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2015年12月17日


ワーホリ体験記 渡辺絢也さん Part 01

 2014年01月渡豪〜現在NZワーホリ中


序章:渡豪まで

2013年4月、ワーキングホリデーでシドニーへ。
30歳も目前という年齢でこれまでの人生に行き詰まりを感じ、人生を好転させようと日本を飛び出しました。

「好転させよう」なんて言いながら、正直に言うと「オーストラリアやその後の日本で何をするのか」といった具体的な目標を初めからキチンと立てていたわけではありませんでした。ただ漠然と「新しい環境に身をおいて、仕事や人脈など面白い出会いを見つけられるといいな」くらいの感覚でオーストラリアに来たので、「そんな運次第のような期待だけで本当に人生が好転するのか?」といった不安はもちろんありました。この「好転」の定義についてもボンヤリしていて、「英会話力を上げてキャリアアップさせること」とか「全世界をターゲットに、居心地の良い職場とかやりがいのある職場を見つけられるようになること」くらいにしか考えていなかったように思います。

ということで先の見えない不安はかなりあったのですが、英会話ができるようになること自体はプラスになると強く思っていたので、オーストラリア生活を決断したことに対する後悔はほとんどありませんでした。

日本で正社員として働いているときは、「自分らしく充実して生きている」という感覚がとても少なかったと思います。
高校生や大学生のときも「どんな人生が自分にとって充実した人生なのか」が分からなかったので、「できるだけ良い大学へ行き、将来できることの選択肢をできるだけ広げておこう」、「営業や経理などいろいろと同時に学べるところで働き、将来やりたいことを見つけたとき問題なくそこへ移れるようにしておこう」といった感じで未来に備えることばかりに意識が向いていました。就職後しばらくして職場環境が自分に合っていないと感じるようになってからも「自分にとっての本当に充実した人生とは何か」について真剣に考えようとはせず、ただ「いつかやりたいことがみつかったときに備えて、とりあえず今は自分の状況を少しでも不利にならないようにしておくだけ」という日々をズルズルと送っていました。

そんな日々を過ごしているうちに「何かがオカシイ」、「自分の人生を自分で操縦できている気が、まるでしない」、「もしこのままズルズル年を重ねてしまったら、もっとこの不快な状況から抜け出せなくなりそうだ!」といった現状に対する違和感、将来に対する不安がドンドン大きくなっていき、ついにそれが臨界点を超えて約4年勤めた会社を辞職することに。

こうして辞職をしてしまったものの、特に転職に有利な資格もないまま再就職しても状況は良くならないように思いました。そこで、日本社会で人生を挽回させるには資格か英語が必要だろうと思いまして、英語の方を選びワーキングホリデーを決心しました。

このときも「英語がTOEIC900点くらいできるようになって株式会社〇〇に転職すれば、人生が充実するハズ」と具体的に自分にとっての充実した生き方を考えるのではなく、「英会話がある程度できてTOEICでも高得点を取れば、どこかしら前より高待遇の仕事が見つかるだろう」といった感じで、また自分の状況を少しでも有利にしておくことをメインに考えていたと思います。

ただ、純粋に英語が喋れる日本人はカッコいいなという憧れはあったし外国人の友達もたくさんつくれようになりたいとも思っていたので、その面では「英会話の習得」と「人生の充実」がうまくつながっていて、それがワーキングホリデーの決心に一役買ったのかも知れません。(もし面白い仕事が見つかったら永住権も取りたいな、という期待もありました)

そんな経緯があり、先の見えない不安はありつつも「日本では得られなかったものがここで得られるかも」という期待もあり、ドキドキしながら空港の待ち合わせ場所へ。そこでは田村さんがすでに僕を待っていて、すぐに車でAPLaCへと移動しました。

第一章:シドニー編

前日の京都は4月頭でまだ肌寒かったのですが、この日のシドニーの空はカラッと晴れた夏日のような気持ちのいい空で、空港を出た瞬間はちょっとした南国へやって来たかのような開放感を感じました。しかし、やはり初めての海外で緊張していたのか、車内でこれまでの僕の経歴などを田村さんに話したりしている最中も、海外の建物や車の標識、行き交う外国人など見慣れない風景にイチイチびびっていたような記憶があります。

そうこうしている内にAPLaCへ到着し、ここで初めて僕の同期となる古橋君、柴田君と出会うことに。
彼らは物腰こそ柔らかいものの2人とも志高く努力家で、一緒に過ごしていてとても居心地の良い2人でした。僕の期はそんな3人で、APLaCの「一括パック」がスタート。

APLaCを選んだ理由

実を言うと、僕がAPLaCを通して渡豪をした一番の決め手が、この「一括パック」でした。
もともと受験英語も得意な方で英語の勉強自体が好きだった僕は、日本にいるときも「英会話くらいいずれ自然に上達するだろう」と勝手にそう思い込んでいました。

しかし日本では全くと言っていいほど英会話は上達せず。
いざ外国人が目の前に現れると「うわ〜どうしよう。英語で話しかけたところでちゃんと伝わるんだろうか。伝わるどころか英語が下手くそ過ぎて冷たくされたらどうしよう。そんなイヤな思いは絶対にしたくない!」といった感じで、本来ならサッサと潰しておくべき虚栄心を必死に守り、ネイティブと話す機会をひたすら避けていたわけです。

そんな行動を繰り返し、気づけば30歳も目前。
「このまま一生、英語を話せないままで終わってしまうのだろうか」と半ば諦めかけていたときに見つけたのが、この「一括パック」でした。
英語を含め「自分自身で」何とかしていく力を養うという、ちょっと厳しそうな感じのこのプログラム。
「度胸があればわざわざ渡豪しなくても解決する問題だ」と言われるかもですが、結果として英会話の実践を避け続けてきた僕にとってはこの一括パックの「英会話から逃げられない」感じがとても魅力的に映り、思いきって参加を決めました。

結論からいうとこの選択は僕にとって大当たりでした。最低限の英会話フレーズと発音の訓練を受けた後、1日12時間前後、3万歩近く歩き回って連日連夜シェアルーム探しを行ったおかげで、英会話力はモチロン土地勘や交通機関等の知識もつき、異郷生活に必要な行動力が信じられないスピードで身につきました。

1日目は、初めて外国人と英語での交渉。1件目、初めてアポが取れたAshfieldの訪問先は白い家(緊張しすぎて、色しか覚えてません…)。少し早めに駅に着いたので家の近くのベンチに座り、大の大人3人でコソコソと事前ロールプレイングを必死に行った後、いざ家の前へ。「どんな人が出てくるんだろう」とハラハラしながら相手が出てくるのを待つ。目の前のドアノブが「カチャッ」と動いた瞬間、緊張のあまり心臓が口から飛び出そうになった。相手は白いターバンを巻いたバングラディシュ人(多分)。恐る恐る中へ入れさせてもらい、死にそうになりながら200%の本気度で英会話を試みるも、見事に相手の言っていることもこっちの言うことも全く伝わりませんでした。(というか、頭が真っ白すぎて何を話したのか全然記憶に残ってません)

実際に話した時間は10分もなかったと思いますが、1件目にしてその日1日分のエネルギーを全部使い果たしたかのような気分でした。

しかし、さすがに1日12時間前後ひたすらこんなことを繰り返し続けたおかげで、2日目には少しお互いに言うことが理解できるようになり、3日目にはシェア探しで必要な会話は大体マスター。すごいもので4日目にもなると、退屈しのぎに相手の出身国についていろいろ雑談を楽しめるほどになり、日本であれだけ避けてきた英会話がたった4日でできるようになるというすごい経験を得ることができました。

自分ではそんなにすごい伸び方をしているなんて感覚はほとんどなかったですが、あらためて客観的に見るとこの数日間の成長はすごいと思うし、何より英語に限らずたいていの困難なことはイザやってみれば何とかなるんだという感覚が最初の時期に持てたのがすごくありがたかったです。

これが翌週。まだまだあるけどキリないので。
最長不倒記録3週滞在なので一緒に写ってる人が多い。これが最初の時点の3人
これは結構時間が経ってからでラウンド帰りの連中も多い
Kingsfordのシェア移動の際のスナップ。ノリがいいので助かります。

ユウキとの出会い


シェア探し2日目の夜、同期3人クタクタになってAPLaCに戻ると、リビングのパソコンの前に見知らぬ人が。

帽子とメガネが印象的な少しやせ気味のその男性は後に僕の起業に大きく関わることとなるユウキ(吉田佑紀さん)のことで、話を聞くと彼は既に僕たちより1ヶ月ほど前に渡豪しているものの今までオーストラリア人と現場仕事をしていたようで、翌日からようやく「一括パック」に参加できるとのことでした。

この2日間のシェア探し状況がどんな感じだったのかを彼から訊かれたので、「へ〜スゴイっすねぇ!」と憧れの眼差しが向けられることを予想しながら「いやぁ、少しずつコミュニケーションはとれるようにはなってきたもののまだまだ伝わらないことだらけで参ってますよ」と気取って答えると、「何それ…メッチャ面白そうじゃん!!」という反応が。これは個人的にはかなり予想外な反応だったので「全く物怖じしない、子供のような純粋な好奇心を持った人もいるんだなぁ」と、そんな彼との出会いは今でも強く印象に残っています。。

その翌日からユウキが加わりメンバーが合計4名になったので、2チームに分かれることになり僕は彼と2人でシェア探しをすることに。

「英語はボキャブラリーが全然ない」と言っていた彼だったがそんなことを感じさせないほどのコミュニケーション力があり、会話というのは「言葉を知っていること」以上に大切なことがあるんだなぁと、彼とチームを組んでから改めて学ばされることがいろいろありました。

「せっかく海外に来てるのにここでしかできないことをケチって我慢するのは勿体ない」
「起こらないかも知れないことを、始める前から悩むんじゃなく、まず始めてみて問題が発生したらそのときに対策を考えればいい」

背の高いヤシの木が延々と続くKogarahの夕暮れ道や、競馬場からCoogee方面へと抜ける がらんと広くて人の気配すらない真夜中の道路、Rosevilleへと向かう眩しい朝の国道沿い。連日連夜、数えきれないほどの道を2人だけで歩き、また10件以上は行ったであろう多種多様な国のレストランやバーで食べたいものを食べながら、ユウキの半生や人生観などたくさん聞かせてもらいました。とても楽しい時間でした。

吉田氏とウチにて。みんな真剣に食べてる。
シドニー。ユウキとシェア探し2日目の夜。浜辺の敷居が高そうなレストランを横切るユウキ。と思ったら気に入ったらしく、気づけば2人でビールを注文

その後、語学学校で僕がまたクヨクヨし始めたときに厳しく窘めてくれたり、ラウンドの旅中も節目節目に助言をくれ、今はビジネス関係や永住権絡みで相変わらずのヤリトリをしてくれるそんな彼ですが、後に述べるオーストラリアでの諸々の成功体験には彼から学んだ考え方も大きく影響しているので、改めて渡豪初期の頃に彼とたくさん過ごすことができて本当に良かったと思っています。


英語力よりも大切なこと

知人のハウスボート屋上でハリー(カナダ人)と話すユウキ。「死ぬほど英語ができない」といいながらネイティブを従えるコミュニケーション能力がすごい
語学学校が始まって半月後、ユウキから「こないだ紹介したダミアンがハウスボート持ってるから、メルボルンに遊びに行こう!」と誘われ、勢いだけでメルボルン郊外はエイルドン湖へ。

ユウキは後で合流するとかで、とりあえず僕だけ先に夜行バスで早朝のメルボルン中心部に到着。ハウスボートの所有者ダミアンがすぐに車でピックアップしてくれたのですが、車内での会話を盛り上げようしても、なぜかあんまり弾まない。

その後エイルドン湖に全員集合し、ハウスボートでドンチャン騒いでいるときも、楽しいといえば楽しいのに、やっぱりネイティブ達との心理的距離がどうにも縮められない感じが。

一方のユウキはボキャブラリーが無いと言いながらめちゃくちゃネイティブ達と打ち解けていた。

何だコレは??

結局この答えが分かり、自分もユウキのように(英語力とはまた別の部分によって)もっとネイティブと打ち解けられるようになるのは翌年タスマニアのWWOOF先でグロリアというイタリア人女性に出会ってからになるのですが、このときの僕はユウキがなぜこのように言葉の壁を越えて人と仲良くなれるのかその正体が分からずただただ悶々としていました。これが分からないことには、今より英会話力がさらに上達したところで本当の友達はつくれないだろうなぁと感じさせられた、ちょっと苦い体験でした。

SCE最初の頃のBBQ
最初のクラスメート(Intermediate)とバーにて

2013年5〜6月 低迷期

メルボルン旅行も終わり、いよいよ貯金も底を尽きてきたのでジャパニーズレストランのバイト探しを始めました。

運よく2〜3件目で家から徒歩圏内のジャパレスが見つかったものの、そこは僕の苦手なモロ日本人縦社会環境であったため、正直に言って非常に居心地の悪い職場でした。

こういう場合APLaC生としては軽いフットワークで次の職場を探すべきだったのでしょうが、「自分の印象が悪いままで辞めるのはみっともないからイヤだ」とか「人間関係以外のことでもしかしたら何か得られるものがあるかも知れないし」とかいったキレイゴトばかり考えてしまい、結局シドニーを離れる直前まで無理して嫌な環境で働き続けてしまいました。その結果は、自分に自信が無くなって行動力も著しく低下し、さらにマイナス思考になるという悪循環。
この頃ユウキにも会えば「ダサい」だの「メンドくさい」だの言われていて、やっぱりちゃんと見切りをつけて別の仕事探しなりもっと行動を起こすべきだったと思います。

2013年7〜8月 上昇期

Upper Intermediate 仲間と(ウクライナ、ブラジル)
6月末に語学学校のクラスが「Upper Intermediate」に進級し、求められる会話のスピードや内容が一気にレベルアップしました。さすがに進級直後はアタフタしましたが、僕のクラスの生徒がみんな上品で穏やかでとても和気あいあいとしていたので、すぐに居心地良く感じられるように。

他の時期については分かりませんが、僕のいた時期は日本語を一切喋らないよう頑張る日本人がメチャクチャ多かったこともあり、外国人だけでなく日本人でも素晴らしい友達がたくさんできました。

とくに僕の卒業近辺の週では、何回か友人の家で多国籍のクラスメートたちと寿司パーティーをしたり、日本酒のある料理屋を見つけてクラスメートほぼ全員参加で大宴会をしたりと、とにかくみんな仲が良くて楽しい学校生活でした。

僕はワーキングホリデーの上限である17週間みっちり語学学校にいたため同期の2人を含めたくさんの友人の卒業を見送ることになりましたが、英語にも自信がなく今後についても不安なことだらけだった時代に仲良くしてくれた人たちだったせいか、彼らとの最後の日というのはもう胸が張り裂けんばかりの淋しさで、そのまま数日間頭が真っ白になったことも何度かありました。傷つくことから逃げているのか僕は人に頼ったり依存したりするのが極端に苦手なのですが、そのときの自分はここまで別れを辛く感じてしまうほど彼らに依存し、彼らを必要としていました。もちろんそのせいで悲しい気持ちにもなりましたが、そんな気持ちになれるほど大切な友達だと思ってたんだなぁと考えると、僕の場合はもう少し人に依存するくらいの方がもっと人生が充実するのかも知れません。

Upper Intermediate 仲間と(ウクライナ、スイス、台湾)
最後のクラスで仲良くなった元モデルのジュリアとモデル練習


そんなこんなでシドニーを離れる前になってようやく「シドニーでは充分にやりきった」と心の底から思えるようになり、シドニー生活の終盤はとても幸福な日々を送ることができました。

ちなみに、シドニー後半の2ヶ月は例のジャパレスの近くに引っ越したのですが、そこでシェアメイトだったイヴァン君(スロバキア人)がすごくイイ人で、仕事場の食べ物を持って帰ってきてくれたり寝る前にスロバキア語をいろいろ教えてくれたり、僕が日本語サイトを見ていると「イーングリッシュ!」と諫めてくれたりと、とても仲よくしてくれました。

まだまだ英会話に自信のない時期でしたが、彼がいつも穏やかに耳を傾けてくれたおかげで少しずつ英語での会話も広げていけるようになったので、シェアメイトの相性というのは英語力の伸びにも大きく影響するんだなぁと思いました。


第二章:ラウンド編 

2013年9〜10月 ガトン(Gatton)

シドニーの語学学校生活が終わったので、いよいよセカンドビザを取りにファームへ。
ファームとはいえ語学学校とは違ってより実践的な英語環境になるので不安を覚えながらも、また一括パックのように刺激的な変化の日々が得られるかもということでワクワクもしていました。

ガトン。信号が2か所しかない町。メインの店はこの写真に収まってる分のみ
最初の目的地は、ジャパレスの友達が薦めていたガトン。
住む場所も仕事先も何も調べないまま向かったのでバスの運転手も「で、ガトンのどこで降りるんだ?」と呆れ顔でしたが、隣の席のおばさん(パプアニューギニア人)に「ファーム仕事をしにガトンへ向かってるんですが、住むところも仕事も何も決まってないんですよ〜ハハハ」と明るく身の上を話したところ、そのおばさんから「分かったわ。私もガトン下車だから、私についてきなさい」と言われました。

ガトンに到着し彼女に言われるがままついて行くと、メインストリート沿いにあるシェハウスに到着。「週90ドルよ。仕事が見つかるまでの間は、よければ私の働いているファームで毎日ネギのピッキングをするといいわ」と言ってくれた。まさか雑談した相手がガトンのシェアハウスオーナーだったとは思わず非常にラッキーな展開でしたが、自分の状況を常に発信することは大切だと感じた体験でした。

(余談)
ファーム仕事も無事に見つかり何とか収支のバランスが保てるようになったある日、ネギのピッキングが早朝の内に終わったので、太くみずみずしいネギを数本持って帰り、帰宅後ふとそのネギだけ刻んで口の中へ入れると、何とも言えない感情が徐々にこみ上げてきた。そして、

「ありがたいな…」

という言葉がいきなり口からこぼれ出てきました。
それと同時に、高校2年のとある冬の日の思い出が急に蘇ってきました。

ふと自分から手伝って洗濯物を干した、ある寒い日の夜。かじかんだ指で、冷たく濡れた洗濯物をひたすら外に干し続ける。肉体的には苦痛でしかない作業だったはずなのにどういうわけか心が洗われるような、自分は何か大きなものに見守られ生かされているんだというような謙虚な気分にさせられる、そんな不思議な感覚。
当時のあの感覚に近い、何かとても大切なものを得ているような感じがしました。

ガトンのシェアメイト、ジャック&キキ(台湾)。3人でお出かけのときに寄った、海鮮丼の美味しいお店にて
さて、ガトンでは2ndビザ用のサインを巡り雇用主と論争したり、不摂生をして労働中に異常な腹痛に見舞われ診療所のお世話になったりといろいろトラブルも充実していましたが、休日にブリスベンへ遊びに行ったりシェアメイトのギターを借りてレパートリー曲を増やしたりと楽しいこともしつつ、2ヶ月ほど過ごしたところでガトンでの生活に停滞感を感じるようになりました。

ガトンはアジア人が非常に多くネイティブと話す機会がほとんどなかったので、2ndビザ用のサインがもらえて且つネイティブの環境に行きたいなと考えていると、gumtree で「子どものお世話と、家づくりのお手伝い募集」というネイティブ家族からのWWOOFオファーを発見。さっそく連絡をとると参加OKとなり、バタバタでガトンを去ることに。

次はワガワガ、初WWOOF。

※Gotton時代の腹痛事件、そして後でも役に立ってくる「サインをしてもらえないときはどう戦うか」などのケーススタディと対策は、リアルタイムのメールなどを詳細に編集した→渡辺絢也資料集を参照

2013年11月 ワガワガ(Wagga Wagga)


ワガワガ、家づくり

初めてのWWOOF生活がスタート。
望んでいた環境に入ることができて嬉しいという気持ちもありましたが、何といっても初「自分以外全員ネイティブ」状態。「適当な英語じゃ通じないだろうから本気で頑張らないと」という緊張感の方がやはり強くあったと思います。

ホストファミリーは、親の代でハンガリーから移住してきた夫ジョージ、7歳のときにオーストラリアに移住したイギリス出身でしっかり者のアスリート奥さんサラ、7歳の娘スカイちゃんと4歳の息子オースティン君の4人家族。

話を聞くと、サラの父親はゴールドラッシュ時代にオーストラリアへ出稼ぎに行き、家を造っては販売したり家賃収入を得たりして10年ほどで早期リタイアを達成したとのことで、現在サラもそれに倣って家造りをしているところでした。

ワガワガ。家の丘の上より撮影

お邪魔した家は、周りに他の家が見えないほどのど田舎。最寄りの町まで車で片道2〜3時間かかるので食料品の買い出しは半月に1回。生活用水も自力で川の水を自家用の塩素入り貯水タンク(1万リッターくらいの)に入れて使い、当然シャワーや流し台の水も茶色く濁っており、電気も日光が強すぎると故障してしまうデリケートな自家用の太陽光パネルだけが頼りという何とも逞しい環境でしたが、おかげで都会では体験できないような自然の素晴らしさをたくさん味わうことができました。

夕方になると、毎日家族で丘の上まで散歩。11月はDry Season なので、ここに来たばかりの頃はまだ緑色だった丘もすぐに 360°一面黄色一色 に変わっていった。延々と連なる黄色い山々に、ゆっくりと沈んでいく太陽。空には巨大な Cirrus(巻雲)が、ブワーッとコーヒーに入れたミルクのように広がりその圧倒的な存在感を放ちつつも、当の Cirrus 自身はわれ関せずといった様子でただただゆったりとたたずんでいる。丘一面が黄色からどんどん オレンジ、茜色へと変わっていき、日没後の空もしばらくは淡いピンクや薄紫といった優しい色合いの変化を楽しませてくれた。

周りに電灯のない僻地なので、夜は月の満ち欠けによって見える景色が180°変わった。新月のときは、地上こそ真っ暗闇でしたが上を見ると巨大な星々がビッシリと夜空を埋め尽くし、また満月のときは、今度は逆に月の光が明るすぎて星が全く見えなくなり空は真っ暗でしたが、その分 地上は小説が読めそうなほどの明るさに。家の周りの丘一面が青白い月の光一色に包まれて、まるで夢か映画でも見ているかのような、そんな何とも言えないほど幻想的な風景をひとり童心に返って夢中で眺めていました。

サラさんは長距離ランナーで、Mizuno等のスポンサー数社を得て「マラソンでオーストラリアを一周した初めての女性」という偉業を成し遂げた方だった。

ワガワガのSkyちゃんとAustin君

それもあってか2人の子どもたちにも毎日マラソンを課していて、僕も昼間に合計2トンのブロック塀を運搬した後、毎夕5km程度のそのブッシュマラソンに参加していました。

さすがオーストラリアのブッシュだけあって、道なき道を子どもたちと走っていると毎日グレーカンガルーは横から飛び出してくるし、たまに陸ガメやエリマキトカゲなどに出会ったり、うっかりファイヤーアントの巣の上に立ってしまって足が餌食になりかけたり。

そんなマラソンを含め何かしらハプニングは毎日ありましたが、子どもたちといるとどんな小さなことでも一緒に大はしゃぎできたので、やんちゃな2人でしたが彼らのお世話自体は総じてとても楽しかったです。

充実した気持ちで一日を終えるためには、決してたくさんお金や贅沢な暮らしが必要なわけではない。と、頭では分かってるつもりだったけど実際にそんなシンプルライフをする自信もなければビジョンもなく日本では何も行動してこなかったので、実際にそういった生活を体験させてもらったおかげでその良さや大変さがもっとクリアに見えるようになったと思います。

ワガワガのSkyちゃん&Austin君とテレビタイム

そこの家には一度経験してみたかった家庭菜園もあり、レタスやポテトや僕の好きなロケット(ルッコラ)を植え育てさせてもらいました。「オーガニックの新鮮な野菜が食べられるなんて、ここの子どもたちはきっと野菜好きにちがいない」と最初はそう思いましたが、意外に2人とも野菜嫌い。変だなと思って実際にここの野菜を食べてみると、苦味や渋味がやや強かった。「野菜たちも農薬が無い分、自分たちで害虫等から身を守るためにワザト苦くしてるのかなぁ?」と適当なことを考えたりしつつも、固い土を耕して種まいて、毎日大量のハエと蚊に襲われながら朝夕1回ずつ水やりして少しずつ育てていった野菜たちだったので、僕自身はここの野菜がとても好きでした。

さらにここではネイティブが使う日常会話表現や生活用語もたくさん学べ、得るものの大きい1ヶ月間でしたが、僕自身がまだまだ強い英語コンプレックスを持っていたせいでスピーキングが全然上達しなかったことや、日本についての質問にうまく答えられなかったりで相手を楽しませられず一人で勝手にマイナス思考になったりしていたので、正直に言うと、残念ながらここのご夫婦と良好な関係を築くことができませんでした。

そんなこんなでここの生活が1ヶ月経った頃、サラの妹さんが急きょ来ることになり僕の寝室が使えなくなった。
ご夫婦との関係を少しでも縮めてから出ていきたいとまたキレイゴトばかり考えて無理していましたが幸か不幸か強制的にワガワガ生活が終了することになったので、急きょ次の目的地を考えることに。

ちょうど12月に入り高額ジョブで名高いチェリーのシーズンが来たことに気づいたのと、水と空気が世界一きれいということで渡豪前から気になっていた場所でもあったため、次の目的地はタスマニアに決めました。

ワガワガ生活のyoutube:https://www.youtube.com/watch?v=GTh8fRoo1lM



2013年12月〜2014年1月 タスマニア Part 1
 HuonVille チェリーピッキング


オーストラリアンドリーム、チェリーの季節がやってきた!ということで勢いだけでタスマニアはホバートまで来たものの、タスマニアのどこにチェリーの仕事があるのか全く知らなかったので、とりあえずホバートにて1日情報収集。

「HuonVille か Cygnet が名産地っぽいな」と目星をつけ、善は急げでバスに飛び乗り HuonVille へ(サラッと書きましたが、実際は一括パックで鍛えた行動力をフルに使い情報収集&仕事探しを行いました。1年後のライムファームの章で同じ行動をとっているので、詳細はその章で改めて)

1時間ほどバスに揺られながら、隣の席の裕福そうな白人のお婆さんと雑談。

「チェリーの仕事を探しに HuonVille へ向かってるんですが、住むところも仕事も何も決まってないんですよ〜ハハハ」と明るく身の上を話したところ、そのお婆さんが運転手さんと話をし出し、「HuonVille は私も降りる所だし、いまバックパッカーの場所も聞いておいたから、一緒に降りてから詳しく説明するわね」と言ってくれました。今回も自分の思っていることを発信してよかったと思うと同時に、あらためてオーストラリア人の優しさを強く感じさせられました。タスマニアの人たちは特に親切な人が多かったように感じます。

チェリー時のHuonvilleバッパー、テントサイト
夕方 HuonVille に到着し、彼女から丁寧なご説明を受けバックパッカーへ。
受付に行って事情を説明すると「部屋はもう埋まっているから、テントエリアしかないよ」と。まだまだ夜は凍えるタスマニアでしたがどの店もとっくに閉店している時間だったので、テントエリア用の調理場で途方に暮れているとそこにいた日本人グループが親身になって話を聞いてくれて、ありがたいことにその日は車中泊をさせてくれ何とか寒さを凌ぐことができました。

ワガワガのWWOOF時代はもちろん無収入で、そこからワガワガ-メルボルン-ホバート-ヒューオンビルと移動したことによりテント代も惜しまれるほどの財政状況でしたが、ここでも運よく日本人グループの1人(特に親身になってくれた方)がちょうどテントエリアからコテージに移動するということだったので、事情を説明したところ彼のテントや毛布やマットレスを格安で譲っていただけました。


HuonVilleの有名受付DavidとVal
肝心のチェリーについては、僕が到着した12月上旬が大手農場へのエントリー締切ギリギリだったようで何とか高収入が期待できる状況には入れたのですが、仕事開始まであともう1ヶ月ほど待たなければいけないことが判明。

これはヤバイと1週間ほど情報収集していると、ある日の夕方に受付から「時給約20ドルのアップル thinning 仕事」を紹介されました。二つ返事で引き受けると「翌日早朝にロビー集合」とのこと。連日の疲れが溜まっていたこともあり、その日はそのままテントに入って日没前に爆睡。

翌朝ロビーへ行くと僕の他に10人くらい参加者がいて、そこで受付の男性から出発前に農場までの行き方を教えてもらったり「ここのオーナーは厳しくて、気に入らない人はすぐクビにするから必死に働くように」と説明を受けたりしました。

が、名前確認のときにどうも自分の名前が言われなかったような感じだったので(リスニングにまだ自信がなかったので曖昧)、イヤな予感がしました。しかしここで確認して万が一のダメ出しを食らうよりも、曖昧なまま実際に働いて既成事実化していった方が良いように思いました。なんとはなしの直感ですが、場の雰囲気からして人数やメンバーなどについて、そこまで厳密にやってる感じには思えず、なりゆき次第で融通をきかせてくれるかもしれないと思ったからです。実績を積んで「こいつは居てもいいな」と思ってもらえたら、それでいいわけですから。

農場に着いてまずは税金や保険の記入書類が配られたのですが、やはり1人分足りないとのことで悪い予感はほぼ当たりでした。しかし何とかその場は乗り切って提出を済ませ、仕事開始になりました。そこからは落選確実でダメ元という前提でさりげに自己アピールに励むことにしました。例えば、昨年オーナーの家にワタナベという名字の日本人女性が居候していたと聞けば、それをネタにとにかく話題を広げて喋ったり、thinningの仕事についても全力でやって、他のメンバーより真面目なことをアピールしたりと、必死に思いつく限りのことをしました(時給ジョブのおかげで他メンバーはノンビリ仕事していたのでアピールはしやすかったです)。

就労2日目の仕事後、キッチンでご飯を食べていると受付の女性がすごい剣幕で怒鳴り込んできて、「あなた抽選に落ちたのに何で働いてるのよ!あなたの雇用は無効よ!明日からもう行ったらダメよ!」と一方的に宣告されました。どうやらこの仕事を紹介してもらった日、僕がテントで爆睡している間に応募者がものすごい人数になったようで、その場で抽選が行われたが僕はその抽選に落ちたということでした。

ついに来るべきものが来たということで万事休すなのですが、これまでこの想定で伏線のように仕込んできたので、ダメ元でも頑張ってみようと思いました。まずは決裁権のないこの女性と言い争っても印象が悪くなるだけなので、物分りがいい紳士風に、爆睡していたので抽選があったこと自体全然知らなかったという事情を伝えたうえ、それなら仕方がないですねと相手の言い分にも理解を示し、「ただ、これまでの2日間は事実すでに働いているので、この分の給料は払っていただけるように何とか話をしてもらえませんか?」と言うと女性も口論にならずホッとしたのか快く引き受けてくれました。周りにいた日本人2人も一方的に怒鳴られた末に引き下がった僕を見て「残念だったね」と慰めてくれましたが、結局その後すぐ彼女から「週末まであともう2日だけ働いてもいいそうよ」と返事がきました。作戦が奏功したのか単なるラッキーなのかはわかりませんが、とりあえずあと2日のチャンスを貰えたので、さらにその2日間で「真面目でナイスな人」的な猛アピールをしました。その2日が終わった日(=クビになる予定だった初週の最後の日)に、オーナーさんと直接話す機会をみつけ、「他の皆に比べてはなんですけど、僕なりに一生懸命働いてきたつもりだったんですけど、やっぱりダメですか?」と切り出してみたところ、「うーん、そうね」「まあ、もうちょっと様子をみるか」みたいな感じで融通をきかせてもらえました。

結果的にいえば、なし崩し的にズルズルとクビがつながって、ちょうどチェリー開始の前日まで約1ヶ月ほど働き続けさせてもらえました。このように既成事実を先行させ、クビと言われているのに土俵際で粘るというやり方は、日本の環境に置きかえるとちょっとありえないやり方です。日本にいる頃の自分だったら泣く泣く諦めていたでしょう。しかしガトン時代に労働日数のカウントを巡ってトラブル&交渉をするなどの過去の経験を通じて、形にこだわらずフレキシブルに現場に対応するというオーストラリアのカルチャーが何となく染み付いてきていたのだと思います。"Everything is negotiable"の精神で、どんなことでもとりあえず話し合ってみる、すぐには諦めないということです。それが結果的にうまくいったので、ささやかな達成感を得られました。


この仕事のおかげで懐もだいぶ暖かくなり気持ちにも余裕が出てきたので、ホバートの年末カウントダウンイベント(有料)に参加したり、タスマニア産のウィスキーやワインを買ってみたりとタスマニアにいないとやらないようなことをしたりして、ここのバッパー生活はテント暮らしとはいえ個人的には非常に満足した生活でした。


チェリーピッカー、イタリアのフランチェスコ(ケッコ)
ここでの良い出会いは、フランチェスコというイタリア人。(ニックネームは、ケッコ)

彼は僕のアップル thinning 仲間で、他のイタリア人仲間によくからかわれながらも皆から好かれる人気者でしたが、ある夜、他のイタリア人たちが離れの調理場でドンチャン騒ぎをした挙げ句食器もお酒もそのままで出ていった後、彼一人その調理場に残って黙々と後片付けをしていたときがありました。

夜中で誰もいないのにマジメだなぁと感心して「もし日本でシェフやったら、上司にすごく気に入られると思うよ」と言ったら恥ずかしそうにしながらもすごく喜んでくれて、以来ちょっとしたお手製の手料理を分けてくれたり、日本のアニメのことを楽しそうに話してくれたり、バッパーの日本人女性で彼の好きなタイプNo.1とNo.2を教えてくれたり(彼はイタリア人なのにシャイ)と、とても仲よくしてくれました。僕はあんまり浅く広くの交友関係が好きではないので調理場が人で埋まっているときとかは何とも言えない居心地の悪さを感じてしまうのですが、そんなときも彼がいつも気さくに話しかけてくれたので、とてもありがたかったです。



年が明けて、APLaCのサイトでA僑通信の第2号が出た。
同じAPLaC卒業生同士、もっと連携して生産的な結果を生み出せるようにしようという、面白そうな内容。

ガトン時代ほどではないものの自由な時間は結構あり、この頃ヒマだなぁと感じていたクセに新しいことを始めることも特にせず悶々としていたので、
そのA僑通信でリクエストのあった「強み、提供できるもの10個」を考えて提出したり、
その通信の中でAPLaC先輩の中島さんが宣伝を始めたばかりだった「人生略歴」のオファーに早速応募しインタビューを受けてみたり、
ワガワガで放置されていたのを譲ってもらった「ディズニーキャラクターのお絵かき練習帳」で下手なりにキャラクター絵描きの練習をしてみたり、
HuonVille人生略歴作成中
HuonVilleで絵の練習


大学でアコースティック・ギターのサークルに所属していたという韓国人にギターのテクニックを学んだりと、

年明けは特に意識してワクワクするような新しいことにトライするよう努めていたように思います。

普段は時間があってもついついダラダラと過ごしてしまい何とも言えない不快感を解消できずにいることが多いので、こうして新しいことを学んだりいつもと違ったことをイロイロやってみたおかげで充実感が増え、とても気分の良い年明けの日々でした。


Huon隣のCygnet Folk Festival
1月下旬、チェリーピッキングが遂に始まった。その年はそれまでの不安定な天候の影響でチェリーがうまく育たなかったようで、通常4〜8週間と言われていた収穫期間を大きく下回る2週間程度で仕事自体は終わってしまいましたが、噂通り高収入でノンビリやっても1日200ドル前後稼げたので、体調不良で贅沢にも半分近く休んでしまったもののそれでも1000ドル以上稼ぐことができました。

ラウンドスタート後は所持金100ドル以下になることもしょっちゅうでしたが、ラウンドに出てここで初めて所持金が4ケタ台に。ものすごくお金持ちになったような気分でした。

さて、チェリーピッキングが終了するとそれまで隙間なく埋め尽くされていたテントエリアも一気にまた閑散となりました。僕も残り約1ヶ月分の2ndビザ用労働日数を得なければならなかったので、WWOOFホストを探そうと思いAPLaC後輩の糸数さんに連絡すると、以前彼女がWWOOFしていた先が HuonVille にあるとの情報が。

話によると、化学製品は一切使わず、お風呂も屋外の釜風呂もしくは川とのことでした。

面白いと思い、早速そのお宅へ連絡。すぐにホストがバッパーまでピックアップに来てくれ、バタバタと次の場所に移動しました。

2014年2月〜3月 タスマニア Part 2 ナチュラリストWWOOF

HuonVille の町から車で山道を走ること30〜40分。オーストラリア2件目のWWOOF先は 裏に小さな川の流れる、背の高い木々に囲まれた、これまたとても人里離れた田舎にありました。

ホストファミリーは、自然との調和を大切にしているオージーの旦那さんと、20歳くらいからアメリカやオーストラリアなどでずっと海外生活をしている日本人の奥さん、そして1歳半の息子の3人。
「息子のために、日本語の会話が常に聞こえる環境を作っておきたい」というご夫婦の考えにより、これまでもたくさんの日本人WWOOFerが来ていたそうで、僕が滞在していたときも既に1人日本人(Aさん)がいて途中さらにもう1人日本人が来たので、「こんなタスマニアの奥地にも日本人がたくさん集まるところがあるんだなぁ」と、不思議な気分でした。

ここでの仕事は、ブラックベリーの収穫や薪わり、薪拾い、その他DIYや隣のオージーWWOOFホストの手伝いなど。僕とAさんと、隣のホスト先でWWOOFをしていたイタリア人のグロリアとの3人でトマト用ビニールハウス内の雑草を抜くのが、ここでの初仕事でした。

タスマニアWWOOF 左端がマディ、ど真ん中がグロリア

グロリアとAさんは、僕より1ヶ月ほど前にここでWWOOFを始めたとのことでしたが、この2人は本当にとても仲良しな2人でした。グロリアもAさんもまだまだ英語は勉強中とのことで、Aさんいわくお互いにまだ何も深い話はできていないとのことでしたが、グロリアはいつもAさんが返事に困っているときは必ず「It's OK ! Don't worry !!」と返し、決して呆れたりすることなく常にAさんに明るく話しかけていました。

当のグロリアもネイティブホストに話が伝わっていないことが何度かありましたが、それでも彼女は決して会話を諦めたり弱気になったりすることはありませんでした。
「私はハッピーになることが大好きだし、私がハッピーになったときは何故そうなったのかを相手に理解してもらえるまで伝え続けたい。そうすることで相手もハッピーにさせることができると思うから。自分が英語をうまく話せないなんてことくらいでは、決して伝えることを諦めたりしないわ」

そんな好感の持てる彼女のポジティブな姿勢。
実際に彼女の会話力がみるみる上達したこと。そして何より、英語が上達する前からすでに彼女がホストファミリーからとても気に入られていたこと。目の前で次々と彼女に起こるこのポジティブな変化。まるで「楽しく生きてたら、英語もグングン伸びました〜」といったような、僕からしたら奇跡のように映るこの彼女の生き方をずっと傍目に羨んでいたのですが、「一体彼女に何が起こっているのだろう?自分と何が違うんだろう?」とこの何ともハッキリとしない違和感について悶々と考えていると、あるときパッと、自分の中でシックリとくる答えが出てきました。

英語力とコミュニケーション

自分に足りなかったもの、ユウキやグロリアやその他の魅力的な人達が持っていたものが何だったのか?

僕は、これまで「英語ができないと良いコミュニケーションはできない」という考え方をしていました。「英語ができること」がまず何よりも不可欠なことであり、「もし英語ができないのであれば英語で誰かと深く付き合うの無理だ」と、自分で勝手に変な縛りをかけていたのです。

だから、たとえ80%英語が聞き取れたり話せたとしても「20%も聞けてない(or話せてない)!」と考えてしまい、パニックになって会話を楽しんだり続けたりするためのエネルギーが奪われ、会話が続かない→後ろめたい気分になる→余計に話しづらい関係になってパニック、という悪循環によくなってました。誰かと英語で喋っているときも一回で聞き取れなかった部分は「自分の英語力では、ここまでしか理解できなくても仕方がない」といって聞き直さなかったり、自分が普段よく使う質問群がネタ切れてしまった時点で「自分の英語力では、もうコミュニケーションのネタが無い」と思い込んで一人勝手にコミュニケーションを続けるのを諦めたりしていたのです。

しかしこれでは相手としても「何であいつは分かったような分からんような反応のままで話を終えるんだ?」「最初は政治経済や文化のこととかガンガン聞いてきてたのに、何でその後の日常的な会話は急に控えめになるんだ?変なヤツだな」と感じてしまって当然だと思います。さらに、こんな風に「(本来なら)英語ができるハズなんだ」と無理に自分に言い聞かせてしまうと、自分の知ってる単語やフレーズだけで物事を考えてしまうので、せっかく聞いたネイティブならではのフレーズなんかも自分の知ってるフレーズに置き換えてしまい、いつまで経ってもその新しいフレーズを使うことができない(身につかない)という弊害もありました。

反面、ユウキやグロリアにとっては、コミュニケーションにおいて「英語ができること」自体は全く不可欠ではなく、分からなければ何度でも相手に聞き直すし、いつでも気楽に気軽に相手に話しかけ、感情表現も素直に表現するわけですね(とくに喜びの感情は)。たしかに日本に置き換えて考えてみると、「ある程度まともな日本語は話せるけど、会話してても分かったような分かってないような生返事で毎回話を終わらせる外国人A」と、「絶対に何度も聞き返してくるけど、最後には分かってくれてメッチャ嬉しそうな反応してくる外国人B」だったら、Bの方がより多くの日本人と仲良くなれるように思います。これまでの僕は英語力を伸ばすことだけでイッパイイッパイになっていて、愚かにもそういったコミュニケーションに関する勝手な誤解をまるで信念のようにずっと強く持ち続けていたわけです。

ということで、これまでの「英語ができないと、良いコミュニケーションはできない…」という間違った考えを改め、「英語はできない。けど、良いコミュニケーションならできる!自信ある!」という考え方にこの瞬間からシフトすることに。この僕にとっては画期的な考え方をするようになってから、「本来はこんなに分からないハズがないのに、ナゼこんなにも聞き取れないんだ〜」みたいな無駄なパニックを起こすことが無くなり、その分のエネルギーを100%話題つくりにアテられるようになったり、ネイティブならではのフレーズもそのまま頭に入って、自分でもそれを使えるようにもなりました。

日本にいるときのような感覚のままでいるとつい、「100%理解(or 100%完璧な英語で会話)しないといけない」とか「分からなかったことを聞き返すのは失礼かも」といったように、会話力upの妨げになるような考えに陥りがちですが、もう少し良い意味でrudeになって、「20%聞けて20%伝わればOK.。英語ができなくても、コミュニケーションだけでいいならそれだけで十分!」と考える方が、不要な心配事にエネルギーを奪われない分だけ効率的に会話力を伸ばせるなぁと。

ほんのちょっと考え方を変えるだけで人生の結果や受け取り方がこんなにも大きく変わるとは、まだまだ僕も自分のことを全然分かっておりません。というわけで、ともすれば「自分の性格に問題があるから、ネイティブと仲良くなれないのだろうか?」といったマイナス思考・減点思考に偏りがちな僕にとっては「性格じゃなくて、ただ考え方だけの問題だったのか〜!」と、ずっとあった盲点に対してすごく大きな悟りを得たかのような、本当にありがたい気づきでした。

ブラックベリーのピッキング

プチ恋愛

さて、実はここのWWOOF先では、ちょっとした恋愛的な出来事もありました。
それは、ここでの生活がスタートして3〜4日ほどが経った日の朝。グロリアの方のWWOOFホスト先に、新たな女性がWWOOFerとしてやってきました。ブロンドの髪に白い肌。小柄でスラッとした、細身の女性。彼女は、マドレーヌ(ニックネームは、マディ)という、パリ出身のフランス人でした。

新体操をしていたというその彼女の立ち居振る舞いは洗練されていて、一見するとどこぞの上流階級者かと思ってしまうような雰囲気を醸し出していましたが、それと同時に、ホストや僕たちとの挨拶のときに冗談でツンとした態度を取ってみせたりもしていたので、彼女に対する最初の印象自体は「あ〜やっぱりフランス人らしく勝気というか、ちょっとアマノジャクっぽい話し方をする子だな」くらいの感じでした。

彼女が加わって最初の一日二日は、ビニールハウス内の雑草抜き手順をどうするかで日仏伊3ヶ国会議を開こうだの、お互いのお城の特徴がどうだのと他愛のない会話をしていただけでしたが、三日目の午前仕事のあと僕が自分のホスト宅へ戻ろうとすると、突然マディが僕の目の前にやって来ました。
「午後は何する予定なの?」
「えっと、、うちのホストファミリーの赤ちゃんのお世話とか。まぁいろいろやることはあるけど…??」
急にこんな質問されるとは思ってなかったので、こんな感じで素頓狂な返事をしていると、"…OK. See you later :) " と言って、お隣のホスト宅へと帰っていきました。

そのままその日の午後はそれぞれのホスト宅で働いて一日が終わったのですが、いま思うとその日あたりから仕事中もそれ以外でも、チャンスがあればよく2人でお互いのことを話すようになっていったように思います。

「フランスにはもうウンザリ。わたしは自分が City Girl だと思っていたから、普通に就職するため頑張って Diploma や資格をたくさん取ってきたけど、全部ムダだった。今はここの生活みたいに静かな暮らしがしたいわ。フランスを飛び出して、いつかオーガニックなファームを経営するの」
彼女は後にメルボルンで会ったときもヤギ farm へと積極的に訪問していたり、現在も「農場経営について半年ほど学校で学んでくる」と来年明けまで一時的にフランスで学校生活をしていて、当時から本気でオーストラリアに移住しオーガニック・ファームを始めたいと考えて動いているそんな女性でした。

そんな彼女と仲良くなり始めてからあっという間に2週間が経ち、無事に2ndビザを獲得した彼女が数日後メルボルンへと旅立つことになった。

彼女たちのホストが毎週土曜にあるタスマニア最大の屋外市場、サラマンカ・マーケットに出店している関係で(オーガニック野菜の店)、土曜はオプションで毎週その出店の設営&販売を手伝うことができたのですが、夜中の3時に起き真っ暗な家を出て、タスマニアンデビルの鳴き声や急に逃げ出すワラビーにいちいちビビリながら寒くて真っ暗闇の山道を通り2〜300m先のお隣ホストまで行かなければいけないこの土曜のオプションは眠いし寒いしで僕には苦痛のオプションだったにもかかわらず、我ながら現金なもので、彼女の最後の土曜は全く眠気も寒さも気にならず3時にバッチリ目が覚めまして、そのままはりきってオプションに参加することに。

まだ真っ暗なままのサラマンカに到着し、すぐにオーガニック野菜店の立ち上げを開始。2〜3時間ほどで店が完成すると空もだいぶ明るくなってきて、時間的にはちょうど朝日が出そうな頃になった。

これまで何だかんだでマディと完全に2人きりで過ごす時間はつくれなかったので、もしかしたらこれが2人きりになれる最初で最後のチャンスになるかも知れないと思い、「どこか朝日の見れるところに行こうと思うんだけど、よかったら一緒にどう?」と、緊張しつつも思いきって彼女を誘いました。
2人で朝日が見える高台の Princess Park へ行き、いちばん上のベンチをめざして芝生の急斜面をのぼる。朝の7時前、すっかり明るくなったタスマニアの空気はまだ冷たく、誰もいない公園はまだ少し肌寒かった。遠い水平線の向こうから、徐々に昇り始める太陽。2人きりで朝日を待ちながらしばらくはお互い無言でいましたが、突然彼女が、
" …To be honest, I'm a bit sad "
と、淋しそうな微笑みをしながら朝日を見つめ、そう言ってくれました。
そんな横顔を見て「告白するなら今だ」という衝動に正直駆られたのですが、これ以上関係を進めるための決定的な言葉は、情けないことに僕からはとうとう言えず。彼女のプライベートな事情もあり、あまりこれ以上は書けませんが、結局その彼女の言葉に対して僕が言えたのは、「ここでこのタイミングでマディに会えて、俺はhappyだよ」だけでした。
ホバートのサラマンカの街角

タスマニアWWOOFのオーガニック野菜店


サラマンカ・マーケットの休憩時間、アップルジュースを買って一緒に寝そべったParliament Square の芝生。
ケンカの翌日、Bangles の Eternal Flame をギターで弾いていると横に来て歌ってくれた朝のHuon Market。
ブルーベリーPickingの日ちょっとだけサボッて一緒に隠れて寝転がった、ブルーベリーの木陰。

「ガトン、私もいたのよ!ニアミスだったわね」
「あなたのギターと歌はホントに魅力的。今すぐバスキングを始めるべきだわ」
「私の親戚の奥さんは日本人なの。あなたのWWOOF先といい、ジャパニーズ・ハーフの子どもって本当にみんな キュートね」

彼女と過ごしている間は、それこそ中学や高校のときの恋愛のような地に足のつかないフワフワとした感覚になったりもして、久しくなかった青春のような恋愛感情を思い出しました。同時に、思春期ではなかなか持てない少し大人な落ち着いた安心感みたいな感覚もあって、彼女との日々は今まで味わったことのない、とても居心地のいい Sweet surrender な日々でした。
彼女とはその後のメルボルン時代にも少しだけ一緒に過ごしましたが、こうして国の違う者同士が偶然タスマニアの僻地で出逢い今も変わらず良い関係が続いているという、そんな付き合いの外国人女性に出会えるとは渡豪したばかりのときには予想していなかったので、オーストラリアへ来てよかったなと思える最も大切な出会いの一つでした。


→Part02へ続く


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