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2014年02月13日


渡豪体験記 古橋祐也さん

 2013年04月渡豪〜2014年02月帰国



はじめに

 僕はラウンドもしていないしファームにも行っていませんので、他の方々のような壮大な冒険記は書けません。ただ、そんな素晴らしい冒険記を全部読んだ上で、自分にもやはりみなさんにシェアしておきたい経験があるなと思いましたので、ここに筆を取らせて頂きます。

 いきなりですが、自分はプライドが高く、あまり人に弱みを見せたくないタイプです。また、それでいて八方美人な所もあるので、他人に気を使って、周りの空気を読んで読んでこれまで生きてきました。ワーホリ中、「ゆうやは順調だよね」とか「目標に向かってきちんと進んでてすごい」とか言われることがありましたが、弱い部分を見せていないだけで、実際は途中で断念してもう帰国しようかと考えたことだって何度もあります。

 普段は隠している自分の弱さと向き合うという意味でも、こういった体験記を書くのは絶好の機会だと思いますので、全てさらけ出して書きたいと思います。

出国まで

 僕は日本にいた頃は塾講師として働いていました。対象は小中学生で、専門は英語と社会。5年間の勤務後、退職。オーストラリアでのワーホリを決めた理由は大きく二つあって、一つ目は30歳になるまでに何か一つ自分に誇れるモノがほしいと考えていて、その延長で現地で難なく使えるレベルの英語を身につけたいと思ったこと。

 こちらに来てから何度か「先生だったんなら英語ペラペラでしょ?」と言われましたが、ご存知の通り日本の教育現場は文法指導に重きを置いているため、先生と言えど英語を自由に話せる人ばかりではありません。少なくとも自分はそうではありませんでした。文法は頭にある、相手の英語もおおよそ理解できる、文章だって基本は不自由なく作れる。しかし実践の英会話となると経験値が絶対的に足りないので、「テンポよく」話すことができず、本当の意味でのコミュニケーションはできていませんでした。もし生徒の前に再び立つのならば、冗談を言い合ったり、真面目な相談もできるぐらいの英語力を身につけ、教科書英語でなくもっと深い部分の英語を理解した上で立ちたいと思ったのが、渡豪を決めた一つ目の理由です。

 二つ目の理由は起業に興味があり、海外で何かヒントを得られたらいいな、と考えていたことです。当時は「ヒントが得られたらラッキー」程度にしか思っていませんでしたが、終わってみて収穫は大きかったです。これについてはまた後で書きますね。

 また、直感で引き寄せられた部分も大きかったと今になって思います。大学を出て就職して、30代手前で全部投げ出して海外に行く。帰ってからの生活の保証もゼロ。それなのに「なんとかなるだろう」という思いで、ワクワクしながらワーホリの手続きを進めていました。もちろん不安もありましたが、ちょくちょく見ていたAplacのホームページのおかげで大分不安は解消されていたように思います。

シドニー時代

シェア探し

シェア先
 同期の二人といっしょにシェア探しをしました。
 10軒ほど見たあとで、Eastern SuburbのVaucluseという場所でオージーのおばさんとのシェアをゲットしました。

 バスと電車を乗り継いで学校まで1時間かかる所で、Rentも決して安くなかったのですが、絶景とシェアメイトのおばさんリサの優しさにやられました。
 Inspectionに行った際、連日のシェア探しでクタクタになっている中、「とりあえず座って何か飲む?」と親身になって話を聞いてくれたのは本当にありがたかったです。

 再三同じことが言われていると思いますが、やっぱり最初も最後も「人」で決めて間違いないです。いつもニコニコ接してくれるリサを思えば、通学1時間は苦でもなんでもなかったです。

 今思えば、シェア探しは本当にいい英語の訓練になったと思います。度胸も付きました。同期の渡辺君は、色々な人と接する機会があるという理由で、シェア探しに嵌りすぎて、学校が始まってからも数週間シェアを探し続けていましたが、その気持ちはよく理解できます。でもトータル3週間はちょっとやり過ぎですよね。笑

シュアの近所のVaucluseの高台の公園。
奥に見えるのがもう海。
Vaucluseの高台の公園

体調の波

 実は、こちらに来た当初から体調がよくありませんでした。正確には来る1週間くらい前からだったと思いますが、体調を崩しがちで、特に僕の場合はストレスがお腹に来るタイプなので、腹痛をよく起こしていました。酷いときは一日に5・6回トイレに駆け込んだり、食欲も減退して体重も落ちて体力も落ち、またストレスが溜まるという悪循環に入ってしまいました。

 原因は環境の変化によるストレスとほぼ見当がついていましたし、昔からの体質である意味で慣れてもいるのですが、海外ということもあり対処ができずジリジリと悪化していくまま1ヶ月ほど経過、体重が5キロ以上も減りました。その時の精神状態は本当にボロボロでした。本音は帰国したいものの、なんせ学費は3ヶ月支払い済みですし、勢い勇んで海外に来て1ヶ月で帰国なんて、プライドの高い自分が認められるはずもなく、かといって症状は悪化していく一方。(今書いていてすごく思いますが、自分のプライドのせいで体調をより悪くしているので、自分で自分の首を絞めてますよね。)

 しかしなんとか踏みとどまり、ネットで知り合ったAplacのOBのRyujiさんが、ご自身も服用しているよく効く漢方薬を紹介してくれ、これが絶大な効果でそこから体調は好転し始めました。そこからも多少の波はあったものの、帰国せざるを得ないというような危機的な状況に至ることはなく、帰国後の今ではすっかり体重も元通りで元気そのものです。お腹を壊しやすい体質は相変わらずですが、これはもう自分の個性だと思って受け入れています。

語学学校

ブルーマウンテン
既に体験談を書いてくれた梨衣さんや水貝くんも

 SCEという学校に通いました。同時期にAplacから来た方も多く、アプラッカー(Aplac同期)でよく昼飯を食べたり、Barに行ったり、BlueMountainsに行ったりと充実でした。アプラッカーは共通の話題が多いのもそうなんですが、何より不思議な連帯感みたいなものがあって、こういう輪があるのは頼もしかったです。

 ちなみにクラスはIntermidiate(中級)からのスタートでした。一般的には悪くないかもしれませんが、英語を教えていた身としては恥ずかしいレベルだと思います。そして、そのことをずばりアプラッカーの先輩吉田さんに指摘され、(「英語の先生なのにIntermidiateなの?」って。笑)、痛い所を刺されて「だからココに来たんですよ!」ってムキになって答えたのは今では良い思い出です。

 なんとか2ヶ月でUpper Intermidiateに上がり、この頃にはクラスメイトのヨーロピアンなどともある程度打ち解けた話ができるようになり、英語でのコミュニケーションにも徐々に自信がついてきました。

 心がけていたのは、田村さんからのアドバイス通り、席を固定せず色んな人に話しかけることと、先生に授業後に質問することです。後者は完全に自分の経験からですが、質問してくる生徒は先生からすると印象に残りやすく、授業中も話題に挙げやすいです。平たく言えば「この生徒は熱心だ、私の授業に好意的だ」と受け取るので、逆に先生からも好意的に思われるわけです。

卒業式
 ちょっと打算的かもしれませんが、先生に好かれておいて損はないし、同じ授業料を払っているんだから、ノートにかじり付いて空気のような存在になるよりも、授業中も積極的に先生に絡んでもらった方が話す機会も増えて英語も伸びるし、何よりモチベーションが上がりますよね。というわけで、授業後はしつこくならない程度に先生に質問しておくことをオススメします。質問を嫌がる先生はいないはずです。(万一いたとしたら別のクラスに移るべきです。)

 シドニー時代で書き忘れましたが、バイトはジャパレスでやりましたが、なんとスタッフがほぼ全員中国人で中国語でばかり会話するので、非常に苦痛でした。親切な香港人が英語で話しかけてくれ、それが救いだったので続けましたが、基本的にはナイトメアなのでこれ以上は書きません。


ゴールドコースト時代

クーランガッタのビーチの夕暮れ
 語学学校卒業が7月、つまり冬でしたので、少しでも暖かい場所を目指し、ブリスベンへ。とにかく狙いは現地の人に混じって英語を少しでも上達させたいということで、ブリスベンでローカルジョブを探しながら、Gumtreeなどでも仕事を探していたところ、ゴールドコーストで翻訳の仕事をやらないか、という話が舞い込んできました。個人契約で時給$20の1回2時間。週1回の$40では生活費の足しにもなりませんが、何事も経験と思いとりあえず話を聞きにゴールドコーストへ向かいました。

 ロジャーというおじいさんが依頼人で、オージーに日本語を教えるためのパワーポイントを作りたいのだそう。教会の一室を借りて、既にイタリア語とフランス語のレッスンを開講しており、これが大盛況。今度は日本語にも手を出したいとのことでした。二つ返事でOKし、これを機に拠点をブリスベンではなくゴールドコーストに移すことに決めました。

 また、同時にネットに日本語の家庭教師の広告を掲載、ローカルジョブは一旦保留にして、短時間バイト掛け持ち作戦で食べていくことを決意しました。また、丁度この頃語学学校時代の友達が近くのYHAに来ており、サーフィンを教えてくれるとのことでYHAを訪れました。そこでクリーナー募集の張り紙を見つけ、詳しく聞くと給料は出ないが週4日×4時間の仕事でタダで泊まれるという話でしたので、レントなし+家庭教師&翻訳の掛け持ちならなんとか生きていけるだろうという算段の元、YHA生活@ゴールドコーストがスタートしました。

 自分が好きな教える仕事をしつつ、英語環境にどっぷり浸かれるこの環境、我ながら良く辿り着いたと思いました。後になって、教えることに興味がある人はぜひ真似してほしいと思うくらい、いい経験になりました。

日本語の家庭教師

 真似してほしいと書いたからには、真似できるように詳細を書こうと思います。

 とりあえず定住する場所が決まり次第、Gumtreeに広告を出します。他にも生徒を募集している広告がいくつか見つかるはずなので、文面や金額等の条件は当然参考にしつつ、妥当な時給を提示します。(自分の場合は講師経験があるので$30、無駄に安売りをしても却って信用をなくすと考えてこの値段にしました。また、自分がきちんと納得できる値段でないと、引き受けたところでモチベーションが続きません。結果、生徒さんにとっても迷惑になります。)あとは連絡が来るのを待つだけです。

 僕の場合、2日後に初めての依頼が来ました。メールで待ち合わせ場所を決め、バスを乗り継いでRobinaという町の大きなショッピングセンターのカフェでついに授業開始です。目の前に現れた生徒にびっくり、なんと予告なしの兄弟3人セットでした。しかもお母さんも横で授業を聞きたいということで、いきなりのネイティブ4人対自分という、初授業にしては高すぎるハードルに、平静を装いつつも内心は激しく動揺していました。

 お金を頂くからにはきちんと予習(教える内容が日本語とはいえ、授業の流れや説明の仕方にはきっちりとした準備が必須)をしていきましたので、授業の内容は問題ない、はずだったのですが、3人のレベルがバラバラで、真ん中で中学生のシャイなお姉ちゃん(多分この子が真の依頼人)は日本語を知っていて簡単な文が作れるレベル、高校生のいかにも運動部といった感じの体格のいいお兄ちゃんと、遊びざかり真っ只中の小学生の弟は、ほとんど日本語を知らず、そもそも嫌々連れてこられたんじゃないか、という気配が表情から漂っていました。

 試しに弟に「日本好き?何に興味がある?」と笑顔で聞いたところ、真顔で「興味ない!」と即答され、やっぱりなと思いました。しかし、塾講師をやっていたこともあり、実はこういう状況こそ燃える性分で、最後には絶対にこの弟に「来週も授業受けたい!」と言わせて終わらせてやろうと決意。グロリアジーンズのオープン席で、周りのオージーにやや不審な目で見られながらも、全力で授業をしました。笑 

 結果、最後は狙い通りの言葉を聞くことができ、子供たちもみんな笑顔でした。が、時給の面で一悶着あり、お母さんは3人で$30でいいかと聞いてきましたが、僕は当然人数が増えた分はきちんと請求したいと主張。しかし、自分も対複数生徒の料金をまだ決めていなかったこともあり、少し戸惑った上で一人プラスにつき$10の計$50を頂きました。

 後にメールでやり取りしたのですが、どうやら最後の時給の面でのゴタゴタが不信に繋がったようで、結局継続指導はできないことになり、日本語家庭教師のスタートダッシュは失敗に終わりました。

 失敗に終わったものの、帰りのバスではむしろ海外で初授業をやり遂げた達成感と、久々の授業の充実感の方が強く、やはり自分は教えることが好きで、自分にはこれしかないな、と気付かされた思いでした。ちょうど夕暮れ時で、ビーチ沿いを走るバスに揺られながら、頭の半分でふと日本で教えていた生徒たちのことを思い出し、授業の余韻に浸っていると、オーストラリアにいながらそれでいて懐かしい感じの、不思議な感覚に包まれたのをよく覚えています。

YHAの生活

 YHAでの生活は、オーストラリアの現地に溶け込み、かつ国際色がとても豊かな環境で、僕にとって英語と文化を学べる濃密な時間でした。僕が働いていたのは空港近くのCoolangatta YHAというところです。スーパーもお店も近くになく、空港利用客が多くみんな数日で去っていってしまうのですが、ビーチ沿いで雰囲気がとてもゆったりしており、長期滞在者もそれなりにいました。

 また、日本人はほとんどおらず、英語に慣れるのにはもってこいな環境でした。当時の仕事仲間はオージーが2人にニュージーランド人、フランス人・スペイン人・タイ人、それに台湾人でした。仕事を掛け持ちしている人はあまりおらず、ハウスキーピングの仕事をしている時以外は、大概みんなビーチに行くか、プール際のソファでのんびりしていました。一見、ストレスフリーな生活のようにも思えますが、ここで英語の壁にぶち当たります。

 まず、ネイティブの英語を聞きとるのにとても苦労しました。スラングや訛り、そして容赦ないスピード。シドニー時代より数段聞き取りにくく、何度も聞き返すのはとても心苦しくストレスでした。仕事の指示も当然全部英語なので、たまに指示を勘違いしており、フルタイムのオージーに怒られたことも何度かありました。

 僕だけではないと思いますが、何度も聞くことに疲れ、諦め、愛想笑いですますということもやってしまいました。ショッピングセンターでたまたま仕事仲間のダン(タスマニア出身、20歳のモヒカンヘアー)に会い、向こうは「帰り車で乗せてってやるよ」と言ったらしいのですが、僕は単に「車で来たんだ」程度の話だと勘違いし、勝手にバスで帰ってしまいました。

 後で宿で会ったらダンは当然不機嫌になっていて、「何で先に帰ったんだ?乗せてってやるって言ったのに」と言われてしまいました。聞くと、わざわざ広いショッピングセンターの中、僕を探してくれていたとのこと。この事件の後、愛想笑いはもう絶対辞めようと心に決めました。

 YHAに滞在して一ヶ月ほど経った頃、台湾人のハイジと出会いました。いつも青いジャージを着ていて、恰幅の良いニコニコしたおばちゃんでしたが、オーストラリア在住15年で英語はネイティブレベルという人です。初めて会った時、僕の英語を褒めてくれたのですが、何回か会う内に弱点を指摘されました。曰く、「ゆうやの英語は教科書的で、自然な会話ではない時がある」とのこと。元々がっちり教科書の英語を教えて来たので、仕方ないといえば仕方ないのですが、「それではネイティブと打ち解けることはできない」と言われてしまいました。

YHA仲間とのテーマパーク
 その時ハイジがアドバイスとしてくれたのが、英語は水泳と同じなので、「英語の海で泳ぐ」つまり、とにかく色んな人と話して慣れること、そして英語の本をたくさん読むこと、でした。資格向けの勉強や単語の丸暗記をしていても、上達などしない(当時、帰国後を考えて資格の勉強をしていました)と言い切られ、更に、日本人はすぐに愛想笑いしたり、相手の話に「Yeah」や「Yes」の相槌だけで済まそうとする、そこが良くない!と指摘されました。なぜか突然日本人の代表というぐらいの勢いで説教されましたが、愛想笑いの話などは直近でピンポイントだったので、素直にアドバイスとして聞き入れることができました。

 その後、「Yes」などの脳みそを使わない相槌を極力封印、相手の意見に対し、自分の意見をなるべく文章にして伝えるようにしたところ、話が以前より格段に長続きするようになりました。なんとなく相槌していれば会話が成り立っているように見えますが、それは相手の意見を聞いているだけで本当の意味での会話とは言えないし、英語も上達していかないと実感しました。

越えられないネイティブの壁

 YHAに住んで2ヶ月、僕より先に働いていた人々は次々と去って行き、交代で新しいクリーナーが入ってきました。カナダ人、アイルランド人、イギリス人、ニュージーランド人、気付けば周りはイングリッシュネイティブだらけになっており、マンツーマンでの会話ならいいのですが、ネイティブばかりの会話に混じる時は、会話に置いていかれることが多々あり、ストレスが相当溜まりました。

 丁度その頃、Coolangattaのお祭りでバイトを募集していて、電話で問い合わせたところ見事働けることが決まりました。3週間の短期といえどローカルジョブで、ラッキーと思っていたのですが、待っていたのはYHA以上の濃い英語環境で、自分のキャパシティをついに越えました。仕事はゴーカートの係員で、簡単な説明をして券をもらうだけなので、全く問題なくむしろお客さんとのやり取りは楽しめていたのですが、問題は人間関係で、一言で言えば他のスタッフと全く馴染めませんでした。

 ただの短期バイトですし、他のみんなが仲良しな訳でも何でもないのですが、ネイティブの若いノリというか、そういったものについていけず(というかそもそも言っていることがほとんど理解できず)、ひとり浮いてしまいました。同じYHAで他にも4人働いていて、先にも出てきたダンが行き帰りを乗せていってくれるのですが、車中ですら例のスラングたっぷりの別次元の会話が繰り広げられ、せっかくたまに話を振ってもらっても、対応できない自分がいました。

 1週間経っても、状況は打破できませんでした。会話についていけないと暗い気持ちになり、気持ちが沈むと自信を持って発言することが出来なくなります。僕1人が英語で話して、周りのネイティブ4人が聞いているという状況が当然あるわけですが、その時も一言一言が合っているのか不安で、発音もおかしくないか気になって、言いたいことの10分の1も伝えられませんでした。

 結局話すことに臆病になってしまい、YHAのベッドに横になりながら、何でここにいるのか、自分は場違いではないのか、などと当時はネガティブな方向に考えがちでした。またそういうタイミングで外でBBQやら宴会やら賑やかにしていたりするもので、遠くの声を聞きながら、悔しさと情けなさでいい歳して泣きそうになりましたが、どうせ泣くんだったら誰かに全部ぶちまけた方が何か変わるかもしれないと思い、ダンに相談を持ちかけました。

 改まって「話したいから来てくれ」と言うのは緊張しましたが、ダンは僕の気持ちを察した様子で親身になって聞いてくれました。英語が全然分からないことがあること、ここのところ塞ぎ込んだ気持ちになっていること、また、それでも仲間として扱ってくれてることへの感謝、思っていることを全て伝えました。

 正直、ダンが何と言って返してくれたのかよく覚えていません。笑 しかし、僕の相談に対し真剣に話を聞いて、まっすぐに受け止めてくれたことは決して忘れないし、ダンのおかげで気持ちがスッと楽になったのは確かです。その後、お祭りを通じてスタッフと打ち解けて、YHAのネイティブたちともグッと距離が縮まりました。

起業のヒント

 日本語の家庭教師はその後4件ほど依頼が来て、段々と軌道に乗り始めました。とは言っても交通手段はバスですから、一番遠い所は往復2時間かけてバス料金$20近くを支払い、コーヒー代も引くと手元に残るのはたったの$5という、ほぼボランティア状態でした。

 自分のやりたいことをしている満足感はあるけれど、将来きちんとしたビジネスにするならこれではいけないと、まずはバスのルートを計算に入れた上でスケジュールを組み直し、最小の経費で効果的な利益が出るように工夫しました。その結果、ある一日は3件教えて$90、交通費とコーヒー代で$20弱だったので、約$70の利益を出すことができました。実質半日で$70なので、これが毎日あればなんとか暮らしていける計算です。

 また、新しい試みとして、Meetupというサイトで日本語勉強会を作り、一回につき$10で集団指導(と言っても、きちんと効果的に教えたかったので一コマ最大3名までにしていました)を始めました。常連で来てくれる2人+ゲストでほぼ毎回きちんと利益が出ていたし、約3ヶ月で会員数も20名近くになり、盛り上がってきたのでもっと続けていきたかったのですが、帰国に際し時間切れとなりました。オーガナイザーとして誰かに引き継ぐことも考え、実際に探しましたが見つからず、そこで会自体は閉鎖して、日本語の指導を継続して希望する生徒に先生を紹介することにしました。

 日豪プレスに「日本語の先生募集」の広告を載せた所、思った以上の反応の数に驚きました。3日間で20通以上のメールが届き、その時はもちろん仲介料もなく無料で生徒さんを紹介したものの、これはビジネスとしても成立するし、やりがいもあるなと感じました。というか、みんなGumtreeなどにうまく広告を載せれば、日豪プレスのレアな求人に頼らなくとも生徒の一人・二人は見つかるはずなので、そのノウハウ(というほどのものでもないですが)を伝えてあげたいなと思いました。

 起業のヒントとして、本当に基本的な部分ですが実践としての経費・利益の計算、またWebベースでの家庭教師業・グループのオーガナイズ業など、今後取り組んでいきたい指針が得られました。

イタリア人と大喧嘩

 結局YHAには4ヶ月もいたのですが、最後の最後でイタリア人と大喧嘩をしました。3ヶ月目くらいで、フェデリコという、面白い奴なんだけどものすごく皮肉屋なイタリア人がクリーナー仲間として入って来て、旅行客として来ている日本人の発音を馬鹿にしたり、クリーナー仲間の陰口を言ったり、しつこく絡んで来たりと、とにかくめんどくさい奴でした。

 僕は最初はむしろ面白い奴だな、ぐらいにしか思っていなかったのですが、親しくなってくるにつれて皮肉の度が過ぎるようになってきて、ある日正直に「俺はお前の物言いがたまに不快だ」と言ってみみたものの、全く右から左に流されてしまいました。

 少しの間我慢していましたが、ある日のサーフィン帰りに「どうだった?」と聞かれ、「最高だった!一日に3、4つ波に乗れたのが初めてで今日は本当に良かった」と答えたところ、急に不機嫌な顔になり「(他のクリーナー仲間の)ベンはサーフィンめちゃくちゃ上手いよな。ゆうやとはちがって」と、例の皮肉というか侮辱が始まったので、これ以上馬鹿にされては溜まらないと、思い切り激怒しました。もうダイレクトに「侮辱するな!」と言いました。向こうも「単なる冗談だろ、本気にするな!」などと言い返して来たので、そのあとはひたすら言い合いです。笑

 お互い言いたいことを言い終わった後は、すぐに仲直りして抱き合ったものの、その後どうにも居心地が悪くなってしまいました。その当時ダンやお祭りで一緒に働いたメンバーは既にYHAを去ってしまっていて、比べるのも変な話ですが、昔を懐かしく思う自分がいて、今が去り時だな、と思いました。サーフィンをもう少しやってみたかったのと、Coolangattaの町の雰囲気が気に入っていたので、近くでシェアハウスを見つけ、YHAを去りました。

 ちなみに激怒した後に、何人かのクリーナー仲間に褒められました。「フェデリコに対して同じことを思ってたから、ゆうやが言ってくれてスカッとした」と。相手がきっかけを作ったにせよ、激怒というのは大人気なかったな、と反省もしていますが、行いが良くないのを気付かせたという意味では後悔はしていませんし、友人に激怒したのなんて恐らく小学生以来なので、なんというか理屈抜きで僕もスカッとしました。笑

アレックスとその家族

 こちらで家庭教師を始めた最初の時期から、帰国直前まで指導を続けた生徒で、10歳の女の子のアレックスという子がいました。いつもニコニコしていて行儀も良く、それでいてお茶目、何より日本のマンガ・アニメが大好きで、将来日本に行くことを夢見ているという女の子です。僕が指導する前から、独学でひらがなをマスターしていて、単なる日本のカルチャー好きではなく、まだこんなに小さくても本気なんだなということが伝わってきました。

トニー、アレックス、トレーシー、 クリスマスパーティーで
 僕の日本語の授業は3部構成にしていて、最初の10分で文字の読み書き、45分間文法を交えながらスピーキング、最後の5分で日本のスラングや流行語を教えるといった具合です。パワーポイントを毎回作って授業をしていたので、準備は大変でしたが、アレックスは毎回僕が来るのを楽しみにしてくれていて、かつスポンジのように何でも吸収するので、教えていてこちらも楽しかったです。何か目標を与えたいと思い、日本語検定の5級に向けた勉強をスタートしたところ、本来なら早くとも一年はかかるところを、持ち前のがんばりで約半年の勉強期間で見事合格ラインを突破してくれました。

 両親も本当にいい人で、お父さんのトニー、お母さんのトレーシーともにとても気さくな性格でした。「日本食をいっしょに食べよう!」と外食に連れて行ってくれたり、家族と離れている僕を気遣い、ホテルのクリスマスパーティーに招待してくれたりもしました。また気前がとてもよく、外食にしろパーティーにしろ、一切僕にお金を出させてくれませんでした。帰国前はプレゼントと手紙に、エクストラで大量のチップまで頂いてしまい、果たして僕はこれに見合う仕事をしてあげられたのだろうかと、とても恐縮しました。

 手紙にはトニーの字で「ゆうやを家族のように迎え入れることができて、本当に嬉しかったよ。ありがとう。」と書いてあり、オーストラリアの家族という、本当に貴重な財産を手に入れることができた気がしました、ゴールドコーストでの知り合いもまだ少なく、日本語の指導も始めたてで不安だった頃から、ずっと温かく付き合ってくれて、本当にお礼を言いたいのはこちらの方でしたが、もう今後の日本語指導でお返ししていくしかないと思いました。

 本当にありがたいことに、「帰国後もスカイプで日本語を教えてほしい」というオファーを頂いたので、そこでずっとアレックスの面倒を見続けるのと、数年後にアレックスと両親で日本に来るそうなので、その時は絶対に何倍ものお返しをしてあげたいと思っています。

ジャパレスとシェア

 最後の2ヶ月間、帰国を前にちょっと資金を足しておきたく、手っ取り早く働きたかったので、ジャパレスのウェイターとして働きました。例によってプライドが高い自分ですので、ここまで来てまたジャパレス?と正直なところ考えもしましたが、ローカルジョブを求めてだらだら時間だけが過ぎて行く方が嫌だったので、YHAを出てから割とすぐに面接に行きました。

 むしろ始めてみたら、接客英語も含め学ぶことはたくさんあったし、永住している人の話やビジネスビザ目当ての長期滞在の人の話を聞くのはとても面白かったです。自分はセカンドもビジネスも永住も興味がないけれど、そういった人の生い立ちや渡豪のきっかけを聞くのが面白く、好きでした。

乾杯してる女性が最後にシェアしたデイブ

 田村さんの初期のアドバイス通り、バイト先が日本語ならシェア先を英語環境にしてバランスを取らねばと思い、シェアはオージーの女性としました。YHAで旅人とばかり付き合っていたためか、「ローカルのオージーとがっつり暮らしたい」という願望が当時大きかったのですが、2件目で見事大当たり。

 デイブという自分の母親ぐらいの女性で、いつも僕がバイトから帰ると床に座りながら一人でビールをガンガン飲んでいるという、実に陽気な(形容詞でいうとクレイジーがぴったりな)女性でした。

デイヴと行ったバイロンのビーチ


 先に書いたように、シドニー時代のシェアもオージー女性とだったものの、いっしょにご飯を食べたり、会話する機会はそこまで作れなかったので、挽回したいなという思いもありました。

 デイブもいっしょにご飯を作るのが好きだったので、毎日のようにいっしょにご飯を作り、酒を飲み、また休日にはByron BayやMurwillumbahに車でドライブにも連れて行ってくれました。


肩くんでる男性は同じ日に飲んでいた(帰国前)隣人のパンダ


 本当に最後の2ヶ月はあっという間でしたが、気付くとそこで暮らすのが当たり前になっていて、半年ほど前まではネイティブの前で劣等感さえ感じていた英語も、時には「ちゃんと発音してるんだから聞き取って!」と言えるぐらい(行き過ぎて傲慢なぐらい笑)使えるようになりました。また、デイブはデイブで遠慮なく僕の発音や表現を矯正してくれたので助かりました。

 プライドが高いのは相変わらずですが、八方美人な部分は自然と削ぎ落とされて、例え相手にとって不快なことでも自分の主張を言えるようになったのは、大きな収穫だったなと思います。

最後に

 「せっかく来たのにセカンドとって2年いないの?」とか、「ラウンドしないの?」とか、出会った日本人によく聞かれましたが、僕は自分なりに満足度100%の貴重な経験ができたと心から思っています。ファームやラウンドでしか見えない風景もきっとあるだろうけど、僕にしか見えない風景もまたあったし、それを見ることができたのは、周りに流されず自分の信念に従って突き進めたからだと思います。

 また、田村さんのサポート・Ryujiさんのアドバイスなしではきっと途中で挫折していたと思います。周りの人の支えで無事に約1年の「修行」を終えることができました。本当にありがとうございました。

 海外に来て、日本でやりたいことが明確になったので、しばらくは仕事に全力で取り組む所存ですが、オーストラリアで世界中の人と出会って、行きたい土地も見たい景色も増えたので、落ち着いた頃にまた冒険して、自分の糧にできたらなと思います。

 ワーホリが終わったらどんな心境になるのか行く前は想像すらできませんでしたが、実際に終えてみた今の心境は、入学式直後の中学生のように、ここから楽しみがたくさんあるなあと、ワクワクする気持ちです。困難も当然あるでしょうが、楽しむ余裕ができたのは、オーストラリアで過ごした日々のおかげだと思います。


追加質問&対談




(1)まずは肩慣らしに答えやすい質問から(^^)。アプラッカーという用語がでてきますが、これ、誰が考えたんですか?皆使ってましたか?というのは、その時期その時期で皆の表現が違って面白いんですよね。「APLACつながり」「APLAC仲間」「APLAC卒」から「田村組」なんてのもありました。そのなかでアプラッカーというのは、「ほう、新しいかも」と思ってお聞きします。

(2)大学卒業して塾講師になられたわけですが、その進路決定です。思うに、古橋さんだったら、望めばもっと他の業界や企業、公務員でも行けたと思うのです。いわゆるサラリーマンになることに比べると、一般的には塾講師というのはややもすると不安定というか、アルバイト的な印象がありますよね。就活時の大学生にはそういうのに敏感な人も多いと思うのですが、そこをさくっと決めています。で、質問は、そこに逡巡はなかったのか、それとも「決まってんじゃん」みたいにズンズン進んでいったのか?です。おそらくは後者がメインだと思うのですが。

(3)(2)が多分後者メインだと仮定してですが、古橋さんには自分の価値観をすごく大事にするというか、迷いが少ない感じがします。やりたいことが他人よりも見えているというか。シドニー後にラウンドするにしても、ファームだ旅だ二回目だというありがちな「就活パターン」になってないですよね。やろうと思えば幾らでもできる「標準コース」がありながら、ケロッと無視できている。そのあたり、自分の行動性向というのはどうお考えになりますか?

(4)さらに突っ込むんですけど、なんでそんなに見えてるんでしょうね?自分ではそれが普通だと思ってるのかもしれないし、実はなんか理由があるのかとか?

(5)プライベートなことなので、差支えがあったら削除しますが、お身体のことです。Ryujiさんの持病は、かなり厄介なもので、あそこまで治ったことが奇跡みたいな感じです。それと類似するというのは、普通に「ちょっとお腹が弱くて」というレベルではないと思うのです。それなりに苦労も苦悩もなさったと思うのですが、そういうことが逆に自分の芯になっているという意識はありますでしょうか?前にメールで触れたように、ツライ思いをしているからこそ他人に優しくなれる、優しくしようと敢えて思わなくてもその辛さが当たり前に理解できてしまうという。

(6)ラウンド先でも自発的に起業志向がありますよね。これはどこから来るのでしょうか?単にお金が儲かるからとか、そういう感じではないですよね。もっと魂の奥から来るような気がします。

「多分こうなんじゃないかな?」という仮説がだんだん見えてきたのですが、お答えを待ってからお伝えしますね。

質問、喜んでお答えします!

(1)まずアプラッカーという用語、誰が考えたんですか?

最初に使ってたのは確か吉田さんですね。吉田さんは色んな人やものにあだ名を付けまくってたイメージがあります。ちなみに僕はあだ名どころか名前すら1ヶ月くらい覚えてもらえせんでしたが。笑

場合にもよるんですが、基本的にプライベートで年上の人に接するのが苦手なんですよね。特に吉田さんはあのパワーとオーラなので、正直初めから一歩引いてしまっていて、例の八方美人で当たり障りなく接していたら、見事それを見抜かれまして。吉田さんの言葉を借りれば「表面上でしか接してこん奴の名前は覚わらん。」そうです。

その後、パブかどこかで「あーもう生意気って思われてもいいや。」って言いたいこと吉田さんに全部言った後、ようやく打ち解けることができました。(と、僕は勝手に思ってます笑)初期の段階で日本人ぽい良くない所をぶち壊してもわって、吉田さんには陰ながら感謝しています。

質問の答えから大きく脱線して、ただの吉田さん話になってしまいました。笑

>ああ、吉田さんね〜。あのベタなセンスは吉田さんだったのね、納得です(^^)。 でも、吉田さん話はいいエピソードでした。皆の体験談に書かれていて本人は書いていないという「伝説の人」になりつつありますな。


(2)大学卒業して塾講師になられたわけですが、さくっと決めています。で、質問は、そこに逡巡はなかったのか、それとも「決まってんじゃん」みたいにズンズン進んでいったのか?です。おそらくは後者がメインだと思うのですが。

お察しの通り後者です。
これ↓、本筋と逸れるかなって思ってボツにしたんですけど、「なぜ塾の先生になったのか」です。
お答えになっていますでしょうか。英語と教えることは理屈抜きで子供の頃から好きでしたね。

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中学生の頃、英語が大好きで一番得意な科目でもありました。大好きな英語をもっと伸ばしたい、という思いで高校で国際科に進んでみると、当たり前ですが自分と同じかそれ以上に英語が得意なクラスメイトがたくさんいました。何故だかちょっと興が削がれた思いで、大学で外国語学部に行くも、教員免許の取得の方に目が行って、言語の習得は中途半端。先生になりたい、というのは中学生からの夢でしたので、それだけは何があっても達成したい、と周りが就活を終えてリラックスする中、4年生の冬までせっせと教員免許取得のための授業に出席しました。

無事教員免許は取得、教員採用試験は最終試験まで進んだものの撃沈。
来年こそリベンジしてやろうと、名古屋の学習塾に就職するも、こっそりと教員採用試験の勉強と準備を進めていました。半年後、2回目の採用試験の当日、準備もバッチリで会場まで向かったものの、いざ会場に着いた所で突然迷いが生じました。突然今自分が教えている生徒たちの顔が頭に浮かんできて、「自分がやりたいことが今できているのに、この試験を受ける必要が本当にあるのか?」と自問自答しました。

もちろん一年目なのでうまくいかない日もありましたが、学習塾での授業は楽しく、時に苦しいながらも自分のやりたいことができていて、ものすごく充実感があったんです。講師の仕事の魅力はたくさんありますが、まずは生徒の成長を見守っていく喜びですね。あと、授業がうまくいったときの達成感。僕の尊敬する先生が、授業は自分がライブのステージに立っていて、生徒が観客みたいな感覚、と言っていましたが、本当にその通りで、教えているこっちも楽しくて、夢中になる瞬間がたくさんあります。

結局、教員になりたいのではなくて、やりたかったのは教えることなので、自分の夢はもうほとんど叶っているということに気付き、試験を受けずにそのまま引き返し、それ以降教員採用試験は一度も受けていません。
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一般企業への就活は一切しませんでした。迷いはなかったですね。

ここがすごいんですよね。これはなかなか出来ないですよ。
僕でも、一応受けるだけ受けて保険かけておいてって思うんじゃないかな。
そこをスパッとってところがすごいです。

ということは、子供が好き、てか、子供が伸びていく楽しそうなところが好きって「やりたいこと」の中核快楽みたいなものを既にハッキリ理解していたってことですよね。
僕がAPLACやってるみたいに、「なんでやるの?」「何がそんなに楽しいの?」って問に対する答えになる部分が明瞭に見えている。

そこも多分同じことだと思うのですが、人が何かを乗り越えて自信を持って顔が輝いてくその変化が楽しいというか、蛹から脱皮して美しい蝶になっていくような、「大自然の神秘」みたいな、そんな感動がそこにはあるのですよね。それに接していたいという。それで僕もAPLACやってるんですけど、多分古橋さんが教師やってるのも同じことじゃないですか?

さらに穿ったツッコミを入れると、いわゆる公務員の教師になると、そのあたりの純粋性が逆にボケるという懸念もあるかと。校務もあるし、君が代歌うのどうのがあるし、モンペアはいるわ(塾にもいるだろうけど)、、、、なんか自由に出来ない感じもある。

多分この時点で起業志向は芽生えていたと思うのですが、お金とか保護者とのあれこれというのは全部それはそれとしてしっかりビジネスとしてマネージメントする、そこにきっちり防波堤を組んでおいて、教室では純粋に生徒と人間として向かい合いたい、その大きなフレームワークを作るには、自分でやらなきゃダメだって感覚。
教育委員会とかにマネージさせておくと、「"イジメはなかった"ってことでよろしく(口裏合わせろ)」みたいな変てこなマネージメントをするかもしれないし、そうなると神聖な教室まで歪んでくるかもしれず、それが「なんだかなあ」って感じもあったのではないかと思うのですが、そこまでは考えてませんでしたか?


(3)古橋さんには自分の価値観をすごく大事にするというか、迷いが少ない感じがします。やりたいことが他人よりも見えているというか。ラウンドにしても、ファームだ旅だ二回目だというありがちな「就活パターン」になってないですよね。「標準コース」をケロッと無視できている。そのあたり、自分の行動性向というのはどうお考えになりますか?

やりたいことが他人よりはっきりしているのは実感があります。
こっちに来ても、自分より若い人たちが「やりたいことがない」、「将来の夢って何?」って嘆いているのを相談に乗ったりしましたが、僕はそういう悩みを持ったことがありません。(それだけに実になるアドバイスは授けられませんでしたが。)

これに関してはシンプルに良かったな、って思っています。
選択肢があればあるほど実は最終的な満足度は下がる、って何かの話で聞きましたし。

> (4)さらに突っ込むんですけど、なんでそんなに見えてるんでしょうね?自分ではそれが普通だと思ってるのかもしれないし、実はなんか理由があるのかとか?


関係ないかもしれませんが、母親が昔言っていたんですが、小学校低学年の時、友達の誕生日パーティに参加していたのに、「つまらなかったから」と言って途中で家に帰って来てしまったらしいです。(これ、最低なエピソードですよね)

つまり、根が自己中なんですかね?笑 自分のやりたいことが最優先というか。
やっぱり自分にとって、それが普通なんだと思います。

うーん、30分考えましたがギブアップです。自分でもなぜだか分かりません。田村さん。最低なエピソードを晒しておいて、さしていい答えも出ないという。。

や、別に最低ではないと思いますよ。 普通の子供らしいんじゃない? だって、会社の忘年会みたいにイヤイヤつきあって、「これが世間のしがらみってやつよ」と達観しているガキって、イヤじゃないすか?(^^) ただ、その子供時代の好き嫌いの明確性が、あんまり年とともにスポイルされていないですよね。 普通するんだけどなあ。不思議と少ないですね。これ後で書きます。

> (5)プライベートなことなので、差支えがあったら削除しますが、お身体のことです。普通に「ちょっとお腹が弱くてというレベルではないと思うのです。それなりに苦労も苦悩もなさったと思うのですが、そういうことが逆に自分の芯になっているという意識はありますでしょうか?前にメールで触れたように、ツライ思いをしているからこそ他人に優しくなれる、優しくしようと敢えて思わなくてもその辛さが当たり前に理解できてしまうという。

大丈夫ですよ。お答えできます。

確定診断はもらっていないんですが、国の特定疾患の病気になる寸前までいきました。

まさに病気のおかげで他人の辛さに共感してあげたり、当たり前のことに感謝できるようになったと思っています。当時は辛すぎて病気を糧になんて思えなかったですけど、今は芯になって自分を逆に支えているという意識はあります。

細かな部分はまた中島君のMixofPeopleでやった方がいいかと思いますが、発症したのは何時頃ですか?子供の頃から?

> (6)ラウンド先でも自発的に起業志向がありますよね。これはどこから来るのでしょうか?単にお金が儲かるからとか、そういう感じではないですよね。もっと魂の奥から来るような気がします。

お金はそれほどでもないですね。
ファームに行かない分、逆に他の人がしないようなことをやってみたいとは思っていました。

すみません。ほとんどの質問に対する答えが「こうしたいから自然とこうした」になっちゃいます。
結果、たったこれだけのメールに2時間以上ああでもないこうでもないとなってしまっています。

> 多分こうなんじゃないかな?という仮説がだんだん見えてきたのですが、お答え
> を待ってからお伝えしますね。

はい。知りたいです田村さんの仮説。教えてください。

なんとなく浮かんだ仮説

えーと、そんなに未だ見えてるわけでもないし、他人さまのことをあれこれ推測するのも失礼かとも思うのですが、、、ぶつけてみますね。
なぜって、古橋さんってかなりユニークなんです。
他人からみたら、「え、なんで?」ってことを、大した葛藤もなく出来てしまうし、その年でそこまで「やりたいこと」がハッキリ迷いなく見えている人も少ないでしょう。だから皆にとっても非常に参考になるんじゃないかって、そういう「公益性」を振りかざして(^^)、切り込んでみます。

人格形成や行動パターンがなんでそうなってるのか?ってのは昔からすごい興味があるのですよ。まあ、前職の必要性(他人の嘘を見破る必要もあるので)もあるんでしょうけど。
要素がいくつかあって、@本来の資質、A家庭、生育環境、B屈折・ルサンチマン、C快楽体験、D特殊なイベント、、などなどです。

古橋さんの場合、これは完全に推測なんですけどAの環境が良かったと思います。いわゆる育ちが良いというか、人格破壊されるまで何かを押し付けられたり(ピアノ習わされたりとか)、両親が競馬狂いで、、てのはなく、Mixofpeopleに出てくる渡辺絢也君の環境みたいに「好きにやればいいよ」という、放任ではない「あたたかい放し飼い」だったんじゃないかなと。つまり親御さんが子供(古橋さん)の自信を破壊するような感じではなかったと。だから自分の「好き」というものを壊さないでいられたという。信頼されている、認められているという基礎的な充足感です。

Bの屈折が少ないです。これは自分では言いにくいと思うから僕からいうけど、古橋さんハンサムでスマートだから、そーんなに青少年時代にコンプレックスに打ちのめされて、教室の隅でウジウジやってる体験は少なかったんじゃないかな?つまり不必要に屈折するような局面がなかったと。
これ、屈折は屈折でまたパワーの源泉になるから、それはそれでいいんですよね。良くも悪くもなりうる。ただ、その要素は少ないなと。

ABは本来の自分を阻害したり歪めたりする要因が少なかったんだろうな〜、だから子供のままのように「これが好き」ってのを疑問もなく、周囲を伺うこともなく、そのままぽっと抱いていられるのだと。これに病気が加わるのだけど、それは後述。


CDは、「なんで教師なの?」って部分に関わります。
ここに持病がでてくるんじゃないかと、あるいは何か別の印象に残る原体験があったんだと思うのですが、古橋さんのテーマは「乗り越える快感美」だと思うのです。
ダメだ!と思っても、頭ふりしぼって工夫を凝らして、隙間をみつけて、なんとかやっていく。それは大変なんだけど、同時にすごく面白くて、楽しくて、生きているって実感が得られる。それは道徳的な善悪というよりも、サーフィンみたいな、波を乗り越えていくふわっとした動感であり、その一瞬にのみ見える鮮烈な美しさであり、要するに「生理的に気持ちいい」んだと思います。

それはもう出来なかったリフティングが出来るようになったとか、どんな些細な成功体験でもいいんですけど、それ持ってる人は強いですよね。でもって、古橋さんの場合は、持病があって、「なんで俺が!」という凄いどん底心理にもなったと思うのですが、そのハードな状況を、「でも、こうすれば大丈夫」「こうなったらこうすると良い」という分析し、対策を立てていくことで社会生活が蘇っていく。その体験です。つまり状況は厳しいけど、絶対なんとかなる隙間はあるはずだという確信であり、それを果たした時の快感です。

一言でいえば「乗り越え快感」みたいなものあって、それを子供たちにも教えてあげたい。てか、共有したいんじゃないかな。
それがしっかりあるから、他の選択肢はあんまり眼中に入ってこない。病気がその端緒になったのかどうかは僕は知らないけど、なんかあったと思います。
実際、体験談の乗り越え度数は物凄いものがあって、日本業教師のバイトもあれこれ工夫しまくるし、とくに英語ネィティブの壁との戦いは壮絶でもあります。普通諦めるよ、こんなの。でも、全然諦めない。諦めかけたりもするけど、でも最後では諦めてない。なんでそんなに諦めないの?って部分です。もうその生理快感と確信が身体の中核に入り込んでいるんじゃないかなと。


でもって、これらを統合するにあたって、ちょい複雑になります。
(1)のほほんとスポイルされず、屈折もせずに過ごせた青少年時代が子供時代の「自然保護」になっている
(2)持病。

さきほど何時頃から発症したのか?とお聞きしたのはこのレシピーを知りたかったんです。
病気というのは、完全にパーソナルなものです。日本人特有の「みんなと一緒に」という方法論では絶対に解決しない。みんなといっしょにいても病気は治りませんから、だから徹底的に個人視点にならざるをえない。
古橋さんを貫く徹底した個人主義というか、「みんな」は何の参考にも解決にもならないというのを骨の髄まで理解している部分です。

だから就活でも他人のこととか全然気にならなかったと思うのですよ。ラウンドでもファームだあって短絡ショートせずに、個人視点でフォーマットを組んでいける。俺こんなことしてていいの?という葛藤もあんまりない。もう慣れているんだと思います。この点も僕に似てるな(^^)。

この、「自分はもう周囲とは違うんだ」「ぜーんぜん違うんだ」「だから周囲を窺っても意味ないんだ」って感覚が強ければ強いほど、自分のことだけ考えていればいいし、集中するし、みんなに惑わされることもないから、雑音も幻覚も減る。普通の人が座禅組んで瞑想にふけってようやく到達する境地に、平常状態でいるという。
その地点からしたら、「やりたいこと」なんて目の前のコーヒーカップのように明瞭に見えるし、「飲めばいいじゃん」と行動にも迷いがない。え、何で迷う必要があるの?くらいのもんでしょう。

だから「病気さまさま」というか、一つは乗り越え成功体験の基礎となり、もう一つは個人視座を提供してくれているんじゃないかな?って仮説です。

最後に、「普通にしてても周囲とうまくやっていくのは簡単」という本来のところと、「普通ではない致命的なハンデがある」という部分とが葛藤してきます。
うまくやっていくのは得意だと思うし、出来るんだけど、それをするために病気のフォローをしてやらないとならないので、「簡単なんだけど難しい」というヘンな状況になります。

体験談読んでて、ふと感じたのは「八方美人」「プライドが高い」というフレーズがよく出てくるのですよ。過去の体験談でこういうフレーズを使った人は実は少ないです。皆無といってもいい。
なんでそんなにひっかかってるのかな?って思ったのです。

そこが古橋的というか、あなたの唯一の(?)屈折で、世間との折り合い方ですね。
(A)もともと簡単に折り合えるんだけど、(B)でも宿命(持病)的に難しく、且つ(C)本来の自分の価値観が明瞭なので折り合う必要性も感じないという3つの基本要素の上に、(d)しかし、社会生活を営む上では難しくてもやっていかねばならない、それが八方美人やプライドという表現になっているのかなって。

そもそも自己中であることと、八方美人であることは矛盾するでしょ?
また、自分のやりたいことがクリアに見えたら八方美人になる必要もないよね。
だからそのグチャグチャは何なんだ?と思うに、「出来るけど、出来ない。そしてやりたくもない。でもやんなきゃ!」という四方八方からベクトルが押し寄せる滝壺みたいな感じなんじゃないかと。その「やんなきゃ!」っていう思いが、八方美人なりプライドなりになるんじゃないか。

そこで無理やりみたいに関連させると、だから起業なんだろうなって。
起業には隠された利点があると思うのです。

面倒臭い「世間との折り合い」というのを、ぜーんぶビジネス・マネジメントという形で昇華できるという点です。
「みんなとうまくやる」「鬱陶しい奴ともうまくやる」「世間の動向に敏感でないと」「周囲をうかがわねば」という、個人だったら「けっ、かんけーねーよ」とか思えるようなこと or 組織の中に入ったら「社内の人間関係」という精神を腐食しがちなことでも、いざ起業ビジネスになると「マーケティング・リサーチ」「経営戦略」という形になるわけですよね。

だから、古橋さんにとって面倒くさい部分をビジネスという形でカッコでくくって、本腰入れて楽しく対処できるから、起業に惹かれるのではないかと。

そして、そのビジネスマネジメントが上手になればなるほど、あなたの「聖域」は守られるわけですよね。 子供たちとの神秘の感動の共有が出来ると。

あー、超長くなりました。どうするんだよ、こんなの体験談に書くのか?って(^^)。
とりあえずぶつけてみますね!

仮説読まさせて頂きました。
もう本当にバシバシ当たっててびっくりです。


>「なんでやるの?」「何がそんなに楽しいの?」って問に対する答えになる部分。
> 多分僕と同じだと思うのですが、人が何かを乗り越えて自信を持って顔が輝いてくその変化が楽しいというか、蛹から脱皮して美しい蝶になっていくような、「大自然の神秘」みたいな、そんな感動がそこにはあるのですよね。それに接していたいという。それで僕もAPLACやってるんですけど、多分古橋さんが教師やってるのも同じことじゃないですか?


まさしくその通りです。
「仕事にするなら絶対これしかない」と思ったのは、大学生時代の家庭教師がきっかけです。
一度不登校の生徒を担当したんですが、その子がどん底から這い上がって見事夢をつかむ様子を間近で見て、鳥肌モノの感動を覚えました。それに自分が関わることができた喜びが忘れられなかったんだと思います。

>さらに穿ったツッコミを入れると、いわゆる公務員の教師になると、そのあたりの純粋性が逆にボケるという懸念もあるかと。なんか自由に出来ない感じ

これもおっしゃる通りで、授業により集中できるのは塾の講師でしょうね。
教員は雑務の量が半端ではないイメージがあります。

>細かな部分はまたMixofPeopleでやった方がいいかと思いますが、発症したのは何時頃ですか?子供の頃から?

発症は高校に入ってからでしたね。大学の後半で症状がひどく悪化して、その時が一番きつかったです。
(MixofPeople、中島さんと今またメールやり取りさせて頂いています。)


>完全に推測なんですけどAの環境が良かったと思います。いわゆる育ちが良いというか、放任ではない「あたたかい放し飼い」だったんじゃないかな


これも当たってます。
両親は昔から何でも「自分のやりたいようにやれ」と言って僕や兄弟を育ててくれました。
「勉強しなさい」と言われたこともないくらいで、「テストでいい点取ったら何か買ってほしい」
とねだっても、「勉強は自分のためにするものだから」と言われて終わりでした。


> Bの屈折が少ないです。これは自分では言いにくいと思うから僕からいうけど、古橋さんハンサムでスマートだから、そーんなに青少年時代にコンプレックスに打ちのめされて、教室の隅でウジウジやってる体験は少なかったんじゃないかな?つまり不必要に屈折するような局面や要素は少ない


そうですね。何よりも周りの環境に恵まれていたんだと思っています。感謝です。
人間関係で折り合いが付かなくなることは今までもほとんどなかったです。
屈折が少ないってのもそうなんですかね。自分では実感ないのですが、昔ある人に「ゆうやは平和島で育って来たから」みたいなことを言われたことありますそういえば。そん時は僕の生い立ちなんて知らんくせに、って思いましたけど。

> 持病があって、「なんで俺が!」という凄いどん底心理にもなったと思うのですが、そのハードな状況を、「でも、こうすれば大丈夫」「こうなったらこうすると良い」という分析し、対策を立てていくことで社会生活が蘇っていく。その体験です。つまり状況は厳しいけど、絶対なんとかなる隙間はあるはずだという確信であり、それを果たした時の快感です。


はい。まさに病気を乗り越えた時に実感しました。

「自分は病気だから幸せになれない。」みたいに考えて諦めたくなくて、「何が何でも乗り越えてやる」と思ってました。
まあ、最後の方、本当に良くなったのは、病気を「敵」と思うんじゃなくて、ある種受け入れたときだったんですけどね。
それでふっと肩の力が抜けて乗り越えられた気がしています。

> そこが古橋的というか、あなたの唯一の(?)屈折で、世間との折り合い方ですね。
> (A)もともと簡単に折り合えるんだけど、(B)でも宿命(持病)的に難しく、且つ(C)本来の自分の価値観が明瞭なので折り合う必要性も感じない〜それが八方美人やプライドという表現になっている

ここらへんも「そうだよなあ」って読んでで思いました。まさに目からウロコというか、
なんか自分の深層心理が解き明かされたみたいで、嬉しいような少し戸惑うような感じですね。

> そこで無理やりみたいに関連させると、だから「起業」なんだろうなって。
> 面倒臭い「世間との折り合い」というのを、ぜーんぶビジネス・マネジメントという形で昇華できる。
> 「ビジネス」という形でカッコでくくって、本腰入れて楽しく対処できるから、起業に惹かれるのではないかと。そこが上手になればなるほど、「聖域」は守られるわけですよね。子供たちとの神秘の感動の共有が出来ると。


この仮説、全面的に同意というか僕の中で受け入れます。きっと99%合ってるんだと思います。
読んでて笑いながら涙が出そうな気持ちになりました。何でこんな僕のこと分かるんだろう、って。

自分の胸の内を他人に理解してもらえると、なんでこんなに嬉しいんでしょうね。特に普段誰にも気付いてもらえない「影の努力」みたいなものを認めてもらえると、もう涙腺がやられちゃいます。

前回の返信でギブアップした通り、自分でも分からなかった心の奥底の部分を、今回説明書にして書き起こしてもらった感じです。

それと所々ものすごく褒めて頂いてありがとうございます。照れますが正直に嬉しいです。でも自分はまだまだまだまだ未熟で、冷静に物事を分析したり、理論的で説得力のある文章も書けませんので、これからもぜひ勉強させてください。今回こうやってメールでやり取りしながら、何度「すげー」ってつぶやいたことか。笑

 いえいえ、単にそう思えたってだけの話です。
 あくまでも素人考えで、この仮説が合ってる保証もないし、ここから先はプロの領分になると思います。ただ、自分と向き合うと何か見えてくるんじゃないかなって程度のことで。


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