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2011年11月30日、2015年10月29日追記


荒尾康平さんの留学体験記

15/01/2011 - 30/10/2011 までの記録   
Kohei Arao


はじめに

 オーストラリアには結局10ヶ月間の滞在となりましたが、本当にたくさんの方々にお世話になりました。田村さんを始め、河村さん、井口さん、Samurai(ここでのバイト先)スタッフの皆さん、Greenwich Collegeの先生方、Vince、Tomas、Samantha、Marchin、Brondern、ICNのスタッフの方々、、、知り合った多くの方に感謝しています。本当にありがとうございました。

僕のオーストラリア概略

 正直ずっとシドニーにいたので他の人みたいなことで書くことあんまないです。でも逆に「ラウンドもいいけど、シドニーでの生活は実際どうなのよ」ってとこも逆に貴重らしいのでそれは次のとこで。

 ・1月中旬
 渡豪、APLaCでシェア探し特訓を受ける。

 Dulwich Hillのシェアに出会い即決する。
 (結局最後までずっといた)

 ・2月ごろ
 某ジャパレスで3日ほど働いてクビになる。
 その後、面接を受けたSamuraiで働くことに(結局最後までずっといた)

 ・3月〜10月
色々あった。シェアも学校もバイト先もずっと一緒。


色々あったこと〜日記から抜粋しつつ

 1.行きの飛行機や荷物について

 そういえば始めっからビビリまくりだった。僕は国外どころか県外にも殆ど出たことのない人間だったので、オーストラリアどころか山手線の密集率に狼狽し、切符の買い方に四苦八苦し、スカイライナーの速さに驚き、成田空港で盛大に迷うことに。外国の人なんて留学生か英語の先生ぐらいしか見たことなかったので、手荷物検査場に並ぶオージーをじろじろ見たりとどうにも挙動不審だった。

 田村さんの助言を信じて、荷物は服と必需品だけに収めた(合計9kgだった)。でも十ヶ月間普通に生活できたし、服も寝間着ぐらいしか買わなかったのでとりあえずシドニーで生活する分にはお金さえあれば必要なものはたいてい手に入るようだ。なのででっかいキャリーバッグなんて持ってこないで大丈夫。ただ、こっちは店によって値段の上下が相当激しいので、最初にウールワースとかでなんでもまとめ買いしないで、じっくり値段比較してみるのが個人的にはオススメ。食料品とかはいいけれど、生活雑貨とかはやっぱりK-martやTargetとかほうが安くてバリエーション豊かだろうし。乾燥機使うと電気代が大変なことになるだろうから、タオルとかは薄めのやつのほうが乾くのが速くて何かと重宝する。

 そういえば行きの飛行機でオージーのカップルと隣り合ったのを思い出す。なにやら日本観光からの帰りらしく、僕のだどたどしい英語なんて気にする様子もなく話してくれてとてもいい人達だった。そこでおっかなびっくり雑談したのが最初であり、なにもかものスタートだった。正直9割方話の内容分かってなかったけど、なんとかかんとかコミュニケーションは取れて、まあ現地でもなんとかなるやろという気持ちになれた。

 そんでシドニー空港にて無事すぐに田村さんに拾われて、なんだかんだでオーストラリアの地にたどり着いた。ちょうど1月で日本の冬→オーストラリアの夏と一気に季節が逆転して、照りつける太陽の下で「南半球ほんとに逆の季節なんだな」と素直に納得した。車で送ってもらいながら、Harbour Bridgeをわたり、長いようなあっという間のようなそんな初日の朝が過ぎていった。

 2.シェアハウスのこと

 シェア探し特訓はみんなやっぱり印象に残る出来事なのだろう。
 僕は諸事情で土曜日という変則スケジュールでの到着となり(一括パックは基本火曜始まり)、着いていきなりmy multiを買って、宮崎さんのシェア探しに同行することに。到着したばっかりで妙なテンションになってる僕と一緒にシェア探しするなんて、宮崎さんもとんだ迷惑だったんじゃなかろうか。どうにもすみませんでした。というか来た日数はそうたいして変わらないはずなのに、宮崎さんがすごい出来る人に見えた。正直後光が差していた。資料を片手にてきぱきとこなしていく姿に「なにこの人英語ぺっらっぺらやん」なんて思った(体験談読むと宮崎さんも必死だったみたいだけれども)。

 でもその後僕もなんだかんだで18件ぐらい一週間で見て回った。
 もうなんというか気分は営業マンだった、いや営業のほうがもっとしんどいだろうけれども。まあ人間やれば出来るもんですね。

 色んな人がいて、色んな家があった。具体的には、大学生が五人ぐらい集まった小奇麗なハウスシェアや、オーナーがすごい良い人なんだけどゴミがいっぱいでげんなりしたシェア、オランダ人とインド人が住んでる壁いっぱいに落書きされたシェア、Bondiの日本のローカルバンド狂いのエンジニアが住んでるアパートのシェア(家賃が安ければここにすごい住みたかった)、Marrickvilleの無駄に風呂とベッドが豪華なハウスシェアなんかもあり、Tempiの台湾系移民のアジア感あふれる家族とのシェア、Barwoodの飛行機の振動で壊れそうな(でもなんか味のある)アパート風シェア、Cityのなんというか養鶏場みたいな人口密度のビル11Fなフラットシェア、、、などなどいろいろあった。

 そういえば僕は終始誰かと一緒にシェア探しを周っていた。最初は宮崎さんと、次に河村さんに井口さんと。みんな年上で頼れて、やっぱみんな大人だなと思うことばかりだった。残念ながらシェア探しが終わった後はあまり会う機会もなく、皆それぞれオーストラリア生活を過ごすことになったけれども、今頃はタスマニアやはたまたシドニー周辺か日本のどこかで人生を送っておられるのでしょうね。めぐり合わせが良ければまた会う機会があればなと思います。

(最初の一週間、同期の河村氏となごやかな夕食の図)
 最終的に僕もDulwich Hillにある$170/weekのシェアに決めた。
 個室だしインターネットもあるし立地も値段も、まあとにかく条件は完璧に近いし、なによりさっと見学しただけで「ここに住んでる自分」がぱっと想像できたので即決した。
 シェアメイトはインド人のTomasにポーランド人のMarchinにオーナーでオージーのSamanthaで合計4人のハウスシェアだった(あとでTomasが引っ越して、中華系のBrandornが来た)。なんか文章にしちゃうと陳腐だけども、Samanthaがインドネシア好きだったので、アジアと西洋が混ざって混沌とした雰囲気。仏像に絵にお面に槍っぽいものまであってよくわからんことになっていた。あと白黒の猫Chicoが可愛くてよかった。近所の犬と喧嘩したとかで怪我して獣医に運ばれて何針も縫うことになったり、寝てる時に部屋に入ってきてびっくりして飛び起きたりしたけど、猫っていいもんですね。

 まあラウンドとかされる方にとって最終的には「シェアなんてまあ住めればいいよ」なんて達観されるのかもわからんですが、めぐり合わせってもんもありますので直感で決めればええんじゃないかなと。少なくとも僕にとってはとてもいいシェアでした。というか居心地良すぎて結局十ヶ月ずっと住んでました。でもそんなもんです。

 3.シドニーを歩き廻る

 僕は一人旅が好きだ。なんでかというとまた難しいけれど、誰かと一緒に過ごすのとはまた違った面白みがあるからだ。(まあラウンドは結局しなかったけれども、またいつか機会があれば)一番いい点はいくらでも時間を無駄にぼーっと過ごすことができるというところだろう。実際僕はそんなふうにぼーっと時間を過ごすためにオーストラリアに来たようなものだ。ラウンドする人も結構心情的にそういうところもあるんじゃないだろうか。

 着いて二日目の日曜日の朝。田村さんに「まだ地理もわからんだろうから、シドニー一周してきなさい」「はあ、了解です」みたいな流れでプチシドニーラウンドに出ることに。田村さんが甲斐甲斐しく作ってくださったサンドイッチを緑のコールズバッグに詰めて、おなじみの分厚い資料を入れ、水をばっちり確認しぼちぼち出発した。ぼちぼちとか書いてるが、到着二日目で妙にテンションの高い僕は相当突っ走っていたと思う。外は皮膚に刺さるんじゃないかってほどの日光がぎらぎらとまぶしく、乾いた樹木の香りに青く高い空が広がっていて、まさに僕の持っていた夏のオーストラリアのイメージまんまだった。たぶんそれでさらにテンション上がっていた。

 朝から徒歩20分かけてNorthのArtarmon駅まで行き、電車で一気にCityまで行く。TownHall駅でふらふらし、乗り換えてStrathfieldへ。なんというか電車でちょっと行っただけなのに、Strathfield駅の外は一気にアジアな雰囲気でちょっと拍子抜けした。駅周辺に歩いてる人もアジア系ばっかりなことにその時はかなり驚いた。店も韓国語と中国語と英語というごった煮表記ばっかりだった(実際はここに限らずけっこうどこでもなのだけども)。で、なんか妙なテンションだった僕は「Campsieまで歩いていけるかも」なんて思い、炎天下の中Strathfield駅から延々と南に向かって歩き続けた。一時間ぐらい歩いてやっと中間地点にたどり着き、カラカラのノドをつばで誤魔化し誤魔化し地図を三度見ぐらいして、きょろきょろもう一度見回し、「あ、これ無理だわ」と悟った。日もそろそろ真上に昇っており、乾燥した空気がさらに喉を焼いた。なにか冷たい飲み物でも買いたかったが、住宅街に入り込むと店も殆ど無いので躊躇しつつもビデオ屋で高いアイスを買い、日陰て長めの休憩をとった(ここで田村さんから借りたタオルどっかに忘れてきた)。そんなこんなで心変わりした僕はバスで一旦Strathfield駅に戻り、Campsie駅行きのバスに乗り換えた。そうしたら目的地にたった15分で着いた。なんかもう自分に呆れた。

 さすがにお腹が空いたので、電車を乗り継ぎ、田村さんの指令通りMarrickvilleのベトナム料理屋を目指した。なにやらphoという名前の麺料理があるらしい。もうなんかここまでくるとなんでもいける気がしていたので、すっと入店し、さっと腰掛け、慌てず騒がずメニューの一文を指さしながら言ってやった、This one, please.と(これが言えればレストランもスーパーも最低限なんとかなりますほんと)。特徴的なフレーバーの効いた麺を啜りつつ、今日もなんとか生き残ったと思った。

 お腹も膨れたので、また電車に乗りCityに向かった。次はフェリーに乗ってみようと思ったからだ(田村注:これも”指令”に含まれていた)。でも土地勘のない僕はTownHallで降りて、地図をまじまじと見た。Circular Quayに行きたかったので、確信を持ってElizabeth stを真っ直ぐ北に徒歩で向かった(ホントは電車でそのまま行けるし速いけれども知らんかった=(注:これもちゃんと教えたって))。たぶん十五分ぐらいかかった。でもそのときは相対的にそんなに時間がかからなくてほっとした。しかしながら公共交通機関はきちんと乗りこなしたほうがいいです、ほんと。

 フェリーはとても快適だった。潮風が思いのほか冷たかったが、甲板から遠くに見える風景がレンガ造りのシックな西洋的街並みで、さらには壮大に海峡を繋ぐHarbour Bridgeを「おおおっ」と見上げながら「ああ、やっぱりここは外国なんだなあ」と改めて感じることができた。

 そんなこんなでManlyに着く頃には、もう日が傾き始めていた。夕暮れの道をとぼとぼ歩き、Manly beachのベンチで海をぼーっと眺めた。あかね色に染まっていくビーチにてちょっと寂しくなったので、バスに乗ってLane Coveまで戻った。辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 そんなこんななのが初見のシドニー感想でした。日記を見つつ、こんなんだったなあと。

 田村注:この日はよく頑張ってくれたんだけど、問題は翌日。「シェア特訓やるから夕方6時までに帰ってきてね」と言っておいたのに、帰宅したのが夜の10時半。遅れるにもほどがあるというか、6時のシェア特訓にこれだけ遅れた人は、歴代ぶっちぎりでトップです。後述してあるNorth Rydeなんたらのときの話。いやあ、大物だよね。
 最初に思い切って回ったお陰が、シドニーを回ることに僕はそう抵抗がなくなった。そのせいかそのおかげか、、無謀にも学校終わったあと直でBlue Mt突貫したりもした。「まあかかっても片道二時間ぐらいだろ、余裕余裕」なんて思ってたら片道3時間かかってLithgowにつく頃には8時ぐらいで、もうほんと帰り道真っ暗で泣きそうになった。しかも途中で某ジャパレスから電話かかってきて、なんかと思えばクビ宣告で、泣きっ面に蜂ってやつで呆然としていたら隣のおっちゃんがピザくれた。もう逆に笑えてきた。

 あとはフェリーでParramattaまで行こうとしたら間違えてRydalmereで降りてしまって現在地を見失ってしまってすごく焦った。でも同じく間違えたらしいおっちゃんと雑談しつつ(ひどい訛りでなに言ってんのかお互いわかってなかったけども)タコスのお菓子食べながらぼーっと次のフェリー待ってたりとか、Lane Cove行こうとしたら降りる駅間違えてNorth Rydeまで行ってしまい、バスも何故か止まってくれず(タクシーみたいに手を挙げないと止まらない)、しかたがないから歩いて帰ったりとかいろいろあった。というか失敗談しか思い出せないけれども、いい思い出になった。

 まあ少なくとも迷ったら、慌てず騒がずまずは現在地を確認したほうがいいと思う。あとすぐに人に聞いたほうがなんだかんだで速い。あとバスは手を挙げないと止まってくれないので、気づかずにスルーされると呆然とするので注意しましょう。


 4.仕事について

 よく「海外で働く」というとスーツをきちっと着こなした、ホワイトカラーなイメージがあるだろうけど、ジャパレスも一つの立派な企業形態である。「オーストラリアまで来て日系で働くのも、、」とか思われるかわからんですけども、たどたどしい英語で仕事を探すとなると選択の幅は狭まって、まあ無難にジャパレスで、となるかもしれない。外食業界となると、まあいろいろ忙しいし、それなりに怒られもするだろうけれども、僕にとってはなんだかんだでとてもいい経験になった。僕は八ヶ月間ぐらいキッチンのほうで働いていたけれども、色々と驚き、感嘆することばかりだった。(日本での働いた経験が少ないっていうのもあるだろうけれども)。

 例えばホールの仕事では、(酔っ払った)お客さんから注文をとり、席の予約やテイクアウェイやデリバリー電話で受付け、細かい料理の説明をし、お客さんとの雑談もはさみつつ、コカコーラとかの業者さんからの電話を取り次いだりなどなど(言うまでもなく全部英語で)こなさなくてはならない。僕はほんと最後まで予約の電話に出るのが嫌だった。ビビります、あれは。全部完璧にできたら相当英語が喋れるひとじゃないだろうかと思われる。

 でもキッチンはこれはこれでとても面白かった。もう包丁の使い方から天ぷらに寿司に全部一から教えていただきました。もう最初の頃とかめっためたで、自分の天ぷら見て「これ人に食わせられるレベルじゃないわ・・・」と落ち込んでいた。寿司の方では巻き方も包丁の使い方もヘッタクソなせいでぐちゃぐちゃになったりして、もうほんと大惨事。めちゃくちゃ怒られましたけど、でも同じぐらいいい経験を積むことが出来ました。そんなこんなで最後の方はなんとかかんとか、それなりな天ぷらを揚げれるようにもなれました。それもこれもSamuraiスタッフの皆さんのおかげです。でも天ぷらは奥が深いですねえ。まだまだ修行が足りないです。(追記:とりあえず日本に帰ってきた今でも、料理が前みたいに苦じゃなくなりました。洗い物とかしてても感覚的に少なく感じますし楽です)

 でもまさかオーストラリアまできて日本食の基礎が覚えられるなんて思っても見ませんでした。職人さんってやっぱりすごいですね。てきぱきと美味しい料理を作っていく姿はやっぱり格好いいです。まあこのへんはオーストラリアだから、ってよりも普遍的な経験談なんでしょうけれども。

 そういえばここのところどこのジャパレスもスタッフが足りなくて、困っているみたいです。帰国するんで退職した自分が言うのもなんですが。とくに主に日本人で回しているところはどうにも人がこないみたいで、(City中心部の店ではそれなりに来るみたいですが)。ワーホリの人はなんだかんだですぐどっかいっちゃうから雇いづらいとも言っていたし、なかなかジャパレスも経営が大変なようです。

 ところで、よく「海外で働く」とか「海外でキャリアアップ」とかいうことが話題になるけれども、実際行って、あと話を聞く限りじゃ本当に難しい問題だなという印象を受けた。なんでかというと「英語を話せて実際に仕事をこなせるか」という問題も勿論だけど、「移住を本当にしたいか」という決断の問題にもなるからだ。

 正直言語や文化が違うということがこれほどまでに生活に影響するなんて、僕が日本で想像した以上だった。実際にオーストラリアの生活にて、なんどもなんども実態を持った現実として降り掛かってきた。しかしそれは移住に関する直接/間接的な問題ではあっても、本質的な理由ではないだろう。「英語ができないからと移住出来なかった」はあっても「英語が出来るから移住した」は少ないだろうし(海外に住みたいから英語をできるようにした人は別として)。可能、不可能を決めるビザや英語とかの問題は然るべき手順と時間さえかければなんとかならないこともないけれど(年々厳しくはなっているみたいだけれど)、移住したい、したくないという意思については、結局のところ本人次第。

 僕は日本人も日本を一歩離れれば外国人なのだな、と当たり前のことが今までわかっていなかった。日本で過ごされている外国籍の方々は、同じような気持ちで母国を離れて働いて暮らしていたのだろうかなどとも考えた。僕が通っていた語学学校でも様々な出身の人たちが様々な理由で学びに来ていたが、オーストラリアに対しての滞在理由も印象も十人十色だった。「今までずっと仕事だったから、休暇だよ」「こっちでAccountの勉強をして永住権をとるつもり」「彼氏がオーストラリア人だから、ビザのため」「とりあえず英語覚えれば、まあ、いろいろあるでしょう?」「休暇ならいいけど、ずっと住むとなるとね」「イタリアで仕事探すために英語覚えないといけないから」「理由なんて自分でもわからんよ、ビザ切れたら適当な次の国に行くよ」「オーストラリアいいじゃない、暖かいし、ビーチもあるし!」「大学行きたいからね」「・・・なんでだろうね、わかんね」なんて、ほんといろいろだった。

 聞きまわっていた僕の方にも当然質問された。

 しかしながら改まって「なんで来たの?」と聞かれると、ほんと色々と考えてしまう。オーストラリアに19で来て、こっちで20になって、一年が過ぎようとしてまたさらに考えた。そもそもなんでオーストラリアなんて世界の裏側みたいなところに来たのか、大体日本でいうまっとうに人生送ってる人はワーホリでこれる18〜30歳なんて人生で大事な時期に外国なんかあんまこないだろうし。僕と同い年ぐらいの人も働いてるか学校行ってるかしてるだろうし。どうにも。でも逆にオーストラリアこなかったらどうだったんだろうとも逆にも考えてしまう。今頃居場所を見失って日本のどこかでくたばっている気もしなくもない。

 中学で中途半端に紙の上の成績だけは良かったから、公立高校の前に受けれるってだけで国立の高専受験したら合格して、学費も安かったから入学した。地方出身だったから実家から離れて寮に入り、進学校の人達が受験の準備をしている間に、黙々と工学の勉強をした。でも電子工学にはどういうアプローチをしても全然興味が持てなかった。先生にも「工学の面白さは何か」とかを何回も聞きに行ったけれども、いまいちピンとこなかった。ただ「先生たちは工学がすきなんだな」とだけしか理解できなかった。僕は教授のように子供の頃からラジオの製作したり、機械分解して遊んだりなんかしていなかったし、これから始める気もしなかった。実際やってみても、機械がただバラバラになるだけだった。そんな中、実家の方もごたごたし始めて、結果僕は学校を辞めた。

 学校を辞めて、熊本でしばらく働いたけれども「なんだかなぁ」となって、先のことが目的も含めてよくわからなくなった。もやもやの中で、ふとオーストラリアのことが浮かんだ。どうせダメなら海外にでも行ってみたいと思ったのもある。インターネットで流れ着いたブログで楽しげに滞在記が書かれていたのもある。「海外に行く」となれば区切りができて、現在の煩わしいあれこれの整理ができるということもある。しかしながら人生プランA-Zの中で最も奇抜だと思っていた手が、明瞭な一番の手に変わるとはそれまで思いもしなかった。

 今思うとその時点で「オーストラリアに行く」という事自体は、本当は目的ではなく手段だったのだと思う。結果的にいろんなことの期限ができて、段取り建てて身辺整理ができて、仕事にも身が入り、しょうもない雑事を気に止めないことができた。動くのをやめたらいろんなモノが腐っていく気がしたのもある。いろんなことに純粋に時間が必要だったのもある。オーストラリアへ渡る飛行機の中で、「これから始まる」という感覚ももちろんあったが、それ以上に「やっと終わった」というやり切った感が溢れていた気もしなくはない。だからオーストラリアではいろんなモノの再構成がしたかった。それから滞在中、学校に行きながら、Samuraiで働いて、シェアメイトや学校の生徒やいろんな人と話してやっと平衡感覚が元に戻った気がした。

 仕事に関しても、これまで学校の専攻のつまらなさの延長上にあって、「学校に行く」が「会社に行く」に変わるだけなのだという絶望的な気分だった。けれどもまた働いてみて、まったく未経験の世界に触れてなんだか久しぶりに楽しくなった。学校では押し付けられるように感じた知識を、自分から知りたいとさえ思えた。職場の人間関係も、前と比べてとても良くてこんなところもあるのかと思えた。

 そんなこんなでやっているうちに、いろんな自信がついたので日本に帰ろうと思った。これなら日本でも十分に生きていけると確信できたからだ。外国でひとり生活できるのなら、母国でやっていけないはずがないだろうし。そもそもいろいろと誤解していたことが多かったのだろう。

まとめ

執筆にいそしむ荒尾先生の図

 あんまりお固い感じにならなかったようななんというか。シドニーといっても人が生活している一都市という点では日本と全く変わらないので、それに気づいたらあんま気張る必要はなかった。

 オーストラリアに来て人生観が変わった、とか言うと色々陳腐なあれだけれども、いろんなことが見えやすくはなるんじゃないだろうかとは思う。出国前に身辺を整理するときや、いろんなひとに連絡するとき、仕事や学校を辞めたり休んだりするとき、普段見えなかったり気づきにくいことが分かったりもした。実際にオーストラリアでの生活で、自分の意外な好み、欠かせない習慣やモノ、逆にいらないたくさんのコトやモノがわかったりもした。しがらみや妙な立場がなければ、人間関係はこんなに楽なものなんだということが実感できた。しょうもないことが大事だったり、大事なモノが実はしょうもなくて笑えた。なんだかんだいっても、あっても、家族は大事で替えのないものだと気づけた。

 まあ、当たり前っちゃ当たり前なことで、日本でも十分気づけることだけれども。

 もっと年をとっていろんな経験や思い出や記憶があると、もっときっかけが必要だったりするのかもしれないですねー。そういうことではオーストラリアってのもありなんじゃないでしょうか。
 まー、よーわからんです。20の若造は人生語るには経験が足りませんわ。
 
 おしまいです。頑張って書きました。

 まあ頑張って生きていきますので、機会があればまた会いましょうってことで。おわり。


メール経過報告編


2011年2月5日のメール(渡豪約3週間後)
(前・後略)
 時給は$10からです、実際のところ賄いのほうが魅力的だったりしますけども。あと単純労働も結構楽しかったりもします。
 なんだか日本でしたかったけど、できなかったことが今出来てる気がしますね。飲食店でのバイトも密かにやりたかったことの一つですし。でも日本を再現してるわけではなく、人生を再構築してるような気分ですよ。まあ、だいぶん大袈裟ですけど。
 なんだか日本では無駄に他人の目を気にしすぎてましたね。青年期の自意識過剰ってやつでしょうか。誰も何も言わないのに色んなこと躊躇してたりしてました。

2011年2月6日のメール
(前・後略)
 いやぁ、ジャパレスうんぬん色々聞いてましたけど、想像していたものよりずいぶんと良くて安心しました。学校の日本人がえらく文句言ってたものですから、正直ちょっとビビってたんですけども。

 給料なんて職場のほんの一部でしかないんですね。渡豪前に働いてたコンビニではあんまいい環境じゃなかったから、むしろ天国のようですよ。コンビニ時代よりも給料いいし、人もいいし、料理も基礎的なことを学べるし、なにより日本食のまかないが美味い!この御飯食えるなら皿洗いのただ働きでもいいかもって思えます。やっぱ郷土の料理ってしみますねぇ。しみじみと。

 あと松井さんとか修行に来ている洋食畑のけんじさんってひととか見てて思いますね、料理人ってかっこいいって。知りませんでした。包丁さばきとか、仕込みの動作とかもすごく素早くて「おぉおおお!」って感動します。英語の喋り方もあきらかな日本人発音なんですが堂々としてらっしゃる。このひとには芯があるなぁと、いいなぁって思いました。自分もこういう芯みたいなのがほしいのかもしれません。

 あ、そうそう。その報告会です(注:一括パックの同期生の一ヶ月後の集まり)。終始いい感じの会でした。魂が肺から溢れそうになるくらい語りつくしましたよ。

 舞台はNewtownのインドカレー屋です。不思議な気分でしたねー、異国の地のインドカレー屋にてたまたまめぐり合った年齢も出自も違う日本人が人生観とか政治とか今後やりたい事とか経済とか学校のコトとか何時間も語り合ってるんですから。人生なにがあるかわからんなあと。


2011年2月16日のメール(ちょうど1ヶ月経過)
(前・後略)
 コンビニ時代と比べるとこんなに楽してもっとたくさん給料もらえるなんていいのかなあと疑問に思ったりもします。時給熊本の最低賃金で635円でしたし。八つ当たりのようなよくわからん理不尽な怒られかたもされましたし。まあ仕事なんてある程度はどこでもそんな感じなんでしょうけれども、探せばもっといいところなんてたくさんあったんでしょうね。

 そう考えると日本の終身雇用って怖いとこがあるな、って思います。運良くいい職場につければいいですけど、そうじゃなかったときに取り返しがつかないという。いまだったら特に再雇用の不安からなかなか離職といった踏ん切りもつきにくいだろうなと。まあその分個人個人の平均値が高くなったり、職人が育ちやすいといったいいところもあるのかもしれないですけれども。まともに日本で働いたことのないやつが批判ばっかりしてもしょうがないですね。わかんないから不安にもなるのかもしれませんが。

 ただ重要なのは飯を食って、雨風をしのぐことだけかなというのは理解しました。あとはいい人間関係に恵まれたらもう最高じゃないかとも。というかそれ以上になにがいるんですかね。それ以上は十分条件には入っても必要条件じゃないなあと。

 今後どんな人生になるかわかりませんけど、まずはなにか一つきちんとした技術をみにつけたいなと思っています。松井さんのところで働いていたときにも言われましたけど、なんか一個でも手に職付けとくと楽だよって。今のところはITとかデザインとかが好きだから、その分野を勉強したいなと考えてます。でもはたしてそれで飯をくっていけるのかという。んん、そこらへんあんま考えすぎないほうがいいのかもしれませんね。もしかしたらもっと興味のあることが出てくるかもしれませんし。

 せっかく時間が与えられたんだから、いろんなコトを試して選択技をふやさないともったいないですね。逆にいまできるのってそのぐらいなんじゃないかとも。こっち来てからみんなから「まだ若いんだからなんでもできていいね!」って言われて驚きました。日本にいたときはもう人生詰んだぐらいの気分でしたが、そう言われつづけるとまだ希望持っていいのかなってなります。お先真っ暗じゃなくてむしろ真っ白なんだなあと。

2011年3月10日のメール(約2か月経過)
(前・後略)
 たしかに最初の爆発的な昂揚感は落ち着いてしまって、「生活する」ということに徐々にシフトした気はしますが、元気でやっています。ここ二週間は学校,バイトと忙しく、なかなかメールを書くような暇がありませんでした。というより体力がなかったというべきか。自分の基礎体力のなさが恨めしいですね。バイトの方はやっとある程度仕事を覚えて、生活リズムがのほうも落ち着いてきました。

(中略)
 それで今日は、こっちで知り合った日本人がシェア探すっていうんでちょっと手伝ったりしました。なんというか田村さんの苦労が断片的にわかったりもしましたね。
 三つぐらい挙げるなら、第一に、お金をケチリすぎ、「オウンルームでー、交通費かかるのいやだからCity周辺、週130ぐらい」とか言うんだから「ちょっと無茶言わんといて」って気分になりました。第二に、地理やら交通事情やら知らなすぎ。もう二ヶ月もいるのにバスもちゃんと乗れなかったり、サバーブもろくに知らなかったり。そして第三に、まともに探す気なさすぎ。自分の教え方がうまくないってのは理解してますが、サイトをぱらぱら一時間みただけで結局電話も一件もかけず、催促したら困った顔され「いやあ、まあ今日は疲れたからこの辺で、ね」とのこと。

 日本人の基本生態をすごく理解できました。もうほんと何しにオーストラリアきたのよ、ってがっかりしますよ。エージェントとしても学校に通わせればそれでええんかい、とも。そりゃあひとりひとりの生活までマネジメントするなんて暇はないでしょうけれども、それでもこれはどうなのと。日本人もお金けちりたいがために、Cityに住み、CItyでバイトし、交通費もまともに出さないでええのって感じです。なんか疑問とか持たないのと。「とりあえず英語勉強して」とかいいつつも、Elementaryで大抵の人たちが卒業していきますし。

 そこらへんの日本人事情については田村さんのほうが詳しいと思いますのでとりあえずこの辺で。僕も人のこといえんだったりするかもしれませんし。人のふり見て、ってやつです。


2011年3月20日のメール(東北大震災直後)
(前・後略)
地震の被害が、予想をはるかに超える規模で驚愕しました。地震もさることながら、津波で海岸付近は壊滅的になっていますし、原発の損害もチェルノブイリ事故の二の舞まではいかずとも東電に対応できる範囲ではないようで。もう被害が大きすぎてなにがなにやら。兄がちょうど経産省の原子力安全保安院に勤めているのですが、役所の方も休む暇もなく対応に追われているようです。
(中略)
 近頃はなんだか日本が遠いなあと、地震の件も含めて思っています。今頃日本のメディアは連日のように地震のことをニュースで流しているのだろうし、企業は円高やら株価の下落やら国内工場の連携がうまくいかなくて生産中止やらがあっていて、学生はさらに就職が困難になっていて下手すりゃ内定取り消しになっている。その前に買い占めのせいで被害地域以外も食料調達が困難になってしまってたりして、日常が変化してしまっている。

 そんな中、僕は遠い異国の地で、夕食にする冷凍餃子はいったいどこで手に入るのか真面目に考えていて金曜は天気が悪いからバーベキューはやめておこうとか考えて、一番の悩みは治療した歯がまた痛みはじめたことだったりで。日常の途中で「あれ、俺って日本人だったよね。もう地震のこととか頭から消えかけてないか?」とハッとさせられました。もう「中東で自爆テロがありました」程度の感覚です。ほんと逆に”外国であった出来事”みたいです。

 洪水やら地震やら革命やら世の中は忙しくても、日常は過ぎていくということで。
 まあそんなもんなんでしょうけれどもね。うーん。

2011年4月10日のメール(約3か月後)
(前・後略)
 気がつけばもう四月になってしまいました。早いもので、これで三ヶ月がたつことになります。

 あれだけ騒いでいた地震も、すっかり記憶から薄れてきて過去の出来事になってしまってますね。ただ原発に関しては、各国のエネルギー問題に直結するだけあっていまだに注目されてるようですが。近隣の国にとっては放射能の実害まで出るわけですし。韓国人のクラスメイトも家族と頻繁に連絡をとっていると言っていました。


2011年5月26日のメール(4か月経過)
(前・後略)
 なんと言いますか特に生活に困ることもなく、「おお、田村さんに報告しよう!」ということもなく、淡々と生活を送っておりまして、田村さんにメールを書くのも久しぶりだなあと文を書きつつ思っています。はたまたもうひとつのエージェントの方なんて二ヶ月以上も行っていなくて多分顔も忘れられてます、おそらくきっと。まあ淡々と生活を……とはいっても色々なことがあったわけですが。

 ラウンド組ほどの波乱は無いにしても、今この時にしか体験できないこともあるわけです。「あれ?できるようになってる」ということや「ちくしょう!なんでできないんだ!」ってこととかです。田村さんも、というより誰でも知ってるようなごくごく普遍的なことなんでしょうけど。
大まかには英語と料理の二種類についてですね。

 まず英語に関しては「英語で話す」ようになりました。なんか良く解らん表現ですがつまりは(思考)→(発言)の過程が、(日本語→英語)→(英語)から(英語)→(英語)になったといいますか。いつごろからかはわかりませんが、個人的にはちょっとしたブレイクスルーです、おそらく。その他はちょっとわかりません、微妙に伸び悩みな時期です。
いまはPre-Intermediateでぼちぼちやってます。つまりはまだレベル3です。Writingとかはそれなりなんですが、どうにもSpeakingが足を引っ張ってますね。英語のスキルはもちろんのこと、性格的な問題もかなりな比重を占めています。もっと自己主張しないといけないです。Mustです。

 しかし正直なところ、それよりもバイトでのブレイクスルー体験が多々ありすぎて、相対的に英語の印象が薄かったりもします。どっちがメインなんだって話ですが。でもこれが本当に楽しいんですよ。エビフライがふんわりさっくさくに揚がったときとか、皿洗いがオーダーの合間にささっとできるようになったこととか、巻きずしを上手く切れるようになったこととか、刺身を食べるのが勿体無いくらい綺麗に盛り付けれるよう腐心したりとか、「よっしゃできた!」ってなります。

 怒られるのは嫌なことですけど、その後に成長を感じられるのがいいですね。数字じゃない結果のほうが、感動が大きいです。オーストラリアにまできてバイトで感動してどうすんだって話ですが、結果論として自分にとってはオーストラリアでしかできなかったことですからいいですよね。

 一番の楽しみは三回に一回は必ずやってる「Happy Birthday to you!」の合唱が聞けることですかね。誰かの幸福を作れてるってのは、ほんといいもんです。「おー、今日もうっせえなあ!」とかいいつつ、スタッフみんなニヤニヤしてます。
 それなりに淡々と、それなりに快楽的(?)に過ごせてますという報告でした。思い返せば結構いい目にあってますね。交友関係もやっぱり”友達百人!”ってのは性格的にないですが、少なくても良い友人にも恵まれています、たぶん、主観論ですが。

 最近はほんと生活してるって印象で、イベントがないんですよね。やっと冷静になってきたんでしょうか、冷静な目でオーストラリアを見れてるんでしょうか。まあ来て当初抱いていた「オーストラリアはこんなところ!」とか「オーストラリアはこうあるべき!」なんてのはどっかに行ってしまったというのは確かです。今思えば変なこと言ったり、思ったりしていたなあということが多々あって恥ずかしいですよ。おもわず田村さんも苦笑いしそうな、ははは、という。


2011年7月01日のメール(約半年経過)
(前・後略)
 自分はまだまだ学校です。いまだ半年です。クラスはやっとレベル4、Intermediateに上がりました。Beginnerの時代から比べたらもちろん天と地ほどの差がありますが、やっと日常会話ができなくもないぐらいでしかありません。現地の小学生にも負けるかという。

 この半年、最大の壁が英語というよりも「コミュニケーションとは何たるか」だったような気がします。話しかけやすい表情、きっちりと挨拶する、名前を覚える、ボディーランゲージ、相手の(国の)話題、自分の(国の)話題、文の分割、強調部分だけは最大にはっきり言う、聞き返し方と聞き返されたときの対応、なによりまず落ち着くこと、などなど。日本語でもそうですが基本の基本ですよね。あとはそれが高度なものになるか否かです。

 半年でも全然足りないってのは分かってはいたものの、いざその立場に立ってみるとがっくり来るものはあります。しかし気づけばひとつの山はいつのまにやら超えたという自信もあることは確かです。でもまだまだですねえ、ピアノだったら鍵盤の位置と譜面の読み方覚えた程度、絵だったら直線と丸がフリーハンドで綺麗に引けるようになった程度、プログラムだったら参考書読まなくてもビルドアップできるようになった程度、たしかに田村さんの言われるとおり地平線まで続く砂漠ですよねこれは。迷いこんでしまいました。

 まあぐだぐだ書いておりますが、結局はやるしか方法はないんですよね。皿洗いと一緒ですよ。洗い物の山をどう片付けていくかを議論してる暇があったら、まず手を動かせってことです。効率やらやり方にこだわる人もいますが。トータル30分かかるのが効率化で20分になろうが、議論に20分かけてちゃ、40分、本末転倒ですよ。しかも失敗できる範囲で何度も何度も失敗しとかないと、なんでそうやって効率化出来るかなんてわかりゃあしません。得てして応用力もそこらへんのブラックボックスから生まれたりしますし。

 そんな感じの荒尾君の半年目中間報告です。皿洗いの地獄の中に真理を見い出しました。またなんだか長くなりましたが、ここらへんで。またいつか田村さん宅に行きますね。


2011年7月06日のメール
(前・後略)
この時期に遊びに来られたときのスナップ。たまたま来ていた他の人々と。
 注目すべきは、この時点でなぜか髭をたくわえ戦国武将みたいになっている。カブトが似合いそう。
 シェアが大事ってのも振り返ってみてよく理解できました。他の日本人の人達がどういう暮らし方をしてるか見聞きすると、田村さんがこれを重視するのも改めてうなずけます。下手すると一年間シドニーのシティ周辺で暮らして終わりですものねえ。ほんとにいるんですね、しかもたくさん。短期留学ならまだしも、一年間がそれってのもなあと。学校があるならまだわかりますが、大抵の日本人が二、三ヶ月、下手するとレベル2のElementaryで卒業しちゃったりで。個人的にも三ヶ月過ぎたあたりからが、実りのあるおいしい時期だったと思うんですがね。

 シェアの方でもやっとまともに会話できるようなりました。一緒にテレビ見ながら、内容について適当に雑談しつつ、日本ではどこどこではーといった展開も織りまぜながらという。正直言って学校での会話よりも身になってる気がしますよ。

> しかし、思うのですが、荒尾さんはすごく真っ直ぐでマトモですよね。
> いや、これは裏の意味もなにもなく、純然たる誉め言葉で額面通り受け取っていただいていいです。

 ええと、ありがとうございます。バイト先でも「おまえは手際も覚えも悪いが、素直なところだけはいいところだ」って言われました。ありがたいことです。仕事中は罵詈雑言の嵐ですが。

(略)
僕らは平成世代の生まれで、つまりはバブル崩壊後世代でもあります。僕らが育つにつれ景気は横ばいか右肩下がり(のような連日報道)で、「日本にはバブルってものがあったんだよ」って言われてもいまいち想像がつかないのですね。経済成長ってどういうものなのって気分です。
(略)
 就職できたらできたで今の企業は終身雇用なのかなんなのかわからない不安定な旧型船に加え、それを降りたらもう二度と船に乗れないような強迫観念。TVじゃ年収一千万円もらわないと人として劣っているような勝ち負け思想(9割方のひとはもらってない)、年金不安(僕ら世代で本当に年金がもらえると安心している人はまれ)、少ない兄弟で老いた両親や祖父母達を支えていけるのか。そもそも働いては寝るの繰り返しの中で、上がらない給料をもらいながら結婚し子供を育てられるのか。うーん。ううむ。

 みたいな感じですかねえ。まあこれが実際にあっているのかはあまり確かじゃありませんけど。すくなくとも僕ら世代のうちのひとりはこう感じているということです。とまあここまで日曜に書いて、月曜の田村さんのエッセイ読んだらすごい先越されましたね、これ。

 なんというか僕らみんな不安なわけです。特に日本人は選択権も自由も「与えられるもの」だと思い込んでいるフシがありますから。ぼくらみんな「いい子」であろうと必死ですよ。みんなそつなく。頭ひとつ飛び出さず、かつ低くもならず。流行には良し悪し関係なく合わせ。勝手に制度作った上にゆとり世代だとレッテルはられようが、塾に予備校、受験勉強ともくもくとこなし。確実にもらえないだろう年金を払い、上がらない給料に悩み、下の世代が少なくなってるから部下も増えずにいつまでも下っ端。なんだかなあ、先が見えねえなあ、希望がないなあと。
(このあたりもの凄く大量に論述があるけどバッサリ略)


2011年7月08日のメール
(前・後略)
>ただし、一つ違和感があるとしたら、それを荒尾さん自身が言うという点ですね。
>これらはすべて、第三者の、外野の勝手な分析論や評論であって、当事者のものではないです。

あはは、そこは突っ込まれるだろうなあと思ってました。
色々駄目だなあって落ち込んでた時期に本やら評論やら読みまくって理論武装した名残です。よくある「今の社会が悪い、ゆえに俺は悪くない」って自己防衛ですよね。ルサンチマンってやつですか。

でもそれも落ち着いてきて、結局残ったのは田村さんの言われているように「そんなの関係ねぇ」ってことです。あんまり直視したい現実じゃないですけどね。

結局どこ行っても同じで、自分のことは自分でなんとかせなあかんってことですよねえ。みんな三者三様の辛い現実と戦ってて、とても人のことなんて世話してらんない。世間は僕らの母親じゃあないんですから。まあそこら辺がやっと理解できたので、オーストラリア来たんですけどね、積極的にしんどい目にあおうと。

しかし分かってる奴はすでに日本で地道に努力して苦労してやってるのも理解できてます。彼らは一歩一歩日本での地盤を固めて生きているのも分かっています。僕がオーストラリアに来たからって今までの遅れが劇的に変わるわけでもないですものね。結局は地道に経験を貯めていくしか無いんですから。もっと早く気づければよかったんですけれど。

自由を得るためには地道に地道に勉強して努力していかないといけないと。ただそれにいたるまでのルートは幾重にもあるのにも気づけたので、アプローチの方法は変えてみました。

まあ口じゃあなんとでも言えるんですけどねー。


(ぽーんと飛んで)
2011年9月23日のメール(8か月経過)
(前・後略)
 なんだかんだでもう9月も終わりです。僕の近況はというとIELTSコースの8週目です。しかしながら、全方向からボコボコにされてもういろいろとしんどいです。特にReadingとWritingがなかなかどうして大変です。オーストラリアに来たばかりの時期や、GE時代にはSpeakingが一番厄介なんて思ってたのがなんだか懐かしいという。正直しゃべるのが一番簡単ですよ。もちろん正確さとか内容とか言い出すとあいかわらず全然ダメダメですが。


 でも当初の目標だった進学可能性がなんだかぼんやり見え始めると、いろいろ考えこんでしまいました。ここ最近は将来の身の振りかたばかり考えています。

 僕の場合、オーストラリアに行くという段階ではこっちの学校に進学して、スキルを見につけて、こっちで仕事をさがすなりなんなりと楽観極まりない展望できました。とくに僕は「デザインとWebに関する技術」を勉強したい、ということだけは決まっていましたので最初のエージェントに勧められるがまま今の学校に決めてやって来ました。でもよくよく考えてるうちに、それはなんでオーストラリア(≒海外)でなければなかったんだっけとかいろいろもやもやしていました。

まあたぶん周囲の事情とか学校の挫折のことだとか、いろいろパーソナルな問題を全部ひっくるめて日本じゃだめだなんて考えてたのかなあとは思います。オーストラリアを避難の場所として選んで、理由付けしてたんだろうなあとも。まあうすうすはわかっていましたが。

しかしながら逃げの一手にしても個人的には悪くはない手だったと思います。まずいろいろ思考がシンプルになれましたし。物理的にも精神的にも。正直オーストラリアに持ってきた9kgの荷物以外に僕の荷物なんて無いに等しいですし。日本においてきたのは、引っ越し用ダンボール一個の中に本と服、安っぽいリクルートスーツにノートパソコン、それだけですもん。たぶんやろうと思えば僕の全財産20kg以内で余裕で収まりました。僕の20年なんて物質的にはそんなもんです。

いや精神的にはまだまだごちゃごちゃしてましたね。いまだにあんまり整理されていません。

これからどうしようかとぐるぐる思考がまわってしょうがないです。しかしこのままシドニーに留まっても、ただ単にモラトリアムが継続するだけだなとは感じています。今のバイトも慣れてきましたし、やめたら困られるレベルまでは技術も付けれました。オーナーにもビザのスポンサードもできるけど滞在延長しないかとも言われましたし(まあ学生ビザですが)。でも必要とされるというのはひとつの自信にもなりますし、嬉しいですね。でも「なんだか違うなあ」と脳の右上の方で感じてるので、たぶんしたい選択としては違うんだろうと。

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でここから先が書いた日付が違うのですが。

ということで、もういいだろうと申し込んでたコースを結局キャンセルしました。バイト先や今のシェア先にもその旨のことを伝え終わって、後は行動という事になります。飛行機のチケットも買わないといかんです。

直感で動いちゃった結果がこれです。

とりあえず一ヶ月後(21/Oct)に学生ビザが切れます、そんで28日以内に出国、そんでワーホリビザに切り替えての再渡豪てのを考えています。国外からの申請でしたよね、なので日本かNZに行く予定です。


ちょっと思い立ったらで行動しすぎて色々とばたばたしてますが、そんな感じです。

でも準備期間としてはもう十分すぎるほどとったので、ちょっと頑張ってみたいです。なんかこういうワクワク感は久々なので嬉しくなってきました。来年一年間は日本に帰らないで世界を回りたいなあと思ってます。オーストラリアに限らず、タイとか、いつかイタリアもいってみたいなあと。

あ、なので近いうちに田村さん宅をお訪ねしてもよろしいでしょうか?


2011年10月10日のメール(10か月目、帰国直前)
(前・後略)

あと今月30日に飛行機のチケットを取りました。

片道A$400ぐらいですけど、まあこんなもんですかね。久々の日本ということで、期待とちょっとビビりというか不思議な感じです。もうオーストラリア生活も九ヶ月も経ってしまいました、速いものです。これだけ経つとなんだか日本のほうが異世界みたいな気さえしてきます。

オーストラリア来る時もビビって、日本に行く時もビビるってどんだけだよって気もしますが。新生活というか新局面ってのはいつもこうだったけなという気もしますね。

でこれからの予定の方なのですが、プランA、B、C、、とあってなんとも言えない状況です。
その中の一つはワーホリとかでもう一年ぐらい日本の外にいるってことですが、なんとなくまた日本で頑張ってみるって気もあるんでこれまたどうしようかなあと。五年ぐらい日本で職業訓練と経験積んでからまたオーストラリアとか攻めてみるとか、間に旅行を挟むとか、それでもいいなあとも。そうしたらまた違った目線でオーストラリアや外の国々を体験できるんじゃないかなとも。

まあ元々の渡豪の理由が自分探しなのか、日本社会や人間関係からの逃避なのか、進学のためなのか、海外勉強なのか、はたまた社会勉強なのか、よくわからんまま来ましたし。でも『英語の勉強のため』とかは正直いうと全く眼中にありませんでした、あはは、対外的な理由付けとしてはそうですけどそりゃあくまでも外部向けであって。
まあ、なんか満足してるんで個人的には大成功です。戦闘力は十二分に回復できました。

最終的にどういう決断になるかはわかりませんが、そんな感じです。人事を尽くして天命を待つてことで、最終的には直感と言うか第六感に任せるしかないですよね。(そんなこと書いてたら田村さんのエッセイと被ってて笑いました。。)


2011年11月05日のメール
(前・後略)
荒尾です、無事帰国しました。

カンタス航空がストライキだって言うんで、どないなもんかと思ってましたが大丈夫でした。 今は千葉の浦安にある家で、兄とその友達と自分の三人でシェアしています。ネット環境もあるんで結構快適ですね。 とりあえず熊本帰っても仕様がないので、こっちでお金貯めつつ今後のこと決めます。 日本帰っても意外となんともないですねえ、でも日本語でなにからなにまで出来るってのはすごい楽です、ほんと。


2011年11月28日のメール
(前・後略)
帰国後感想添削修正版、添付致しました。
海外仕事幻想論みたいなぐちゃぐちゃ一般論になっていたところは、ばっさりカットしました。
がりがり指先の感覚に任せて書きなぐりましたが、まえよっかましだと思われます。たぶん、きっと。

まあ、論文じゃなくてあくまでもメインは感想ですからね。かきながらも色々思い出したり、考えましたよ。

オーストラリアはもう大分暑くなってきたんでしょうか。こっちはもう冬です。ファンヒーターがありがたいです。
昨日は今のシェアメイトと兄と鍋でした。鍋でカニなんて久しぶり食べましたよ。


2011年12月01日のメール
(前・後略)
いやいや、これで人生のオーストラリア編は一区切りって感じですね。
ひととおり読みましたけど、まあ大丈夫だと思います。変なことは書いてないか、編集されてるみたいですし。


というか僕のメールの文って、めっちゃまじめくんな雰囲気漂ってますね、あはは。写真より文章のほうが性格が出てるかもしれないです。

あとこの先どうするかは大体決めてます。まあでもそんためにはお金貯めなくちゃいけないんで、しばらく頑張って働きますよ。
あー。「決めなくてよし!」ってのも確かにありますね。「細けえことグダクダ悩むな!」って感じですかね。

とりあえずまた一区切りってことで、いろいろとお世話になりました。
ありがとうございました。

また連絡しますね。それでは。


2012年06月12日のメール
田村さん、お久しぶりです。

荒尾です。覚えていらっしゃいますでしょうか。
去年の10月頃に日本に帰国した、河村さんや井口さんたちと同時期のメガネの男です。


しばらくまたぶらぶらコンビニで働かせていただいていたのですが、
いろいろあって、今は千葉の職業訓練所で、また電子回路を勉強しております。

なんというか日本のTAFEですかね。授業料はもちろん「無料」です。素晴らしい。

最後の感想では工学が嫌になってー、なんてくだりがありますが、やっぱりどうにも興味があったようです。
オーストラリア時代に料理の職人さん方をみてたので、大分影響されたのかもしれません。

まだ6月からの受講なので、始まったばっかりですが、意外にも面白い講義ばかりで楽しんでたりもします。
なかなか就職事情は厳しいですが、まあやるしかないですねー。


あんまり語ることも無いですが、そんな感じです。
久しぶりに自分の体験談を読み返して、「ほお」と自分で思ったりもしました。

時間がたつのが早いですね。あっというまです。
みんなどうしてることやらと思います、facebookだけじゃなかなか把握できないですね。

田村さんの記事を読みつつ、ちょっとした報告でした。
それでは。

2013年01月03日のメール
田村さん、こんにちは。一昨年の10月に帰国した、荒尾です。

あけましておめでとうございます。去年の6月以来の久しぶりのメールです。

帰国後もわりとふらふらしてましたが、やっと就職決まったので新年のあいさつに添えて報告させていただきます!

千葉の訓練所に通いつつ就活していたのですが、なんやかんやで名古屋の会社で採用を頂きました。
12月から正社員として働いています。初任給もやっといただきましたー。

職種としてはプログラマーなので、学校で勉強してきたことも無駄にならなさそうです。
ただオーストラリアで勉強した英語が役に立つかというと、なんとも言えないですが(笑)

逆に新人はベトナムに研修に行く制度があるらしいのですが「荒尾は行かせてもやっていけそうだから、行かなくていい」 と言われて行かせてもらえませんでした。残念です。

まあ、英語の文献とかを読む機会もあるでしょうから話すより読む方の勉強をしないといけないな、という感じですね。

さて新年の1月になりまして、オーストラリアに最初についた日からだいたい2年になります。
オーストラリアについたときは19歳だったのに、今月でもう22歳です。
時間の流れが速すぎてコワイくらいですが、私の方は元気でやっていますー

田村さんも、毎週のエッセイを見る限り、お元気そうですね(笑)
お金と時間の余裕ができたら、またいずれシドニーに遊びに行きますね!


2015年10月28日のメール
荒尾です。お久しぶりです。 お久しぶりといいますか、もう前回のメールから2年と10ヶ月経っているわけですがいかがお過ごしでしょうか。


そこらへんの流れでひさびさに連絡をしようと思いまして、今筆でしたためるというかキーボードを叩いております。

なにやらしばらく見ないうちにAPLaCもアクティブな感じに変わっているなという印象です。(A僑とか公式代理店とか掲示板とかもろもろ)

ちょっと流れが追えてないですのでどういう経緯があったのかはわかりませんが、田村さんはかわらずお元気そうだなと勝手に感じました(お元気ですよね?)。

私の方はなんだかんだであれから名古屋でずっと仕事をしています。

同業種で一回転職はしましたが、プログラマをそのまま続けている感じです。(転職で給料がだいぶ上がったので同年代ではそこそこ貰えてる方じゃないかとおもいます。今後は未定ですが)
今の主な仕事は車載系の組み込みプログラムです。カーナビとかですね。

プログラマはかなり向いてるみたいで、残業は多いですがいい感じに仕事できています。
ただ英語は、話す機会はほとんどなくて読む方ばっかりですね。
一応インド人やベトナム人のパートナーさんとの付き合いもありましたので全く無いというわけではない程度です。

昔のメールとか体験記読むと若さ?が溢れててとても恥ずかしいのですが、当時なにを考えていたのか思い返すとよくわからないですね・・・。
もうすぐ25歳になりますので5年前・・・、時が経つのが速い・・・。

とりあえず体験記みると未だにコンビニでバイトしてる人っぽいですのでちょこっと追記していただけるとありがたいです(笑)





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