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2012年05月04日


M.Fさんのワーホリ体験記


--渡豪前--


「自分がこのまま日本で働き続けたらだめになる」そんな切迫感だけがオーストラリアへ行く理由でした。
芸術大学卒業後、毛織物会社で企画職として働き始めて3年目の時です。

 大義名分としては「語学留学」だったけれど、それは二の次三の次の周囲への「言い訳」に近いもので、私としてもせっかく行くなら英語を話せるようにという目的はあったものの、一番目の理由ではありませんでした。

 海外への漠然とした憧れは昔からずっと持っていたけれど、具体化する前に常にフォーカスを違う部分に当てていたら、日本で社会人となってしまっていました。


 幼い頃からあまり迷いもなく芸術系の大学を目指していました。

 幼稚園ではノートを一日に何冊も使うほど絵を描くことが好きでしたし、習字をすること、写真、裁縫などなど細かい作業をすることが、すごく心地よかったのです。

 教科でいえば、自由な発想を認められて、感覚的にできることがとにかく得意でした。習字もバランスとか、字を書くというより紙の中のバランスを自分で作る感じで、道徳とか、答えは一つじゃなくて感性で答えを出すというのも大好きでした。だから数学や、決められた公式がすでにあって、自分では答えが変えられなくて決まってるものが苦手でした。笑 単純に不得意だったのですが。

 美術は常に5で、自他共に認める得意分野!みたいのが唯一「美術」というカテゴリーだったので、何も考えていなかったというのもあるけど必然的にこの分野の大学を目指しました。

↑上の写真は卒業制作のときに作ったものです。

 両親や周囲もそれに気付いて認めてくれていたので、それでいいんだと思っていました。
 私は2人の兄がいますが、長男とは6歳歳が離れていて、常に私の先をいく絶大な憧れの人でした。兄は私以上に手先が器用で、小さい頃はレゴ、粘土、絵描き、なんでも私を仲間に入れて遊んでくれました。兄は私が中学生の頃すでに大学生で、浪人をして愛知県立芸術大学の彫刻科へ通っていました。

 疑問もなく具体的に私も芸術学部の大学まで進みました。デザイン学部、デザイン学科、テキスタイルデザイン専攻で、主に糸染め、型染め、織りで小物から大物まで製作していました。伝統工芸の染めや和紙なども学びました。

 このように方向性にブレが全くなかった要因は、私自身の持って生れた性向もありますが、なによりも兄の背中を見ていて憧れていた点が決定的だったと思います。


 それだけに社会人になってオーストラリアに行くことを考え出した時、生まれて初めて自分の道に迷いというものが出てきたのです。

 目指していた芸術系の大学を卒業し、憧れのデザイン業務を行う社会人になって、漠然と自分が目指していた山を登り切って周りを見渡してみたら、「何か違う」っていう違和感を感じました。遅い気付きだったのかもしれないけど、これが自分のタイミングだったのだと思っています。

 この「何か」を的確に説明する言葉が見つからないのですが、働くことの喜びを感じられなくなった事、精神的なのりしろが少ない自分に気付いた事、大好きで就いた職なのに、織物を触るのすら嫌いになりそうになっていた事、そしてそうなるまでに過密になっていた働き方です。

 「もう少し具体的に」という田村さんのリクエストがありましたので書いておくと、私が入社した後すぐにリストラ+給料カットがありました。残業はもちろんサービスでした。初任給が一番手取りが多かったです(笑)。

 休日出勤は土曜は当たり前、会社を出るのは夜9時、10時は普通でした。朝も早く、「若造は早く出勤」という空気があったので、7時過ぎには出勤して掃除をしていました。それでも遊びたくて、寝るか遊ぶかで遊びを取っていたので、平均睡眠3時間とかの時期もありましたが、コレは危険でした。関係ないですが、周囲への反抗心か髪型もスポーツ刈りみたいにしてました(笑)。
 しかし、仕事を辞め、職場を去るという作業が一番の大仕事で、逆流の川を歩くような心持ちと必死さだったけれど、あの勢いが必要でした。


 色々と無駄に膨大な情報をインターネットで調べているうちに混乱し、その末にAPLaCを発見。
これが一番ラッキーな出来事でした。田村さんとの出会いがなかったら、こんなに幅の広い見方や彩りある考え方には気がつけなかったと思います。これは渡豪前・中・後いずれの期間に渡ってもそうでした。実体験と合わせての気付きはもちろん渡豪後になりますが、なんというか、共感できる部分がすごくAPLaCには詰まっていて、表面を捉えるんじゃなく、経験の先に繋がるものは何かっていう所に目を向けている所に惹かれました。

--空港到着--


 なんだかんだで田村さんがロビーにいなかったらだとか不安もあったけれど、すんなり合流。
メールでの構築的な印象とは違い、柔らかい雰囲気の方で素敵なギャップでした。

 なぜか田村さんを見るとどうしてもクッキングパパを思い出してしまいます。似てないんだけど。
田村さんが「何年も空港お出迎えをしているけれど、旅行でこちらに来る人と、ワーホリとか、移住しようとこちらに来る人とでは表情が全然違う」とおっしゃっていたのが印象的でした。

--シェア探し--

 オーストラリア到着1日目にホームシックになりました。
 意外と日本では公的手続きやら荷造りで忙しく、田村さんの家に着きほっと一息つき、はたとついに引き返せない所まで来てしまった!という感じでした。

 しかし次の日からシェア先探しを始め、すぐにその気分もなくなりました。
 私が到着した7月のオーストラリアは、冬で寒かったけど、からっとした空気と気持ちいいくらいすっきりした真っ青な空は、天気が人柄を左右するんじゃないかと思うくらい心地よかったです。

 1週間前にオーストラリアに到着していたともちゃんはパワフルで、なんだかすでに環境に馴染んでいて驚きましたが、気付いたら私も一週間で同じようにすっかり土地に馴染んでいました。

 時間の濃さの感覚が、日本で言う「一週間」とオーストラリアで過ごした「一週間」はかなり違いがあるように思います。たった一週間で、随分前からオーストラリアに住んでいたような気分になりました。


 地図を見ながら歩いた分だけ自分の土地になっていく感じ。

 だから田村さんがおっしゃっていた「一度小さく収まったものを後になって広げることは意外と難しい、最初に広げられるだけ広げておいた方が良い」というのは大いに同感です。

 鉄は熱いうちに打てという感じかな。

 家探しに限らず、何でもそうだと思う。
 自分(の考えや先入観)を度外視して、とにかく動いて、見てみて、そこから選ぶ方が断然違う。納得具合も、後々の精神的なゆとりも、そしてその先に続くものも変わってくるのではないかな。

 主観こそ狂ってるものだし、初めての土地なら何にも分からないんだから尚更。
 ひとまず自分のスタンスに距離を置いておいて、こういう作業をすること自体、最初はすごく抵抗があったけど、頑張ったつもりです。これからもこれは心がけたいと思います。

 シェア探しは、この作業自体をフィルターとして、新たな土地での自分のスタンス、自分の「あり方」をどうするかを考え、学ぶ機会だったと思ってます。海外に限らずものの見方や捉え方など。

 器用に1日に何十件も見て周ることは出来なかったけれど、存在しない住所をいつまでも探したり、雨の中傘も無いまま部屋を見に行ったのに、急にキャンセルされたり、色々とありました。

 もちろん感じの良い人との方が多く出会え、英語があまり話せないのに(てかほぼ皆無)、べらべらとかなりおしゃべりしてくれる人が多いのには驚きました。やはり移民の国だからでしょうか?

 はたまたタウンホールで道を聞いたら、車に乗せて送ってくれた人もいました。なんだか不思議なんだけど、こういう時は鼻が利くようで、危険な人と危険で無い人は見分けがつきました。こういう体験で危険な目に遭ったことは一度もなかったです。

 結局、来豪当初から気に入っていたGlebeで、シングルルーム$200の部屋に決めました。
 インド人の父位の歳のAshok、オーストラリアンの母のようなCarlotta、高校生の息子に私が加わりました。
 日本で一度も一人暮らしをしたことがなく、両親から解放されたい思い強かったにも関わらず、選んだ部屋は家族の暖かさがすごく感じられる場所でした。

 面白かったのが、英語できちんと意思疎通が出来ず、私がいつ、どのように大きな荷物を運ぶのかを伝えられず、結局話し合いの末(になってないけど)インド人パパがAPLaCまで私の荷物を取りに車で連れていってくれました。私の部屋の荷物は散乱していて、更に急いでいたので、スーツケースも半開きのままのような状態でお引越し。大雑把な運転で荷物は車の中でひっくり返ってばたばたとした嵐のような一日だったけど、でも家が決まって随分ほっとしました。

 しかし学校が始まり、わずか2週間でこの家を出てしまうことになります。やはり家族のようにケアされすぎるのが逆に辛かったから(自分勝手ですね(^_^))。しかし、2週間といってもすごく長いこと住んでいる気分でした。

 またたった2週間で出ることについて嫌な顔をされたり、文句を言われたりということは全くありませんでした。トラブルフリーで、むしろ「気にしなくていいよ、好きな所に住めばいいよ」って言ってくれました。

 その後は、中国人の友人の紹介でCentral駅周辺でシングルルーム$150と格安部屋に引越しました。
 この中国人の方とは、日本の友人の紹介で知り合いました。私が来豪する前に、日本の私の友人もオーストラリアでワーホリ生活を送っていて、彼女が帰国してから私がオーストラリアへ来ました。私を心配して、彼女がオーストラリアに住む友人を紹介してくれたのです。その中の一人がこの中国人の方でした。

 しかし、シェア物件そのものは、、、田村さん名づけて「独房」!(笑)

 Glebeとは対照的に、人との関わりが無さ過ぎて、精神的にすごく孤立しました。
 そして夏になるに連れて毎日出没する小さいゴキブリ。夜中に隣のルームメイトの中国人夫婦が叫びあって喧嘩を始めたり、夜になってみたら部屋が意外に暗かったり、総体的にあまり良いお家ではなかったけれど、こちらはミニマムステイ3ヶ月という約束だったので、ぴったり3ヶ月を過ごしました。後々田村さんから後釜を見つければ3ヶ月より早く退去できたかもねと言われたけれど、その時はそんなアタマは全然なく、きっちり過ごしました。

 当初、住む家なんて寝れれば良い、なんて思っていた部分もあったけれど、意外に自分の精神衛生状態に影響を及ぼすことを学びました。

 Glebeの家族とは独房に引っ越してからも、遊びに行ったり短期で住んだりと良い関係を築け、今も仲良くしています。
 ”独房”後は、後述の学校ブレイクのホリデー旅行に行き、また母もシドニーに来てくれたので一緒にホテルで過したのですが、残っていた学校の期間(1か月)は、再びGlebeの家に滞在しました。その後も、卒業後にタスマニアのラウンドからシドニーに戻ってきたときも、GlebeのAshokの紹介で(たまたま部屋が詰まっていたので)、ライカードにほんの少しだけ住みました(Ashokの姉が長期でインドに帰っており、部屋に誰かいてくれた方が管理の面で助かると。とても広い部屋でした)。

 また、これもほんの少しだけですが、Glebeで2階家兼1階バイト先に住んだこともあります(後述のバイトの章を参照。これはAshokとは関係ありません)。

 人は何にも負けない宝だと思います。

 限られた予算の中で見つけるシェア先は、物理的に完璧を求めるのは難しく、これは良い、でもあれは無いという部分もあると思います(もっともっと物件を見たら大当たりもあったのかも?)。

 しかし、物はいつか壊れるし、メンテも必要です。
 でも、人と合えば妥協も自然と受け入れられたり、物が壊れても直してくれる。

 何はともあれ多くを学んだシェア探しでした。

--語学学校--

 SCEへ通いました。
 当初「日本人が少ない学校が良い」とELSISと迷っていました。
 田村さんに「意識して日本人を遠ざけようとする自分自身の心と向き合う時間にしてもいいんじゃない」との言葉に妙に納得しSCEへ。

 ELSISは通っていないので比較は出来ませんが、結果的にSCEは良い学校でした。正確に言えば良い学校というか、良い出会いを沢山出来て、良い時間を過ごせ、良い学校と思えます。

 何かに固執するって事はそこにコンプレックスが隠れているというか、当時は妙に日本人、日本的要素はなるべく自分から遠い所にあってほしいと思っていて、まるで自分にとって悪の塊みたいに思ってたのかな(笑)。
 若干とげとげと神経質になっていました。

 SCEへ通って分かったことは、どこ出身の国の方でも合う人は合う、合わない人は同じ人種でも合わないということ。
 英語漬けの毎日でたまに話す日本語は糖分みたいに染み入って、結構そのお陰で精神的に安定していられたんだとも思います。
 そしてここで出会ったともちゃんとあきら君(注:体験談を載せてくれている畑中章氏)に帰国後日本で再会できて、本当嬉しい限りです。

--英語--

 オーストラリアに到着した時、英語力は皆無だったので学校へ通い始めたら伸びる一方でした。
 毎日頭痛になる位授業が終わると頭がパンパンに。

 当初先生の会話と会話の間の「and then,well」など自然な話しの中で出てくる言葉が気になり、いつもメモを取っていました。聞いていて分からない単語も必ずメモをし、授業後学校からすぐ近くのSydney Uniの図書館へ行き全部メモを覚えるということを繰り返しました。そして必ず次の日にその言葉達を使いました、会話がおかしくても使っていた。
メモ→暗記→実践としないと、本当にすぐに忘れてしまうから。

 ちなみに図書館は机からシドニータワーが見えて、夜は夜景も綺麗でした。面白い本も沢山あり、よく本を借りて何時間もぼーっと過ごしたりもしていました。

 最初のシェア先のCarlottaは昔英語の先生をしていたこともあり、よく英語を直されたり、英語の本を読んでみてと言われたり、会話するのが嫌になるほど訓練してくれました。
 私は気持ちが落ち込んでる時と元気な時の英語を話す力にかなり波があったと思います。

 あとはみか(注:体験談を載せてくれている柏崎美香さん)と諒の紹介で知り合った、オーストラリアンのJonathanとの会話やメールは、それだけですごく勉強になりました。乏しい表現しか知らない私に、ネイティブが話す言葉の使い回しはとても新鮮な発見がありました。更に彼は日本が大好きで、年に何度も日本に訪れるほどの方でした。そしてABCニュースで働いている方だったので、彼が書いた日本についての論文や記事、インタビューをメールで送ってもらい感想や私の日本に対する考えをメールで返答したりもしました。

 これは本当に難しく、一回の返答にまるっと2,3日かかりました。そして書いた後はCarlottaのチェック。
抽象的な表現やニュアンスは当然英語力はもちろん表現力も必要で、なかなかしっくりとした表現に辿り着けなかったです。

 彼とはその後、年末年始にメルボルンへ旅行もし、日本とオーストラリアの歴史教育の違いにも気付かされ、とても楽しい反面、疲れました。自分の深い部分の考えを表現するのはすごく労力が必要だったから。



--一時帰国、休学、旅行--


 オーストラリアへ来て一ヶ月経った頃、一時帰国をしました。祖父の容態が悪化していたことがメインの理由です。一時帰国といっても、私が居るべきは場所はオーストラリアしかないという基本的な枠組みは動きませんでしたので、日本滞在期間も、祖父を見舞うなどの3日間ほどでしかなく、すぐにオーストラリアへ戻りました。その頃には既に、日本に居ることが現実逃避のように思えていました。日本を出発する前は、外に出ることが逃避のように思えて真逆だったのに。

 しかし、オーストラリアに戻ってきて学校を再開した後、徐々に迷いが出てきました。

 当時は田村さんにヘルプのメールを送ったほど落ち込んでいました。
 悩みというのは、いわゆる金がないとか、シェアメイトと合わないとか、学校の先生が嫌いとか、そういうことではなく、より内面的なことです。むしろ人には本当に恵まれていたのに、私がプラスに持っていけなかったんだと思います。

 日本で持っていた余分なもの達がオーストラリアに来て削ぎ落とされていって、どんどん丸裸になっていくような感覚でした。それは自分を客観的に見つめることができているという事でもあり、日本を出る前はそれをこそ望んでいたので、本当は何の問題もなかったのです。しかし、何にも持ち合わせて無い!自分に気づいて、これからどうしたらいいかが分からなくなってしまっていました。やるべきことは沢山あったのに。

 田村さんからはその時、「自分を見つめることほど良い悩みは無い、高級な悩みですね。ただし凝視するように見つめすぎるとデッサンが狂うみたいに、自分を見つめて悩んだ末から出てた結果は必ずしも悩んだこととは直結しない。考えるプロセスがなによりも尊い。」との言葉をもらい、ちょっと救われました。

 煮詰った挙句、気分転換ということで旅にでることにしました。学校の方とも話しあった末、残り1ヶ月の授業を残しホリデーを許可してくれました(ホリデー後は残期間を通い、卒業しました)。ホリデー中の旅は小旅行が二回。最初はタスマニアへ10日ほど一人旅、二回目は、シドニーへ戻った後、語学学校の仲間のあきら君がラウンドに出るのに、他の学校仲間達と便乗し、車でシドニーからアデレードを一週間旅しました。

ショートホリデーその1 タスマニアの旅


 渡豪する前からウールの産地として興味のあったタスマニアでは、Hobartからレンタカーを借りてタスマニアをぐるっと一周しました。

 レンタカー屋さんがくれた地図にLook out point(景色が綺麗な所)が載っていたので殆ど全部の箇所を見ました。Look out pointも綺麗なんだけど、そこに辿り着くまでの普通の道の途中もすごい綺麗で、写真ばかり撮っていました。


↑Kemptonで骨董屋のおじさんにもらったもの
 HobartからRossに向かう途中に寄ったKemptonにある額縁と骨董品の店でNickという父親位の歳の陽気な店主が話しかけてくれました。Kemptonはお店も2軒くらいしかない本当に小さな所でアジア人が珍しかったのか、お茶とお菓子を振舞ってくれて、1時間ほどお喋りをしました。

 外観は一見小さい店だけど、奥は広い家になっていて、古い家だけど自分で改装をして、孫や娘が遊びに来るんだと説明しながら部屋を見せてくれて、楽しそうでした。Nickは別れ際に、Smile and Smileとポエムが綴じてある額縁をプレゼントしてくれました。裏には手書きのメッセージを書いてくれて、なんだか素敵な出会いでした。


 その後は景色をずーっと眺めて、念願のRossのウール博物館へ行き、羊に感動して、野宿して、そんな何でも無い時間に何にも心が囚われる事がなくなって楽になりました。

 ウール博物館は、日本で働いていた毛織物会社の取引先とタスマニアのウールが貿易関係にあったことを示した資料や展示があって、日本でしてきた自分の仕事が世界と繋がってたんだと認められたようで密かな感動でした。

 ある夜中の、明け方直前に、野宿だったので寒くてよく眠れず車を走らせていたら、木しかない草原から見たこと無いような日の出に出会いました。野宿といっても車中泊です。ワイルドぶって一度やってみたくて(笑)。公園で髪の毛洗って、顔洗ってって。寒くてあんまり眠れなかったけど、怖面白かったです。タスマニアの田舎の町ってB&Bばかりで田舎に行くと1泊でも結構お金がかかりますしね。

 音も何も無い、誰もいない所でオレンジ色が濃くなっていく景色は今でもはっきり思い出せるくらい綺麗でした。

 タスマニアに限らないと思いますが、お店の奥が広大な土地(庭?)になっている所が多くて、ここまでかなと店内を見て回るとお庭に続いていて、どこまでがその建物の土地か分からないほど広大で美しいお花畑や草木が見れる場所に沢山遭遇しました。

 BurnieにあるWork shopも兼ねた美術館は近代的で、手漉き和紙の工房もあってときめきました。

 タスマニアは一旦町を外れて車を走らせちゃうと100キロくらいは平気でガソリンスタンドもスーパーもなくて不安だったので、ウールワースを見つけたら必ず入るようにしました。

 ※注:雄大なタスマニア感を味わっていただくため原図を1680pxの壁紙仕様にしておきました。クリックして拡大し、お楽しみを。


ショートホリデーその2 アデレードまでの一週間の車の旅



 あきら達との旅(彼のラウンド出発に便乗してアデレードまでの短期行)も、「このメンバーで旅をできるなんて今しかないチャンス」と直感で乗っかって正解。

 たった一週間だったけど、安ホステルを泊まり歩いて、キャンプしたり野宿したり、格別にきれいな海でボーっとして、あきらが蟹を取ってきて、どこからか登場したおじさんと魚について話して、コモンキッチンが無いホステルではバスルームでご飯を炊いたりして、何でもない時間だったから面白かった。

 メルボルンでは世界遺産なんかも見にいけて、壮大すぎて距離感が掴めなくなるほど。
そして西に向かうほどどんどん増えていくハエはとても気になりました。自然が増えれば増えるほど虫も増え、人もでかいし虫もでかくてちょっと怖いくらいでした。もしかしたら勘違いしてるかもしれませんが、だけどハエはかなり大きく感じました。自然がかなり豊富な場所で虫の大きさに気が付いたので、ワイルドな場所だったからかと思います。


写真左:沼地をみはるかすキャプテン畑中章氏の背中の図
写真中央:釣りに打ち興じる同行の仲間の図
写真右:海で遊んでたら話しかけてきたマッチョな地元のオージーのおっちゃんの図


 物とかお金じゃなくて、でもすごく価値のある時間で、とても尊い経験でした。

 そして旅から戻ったらすっかり元気になって、学校に復帰しました。

--アルバイト--


 全部で3箇所でアルバイトをしました。
 NewtownにあるSushi Trainで2ヶ月ほど、BondiのIchibanboshiで1ヶ月、GlebeのCafe CIBOで1ヶ月。

 New townのSushi Trainは前述のあきら君の紹介で、語学学校に通っていた時に働いていました、時給は$12。
 お客さんのお寿司の食べ方には驚きで、マヨネーズをかけすぎ。お寿司の回転台には普通のマヨネーズと、わさびマヨネーズという邪道なマヨも回っていて、ローフィッシュのお寿司は少なめ。巻き物は揚げ物が多くてもはや寿司ではなかった。
 でも、ワインを持ち込んでお寿司と共に食したり、カップルが食事の後まったりしているのを見て、寿司屋の概念が変わって素敵だなと思いました。

 とても忙しいお店で、長い行列ができるほどでした。レジでお金を扱う仕事は一番神経を使ったけれど勉強になりました。そして賄いで食費がかなり浮いたのはありがたかった。
 接客での英語の使い方もお手本になる方がいて、覚えることができました。
 Newtownの雰囲気が大好きで、仕事前に店の隣のジェラートをよく食べていました。

 BondiのIchibanboshiは語学学校卒業後1ヶ月の短期という約束でウェイトレスをしました。時給は覚えていませんが$9か$10。あまり良い雰囲気の職場ではなく、機械のようにラーメンを運んで空いたら下げる作業のみ。

 こちらも賄いはありがたくいただきました。心外なことも多少あったけれど、1ヶ月という期限付きでだったので経験としては悪くなかったです。こういう場所もあるんだという感じ。

 「もう少し具体的に」というリクエストがあったので多少書き足します。「心外だったこと」というのは、出勤、退勤の際に、毎回必ず鞄の中を社員の方に見せなければならず、また退勤後は一切厨房内に立ち入れなかったことです(フルタイムの社員以外は全員)。どちらも防犯上の為で理解できなくもないのですが、信頼も何もなくて、なんだか寂しい殺伐とした場所だなぁとは感じました。

 「こういう場所」というのは、もっぱら「雰囲気」という主観的な印象です。愚痴っぽくなってしまうのですが(笑)、なぜか日本人のオーナーや社員さんは常に怒っていて、何かにつけていつも嫌味な感じで(笑)。
 すごく日本的な働き方をオーストラリアでもそのまま実践しているような感じで、オーストラリアの穏やかで綺麗な気候や海に囲まれて、かつ(恐らく)それなりに苦労をして、ビザを取り長年オーストラリアに住んでおられるにもかかわらず、なぜあんなにも人に対して高圧的でいられるのかなって疑問を感じました。苦労や経験の数だけ人は優しくなるもんなんだと思い込んでいたので。それだけに、これはこれで良い経験でした^^

 公平のためにお店の弁護をしておけば、「防犯を意識せざるをえない」「高圧的にならざるをえない」ようなバイト側にも問題があるのかもしれません。ここでは誰が悪いとかいうことではなく、良きにつけ悪しきにつけとても「日本的」で、大らかなオーストラリア社会の中にポツンとこのような「日本的」な場所や現象があるというのが興味深かったということです。それが「こういう場所もあるんだ」「良い経験」という意味です。


 最後がGlebeのCafe CIBO。
 こちらはイタリア人オーナーのカフェでWWOOFを終えてタスマニアからシドニーに戻ってきた時に始めました。
 SCEのタイの友達に紹介されました。紹介の連絡を入れてもらった後、直接レジュメを持って店に行き、インタビューをして、引越し&仕事開始となりました。住み込みで、2階の部屋に住みながら働いていました。時給はよく覚えていないのですが、$14位だったかな。

 小さいお店だったので、サンドイッチとコーヒー作り、ウェイトレスとレジ、全部の仕事をしていました。
オーストラリアンのマネージャーとフレンチのアルバイトの子と3人と仕事をする事が殆どでしたが、「働く」って概念が覆されるほど2人ともリラックスして仕事をしていました。

 お客さんがいない時は自由時間っていう感じで、踊る歌う食べる話す。
 私が、お客さんがいない時にいつも拭かない汚いところを拭いて掃除してたりすると「何やってんの?!」と言われちゃう始末。

 次のお客さんが待っていても、最初のお客さんと話し込んでいたり。
 「お客様は友達」みたいな感じでした。

--タスマニアWWOOF--

 学校卒業後、一時ホリデーで行ったタスマニアにラウンドでも行きました。
 タスマニアのWWOOFを3ヶ所回りました。セカンドワーホリの条件を満たすため、合計3ヶ月滞在しました。

 しかし以前のようなぐーんとした伸び伸び感はあまり無い、ちまっと収まった3ヶ月となってしまいました。なぜかというと、恋をしていて早くSydneyに帰りたかったというのが前提にあったからです。

 WWOOFをしていた時は、全体的に不安定な時も多かったです。もっと動き回って自由にしていれば良かったと今は思います。

 なお、WWOOFに行く前に、日本から遊びに来ていた友達とタスマニアを周り、Gradle Mountainに行きました。表現力が乏しいけれど、なんかもう自然のすごさに圧倒されました。

WWOOFの1軒目(Paradise)

 1件目はSheffieldからもう少し山奥に行ったParadiseでKurtとKaliという老夫婦の家で、芝刈りとラズベリーを取る仕事を2週間ほどしました。

 パソコンも携帯の電波も無い、人もいない店も無い何も無いところでした。週に一度だけ町に買い物に行く夫婦に連れられて、自由がありました。KurtとKaliはWWOOFの受け入れが長く、ウーファー向けのマニュアルファイルを用意しているくらい良くも悪くもWWOOFを仕事と捉えてプライベートとしっかり分けていました。だからすごく淡々とした毎日で、変化がなくてちょっとしんどかった。

 嫌になるほどの大自然に包まれて、毎日太陽みたいに眩しい月と星を見て寝て、朝は日の出とニワトリの鳴き声で目覚めました。日本で感じていたどことなく貧相な「豊かさ」とは違う、豊かな暮らしがありました。

 食事もしっかり毎日オーストラリアンフードでかなり太りました!
WWOOFの2軒目(Wynyard)

 2件目はAPLaCかなこちゃん(注:体験談を載せてくれている林香菜子さん)の紹介で、WynyardでJoyceと息子Paulの家で家庭菜園や牛の世話、家事手伝いをして40日間過ごしました。まるでお手伝いさんみたいでした。Joyceは生まれがSingaporeで、祖父が中国の方だった為か日本人に良い印象をもっているみたいだった。
 ご飯もお箸を使う時もあり、日本食も好きで、お寿司を何度も作りました。

 Germanyから旅をしているMarenも1ヶ月近く滞在して、4人家族のようにのんびりと過ごしました。
 ここはWWOOFを始めたのがかなこちゃんが初めてで、私が二人目でした。

 しかし、ここでも妙に病んでしまった私。フォーカスが人との出会いやWWOOFそのものを楽しむことよりも、ビザの為の日にち稼ぎみたいになってしまっていたのが良くなかったです。

 あとは、ゆったりし過ぎているせいなのか、家族が初めてに近いウーファーの受け入れで手厚くケアしてくれるからか分からないけど、空気が煮詰まってしまうのも感じました。

 Paulは意外に日本映画好きで、よく一緒に映画を観たり海に連れ出してくれたり、景色が綺麗な場所へ連れて行ってくれました。
 Joyceは前の日の残り物を次の夕食には出さない人で、毎日夜ご飯は盛大に3人で作っていました。

 時間がたっぷりあったので、日本のこと、家族についての考え方、これからどうしていくのか、色んな話をJoyceとMarenで語り合いました。

 意外とはまったのは薪割りで、庭といえど車で周るほどの大きな庭の高台の方に行くと大木があって、Paulは冬になる前に必ずたっぷりと薪を作っておくようで、毎日お手伝いしました。

 最初はやる気だったMarenはすぐにリタイヤ。私は逆に慣れたら楽しくて、毎日毎日割り続け、ついには大木1本分割り切りました。

 滞在中に、Earth Hourという1時間だけ電力を使わないという日があって、夜ろうそくだけで過ごした日がありました。庭に星を見に行って、流れ星が普通にぽろぽろ流れてました。オーストラリアの自然は本当、もったいぶらずにどっかーんてしてて、良かった。

 ところで、前述の「病み」の内容ですが、今から思えば、渡豪前に自分が漠然と考えていた、「オーストラリアでやってみたい事」がこの頃は大体一通り終わりかけていた時でした。

 日本にいた時のような精神的な悩みも解消されていて、心はフラット。でもこの先どうしていこうか?どうしたいか?現状の自分が出来る事とやりたい事にギャップがあって、何を優先して行けばいいのかって悩んでました。

 結局タスマニアにいた時はクリアに解消はされなかったです。なんか納得できないまま、気持ちに浮き沈みがありました。 この答えが本当にすっきりしたのはデンマークに行った後(後述)、つい最近のことです。

WWOOFの3軒目(Longford)

 3件目はLaunceston近くのLongfordでKenとGiovi夫婦、高校生の息子と中学生の娘の家に1ヶ月滞在しました。主に自家栽培したハーブを原料としてハンドクリームやボディクリーム、ローション、薬の製造と販売、畑仕事の手伝いをしました。

 ここは今までで一番大きな畑を持っていて、家族は個性的で人の出入りも多く興味深かったです。
 Kenは元々薬局で働いていて、研究熱心な方。自宅の隣の研究室?みたいな所で白衣を着て毎日一緒にクリームを製造していました。こんなタスマニアにまで来て白衣来てクリーム作りって!って結構面白がってました。

 ホップも栽培していてビールやワインも造っていました。手作りで出来る範囲で販売を続けたいそうで、基本的にクリームはオーダー制で、一部のクリームはLauncestonの薬局に納めていました。

 二人はお互いに再婚で、Kenは前妻との間にすでに成人した子供も持っていたけど、子供達は土日には彼女を連れて畑の手伝いに来ていました。GioviもKenも向いてる方向がいつもプラスというか、過去に対してまったく憂いのない二人には気付かされることも沢山ありました。

 同じウーファーでアデレードから来ていたJamesは日本好きで、日本映画をよく一緒に観ました。日本映画の英語字幕は、本当にその翻訳でいいの?っていうのも多々あり、洋画の日本語字幕も同じ現象が起きてるんだろうなと思いました。
Jamesほど英語をゆっくり話すオーストラリアンに会ったことは無いほどゆっくり話す人で、すごく聞き取りやすかった。笑 その後彼は鉱山で働くためにラオスに旅立ちました。

 タスマニアで出会った人達には、通り一遍じゃない色んな人生観を見せられた気がしました。

 田村さんのエッセイにもあるように、働くことに価値基準の重きを置いてる日本とは全く違う部分で、心地良いものに素直に従って生きてる人が多いように感じました。広大な自然も、家族っていう大切な存在がいて初めて価値を持つものになるのかななんて感じ、日本では全く興味のなかった「誰かと一緒に生きていく」ってことに魅力を感じるようになりました。彼らは皆、バイタリティと想像力を普通に沢山持っていて、自分の想像力の乏しさに悶々としたりもしました。

 楽しくって最高!みたいな感じにはならなかった、とにかく悩んでた時間が多かったタスマニアでの時間だったけど、でも知って良かったことは沢山ありました。

--恋愛--

 「あれは書かないの?」と田村さんからリクエストがあったので、ネパール人の彼との顛末を書きます。

 彼とは上記の”独房を”出る間際、田村さんにヘルプメールを送った後、学校のホリデーを取ろうかこのまま卒業まで通おうかを迷っていた頃に出会いました。

 いずれにせよ独房はとにかく出たくて、minimumが終わる頃だったので、Gumtreeでとりあえずシドニーの部屋探しをしていました。そこで見つけた中の一つ、Broadwayにある部屋のオーナーが彼でした。同い年で、彼はシドニーに来て4年目、大学に通いながらホテルのマネージャーとして働いていました。

 第一印象は「黒くて細い、大きい目」そしてネパール?ヒマラヤ?どの辺だっけ?程度でしたが、部屋を見て、甘すぎる紅茶を出してくれ、どこ出身?何してるの?と他愛も無いことをお喋りして帰りました。名前が難しくて、間違えて覚えて帰ったうえ、その後もなかなか覚えられなかったです。(笑)

 結局、悩んだ末ホリデー取って、タスマニアへ行こう!(1回目)と決めたので、その部屋には住まなかったわけですが、それ以来よく電話がかかってくるようになりました。不審に思って最初は無視してました。
 こんな英語も不十分な奴にひょいひょい話しかけてくるなんて怪しい!って思ってました(笑)。

 タスマニアから帰っても、すぐにあきら達と旅に出たので、特に交流はなく、でも電話は日に日に増えていきました。

 旅の後シドニーに戻り、何となく気が向いて会うようになり、友達として何度か会って、色んな話しをして、食事をして、映画を観て、何度か告白をされお付き合いすることになりました。この辺りは日本人同士でも同じですね。見た目がアジア系だからか、何となく親近感?を覚えたような気がします。

 そこからは職場のパーティに呼ばれて(ネパーリばかり)みんなにインド風のダンスを教えてもらって踊ったり(かなり皆さん普通に上手に踊れます。)、ボーリングしたり、GlebeのAshok(インド人パパ)に伝授されたインドカレーを彼に作ったり、、と幸せに過ごしました。

 なんか分からないけれど、気が合う人って本当人種国籍関係ないと思いました。
 一緒にいて楽でした。それと同時に精神的にすごく依存し始めてしまったように思います。異国で出会うとその引力が日本でいるよりもすごく強い気がしました。

 お互いに第二言語で話すことが、私は気持ち的に楽でもありました。もちろん彼は私より数十倍滑らかな英語を話していたけど。ネパール語って確か母音?か何かが日本語に近くて、発音しやすいと聞きました。ネパール語訛りの英語だからかよく分かりませんが、聞き取りやすい英語でした。

 付き合っていく中で感じたのは、オーストラリアへ来たいきさつから背景、私達は全く違うバックグラウンドを持ってるなってことでした。個人間で全然違って当たり前だけど。その事実はお互いの関係にプラスにもマイナスにも働いてないけど、ただ事実として感じました。

 例えば彼のビザに対する緊張感とか、彼が来豪するまでの苦労とか覚悟とか、背景に家族を感じたり、母国への不安とか。 昔の日本人みたいな(これは偏見かもしれませんが)、ストイックさを感じたというか、そういう部分に惹かれました。あとは目。目に意思の強さと優しさを感じました。(気のせいかな?笑)

 かたや私はといえば、仕事がハードといえど、生計を立てれる仕事を持っていたにも関わらず、それを捨て、自分を見つめなおしになんて言ってオーストラリアに来ていて、かたや彼はよりよい仕事を求めて、母国の数十倍のもの価値のお金と時間を費やしてオーストラリアにいる。やりたいやりたくないとかそういう次元じゃないようにも感じました。

 この私達二人の違いが、なにか問題があるとか無いとかではなく、思考、行動は環境によってこんなに違った形になるんだと色々考えるきっかけになりました。

 日本で仕事をしていた時は、彼なんて邪魔なものくらいに思い、随分突っ張って仕事ばかりしていたので、素直に誰かを好きになれて、私もやっと普通に戻れたと自分に安心しました。

 ということで話を戻しまして、あきら達との旅の後、彼と付き合うことになり、3ヵ月位経ちWWOOFの為に再度タスマニアへ行ったのですが、正直シドニーにいたくなってました(笑)

 一度はタスマニアに行って(ホリデーの際)満足していたのもありましたし、彼がいるならここにいたいな、と。まさにどっぷりです!普段日本ではこんな感じじゃないタイプなんですが。

 彼のビザ、そしてワーホリのビザが切れてからの話も当然するようになり、セカンドワーホリがあるのなら取るといいということになり、WWOOFに行くことを決めました。依存している自分に危機感もあったので離れてみようと思いました。

 最初のWWOOF受け入れ先が携帯もパソコンも使えずっていうのは正直切なかったです。あれはあれで嫌というほど自分を見れたから良かったけど。

 そういえば忘れていましたが、このWWOOFの後に彼が事故に遭ったので一度シドニーへ戻りました。

 話はそれますが、そのシドニーへの帰り道で、タクシー代をシェアして空港まで行こうと、上海に住むイタリア人と知り合いました。(Launcestonは空港から町の中心のバスターミナルまでの公共バスがかなり少なく、電話で呼び出すチャーターバスも高いし時間がフライトに合わせて固定されていたり、人数が集まらないと来てくれなかったりして、タイミングが合わないとバスターミナルで待ちぼうけ時間がとても長い。ので、誰かとタクシーを捕まえてお金をシェアした方が安い!) この時会って数時間話しただけでしたが、面白い人だったので、日本へ帰国後上海で彼と再会しました。こういう知り合いがいる旅は生活感があって面白いです。

 閑話休題。喧嘩もしつつ、WWOOFでタスマニアにいる時にお互いの国へ訪問し合おうという事になりました。
 ちょうど私のワーホリビザが切れる頃に、彼も大学のホリデーに入るということで、ネパール→日本→オーストラリアというプランで航空券を探し始めました。

 しかしここで彼が日本に来るためのビザがかなり複雑な手続きをしなくてはならないということを知り、(この際も田村さんに質問メールを送りました。)ガビーンとなり、時間の都合もあって今回は私がネパールに訪問し、次回の休みに彼が日本に来るということでまとまりました。そういった意味で日本は本当に素晴らしく簡単に海外へ行けますね。

 そしてネパール経由日本行き航空券を購入。
 3ヵ月後、WWOOFから戻り、久々に再会!

 しかしその後突然何の前触れもなく別れを告げられました。
 ということで、ネパールに興味はあったものの、一人では行く気になれず、チケットを変更して日本へダイレクトで帰国しました。

 もうすごい悲しかったです。
 最後は悲しい終わり方ですが、彼がきっかけでネパールという国に興味を持って、帰国後も本を読んでみたり(未練かもしれないけど?)、人としてお互いに向き合う時間を持って、話す時間を沢山持ったり、共に時間を過ごせたことは何よりの収穫だったなぁって思います。

 別れの理由はいまだに分からないままです。なにせとにかく突然連絡を絶たれてしまったので。
 ただ随分前から彼自身が大学の学費のことで悩んでいて、学校を辞めてネパールへ帰ろうかと迷っていたこと、私とネパールへ帰った後、シドニーへ戻るかも分からないと口にしていたので、そういったことも原因だったのかも?

 正直一時は誰にも会えず、一人でしくしくと引きこもっていた程ショックでした(笑)。
 それくらい展開が急過ぎて状況を飲み込めませんでした。
 彼を信頼していて、良い関係を築けているとも思っていたので。もちろんネパールへ一緒に行ってからどう過ごすかの話しも進んでいましたし。

 だけど私の解釈としては、一緒に過ごした時間は間違いなく本物だったことだと尊く思い大切にしようと思ったこと、そして彼との行く末がどうなったにせよ、私は私らしく自立して道を作って行くほかないなと。冷静にそんな風に考えれるようになったのは随分後からですが^^ 本当に会えてよかったです。

--オーストラリア・ワーホリのまとめ


 オーストラリアに来てみて、自分の生れ落ちた国は、一番住みやすい不自由の無い国かもしれないけど、本質的にその国の持ってるスタイルが自分に合ってるとは限らないかもと思うようになりました。

 もっと人として成長していきたいけど、ひとまず殻を破ってオーストラリアに来てよかったなと思います。
 方法が分かって実践出来たから、どこでも怖がらずに身軽に行けるようになりました。

 ノートとか本の余白って、ノートや本のバランスを取るためには必要な絶妙な空白だと思ってます。でもあれって実際には使うこともなく不必要で、でも必要なもので、そういう必要不可欠な部分がオーストラリアでの時間だったかなと思っています。


--その後--デンマーク行

 ところで先日デンマークに2週間行っておりました。北欧独特の教育機関「フォルケホイスコーレ」を知り、手工芸を学ぶ学校に見学に行くためです。

 それだけでは物足りないと、知人にあちらに住む日本人のテキスタイル作家さんを紹介してもらい、泊まらせてもらったり、学校やホステルで友達が出来て情報交換をしたり、出会いの豊富な旅となり、とても充実していました。 生活をする視点で旅が出来てよかったです。

 デンマークは思っていた以上に狭く、2週間でデンマーク内を余裕で1周し、最後のほうはスウェーデンまで足を延ばす事が出来ました。スウェーデンは極寒でしたが。

 毎日のようにバックパックを担いで移動移動の毎日でしたが、終盤にさしかかり落ち着いてきたところでオーストラリア体験報告を書き始めました。書き始めたら収拾が付かなくなって、結局帰国後にお送りする事になりました(笑)

 というのも、オーストラリアでの生活があってのデンマーク旅行だとつくづく思ったから。

 あの経験がなかったらこんなに気軽に興味を持ったからってひょいとは行けなかったと思うのです。充実感も全然違うんじゃないかな。

 でも見ると聞くとは大違い、やっぱり自分の目で見て、デンマークの土地を踏んで良かったです。
 人の感じや雰囲気はまさに行かなきゃ分からないので。




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