肉眼でみるのはさらに難しいのかもしれません。それでも毎晩星が本当に奇麗で、いつも肉眼で天の川が見えていました。


メルボルン('13.5〜'13.6)

 ケイにロンセストンの空港まで送ってもらいました。別れは惜しいのですが、これ以上ケイの負担になるのもいけません。次の目的地・メルボルンに移動することにしました。

 私の予定ではメルボルンからミルデュラにいってその時期に盛んなシトラスピッキングをしたいと考えていました。

この時期のメルボルンは寒かった…
 しかし、メルボルンで私ははっきり言って気持ちが燃え尽きていました。夜にメルボルン空港についたものの、バスチケットのおばちゃんはツンケンしてるしバッパーはヨーロピアンの若者ばかりでうるさいし、都会は冷たいな…なんてしんみりしていました。タスマニアの田舎から大都会メルボルンに来てなんだか心が追いついていない感じです。

 そんな時ケイからの着信がありました。ちゃんとやれているか確認の電話でした。ケイは私を"友達"と言ってくれたけど、まるで私はケイの子供になったようでした。今すぐにでもタスマニアに戻りたい!本気でそう思って沈んでいました。

 3日たたずにヴィクトリアマーケット近くのノースメルボルンのバッパーに移るとだいぶ気分が持ち直しました。街自体が落ち着いている感じです。シドニーも、後に移動するパースもだけど、街のノースエリアというのは割とハイソで過ごしやすいような気がします。

 新しいバッパーの部屋には日本人の女の子がいました。バッパーのハウスキーピングをしている子だったのですが、当初なんとなくあまり会話をせずに過ごしていました。ある時ひょんな事から地元が隣の市ということが判明し、それからいろいろ話すようになりました。彼女は以前ミルデュラに仕事を探しに行った事、悪徳斡旋業者がはびこっていて見事に騙されて逃げるようにメルボルンへ帰ってきた事などを教えてくれました。

 何度も彼女からはミルデュラへ行かない方がいいと言われていましたが、その時点では半信半疑だったのでメールでミルデュラの斡旋をしている男性にメールをしてみました。すると、そこにはかなりシステマチックに仕事紹介の流れやら斡旋料の額やら記載されていました。そのメールを彼女に見せると「これこれ!私が会ったのと同じ奴だよ!」と教えてくれたのでそこで確信し、ミルデュラ行きは中止にしました。現地で直接探せばまた違ったことがあったかもしれませんが、当時行って戻ってくるだけの金銭的余裕がありませんでした。

 この時私は田村さんに相談メールを送りました。「タスマニアでの体験がとにかく濃くて夢のようで、あれが私のワーホリのクライマックスだったように感じる」と。それは当時の心境の核心部分でした。残りのワーホリは消化試合のような気持ちになっていました。でもまだ5ヶ月残っているし、ギリホリでセカンドのチャンスがない私は最後まで精一杯やって満足して帰りたかったのです。

 田村さんからの返事には「かくあるべき像に囚われすぎているんじゃないか」と問いかけを頂きました。ラウンドのあり方はなりゆき、偶然の面白さを楽しむ事なんだよと。それはその後ラウンドでの行動に悩んだ時いつも思い出す言葉になりました。

当時のメールのやりとり原文
→続きを表示させる


 それまで思い描いていたのはミルデュラのファームで稼いで、その資金でメルボルン〜パースを大陸横断鉄道で移動する事でした。その予定を一度白紙にしました。

 メルボルンで気乗りはしないけれど仕事を探そうか考えていました。
 宿で一緒だった香港人の子に紹介してもらったカフェで一日だけ働きましたが全員中国人のカフェで私への指示以外すべて中国語という環境でした。少しでも打ち解けようと英語で話しかけてがんばりましたが相手側はあまり心を開いてくれず、たった一日で辞めました。

 同じ宿に日本人のシェフの方がいました。もうメルボルンに6年住んでいて新居に引っ越しするまでバッパーに滞在しているそうです。彼はルバーブという赤い茎の植物を閉店間際のマーケットから大量に買い込んで、バッパーのキッチンで週末にマーケットで売るジャムを作っていました。もうメルボルンで仕事はいいやと思って毎日街をふらついていただけの私は、当日マーケットにお邪魔する事にしました。顔を出すとたくさんあったルバーブジャムは売り切れでした。どうやらルバーブをジャムにするのはオージーもやらないそうで、現地の人にとっても目新しいものだったようです。原価もマーケットの売れ残り(買った時、大量の束で1ドル)だったのがちょっとしたアイディアと、自分のスキルをうまく組み合わせて人に喜んでもらえて、しかも自分もハッピーな状態…メルボルンでくすぶっていた私とは対照的な彼が、その時とっても眩しかったのを覚えています。

 2週間ほどただ何もせず滞在したメルボルン。自分の不甲斐なさと向き合う2週間でした。やっぱりなんだかここは自分に合っていない街のような気がして、そのままパースへひとっ飛びすることにしました。


パース('13.6〜'13.8) 

パース

 メルボルンから4時間のフライトで夕方パースに降り立つと、なぜか懐かしい感じがしました。そして気候が暖かかった!これが結構、塞いでいた自分の気持ちをほぐすのによかった気がします。

 パースでは最初YHAに泊まりました。パースYHAはその評判通りホテルみたいで居心地がよく、滞在費が他より高いのに(35ドル/1泊)結局10日ぐらい滞在してしまいました。

 ここではGumtreeで募集していた、パースから北へ500km、ジェラルトン近くのキャラバンパークの受付・清掃業務に応募しました。すると急ぎで人が欲しいから週明けに電車ですぐ来てくれとの返事が。宿と食事代込み+週給200ドルで、収入は安いですが少なくともマイナスじゃないのはその時私にとって重要でした。ようやくローカルジョブにありつける!と、私も二つ返事で来週からよろしくとメールを返信しました。

火傷治療とマッサージの日々

 週明けにはパースを離れるから今のうち街中を楽しもうと歩いていたところ、足に痛みを覚えました。気になってパースにあるクリニックに行くと衝撃の告知を受けました。タスマニアでやけどをした部分が感染症を起こして壊死しかけている、と。日本語通訳さんがいる病院だったので詳しく話を聞けたのですが、一日おきに通院をするのが少なくとも一週間、その後も週2回は経過観察で通院が必要で、低温やけど治療は時間がかかる事を覚悟してくださいとのことでした。

 このときばかりは海外保険に入ってきてほんとうに良かったと思いました。10数万円払って加入するのはどうなんだろうと出発前に思いましたが、加入していなければ帰国という事態になっていたかもしれません。キャッシュレスだったの で実際の費用がいくらか分からず、掛け金との正確な損得比較は出来ませんが、しかし、当時はお金がなかったので、もし保険がなかったらかなり苦しい事態になっていたのは確かです。

 当然キャラバンパークの仕事は流れました。このまま医療施設のない砂漠のキャラバンパークに行くことはできないので残念ですが縁がなかったと諦めました。

 とにかく治療しながら滞在費を稼ごうとパース市内で仕事を探し始めるとマッサージ店に面接に行く事になりました。怪しいいわゆる大人のお店かも、と一瞬迷いましたがとりあえず面接に行ってみると高級商業地の一角にある品の良いお店で女性のお客様もいるし安心しました。仕事としてのマッサージの経験はないけれど、よく人にはしてあげていてちょっと自信もあったし、マッサージをお金をもらいながら身につけられるのも魅力だし、出来高制ですがトレーニング期間が終わればよいお給料がもらえるとのことだったので始めてみる事に。

 それが実際始めてみて3、4日経った頃から違和感を覚えはじめました。最初の私の予想は当たっていて、ここで詳しく書くのは避けますが、そこは性風俗店のカモフラージュとしてのマッサージ店だったのです。実際の性風俗店として広告媒体などに告知はできないのでこのマッサージ店が広告を出し、希望する人(男性)を別店舗の風俗店へご案内する…というものでした。いいトシして何も知らずに働いていた自分にがっくりきましたが、システム的に私たちのような何も知らないカモのワーホリをすぐやめさせないような制度になっていました。つまりそこそこ給料も良い上に、ちょっと長く 続けるとすぐに昇給していくなど、微妙に勤続欲をくすぐるシステムです。日本で全く縁のなかった裏社会(大げさ?)ですが、緻密な仕掛けで経営が成り立っていて"なるほどなー"という感想でもあります。

 結局、病院へ通院しながら8月初めまで2ヶ月くらい働きました。収入も悪くなく同僚達も明るくよい人達だったけど、一日の拘束時間が長いし、辞めるときは本当に本当に嫌になっていました。ようやく辞めた日は、こんな爽快感久々に味わった!ってくらい嬉しさで胸いっぱいでした。


シェアのオーナーはバンジョーの先生
 パースでは仕事先が決まった後、スーパーの掲示板で見つけたMt.Lawleyというパースの北にあるエリアのシェアに移動しました。二人のルームシェアで110ドル/wでした。母屋と離れで10人くらいいる大所帯で、シェアのオーナー・フィルは鳥とバンジョーを愛する元薬剤師のおじいさんです。今は仕事を引退し野生の鳥達を手なずけつつバンジョーの先生をしています。

出入りの激しい家だったので、みんなで交流できるように月に一度はシェアメイト達のポットラックパーティを企画してくれました。写真はその時の一コマ。歌が本当に好きな人で、始まるとしばらく止まりません。

私が「マッサージ店で働いているけどビギナーなんだ」と言うと人体図鑑を貸してくれたり、ブルームに移動する予定だと伝えると一緒に移動方法を考えてくれたり、とても親切でした。フィルにはシェアライドでのブルームまでの移動を強くオススメされて、後にブルームのオーナー夫妻にもパース〜ブルームのドライブの良さを説かれました。結局空の移動になりましたが、長距離の陸路移動はオーストラリアでやりたくてできなかったことのひとつです。

 やけどの治療はまじめに通って8月初めに終わりました。皮が貼ってきてははがし、貼ってきてははがし…(皮膚をきれいに早く再生させるためらしいです)と処置してくれた看護師さんには感謝です。毎回かなり痛かったけど。看護師さんはかなりのベテランのようで、先生達にも対等に意見している風に見えました。オーストラリアの看護師さんは日本より地位が高いというか自分の個室を持ってちゃきちゃき仕事をしていてカッコいいなと思いました。

 跡は残りましたが皮膚がきちんと再生して塞がったので、これで海や山で感染を気にする心配はなくなりました。

フリーマントルの夕景
 そうそう、休みの日に街をぶらついている時に日本人カップルに声をかけられて、よく見るとシドニーで一緒にクリスマスパーティと花火大会をした二人でした!お互い半年以上全く連絡をとっていなかったのにこんなに離れた場所で偶然再会して驚きました。私がパースを離れる前日にキングスパークで彼らとBBQをしたのがこの街での良い思い出です。


ブルーム('13.8〜'13.10)


ブルームで自転車を買う。が、乗り馴れないクロスバイクで苦労した

 飛行機でブルームのYHAに移動したのが八月の初旬でした。

 到着の翌朝にバスルームに行くと、なんとAplac同期の勝又さんがいました。勝又さんはブルームについて数日間仕事を探していたけれどまだみつかっていないとのことでした。私も残り3ヶ月になったワーホリの最後の滞在地をブルームにするつもりで移動してきたので早速仕事探しを始めました。

 ここにきて、今まで何となく後回しにしてしまっていた飛び込みのレジュメ配りを初めてやりました。ショッピングセンターやカフェ、レストラン、マッサージ、クリーナー、キャラバンパーク、お土産屋さん、ホテル…しかしもうすぐ乾期の終わりで観光シーズンも終盤。どこも人手は間に合っているようでした。ブルームの人たちはこういうレジュメ配りに慣れているようで、邪険に扱うどころかいろいろ親切に教えてくれました。

シェア

ブルームカップで負けました
 なにかしら仕事はあるはずだからもっと腰を据えてここで仕事を探そう!と思っていた矢先、バッパーから翌週の予約が満室なので出て行くように通達がありました。

 競馬のブルームカップがあって、観光客の予約が入っていたためです。シェアハウスを急いで探さなくてはならなくなりましたが、どこもとっても高い。350ドル/per week なんていうものばかりです。

 そこで勝又さんが見つけてきた2人入居用(カップル用?)のシェア300ドルの部屋を二人で訪ねてみる事になりました。

庭のプールで泳いだり読書したり、贅沢な時間
ブルームのシェアオーナー、オリー&アニー。私たちが家を出た後、キャンピングカーでオーストラリア一周の旅に出ました
 そこがとてもキレイでドイツ人オーナー夫婦も印象がよかったので二人で入る事にしました。ベッドが一つなのでさすがに横に並んで寝るのも…と思い、ふたりで上下互い違いになって寝ていました。

 そのシェアはオーナー達の母屋から独立した建物になっていて、水回りだけ母屋とシェアする生活。
 私たちのリビング、ソファは屋外にあって目の前には家庭用プール。毎晩夕食を外のテーブルでとり、休みの日にはプールで泳いだりしました。とても贅沢な時間でした。

 仕事はその間もなかなか見つからずにいましたが、心配したシェアハウスオーナーの旦那さんオーリーが空港勤務だったので清掃の仕事をかけあってくれたり(結局ダメでしたが)、奥さんのアニーが自分で作っているリサイクルバッグの原料の自転車チューブを洗って干す仕事を与えてくれたり親切にしてくれて嬉しかったです。

JOBゲット


ブルームのShinju Matsuriでの一コマ
仕事先の裏手は広大な地平線
 仕事は一度アプライしていたショッピングセンター内のマッサージ店にダメもとで再度アプライしたところ、前回は不在だったオーナーと話をする事ができ、早速翌日に来てと言われました。

 翌日にオーナーへマッサージをするテストをパスするとその日のうちから仕事を始める事ができました。

 今回は健全な(笑)お店です。ネイルサロンも兼ねているお店でネイルのお客様が多かったのですが、私にはその技術はなかったので、古いネイルを落としたり、待たせている間にハンドマッサージなども手伝っていました。

 リゾート地ということもありオーストラリア各地やニュージーランドからくるお客様が多かったように思います。

 ブルームに来てから地元の人の英語が聞き取れない事にちょっと苦戦していましたが、メルボルンやシドニーから来た人の英語はわかりやすく、また各地のいろんな話が聞けて面白かったです。マッサージも遊び疲れたお客様がコンスタントにやって来るので手堅く収入を得る事ができました。

 ブルームはアボリジニの人がたくさん住んでいて、定職をもたずにいつも庭先や広場に座っていました。実際私や勝又さんも仕事帰りにアボリジニの子供の集団にちょっかいかけられたりしていたし、政府からお金を配られる日になると仕事先のとなりの酒屋から開店と同時にすごい量のお酒を買っていたり、夜に怒号が聞こえて警察沙汰になったりと良いイメージを持てずにいました。私たちの住んでいた家がアボリジニ居住エリアのど真ん中だったというのも理由かもしれません。

 そんなある日、お店にアボリジニの40代の女性のお客様が来て私が担当する事になりました。彼女は長距離トラックの運送の仕事をしている独身女性で、話す内容がとてもまじめでした。仕事をしなくても食べていける立場だし、ともすればアボリジニということで虐げられるようなこともあっただろうに、きちんと定職と自分の意見を持って自立していて素敵だな、とすごく印象に残っています。

犬を連れてみんなで海岸の散歩
小さな桟橋
 自然豊かなブルームでの生活は穏やかに過ぎ、仕事は10月の中旬まで続けました。

 到着した頃、空に雲一つない晴天が何日も何日も続いていたのに、その頃はもう雲がたくさん出てきていました。

 もう"月への階段"もナイトマーケットも終わり。雨期が近づいているのが湿気でわかりました。

 マッサージの仕事で帰国の便のお金と東南アジアのちょっと旅行するだけの蓄えもでき、ブルームを去る潮時だと思いました。ブルームで勝又さんとは一日違いで別れ、ダーウィンでタスマニアのピッキングでお世話になった台湾人の友達の家に数日滞在させてもらって、オーストラリアを後にしました。

らくだに注意
らくだにのって見えた風景

ブルーム名物・らくだの行進


まとめ

 これが私の体験したワーキングホリデーです。たった一年のワーキングホリデーでしたが、思った以上にいろんな場所でいろんなことに挑戦できました。私にとっては会社員時代の10年を超える濃密な1年でした。当初あんなに仕事を離れて渡豪するのを不安がっていたのに、本当に来て大正解だったと今はきっぱり言い切れます。

 30過ぎて海外?国際結婚狙い?英語できるの?これから自分探し?結婚しなくていいの?ワーホリなんて遊びでしょ?年齢もアレだし再就職大丈夫?…まあ女・三十路ワーホリってだけで四方八方いろんな事を言われます(特に田舎では)。ワーホリ行きたいな、でもなぁ…なんてて思ってネットで検索なんてした日には、ネガティブワードの嵐で飛び立つ勇気も持てなくなりそうです。

 今回私のワーホリでは「各国出身の年上の女性」と時間をともにする機会が何度かあり、これからの自分の人生に向けての示唆を受ける事が多かったです。

クラスメイトマルティーナとヨットレース観戦へ

 シドニーのSCEではドイツ出身のマルティーナ(30代後半)と仲良くなりました。転職する機会に語学学校とオーストラリア旅行に来た彼女は、帰国した後新しい職を楽しんでやっているようです。身の軽さと新しい環境を次々と自分で選んで楽しんでいるところがカッコいい女性です。

 タスマニアのケイは、強要するつもりはないけれど子供を持つことは人生の何よりすばらしい贈り物で、あなたにもぜひ体験してほしいわと言っていました。決してたしなめるような言い方ではなく心から家庭を愛しているのが伝わってきます。

 ブルームのシェアハウスのドイツ人オーナー、アニーは私と同じ年齢の娘を持っていました。私がアニーにある日ひょんな世間話から「もう30代だし、出産のリミットが近づいてきてる」というようなことを話したら、娘も同じ事を言っていたけれど結婚も出産も無理にすることではないのよ、あなたがしたいと思った時に決めればいいと言ってくれました。

 そしてアボリジニの運転手の女性もそうですが、私が出会った先輩女性はみんな自分の決意で、誰のせいにもせずシンプルに自分の人生を受け入れているように感じました。

 日本にいる時は、ただ年齢のリミットでせかされるばかりで、子供を持つ素晴らしさを素直に語ってくれる言葉も、独身でも無理に結婚しなくてもいいと言ってくれる言葉も自分に届かなかったように思います。けれど今まで描けなかったお手本の女性の生き方がオーストラリアにはたくさんありました。いえ、日本にもきっとたくさんあるんだと思います。気づかなかったのは自分の視野の狭さでもあったし、自分から意固地になってそっぽを向いていたのかもしれません。


ワーホリが終わってすぐの時期に書いたメモがあるので貼っておきます。

【ワーホリでわかったこと】
・締め切りは自分で作らなきゃ永遠にやってこない
・お金がなくても健康でさえあれば人間どうにかなる
・とはいえお金があると行動しやすい
・本気で海外進出するなら学歴と語学力は重要。もしくはそれを補えるほどのコミュニケーション能力と行動力
・やりたいことがあるのは幸せ。もういいやって思うまでやったほうがいい
・やりたいと思ったときが適齢期。だから後回しにしないでやりたいと思った時に早めにやる
・一人旅でも思い出のほとんどは誰かと過ごしたこと。人と関わらない人生はつまらない
・やっぱり家族って大事
・思い煩うことのほとんどは実現しない。案ずるより産むが易し
・でも時々想像の斜め上の出来事が起こる。落ち着いて対処
・出来事はただ起こるだけ。意味を与えるのは自分


どれも実体験としてオーストラリアで体験して感じたことです。

 田村さんはよく「ワーホリは人生の縮図」だとおっしゃっていますが、その言葉をワーホリが終わって時間が経つほどにひしひし感じています。

 思い通りにいかないことはしょっちゅうで、予想外の事件事故なんかもあるけれど、たまにビックリするような嬉しい事があったり。苦しい事もあるけど、そこでどれだけ楽しむかがカギであったり。ワーホリが人生の縮図なら、人生はとんでもなく自由で、キラキラしていて儚く、尊い経験が積めるフィールドのはずです。

その後('13.11〜)

 気がつけば日本へ帰ってからから8ヶ月。福島は外から見るよりも意外と平和です。

 今年1月から以前と同じ環境、同じメンバー、同じ街で同じ仕事をしています。あんなに以前は楽しくて、辞めるのが怖くて戻ってきた職場ですが、今はなんで戻ってきちゃったんだろうと思うくらい、つまらなく感じている自分がいます。
 ここで、次はこれをやる!って言い切れたら気持ちいいのでしょうけれど、今思い浮かぶ今後の未来はどれもいまいちピンとこないままです。なんだかメルボルンにいたときの心境を思い出しています。それでも、静でも動でもただ続いていくのが人生ですよね。

 選択肢に迷うのは帰国後もあいかわらずですが、それが自分だと受け入れて、楽しい事にはどんどん飛び込んで行く気持ちを忘れずにいたいと思います。

最後に。
田村さん、AplacのWEBサイトを見ていなければ私は多分オーストラリアワーホリと縁のない人生になっていたはずです。
渡豪の数日前に突然連絡した不躾な私を快く迎えていただき、そして一年間サポートしていただきありがとうございました。

補 充 質 問


Naomiさんのワーホリは、ケイさんの "Just Happen" の言葉、あと僕が書いた「あるように あるだけ」という「大きな自然の流れや摂理」を受け入れられること、その習得過程のように思われます。

客観的な運の流れでいえば、悪いことがあるといいことがある、すごくいいことがある前にすごく悪いことがあるという循環で、シドニー時代もフェリーに乗れるけどシェアは空中分解するし、花火は見れるけど大変だったり、でもジャパレスが意外に良かったりという、「禍福はあざなえる縄の如し」パターンです。タスマニアも、ケイさんに会う前にHELPEXのところで大変だったり、で、ケイさんのあとは低迷期で、多分火傷とマッサージのパース期が大底だったと思います。しかし、火傷が治るにつれて脱してきて、偶然知人にあってちょい盛り上がるあたりで上昇期になり、そのままブルームへなだれこんでフィナーレ、、という。

このように「流れ」があるのですが、最初の頃はあまりそれに適応できてなくて、なにか悪いことがあると「あ、そうか」と流せずに、「理不尽にひどい目にあった」的な感覚が強いです。あるいはそれをマネージ出来ない自分への不満。被害者意識 or 自己嫌悪という。それは例えば、花火について、一ヶ月前から告知があったんだけど読み落としていただけ、単に10ドル余計に払っただけのことなんだけど、ライアンくんが教えてくれているのを「言われてしまった」という受け身の表現をしますよね。後々のドラマに比べれば笑っちゃうくらい些細な出来事なんだけど、ここまで心が揺れている。受け止められてない。流せていない。だからあなた任せの運不運に過剰に反応してしまう。

でも、ケイさんの啓示とメルボルン時期で悟りが開けかけます。その後は、HELPEXどころではないパース性風俗(笑)×火傷というダブルパンチを受けているんだけど、あまり恨みがましくもないし、また自己嫌悪に陥ってるわけでもない。まさにあるがままに受け入れられています。

最後のブルームに至ったら、もうそういう浮き沈みすらとくに意識してませんよね。「あ、そっか」くらいの感じだし、ジョブも一回断れたところに平気で再度行けるし、シェアも軽く探せている。アボリジニ迷惑になりつつも、しかししっかりしたアボリジニの女性から学んでいる。もうバタバタした心の動揺がなく、それだけにすごく「見えてる」感じがします。「すごいじゃん!」というね。

そのあたりの流れ、学び、それは分かっているとは思うのですが、どれだけ自覚的なのかな?そして、今はその学びを活かしていますか?と。最後の方に「それでも、静でも動でもただ続いていくのが人生ですよね」ときちんと分かっておられるようですが。

なんというか、この学びが1年の中心軸になるような、そしてこれからの人生の軸になるような気がするように思うので、改めてお聞きします。そのあたりはどうお考えですか?という大きな問いかけです。難しいけど、お考えがあれば。

田村さんがまとめてくださった一連の流れを読んで「ああ、私のワーホリってこういう流れだったんだ」と客観的に見る事ができた、というのが正直なところです。私はまだ消化しきれていない感があります。先にお送りした体験談を書いていても、当時を振り返るとその時の感情までありありと自分の中に浮かんでしまって、ちっとも以前の事として扱えていないことに気がつきました。これを消化→昇華するのが、今これを書いている意味なのかもしれません。

========================

シドニーにいた頃は、「自分の理想の○○」みたいな意識がすごく強かったです。花火大会の件はその象徴に思えます。フライヤー作って、人を集めて、料理はああしてこうして、花火は家の前で…今思うと無謀ですね。初めての国&場所で自分の思い込んだ理想だけで準備をしていたので予想外の出来事にただオロオロしていましたし、年明けには熱を出して長いこと寝込む状態になったのは、体の疲れの他に「あんなに楽しみにしていた花火鑑賞が思っていたよりうまくいかなかった・理想通りにできなかった」っていうショックもあったと思います。

今振り返ればたしかに大した事ではないです。でもそれはラウンド体験あってのことで、もしその後もずっとシドニーで生活していたら…花火のときのことを思い出してはイジイジしている自分が目に浮かびます。


パースの時は、やけど通院もマッサージ店勤務も、私の中ではかなり予想外でイレギュラーな出来事でした。落ち込むとか不運とかよりも「海外でやけどをして通院するはめになった自分」「いかがわしいお店で働くはめになった自分」が実はワーホリのストーリーとしてちょっとオイシイなと思っていました。それはおそらく、パースでこれをしよう!っていう自分の理想が全くなかったからだと思います。メルボルンで当初考えていたのは「シトラスファームで儲けて鉄道でパースへ移動!」というところまでで、パースでの「ああしたい・こうしたい」を描かないで来たのが良かったのかもしれません。


ブルームでは、パースでの不自由な生活にフラストレーションが溜まっていた反動なのか気分よかったです!着いていきなりめまいがする暑さで、もう今までのくすぶっていたパースと、空気も空の色も全然違う。そういう環境の変化で目の前が開けた感じでした。

それからブルームを最後の長期滞在地にするということだけは決めていたので、その後の事を思い悩んだりする必要がありませんでした。部屋探しも、夜中に突然ふらふらインスペクションに出かけてみたり、仕事探しで午前中にレジュメ配りをしたあとは海でずっと泳いでみたり。「どうせどうにかなるんだし〜」ってノリで結構適当な生活していました。仕事をゲットするまでは若干不安もありましたが、収入ができてからは普通の生活を腰を落ち着けて楽しむ事ができました。


こうして書き出すと「自然の流れを受け入れる」のとともに「理想に縛られない」のが私のキーワードのような感じですね。メルボルンの時点で田村さんからいただいていた言葉に今さら納得しました。

これが理想通りに進んでいたらどうなっていたんだろう…振り返れば最初に思い描いた通りに進んだ事が何一つないワーホリでした。そして、出来事だけをなぞれば半分以上不運でできているように思います。でも、だからこそいろんな出来事がひとつひとつ濃い思い出になっているし、はっきり言えるのはアンラッキー=アンハッピーではないってことです。


学びを活かせているか、の答えになっているかわかりませんが…私は10代の中頃から「この場所じゃないどこか」「今の自分じゃない自分」をいつも求める気持ちがありました(その割に行動は伴っていませんでしたが)。今回のワーホリの「海外で生活したい!」も元はと言えばそういう気持ちから始まったものでしたが、実際渡豪していろんな体験をできたこと、実際に海外に来る事ができたことが自信になりました。そして「あーどこで生活しても自分は自分のままだなぁ」と当たり前の事を再確認しました。ようやく自分を受け入れる事ができてきたように思います。


ワーホリで言うと、ブルームに着いたあたりでワーホリ9ヶ月目くらいで、暑いし、ちょっと心身ともに疲れてる感じがありました。でもそれが功を奏した気がするんです。いい具合に張り切ったり期待したりする力が抜けてたんだと思います。

30過ぎて、仕事のなんたるかとかがわかってきて、ルーティーンな生活に飽きたりもしていて…ワーホリと同じように人生も、ちょっとこなれ始めたこの辺りから受け入れる事ができるんじゃないかなと思っている自分がいます。ようやくまともな経験値になってきた、と自分では思っています…まだまだ若輩者ではありますが。





★→体験談のS.Naomiさんの紹介文に戻る
★→留学・ワーホリ体験談の目次に戻る
★→語学学校研究へ行く
★→ワーホリの部屋に行く
★→一括パック現地サポートを見てみる
★→APLaCのトップに戻る