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2015年02月07日


ワーホリ体験記 石渡航平さん

 2013年10月渡豪〜2014年06月帰国


始まり


カンボジアに行った時のこと。
ベンメリアという遺跡がありまして、そこへ向かいました。あまり有名ではないですが素晴らしい場所です。

そこで、カンボジアの子ども達が少しのお金を払えば観光案内してくれます。秘密の抜け道や、秘密の場所などを。

そんな子供達にどこからかきた観光客の同い年位の子どもが来てお金を投げて笑っておりました。

そしてそのお金を拾うカンボジアの子供。


あー俺は何も知らんと思いました。
お金を投げた子に不思議と怒りなどは感じず、自分の無知さを恥じることしかできなかったのです。
この地球で生きてく以上、行動に繋げる上で知らなきゃいけない事はたくさんある。そしてそれは日本ではなかなか知ることは難しいと。

それを知るには田村さんの言う「皮膚感覚」で知るしかないと思います。

そしてその二年後、僕はオーストラリアの地を踏んでおりました。
僕はラウンドも行っていませんし、楽しい体験談になるかなんてわからないけれど、この場を借りて自分のオーストラリアライフを書きたい次第であります。

駄文ではございますが、ワーホリを考えている人や悩んでいる人の参考に少しでもなれたら幸いです。


まず、オーストラリアに着いた時、英語力もお金もなにもありませんでした。
英語なんて洋楽が好きだ位でまともに勉強してたこともない。
来る前にDSの英語漬けやって満足してたくらいで、お金も田村さんの家から出た翌日位から仕事を探さないと生活もままならない位しかもって来てなくて。

だからこれは特別な人というストーリーじゃないです。

お金なくても(あったほうがいいけど)、人脈なくても、自分がその気になれば海外には行けます。
けど行ってからどうするの?とか
ツテもなんもないわ!など、様々な不安要素がある人…
そんな人たちをちゃんと羽ばたかせてくれたのがAplacだと思います。


シドニー着

十月二十八日。シドニー空港に降り立ちました。

田村さんの第一印象は思っていたよりフランクで安心したのを覚えています。
そう。僕はエッセイや他のコンテンツを読んでAPLACに決めたので、この文書く人はバリバリのエリートスーツ黒ぶち眼鏡系だと勝手に思っていた訳です。

しかし、その予想は外れ、赤羽の居酒屋で人気者になりそうな雰囲気の人それが田村さんでした。(無論褒め言葉です。)


そして、最初の1週間。
僕は予想していました。  
そこまで辛くはないだろうと。。。。

その予想はまたも大きく外れます。。


そう、
「SNSに泣き言とか書くやつ何がしたいの?あほくせー!マジくだらねーわ。」
などとふれまわっていた僕が
いいねボタンなんて押せない投稿をFacebookに泣き言を投稿してしまう位に。。

学校は割とサクッと決まり。(このときに直感の大事さに気付いた)
あとは家だ! ということで家探しが始まります。 ここでは田村さんが家探しについてのノウハウや英語の発声、発音などをレクチャーしてくるわけなんです。

しかし、歩けど歩けどなかなかやんわりと描いている希望の家が見つからない毎日…。
これは本当に見つかるのだろうかという不安。足は疲れ、精神的にも疲れ。。

ギリシャ料理!同期の桜のメグミさんと
疲れた体に染みわたる、何日目かの晩に食べた初めてのギリシャ料理。
前評判で勝手にオーストラリアの料理はあまりおいしくないと思っていた私。
よくよく考えていたらそんなことはない、ここは多民族国家オーストラリア様々な国の本場の料理が食べれるではないか!!!!

この時に食が好きな自分の中に小さな火が着きました。
多くの国の料理を食べようと…

まぁ…お金をゲットしたら…


デニスの家

中央にオーナーのデニスさん。メグミさんはこの直後にシェア移動
そして最後の方に、たしか土曜あたり、に出てた全文英語だけど最後の方におまけ程度に「日本語OK」と書いてある不思議かつ怪しげなシェアを発見。
正直一生見つからないかも知れない…(結構これはガチで思っていて、もう半ばヤケクソになっている自分もいたわけで。)
などと思っていた自分にとって、怪しかろうが不思議だろうが行って見ない限り何もわからん!ということでアポ取りして向かいました。

以下アポ取りの会話

me 「hi! my name is kohei! I'm instead in your share accommodation. Is it still available ? 」
owner「yes. Where are you from?」
me「I'm from Japan!!」
o「あ、やっぱり?まだ空いてるよー。いつ来るー?」
me「?!?! トゥトゥ(tomorrow ) 明日でお願いします。」
o「オーケー!では明日の二時位にに来てねーじゃあ明日ー」
me「あっ…はい。では明日よろしくお願いします…。」

どうやら日本人訛り(その時は日本人訛りがあるのかすらも、更にシラブルやら発音の仕方なんて知らなかった)のために、すぐに出身国がバレてしまい、その時のショボイ僕は、いやーさすが日本語OKなんて書いてあるだけあって、わかるもんだなー!へへっ!なんて思っていたわけです。

そして翌日

そこはそう。
petershamというポルトガル系が多いサバーブでございました。
特徴?そんなもんはねーよ!ぐらいの勢いで観光客を突き放すような街。
ボンダイやマンリーなど住んでて女子受けしそうな場所なんかとは程遠いいそれはそれは閑静な住宅街でございました。

家でみんなでこの格好してギター演奏会した時の1枚です。テーマはオーストラリアンカントリーです。足元のビーサンで締めてます
そうですね、東京で言うと板橋的な立ち位置でしょうか。
駅周辺なんぞパブ一つ位しかなく、こんなところにシェアハウスが…?なんて思う街でございまして。 

いやむしろ家だらけでした。

恐る恐る住所に行ってみるとそこには日本語の流暢なOGの叔父様がいました。
デニスという方で神戸に10年近くカイロプラティックの勉強のため滞在していたらしく日本語も流暢、英語の発音もめっちゃ綺麗な訛りのない(僕にはわからなかったけど一緒にシェア探ししていたメグミさん談) ナイスガイ。

もう迷ってもられず即決めしました。
まず、1人部屋でお値段も週145ドルという安さ。更に本当に住むか働くかどっちかしたかったNEWTOWN から電車で4分という好立地。しかも駅から徒歩1分という…パーフェクト!

そこに僕は八ヶ月住むことになります。


そして決まってから一つ言いたかったこと。
それはスニーカーは大事だ!

いいもんじゃなくても履きなれたスニーカーを履いてきた方がいいです。もうこれは間違いないということ…。

一週間2ドル生活〜金と情けとバイトと健康と


そして移動して初日、新しい敵がやってきました。
何を隠そう、僕は25年間実家暮らしというあまちゃんもあまちゃん。
素潜りは得意でも飯も炊けない、味噌汁も作れないという今思うと恐ろしい人間でございまして。

そうなんです。御飯が作れない。

日本でさえ作れないのにオーストラリアの広いスーパーで何を買ったらいいかもわからない。
それに加えダシなどという価値観さえない。最早ダシという英単語さえ知らない。と言うかスーパーって日本でほぼ行ったことない…。。

最初の一週間はウェルカムパーティだ!と言いオーナーが家に招いてくれ晩御飯をご馳走してくれていました。


2週間後…

クージーで学校の友達とBBQ
前述したこともあり、料理が出来なかった僕は今日は外食、今日も外食…とかしてるうちにお金は目減りして行き、なんと残金2ドルという恐ろしい状況に。

バイトはNewtownのジャパレスに決まってはいたのですが、給料日は一週間後。
地獄の一週間2ドル生活が始まりました。。

コールズの1ドルパンと以前に買っておいたBBQソースで空腹を満たす日々。
そして時々庭に生えてるオシャレな名前の葉っぱをバルサミコ酢で(オーナーが食えるといっていたし美味かった)。
勿論、ジャパレスの賄いもあったのですが週3くらしか入れてなかったので完全食糧難に。

昼もBBQソースをパンにつけて食べていたがために、学校の友達には航平はいつもBBQソースを持ち歩いていると言われていました。
内心「ちきしょう…お金をゲットしたらコールスの安いBBQソースなんかじゃなくて、ヘインツのケチャップとBBQソース買うからな…!」などと思っていました。

そんな日が何日が続いていたある日、そんな僕を見かねて手を差し伸べてくれる人たちが学校にはいたのです…。
白ご飯を分け与えてくれたり、各々の賄いの残りをくれたり…

マンリーのサーフスクールに学校の友達と行った時の1枚
感謝と嬉しさで感動しました。
恐らくそのリアクションは皆さんには伝わりずらかったかもしれませんが、人間本気で嬉しいとまともなリアクションは出来ないものです。

来てからずっと、どこか一人のような気がしてならなかった。
でも、皆からの助けによりやっぱり人間一人じゃ生きていけないし一人じゃないんだな!
なんて思わせてくれたいい経験です。


自分にとっては些細な優しさでも、その優しさを受け取った人は些細とは思わない。
置かれた状況によって捉え方は違うという。
僕はその頃のみんなの優しさが心底嬉しくて。

バイトを始め、前よりは良くなったもののお金が無くてコーヒーフリークなのにも関わらず3ドル50のコーヒーなんて高くて買えない。ただ羨ましく眺める日々が一ヶ月くらい続きました。

学校の昼休み、外に出ていろんな国の友達とプライベートな事をタバコとコーヒーにまみれて話す。
こんな素晴らしいことがあるでしょうか?
もうね、これだけでめっちゃ楽しいです。
もはやこれをしに学校へ行っていると言っても過言ではない状況でした。

しかし、タバコはフィルターギリギリまで吸いコーヒーは見てるだけ。。
そこで僕は、ここオーストラリアで、自分の力で金稼いでコーヒーもタバコも贅沢にやれるよう頑張ることを静かに決意したのでした。



そんな心に闘志を秘めてからすぐのこと、ジャパレスの先輩が辞めてセクションを一人で任されることになりいきなり週6、8時間30分労働がスタートしました。

目標は無遅刻無欠席で学校を卒業することだったのですが、休みなしのその生活が一ヶ月半続いた頃くらいに過労でダウン。
もともと日本では朝七時から夜十一時まで働いていたので余裕だと思っていたらダメでした。

身体は正直なもので。

学校の下での昼休み。コーヒーとタバコが満足に買えるようになってからの1枚です。
ここでの気付きは、
食事はしっかり栄養のあるものを食べましょう。
ということです。

どんな時でも食事を節約の対象にしちゃいかんと。
口から入る物ほど大事な物はないな…と思った瞬間でした。
貧乏でもビール、タバコは我慢して食事はしっかり取りましょう。


そんな中クラスで真面目に頑張っていたせいか月間賞的なものに選ばれたのはうれしかったです。
しかしおそらく本当の理由は、真面目とかではなく担任の先生と音楽の趣味が見事に一致したからだと薄々は気づいていますが…。

そして年末に差し掛かり、気付いたら街はクリスマス気分になっておりました。

中島漢さんとの出会い

「暑いクリスマス」は初めてで、雰囲気があるようなないようなそんな気持ちの年末、アプラックの先輩でもある中島漢さんから連絡がきました。

ラウンド帰りの漢さんは帰国するにあたりご自身で立ち上げたパーティビジネスの後継を探していたようで、田村さんが紹介してくださりお話しさせて頂く機会を得られました。
そこで、面白そうだな!と思ったのと、自分でやるビジネスみたいなものに興味があったので、カールトンまでお話を聴きに繰り出しました。


ここでなぜ、面白そうだなと思ったのかをお話させて下さい。

このようなことに対しての興味が僕がワーホリという旅に出た本当の理由でもありました。

僕はもともと床屋をやっていました。
床屋になった理由も単に簡単に旅に出れるとか、みんな大学行くなら違う道にでも行こうかなという気持ちがあったからで。
そして四年目の頃、一つの疑問が浮かんできました。
「俺はこのまま一生これを続けていくのか」


きっとこのような疑問は多くの人が思うことだとも思いますし、ありふれた言葉です。
しかし日増しに心に巣食うこの疑問をもったまま普通に暮らしていくのは自分にはどうしても無理だった。


日本という環境は海外に行くには行きづらい環境だと自分は思います。
未だに一つの仕事を長年続けていくのが美徳とされているこの日本で会社を辞めて海外へでるという選択肢はマイノリティなのかもしれません。

本当に強い人は環境は自分で作り出せるのかもしれない。
でも、強くない人は環境を変えて挑戦できる場を探したり、移動したり。

僕は弱い。そのためにオーストラリアに来た。だからこそ得られるものは得ていく。


誰かがこんなことを言っていました。
「地図ではなくコンパスを持て」と。
日本は未来地図が必要なのかもしれません。
しかし海外という場や自分を鍛えるために見つけた場所にはコンパスが指す方に行けばいいんだと思います。
自分の直感に正直に生きる。
そのような生き方が一番楽しそうだなと。


そして、その練習をするのがワーホリだろうよ!ということで、コンパスがビーン!と向いたパーティに参加させてもらうことに。

それから漢さん帰国まで色々な話をさせてもらって色々勉強させてもらいました。


パーティという一見派手に見えることも、主催はコツコツと積み重ねていくこと。
そして、学び取れることはガツガツ自分から取りに行くこと。
自然と海外という環境はそうなるのに簡単なものだと思います。

自分を変えるのは難しい。
けれど、自分の中に眠っていたものを起こすだけだと。

自分の中に元々あるものが環境や何かの圧力によって眠らされてる。
それを起こすのはオーストラリアという国はうってつけです。
それを起こしておけば日本に帰っても迎合せずに生きていけるような、そんな気がしました。

そんなことを漢さん背中や自分のパーティの手伝いを通して感じた事でした。


そしてなぜ中島漢という漢とともになにかをやろうと思ったのか

それはまず、出会いから語らなければなりません。

初めて会ったのはカールトンという駅でした。

その時の第一印象は「オーラ」があるでしたね。笑 もちろん今もオーラを感じてますよ!
なんというか、エネルギーに溢れてるというか青臭くかつ冷静に物を観ているという

そしてその満ち溢れているエネルギーの行き先が僕の行きたいところにバシバシと向かって行っていた。そんな風に見えたんです。

漢さんの独特なオーラと雰囲気は一見したら「変な人」に見られかねないところがあると思います。そして周りとの誤解を生みやすい。
でも漢さん本人は凄く良い人で面白いんですね。

だからこそ共に何かやりたいと思ったし、その点で言うと僕の足りないところをたくさん持っている人でした。
その要素を共にいながら学びたいと思ったし、力になりたいと思ったんです。

カールトンで会ってから数日後、2人でゆっくり話す時間があった時に趣味のやら音楽の話やら日本の話やら色々させてもらう時間がありました。
その時に趣向的なものは似ているなと感じたんです。僕も漢さんも妙に斜に構えてるところがあるというか、物事の見方が少し変わってるというか…
そこは似てるのに性格的には似ていないという謎の感じが更に「この人はなんなんだ????」という興味が湧きました。


更に話していて僕の心の中にある意見を引き出すのが上手でした。ハッと新しい自分に気付くというか「あっ俺こんなことも思ってたんだ」という事に気付くシーンが多かったんです。
纏めると、新しい自分を引き出してくれるのと同時に漢さん人間味に惹かれたという感じですね。
そして、雲の上にいるなーと感じる時もあれば、近所のお兄ちゃんに感じることもあるという不思議さ。
これが漢さんとやっていきたい!と思った理由でした。



そしてこの頃、絶望の2ドルから希望の貯蓄1000ドルまで積み上げ、余裕が出来てきたのでやっと学校のいろんな国の友達とbeachでバーベキューやピクニックなどが出来るようになってきたのです。

年越しをクラブで迎えたり、正月BBQを企画したりなんだりと、最早来た時の孤独感なんてもんはどこかへ飛んでいき完全なるリア充へと飛翔したのでした。


Sound Wave 〜GREEEN DAY

そして学校も残すところ後一ヶ月半位かー。と思っていた年明け早々、お金ない中チケットを買っていた音楽フェス、SOUND WAVEフェスティバルが迫ってきていました。

このフェスは僕の大好きなGEEENDAYが出るということ、そしてこのフェスを最後に活動休止することがアナウンスされこれは運命だ!という大幅な勘違いをしながらチケットを取ったのでした。

サウンドウェーブフェスのグリーンデイ待ちの時です。
田村さんから来て早々に「オーストラリアにきて演るアーティスト達は日本でやる雰囲気とちょいとちゃうでー、みんなリラックスしてる感じだから楽しいわー」的なことを言われていたのでテンションもMAX。

そして当日…初海外のフェスということもあり寝付けずオリンピックパークに突撃した訳です。

待っていたのは、だだっ広い会場、パンクス達やビニールボートを持った人、多くのLIVEDVDで見ていた光景が目の前に広がっていました。

そして様々なアーティストを見てオオトリGreenday の始まりです。
なんとこの日は3時間のフルセットというファンにはたまらないセットリスト。

しかもSydneyの日は長く明るいうちからGREENDAY、そして田村さんの言う通り日本とのテンションというか雰囲気と全然違うのです。日本でも来日した時のライブはかならず出向き計7公演近く見てる中でも最高のライブになりました。

周りの人の素晴らしい合唱(オーストラリアの人達はすげー歌上手いと思った。これは恐らく英語の発音の仕方に凄く関係がある)や会場の一体感。そして日本とは違う広くスペースのある会場。そして気候。
全てが一体となり派手な照明も飾りもいらない素晴らしいものでした。


大体一月から、オーストラリアはフェスシーズンに入ります。
Soundwave 、big day out などなど数知れず。
是非洋楽ファンの皆様は一度あの爽やかな暑さの中のフェス、楽しんで見てください。


フェスの余韻も冷めぬまま、気付けば2月。
漢さんが帰国するとの情報が入り田村さんの家で男三人しゃぶしゃぶパーティーに。
ここで色んなことを深夜まで語り明かし、よーしやったるわー!!!という気合を注入して貰えました。

パーティ一人編

シドニーパーティの時。これは漢さん帰った後、ミョンちゃんとやった時ですね!
そして漢さん帰国。

リーダーが帰国してしまったからには何度か手伝っていたパーティを一人でやってみようというミッションを己に与え色んな告知をやったりなんやりしておりました。

そんな時、またもよき出会いがあります。
パーティをやるにあたり参加人数もソコソコ集まっていたので初心者一人じゃ抱えきれない人数やな…と思っていた矢先、アプラック卒であるかおりさんとミョンちゃんからパーティ興味があるのご連絡が!!
ありがたいお話のため三人で食事へ。
うむ。。俺よりはるかに仕事が出来そうと一瞬で理解したためお手伝いをお願いしました。

お二人の強力なサポートのおかげで無事大成功に終わったのは言うまでもありません。
総勢50名集まり、忙しかったですがみなさん楽しんでもらえたようで何よりでした。

ヘトヘトになったパーティ終了後
いつも助けてくれる人たちがいて幸せ者だ。とフツフツと感じてしまい感慨深くなったのは秘密です。


学校卒業とジャパレスの立ち上げ

いよいよ、四ヶ月の学校生活が終わり。
ちなみに英語はinterimdiet で終わり。本当に来た時に思い描いていた英語ペラペラの自分が嘘のような状態でした。

サラッと英語に触れておくと、僕は洋楽や映画が好きだったのでオーストラリアに来る前は少なからず自信はありました。
しかーし!!英語はそんな甘いもんではない。いくら勉強してもしたりないです。


そして、さぁラウンドにでも行こうか!もう金がなくなるのは怖くねぇ!
と思っているところに働いてるレストランがクローズ、新装開店するということで立ち上げをお手伝いすることに。

これは今まで経験のないことだし、商売ってのは面白い。
むしろレストランって面白いなと思っていた時だったのでそこにのっけてもらうことに。
しかも早々、オーストラリアでゼロから店を作るのを見れるってのが今後の為にもなるなと感じました。

そこで新しくオーナーが来ます。その方が最後まで楽しいオーストラリアライフをおくらせてくれる夫妻でした。

その夫妻は旦那さんが日本人の方でトロンボーン奏者、奥さんがオーストラリア出身のJAZZの歌手。
仕事としては旦那さんがシェフと奥さんが経営者という感じだったけれど、どっちがというと趣味に生きてるという感じのお二人でした。


そのまま手伝いを始め、搬入やらなんやら改造の様子を伺いながら過ごす日々。

プチAPLACと初心

そんな日々を過ごしていると地元から友達が遊びに来ることに。

その仲間とはよく海外に遊びに行っていた仲間たちで。仕事が遊びに行っている状態だったので休みの日に学校の友達などとくらいしか、観光という観光はしておらず久しぶりの休みでした。改装期間中に1週間の休みをもらい、おもてなしをすることに。

久々の地元の連中とBlue Mountainに二泊したりシドニー中を観光案内など。
僕の中で少し当たり前になっていたオーストラリアという光景に対して半端じゃなくはしゃぐガタイのいい男二人…。
最初は遠い目をしていましたが、徐々に気付きました。「この心を忘れちゃいかん」と。。
初心忘るべからず。


友人達もオーストラリアの飯に対して半信半疑で、僕がコーヒーや様々な料理を絶賛していても逆に白い目をしていましたが、Camposやいろんな国の料理を食べさせたところ、平伏し「石渡さん、疑ってすいませんでした」と言ったとか言ってないとか。

そんなこんなで楽しいお休みがおわり。

しかし、なんと友人の一人がそのままオーストラリアに残ることに。どうやら日本で仕事を辞め、ちゃっかりワーホリビザもゲットして来ていたのです。

よしここはプチアプラックをやってみよう!ということで、地図を渡し町歩きの仕方や職の探し方、銀行開設の仕方までレクチャー。
そして僕が日本に帰ってきた現在もまだオーストラリアに残り楽しんでいます。

仕事とHAPPY

new townの立ち上げを一緒にやったレストランのオープニングパーティでオーナー夫婦のバンドメンバーが集まって演奏してる時の一枚です。
そんなこんなで休暇を終え、オープン準備していたレストランに久々に行きますと、
様変わりしている店内。

以前は日本風の内装であったため見慣れた感じでしたが、すべて取っ払い0からスタートでした。

およそ僕のセンスにはないカラフルでおもしろい内装を瞬時にテキパキと決めていく二人を見ていて、これならまさか0から3週間でオープンは出来るかも…と思っていたのですが、そのまさかが起こっていたのです。

メニューも決め、ついにグランドオープン。

仕事をしていく中で、元々奥さんがNewtown出身、若くして貿易の会社を自分で起業していたこともあり仕事の仕方や経営などの事も色々お話しさせて頂きました。

学んだ事は
「仕事を楽しみながらやる。」

これに尽きると。


実際、共に仕事をさせてもらう中で感じたのは、彼らが常に「いかにhappy か」に拘っていたことです。
実は以前この夫妻はシドニー内にレストラン立ち上げをして大成功を収めていました。ただ、辞めてしまった。
辞めた理由を聞くと
「休みもなかった。お金は必要だけど、やってる本人がhappyじゃなきゃ意味がないから
ということを言われハッとしたのを覚えています。

いかに成功しようが、いくら稼いでいようが、根本的に幸せかどうかを意識するというのはこの忙しい現代において忘れられてしまっている重要なものであって。
僕は正直忘れていた。
こんなにも当たり前な事をたった四年半の社会人生活で忘れてしまっていたんです。
それを取り戻した。やはり眠っていたことを起こされた気がしました。


それは言葉だけではなく、一緒に働いていても楽しかった。
もはや、仕事でなく遊びに行ってるような感覚でやらせてもらっていた。

様々な細かな配慮があったんだと思います。
言葉にはしていなかったけど、感じるものが沢山あって、
こうやってhappyを創り出すんだと勉強させてもらいました。

CLOSE DOWN


HappyHappyでNewtownに向かっていたある日、衝撃的な事実を知らされます。
それはお店が潰れるということでした。

元々夫妻の上に立つ、大オーナーが引退も考えていたこともあり、僕らの意思とは裏腹に儲からないという理由で閉店を決意したとのこと。

確かにオープンしたてはほぼ人は入っていなかったけれど、雑誌にも少しずつ紹介されてきていたのでこれからだ!って時で正直悔しかったのを覚えています。

でもここで学んだことや知ったこと、
そのフィルターを通して日本を見たくなったという気持ち
が少なからず生まれました。


そして仕事もなくなり、お金だけが手元に残りました。
なんだかんだ仕事ばかりで溜まっていた貯金。
もともと貯金はする方ではなかったのですが、あたりまえですが使わなきゃたまります。

この頃には$2→$3000まで溜まっていました。


とりあえず、旅に出ようと思いメルボルンに一週間滞在することを決めます。
あまりにも急な話だったのでとりあえず一週間だけの滞在をしようとかんがえました。

クローズダウンを聞かされてからすぐチケットをゲットしメルボルンに旅立ちました。


メルボルン〜ゆるやかな時間に芽生えた気持ち


メルボルンはオーストラリアに来る時、シドニーかメルボルンか迷っていたという経緯があり非常に行きたい都市でもありました。

まず、僕は洋服が好きなので又聞きしていた「メルボルンはファッションの街」というのを楽しみにしていました。

実際メルボルンに着き町並みを見ると確かにオシャレ感が出てる町並みでした。
ヨーロピアン的な建物にどうしてこうも弱いのだ…と思いつつ様々な服屋に突撃しました。
確かに良いセレクトの服屋が多い!

そこで、オーストラリアのデニムブランドを一つ買っておこうと思い服屋のにーちゃんと話していた時のこと。
「なんで日本のデニムが一番なのにオーストラリアのデニムかうの?」と言われまして。
確かによくよく考えたみたらそうなんですが…
なんか商売っ気というかそーゆうの真顔で聞かれたの初めてで、アツイデニムトークを繰り広げ店を後にしました。

トラムに乗り、ブラブラをして夜はパブという、多忙時期には考えられないような日々を暮らしていました。

そこでふと行ったセントキルダを凄く気に入り、そこでぼーっとしながら過ぎ去っていった日々とか、オーストラリアのことを振り返ってゆっくり考えていました。

恐らく、オーストラリアにきた人は考えるであろう日本に帰ってからのこととか、これからやりたいことと一緒に。


考える中で、心に芽生えた気持ち。
それは色々なもの創りたいということでした。
スキルもなにもないけど、なにか創りたい。
面白いコンテンツを発信したいという。
だけど、まずどうやっていいかわからないしそんなウェブの知識もある方ではない。

そんな葛藤をしつつ、旅を楽しみながらシドニーに戻りました。

何もない一ヶ月

かおりさんとOGのおじさんと五人で写っている写真はコメディパブで、実はこのおっちゃんDave eastgate という芸人でオーストラリアでも名が売れてるらしいです。確かにX factorっていうオーディション番組にもでてたし日本でも吉本にいたと。笑  バリバリの大阪弁話すおっちゃんでした。


シドニーに帰り、職も失った僕は、とりあえずオーナー夫妻とビジネスについて色々話したり、色々な手伝いをさせてもらっていました。

ライカードのオークションハウスに出品準備をしに行ったり

JAZZを聞きに行ったり

とオーストラリアにきてから久々の緩やかな時間。

new townのクーパーズホテルで毎週水曜日行われてるおっちゃんバンドを撮った1枚。ジュンヤさんもここに連れてきてえらく気に入ってくれてました。


余談ですが、僕がよく入り浸っていたニュータウンにあるパブ、Coopers Hotelで毎週水曜に行われているMitch Andersonというおっちゃんのバンドがいます。
みんな上手で、すごい好きでほぼ毎週聴きに行っていたのですが、旦那さんのほうも気に入ったらしくバンド加入したいと言い出し、演奏中に突撃して加入までこぎつけます。

みなさんもぜひシドニーにいるなら一度、おっちゃんバンド見に行ってみてください。すごくノレて心地よい音楽なので。

少し話が逸れました。


未知になる日本


そんな中で発信する場をいろいろな人に聞きながら作成していました。
記事を作成し、自分の心の中などを洗い直しアウトプットする過程ですごく冷静に日本の事を見れてきました。

コーヒー飲んで公園でギター弾いて。
パブで一人寂しい振り作戦して知らない人と話す。
話題は大体日本って国のことで。


帰国前日の今までの日々を振り返ってる後ろ姿です。
そんな日々を過ごしていると、日本もオーストラリアと同じくらい未知に思えてしまったのです。
すごい不思議な感覚だったんだけど、言葉にするの凄く難しいのですが。

なんか生まれてからずっと日本にいて日本で暮らして日本の事たくさん知ってるつもりだったのに、
なんか本当にわからない国になってしまった。

色んな人と話して考えれば考えるほど日本が普通じゃないって思い、
この感覚が残ってるうちに日本一回帰って日本の滝に浴びてこよう
という気持ちが完全に芽生えました。

この感覚があるうちに浴びれば悪い超日本人的なモノに染まらず一生いられる
という変な確信があったのが、VISA期限が残り何ヶ月かあってもオーストラリアに残らなかった理由でした。

どっちにいれば成果がある、ないとか、損とか得とか、
そんなもんよりも感覚的な何かが心の中にあったんだと。
今になればおもいます。


日本に帰ってきて

オーストラリアから帰ってきた後の話を(田村さんのリクエストがあったので)少しでも話したいと思います。

栃木リフォーム

オーストラリアで出来たフィルターを通して日本を見てみたいという思いから、帰国を決意し、まずやったことはリフォームでした。

元々ニュータウンでのお店作りから建築への興味が出てきて、知り合いの人に帰国報告をしたら丁度家をリフォームしてると。

実際その人はプロではなくて、いくつか日本に物件を持っている人でした。
その中の一つを売りたいからリフォームをする。
なので、今仕事してないのなら手伝って欲しいということでした。

これはまたいいタイミングで!
と思い参加させてもらうことに。

その物件は栃木の某所にあるのですが、まず家に行ってみると外観は素晴らしく綺麗でしたが、中がほぼ適当な建築。

まずそこから治さなければと、壁に穴を開け、床を貼り直し、階段を直し、壁紙を張り替え…
さらにライトも全てダウンライトにしてオシャレ感を出したり。。
など、二人で話し合いどの色にするかを決めてなどクリエイティブな環境。


ここで、センスの大事さを知りました。
そして、センスというのは生まれ持ったものではなくて経験から裏打ちされるものだということも。

例えば、僕のシドニーでのお店作りがなければ出てこなかったアイディアもありました。
僕はセンスというのは、生まれ持ったものだと思っていましたが、それは嘘です。
恐らくそれは育てられるし、みんなが持ってるものだとここで感じました。


MOP〜中島さんとの実験的起業

右の元ネタになった写真。でもちょっと違う。いずれプレミアつくかも(笑)
漢さんとのは我らがmopラジオの写真です!
その建築と並行して、オーストラリアで会った中島漢さんとMOP事業を始めました。
正式名称Mix of people と申しまして、人の略歴を書いています。
他にもシドニーでのパーティー経験を生かして東京でのパーティーや観光客の観光案内、ラジオ配信などを始めました。

これは事業というよりも、僕らの趣味性が高いです。
より多くの人達と関わりあい、人間という最も面白い鉱脈について触れていくという。
ここでは、お金はあまり稼げませんが近い将来必ずや面白い会社にします。


初!サラリーマン体験

その後、リフォームが終わりとりあえずお金を稼がねば!ということでとある人材系の会社で働き始めました。

それはなぜかというと、床屋時代のお客たちが(一括りにするのは失礼かと思いますが)サラリーマンの人達が多く、一体なんでこんなにサラリーマンがいるのだろう?という疑問がめちゃくちゃありました。

そして、全く経験していない未知の領域でありかつ、日本での色々な代名詞になる「サラリーマン」に対して自分なりに理解したいと考えたからです。

大体、床屋というのは潰しのきかない職業だと言われています。
本当に一生床屋、もしくはそれに関係ある職業にしかつけないと。

結局のところ、一番の理由は「自分は全く違う業界でどこまで出来るのか?」という単純な疑問からでした。


前職は立ち仕事、今の仕事は座りでPC。
元々ガジェット系のものは好きだったのですが、いかんせん巷でPCスキルと言われているExcelやWordの類は全く触ったこともありませんでした。

そしてもう、最初のほうは凄まじい洗礼を受け教えを請う日々…
めっちゃキツかったですけど今はなんとかできてます。

全く未知の分野をやるっていうのも面白くて堪らんです。
田村さんの言うようにこれが「大人の社会科見学」だと思いながらやってます。
まぁだんだん激務になっていますが。笑


ライター業

またそのサラリーマン業と並行して(何個並行してんじゃい)

ウェブメディアでのライターとしての活動も始めました。
トリポートという、メディアで書かせてもらっています。

つい先日僕の記事がハフポスト日本版のFacebookpageに拾ってもらって1000を超えるいいねをもらってすこしバズりました。笑

ここで名を少しでも売って色んなところに顔出せればなと思っています。
また、web siteの方もすべて移管してこれからコンテンツをガツガツ増やしていこうと思っています。


これらをやって、僕が感じたのは、
とりあえずやってみろ!
って事です。

オーストラリア着いた時にはライターなんてやってるとは思わなかったですし、
WEB siteやるなんて思ってもいなかった。


ただ、あのオーストラリアでの時間があったからこそ、なりたい自分の方向に向けた部分はありますし、
すべての経験が僕を作っているのだと感じます。


百聞は一見しかず。

死ぬまでに出来るだけ多くのことを「皮膚感覚」で捉えていきます。

青い炎の静かな闘い

さきに書いたように、
「今のこの感覚で日本を見たら違ったものが見えるんじゃないか」
というあやふやで、でも少しの確信のもと、日本に帰国しました。

「見えるんじゃないかな?」が上の句だとしたら、
実際に見えたかどうか?が下の句に対応するので、その部分を書きます。

実際日本に着き、友人たちと会った時、帰りを待っていてくれていた人と会った時に感じたこと。
それは「オーストラリアで感じた野心などを静かに燃やすべきだ」と感じました。

抽象的過ぎるので噛み砕いて書くと…

なんとなく友達とかに会った時、大きく夢を語ったりしたくなったんです。
それは恐らくオーストラリアの生活で童心を取り戻して、夢を語ることに恥ずかしさがなくなったこと、
また、そのために今何をしているのかなどオーストラリアで友達と毎晩話をしていたようなことがあったから、
そのような話をしたくなりました。

でも、それを聞いてくれる人もいればそうでない人もいて。
その比率が聞いてくれないもしくは、聞いても鼻で笑う人が日本のが多かったです。

あれ?おかしいな。
オーストラリアの友達はみんなで同じような話題を嬉しそうに話してたはずだけど、
日本では「どうせ無理」とか「いくつまでそんなことやんの?」とかネガティヴな意見が圧倒的に多い。

なんかこの感じが、日本に着いてから、野心は青い炎的に静かに燃やすべきだと思ったきっかけにもなりました。


それを取った理由、
それは口にしすぎると潰されかねない環境も日本にあると思いました。
そのような夢を語るとき肯定的な人たちは「You can do it!!」と言ってくれますが、夢を潰すような事を言う人も少なくはない。

そのようなことを、大きく口にし、いつしか飲み込まれていってしまう人もいる。
だからこそ、静かに燃やしておくべきだと感じます。


それを踏まえて、オーストラリアに行く前の日本と違ってみえたか?
というのは間違いなく違って見えたし、帰ってきて半年たった今でも違って見えています。

それは徐々に形を変えていっています。
恐らくいい意味と悪い意味で「日本仕様」に。
それがいい変化なのか、同化なのか、まだ僕にはわかりません。
でも闘う。

そこで、この闘いへの参戦の表明と
Revolution needs a soundtrack という気持ちを込めてRADIOを始めました。

どこかで、誰かが共鳴して同じ音を鳴らせるなら…
そんな心意気がMopラジオにはあります。(まだまだセンシティブな話題には突っ込まない分至らないところだらけですけど…)

ラジオという形式に加え、僕より多くの世界を感じている漢さんとそれをやることにより自分の勉強plus発信といういい効果が生まれると思ったからです。


リフォームもサラリーマンも然り、
リフォームは雇われず手伝いだけれどクリエティブな環境。これはなんとなくオーストラリアと地続きになっている気がします。
なんというか、ラウンド的な側面もあるのかとも思いました。
それを日本に帰ってからすぐ出来たのはすごく良かった。


そしてサラリーマン生活。
問題はここでした。
リフォームはまだオーストラリアと地続きだから良かった。
窓から見える山々が東京とは違う環境を作り出してくれていました。


しかしサラリーマンともなるとそうはいかない。
超日本的なものがそこらかしこに散らばっていて「勝負はここだ」と思っていました。



ここで今感じていることは、「人には多様な生き方がある」ということです。

だからこそ否定してはいけない。
ただ、その中で僕ができることをよく考えた時に「違う世界を見せる」ということだと思いました。

大袈裟かもしれませんし、僕にはまだ実力がありませんが「示す」という言い方がしっくりくる気がします。



海外に出て、どんなに強い意志を持って帰ってきてもそれを薄めてしまう環境が日本にあるのは間違いないです。
ただ、その中でもがく。意地でももがく。

そしてそのもがきを、心意気を忘れない。
たまに疲れたら海外に行けばいいし、旅に出ればいい。

来た時期もバラバラの4人がたまたま集まった時のスナップ。
海外に出たから偉いとか、そんなことは思っちゃいけない。
そんなことを思う暇があったら、そうやってもがいてる人を見つけるアクションを少しでも起こして「同じ音」を鳴らし続ければいいんだと思っています。


そんな音を鳴らしながら、やってるのがA僑であると思っていて僕もBlogという形式で及ばずながらやっています。

個で強い人たちが、集団になればさらに強くなる。
うまいベーシストがいてもドラマーがいなきゃ引き立たないように、大きなムーブメントを起こすには強い仲間と抗っていきたいです。

そのために、僕は個でも強くなっていく。

それが日本で今動いている、僕の気持ちです。

オーストラリア


日本に帰ってきてからの今でも、オーストラリア着いた時の匂いは忘れていません。
一人で寂しく庭で飲んでたビールの味、2ドルになって夜不安だった気持ちもシェア探ししていた時の気持ちも。
本当にすべてが糧になっております。

僕のことをお世話してくれた田村さんをはじめAplacの人達。
関わってくれたすべての人達へ。

本当にありがとうございました。

そして、オーストラリアに来て得たものと同じくらいアプラックを通して得られたものも凄くありました。


そして僕がオーストラリアでいちばんわかったこと。
それは自分は何かを創るのが好きだっていうことでした。
とりあえず、創ってみる。

既存の出来上がったシステムとか、レールとかに乗らないで大きく言えば生み出すとか。先人が産み出したシステムやモノを売って利益を出す。
それはそれで素晴らしい仕事だと思います。
でも、それは僕のやることじゃないのかなと思い始めました。

それをやるためには僕自身が面白いコンテンツになること。
様々な経験を通して、見えてくるものを伝えたいし、あわよくば共感してもらえたら嬉しいと。

これから、どれだけ自分が出来るか。
日本という国で視野を狭めて行ってしまっている人たちに対して少しでも視野を広げるきっかけにもなればと思っています。

点で始まったものが、色々な出会いや経験を通して線となり繋がっていくことの素晴らしさを。

これを読んでくれたすべての人達に、会える日が来ることを願いながら、今日も遊びに行ってきます。





石渡航平


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