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2017年02月


辻麻衣子さんの留学体験記




10年勤めた会社を辞め、ワーホリ年限も超えた2014年11月、APLaCにお世話になり、7ヶ月シドニーに学生ビザで滞在しました。離婚をきっかけに人生を振り返ったのが、海外に出ることを志したきっかけです。

3ヶ月間一般英語のクラス(Intermediate(2ヶ月)+Upper Intermediate(1ヶ月)、1ヶ月ホリデーで東オーストラリア旅行、3ヶ月FCE対策講座を受講。

シドニー滞在中に仕事を探したものの、ワークビザをサポートしてくれるところに巡り会うことができず、職探しの旅に出ました。道中の飛行機の中で今のボスに出会い、今はニュージーランドのダニーデンというところで働いています。

海外で英語を学びたかった、あわよくば働きたかった私にとって、最初の第一歩をサポートしてくださっただけでなく、その後も逐次相談に乗っていただき、いつも鼓舞してくださる田村さんには感謝しきりです。

今はニュージーランドの永住権を狙っていますが、オーストラリアのワーキングホリデー年限が35歳になるかもしれないということで、もう一度オーストラリアで挑戦できる可能性が出てきました。

日本での生活と違い、一年先のことが予想出来ない毎日。日本では超安定志向だった私ですが、おかげさまで飽きることなく、ときに落ち込みつつも変化の多い海外生活を楽しんでいます。
とはいえ、当初の目的だった「英語が話せるようになる、聞けるようになる」は、出国当時よりましにはなったものの、まだまだです。母国語以外は一生勉強しなければならないのでしょう、きっと。

つらつら綴っていたら、かなり長い体験記となってしまいました。どなたかの参考になれば幸いです。





1. 日本脱出までの軌跡 

退職不安 VS 果たされぬ夢・海外

「海外に行ってみようかな」そんな考えが浮かんだのは、2012年7月のことだった。人生どん底だったその時期に思い出したのは、大学生のときに成し遂げられなかった海外留学の夢。何度か独学で英語の勉強を試みたものの、ことごとく失敗に終わっていた。「海外 移住 留学」などのキーワードをgoogleに打ち込んで少し調べてみたものの、ワーホリ年限を超えての留学はかなり厳しそうだったし、何より会社を辞めるリスクを考えると一歩踏み出せなかった。

 選抜者に1年間のTOEIC対策講座受講権利が与えられる、そんな社内メールを受け取ったのは、それから2ヶ月後だった。9年前受けたTOEICは300点台、3年前は500点台。決して高いとは言えない数字。海外留学を思い出したこのタイミングでこのメールを受け取ったのは、なにかの運命かもしれない。もう一回英語を勉強しようと、上司を説得して、半ばむりやり選抜にねじ込んでもらった。

 当時勤めていた会社では、TOEIC730以上が海外赴任の条件。できれば会社を辞めること無く、海外生活を送りたかった。勉強を始めてから上長に海外駐在を希望していること、社内の知り合いに海外案件があったら誘ってくれるよう話をし始めた。

 勉強開始から1年、スコアは755にあがった。ここで一抹の不安がよぎる。
「スコアは上がってるけど、全然話せるようになってない。これ、900取ったとしても話せるようにならないんじゃ、、、」

今から考えれば、話す練習をしていないのだから、当たり前だ。あのまま10年勉強しても、話せるようにはならなかったと思う。今でも微妙だけれど。

 同じ頃、優しかった上司は去り、「海外?今の状態でお前をチームから抜けるわけないだろ。行きたいなら辞めれば?」と、ばっさり私の夢を打ち砕く人物が後釜となり、プライベートでは、1年越しの離婚騒動がようやく終結を迎えた。

 当時担当していた、採用の仕事自体は好きだった。そのまま勤めていれば、そこそこの収入を得て、そこそこの人生を送れただろう。でも、日本企業独特の文化、出世を諦めたおじさんたちののんびりした仕事ぶりを横目に見ながらの忙しすぎる生活、バブル世代がつまってるからという理不尽な理由で、昇進は先送り。あたしの人生、本当にこれでいいのか?チームで一番経験が長いが故、自分が天狗になっていることも自分で分かっていた。今の状態では、数年は人事異動がないことも。同じ様な毎日の繰り返し、そこに新しい発見や成長の喜びは、ほとんどなかった。そもそもこの会社を選んだのは、産休、育休の制度が整っており、子供を産んでからもキャリアを積むことが出来るからだった。離婚した今、この会社にしがみついている必要はあるのか?10年勤めた会社を去る時期、海外に行く時期が来ているのかもしれない、そう思った。

 とはいえ、「超」が付くほどの安定志向だった私。会社を辞めて海外に行く。そんな「普通」じゃないことして本当にいいのか?覚悟はなかなか決まらなかった。

相談してみた

そもそも、この歳で海外留学に行って、再就職出来るのか?
転職アドバイザーに相談してみると、

「あー、離婚して海外行きたいって方、多いんですよね。心機一転、って感じで。辻さんの経歴からすると、日本に戻ってきてから再就職となった場合、今の年収よりかなり下がることは覚悟した方がいいですね。それから、1年海外行った程度で、どれくらい英語でコミュニケーション取れるようになるかは、、、」

大方、予想通りの回答だった。
だが、面談の最後に彼女はこう言った。

「まぁ、でも、結局は、本当にやりたいことやった方がいいと思いますよ。実は、あたしも離婚歴あるんですが、子供がいるので無茶出来なくて。大変だとは思いますけど、転職アドバイザーとしてではなく、個人的にはいいと思います。」

 母にも相談してみた。

「いいんじゃなーい?お母さんも留学したかったけど出来なかったから。だから、あんたに何度もほんとに行かなくていいのって聞いたのに。お母さん、遊びに行くわー。何より、あんなに落ち込んでたまいこがそう思えるようになっただけで、良かったと思う。寂しいけど、行きたいならいってらっしゃい。お父さんにも話しておく。」

占い師にも相談してみた。 

「変化を起こすには、いいタイミングだと思いますね。ご親族ですかね?守護霊も応援しているみたいなので、大丈夫でしょう。頑張って!」

友人たちに相談するも、

「あれだけひどい目に遭えばね、、、。いい機会だと思うよ!寂しいけど、応援する!まいこなら大丈夫だよ!」

拍子抜けするほど、反対する人はいなかった。同時に、人に自分の考えを話すことで、私の中で「海外に飛び出す」という自分の中で普通でなかったことに、違和感を感じなくなっていた。「夢をかなえるためには、口に出していろんな人に話すといい」という話は、本当だと思う。

APLACとのやりとり

 さて、そうとなれば、情報収集だ。海外と一口にいっても、英語圏の国は色々ある。さて、どこにしよう?ここ1年色々大変だった。行くなら、あったかい、海が近いところがいいな。そうして辿り着いたのが、APLaCのページだった。なにからなにまでやってくれる留学エージェントは、なんとなく信用ならない。無駄金も払いたくない。この歳で10年のキャリアを捨てていくんだから、なんとしてでも英語が話せるようになりたい。かといって何も分からないまま1人で飛び込んでも上手く行かないだろうなぁ、、、そんなことを考えていた私に、一括パックで強い自分になることを説いたAPLaCのページは刺さった。1ヶ月ほど考えを寝かせて、ほかの業者も調べてはみたものの、考えは変わらず。そこでようやくHPから問い合わせをする、という第一歩を踏み出したのだった。

 返信はすぐにきた。私が発した少ない情報から、私の意図や状況を汲み取ってくれたアドバイス。型通りの返信ではなく、一通一通きちんと目を通した上で返してくれているのが分かる文章だった。また、「分からないことは何でも質問してもらっていい。HPに書いてある内容でも、質問してくれたらどこに載ってる、って教えますよ」と言っていただいたのは非常に有り難かった。質問は自分で調べた上で、どうしても分からないところだけもっていくのが最適なのはわかっていたが、当時の私にはあまり時間がなかったのだ。こんなこと聞いて、自分でもばかみたい・・・そんな質問にも丁寧に対応していただいた。オーストラリア下見の要否、家財道具の処分について、航空券購入の仕方、オーストラリアにいってからのスケジュール等々。分からないことは聞くのが一番。当時のメールを読み返して、今ようやく意味がわかる、そんな返信もあった。

 HPを見る限り、APLaC利用者の多くワーキングホリデービザを取得しているようだし、その後の就職を考えても、ワーホリがやはり有利のようだ。だが、当時既に32歳だった私には、取得資格がなかった。とはいえ、過ぎてしまったことは仕方ない。今の条件下で何が最適か、考えなければ。私が一番気になっていたのは、スケジュールについてだった。英語の勉強がしたいと思っていたが、果たしてどれくらいの期間が望ましいのか?というか、英語の勉強だけで本当にいいのか?この年齢だし、どうせ海外行くのなら大学院くらい出ておかないとハクがつかないのでは?(勉強したい分野も特になかったけれど…)また、趣味の一つがスキューバダイビングなので、シドニーだけでなくケアンズに住んでグレートバリアリーフで潜ってもみたかった。それに、こんなに長くフリーの時間が取れるなんてもうこの先ないかもしれない。だから、世界一周もしてみたい。

 全ての思いをぶつけてみて、田村さんから返ってきた答えは
・私の要望や英語力から考えると、学校はシドニーにして、6ヶ月通学がオススメ。通学9ヶ月なら、二回ブレイクを入れられ、都合1年滞在可能だが、「英語を頑張りたい、でも本音を言えばここらで一息ついて人生見つめ直したい。もっといえば、今までの価値観が変わるくらいの経験がしたい、もっと視野を広げたい。」という要望からすると、とりあえず6ヶ月でいいかと。まず3ヶ月通学でならし、1ヶ月ブレイク(ホリデー)、次の3ヶ月で仕上げモードで資格取得勉強しつつ就職活動、最後の1ヶ月ボーナス(学生ビザの切れた後に 1ヶ月滞在できる)は、状況を見て動きを決めるのはどうか?
・ケアンズの学校にこだわるよりも、勉強すべきときは勉強に集中し、楽しむときには思いっきり楽しむ方が、それぞれを深く掘り下げられると思う。
・途中の1ヶ月ブレイクで、WWOOFやHELPX体験という選択肢もある
・全部観光ビザにすることも可能。3ヶ月観光でオーストラリア、3ヶ月ニュージーランドに観光ビザで入国して現地の学校に通学、またオーストラリアに帰ってくる。ただし、観光ビザだと働けないので、そこから将来の道を掴むのが難しいし、勉強だけだと世界がひろがらない。
・「旅」というのは旅行とは違って、あまり予定を立てないところに醍醐味があるのでは?世界一周については、なにもかも並列で並べてその全てを一気にダンドリきめてしまうのではなく、いい意味での出たとこ勝負という 、実際に11月になったときに、どういう気持ちになっているかで決めたら?また、これが最後のチャンスというのは、日本的な就職観・人生観。もし国際的に就職できれば、行きたいときにポンといけるような仕事・人生環境になっているかも?

 色々と目からウロコが落ちた。まず「留学っていったら、1年くらいかなー」と漠然と思っていた。9ヶ月で長いとは。また、海外旅行は趣味の一つで、色々なところに行っていた。でも、田村さんがいうような「旅」は正直したことがなかったし、まさに私が求めていたことでもあった。

 やっぱり私の第一目的は、英語力を高めること。世界一周したいかどうかは、オーストラリアで経験を積んだ後に考えよう。通学期間は6ヶ月。学校は見てから決めたいので、まずは観光ビザで入国し、就労可能な学生ビザを取る。
ようやく自分で納得できるスケジュールが決まった。初めて田村さんに連絡をしてから4ヶ月後のことだった。出発は11月だ。

(注)このときの田村さんのアドバイスは、あくまで私の経歴や要望、英語力に基づいたものであり、当然ですが、得られるアドバイスは人によって異なります。このアドバイスをしていただく前、具体的な学校の話しというよりは、私の人生観や私がしてきた旅に関するやりとりをさせていただいてました。本当は「人生ブレイクを取る&人生再構成」といったことをやりたいにも関わらず、世間体もあって「とりあえず勉強しにいくっていっとけば聞こえがいい」「帰ってきたときに資格があった方が、、、」ということが先に立ってしまって、ブレイクしたいのに、ブレイクしにくい方法論しか私の頭にはありませんでした。そこで、田村さんから「英語もやるけど、ブレイクもしよう。それにはとりあえず半年もあればいいんじゃない?」というパターンをご提案いただいたわけです。

 会社に退職の意思を伝えたのは、その年の4月だった。ボーナスをもらってからすぐやめようと7月末退職を目論んでいたものの、引き継ぎという名目で結局9月末まで働くことになったのだ。有給休暇は消化させてもらえなかった。典型的な日本企業、、、。とはいえ、いい仲間に巡り会えたし、学んだこともたくさんある。そこは感謝したい。
退職から出国まで、1ヶ月。一人暮らししていた家を引き払う準備をしつつ、海外逃亡のための煩雑な手続きを行った。海を渡って生活するためには、意外にお金と時間が掛かる。ちなみに、海外保険には加入しなかった。学生ビザの場合、OSHC(Oversea Student Heath Cover = 留学生用健康保険)への加入が必須だからだ。

渡豪準備実務覚書(神奈川県の場合)

<以下、神奈川の例。自治体によって対応はまちまちかと。参考程度に見てください>

会社を辞めてから一週間後、会社から健康保険資格喪失証明書が送られてきたので、区役所へ。私の場合、9月末で退職、10月は日本で無職、11月3日に日本脱出というスケジュール。
9月までにかかる税金やら保険やら年金やらは会社から天引きされていたが、10月以降にかかるお金は自分で支払う必要がある。

まずは、健康保険。
健康保険資格喪失証明書を提出して、国民健康保険に切り替える。簡単な書類に記入すると、その場で仮の保険証を発行してもらえる。本物は簡易書留にて郵送。気になる保険料、10月の1ヶ月分で45,000円。高くても国民の義務なので、加入必須。厳しい。通常納付書送付までに2ヶ月ほどかかるそうだが、事情を話したら早めに送ってくれるとのこと。向こうも取りっぱぐれたら大変ですしね。

続いて年金。
同じく健康保険資格喪失証明書を提出して、簡単な書類記入で手続き終了。
国民年金、10月の1ヶ月分で15,250円。会社で入っていた厚生年金は解約したので、数ヶ月後には幾ばくかのお金が振り込まれた。

続いて住民税。
10月から来年5月までの納付が必要とのこと。その額20万円越。無職なのに、、、。納付書は11月中旬〜12月にしか送付できないとのことなので、実家にお金を預けて支払ってもらうことに。

そのまた1週間後、一人暮らしの家を引き払って実家に移り住んだので、転入手続きのため、再び区役所へ。
窓口に相談したところ、海外転出届も同時に出せるとのこと。(住民票を抜かずに出国する人は不要)
そして、先日手続きしたばかりだけど、戸籍課で年金&国保の脱退のための書類を発行してもらい、それぞれ手続きに。

年金は将来もらえるかどうかも定かじゃないので、任意加入なしにした。
もしもの時に障害年金おりなくなりますよ!と脅されたが、その時はその時。

続いて国保。実は早々に納付書が送られてきていたのだが、まだ払っていなかった。正直に話すと、区役所のお兄さんが素晴らしいアドバイスをくれた。

区「出国は11/3になってますが、市からの転出もこの日ですか?」
私「どういう意味でしょう??」
区「10/30以降に市にいなければ、転出日を10/30にすることもできます」
私 「10/30から旅行にいくのでいないっちゃいないですが、それって何かいいことあるんですか?」
区「保険料は、月末最終日時点で住民登録されている人に対してかかります」
私「つまり、転出日を10/30にすれば10月分の保険料かからないってことですか?」
区「その通りです。無料で医療費3割負担になりますね」

10月中何度も国保のお世話になったにも関わらず、45,000円浮いた。ありがとう、お兄さん。

区役所の後は、ハローワークへ。ダメ元で、失業手当受給期間の延長申請にいったものの、結果は不可。病気や怪我などのやむを得ない事情でない限り、延長は認められないとのこと。自分の意思で海外に行く、学校に行くなどの場合は、適用外。10年半かけた雇用保険料が無駄になったけど、お金をもらうために3ヶ月じっと待っている気にはなれなかった。仕方ない。

そして、確定申告。9月末、思いがけず元会社から源泉徴収票が早めに届いたので、税務署へ向かう。所得税の確定申告は通常2月頃にやるものと期間が決まっているが、海外転居などの事情がある場合は、早めにやってくれるのだ。会社員のときは毎月の給与から少し多めに税金を引いて、12月の給与で払いすぎた税金を返してくれる年末調整という制度があるので、確定申告せずに済んでいる人が大半だが、9月で退職してしまった私の面倒は誰も見てくれない。よって、自分で行う。必要なものは、身分証と源泉徴収票、還付金振込口座情報のみ。海外に行く旨の事情を説明したら、後は職員の方がささっと手続きしてくれた。結構バカにならない額が返ってきたので、面倒くさがらず手続きすることをお勧めする。

オートマ限定の免許しか持っていなかった私は、オーストラリアにはまだまだマニュアルの車が多いという話を聞いて、退職してからすぐ自動車学校に通っていた。10月末にようやく試験に通り、オートマ限定解除、住所変更、国際免許発行のため、免許センターへ。国際免許発行は、日本の免許証、写真、パスポート、発行手数料(神奈川では2400円)さえあれば出来る。ちなみに日本を出てから2年たった今、マニュアル車に乗ったのは一度だけ、、、。

さぁ、To doリストには全て線が引かれた。日本を離れる前に会っておきたい人には、全員会った。お墓参りも済ませた。ついに出発だ。いつも通り、旅立ちの前夜はパッキングのために眠れなかった。空港に向かう道中で、携帯を解約する。さよなら、日本。

2.一括パック


睡眠不足と成田エクスプレスで飲んだビールのおかげで、気付いたらオーストラリアだった。成田からケアンズ乗り換えで、シドニーへ。大きなトラブルもなく、田村さん&同期のOくんと落ち合う。よかった、田村さん、ほんとに存在してた。空港から外に出ると、風が冷たい。実は、オーストラリアは年中常夏なんだと思っていたし、シドニーの正確な位置もこの時点では知らなかった。田村さんからの直前案内アドバイスメール「シドニーは、いま寒いです!」に従って急遽購入したユニクロのダウンジャケット、買って本当に良かった。

田村さん邸に到着し、簡単なレクチャー、部屋決め、フリータイム。Oくんと近所の商店街まで買い出しに出る。歩きながら話をしていると、なんと彼、干支が一緒だった。12歳差。平成生まれに驚く時代は過ぎたのか、と妙に感慨深かった。

商店街のスーパーでは、量り売りのハムを買うのでさえ一苦労。でも、やっぱり外国のスーパーは楽しい。扱っている商品の内容も、大きさも、日本とは全然違う。ちゃっかり夕飯用のワインも買って、帰路につく。オーストラリアで春の訪れを告げる紫色の美しい花、ジャカランダが満開だった。


シェア探しRPG

翌日から、フルスロットルで動く。学校選びにシェア探し。リアルRPGをやっている気分だった。一つずつ出来ることが増えていき、身の回りのものが揃っていく。「マイコは、といあわせのじゅもんをおぼえた!」「マイコは、ちずをてにいれた!」みたいな。何か困難を乗り越えるたびに、「あ、あたし、今経験値1あがった」と思ったものだった。

 とはいえ、シェア探しは苦難の連続。田村さんからがっつりレクチャーしてもらったものの、言ってることが聞き取れないなんてしょっちゅう、会話が噛み合なくて「後でテキストする」と言われる数のなんと多かったことか。バスは何度も間違えたし、遅刻は当たり前、というか、結局最後まで約束通りの時間に現地到着することは一度もできなかった。おかげで、時間変更のお願いするときのテキストを打つのはとても早くなった。オーストラリアはおおらかな人が多く、そんな私のことも優しく受け止めてくれる人が大半だった。「ごめんなさい、迷ってしまって…」「え!どこにいるの?車で迎えに行ってあげるよ!」なんていってくださる方、「んー、、、ごめんなさい、せっかく見せていただいたんですが、今回は見送ります」「あ、そう?ところで俺、インドカレー屋経営してるんだよね。店見においでよ」というのでついて行ったら、彼おすすめのカレー4種とライスを盛ったプレートをタダで出してくれる人に巡りあったり、、、。

それでも、なんとなくピンくる物件には巡りあわなかった。こんなもんなのかなーと思いつつ、明日から学校も始まるし、なんとなく「部屋から海がみえるところがいいな」と思っていたので、マルーブラのビーチから徒歩10分の中国人女性とのシェア先に決めようかな、そんな風に思っていた矢先、O君のシェア決定の瞬間に立ち会った。

彼は、それまで全く心揺さぶられる物件に出会っていなかった。自分のことを棚に上げて、「無事に見つかるといいなー」と思いながら、彼がアポを取っていた一部屋に同行させてもらうと、非常に感じのいい中国系のお兄さんが出迎えてくれた。部屋には日本を彷彿とさせるグッズがたくさん置いてあり、日本に興味があることは明らかだった。私たちのつたない英語にもイライラすることなく会話をリードしてくれ、会話も盛り上がり、部屋の雰囲気が一気に明るくなった様な気がした。「おれ、ここにします!」その場で翌日の引越が決まった。あ、これだ、こういう瞬間を迎えるまで、諦めちゃダメだ!そう思った。帰りは近くのバス停まで送ってくれた。少し遠回りして、素敵な景色も見せてくれた。まだシェアが見つかっていないことを伝えると「きっと、いいところが見つかるよー!」と励ましてくれた。その夜、キープしていた部屋のオーナー達には、断りのテキストを入れた。

翌日からは、学校と平行してシェア探し。休み時間の間にアポ取りの連絡をし、授業が終わった後にインスペクション。不思議と前週より当たり物件が多い気がした。

パラマッタのメイン道路から少し入ったところにあった物件は、バスの乗り換えを間違え、1時間遅れで到着した。それにもかかわらず、オーナーは気を悪くするどころか、私のことを非常に心配してくれ、車で迎えにこようとしてくれていた。フラットメイトは全員アジアン女性、学生から私くらいの年代まで揃っていて、フラット自体もきれい&きれいに使われている印象だった。私にあてがわれる予定の部屋は、週190ドルでオウンルーム。ただし、3ヶ月の利用であれば、大学生の子が休みに入るので、家具全部込み150ドルで貸してくれるとのことだった。「あー、もうほぼここで決まり!」と思っていたものの、近くで次のアポがあった。こちらももう既に1時間半遅刻しているし、断ろうかと思っていたが、先方から待っているからおいでとテキストをもらっていたのだった。

「ほぼ決まりかけているけど、この後もう一軒見に行かなければならないので、また連絡します。ボンド置いていってもいいくらいなんですけど…」
「明日また連絡くれれば、ボンドは置いていかなくていいよ。っていうか、もう遅いけど、どこいくの?次のアポ先まで送ってってあげるよ。」

優しすぎる。もう、ここにしよう。

「ほんとにありがとうございます!ところで、オーナーさんは、あの家に住んでいるんですか?」
「いや、家は別にあるから、あそこに行くのは2週に1回くらいかなー」

そ、そうか。あそこに住んだとしても、このオーナーさんと話したりは出来ないのか。なんて考えていたら、あっという間に次のアポ先に到着した。

「ここ、交通の便悪いから、大きな通りまで送ってってあげるよ。ここで待ってるから、いっておいで」

固辞したものの、「いいから早くいっておいで!」と促され、「さっさと終わらせよう」と次のアポ先、Lily fieldに向かう。入り口は建物の裏側にあり、わかりにくい。ツタが這いつくばっている狭い路地を抜けるとぽっかり空き地が広がっており、縦にも横にも大きい男性が私を待っていた。

「君がMaiko?初めまして。Tomです。うち、3階だから。」

階段は狭く、途中にDVDと本が山積みになった棚があり、至る所に蜘蛛の巣が張っていた。上りきって部屋に案内される。広いけれど、窓はなく、家具もない。

「週200ドルで、インターネットやら電気代は別。ここがトイレとバス、で、こっちがキッチン」

あ、いい感じ。そう思った。オープンキッチンの奥には、ローテーブルとソファ、大きなテレビに、雑然と並んだDVDや本、広い窓からは緑が覗く。決してきれいではないけど、生活感があって、リラックス出来そう。


風がいい具合に抜けて、気持ちいい。なんでこんなに風が抜けるんだ?と思ったら、頭上から話し声がおりてきた。屋上がある!2人はぎゃいぎゃい言いながらおりてきて、しばらく話をしていたけれど、そのうち1人は家から出て行った。どうやらインスペクションに来ていた人のようだった。残った1人は、縦は大きいけど、Tomとは真逆の引き締まった体つきをした、いかにもオージー!という印象の若い男性だ。

「ごめんねー、騒々しくて。Gavinです。なんか質問とかあるかな?」

「屋上見てみてもいいですか?」

「もちろん。基本的には、俺のトレーニングルームみたいになってるんだけど、天気がいい日にここから屋根に上がってコーヒーとか飲むと気持ちいいよー。飛行機通るからうるさいけど、海も見えるし。」

屋上から、夕日が沈んでいくのが見えた。あ、ここ、いいかも。

「ここには、何人住んでいるんですか?」

「2人だけ。おれら2人は5年くらい一緒に住んでて、もう1人が入れ替わり立ち代わり入ってくる感じ」

「なにか住むにあたって、ルールはありますか?掃除当番とか、シャワーは5分以内とか」

「ないない!なんにもない。ボンドもミニマムステイも。彼氏を泊めるのはちょっと遠慮してほしいけど、、、なぁ、Gav?あはは」
(Gavは毎週のように彼女を家に泊めてた)


「この物件に非常に興味があります。ボンドを置いていったら、取っておいていただくことはできますか?実は明日もアポがあって」

「いや、実はたくさん問い合わせがきてて、、、。だったよな、トム?うん、ちょっと約束出来ないなー。ごめん。」

「でも、まあ、一日くらいならいいんじゃない?」

「だって、明日もたくさんインスペクションあるんだろ?」
「でも、、、」「だって、、、」「だって、、、」「でも、、、」「だって、、、」

あ、だめだ。ここを、他の人に取られたくない。この家に、この人たちといっしょに住みたい。

「やっぱり、ここに住みたいです。明日以降のインスペクションは、全て断ります。ここに引っ越してきてもいいですか?」

「ええー!そんな、すぐ決めちゃっていいの??ってか、我々にも明日のインスペクションの約束が、、、」

「住むって言ってくれてるし、いいんじゃないの?明日以降のインスペクション断れば?俺はいいと思うけどー」

「え、そう?そうかな、あ、うん、じゃ、明日からよろしく!」

「よろしくお願いします!!今日は人を待たせているので、とりあえず失礼します。また連絡します。えっと、引越はできるだけ早くがいいんですけど、いつがいいですか?」

「もう、今日からここは君の家だよ。いつでもどうぞ。これ、キーね。」

外で待ってくれていた親切なオーナーには、心からお詫びした。「いいところが見つかってよかったね」と言ってくれた。こうして、長いようで短かったシェア探しは24件目で幕を閉じた。前日まで顔も知らなかった人と、これから一緒に暮らす。なんだか、不思議な感覚だった。

3.学校スタート

学校はというとまじめに勉強している人が多そうな雰囲気、そして日本人のチューターがいた方が何かと心強かろうと、SCEを選んだ。
「最初は、自分の出来なさ加減にがっかりするだろうなー」とは思っていたものの、ほんっとうに、まるっきりついていけなかった。先生が言っていることがわからないから、とんちんかんなことをしたり、クラスメイトが言っていることがわからない&自分も話せないから全くディスカッションにならなかったり、同じクラスのブラジル人とロシア人が美しすぎて、みとれて話せなくなったり、、、。なんとなく分かるのは、日本人のクラスメイトが話す英語だけという体たらくだった。

当時あまりに先生が話していることや板書している内容が分からなくて、よくホワイトボードの写真を撮った。初日の午後の授業はwritingで、題は「Introduce your home town」。久しぶりに読み返してみたら、先生が書いた例が「Dunedin ( ニュージーランドの南島にある、私が今住んでいるところ。もちろん、当時は名前すら知らなかった)」びっくりした。


入学から4日後、引越しした翌日は、学校の遠足だった。日本人だけで固まらないよう、なんとかクラスメイトたちに話しかけてみるものの、会話が続かず撃沈。終わったら一杯飲みにでも行くのかなー、そこで少し仲良くなれるかなーなんて思っていたら、みんなあっさり解散して、ちょっと呆然とした。どうしよう、全然楽しくなかった…。オーストラリアって、もっとこう、みんなでビール飲みながらビーチで生活エンジョイしてるもんじゃないのっ?!同期のO君は同じクラスの仲間とわいわいやっているようで、眩しかった。

家に帰ると、リビングにTomがいた。彼はポストマンで、朝3時に出勤し、昼頃帰ってくるのだ。

「無事、待ち合わせ場所いけたー?」

そう、引っ越してきた昨夜、フラットメイトたち&Gavの彼女が、目的地に行けないと困るだろうと、バス検索アプリを携帯にインストールしてくれたり、行きと帰りのバス停の場所を、懇切丁寧30分かけて教えてくれたのだ。

なんて答えていいか分からず、言葉に詰まっていたら、なにか察してくれたのか、「もうちょっとでGavも帰ってくるよ」といって、テレビゲームに戻った。

しばらくするとバイクの音がして、Gavが帰ってきた。

「Tomと海まで行くけど、一緒に行く?」

ふたつ返事でついていった。2人はスケボー、私は自転車を借りて。自転車だと3分走ればもう海だ。天気のいい日で、風が気持ちよかった。湾をぐるっと一周する道中で、クラスメイトとコミュニケーションが取れないこと、思ったことが英語で伝えられなくてツライことを話したら、「二人と毎日話す練習していたら絶対上手くなるよー Keep trying!」と励ましてくれた。家に帰ると、Tomがご飯を作ってくれて、2人が私のテキストを見ながら、勉強に付き合ってくれた。結局一度も引越することなく、ここには7ヶ月住んだ。3人でピザを食べながら映画を見たり、車で食料品の買い出しにいったり。ささいなことが楽しかった。オージーたちと暮らすという恵まれた環境だったにもかかわらず、自分の出来なさ具合に落ち込んで、英語を話すのが嫌で部屋に引きこもりになったり、寄り道して帰らなかったりしたので、思ったよりスピーキングもリスニングも伸びなかったけれど、ここで暮らすことが出来て本当に良かった。

4.アルバイト

アルバイトは、田村さんにレジュメを作ってもらったおかげで、Balmainにあるジャパレス、Teriyaki boyに決まった。ただのアルバイトなのに、決まった翌日は、フラットメイトの2人がシドニータワーでお祝いしてくれた。豪華なビュッフェで、初めてワニ肉とカンガルー肉を食べた。


「あっちがLily fieldかー」なんていいながらディナーをごちそうになったものの、ここのバイトは2週間で辞めてしまった。ウェイターを希望していたのに、しばらくキッチンハンドから抜け出させなさそうなこと、またバックが全員日本人で日本語オンリー環境であること、またバイト終了後は公共交通機関がなく、一時間ほど歩いて帰らなければならないことが理由だった。勉強するのが目的なのに、バイト期間中は宿題もままならなかった。

なにより、せっかく見つけた素敵なシェアハウスに戻る頃には、シェアメイトは寝ていてコミュニケーションが全く取れない、という状況が非常にもったいなく思えたのだ。お店自体はとてもいいところで、辞めた後もフラットメイトたちとごはんを食べにいったりした。その後、ローカルの仕事探しもして70件ほどレジュメを配って歩いたが、連戦連敗。(今考えると足りなかったと思う)バイト探しを有利に進めるため、RSAというお酒を扱うお店で働くための資格を取ったりしたものの、結局職が見つかることはなかった。

5.観光ビザから学生ビザへの切り替え

私は観光ビザで入国していたので、並行して学生ビザ切り替えの手続きも行った。まずはネットで申請。(パスポートと学校から発行される書類が手元にあれば、それほど難しくなかった)続いて健康診断を受けるよう指示がきたので、ネットで予約取ろうとしたら、まさかのシステムエラー。つたない英語を使って、なんとか電話でアポを取る。診断当日の問診(結核にかかったことがあるか?など)は、私の英語があまりにひどかったため、通訳がついた。

検診から3週間ほど、ようやく学生ビザが発給されたと思ったら、有効期限が学校終了日になっている。つまり、卒業の日に、すぐオーストラリアから出なければいけないということだ。通常であれば、卒業後1ヶ月ほどのホリデーがつくはずだ。電話は自信がないので移民局へ直接問い合わせに行くと、学校から発行された書類に記載されているOSHC(Oversea Student Heath Cover = 留学生用健康保険)の有効期限が、学校終了日と同じ日付になっていた。この保険がなければオーストラリアに滞在できない、ということでこの保険の有効期限に引っ張られて、ビザの有効期限が短くなっているらしい。ちなみに、これは学校側のミスで、実際の保険の有効期限は、学校終了日から1ヶ月以上先だった。なんとかならないかと移民局に掛け合ってみたものの、一度降りたビザの内容は変えられないとのこと。とはいえ、卒業後に旅行に出る予定だったし、卒業日に出国は、スケジュール的にありえない。学校と交渉し、学生ビザが切れる直前に観光ビザに切り替え(費用は学校持ち)を行い、滞在期間を延長することになった。

オーストラリアから始まり、今いるニュージーランドでも、ビザは常に頭痛の種だ。結論から言えば、上述の観光ビザ切り替えは、失敗に終わった。理由は、学校の卒業証明を準備出来なかったからだ。

少し複雑だが、私の場合、学校のコースを途中で変更したため、もともとの学校終了日に卒業することができなかった。よって、観光ビザ申請の際、「学校に少し通った後、オーストラリアを旅行したいので滞在を許可してほしい」旨記載したのだが、これに対し移民局は、「学校に通うというから学生ビザを発給したのに、まだ卒業出来てないでしょ。そんな人に観光ビザは出せないよ。」と言って、私の申請を却下したのだ。私の英語力では歯が立たないと思い、オーストラリア人の友人に移民局に抗議の電話をかけてもらったところ、「一度却下されてしまったので、この結果を覆すのは難しい」「申し立てをすることはできるが、時間とお金が掛かる」「たとえ学生ビザの有効期限を過ぎていたとしても、一度学校卒業してから観光ビザを申請するのが、ベストな選択だった。観光ビザ申請前に移民局に相談に来てくれたらどうにかなったかも。」「観光ビザ申請費用(学校もちとは言え、$1,000くらい掛かった)は返金の申請をすれば戻ってくるかもしれない」との回答だった。返金申請はしてみたものの、もちろん一銭も返ってこなかった。

田村さんの家を出てからしばらくして、私のキャリアで永住権を取れる可能性があるかどうか、業者に調べてもらったことがある。ワークビザのスポンサーになってくれる企業を見つけるのが一番現実的な線だったが、英語もままならない日本人を雇ってくれるところなんて、全然なかった。知識としては知っていたものの、日本以外の国で暮らすビザを手に入れるのは、本当に大変だ。日本で就職活動したときも大変だと思ったが、日本にいれば、少なくともビザの心配はしなくてすむ。

6.一般英語クラス

「現地に行って学校に通えば、自然としゃべれるようになるかも」日本にいた頃はそんな風に思っていた。だがしかし、当然ながら、学校は通うだけで話せるようになる魔法をかけてくれるわけではない。そんな方法があったら、日本で大流行りだ。通っていた当時は授業についていくだけで精一杯で、たくさん落ち込んで、自分が成長しているなんてほとんど感じることは出来なかった。けれど、今振り返ってみると、今の海外生活の基礎を作ってくれたのは、やっぱり学校で習ったことだと思う。そして何より、学校に通っていなければ、もっとだらだら生活していたと思う。現地で普通に生活していても、意外と英語を話す機会は少ないものだ。英語環境に身を置けたこと、様々な国のなまりのある英語を聞けたこと、クラスメイトのレベルが似たり寄ったりなので、間違っていたとしても気兼ねなく英語を使えたこと、間違った英語を使ったら指摘してくれる先生がいてくれたこと、友達が出来たこと、得たものはたくさんある。

SCEの一般英語クラスは、エレメンタリー、プレインターミディエット、インターミディエット、アッパーインターミディエット、アドバンスとレベルが分かれており、私はインターミディエット(中級)からスタート。コースは、授業時間が一番多いスーパーインテンシブ(週28時間。午前中一般英語、午後は週毎に選択出来るスピーキングやライティングなどのスキルに特化した授業を受ける事ができる)を選んだ。

クラスの決定は、学校初日のテスト(リーディング、リスニング、ライティング、スピーキング)で決まる。レベル毎にテキストが異なり、ひとつのテキストは3ヶ月で終了するスケジュールだ。とはいえ学校は毎週月曜日から入学出来るので、クラスメイトの在学歴はばらばらだし、入学したときにテキストのレッスン1から参加出来るとは限らない。また、月に一回レベル分けのテストがあり、そのテストで高得点を取ると、レベルの高いクラスに入ることも出来る。私は2ヶ月インターミディエット、最期の1ヶ月はアッパーインターミディエットのクラスに参加した。また、一般英語クラス全体でひと月に1回卒業式があり、その場で先生が選ぶクラス優秀者の発表と、クラス優秀者の中から無料アクティビティがあたるというイベントなどがあったりした。

現地の語学学校と言ってもなにか特別な事を教えてくれる訳ではなく、文法的には中学校、高校時代にやったことの復習だ。初めて参加した授業では、未来形を勉強した。Will, be going to…両方知っている。だが、実際にそれを使って話す、書く、聴くことをやろうとすると勝手が全く違う。語学学校が日本の学校と何が一番違うかというと、授業中にこの4スキルをまんべんなく練習することが出来ることではないかと思う。当たり前だけれど、先生の話す事は全て英語、授業中の生徒同士のコミュニケーションも英語。授業は先生が手を替え品を替え、ゲームなどを取り入れながら出来るだけ楽しめるようにカリキュラムを組んでくれていた。

思い出せるだけ書いてみると、
・生徒同士が週末にやったことを話し、誰それはいつ何をしたかについて説明する。
・壁に複数の段落がばらばらに張ってあり、チームを組んで正しい順序に並べ替える順番を競う。
・自分の好きなアーティストやアクターの特徴を説明し、誰について話しているかあてる。
・1人がホワイトボードに背中を向けて座り、先生が前週に勉強した単語やフレーズを書き、他のクラスメイトがヒントをいい、何がホワイトボードに書いてあるかあてる(チーム対抗戦)
・ドラマや映画の一部を見たり、曲を聴いて、ブランクを埋めるリスニング問題。
・「子供にクレジットカードを持たせるべきか、持たせないベキか」など議題が与えられて、ディスカッションをする。
・リスニング問題をとき、なぜ自分がこの答えを選んだのか、パートナーに説明する。
・「自分の家族について」などお題が与えられて、それについてライティングをする。
・「動物の名前を10個言う」「初めて海外に行ったときの経験について1分話す」など各コマにお題が書いてあるすごろくをチームで行う。
・前週に習った単語の説明文が複数教室の外に張ってあり、代表者がその紙を取りにいき、教室に戻ってチームメイトに渡し、どの単語の説明か当てる。一番始めに全問正解したチームの勝ち。 などなど。

今はリスニング、リーディングなど厳格に分かれている訳ではなく、授業中に4スキルをまんべんなく使えるようになっている。日本の授業のように先生のいうことをただ聞いているだけ、ということはない。1クラス10人程度と少人数なので、先生がこまめにまわってきて文法が間違っていると指摘してくれたり、いつも同じ人とペアにならないように先生が調整してくれる。話していると必ず言いたい事が言えない瞬間が出てくるので、いかにそれを忘れず、あとで自分でその英文を作ってみることが重要だと思う。学校では色々なトピックについて話したり聞いたりする機会を作ってくれるので、自分が何について話せないか気付くことができた。

放課後には自由参加のクラスもあり、よく参加していた。スピーキング、発音矯正、映画を見る、TOEICやIELTSの対策など。自由参加のためレベルもバラバラの生徒が集まり、普段話せない人とお話し出来るのは楽しかった。IELTSの対策は「しばらくいらないかな」と思い、1回も参加しなかったが、今考えれば出ておけば良かったと思う。

といったように学校で色々とカリキュラムを組んでやってくれていたものの、初めの1ヶ月はあまりに英語が分からないのでどこから手をつけていいか分からなかった。先生の言っていることも、クラスメイトが言っていることもわからない。話そうにも、英語が口から出てこない。入学当時の授業中の録音を聞いてみたら、私の声はほとんど笑い声(分からなくての愛想笑い)しか入っていなかった。とはいえ、自分で文を作れなければ話すことも出来なかろうと、日記を書いて先生に添削してもらうことからスタートした。田村さんのエッセイ(259/今週の宿題 ?自己紹介英文を書こう)にも書いてあるが、現地について何について一番話すかというと、自分のことだ。自分が何をやってきたか、趣味は何か、住んでいたところ、家族について、、、。そこから何を付け足していくかと言えば、自分がその日やったことを説明したり、何かのトピックについて(例えば日本についてや、戦争について)自分の考えを表現していくことだ。日記を書いて先生に添削してもらうことは、地味だが、役に立ったと思う。
その他、授業の内容を録音して学校の行き帰りに聞いてみたり、学校のテキストについていたDVDの練習問題をやってみたり、復習ノートを作ってみたり。何回かランゲージエクスチェンジ(無料でお互いの母国語を教え合うシステム。私が日本語を教える代わりに、オーストラリア人に英語を教えてもらう)のイベントにも参加してみたものの、どうも合コンぽい雰囲気になじめず、行かなくなってしまった。そうこうして、なんとか授業にもついていけるようになった頃クラスはアッパーに上がり、またちんぷんかんぷんになったけれど、結果的にはクラスを上げてもらえてよかったと思う。アッパークラスには日本人が少なかったし、学校の外で遊ぶ友達が増えた。自分が少し英語でのコミュニケーションに慣れてきたことで、意思の疎通がしやすくなったのだと思う。ジェネラル最後の1ヶ月が一番遊んで、一番飲んで、一番学生らしかった。

サッカーアジアカップ。日本戦の応援にも行きました。

paint ball(サバイバルゲームのようなもの)銃で撃たれまくって青あざだらけに。


6ヶ月の留学期間中、後半の3ヶ月はIELTS対策クラスを申し込んでいたが、ケンブリッジ英検(FCE)対策クラスに変更した。オーストラリアで職は見つかりそうにないからしばらくIELTSスコアが活躍する場もなさそうだし、そもそも私の目的は、英語でコミュニケーション取れるようになること。FCEの試験内容の方が普段の生活で使う英語を勉強出来そう&3ヶ月クラス替えがないので一緒に頑張る友達も出来やすいだろうと思ったことが決め手になった。

ケンブリッジ対策講座は他のクラスと違い、始まる日が決まっている。元々1月にジェネラル終了、2月ホリデー、3月〜5月IELTSの予定だったが、通常時間帯のFCE対策講座が始まるのが3月中旬だったため、3月初旬から中旬にかけてイブニングクラスのFCE対策講座に参加し、3月中旬から6月初旬まで通常時間帯のクラスに参加することになった。

ホリデー!(タスマニア、ブリスベン、ヌーサ、ダーウィン、キャサリン、アリススプリングス、エアーズロック、メルボルン)

(1)タスマニア

3ヶ月ジェネラルに通学した後のホリデーは、2月を丸々あてることになった。WWOOFかHelpexを探していたものの、見つけるのにかなり苦戦した。30件以上メールやら電話やらして、ようやくブリスベン近くのHelpxをゲット。とはいえ、決まったのが1月のかなり下旬で、ほぼ諦めかけていた私は、既にタスマニア行きの航空券を買っていた。世界一周の予行演習を兼ねたバックパック旅行にシフトチェンジしようとしていたからだ。行き先を決めず、行きの航空券だけ持って、気ままに動く旅をするつもりだった。ここで決まったのも何かの縁ということで、タスマニア旅行の後に、ブリスベンに行くことに。

出発は朝3時。出発前日は、ようやく始めたタスマニアについての情報収集とパッキングのために眠れなかった。運良く空いていた魔女の宅急便のモデルになったパン屋さん(宿泊も出来る)と初日のバッパーだけ予約を取った。TomとGavに現時点で決まっている予定と、いつ戻るか決めていないこと、学校が始まる日までに戻ってこなかったら両親に連絡してほしい旨置き手紙を残して、家を出る。数時間後、降り立ったのは、タスマニアの南側にあるホバート。ここから北上してロンセストンからブリスベンへ向かうことにする。

無事バッパーを見つけ、情報収集のため、ツアーのパンフレットをかき集める。主にワイナリーと海の野生動物鑑賞関係。ダイビングにも興味があったもののウエットスーツ7mm(沖縄では通常3mm)との事前情報を得ていたので、寒さに耐えられないと思い断念。

シティ行きのバスは、空港出口のすぐそばに止まっていた。運転手さんに聞いてみると、予約なしでも乗れる&宿の前で降ろしてくれるとのこと。
泊まった宿は、「The Pickled Frog」。中の壁もなんとなくアーティスティックだし、掃除も行き届いてて、いい感じだ。一晩30ドル程度。特筆すべきは、この値段で宿主催の無料ツアーを開催していることだ。出発前にツアー予約してこなくてよかった。ツアーは2種類。
ボノロング野生動物公園(Bonorong Wildlife Sanctuary)とMONA(美術館、ワイナリー、ブルワリーがセットになったような施設)を回るもの
ウェリントンマウンテン(Mt.Wellington)の頂上まで連れて行ってくれて、自力で歩いておりてバス捕まえて帰ってくるか・頂上の景色だけ楽しんでそのまま帰ってくるか選べるもの

もちろん両方予約した。その後、街に出てインフォメーションセンターへ。次の目的地ロス(Ross)と、その先ロンセストン(Launceston)行きのバスを予約。世界遺産/クレイドルマウンテン(Mt.Cradle)でのハイキングツアーを予約しようと思ったものの、ペンギンツアーとクレイドルマウンテンで出来るキャニオニング(体ひとつで渓谷を下るスポーツ。 天然のウォータースライダー、滝壺へのダイブなど、自然との一体感を味わうことができる)にも心惹かれ、決めきれないままインフォメーションセンターを後にした。この後の旅でも、インフォメーションセンターは何かと私を助けてくれた。バスでも電車でもツアーでも宿泊施設でもなんでも調べてくれるし、予約もしてくれる。現地の方が情報豊富だし、安いツアーも見つかりやすいと思う。

翌日は、宿主催のボノロング野生動物公園(Bonorong Wildlife Sanctuary)とMONAのツアーに参加。動物園は入場料(20ドルくらい)を事前にバックパッカーズに支払い、MONAに関しては、併設の美術館であればバックパッカーズ経由で支払いが出来たものの、「美術館よりワイナリー!」ということでワインツアー(15ドル)をネットから自分で事前予約した。

ボノロングは、アボリジニの言葉で「自然の仲間」。親を亡くしたり、けがをした野生の動物を引き取って治療し、自然に返す運動を続けている。タスマニアでは野生動物が車に引かれる事故が後を絶たないらしく、スピードを落として運転してほしいこと、夜は特に気をつけてほしいことを繰り返し話していた。

ここでは、ウォンバットやタスマニアンデビル、コアラにカンガルーと、一通り満喫した。飼育員さん曰く、タスマニアンデビルは、そんなに怖くないし、すばしこくもない、そして、タスマニアには野生のコアラはいないらしい。カンガルーは、餌やりまでできて、ものすごくフレンドリー。奈良の鹿を彷彿とさせた。

MONAに到着すると、他のツアー客は美術館に吸い込まれていった。が、私は15:30からワインツアーを予約していたので、サラダとスパークリングワイン、追加のビールでランチ。ほろ酔いになったところで、ワインツアーへ。参加者は、メルボルンから来たという親子と私の3人。ぶどう園や工場を周りながら、その場所にちなんだワインをいただく。説明は全然わからなかったけれど、ワインは美味しかった。これだけ試飲ができて15ドルはお得かと。周り終わった後は、ワインバーで試飲の続き。欲しいものがあったらこのタイミングで購入できるが、日本への送料だけで100ドル以上かかるので、両親に送るのは断念した。

翌日は、9:30集合で、ウェリントンマウンテン(Mt.Wellington)へ。
同室だったオスナット(イスラエル人)は、たまたまキャンセルが出たということで、急遽ツアーに参加。キャンセルは結構出るようだ。

バスでウェリントンマウンテンの頂上まで向かう。道すがら湧き水汲んだりして、自然を満喫。この日は快晴だったが、頂上に着くと…寒い。夏とは言え、防寒着必須。しかし、素晴らしい絶景!心洗われる。

このツアーでは頂上についてから、ハイキングがてら自力で下山して、路線バスで帰ってくるか、頂上の景色だけ楽しんでそのまま送迎車に乗せてもらって帰ってくるか選択出来る。私はもちろんハイキングを選択。オスナットとアラスカに住むCAのアメリカ人と3人でのんびり下山。2時間半ほどで目的地に到着し、次はバスでカスケードブルワリー(Casdade Brewery)へ。残念ながら工場見学ツアーは終わっていたが、3種類のビールと3種類のアップルサイダー(アルコール入り炭酸リンゴジュースみたいなもの)の小さいグラスセットが9ドルだったので、こちらを購入。オスナットはユダヤ教信者なので、携帯のアプリで食べるものや飲むものを調べて、口に入れられるかどうか調べていた。便利なアプリがあるものだ。彼女は、母国で5年ほど銀行に勤めていたもののくびになったらしい。イスラエルではそんなに珍しいことでもないようだ。

この日がホバート最終日だった彼女をバスの停留所までお見送りし、帰り道でペンギンツアーを諦め、クレイドルマウンテンのキャニオニングとロンセストンのバッパーを予約した。部屋に戻ったら、元軍人というオージーのおじいちゃんがオスナットの代わりに入室していた。軍事訓練を施すためにいろんな国に派遣されたらしいが、日本にはまだ行ったことがないとのこと。娘はパイロット、息子は登山家、奥さんとは数十年前に離婚して、今は世界旅行を続けているというファンキーなおじいちゃんだった。

ホバート最終日、近くのバッパーでAPLaC卒業生が働いているということで、ご挨拶に。今タスマニアはチェリーピッキングとアップルピッキングのちょうど狭間で仕事がないらしい。疲れたときは甘いものでも、、、とクッキーを渡して別れを告げ、次の目的地ロス(Ross)に向かう。

ROSS〜Kikiの宿にて

Rossは、宮崎駿監督の「魔女の宅急便」主人公キキが働くパン屋さんのモデルと言われているベーカリーがある町だ。このパン屋さんは宿泊施設も備えており、キキが下宿していた部屋に似ている、屋根裏部屋の「kiki’s room」なる部屋に泊まることも出来る。

Rossまではバスを利用。一日数本しか走っておらず、事前予約必須。ロスまでは10ドルくらい。バスはほぼ満席で、途中どうみてもバス停ではなさそうなところに停車しながら、無事到着した。ロスは本当に小さく、ドラクエのあんまり重要じゃない町みたいだった。途中で町のマップを手に入れ、無事ベーカリーへ到着。

ここだけものすごく混んでいる。チェックインしたい旨伝えたけれど、1時間待ってもどうにもこうにも忙しそうなので、リュックを預けて町の散策に出ることにした。ショップもパブもポストオフィスまで、なんとなくイギリス調で町全体がかわいい。インフォメーションセンターはロスの羊毛博物館も兼ねていた。

そろそろお腹が空いてきたので、宿泊先とは違うベーカリーで目玉のシーフードパイをテイクアウト。リカーショップでビールと小さいシャンパンと夜用の赤ワインを購入し、外で一人ピクニック。タスマニアはもっと寒いのかと思っていたが、この日は天気がよくて本当に気持ちよかった。観光地も楽しいが、こういう天気がいいときに外でのんびり美味しいものを食べながら一杯飲む時間ってすごく好きだし、贅沢だと思う。ちなみにこのシーフードパイ、カレー風味のクリームソースに貝類がごろごろしてて、美味だった。

キキのベーカリーに戻って、チェックイン。裏庭にまわって、宿泊先である、屋根裏部屋へ。部屋には旅行客が書いたノートや、誰かが置いていってくれたキキのリボン、箒なんかがおいてあり、さらにキキの部屋らしくなっている。おまけに部屋で魔女宅のDVD鑑賞までできる。ケーキとタルトのサービスを堪能して夕食用にパンを買いにおりると、もう閉店間近。お願いしてパンの焼き釜見せてもらった。



その後、部屋に金曜日、土曜日の18時から20時まで限定・釜焼きピザのデリバリー広告があったので、電話してみるものの、今は土曜日しかやってないとのこと。残念ながら、この日は金曜日。諦めて、夕食用に買ったパンと赤ワインで夕食を取った(後日バッパーで会った子の話によると、絶品だったらしい。よけい悔しい)。

パン屋さんは閉店しているし、ほかの宿泊客はいないしで、裏庭は貸し切り状態。途中サンセットを眺めに橋までいき、戻ってきて満天の星空を眺めつつ、ベーカリーで飼っているわんちゃんたちと戯れながら、また一杯。幸せを噛み締めるも、そろそろ旅の続きを考える時間だ。

学校が始まるまで2週間ほどあるし、アデレードからメルボルンを通って、ワイナリーツアーしながらぼちぼち帰るか、いや、でもやっぱりウルルは見ておきたい…なんてことを考えながら旅の足を探していると、ブリスベンからダーウィンまでの格安チケット(135ドル)を発見。ダーウィンからバスで南下してエアーズロックにいく、か。うん、悪くない。エアーズロック空港に直接入る手もあったが、陸路からじっくり攻めて、少しずつ大きくなるエアーズロックをバスから眺めたかった。本来であれば、アリススプリングスからバスが理想だが、ブリスベンーアリススプリングスの航空券がかなり高い。(400ドルくらい) その場でダーウィン行きのチケットを予約した。後の予定は、日にちが近づいてから考えることとする。

部屋に戻ってもなんだか興奮して眠れず、魔女の宅急便のDVDを見ることにした。そうしたら、なぜか「キキがこんなに頑張ってるのに…あたしもどっかに履歴書送らなきゃ!」と無駄にやる気になってしまい、DVDを3回掛けながら徹夜で履歴書を作成し、最後の最後で力つき、なんとか1社にだけメールを送った。と思ったら、実は送付できていなかったことが後日判明。結局ただレジュメを修正しただけで終わっていた。

そんなこんなで空が明るくなってきてしまったので、「そろそろロンセストンの宿の場所とキャニオニングの詳細を確認しておこう。そういえばロンセストンにはワイナリーとブルワリーがあったなー。どのタイミングで寄ろうかな」
などと考えていたら、なんとキャニオニングの集合場所がクレイドルマウンテン現地集合だということが判明。ほとんどのツアーがロンセストンの送迎付きだったから、キャニオニングもてっきりそうだと思い込んでいた。ロンセストンからクレイドルマウンテンまでの交通機関を調べるも、どう考えても集合時間に間に合わない。うーん、こうなったら最後の手段。ヒッチハイク。タスマニアは安全だって聞いたことがあるし、大丈夫だろう。そして何より、ネタになる!

ヒッチハイクと出会い

ベーカリーの方にお願いして、ペンとダンボールをもらい、即席看板作成。


ロンセストン行きのバス時間まで粘ってだめなら、とりあえずロンセストンまで行ってからレンタカーを借りて、クレイドルマウンテンまで行こう。そこまで準備してから、朝食へ。焼きたてパン、本当に熱々で美味しかった。食べきれなかった分はお持ち帰り。わんちゃんに別れを告げ、昨日食べて美味しかったシーフードパイを購入し、バックパックを背負って、初めてのヒッチハイクへ、いざ出発。

昨晩ネットで調べた所によると、笑顔で運転手を見ること、運転手が車を止めるスペースがあるところでヒッチハイクをすることが重要とのこと。場所は決めたものの、やっぱりこわい。そうはいっても、看板掲げないと始まらない!クルマ来た!えい!
…いきなり止まってくれた。おじいちゃんの運転手におばあちゃんが2人。

「なにやってんのー、アナタ!とりあえず乗んなさい!もー、女の子がヒッチハイクなんかして!」
「いやー、女の子って年でもないんですけど。かくかくしかじかで、クレイドルマウンテンまで直接行かなきゃならなくて…」
「途中までしかいかないけど、もっと車通りの多いところ連れてったげるから!」
「今どの辺りにいるか分かる?っていうか地図持ってる?あー、もう、この地図あげるから!クレイドルマウンテンまで行く人はめったにいないから、誰か止まってくれたらとりあえずパースってとこまで行きたいっていいなさい」

めちゃくちゃ親切な人に拾ってもらった。メルボルンに住んでいる方々だそうで。
20分ほど車を走らせた後、チェリーの即席販売所近くで降ろしてくれた。

「ここなら、チェリー買いにきた人に拾ってもらえるかもしれないからね!いい、パースよ!パース!」

そういって親切なおじいちゃんおばあちゃんは、去っていった。
もう、ロンセストン行きのバスに乗ることも出来ない。退路も断たれたところで、本気でクレイドルマウンテンまでヒッチハイクしなければ。

「どうしたのー?」
「いや、かくかくしかじかで。お邪魔しちゃってすいません」
「いや、別にかまわんよ。大変だねー。あ、チェリー食べる?」

チェリー売り場のおじさんもいい人だった。昔は軍人で、今はファームから卸してもらったチェリーを売って生活しているそうだ。

おじさんとしゃべっては、看板を掲げ、しゃべっては、掲げ…。困った。全然止まらない。さっきは一回で車止まってくれたのに…。30分くらい経った頃、
「まだ、ロンセストン行きのバス出てないはず。一番近い町まで戻れば…」なんて気持ちがわき上がってくる。

止まった!あ、チェリー買いにきただけか。おじさんも大変だな。
あ、また止まった。またチェリーでしょ…。って、え?あたし?乗せてくれるの??

青色のバンに乗ったお兄さんが止まってくれた。でも、どうしよう。なんか長髪の怪しそうなお兄ちゃんだ。やめた方がいいかも。そんな風に思っていたら、どこかでみたおじいさんが颯爽と現れた。
あれ、1台目に乗せてくれた車を運転してたおじいちゃん…なんでいるんだ??すごいスピードでバンの運転手と話している。

「よかったな!パースより先まで行くってよ!!この人は大丈夫。安心していってきな!」

なんだかよく分からなかったけど、おじいちゃんとハグしてお別れし、2台目の青色バンに乗り込む。
まずは、自己紹介とヒッチハイクすることになった経緯から説明。

「そっかー。ちょうどホバート出た辺りでカップルのヒッチハイカーがいたんだけど、交通量が多いところにいたから止まれなくて…。かわいそうなことしたなーと思ってたら、君が見えたんだ」

ネットで事前調査しておいてよかった。

「この辺って、ヒッチハイカー多いんですか??」
「多かったけど、どんどん少なくなってきてるかなー。ま、やってるのは若い子が多いけどね」

ですよね(笑)

「そういえば、早すぎてついていけなかったんですけど、前に拾ってくれたおじいちゃんとなんの話してたんですか?」

「あぁ、彼らね、君が車捕まえられなかったらクレイドルマウンテンまで送っていくつもりで、少し先で待ってたんだって。君の事情も全部説明してくれて、なんかあったときのために僕の車のナンバー控えていいかって言われたから、OKしたけど。いい人に拾われたね。」

おじいちゃん、おばあちゃん、、、。もっとちゃんとお礼言いたかった。もっと英語が出来ていれば、、、。

ちなみに、ヒッチハイクのマナーとして、「たくさん会話をして、運転手を飽きさせないこと。この人乗せてよかったな、楽しかったな、と思ってもらうこと」というのも書いてあった。それほど英語が話せない私は、2台目の運転手にとにかく質問を繰り出す。

長いドライブの中で分かったのは、彼の名はアンソニー、先週まで西オーストラリアのパース(Perth/タスマニアのパースとは別)でチーズを作っていたこと、辞めて地元であるTernners beach(ロンセストンより北側)に戻ってきたばかりであること、私が参加するキャニオニングツアーのオーナーと知り合いで、キャニオニングもやったことがあること、来週からTAFEと呼ばれる専門学校のようなところで農業を学ぶこと、バツイチで娘が1人、娘さんは半年ごとに元奥さんの地元であるニュージーランドとタスマニアを行ったり来たりしてること(日本じゃ考えられないけれど、両国の教育制度は似ているそうで、交互に学校に通うのも問題ないらしい)、といったプロフィールだった。

「僕の家があるTunners beachもいい所だよー。クレイドルマウンテン行き急いでないなら、寄っていけば?っていうか、家泊まれば?部屋あるし。明日の朝、クレイドルまで送ってったげるよ」

いやいや、そんな初対面の人のうち泊まるだなんて。だがしかし、地図を見てみると、Tunners beachの近くにペンギンのマークが。

「ひょっとして、あなたのうちからペンギン見られるところって、近いですか?」
「あ、うん、すぐだよー。見たいなら夜連れてったげるけど」

キャニオニング参加のために諦めたペンギンツアー。これもまた何かの巡り合わせ。ご厄介になることを決めた。実家は飲食店を複数経営しているそうで、そのうち1件のカフェの裏に住んでいるとのこと。徒歩10秒で海という素晴らしい立地の家に裏から入ると、大型犬2匹がお出迎えしてくれた。

「1匹はお母さんで、もう1匹は息子でまだ2歳。パピーだよー。お母さんは今妊娠中で、今月中には産まれるんじゃないかな」

2匹を連れて海まで散歩に行ったあとには、サーフィンも教えてもらった。
サーフトリップには2回行ったことがあったが、そこで使った初心者用とは全く違う薄く小さいボードに四苦八苦し、結局一度もまともに立てなかったが、楽しかった。

夜はペンギンツアーへ。ペンギン保護のため、写真撮影は禁止。ボランティアのおじさま、おばさまがペンギンの生態などを説明してくれた後、ペンギンに害がないライトでペンギンを照らして私たちに見せてくれる。南アフリカで野生のペンギンをみたことはあったが、それよりも随分小さくてかわいい。ワインを飲みながらのペンギン鑑賞。静かな豊かな時間は、あっという間に過ぎていった。

家に戻って、お礼といっては少なすぎるけれど、カフェの清掃を手伝う。人生史上トップ3に入る印象的な、長い一日だった。
翌日は朝6時起床。身支度を整え、一路クレイドルマウンテンへ。タスマニアの景色を堪能しながら、山へ向かう。道中、どれくらいかかるのか聞いてみると、なんと2時間掛かるとのこと。全然近くないじゃないか! 申し訳ないと伝えると「Don’t be sorry! My pleasure.」と返ってきた。Don’t be sorryは彼の口癖だった。ロングドライブを終え、ようやくクレイドルマウンテンに到着。

「じゃ、また迎えにくるねー」

彼を見送ったところで、ようやく気付く。あれ?すごく寒い…。キャニオニングの写真を見たらすごく暑そうだったから、短パン、Tシャツにビーサンで来たものの、よく考えたら山だし、寒いに決まっている。ビジターセンターで入山チケットを買って、暖を取って待つ。

時間になるとわらわら人が集まってきたが、アジア人は私だけ。タスマニア在住のご家族(最年長は60歳台半ば。元気!)、アメリカ人カップル、アメリカ人とドイツ人の女性同士が今回のツアー仲間。説明を受けて、ウェットスーツやらヘルメットやら着替えやらをバックパックに入れて背負って、バスに乗って出発。5分ほどバスを走らせたところから、荷物を背負って世界遺産・クレイドルマウンテンを15分ほどハイキング。この時点で既に絶景。

スタート地点到着。装着品を身につけ、いざ、川へ。
冷たいけれど、気持ちいい。体一つで川を下り、滝に落ちながら進んでいく。空を見上げればスコーンと晴れた青空と、世界遺産。なんて贅沢なんだ。午後も順調に川を下りしていき、ラストに写真撮影。

これで終わりかと思いきや、荷物が置いてある場所まで山登り。下ったんだから当たり前か…正直これが一番きつかった。しかし、クレイドルマウンテンでのキャニオニング、人生史上かなり上位に入る素晴らしいアクティビティだった。おすすめです。

さて、集合地点に戻ってきたので、アンソニーに電話。

…出ない。おや?悩んでもしょうがないので、ビールを飲みつつ待ってみる。インフォメーションセンターが閉まった。もう一時間待っている。このあたりは全く電波が届かないので、近くの公衆電話を探してうろつく。あった!かけてみる。電源が入っていない、というメッセージ。おや?この寒さで野宿をすれば死んでしまう。何度もかけてみる。

「Hello? ごめんごめん、寝ちゃってたー。今向かってるから、もうちょっと待ってー」

日本だったらちょっとイラッとしていたかもしれない。でもここはタスマニア、そして相手はヒッチハイクしていた怪しいあたしを助けてくれた恩人。宿を提供してくれていて、昨日のロングドライブの上、今日山まで往復4時間の送迎してくれて、昨日はペンギンツアーにまで連れて行ってくれた。どうして怒れようか、いや怒れない。

「ぜんっぜん大丈夫!来てくれてありがとう!ほんとに、ほんとに、来てくれなかったらどうしようかと思った!」

2時間かけてターナーズビーチまで戻り、私がシャワーを浴びている間にご飯まで作ってくれていた。シェアメイトたちもそうだけど、こちらの男の人はほんと自立しているというか、料理はするし、網戸の張り替えどころか窓に直接取り付けるし、車もバイクも直してしまうし、生活力が高い。

「明日は友達と約束があるからロンセストンまでは送れないんだけど、デボンポートまで送ってくからね。そこからバスが出てるから。デボンポートもきれいな町だよ。」

充分です。本当にありがとうございます。
この日も、カフェの清掃を手伝ってから、就寝。翌日アンソニーが作ってくれた朝ご飯を食べていると、アンソニーとお母さん(スーザン)が何やら話している。

「Maiko、今日うちの親戚が同じ便でブリスベンに帰るんだって。空港まで一緒に送ってってあげるって言ってるんだけど、僕は一緒に行けないし、気まずかったらデボンポートまで僕が送ってくけど…どうする?」

空港まで送ってもらう方を選択。今まであまり話す機会がなかったスーザンとも、話しがしてみたかった。

「そっか。わかった。ランチはスーザンに頼んでおくからね。これ、おやつ。インターネットも使っていいからね。あ、シャワー浴びてくれば?」

シャワーを浴びて帰ってくると、アンソニーは既に行く支度を整えていて、すぐに出発するとのこと。

「これ、お土産。桜って、なんだか日本っぽい気がして。タスマニア産だよ。」

と渡してくれたのは、桜の香りの石鹸だった。結局こんなにお世話になったのに、一緒に写真を取ることもなかった。アンソニーには、いくら感謝しても、し足りない。

彼が出発した後、しばらくぶりのインターネットでポチポチみんなに自分の無事を伝えていたら、スーザンが声をかけてくれた。

「町にいくけど、一緒に行く?1人でいても退屈でしょう?」

もちろん同行。自己紹介や挨拶はしているものの、きちんと話をするのはこれが初めて。アンソニーと出会った経緯についても、困っているところを助けてもらったくらいにしか話していなかった。少し緊張する。なぜなら、スーザンは経営者らしい厳しい目をしているから。

町にいく途中の車の中で、自分の経歴、現在学校のホリデー中でオーストラリアを旅行して回っていること、自分の不注意でヒッチハイクをせざるを得ない状況になったこと、アンソニーにすごく助けてもらって感謝の言いようがないこと、アンソニーがいい子なのはスーザンの教育がよかったからだと思うこと、などつっかえつっかえ、つたない英語で、時々スーザンに発音を直してもらいながら伝えた。

対するスーザンの答えは、こうだった。
「Yes, Anthony is very good and kind. We love him. But, he doesn’t always make a wise decision.」

私の選択も客観的に見たら、職を捨ててオーストラリアで学生やって、バイトすらしてないのに旅行してまわっている。決して賢い選択とは言えない。それでも私は、後悔残して死ぬよりはいいだろうと思ってここに来たんだ。だから、いつでも賢い選択が正しい選択ではないと思う、と言いたかったが…。

アンソニーに関して言えば、11歳年上の人を孕ませてしまって結婚して、3年で破綻。娘の養育費を支払わねばならない状況の中、ちょっと前までは働いていたものの、来週から学生。TAFEの学費はオーストラリア人なら安いとはいえ、ぼちぼち掛かるだろう。実家から通うみたいだったし、多分親に家賃払うような感覚はなさそうだ。マリファナのやり過ぎで彼女にも振られたって言ってたし、、、。いや、ほんとにすごくいい人なんだけれども。そんなことを考えてたら、なにも言えなくなってしまった。

こんなに親切な人、今まで出会ったことないし、アンソニーにはいつまでも優しい気持ちを持ってほしい。でも、スーザンの親としての気持ちも分かる。何かを得れば何かを失い、誰かにとって素晴らしい人でも、誰かにとっては物足りない人で…。日本語ですら表現するのはむずかしいけど、やっぱり誰にとっても完璧であるって、当たり前だけど、不可能なんだろうと思った。私は八方美人で、出来るだけ人から嫌われないように表面を取り繕おうとするけれど、みんなからよく思われるなんてありえないんだから、自分がやりたいように、後悔ないように動かなくちゃなー、なんてことを改めて考えたりした。

町で用事を済ませてカフェに戻ると、同じ便でブリスベンに向かうウィックとブローニという老夫婦が昼食を取っていた。話題は、早くてほとんどついていけなかったものの、家族のだれそれが結婚しただの、事業が上手くいってないだの、楽天的で困るだの、日本のお正月に久しぶりに集まった家族みたいな会話をしていた。こういう話題は万国共通だ。

そこから荷物をまとめて、空港へ。

「タスマニアを見るのに1週間は短すぎるわ。3ヶ月は必要よ。また来たときには連絡なさい」と、スーザン。

「これ、あたしの店の名刺。お金ないんでしょ?うち来るときには連絡しなさい」
と、ブローニ。ブローニも経営者だったか。Facebookを覗いてみると家具屋さんのようだ。道理でセンスがいいと思った。しかも、私がHelpexに行くところから車で30分程度の所だ。これも運命。時間が合えば彼らを訪ねよう。

離陸が30分遅延したおかげで、ブローニ&ウィック夫妻とも色々お話ができた。ブリスベンで再会を約束して、お別れ。翌日から、いよいよHelpexだ。

(2)ブリスベンでのHelpX

Helpex先のGlasshouse mountains まではブリスベンから電車で1時間半程度。しばらく最寄り駅で待っていると、「お待たせー」とハリーポッターに出てくるクリーチャーみたいなおじいちゃんが、車から降りてきた。よかった、ちゃんと来てくれた。

裏庭でオーガニックファームやっているということだったが、マンゴーにぶどう、バナナにいちごにパッションフルーツにえんどう豆、レタス、トマト、なす、バジル、とうもろこし、にわとり…。小さいながらも種類が豊富。パンも自作するそう。着いてすぐいただいた、レモングラスティーにアップルジュースを入れた飲み物がとても美味しかった。レモングラスも裏庭に生えていて、必要になったらチョキチョキ切ってポットに入れてお湯をドボドボ注ぐだけ。なんともお手軽だ。


元々リスニング力がないことは自覚しているが、ジョセフのドイツ語なまりの英語は、輪をかけて聞き取りづらかった。リアクションがいちいち大きいのと、よく話が飛ぶから迷子になる。とはいえ、指示が聞き取れないと作業ができない。ここで、分かるまで聞き返すことを意識するようになった。

ここには私の他、男性1名とその息子が滞在していた。男性は足の手術で病院に行っていて、息子は友達の家に行っているが、明日帰ってくると伝えられた。

荷物をほどき、早速手伝い開始。作業内容は、果実の収穫や、草むしりなど。作業中や食事などで出たゴミは3種類に分別する。鶏にあげるもの(食べられそうなものはほとんど全部。鶏、超優秀。)、コンポーザー(フルーツの皮など、生ゴミ系。用土作りに使う)、それ以外。洗い物で使った水はためておいて、外のバケツへ。バケツがいっぱいになったら、植物にあげる。無駄がない。初日の作業後は、シャワーで体を洗ったとき驚いた。至る所、虫に刺されている。虫除け、長袖長ズボン、日焼け止めは必須だ。

ジョセフはベジタリアンなので、この日の夕食はえんどう豆とトマトのスープとサラダとパン、マンゴー、パッションフルーツといったラインナップ。サラダのドレッシングは手作り。サワークリーム、ヨーグルト、バジルなどの香草とミニトマト、塩こしょうで作る。3日は持つらしい。日本ではなじみのない味だけど、美味しい。作ろうと思えば、なんでも作れるんだなぁ。緑のうちに収穫するスーパーのものと違い、完熟してから収穫するマンゴーは、甘くてとても美味しかった。

翌日は、レタス植え。ホームセンターで購入した苗を、コンポーザーを使った用土で植える。栄養たっぷりで、虫だらけだ。穴を掘って、用土入れて、植えて、固めて、雑草と悪い虫除けに灰と枯れ草を敷く。単純作業を繰り返していると、頭がからっぽになる気がする。

作業が終わると、ジョセフのお友達が3人遊びにやってきた。一組のご夫婦はスイス出身で、ご主人が二十年前に突如としてオーストラリア移住を決意。奥様はそれに付いて、ここでの生活を始めたとのこと。ドイツ語が母国語なので、英語には未だに苦労しているらしい。60歳から違う国で生活しはじめようという発想とパワーがすごい。この4人での集いは、1ヶ月に1回それぞれの家をまわっているそうで、それぞれおやつを持ち寄ってのんびりした時間を過ごしていた。

その日の夕食後は、ジョセフと第一次世界大戦と第二次世界大戦、ヒトラーの話や強制収容所(concentration camp)の話、ロシアとアメリカとの関係について、語り合った。ジョセフはアメリカのことが大嫌いで、かなり偏った意見を述べている印象を受けたものの、日本人以外の戦争を体験している人(ジョセフはオーストラリアというよりドイツの観点だったが)と話をしたのは初めてで、貴重な体験になった。途中で言い合いのような口調になってしまったが、翌朝は普通に「Good morning!」で始まった。「意見を交わしてそれが交わらなかったとしても、それは人格を否定することじゃないから。」とジョセフが言った。

前夜に例の親子連れが帰ってきたようで、朝食をとっていると大きな、いかつい、入れ墨がたくさん入った、ひげを伸ばした男性が入ってきた。第一印象が大切なので、笑顔でご挨拶。向こうも笑顔で返してくれた。

彼の名はジェイミー。オーストラリア人。足を痛そうにひきずっていて、思わず「大丈夫?どうしたの?」と聞いたら、長い話になるから、と笑顔でかわされた。何か事情がありそうだった。

この日は、草むしり後、近くの公民館みたいなコミュニティーセンターでボランティア活動に参加させてもらった。内容は料理の手伝いとサーブ。料理を提供して、集まった地元の人から寄付を募る、という趣旨のようだった。

私はまるまる1週間ジョセフの家に滞在する予定だったのだが、どうやら途中から違う家に移らねばならぬようで、この場で次にお世話になるジョンを紹介された。話が違うと思ったものの、学生ビザで長いホリデーが取れない私にとって、複数の家でHelpXが出来るのはいい体験になる、と思い受け入れた。

帰りに牧場で牛乳を調達し、帰宅。夕飯は、初めてジェイミーと一緒に食卓を囲んだ。私とジョセフはワインを楽しんだが、ジェイミーは「昔ものすごーく飲んだから、今はもう飲まないんだ」と我々の誘いを固辞した。うん、色々事情がありそうだ。

翌日、いつになったら帰ってくるんだろう、と思っていたジェイミーの息子・ガブリエル14歳と初対面。挨拶もそこそこに、友達と遊んでくるー!と風のように去っていった。そういう年頃なのだろう。午前中の草むしりのあとは、卓球クラブの練習に参加。車で30分ほど行った地区センターのようなところに、お年寄りが30人ほど集まっていた。おばちゃんたちがぐいぐい話しかけにきてくれて、到着3分後には、ジョセフと違うテーブルでダブルス開始。本当にみんなフレンドリーだ。おばあちゃんたちといえども皆上手で、快活で、楽しそうだった。

この日の夕食の後は、ジェイミーといろんな話しをした。私がジョセフの家で過ごす最後の夜だったからかもしれない。話によると、彼はバツイチで子供が2人、ガブリエルのお兄ちゃんは元奥さんと一緒にいること、ジェイミーの入れ墨にはそれぞれ意味があって誇りに思っていること(日本では入れ墨をいれるのは一般的でない、入っていると温泉に入れないと伝えたらとても驚いていた)、昔はアデレードに住んでいて、大きな家も車も持っていたこと、でもなんだか満たされなくて、心のどこかに空洞があって、道を模索していたらスピリチュアルの世界に魅了されたこと、リュック一つでブリスベンまできて、今はその道の学校に通っているそうだ。

アンソニーに引き続き、バツイチ・子持ち・学生。こっちでは結構一般的なのだろうか。しかし、結婚していて、家も車も仕事もあって、でも心のどこかが満たされない。すごく分かる。離婚する前、わたしもそうだったことを思い出す。

リーディングの勉強もしているというジェイミーに、私のことと未来を読んでもらった。

出てきた単語は、頑固、嫉妬深い、愛情深い、頭がいい、将来については、しばらくフラフラするけど、次に定住しようとする土地には一生住むことになるだろう、日本かどうかは分からない、ということだった。興味深い。一体どこに住むことになるのだろう。旅程を決めない旅を続けてきて、やっぱり世界一周してみたい、という気持ちがまたむくむくと湧いてきていた。いろんな国を見てから決めるのだろうか。どうなる、私の人生。しかし、予測出来ない状況を楽しんでいる自分もいた。一年前は、雪が降る中日本全国各地で学生さん向けに会社説明していたのに。人生、何が起きるか分からない。

「Maiko, you should always ask three things to yourself. Where are you? Why are you? What is your purpose?

いまどこにいるのか、なぜそこにいるのか、目的は何なのか。シンプルな質問。だけど、自分の立ち位置が分からなくなったときには、心に問いかけたい。

ジェイミーは、自分の外観が人に威圧感を与えることにコンプレックスを持っているようだった。

「俺、こんな外観だから皆に怖いって言われるんだよね。まー、昔は実際悪かったし。Maikoは怖くなかった?」

「まぁ正直言えば、最初は怖かった。おっきいし、入れ墨たくさん入ってるし。でも、あなたの笑顔も、話した感じも優しかったから、いい人なんだろうなーって思ったよ。」

笑顔!俺、苦手でさー。ちっさい頃の写真なんか、全部しかめっ面。でも、スピリチュアルで患者さん来たときに怖い顔してたらだめだろ?練習しなきゃなーと思ってたんだ。Maikoはほんとよく笑うよね。Maikoが笑ってるから、俺も笑えたんだと思う。ありがとう。」

びっくりした。そんな風に思っていてくれたなんて。英語はしゃべれないけど、笑ったり挨拶したり、基本的なコミュニケーションってやっぱり万国共通ですごく重要なんだ。当たり前だけど、忘れないようにしたい。そして、人からほめられると素直に嬉しい。私も、誰かのいいところに気付いたら、口に出してほめるようにしていきたい。

ジェイミーはギターも教えてくれた。Maikoは指が長いから練習すればすぐ弾けるようになるよ、と言ってくれたが、なんとなくギターとは疎遠のまま今に至る。いつか弾けるようになりたいとは思っているのだけれど。

ジョセフ家最後の日、空はどんより曇り空だった。草むしり中に降り出したので、途中で切り上げてお茶の時間。実は、この辺りの天気は本当に変わりやすく、雨が振ったりやんだり。草むしりもずーっとやっている訳ではなくて、雨がやんだら休憩してケーキやチョコ、フルーツを食べたりしていた。痩せない訳だ。最後のランチは、魚のスープだった。ジョセフ、ベジタリアンなのに?尋ねると、肉はダメだけど、魚はよいのだそうだ。そういうものなのか??

昼食後パッキングを終えたところで、ジョンと彼女のジェリーが迎えにきてくれた。ジョセフとジェイミーに別れを告げ、車へ乗り込む。すると、挨拶もそこそこに

「ジョセフの家にでっかい男がいただろう?タトゥーがたくさん入った。彼、家の外でタバコ吸ってたよ。タバコ吸うなんて何考えてるんだか…」

と、ジョン。ジェイミーは禁酒成功したものの、まだ禁煙できてない。自分でもやめなくちゃいけないってわかってるんだけど…と昨日話していた。タバコ嫌いなのは理解出来るし、ジェイミーの見た目が偏見を招くのも分かる。けれど、やはり自分の友達を悪く言われると悲しいものだ。「でも、いい人なんですよ」そういうのが精一杯だった。

ジョンの家につくと、白亜の豪邸だった。外見だけではなく、中も美しい。その分、家に対するこだわりがとても強く、細かい。掃除婦を雇ったことはあるが、自分の思い通りに掃除をやってもらえないので、自分で全部やることにしたそうだ。

ヘルプの内容は、ガーデニングの手伝い。生け垣を整え、木の枝の刈り取り、マカデミアナッツの収穫。木の枝が大胆に隣にはみ出しているので、これだけ広いと日本と違ってご近所問題はないのだろうか、などと思っていたら、

「隣はクレイジーでね、うちにゴミ投げ込んできたりするんだよ。警察にも行ったし、裁判にしようと思ってるんだけどね。」

枝どころの騒ぎじゃなかった。そういった経緯もあって、この家は売りに出しているらしい。はみ出た枝の木は、邪魔臭いから翌日伐採決定、植えられていた青梗菜ときゅうりは、乾涸びていることを理由にあっさりとゴミ箱に捨てられた。出来るだけ無駄を出さないジョセフの家とは対照的だ。

お昼はジェリーも合流して、3人で昼食。クレープにヨーグルトと蜂蜜、ぶどうを入れて、端からくるくる巻いて、ナイフで端から切って食べる。なるほど、こうすると食べやすい。ジェリーは元々けだるい感じで話をする人だが、ジョンはご飯食べ過ぎだとか、オーストラリアの離婚率が高すぎだとか、ファーストフードを食べるやつの気が知れないだとか、ひとしきり文句を言っていた。ご多分に漏れず、ジョンもジェリーも離婚経験者。ジェリー曰く、オーストラリアの離婚率は6割超えているので、特段珍しいことでもないそうだ。

翌日はジョンの息子、アレックスが助っ人として登場。挨拶もそこそこに、チェーンソーで太い木をばったばったと切り倒していく。なんとなく、木が切り倒されていくのを見るのはつらい。伐採作業の途中、コーヒーブレイクで町へ出ると、いろんな人がジョンやアレックスに声をかけていく。楽しそうに会話をしたあと、「あの人はクレイジーでね。君は無視してた方がいいよ。あっはははは」とジョン。一方、アレックスは「父さんは人と話すとき、大げさすぎる。精神異常者みたいだ。一緒にいると恥ずかしい」とけんかを吹っかける。仲がいいのか、悪いのか。残念ながら、彼の内面に触れられるほどゆっくり話す時間はなかった。家に戻って作業を終えた後、別れの挨拶をする間もなく、ブリスベンにとんぼ返りしてしまったからだ。休みの日にわざわざ3時間もドライブして親の手伝いに来るくらいだから、きっと優しい人なのだろうけれど。

作業後は、ジョンが近くのレインフォレストに連れて行っていってくれた。大きな木がたくさん…。ほかの木に寄生しながら生きる木は、オリジナルの木を取り込んで、しまいには殺してしまうそう。ここで野生のワラビーを初めて見た。

翌日、長いようで短かったジョン家での生活も最後。ジョンがタスマニアで出会った家具屋さん・ブローニのところまで車で送ってくれた。感謝。とはいえ、10時出発予定だったはずなのに予定変更になったといって8時に家を出ることになってしまったので、待ち合わせの12時まで、ビーチを眺めた後カフェで時間をつぶした。ジョンもジェリーもアレックスもとてもいい人だったけれど、文句ばっかり言っていると人生楽しくなさそうに見えてしまうなーという印象だった。アンソニーやジョセフ、ジェイミーの方がお金はないのだろうけど、充実した人生送っていそうな。

ぼちぼちいい時間になってきたので、重たいバックパックを背負って、ブローニのお店へ。

「よく来たねー。お腹空いてる??」

すっかりお金のない、いつもお腹が空いてる子扱い。正解ですが。
お昼ご飯を用意してもらっている間に、家具が置いてあるガレージを覗かせてもらう。

「私のカラーなの」というエメラルドグリーンを基調とした家具たち。廃棄品の家具をリペイントして売っているとのことで、値段もお手頃。日本にお店があったら買うんだけど…。日本に送ると輸送費の方が高くついてしまう。

お昼できたよーということで、ブローニとウィックとランチをご一緒させてもらう。ブリスベンに渡ってからの出来事を話したり、ブローニとウィックのお仕事について聞かせてもらったり。素敵な家具に囲まれて、素敵な時間を過ごさせてもらった。

私と同い年だという義理の娘さんは2人の男の子のお母さん。洗濯物を干している間に、お子さんと遊ばせてもらう。すごくかわいい。しかし、同い年の子らは家庭を持っているというのに、私は何やっているのか。そろそろ時間ということで、ブローニがビーチを案内がてら車でバス停まで送ってくれた。

ウィック&ブローニと。


「この後はどこいくのー?」
「ブリスベンに戻って観光と、ゴールドコースト見てみようかなーと思ってるんです。まだ宿も取ってないけど」
「あらー。宿まだ取ってないんなら、ヌーサもオススメよー。ちょっと今天気悪いけど。素敵なビーチリゾートよっ!!ここから1時間くらいかなー」
「え、じゃあ、ヌーサいっちゃおうかな!」

(3)ヌーサ

ということで、次の目的地はヌーサに。もともとクラスメイトがいいところだと言っていて、気になっていた。バス停でブローニが懇切丁寧にバスの乗り方を教えてくれる。ここからだと、1回乗り換えればいけるようだ。

「お世話になりました!」
「天気がよくなったら、明日か明後日ヌーサに行くわ。そしたら最寄りの駅まで送っていってあげられるし。ランチでもしましょ。」

お礼を告げて、バスに乗り込む。バス代、20ドル弱。乗り換え前に今夜の宿を予約しておこうと思ったら、どこのバックパッカーズも予約でいっぱい…。え?今日宿無し?乗り換えのバス停でネット予約出来なかったところに電話してみるものの、不通。乗り換えた後のバスの中で携帯の充電はなくなるし、打つ手なし。そういうときは考えても仕方ないので、着いてから悩むこととし、サンシャインコーストを眺められる車窓を楽しんだ。

3時間ほど掛かって、ヌーサ到着。あれ?1時間のはずじゃじゃなかったっけ?バスだとやっぱり時間がかかるようだ。時刻は5時を回っている。すぐインフォメーションセンターに向かった。季節柄かカウンターはびっしりで、30分ほど待たされた。

「バッパーの予約取りたいんですけど…」
「えー。なんか今日どこもいっぱいなのよね。とりあえず片っ端から電話かけてみるから待ってて!」

初野宿の危機を迎え、どきどきしながら待つ。

「あなたラッキーね!すぐそばのYHAでキャンセルが出たって。さっきまで満室だったのよー。ビーチからもすぐだからね」

よ、よかったー!荷物を抱えて宿へ。男女混合の4人部屋。暑そうだけど、汚くないし、さすがYHA。安定感がある。宿泊初日はワインのサービスとオリエンテーションがあった。なんとボディボードとサーフボードをタダで貸してくれるらしい。太っ腹。

サービスのワインを飲み終えて、ビールも飲み終えて(有料)、スーパーへ買い出し。道を尋ねるついでに、宿のお姉さんにエアーズロックツアーについて問い合わせ。要望を伝えると、明日までにいいものピックアップしてくれるとのこと。

翌朝6時起床。久しぶりにサーフィン挑戦。デポジットで100ドル預けて、海へGo。ものすごく曇っている。そして、波がめちゃくちゃ高い。それもそのはず、巨大サイクロンが来ていた。そうはいってもせっかくサーフボードを借りたので、果敢に波に挑む。クラッシュしたり頭打ったりしながら、3時間続けて数回しか立てなかったものの、終わった後、地元のサーファーのお兄ちゃんに「何回クラッシュしても諦めなかったね!いいよいいよ、Keep going!」と話しかけられた。誰も見てないと思ったのに。恥ずかしい。

宿に戻ると、お姉さんがエアーズロックツアーについての情報を提供してくれた。3泊4日、アリススプリングス発、エアーズロック空港解散。450ドルくらい(運行会社:Wayoutback)が、最も良さそうだった。みんなでキャンプファイヤーしたり、星空の下寝袋で寝たり、、、楽しそうじゃないか。

このツアーの場合、集合がアリススプリングスのため、ダーウィンからのバスが必要だった。1泊2日でダーウィンからアリススプリングスまでの見所をまわるツアーに参加したかったが、木曜日出発しか選択肢がなく、断念。これに参加出来れば、バス代プラスαでトップエンド(Top End)と言われるノーザンテリトリー(Northern territory)の目玉、カカドゥ国立公園などをまわれたのだが…。

通常の片道バス代は、240ドルくらい。思ったより高い。じゃあ、トップガンと言われる高級列車に乗ってみちゃう?と調べてみたが、400ドルくらい。うん、高い。他に安い手を探していたら、オーストラリアの高速バスを運行するGrey hound からダーウィンとアリススプリングス間を、一方向乗り降り自由のパスチケットを発見。直接行くより安い。お値段200ドル。よし、これだ。せっかく乗り降り自由ならば、途中下車してみようじゃないか。あ、キャサリン(Katherine)ってバス停は、キャサリン渓谷の近くだ。うん、ここにしよう。渓谷まで車で30分くらい掛かるみたいだけど、送迎付きのツアーが一個くらいあるだろう…。ということでエアーズロックに行く前に、ダーウィン、キャサリン、アリススプリングスに寄ることになった。帰りはエアーズロック空港からシドニーへ。とうとう帰るまでの道筋が立ってしまった…。

結局この晩は旅行計画を立ててつぶれてしまったが、バッパーのパーでビール飲みながらやってたら、イタリア人の陽気なおばさんに声を掛けられて仲良くなった。イタリアの孤島にあるB&Bでマネージャーをしているとのこと。世界一周中に行けたら行こう。

翌日、本格的にサイクロンが近づいているようで、ブローニは結局ヌーサに来られなかった。バスと電車を乗り継ぎ、ブリスベンに向かう。

到着後、ぶらぶら歩きながら宿探し。なんとなく雰囲気でBrisbane city backpackers というオレンジの外観の建物にした。女性6人ドミトリーで30ドル弱。部屋には誰もいなかったので荷物を置いて外にでると、「20ドルで髪切ります」の張り紙。おぉ、ずっと切りたいと思ってたんだよなー髪も染めたいし。早速電話すると、カラーの色を決めるからすぐに薬局まで来いとの指令。土地勘もリスニング力もないので、場所が全く聞き取れない…。テキストを送ってもらって、ようやく辿り着いた。無事カラーも買ってお話ししていると、同じ部屋に泊まっている(というか住んでいる)子だと判明。美容院で働くアイルランド出身のセカンドホリデーで滞在している27歳の子だった。

どこでやるんだろう、と思っていたら、カラーは部屋で(同室の子もみんなこのバッパーに住んでて特に文句も言われなかった)、散髪はトイレでというおおざっぱさ。初めてこんな風に髪を切った。納得のいく仕上がりではなかったけど、まぁ、ひとネタ出来たことでよしとする。このバッパーは職業斡旋もしているみたいで、そのせいか住んでいる人が多かったように思う。

翌日は、朝からオーストラリアの大手ビール会社xxxx(フォーエックス)のビール工場見学へ向かった。サイクロンの影響で雨・風がどんどん強くなってくる。9時開館とガイドブックに書いてあったので早起きしたにも関わらず、工場には「11時開館」との張り紙が。仕方がないので、マクドナルドで時間をつぶす。マクドナルドのテレビではしきりにお天気ニュースをやっていて、クイーンズランド州の州知事まで出てきている。テロップには、「There are going to be very destructive winds, now is time to return your homes」の文章。あれ?本格的にヤバいんじゃ…飛行機飛ぶかしら?なんてことをおもいつつ、ビール工場へ。なんと、大雨の影響でツアーは翌週まで中止。ほんとにブルワリーツアーには縁がないようだ。仕方がないので、普通にバーでビールと昼食を注文。バーも翌日から閉めるようだ。

(4)ダーウィン、キャサリン、アリススプリングス

空港に着くと、ダーウィン行きの便は遅延しているものの、飛ぶ様子。結局1時間遅れでダーウィンに到着。到着時刻1時。バスがあるか心配だったが、シャトルバス(片道18ドル)がきちんとYHAの前まで送ってくれた。が、YHAのレセプションは当然クローズ。電話して呼び出したら、すぐお兄さんが出てきてくれ、無事チェックイン。就寝。

翌日は、寝苦しさで目が覚めた。ダーウィンは、一気に蒸し暑い。昨晩は話せなかったが、同室は台湾人の女性2人だった。これからエアーズロックに行く旨告げると、「絶対あった方がいいよ!でも、あたしもう使わないから」と、ハエよけネットをくれた。トップエンドに向かう2人に別れを告げ、次の目的地、キャサリンでの予定を立てるため、インフォメーションセンターへ。

道中、今まで行った場所ではあまり出会わなかった、アボリジニの姿を多く見かけるようになった。ツアーについて問い合わせると、雨期のため、開催中のツアーが元々少ないようだ。それでもなんとかキャサリン渓谷まで行きたい、と話すと午前中の2時間ツアーならやっている、でも自力で渓谷までいかなきゃならない、バスはない、行くならタクシーと言われ、心が折れる。せっかくキャサリンまで行くのに、、、諦めきれずにツアー会社やバス会社、キャサリンのビジターセンターにも電話を掛けてみたけれど、打つ手なし。乾期だともう少し選択肢が増えるようだが、タクシーは往復120ドル、2時間のツアーは80ドル。ここに200ドルは払えないと判断し、諦めた。

インフォメーションセンターとYHAの往復で、ノーザンテリトリーはかなりワニを押していることに気付く。日本のテレビで見たことがある気がするが、ワニの水槽に入ることができる「死の檻」(入園料別で165ドル。高い。)というアトラクションが体験出来るワニ動物園もある。余談だが、母に話したら「私だったら絶対挑戦する」と言っていた。

いよいよ、初の高速バスへ乗り込む。キャサリンまでは何カ所か休憩を挟みながら、4時間のドライブ。座席は自由で、好きなところに座る形式。道中たくさん蟻塚があるなーなんて眺めていたら野生のワラビーを見つけ、前に座っていたイタリア人と「見たみたー?!」と感動を分かち合った。その後イタリア人が描いた絵(超上手かった)を見せてもらったりしていたら、あっという間に到着。ダメ元でもう一度キャサリン渓谷のツアーについてインフォメーションセンターで問い合わせてみるも、結果は同じ。本格的に諦めて、ネットで調べておいたバックパッカーズに向かう。名はcoco’s。4人部屋で30ドル弱。なんとなく怪しい見た目で、長期滞在者が多い宿だった。

翌日は、渓谷に行けないことが確定してしまったので、町を観光してみることに。目指すは美術館。徒歩10分くらいとのことだったが、歩けども歩けども、見えてこない。もう30分は歩いている。もう一度地図を確かめると、車で10分だった…。ヒッチハイクが頭をよぎるが、ここはキャサリン。ちょっと治安も悪いと聞くし、諦めて歩を進める。しばらく進むと、アジア系の元気の良さそうなおばちゃん発見。ちょうど車に乗り込むところだ。じっと見つめてみると、「どこいくのっ」と声を掛けてくれた。

「美術館に行きたいんですっ」
「あたし、町にいくのよー。美術館行った後は町に戻るの?」
「温泉があるって聞いたので、行ってみようかなと思ってるんですが」
「美術館、ちゃっちゃと見るなら、町まで乗せてってあげるわよ」
「ありがとうございますっ!!」

車ですぐのところにあった美術館は、日曜日ということで閉まっていた。 全行程歩いてきていたら、絶望感に打ち拉がれていたことだろう。おばさん、本当にありがとうございました。

62歳には見えないパワフルなおばちゃんは、「時間があるときで、困ってる人見かけたら、助けるようにしてるの。時間がないときは無視するけどね。あっははは」と言って、孫と義理の娘が待つウールワースまで一気に車を走らせてくれた。素敵な出会いに感謝。私もこうありたい。

おばちゃんに別れを告げた後、せっかく町まで戻ってきたので、インフォメーションセンターに寄ることにした。すると、お、温泉も閉まってる?!

「あのー。温泉行きたいんですけど」
「あー、この間の大雨で大方の観光スポット閉まっちゃってるのよね。」
「バスの時間までかなりあるので、どこでもいいから見るところないですかね?」
「今日、日曜日だしね…。ごめんなさい、なんっにも思いつかないわ」

仕方がないので、宿に戻ってのんびりすることに。
coco’sは、数年前まで日本人のバイク乗りがよく利用する宿だったらしく、宿帳があった。どこのファームは良くない、このファームのコントラクアーはだれそれ、など、仕事の情報も載っていた。そういえばバスで一緒だったイタリア人と韓国人はファームで働くと言っていたし、ドイツ人はバスドライバーとして働くと言っていたことを思い出した。この辺りは結構仕事があるのかもしれない。

HelpXとWWOOFの後遺症・虫刺されがなかなか治らず掻きむしっていたら、てっきりスタッフだと思っていたおじいちゃんが「いい薬知っているから」と薬局まで連れて行ってくれた。10錠入り13ドルと値が張るものの、飲んだ後はかゆみがすーっと薄れていく。サンドフライのかゆみにも効くようなので、お困りの方は「Telfast」、試してみることをお勧めする。

おじいちゃんとfacebookを交換し、宿をあとにした。余談だが、このおじいちゃんとHelpXでお手伝いしたおじいちゃんには、後にプロポーズされることになる。自分の半分以下の年齢の若造にアプローチする前向きさには頭が下がる。

いよいよ、バスで車中泊だ。キャサリンからアリススプリングスに向かうバスは、ほとんど無人だった。贅沢に座席を4つ使って横になる。バス移動中は、何度かトイレ休憩やご飯タイムがあるのだが、乗客の1人、変なインド系おっさんに絡まれた。

「学生で困ってるんだろう、100ドルやる、仕事を紹介してやる」
「一緒に乗ってる女性は、嫁だが、悪い嫁なんだ。ハグしよう、ハグ」

旅をしていると変な人にも良く出会う。断るときは、きっぱりと。「興味ないんで」と言った後、バスに戻る道すがら見上げた星空が妙に綺麗だった。

翌日、無事アリススプリングスに到着。横になれたせいか、思ったほど疲れは残らなかった。予約していたYHAでチェックインを済ませ、町へ繰り出す。インフォメーションセンターに行くと無料の町案内ツアーがあるとのことだったが、この日のツアーは既に出発後だった。エアーズロックへ向けては、明日の早朝出発せねばならない。アリススプリングスを見て回れるのは、この日しか無かった。ミュージアムなどの観光客向け施設は、全部お高い。諦めて町中を散歩していると、ちょっと古めかしいお土産屋さんがあった。中に入ると、意外と広い。お土産も売っているが、アボリジニの楽器・ディジュリドゥをメインで扱う店だった。

「体験レッスン 10ドル」

レジの横にあったポスターに、そう書いてあった。

「これって、予約無くても大丈夫ですか?」
「大丈夫だよー。10時からだから、時間の10分前までにはお店に来てください」

約束の時間まで1時間弱。宿でシャワーを浴びて、さっぱりしてから再度店に向かう。アリススプリングスは小さな町で、お店までは宿から歩いて5分だ。

店に入ると、先生が中に案内してくれた。手前の狭いお土産スペースからは想像できない広さの会場スペース。時々先生がコンサートをやっているらしい。先客が1人。アメリカから来たという彼女は、フライトアテンダントだという。

一人一本ディジュリドゥが渡される。結構重いし、大きい。

「はい、じゃ、まずは音出してみましょう」

難しい。なかなかいい音が出ない。

「とぅーとぅとぅとぅーっていう感じで、息を吹き込んでみて」

10分も練習していると、ようやく音らしい音が出てきた。

「お、いいねー。じゃ、音の高さ変えてみようか」

レッスンはたった30分程度だったが、結構ほっぺたが疲れた。私は音を出すだけで一苦労だったけれど、先生が奏でる音色は、素晴らしかった。音が蛇のようにクネクネと変化していくような、不思議な音。同じ楽器から出ているとは思えなかった。

午後は、エアーズロックツアーに向けた服を何着かと、帽子を購入した。帽子が無いとツアーに参加させてもらえないらしい。宿に戻ると、同室になるメンバーがもう1人チェックインしており、わさわさと荷解きをしている。

「もう、あたし片付けるのすごく苦手で!あっ、ここ穴空いてる!!」

おや。他人と思えない。

「あなた、これから予定は?あたし、夕日見に行くけど、一緒に行く?」

せっかくなので、ご一緒した。彼女はドイツから来ている外科医さんで、ちょっと人生に行き詰まって、病院を辞めたという。一年かけて旅をしてまわっているそうだ。

「また医者に戻るかどうか、わかんないな。でも、とりあえず、この夕日なんだか怖いくらいに綺麗ね」

夕日を見た後は、一緒にビールを飲みにいった。旅をしていると、いろいろな境遇の人に出会う。傷が多かったり深い人や、痛みを乗り越えたいと思っている人、また乗り越えた人は、とても眩しく見える。日本を出る前、自分の好きなように旅をしてみたいと思った。世界中の人とコミュニケーションが取れるようになりたいと思っていた。英語はまだまだだけれど、なんとなく、そのための翼を掴みかけている気がした。

(5)エアーズロック

翌日の出発は、5時。眠い目をこすりながら、迎えにきたバスに乗り込む。乗客は私ともう1人だけ。彼もドイツ出身だと言う。次に止まったバッパーで、人がなだれ込んできた。あっという間に満席だ。どうやら彼らはもうすでにエアーズロックを旅してきたらしく、帰る途中のようだ。もうグループが出来ている。その中に飛び込んでいく元気も無く、アウトバックを滑走するバスの中で、うつらうつらしていた。

「だんだん大きくなるエアーズロックをバスから眺めながら、現地入りしたい」そう思って陸路を選んだにも関わらず、目を覚ましたら、エアーズロックはもう、しっかりはっきり見えていた。中学校の英語の教科書で初めて知った、エアーズロック。まさかあのときは自分がここに来ることになるなんて、思いもしなかった。今更ながら、本当にオーストラリアに来たんだなーと感慨深かった。正直なところ、オーストラリア入りするまでシドニーがどこに位置するかも、見所も何も知らなかった。私にとって、オーストラリアといえばエアーズロックだった。

エアーズロック空港で前ツアーの参加者を降ろすと、残ったのは2人のドイツ人と私だけだった。

「他の参加者がくるまであと1時間くらいあるから、散歩してきていいよー」とガイドさんから放置され、近くにあるラクダ牧場まで歩いてみる。

おぉ、本当にラクダだっ!乗りたいっ!!と興奮していたのは私だけで、他の2人は乗らないというので、散歩だけして帰路につく。しかし、天気がいい。からっと晴れた青空。そして、空気が熱い。

戻ると、既に同じツアーに参加するメンバーが空港から到着していた。簡単にツアーの説明があり、早速バスに乗り込む。早くもエアーズロックの間近まで行くようだ。どんどん近づいてくるエアーズロック。遠くからだと台形に見えるのに、近づくとでこぼこしている。

残念ながら天候の関係で登ることは出来なかったが、壁画を見たりハエの洗礼を受けたり、十分堪能した。ただ、感動したかと言われると、実は首を傾げてしまう。ずーっと見たかった景色。どうやら日本を出てから、旅の楽しみ方が少し変わってしまったようだ。観光名所を直接目で見たことよりも、道中で親切な人に助けてもらったときの思い出の方が、誰かと語り合った思い出の方が、強く残っている。

翌日の早朝は、朝日に染まるエアーズロックを見るため、皆早めに起床した。なかなか見えない日の出を待つ中、ひと際うるさいグループが。三人とも浮かれた帽子をかぶっている。仲間の1人が誕生日を迎えたようだ。

「なかなか日、昇らないね」

そう話しかけてくれたのは、フランス人のコハリだった。
曇ってしまって結局上手く見られなかった日の出を待ちながら、お互いの身の上を紹介し合った。

ひと際うるさかったイタリア人グループ・ミルコ&ミケレ&チューリャ、コハリ、そしてもう1人のフランス人フローレンスと私を加えた6人組が仲良くなるのに、そう時間は掛からなかった。なぜなら、私たち以外のメンバーは皆英語に堪能だったからだ。

「今の説明、分かった?」
「あたし、ガイドが大きな声で言ったところ以外は重要じゃないと思ってるから。分かんなくても全然大丈夫!」

そういってカラッと笑うコハリとの旅は、楽しかった。彼女の英語は、文法的に間違っているところはたくさんあったけれど、言いたいことは伝えられているし、ネイティブとも気負わずに話せている。

「とにかく話すこと!あたしも来たばっかりの頃は全然話せなかったよ。マイコももっと口に出さないと!」

3泊4日を皆で過ごし、間でミケレの誕生日パーティーなども挟みつつ、いよいよ最終日。なぜか私以外全員メルボルンに住んでおり、この日から2週間以内にコハリ、ミケレが帰国するということで、1週間後にメルボルンで再終結することになった。

私はというと、飛行機の値段の関係と、ツアーから離れてエアーズロックに浸ってみたくて、1人でもう一泊することにしていた。宿にチェックイン後、ツアー中にできなかったラクダ乗りに挑戦するためツアーデスクに向かう。場所柄か、久しぶりに大量の日本人を見た。ラクダの背に乗って夕日を見るツアーと朝日を見るツアーがあり、同じ値段。夕日にはアルコールがつくということで、迷わず夕日にした。よく考えてみれば、同じ値段なのだから酒がついてくる分だけなにか不利なことがあると気付きそうなものだが、このときは全く考えなかった。結論から言えば、朝日の方が何倍も綺麗に見られるらしい。夕日も充分素晴らしかったけれど。

お酒を堪能して宿に戻り、フリーフード(前の宿泊者が使い切れなかった食材を置いていってくれることがある)を使って、遅い夕食を取った。翌日には、シドニーに帰る。旅立つ前は、こんな濃い旅になるとは想像も出来なかった。ビール片手に星空を眺めながら、旅のことを振り返った。シドニーに戻ったら、すぐケンブリッジ英検向けの勉強が始まる。とはいえ、昼の部の授業が始まるまで、1週間だけイブニングクラスの申し込みをしていた。ここで数日休んで、メルボルンに行こう。休みはおしまいだと思っていたけど、もう少しだけ延長させてください。

翌日は早起きして朝日が見られるというルックアウトポイントまでいった。20分ほどでだたっぴろい空き地につく。私以外誰もいない。空も白々と明け始めた頃、ようやくひょろっと背が高い青年がやってきた。メルボルン在住でルフトハンザに勤めているという彼と、少し話をする。

「わー、ようやく人が来た!誰も来ないかと思ってました。」
「あはは、多分皆なんかしらのツアーに参加してるんだろうね。ラクダに乗るやつとか。実は俺お酒飲めるっていうから夕日ツアーに参加したんだけど、朝日の方が綺麗に見られるらしくて」
「うわ、私と全く同じ!やっぱりスパークリングワイン飲めますよ、とか言われたら、そっちにしちゃいますよねー。どこのツアーですか?」

そんな世間話をしながら、日の出を待つ。エアーズロックとカタジュタの間から日が昇る。生まれてこの方、何度見たか分からないけれど、朝日、夕日、星空は、何度見ても見飽きることがない。この日の朝日は、とても綺麗だった。

朝食を済ませて、空港に向かう。長いようで短かった旅が終わった。家に帰ると、フラットメイトのGavとTomが既に帰っていて、写真の鑑賞会を行った。

「何人くらいとバカンス楽しんできたの?!」
「そんなのしてないよ、、、」
「えー!!バックパッカーなんて、そこらじゅうで誰かがやってるじゃんか!」
「Gav、それは偏見って言ってね、、、、」
「違うよー!俺が旅行したときは、、、、」

ピザを食べながら、楽しく夜は更けていった。

鑑賞会が終わると、

「Maiko、これ」

現金だった。

「受け取れないよ!」
「いや、Gavと話し合ったんだけど、この一ヶ月Maiko丸々いなかったし、家賃半分返すよ。全額返せなくて申し訳ないけど」

言っても聞いてくれなさそうだったし、ありがたく受け取った。いつか恩返ししたい。

翌日の夕方から、早速クラスが始まった。翌週に本番試験を控えているということで、皆既に準備万端という感じだ。私はというと、、、さっぱり分からなかった。こんな状態ですぐ学校を休むことになるという不安を感じつつも、やはり決心は変わらなかった。勉強は帰ってきてから頑張ろう。メルボルンに皆に会いにいこう。

(6)メルボルン

コハリが泊まっているバックパッカーに宿を取り、一路メルボルンへ。シドニーからメルボルンに引っ越してくるというチューリャが私の1便遅れで到着するというので彼女の到着を待ち、共に市内へ向かった。オーストラリアに来たばかりだと言う彼女の英語は正直私よりひどかったが、感情たっぷりに簡単な言葉を並べて話すチューリャは、とてもかわいかった。上手じゃなくても一生懸命話すことが大切なんだと、改めて学んだ。

バスに揺られて街の中心地につくと、コハリが迎えにきてくれていた。引越先に向かうチューリャに別れを告げ、宿にチェックイン。コハリが同じ部屋を取ってくれていた。少し休憩をして、メルボルン観光。人は多いけれど、落ち着いた雰囲気。魔女の宅急便のモデルといわれる駅も、ついに見ることができた。

皆で合流して飲みに行ったり、ビーチに行ったり、マーケットに行ったり、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

遂に最終日。コハリがバス乗り場まで見送りにきてくれた。

「いつか、また会おうね!」

実現するのが難しいのは、お互いに分かっている。それでも、また、いつか。どこかで再会出来ることを祈っている。

エアーズロック仲間と


8. FCE対策講座

シドニーには、早朝到着した。夕方から早速授業だ。サボっていた分、これから挽回しないと。決意だけは新たにしたものの、授業は相変わらず全く分からなかった。試験がwriting, listening, reading, speakingの4科目あるということ以外何の知識もなかったんだから、仕方ない。とはいいつつ、私とペアになった人は全く練習にならなっただろうと思うので、今思っても申し訳ない。

イブニングクラスに行くと、時々「ミヨコ」という名前が聞こえてくることがあった。「あたしゃ、マイコだよ。」と思っていたのだが、どうやら私が来る前にミヨコという名の日本人がいて、雰囲気が似ているらしい。よく先生にもクラスメイトにも間違えられた。ちなみに、「ミヨコ」がアプラック生で、この後飲んだりお茶したり、ニュージーランドはダニーデンで再会するのはもっと先の話。

中途半端に入ってしまったFCEクラスでついていけないまま悶々としていると、エアーズロック仲間のフローレンスから連絡が入った。

「あたし、シドニーに行くことにした!」

フローレンスは私と一番歳が近く、私の1つ年上だ。彼女はフランスのテレビ局に勤めていて、フランスでは有名なキャスターと不倫関係に陥ったが、その関係に疲れて、会社を1年休職。世界中を旅している最中だった。彼女のシドニー滞在中、何度かお茶やご飯を一緒に食べた。お互いの恋愛話や、将来の話、彼女の仕事の新しいアイデア出し。このところ出会うのはかなり年下か、かなり年上ばかりだったので、久しぶりに同年代と語り合ったような気がする。小さい体できびきび動き、前の彼氏の話をするときすごく綺麗な表情をする彼女と話をするのは、楽しかった。パリに来たら連絡してね!と朗らかに彼女は旅立って行った。

イブニングクラスに通っている間、昼間は暇だった。英語の勉強も宿題くらいしかやる気になれず、だらだらと過ごす毎日。そんな中、ひとりの日本人に出会った。日本で銀行員をやった後、アメリカで現地民とブランドを立ち上げ店を経営しているという。歯の治療のためオーストラリアに来たという彼は、まだ30歳だった。

「いやー、店自体はあるんですけど、ビジネスパートナーに金全部持って行かれちゃって。」

結構悲惨な境遇の人だった。それでもこの年齢でそれだけのキャリアを積んでいること自体すごいし、この人だったらもう一度立ち上がるだろう。日本人でもこんな風に生きている人がいるんだな、と勇気をもらった気がする。

そうこうしているうちに、いよいよFCEのモーニングクラスが始まった。クラスは全部で12人。日本人は2人だったが、途中で1人抜けてしまい、最終的には1人になった。クラスメイトはスペイン、フランス、イタリア、ブラジル、ベトナム、スイスと多国籍。12人中男性は3人だったが、そのうち2人はゲイで、先生もゲイという、なかなか面白いクラスだった。スペイン人の元カウンセラー、エイドリアンはムキムキマッチョなのに、私よりよっぽど女子らしかった。

授業はというと、テキストに沿って一通り文法を勉強しながら、試験の傾向に合わせた問題を解いていくのが多かった。やはり一般英語のクラスとは違って、楽しむことよりもいかに点を取っていくかに焦点が当たった授業内容になっている。

イブニングクラスに出ていたおかげでかろうじてFCEがどういう試験形式を取っているか分かっていたものの、それ以外は相変わらずひどいものだった。

ある日、それぞれ自分が住んでいるところについて説明をするスピーキング練習があった。パートナーは、文法は出来ないのにおしゃべり大好きなフランス人のジョナサンとベトナム人のヌイット。快活にしゃべる2人に対して、詰まりに詰まって、途中で頭が真っ白になる私。途中で全く話せなくなり、ジョナサンに大爆笑され、ヌイットがあたしを庇ってけんかするという生き恥をさらすことになった。情けない。

FCEクラスでは大量に宿題が出るので、私はよく教室に残って宿題をしていた。噂通りヨーロピアンもブラジリアンも結構いい加減で、宿題はやってこないわ、遅刻はするわ、プライベートでは仕事にジムに忙しく、それほど勉強している様子はなかった。

ところが、べっぴんイタリア人のフランチェスカだけは違った。本気で勉強するためにバイトにバイトを重ねてお金を貯め、FCEクラスの3ヶ月間は一切仕事せず勉強するという熱の入れよう。彼女は既にオーストラリアで2年暮らしていて、イングランド人の彼氏もいる。つまり会話には不自由していない。読書が趣味で、英語の本もよく読んでいた。私からすると、「なんでここにいるの?」という感じだ。

「あたしね、ちゃんと英語習ったことないのよ。基礎がないとだめだって気付いたの。やるからにはトップを目指す。ただ合格するだけじゃなくて、A評価で合格するわっ!」

やる気満々のフランチェスカに、唯一私より年上のこれまたべっぴんスペイン人のマルタ(パートナービザで滞在中。FCEを受ける気はなく、単に英語力向上のために参加)、そしてしゃべれない、聞けないけど、努力だけはするちんちくりん日本人の私がなんとなく3人組で授業を受けるようになった。2人ともあまりアジア人の友達がいないらしく、「アジア人って、みんな目細いじゃない?ちゃんと見えてるの?」などと面と向かって聞かれてびっくりした。見えてるよ。

授業が始まって1週間が経ち、2週間が経ち、、、まじめに宿題をしていても、予習復習をしていても、自身が望んでいたような成長は全く感じなかった。特にリスニング。聞けるようになる気が全くしない。授業中の練習問題でもほとんど勘で答えていて、なぜこの答えを選んだのかディスカッションする時間に何も答えられないという日々が続いた。休み時間にクラスメイトが談笑している内容に私だけついていけず、フランチェスカに噛み砕いて教えてもらうことも多かった。

「このままじゃ、ヤバい」

先生に勉強方法を聞いても「リスニングだけは、場数踏まないと、、、」という全く参考にならない回答しかもらえず、「リスニング 上達」「英語 聞き取れない 練習」などのワードでgoogleに問い合わせを掛ける日々。そして行き着いた先が、フレンズDVD全巻一気買いだった。無職だったのに、大金叩いて日本から輸入。いろんなサイトでフレンズがいいって言ってたから、、、。それくらい結構思い詰めていた。結論から言えば、いまだシーズン1しか見終わってない上に、リスニング力向上に役立ったかと言えば、甚だ疑問。とはいえ現時点でもリスニング力はまだまだなので、今後勉強に活用したい、、、。結局試験用の対策は、試験対策用のリスニング教材を使うのが一番良かろうということで、先生に頼んで、テキストと授業で使ったリスニング教材のスクリプトと音源をもらって、繰り返し聞くという練習に途中から切り替えた。

ある日、学校主催の全校アンケートが実施された。これは月一回の恒例行事で、パソコンを使って先生や学校の評価を行うものなのだが、今回のアンケートではヨーロピアンたちがいつまで経ってもコンピュータールームから帰ってこない。先生と「遅いねぇ」なんて話していると、ぱらぱらとメンバーが帰ってきた。

「すっごい時間掛かってたね」とジョナサンに話しかけると、

「ってか、マイコはなんでそんな早いんだよ!ちゃんと書いたのか?」
「え、別に。そんな書くことなくない?」
「なにいってんだよ!先週校舎が引越しただろ。ここは防音がいまいちで隣近所の教室からリスニング問題が聞こえてきて邪魔だし、冷暖房の効きが悪いし、排気口がむき出しだし、タイース(ブラジリアン。学生ビザでのオーストラリア滞在が目的のため、試験を受ける予定なし。よって不真面目)が授業の邪魔するし、ミッチェルの授業だって、質問しても回答もらえないことがあるじゃないか!いくら書いても書き足りないね!!」

うなずくヨーロピアンたち。後日学長が私たちのクラスに来て、色々ヒアリングしてくれ、教室環境はかなり改善された。言ってみるって大切なんだなぁ、と感じた出来事だった。

翌週に第1回モックテスト(模擬試験)を控えた授業中に、スピーキングパートナーが発表になった。私の相手は、フランチェスカ。一番話慣れているし、ラッキーだ。モックテストは、本番と同じ時間配分で、1日掛けてテストが行われる。結果は、Cランクでギリギリ合格のスコア。トップはフランチェスカだった。ライティング&リーディングはそこそこなものの、やはりスピーキング&リスニングが足を引っ張った。なお、モックテストの後は担任から一対一でアドバイスをもらうことが出来る。自分の何が弱いのか、分かってよかった。

この頃は、毎日4時に起きて、土日も休まず勉強していた。
スピーキングの「発音最悪」の評価と、リスニングのクラス最下位結果を受けて、成績が伸びないのは、発音が悪いせいで聞き取れないのでは?と思い立ち、学校の先生の個人レッスンも受けることにした。にも拘らず、成績が上がらない。私より明らかに勉強していないクラスメイトたちが軒並み成績をあげてくる中、私の成績だけが上がらないのだ。

フラットメイトのGavには、こんなことも言われた。
「マイコは人とコミュニケーションが取りたくて英語やってるんだろ?最近のマイコは、机にかじりついてばっかりだけど、それでいいの?話せるようになりたいんだったら、もっと人とコミュニケーション取れよ。もっとテレビ見たりすれば?」

ごもっともだった。でも、私はこれに3,000ドル投資しているんだ。半年留学して日本に帰ったときに、なにかしらのサーティフィケイトがあるのとないのでは、再就職のときの就職活動に明らかに差が出る。絶対に合格しなきゃいけない。そう思い込んでいた。いつの間にか合格することに目的がすり替わっていたのだ。

勉強虫になっていた私は、得意なはずのリーディングですら点数を落としはじめていた。そんなある金曜日、リーディングで、初めてクラス最下位を取った。

「マイコ、勉強し過ぎだよ。リラックスする時間を取らないと、勉強したことも頭に入らないよ。」

一気に落ち込む私を見て、クラスメイトはそう慰めてくれた。
疲れきっていた私は、もう勉強する気になれなかった。そうだ、みんながいう通り、なにか楽しいことをしなきゃ。あぁ、そういえば最近美味しいお酒飲んでない、、、昼間っからビール飲んじゃおう。景色がいいところで、今まで行ったことないところがいいな、、、。

そうして選んだのが、フィッシュマーケットだった。シドニーに5ヶ月も住んでいて、まだ一度も行ったことがなかったのだ。フィッシュアンドチップスに少し高めのビールを買って、海を見ながらぼーっとする。海臭い。1本じゃ足りない、、、2本目だ!と酒屋に行くと、ひとりのおじさんに声を掛けられた。

「1人?グループで来てるんだけど、混ざらない?」

英語の勉強にもなるし、ま、いいかな。と参加することにした。なんとなくインテリ臭のするおじ樣方で、聞けば大学法学部時代の仲間だそうだ。そのうちの1人に「おまえ、英語話せるのか?」と聞かれ、「上手くはないけど、練習中だ」と答えると、大笑いされた。

「日本人はLとRの発音が分からないって言うけど、本当なんだな!今おれはDo you speak Engrish?って聞いたんだ。だから、君はNo, I don’t.って答えるべきだったんだよ。」

全然面白くない。フィッシュマーケットに来てまでバカにされるとは、、、。

「ごめんね、彼はバリスタだから、ちょっと鼻につく物言いしちゃうんだよね。いいやつなんだけど。」

そう助け舟を出してくれたのは、日本の保険会社のオーストラリア支店長を務めるマークだった。私の事情を話すと、もしかしたら仕事を紹介出来るかもしれないというので、名刺をいただいた。ちなみに、しばらくバリスタとはコーヒーいれる人(Barista)だと思い込んでいたが、実はBarristerで、法廷弁護士さんだった。道理で弁が立つと思った。この週末は一切勉強せず、久しぶりにのんびり過ごした。

翌週学校に行くと、試験本番のスピーキングパートナーが発表になった。てっきりフランチェスカが相手なんだとばかり思っていたが、私のパートナーはスペイン人のカルロスになった。マシンガンのように話すフランチェスカと違い、私と同じくらいのスピーキングレベルで、優しく話すカルロスとは、話しやすかった。結果的に彼がパートナーで良かったと思う。

同じ頃、ライティングのテストに鉛筆と消しゴムを使ってはいけないことが判明。ボールペンだけで試験を受けるなんて、未だかつて経験がない。先生のミッチェルは、「別にたいした違いはないと思って言わなかった」と言っていたが、私にとっては大違いだ。調整にしばらく時間が掛かった。ちなみにヨーロッパではテストにボールペンを使うのは珍しくないようだ。

そうこうしているうちに、2回目のモックテストが実施された。今でも忘れられないのが、スピーキングテストで聞かれたこの質問だ。

「If you could change only one thing in your life, what would you want to change?」

さんざん考えたあげく、
「私は一度離婚しているので、パートナーを変えると思う」と答えてしまった。それ以外の答えが全く浮かばなかった。離婚経験があることは、フランチェスカ以外、誰にも言っていなかった。先生とカルロスの驚いた顔を見て頭が真っ白になり、その後のテストはひどいものだった。何を聞かれても質問が頭に入ってこず、何度も聞き返し、カルロスとのディスカッションでは、彼が何度も助け舟を出してくれたにも関わらず、まともに受け答えをすることが出来なかった。この日はクラスの出席者が奇数だったため、もう一度テストを受けるチャンスをもらい、2回目はなんとか乗り切った。なんだかんだ、まだ離婚のことを引きずっている自分にびっくりした。

試験結果は、総合点が5点ほどアップしていたが、それほど実力が上がっているとは感じなかった。ランクもCのまま。それでも、クラスに参加し始めた何も分からない状態からは、少なくとも何かを掴みかけている感じがした。

この頃フィッシュマーケットで出会ったマークに履歴書を添削してもらったり、カフェで出会ったミルコに色々外に連れ出してもらったり、学校で仲良くなった他のクラスのスペイン人マリアと仲良くなったりと、外で息抜きする時間が多くなっていった。

その後、仕事の件はぽしゃったものの、なんだかんだでマークと付き合うようになり、会社のパーティーにこっそり紛れ込ませてもらったり、オフィスを見学させてもらったり、なかなか出来ない体験をさせてもらった。なにより自分が好かれていると思うとリラックスして話が出来るようになり、相手が言っていることもわからなければ何度も聞き返す、ということが出来るようになっていった。毎日のように時間をやりくりして会いにきてくれるマークの話を聞くと、オーストラリアの仕事のスタイルは本当に日本と違うんだなぁと感じることも出来た。昼間に仕事を抜けてワークアウトに行ったり、3時には仕事を終えて会いにきてくれたり。7時に仕事が終わると「今日はものすごく忙しかったんだよ!」と報告してくれる。7時に仕事が終われば、日本では早い方だ。

そして、もうそろそろ、卒業後の進路を考えなければならない時期になってきた。英語もまだまだだし、マークともう少し一緒に時間を過ごしたいなーとも思っていたので、FCEの一つ上のクラス、CAEを受けてみようかとも考えた。

そのことをフランチェスカに相談すると、、、

「ぜっっっったい止めなさい!マイコ、あなたしゃべれるようになりたいんでしょ??あなたに必要なのは、街に出ることよ。3,000ドルあったらすっごい旅行が出来るわよ。旅に出なさい、旅!もしくは働け!ね、そう思うでしょ、みんな」

「そうだよー、これ以上学校で何習うっていうんだよ。場数を踏め、場数を」
「そうだ、そうだ」

私のフォローをしてくれる人は、誰もいなかった。全員反対。さて、どうしよう。学校に通わないとなると、オーストラリアにはいられない。でも、まだ日本には帰りたくない。フランチェスカが言うように、旅をしてみようか。世界一周のタイミングがきたかな。うん、世界を回りながら職を探そう。そう決めた。

学校では、フランチェスカの誕生日会をみんなで祝ったり、試験を受けないマルタの一足早い卒業パーティーをやったりする一方、刻一刻とせまる本番テストにクラスの雰囲気もピリピリしてきた。

そんな中、スピーキングテストが予定より早まるという知らせが入った。通常スピーキングテストはリーディング、ライティング、リスニングの1週間後に行われるが、私たちの回は順番が逆になったのだ。それからの授業はほとんどスピーキングの練習に当てられた。それに合わせて発音およびスピーキング個人レッスンの回数も増やしたが、先生のダニーからは「複雑なことを話そうとしすぎて、自然な会話が出来ていない」と指摘を受けた。クラスの担任の先生から試験で高得点を取るためのポイントばかり習っていたので、どんどん頭が混乱していったんだと思う。そして、クラス担任のミッチェルからはダメ出しされることが非常に多かった。どうにかしなきゃ、と焦っていた。そんな私にダニーがくれたアドバイスはこうだった。

「難しい言葉や文法やいろんな時制を使って話すことも大切だけど、それよりもっと自然に話した方がいいよ。大丈夫、マイコは実力がある。あんまり勉強しすぎないで。考えすぎないで。大切なのは、リラックスすることだよ。今日のレッスンが終わったら、明日のテストまで一切テキストは開かないこと。新しいことはもう頭に入れないで。大丈夫。マイコなら大丈夫だよ。」

ダニーは褒め上手だった。発音やスピーキングといったスキルを習えたことも大きかったけれど、彼女の厳しくも優しいアドバイスは私の心を軽くしてくれた。奇しくもちょうどこの日、観光ビザの申請が却下されたのだが、不思議とこのことで動揺はしなかったように思う。

スピーキングテスト当日。クラス全員がスターバックスに集合して、一息ついてから会場へと向かった。会場へは私物が一切持ち込めない。受付を済ませて、かばんを預ける。日本での試験ではいつも直前までノートを見ていたので、なんだかそわそわする。試験は無事終了。それほど大きな失敗もなく、成功もない。実力がそのまま出た感じだった。

翌週からは当然、スピーキング以外の教科を勉強するわけだが、クラス担任のミッチェルのやる気が目に見えてなくなった。何を聞いても「もう今からやっても、、、」と答えてくれない。明らかに、テスト後のお祝いパーティーとホリデー中の彼氏との旅行に意識が集中している。おいおい、本番来週だぞ!と皆が突っ込みたい気持ちでいっぱいだった。

勉強の傍ら、 ダメ元で移民局に電話をかけたが、前述の通りあっさりと却下された。

あっという間に迎えた試験当日、試験官は予想以上にストリクトだった。まず、スピーキング試験と同様、試験会場に荷物は一切持ち込めない。試験はリーディング、ライティング、ヒアリングの順番で行われたが、ライティングの前にノートを確認する時間がもらえないのだ。お手洗いに行くときは、パスポート持参。腕時計もNG。この日のために買った時計は全く役に立たなかった、、、。

クラスの皆と

さらにこの日は、試験官からの指示が諸々間違っており、試験開始が30分以上遅れた。また、試験が遅れているという理由で、リスニング前の休憩時間が削られるというアクシデントも。こんな疲れた状態じゃ、集中出来ない!とフランチェスカが憤慨していたが、心の中で「もっと言え!」と思っていた。日本じゃありえない。当然決定が覆ることはなかったが、なんとか無事終了。

色々思うところはあるも、ようやく終わって外に出ると、CAE担任の先生がお酒とスナックを用意して待っていてくれた。うちの担任はいなかったので、気の毒がってオブザベーションヒルへのピクニックに一緒に連れて行ってくれた。試験の終わった開放感と昼間から飲む酒の旨さを噛み締めた。ここまで、長かったー、、、。バーを2件はしごした後、今度はFCEメンバーと卒業パーティー。卒業後は、シドニーに残るもの、すぐ国に帰るもの、旅行をするものとてんでバラバラだ。久しぶりの学校生活も、とうとうおしまい。

久しぶりに勉強して苦しかったけれど、ここで勉強したことは後の海外生活の基礎になっている。エッセイの書き方や、公の場での話し方。まだまだ身についてはいないけれど、このクラスに通えてよかった。

ビザの終了まで、あと3週間。2週間はオーストラリア東部を訪ねる旅に出ることにした。荷物の整理やら友達に会ったりしていたら、シドニーを離れる日はあっという間にやってきた。

いよいよGav&Tomともお別れ。いつもご飯を分けてもらっていたお礼に、五目寿司と唐揚げとお味噌汁を作る。揚げる端から唐揚げを食べていく2人を見て、「もっと早く作ってあげればよかったなぁ」と思ったり。お腹いっぱいになってくつろいでいると、「好きかどうかわかんないけど。見たときになんとなくマイコっぽいなーと思ったんだ。」とUGGの靴とカードを手渡してくれた。(マイコっぽいをMaikoishといっていたのが印象的だった。人名にもishを使うんだなぁ、と、、、)なんとなくする機会がなかったので、結果的に初めてとなるハグをして、2人に別れを告げた。本当に、ここで暮らせてよかった。

9.オーストラリア旅行再び

マークにも別れをつげ、この頃ボンダイで暮らしてらっしゃった山崎夫妻にお別れパーティーをしていただき、いよいよシドニーを離れる。荷物はほとんど友達に譲り、残りは日本に送った。残ったのはバックパックだけ。どこの国に寄るかはまだ決めてないから、必要なものがあったら道中でそろえよう。

初めに向かったのはケアンズだった。どうしてもグレートバリアリーフでダイビングをしてみたかったからだ。

到着した日は夜中で気付かなかったが、翌日目覚めると蒸し暑い。さっそくメインロードを探索してみると、思いがけず小さな町だった。道中ブルワリーを見つけて、安定のビール工場見学。そして、初のスカイダイビングとグレートバリアリーフでのスキューバダイビングを申し込んだ。

スカイダイビングは怖いと思う暇もないくらいあっという間に終わってしまったけれど、素晴らしい体験だった。雲と海と空と地平線のコントラスト。綺麗だった。

肝心のスキューバダイビングはというと、少しでも綺麗な場所で潜りたいという思いからポートダグラスまで足を伸ばして一泊するも、天気が最悪。もともと予約していたトリップはキャンセル、もう少し大きな船のツアーに振り返られたものの、海は大荒れで船の上で立っていることも出来ないほどだった。海の中もそれほど綺麗な状態ではなかったので、いつかクジラが見える時期にリベンジしたい。

ケアンズに戻って、Airbnb を使って宿泊初体験。オーナーは犬と鳥をお供に1人で暮らしている感じのいいおばさまだったが、話しを聞いてみると結婚暦3回、破産暦4回のツワモノ。それなのに悲壮感が漂っていない。「人生、なるようになるものよ。あなたと話すのに一晩じゃ足りないわね。よかったらまたいらっしゃい。」そういって、空港まで送ってくれた。

次は、ケアンズからゴールドコーストへ。こちらも天気が最悪で、サーファーズパラダイスの景色も、どんより曇り空。とはいえ、Airbnbのオーナーが20歳役者志望、夜はバーで働くけれど、自分はお酒も肉も乳製品も食べないというビーガンのとても感じのいい子で、彼女に会えただけでも行った価値が会ったように思う。移動日には同じ日に泊まっていたベトナム人学生二人組がレンタカーでブリスベンまで送ってくれることに。アカウントの大学院をシドニーで卒業したものの、なんの職につくか決まってないというお金持ちのボンボンの雰囲気を漂わせた若者たちだった。

ブリスベンでは、初めてのカウチサーフィンを経験。空き部屋がなんと4つもあって、地下にはビリヤード台とダーツ、船も所有しているという話しだけ聞けばどれだけお金持ちなのかと思うおじさまのお宅。本職はビスケット工場の作業員で、離婚した元奥さんから譲り受けたようだ。非常に気前のいいオーナーで、船で釣りに連れていってもらったり、夜はビリヤードとダーツをやりながらビール飲み放題。カウチサーフィンは宿泊料無料ということもあり、なんとなく怖いイメージだったが、お礼にフランス人と共に夕飯にクレープを作ったり、他のカウチサーファーとも交流出来て、いい経験になった。

10.バヌアツ旅行

ビザが切れる前日、いよいよオーストラリアを離れ、航空券が安かったという理由でバヌアツ(フィジーの近く)へ移動。飛行機が遅れる&タクシー運転手と上手くコミュニケーションできないなど少々のアクシデントはありつつも、夜中に無事宿到着。常夏の南の島を想像していたものの、天気は悪いわ、寒いはで、先行きに不安を感じる。

とりあえずバヌアツに入ったところでFacebookを更新したら、友達からバヌアツでホテルを経営する日本人を紹介してもらった。結局高くて彼が経営するホテルには泊まれなかったものの、Hideaway Islandという一島一リゾートにも関わらずドミトリーを併設する宿の存在と、活火山を有するタンナ島の情報を教えてもらった。せっかくの機会なので両方行くことに。Hideawayはリーズナブルな価格にも関わらず宿泊者に無料でツアーを提供してくれたり、スノーケルギアを貸してくれたりと、至れり尽くせり。施設も綺麗でおすすめ。タンナ島は、国際空港を持つエファテ島から飛行機で1時間程度の離島。往復航空券が結構高かったので躊躇したものの、ツリーハウスに泊まれること、溶岩を間近で見られることから、タンナ行きを決断。現地につくと4WDでしか走れないガタガタ道を数時間かけて、ツリーハウスに到着。部屋には窓ガラスがなく、カーテンだけがかかっており、火山が噴火するとその風でカーテンが揺れる。シャワーは水しかでないし、不便この上ないところだったが、自然の大きな力を感じることができたし、なによりこの宿で出会ったルーマニア人のご夫婦、フランス人とマダガスカル人のご夫婦とその子供達とはとてもいい時間を過ごした。

間近で見た活火山



タンナで2泊3日した後、エファテに戻り、例のホテル経営者ひろさんとそのご友人たちに色々お世話になった後、いよいよニュージーランド・オークランドへ。飛行機の中で今のボスに出会い、その後ダニーデンに移った。この後の話しは、Facebookにも上げていただいているので、割愛。

おわりに


私の学校生活はトータル6ヶ月、オーストラリア滞在は7ヶ月とワーホリに比べれば短いものでしたが、結果的にきっちり6ヶ月間学校に通えたのは良かったと思っています。あの6ヶ月が無ければ、ニュージーランドで仕事を見つけることも出来なかったでしょう。

英語力もそうですが、日本以外の国で生活を送った中でなにより大きな収穫だと思うのは、人生観が変わったこと、そして変化を恐れなくなったことだと思います。

日本にいた頃は、そこそこの学校に行って、そこそこの会社に入って、結婚して、子供を産んで、定年まで勤めて、、、と多くの人が信じている幸せを追いかけていました。もちろんそれはそれでいいことだと思うのですが、私の場合は自分がそれを心地よいと感じていないにも関わらず、「これが幸せって信じられているんだから、この道を進むのがきっと正しいんだろう」「両親にも心配かけたくないしなぁ」と自分の本当の気持ちとしっかり向き合うこと無く32歳までいってしまいました。それが離婚という形で自分の理想型が一旦粉々に崩れ、それをきっかけにオーストラリアへ渡ってみると、世の中には本当にいろんな生き方をしている人がいました。当たり前ですが、生き方は一つじゃない、自分で選んでいいんだ、そう思いました。

また、不安定な生活に身をおいてみて、生活拠点や仕事場などを変えることにそれほど恐怖を感じなくなりました。今一番いるべき場所はどこなのか?田村さんやグラスハウスマウンテンで出会ったジェイミーが教えてくれたことが、少しずつ身に付いてきている様な気がします。

自分の人生なんだから、自分が心地よいと思えることを。
日本を出てから、自分と向き合う時間が増えました。なにが自分を幸せにしてくれるのか?それは青空であり、海であり、星であり、今日はやるべきことやった!よくやった、自分!という気分で飲むビールであり、バイクに乗ってニュージーランドを走り抜ける爽快感であり、友達と家族とバーでたまたま知り合った人と語り合う時間であり、人からありがとうといわれる瞬間であり、日本にいた頃よりお金はないけれど、「あー、あたし今幸せ!」と思える時間は断然増えました。

とはいえ、両親は日本にいるし、彼らになにかあったとき、お世話をしないでこちらで暮らし続ける、というのも自分として納得出来ないように気がするので、いつかは日本に戻るかもしれません。人生まだまだこれからなので、今後も自分が納得出来る人生に出来るように邁進していきたいと思います。


辻麻衣子

その後の辻さん〜NZマネージャー奮戦記の参考リンク(FBページより)
辻麻衣子さん来訪〜NZ共同経営壮絶ボコられ記
辻麻衣子さんのNZマネージャー修行奮戦記(続)
辻麻衣子さんのNZマネージャー奮戦記(その3)
02月02日:辻さんのNZマネージャー奮戦記(その4-1=前編)
02月02日:辻さんのNZマネージャー奮戦記(その4-2=後編)
辻さんのNZマネージャー奮戦記(その5)


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