★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
833 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2017/07/10)



Essay 833:あ、詰んだ

〜「頭の良さ」の市場価値が下がる人類社会のこれからの予想

 写真は、夕刻時のGlebe。先日の買い物帰り、枯れ木と夕日がいい感じだったので。

AIがGA、囲碁を席巻している意味

 既に半年近く前の記事ですから旧聞に属しますが、AIによってゴールドマン・サックスの花形トレーダー600人がリストラされて、たった二人になってしまったという話があります。ググったら幾らでも出てきますが一つだけ挙げておきます。人工知能による自動化が進むゴールドマン・サックス、人間のトレーダーは600人から2人へ

 AIネタでは、今年の5月に囲碁の世界チャンピオンがAIに負けています。これも山ほど記事はあるけど、進化を遂げた囲碁AI「AlphaGo」の勝利に、人工知能の未来を見た:『WIRED』US版リポート

あ、詰んだ

 僕もこれを読んで、「あ、詰んだ」って感じがしました。頭の良さ、知識、ノウハウ、、そのあたりの知的能力→お金に交換というルートが閉ざされてしまった〜と。もうこの時点で、いわゆる「勉強」をする意味がなくなった。学校もいらんと。いや、知識は面白いし、人間の精神を豊かにするために必要なんだけど、いわゆる「金儲けの手段(学歴→就職)」という論理が木っ端微塵にコケたな〜と。学校も、人間性を豊かにするという教育本来の目的以外の部分、いわば邪道的王道であった「就職=金儲け=に有利」という部分がなくなったなーと。

 もちろん、一瞬にしてそうなることはないです。なんだかんだ浸透していくまで百年くらいかかるかしらんし、僕らは皆、何がなんだか分からないうちに寿命が尽きてしまうかもしれません。が、理屈はそうだと。

 なぜそこまで言うかといえば、ゴールドマン・サックスのトレーダーといえば、あなた、世界のお勉強秀才の頂点みたいなものです。東大のように「地方の進学校」(その県内では有名で尊敬されるが、県が違ったら誰も知らない)ではなく、世界レベルの俊英達が競いあう就職先です。平均年収5600万円。まあ人によりマチマチでしょうが、大したもんです。それが、脅威のリストラ率99.6%、ほとんど「皆殺し」に近いまで減らされてしまうという。頂点の頂点がそれだということは、あとはだんだん時間とともに下がってくるということです。

 頂点がいきなり死ぬというのは、順序が逆のようで、実はわかります。なぜって、そこまで時代やシステム、合理性について徹底的に敏感であるからこそ=強く&優秀であることに世界一力を入れているからこそ、トップの座に君臨できていたわけですよ。利権だとか、最近流行語になってる「忖度」なんてクソぬるいことやってたら世界チャンピオンにはなれない。そこまで強烈な場であるからこそ、無慈悲なくらいドラスティックに組織改革が出来るのでしょう。だからAIの意味も的確に見抜き、誰よりも先んじて的確に活用することが出来たのだろうし、同時に余った人材は情け容赦無く切り捨てることも出来たのでしょう。それが出来るからこそ、さらに強くなれるという。覇者というのはそういうもんでしょう。

 まあ、ここでゴールドマン・サックスが本当にエクセレント・カンパニーの世界の覇者なのかどうかについては議論も疑問もあるでしょう。僕もある(笑)。真の意味で「エクセレント」な組織体は他にも幾らでもあろうし、実は街角のおばちゃんのやってる定食屋さんの方こそエクセレント(優れた)かもしれないし、次の時代を生み出すNPOとかそのあたりの方が秀でていることもあるでしょう。しかし、ここでは単に「利潤の極大化」という資本主義のドグマに激しく忠実だという意味でのみ使います。でないと、「民主政体における”商”のありかた」論という古典的な議論に入り込んで、話がややこしくなりますから。


 囲碁についても同じことで、世界チャンピオン(柯潔(カ・ケツ))が負けてます(3番勝負の初戦だけど)。それもフロックではなさそうで、それ以前にこのAI棋士(GoogleのAlfaGoが名乗ってる”Master")は、チャンピオンを含む世界トップクラスの打ち手と立て続けに対局して60戦全勝してます。60連勝って半端じゃないですよね。

 なんでそんなに強いのかといえば、もう世間に周知のことですが、ディープラーニングというプログラミングになってて、予めすべてをプログラムしなくても、AIそれ自体が経験を積んで賢くなる設定になってるからです。学習する人工知能ですね。開発途上ではボロ負けしていっても、「なるほど!その手があったか」などとその都度学んでいく(「なるほど」とかそういう感想はないでしょうけど)。要するに人間と同じなのですね。人間の脳だって、過去の経験記憶から法則性を抽出して未来を予測して、やってみて、さらに修正して、、という帰納・演繹を繰り返してそれを行うわけですから。

 人間の場合、同じ学習プロセスを経るにしても、記憶の正確性が弱い。記憶違い、忘却、混濁などなかなか正確に覚えられない。それは英単語やら、人の顔と名前が一致しないことなど日常でさんざん経験していますよね。でもAIにそれは無い。機械的なエラー(ハードディスクがぶっ飛ぶとか)がない限り、デジタルに正確に記憶しつづけます。それを超高速で組み合わせて無限ともいえる数のシュミレーションを行いつづけ、最適解に近づけていくわけですから、そりゃあ強いわ、って思います。

 そのあたりの議論は、さておきます。僕も本当に理解できているのか怪しいし(多分理解できないのだろうなー)。本題は、それにともなる社会全体の変化予測です。

 世界から知的事務処理能力の秀でた人材が集まるトレーダーの世界は、資金を有利に運用するにするにあたり世界中に無数にある投資先(NY株式からネパールの不動産投資まで)を把握し、そのリアルタイムな変動を秒単位で把握し、過去の経験、全体の世界の流れなどから推測し、瞬時に最適解をみつけないとならないのでしょう。激しく頭が良くないと勤まらなさそうです。囲碁もまたチェス以上に推論予測能力が必要なゲームであり、無限ともいえる将来予測と選択肢のなかから正着を選んでいくという意味では、トレーダーに似ているでしょう。そして、囲碁でこのレベル実績を出しているなら、あとの知的もゲームも制覇できるでしょう。

 ということは?
 いわゆる僕らがいう「頭が良い」「知的能力に秀でている」ということに関しては、その頂点を抑え込まれてしまった以上、もう機械に勝てないということでしょう。

人類が「頭の良さ」で劣後することの意味

「頭がいい」だけが取り柄

 人類がこの地球で進化の頂点なり、世界の覇者としてドヤ顔してるのはなぜかといえば、ひとえに「頭がいいから」だったと思います。他の能力でいえば、人間よりも優れている動植物は幾らでもいる。単純な「力」(腕力、暴力)でいっても、かなり世界ランキングは低い。漫画紹介でもやるかもしれないけど、相原コージ作の「真・異種格闘大戦」という作品があり、世界中の動物がタイマン張ってチャンピオンを決める漫画ですが、人類代表は早々に一回戦でカバに負けてます。実際、人間のリアルな戦闘能力は、トラや熊など猛獣を持ち出すまでもなく、せいぜい中型犬どまりという話もあるそうです。では知覚や認識能力ではどうかといえば、これもお寒い話で、どっかで読んだけど(テラフォーマーズだったかな)、人間の調香師(香水を調合するプロ)に嗅覚感度は平均人の200倍と言われますが、犬の臭覚は1億倍だそうで、もう話にならん。「種が違う」というのはそれほどのものだと。

 そんなクソ無能な人類を世界の覇者にまで押し上げたのは、ひとえに「頭の良さ」でしょう。経験を記憶し、記憶から一定の法則を抽出し、さらに記憶同士を結合させ、それに論理操作(推論)を重ねて、あれこれトライし、失敗しては学習しを繰り返して、火を発見した。農業というコンセプトを抱き、実行し、営々と失敗を繰り返しては洗練させていった。最初は動物の骨程度の武器・道具もどんどん進化させていくことが出来た。他の動物よりも、そこ(頭の良さ)だけは飛び抜けて秀でていた。だから今のドヤ顔に至ると。

 でもそれが機械に負けてしまい、しかも、あっちは未来永劫、永遠に賢くなりつづけるわけですよ。人間のように寿命はないから永遠に存在できる。人間のように肉体死によって過去の経験知識がリセットされて又ゼロからという効率の悪いことをしなくてもよい。だからここで負けてしまったら、あとは永遠にその差が開くだけでしょう。また、機械がヘタろうがデジタルコピーすればいいし、そもそも受精して育児をして教育をしてという数十年かかりのプロジェクトをやらなくても、幾らでも複製コピーして増やせるし、それぞれをネットワークにつなげて共有・分散処理が出来る。もう太刀打ちできんよ。

 まあ、機械といっても人間が作ってるわけですから、他の動植物に負けてるわけではないですよ。それに勝った負けたの話でもないでしょうし。

頭の良さの市場価値の変動

 問題は、オーガニックな人間の力の市場価値です。それが下がるだろうなーと。
 それは別に今回が初めてではなく、過去にもいくらでもありました。例えば単純な腕力ですが、人間よりも力の強い動物を使っていた(牛馬に鋤をひかせる農耕やら馬車やら)。また人間よりも速い馬の背中に乗るのは有史以来やっている。珍しくない。手刀や拳よりもナイフや金槌を作り、火薬を発見し、化石燃料を使いこなし、原子力を使いこなそうとして頓挫しつつやってきてます。

 今となれば、単純に「腕力が強い」ということの価値は、過去に比べれば逓減してますよね。昔は、腕力が強い、喧嘩が強いことだけでサル山のボス猿のように天下が取れましたから。腕力の市場価値は無限に高価であった。が、それもすぐに頭の良さに負けます。駆け引きや戦略という知能戦によって、単に力が強いだけの兵士は上にいけなくなった。そして軍事戦略が強いだけではダメで、さらにスケールの大きい政治力(政略)によって凌駕されていった。

 また、手先が器用などの技術力も機械に取って代わられています。細かい作業だったら「米粒に三千文字書く」という「日本人は手先が器用」都市伝説を地で行くような技があります。今調べたら、1992年に石井岳城さんという方が5551文字書いたそうです(HPもありました)。すごいですね。でも、ナノテクノロジーや精密工学では分子レベルや遺伝子レベルで加工を行うから、おそらくは桁がいくつか違うでしょう。写経が上手とか字を書くのが早いというのも、コピー複写、印刷技術で市場価値が下がるし、印刷に関する写植職人さんもDTPの発達で存在価値が低下した。

 知的レベルでも同じで、部分的には機械に大体させています。そもそも人間のナマの記憶能力に限界があるからこそ、ノートや帳面という道具を使って代替するという作業は古くからやってます。しこしこ暗算するよりは筆算でやった方がいいという「技」が生み出され、算盤という道具が生み出され、いまは電卓ひとつで用が足りる。電卓も、出てきたときのことを今でも覚えているけど、パチスロよりも巨大なもので、一台100万円(今でいえば一千万ちかい)でした。全然「卓上」ではなく、それ自体が「卓」みたいな。

 だから、人間のナマの能力がなにかに劣ったり、それを補完するために何かを利用したりというのは、別に今回初めて生じたことでもないし、むしろ大昔から連綿として行われてきた極めてありふれた話です。むしろ人類の王道といってもいい。そのこと自体は大騒ぎしなくてもよい。

 問題は、それによって個々人の市場価値がどう変わるかであり、社会がどう変わるかです。

 でも、これ、正直いって分かりません。
 個人の能力の社会的&市場価値の変動なら、ある程度推測できます。現在高級職といわれている時給単価の高い仕事ほど影響を受けるでしょう。現在の労働市場の値付け体系は、大雑把にいえば頭の良さによってランキングがなされている。単に力が強いだけの労働力があっても、現場の労務作業を仕切るだけの賢さがなければファームのスーパーバイザーにもなれないし、現場監督にもなれない。その差は知的能力でしょう。しかし本社の企画販売などをやってる連中の方が給料は良かったりしますが、それはより複雑な知的処理が出来るからでしょう。つまり、マーケティングの動向や新素材、販売、生産などの桁違いに変数の多い複雑な意思決定をできる知力に優れているから。

 だからこそ、世の親は「勉強しろ」というわけですな。知的能力が優れているほど世間で多額の金をぶんどってこれる、それだけ生計が立ちやすいし、生き延びる選択肢も増える。筋トレや喧嘩やってるヒマがあったら勉強せんかい、その方がよっぽど効率が良いと。それは確かに一理ある。

 繰り返しになりますが、時代によって市場価値は変わります。大昔は腕力さえ強ければよかったけど、だんだんそうではなくなった。日本の戦国時代でも剣の力が勝っていれば出世できた。しかし、幕府ができて平和な時代になったら、それほど実戦的必要性はなくなり、あとは剣術指南役という「教育職」に変化していった。幕末・明治の頃も、出世したかったら剣術の稽古とか勉強(もっぱら四書五経など中国系教養)だったのだが、蘭学や洋学になり、剣豪→組織体における軍人になり、軍事も結局は知的能力(作戦立案とか参謀とか)が優越するようになった。

 それと同じことがまた起きているわけです。それは分かる。
 分からないのは社会全体がどう変化するかです。てか、ホーキング博士だっけ?なんかエライ人ほどAIの意味を大きく捉えている傾向があるのですが、人類における火の発見や火薬、化石燃料の発見に匹敵するくらいの巨大な出来事じゃないかと。それまでの世界観がガラリと変わる、だから人間社会のありかたもガラリと変わる。本当にそんなにガラリと変わるのかしら、変わるとしたらどう変わるのかしら、そこが分からん。

社会や人類はどう変わるのか

個別労働市場において

 まあ、僕ごときがいくら考えてもしょーがないのだけど、でも、やっぱり考えちゃうよ。面白いし。でもって想像力を全開にしてぶっ飛ばしても、それでもよく見えないです。だって、これまで生きてきて、世の中こういうもんだというその絶対的な前提が変わるかもしれんのですよ。

 なんだかんだ言って、僕らは、知の優越性というものを無条件に信じ込んできたと思うのです。卑近な話でいえば、上司が自分よりも馬鹿なくせに給料が多かったら腹が立つわけですが、なんで腹が立つの?といえば、知的能力に優れたものがお金も沢山取るべきという無条件の前提があるわけでしょ?だからこそ、知的能力に劣るものが沢山もらうのは「原理」に反する、正義に反するという。その前提がコケるわけですよ。どうなるの?

 つまり賢いか馬鹿かというのは今ほど重要な問題ではなくなるかもしれないのですな。影響は無論残るでしょうけど、今ほど巨大ではない。だって、人工知能が飛び抜けて賢くなっていく(これからもどんどん)わけで、賢さそれ自体でいえば、もうどうしようもないわけですよ。これまでもコンピューターを駆使する最終的な賢さというのが人間の側に残っていたんだけど、それすら奪われるわけですよ。それを推し進めていけば、もうAI様が神様のようになって、全てはAI様のご託宣のとおりやっていればいいんだ、人間どもはそれをははーっといって拝聴し、絶対服従していればいいんだ、それが一番間違いがないんだって世界になったら、つまり人間全員バカ仲間になったら、そこでの個体の知能差なんか、どれだけの意味があるの?

 必死に推測すると、多分、今の社会における個別の技量差と同じになるのかな。たとえば、同じ会社の社員の中における、足が早いとか、暗算が早いという程度の能力差です。それは多少は役に立つかもしれないけどメインではない。暗算が上手だったら、宴会の割り勘なんかでは重宝しますし、そういう数的能力は企画するときの素案作成にも役に立つでしょう。でもその程度であって、暗算が早い順に社長になれるわけでもない。その場では多少「おおー」と尊敬されるかもしれないけど、つまるところは「余芸」「かくし芸」レベルであると。

人間が存在する意味

 しかし、こんなのは序の口であって、もっともっと考えるべき事柄がある。ありすぎて収拾がつかなくなっているのですが、箇条書きすれば、(1)AIの浸透の予想ルート、(2)そもそも人間って必要なの?という根源問題、(3)「必要」とはなにか、人間って何のために存在するの?というさらなる根源問題、、、となるわけですね。ここまでくると、テクノロジー問題→経済問題→政治問題→哲学になっていきます。うーん、よう見えんわ。

 見えないながらも背伸びしてスケッチしておくと、とりあえず(1)は後回し。(2)以降ですが、そこまで完全にAIが仕切るのであれば、人間を雇う必要ってあるの?と。そもそも社長以下必要なの?いるとしたら、メンテ作業員くらいでしょうけど、それだって機械で補完できるでしょう。

 ここでAIとは別のロボット技術問題があるのですが、どれだけ複雑な作業を柔軟にこなせるかという「頭の外」の機能ですね。ロボット技術も日進月歩ですが、これもどんどん進化していって、作業ロボが優秀になっていったら、大抵の物理的な動作だったらロボットが出来るようになって、もう人間要らないかもって話です。これはAIと車の両輪のように並行してると思います。

 でね、そこまで人間いらなくなってきて、そういう社会における「経済」っていったい何なの?ですわ。資本主義経済は利益の極大化を目指すものですが、さらにその本質はなにかといえば競争でしょう。より安くより優秀な商品をより早く作りましょうゲーム。競争による全体水準の底上げが、ひいては人類を豊かにするからこそ採用されているのでしょうし、これまでは曲りなりもそうだった。が、競争というのも、煎じ詰めれば知的ゲームであって、知的ゲームの最頂点にあるのが囲碁であり、その203高地を機械に取られてしまったら、どうなるの?そうなると、ビールや不動産を売るとかいう話ではなく、より優秀なAIを開発導入しましょうゲームに変わるかもしれない。そして、「より優秀な」「開発」とかいってもだんだん人間の理解できる範囲でなくなってくるし(単に演算処理の速さではなく学習効率だし)、それもAIにやってもらいましょうとかなってきたら、そもそもそれって「競争」なのか?てか、「人間同士の競争」になるのか?つまりは、競争原理そのものが崩壊するのではないか。だってさ、機械に任せておけば最適解が出てくるのだったら、それに任せておけばいいじゃんってならない?

 だいたい、何のための人間が集団で暮らしているのか?社会ってなんのためにあるのか?といえば生きるための物資の生産でしょう。そしてその生産性を高めるためには競争構造(資本主義)にしておくのがもっとも効率的だということでしょう。ところが生産そのものについてはだんだん機械任せで良くなっていくなら、競争や資本主義はいるのか?そもそも社会や国家の存在意義はあるのか?がグラついてくるでしょう。

ブレない「楽をしたい」という基本原理

 もともと人間が何で道具を開発して、これまで延々やってきたかといえば「楽をするため」でした。自分で畑を耕すよりも従順な牛さんや馬さんに歩いてもらって鋤を引っ張ってもらったほうが「らく」だからそうした。その究極形態は、なーんも働かないで、衣食住すべてが満ち足りるという理想社会でした。これまでは「ンなわけねーだろ」って感じでSF以外では真面目に考えられてなかったですけど、おいおい、マジにそうなるかもしれないじゃんって。まだ完全実現まで相当時間はかかるだろうけど、天王山、最後の難所というべき、人間の絶対的な賢さを超えられてしまったら、てか超えるだけのものを作れるようになったら、あとはもう時間の問題じゃないか。やったー、ついに遊んで暮らせるぞって話でしょうに。

 じゃあ、そういう状態における経済ってなに?国家ってなに?社会を作る意味がどこにあるの?と。ちなみに歴史を見れば、人間が集団を作る意味なんかコロコロ変わってますよね。最初は農業とか漁業とか純粋に生産集団でした。コンスタントに絶滅しない程度に生産が出来るようになってきたら、次に来るのは非常事態への安定的な対処です。何を言ってるかというか、いくら頑張って農業やっても、人知ではどーしよもーないことに翻弄される(天災とか流行り病とか)。もうどうしようもない。でもなんとかならんもんかと対策が講じられる。あれは一体どうして生じるのか?のメカニズムの究明を考えるのだけど、まだ学識経験が貧弱だから、それらは全て「神」の行いとされた。まあワケわからんものを「神」という言葉に置き換えただけで、わかってないことに変わりはないんだけど。そしてその神様をトリートメントする体系が整備された。ここで生産集団だったのが宗教集団という特質も得て、それが文化にもなります。次に余裕が出てくると、隣の村のものをぶん取ればいいじゃないかという喧嘩騒ぎが起きて、軍事的意味もでてきます。これは19-20世紀まで続いて、今においても古式ゆかしい軍事ものをやりたい人はいる。でも時代のメインは経済優先になった。集団的に動いたほうが経済的にも有利だとか(G20で有利な交渉をするとか)。

 いずれにせよ「楽をしたい」という基本原理は見事なくらいブレてなくて(笑)、時代時代で一番ラクできそうなことが社会の基本構造になっていったわけです。では、もうそんな頑張らなくても機械で大体生産ができるのなら、どうなるの?ですね。

「助け合い(協調原理)」と「奪い合い(競争原理)」

 実際、その兆候はあちこちで見えます。これ言い出すと違う話になるからちょびっとだけ。どんな人間集団にも2つの相反する要素があると思います。協調と競争です。メンバー同士で助け合う要素と、メンバー同士が競争喧嘩する要素です。それは人類全体という最極大にもあるし、少数の仲良しグループにもある。この真逆の2つの要素が変幻自在に絡んでくるから集団統治は難しいし、その延長線にある政治は難しいし、どんな集団にも政治というのが最終的意思決定をする最上位にくる、てかそういう行為を政治と呼ぶ。

 一般に社会全体がイケイケで生産力がついて、豊かになっているときは協調と競争は幸福にカップリングします。生きのいい企業の場合、成功するケースが多いから人心も満たされるし、メンバー同士の競争といっても爽やかなライバル心的な感じなる。お互い憎からず思うから何かあれば助け合ったりもする。ドラマによくあるパターンね。でも、生産が頭打ちになり、ジリ貧になってくると、競争&協調して全体のパイを増やして幸福を分かち合うというよりも、限りある資源を相互に奪い合うという醜い競争が前面に出てくる。皆で頑張って耕したら全員が食えるとなったら全員協力するけど、どうやってもダメ、10人いるけど3人分しか食い物がないとなったら殺し合いになると。

 何を言ってるかといえば、今の先進国の政治がそれ。国家が旗振っても何やっても、そうそう経済は伸びない。指標をごまかして何をどうしても全体の地盤沈下は否めない。それは皮膚感覚でメンバーも感じてる。そうなると、助け合いよりも奪い合いの原理の方が勝ってくる。表向きは経済成長とか言うんだろうけど、それをするだけの戦略も可能性も乏しいから、内実は熾烈な奪い合いにあり、皆と分かち合うことよりもいかに自分と自分の身内に富を偏在させるか、最終的には仲間を切り捨てても自分だけ豊かになるかというのが行動原理になりがちだし、現にそうなっている。ま、早い話が、奪い合いや殺し合いのための国家や社会作ってるようなもんだという阿呆な話ですわね。もちろん現実はそこまで露骨ではないし、オブラートにくるんではいるから、肉体破壊よりも精神破壊(鬱とか)などの形になるだろうけど。

 せっかく人類史上初の、夢の楽ちんの日々を迎えようとしているのに、なーにをやってんだか?って感じですよね。だもんで、阿呆な所業はいずれは廃れる。じゃあその次に来るのは何かです。てか、もう来てるし、実現もしつつあるのだが、此処から先は「速度」の問題になっていくでyそう。そういう世の中の移り変わりがどのくらいの速さで広がるかと。10-30年スパンの未来的にはそっちの方が大事でしょう。完全楽ちんは、まあ、生きてる間は無理かも。

浸透速度

古くて閉鎖的か、先進的で開放的か

 では浸透速度論ですけど、これは「AIによって無くなる仕事、生き残る仕事」論で沢山の記事がありますから、皆様もご覧になったことがあるでしょう。あれです。ただ、「新たに生じる仕事」「従来な意味では「仕事」にカテゴラズされないけど重要な意味を帯びてくるアクティビティ」なんかもあるでしょう。

 さて、何がどのくらいAI浸透するか、変化が生じやすいかですが、それを決定する幾つかの要素があると思います。ではここで問題です。「その要素を挙げ、なぜそうなのか、それはどうなるのかを論ぜよ(60分)」とか。やってみましょ。

 浸透変化を決定づける要素は多々考えられるが、まず直近においては、その組織社会の変化硬直性が挙げられる。その組織が旧態依然としてし、外界から隔絶された閉鎖的な組織構造を持っているほど、外界の変化に対応する意思も能力も乏しいから変化それ自体は緩慢なスピードになると思われる。

 あー、答案風に書くと読みにくいすね。くだけて書きましょう。要するに古臭くて、閉鎖的な集団ほど、外の変化に疎いから、なっかなか変わらないということです。わかりますよね、これは。逆に世界の最先端をひた走ってるような先進的で開放的な集団の方はどんどん変わるでしょう。変化を喜び、それを血肉に変えることが出来る連中なだけに、その浸透速度は非常に早い。ということは、前にも何度か書きましたが、この社会のある部分は封建時代や中世のままで、ある部分は22世紀くらいいってたりするという。これが同じ雑居ビルの、とあるフロアは江戸時代で、その上のフロアは超未来志向でやっているという、社会がそのままタイムマシン化するという超面白いことになるでしょー。

 古臭くて閉鎖的な集団といったら、誰でも思い当たるところが幾つかあるでしょう。「ウチの会社だ、、」とか(笑)。だもんで、そういうところに所属していたら、安心(絶望)してください(笑)。なかなかAIとか取り入れんし、雇用も確保できるかもしれません。ただしAI以外のもっと泥臭い方法を使われる可能性が高いです。ブラック化ですね。コピー機を導入すればいいのに、もっと早く書き写せとビシビシと鞭で叩かれて手書き複写を強いられているというか。でもって、そういうところは、職が残るといっても、そんなに嬉しくないかもしれませんねー。クビになった方がまだマシ的な。そして、この種の古臭い集団は、潰れるときは土石流に流されるように一気に消滅します。明治維新の際の武士階級のように。というよりも日本自体がその種の変化硬直性を持ってて、なかなか変わらんが、変わるときは一瞬。明治にせよ敗戦にせよ。

 まあ、要するに恐竜みたいなもので、尻尾を傷つけても頭で「痛い」と感じるまで30秒かかるとかいう意味で延命してるに過ぎません。経絡秘孔を突かれて、お前の命はあと7秒と宣告されるか、3年殺しになるかの差でしかないです。うーん、こんな表現で答案書いたら落ちそうだな。

生き残るエリア

非論理性と知的バグ

 次にこれだけは絶対残るだろうと思われる分野、、それらに共通するキーワードは「非論理性」だと思います。

 もうちょい砕けていえば、アートであったり、肉体性や存在性が意味をもつものであったり、感情を扱うものです。職種でいえば、アート系、ホスピタリティ系(対人技術)、そして政治(だからヤクザも)でしょうかね。旧来の職種でも、これらの非論理性を強調することが生き延びるコツになるかとも思います。

 なんでそう思うのか?といえば、人間は知的存在であると同時に感情的な存在であり、そっちの方が強いからです。理屈や知識でメシを食う系(専門知的業)よりも、人間の感情とやりとりしている系統の方が強いんじゃないかと。

 これをド素人がもっともらしく言うならば、人間の脳作用はとっても非論理的な部分もあって、「何となく似てる」「雰囲気が違う」「彷彿とさせる」という論理化しにくいイメージや印象の類似性、飛躍距離の激しい連想をすると言われます。「○○さんって、焼き芋みたいな人ですよね」「え、どゆ意味?」みたいな、「○とかけて○ととく」的な。その種の、正解のない、勝手な思い込みとかそのあたりは人間のほうが強い。強いというか、それが性能的に優れているのかどうかは微妙で、知能というよりもただの感情かもしれないし、むしろ知的バグと呼んでもいいのかもしれないんだけど、それを評価するのも同じ人間なので、良いこととされている。

 つまり人間というものが、そもそも知的にはバグだらけの出来損ないであるのだが、出来損ない同士のマーケットにおいてはその出来損ないっぷりが珍重されて市場価値がつくという。それはもうブランキーの歌詞のように「なぜここにスカンクが?」と意味わかんないんだけど、でもクる人にはクる世界ね。そして人間はそういうものをすごく尊ぶ傾向がある。

「存在」自体に意味があるもの

 ホスピタリティ系はおわかりかと思います。人間がそこに存在するということ、それ自体に意味がある分野です。仕事や職種ではないけど「わが子の存在」というのは、知的能力がどーのこーのという、そんな「しゃらくさい」レベルを軽々と超越しているでしょ?その系統です。

 ホスピタリティ系には当然売春や風俗系も入りますけど、純粋にソレだけだったら、かなりヴァーチャルや機械(高度な玩具的な)ものに置き換わっていくでしょうから、既にあるけど「膝枕で耳かき」みたいな存在それ自体に意味があるやつ。あの風俗ってすごい人間の本質をよく考えていて、大体がヤクザ界隈だったりするんだけど、彼らくらい人間心理に実戦的に精通してる奴らはいませんから。

 カウンセリングにせよ、教師にせよ、仕事じゃないけど「先輩」という役職にせよ、具体的にどのような知的生産物を提供してもらったとか、どのように物質的なメリットを与えてもらったとかいうのとはまた別に、「居てくれる」こと、存在してくれていること、近くにいて、あるいは横に居てくれること、寄り添ってくれること、それが大きな意味を持つもの。存在することそれ自体が仕事みたいなものです。

 だから、旧来の職種でも、その部分に注意をすれば十分に生き残れると思いますし、現在もそうだと思います。弁護士だろうが医者だろうが、建築士だろうが税理士だろうがなんだろうが、単に専門的技術や知識を提供するだけではなく、その人(クライアント)の感情とのやりとりが上手な人でないと営業的に成り立たないです。「あはは、社長、またですか?いい加減しなはれ」「いやいや、面目ない」とかいう他愛の無いやりとりが結構大きいんですよ。「顧客を作るよりもファンを作れ」って世界ね。飲み屋のママさんなんかも同じで、出しているものは同じ既製品の酒ですからね、同じですもんね。店の作りといっても、格別に目新しいものでもないし、それどころか古ぼけてたりするんだけど、でも、その人がいて、その場所があって、その時空間が良いと評価されるから常連客がつく。

 結局、人そのものが売りになることですな。人は人とつながりたいし、人と楽しくなりたり、人に癒やされたいと思っているわけであって、機械とつながりたいと思ってるわけでもない。まあ、戦闘機乗りと戦闘機、ギタリストとギターのように、人間以上にモノとつながる場合もあるけどね。「さあ、いこうぜ、相棒」とか言ってさ、それはそれでカッコいいんだけど。でも、メインには、人は人を求めるんだから、人を売れば(って表現は違う気もするが)、それは安泰でしょ。

品質よりも味わい、消費から「珍重」

 総じて言えば、プラスチックのような均一で高品質よりも、人間臭い「破綻」こそが珍重される。「ニーズ」とか「消費」とかいう経済用語よりも、「珍重」という言葉の方がしっくりくるようなやつ。ということで、ちょっと破綻してて、ちょっと変な人がいいわね。そしてその破綻の仕方、変であるあり方がテイスト・味わいにまで高まってるもの。オーガニック独特の良さですね。ブロックや煉瓦ではなく、庭石みたいな存在ね。なんの機能性もないし、意味すらわからんのだけど、でもあると「いい」と誰かが思うようなもの。

 政治が残るのは、どんな状態であれ感情の生き物である人間同士を統括しようと思えば、その種の作業がいるからです。ただ、今の形の政治家とは、かなり違ったものになっていくかもしれませんね。でも、本質は同じ。メディアの政治欄みてても政治のなんたるかは分からんでしょ。例えば場が荒れているときに、「まあまあ、いい加減にしなさい」とAさんが言っても「てめえはひっこんでろ」と言われちゃうけど、Bさんが同じことを言うと、不思議とシンと静まったりするでしょ。その差が政治力の差です。もともとは地の人間力からきてて、それが無数の局面を積み重ねることによって、「まあ、○さんがそうおっしゃるなら」で場が収まるエリアが増えていき、それが「実力」になる。それが政治家が本質的に持たねばならない調整能力でしょう。その意味で、地盤カバン看板の3バンを持たずに地べたから這い上がってきたような政治家は本当に強いですし、別に政治家(いわゆる代議士)なんかやらなくても、いくらでも”政治”はできるし、現にやっている。ま、いい事やってるとは限りませんケド。

 でもって、生き残るとかいうけど、それって「高い給料を得られる」という形式なのかどうかはわかりませんよ。先の未来になれば、「給料」なんて概念が残ってるどうかわからんし、次の世代になったら、昔の「束脩」(授業料のこと)みたいに「”給与”ってなんて読むんですか?」とか言われているかもしれないよん。

 これも過去に何度も書いてるけど、全産業規模でAIリストラが行われたら、リストラされた分だけ消費者も売上も減るわけですよ。極論すれば全員クビにして再就職もゼロだったら、貯金が尽きた時点で消費者もゼロになって、それでビジネスってありえるんか?ですよね。まあ、新興国など世界市場はまだ残るからそっちに売ればいいやってことになっても、国内は大変ですよね。てか、AIと資本主義を極致まで純化させたら、社長も含めて雇用ゼロ、人件費ゼロが望ましいわけですよ。どの金を生むマシンに資本家が資本を投下するかだけの話で、スロットマシンと変わらん。

 でも、人(人材)は残っているのだし、領土も減ってないんだから、失われたのはシステムだけ。ルール改正が行われただけで、サッカーのコートもメンバーも丸々残っているわけだから、また新しいルールになっていくでしょう。それを早く見つけて実行した人の勝ちゲームも静かに展開されているところだと思います。従来の意味では、あんまりお金は入ってこないけど、お金はそんなに無くても楽しく生きていける方法論です。難しい?いや、簡単でしょ。だって生産性それ自体は機械ちゃんに任せておけばいいわけですよ。基本、全員遊び人を目指してもいいくらいの技術水準になりつつあるわけですよ。あとは硬い頭をどれだけ柔らかくするかじゃないですか。

 でもそのあたりは二極分化、いや多極分化していくかもね。とにかく変化を遅くしたい人たち、恐竜の「痛い」信号を1秒でも遅らせることに血道をあげるひと、あるいは沈みゆくタイタニックで火事場ドロ的に私服を肥やそうとする「自分ファースト」の人とか、考えると鬱になるから砂に頭突っ込んで「私は駝鳥」のオストリッチになる人、熱いな〜たまらんな〜と思いつつ茹で蛙になる人、そうではなく新しい方法論をどんどん模索して実行していく人、、、まあ、全体がタイムマシン的にいろんな人がいるんだから、面白そうです。


漫画紹介


[本田真吾] ハカイジュウ

 学園に奇妙な生き物が侵入して、クラスメートを残虐に食いまくっている、、という話は、最近よくあります。これはそのハシリのようなものでしょう。この系統の場合、表現技法の難しさとしては、いかに新しいモンスターを創造するか、いかに残虐性とともに緊迫感を盛り上げるかです。ホラーや怪談に似てます。過去の表現と被ると、パクリとか二番煎じとか言われてしまうという、これはこれでけっこう難しい領域ではないか。

 このハカイジュウも、最初は学園ホラー的なところから始まります。登場人物も大体高校生だし。でも、人気が出たのか連載が伸びていくうちに、どんどん人類絶命話にスケールが広がっていきます。ここでまた系統が分岐して、日本沈没みたいに政治的な対応をメインに据えて書いていく方向、社会的なパニック影響を描いていく方向などありますが、この漫画の特徴はそれらが全くないことです。まず政府や当局ですが、初期の方に自衛隊が出てきて、秘密っぽく意味ありげに活動してますが、あえなく全滅。出てくるのは、遺伝子操作をして人間を対抗できるだけのモンスターにするんだというマッド・サイエンティストくらいです。もう政治家ななんか一人も出てこないね。まあ、居てもなんの役にも立たないのだけど、その存在感ゼロ度はすがすがしいばかりです。

 一方、これだけのことが起きているんだけど、日本や世界での社会パニックについてもほとんど触れられてません。主人公達が逃亡していく先においては、背景としてパニックが起きているのだけどその程度。てかパニックになる以前に、一方的に食われているだけって感じだけど。この社会影響無視もすがすがしいばかりです。まあ、物語の真ん中へんで「帝王」と呼ばれる超巨大敵キャラがむくりと起き上がった時点で、日本人ほぼ全員即死だったでしょうけど(なんせ日本列島サイズだもんで)。出てくるのは高校生を中心とした登場人物達ですが、それも意味ありげに出てきたサブキャラ達も、惜しげもなく殺されていきます。使い捨て。特に13巻までの第一部はそうですね。第二部は主要メンツがずっと続きますが。

 要するに、ストーリーの絞り込みが徹底しているのですね。展開に特に関係ないものは、その時点でバサバサ除去!って感じ。一応こっち方面にも挨拶しておかなきゃな、これだけのことが起きてるんだしってな配慮はない。それが読みやすさにつながってます。めっちゃわかりやすい。まあ、グロテスクな怪物が出てきて、皆できゃーきゃーいう話ですからわかりにくいもクソもないかもしれないけど、それにしてもわかりやすい。大きなポイントだと思う。やたら登場人物を増やしていって、何がなんだか〜になってない。幾らでもそれをやれたと思うのだけど、やってないのですね。鷹代少年がむちゃくちゃ戦って、変身して、偉大な戦士パパになってと。そして、なぜこいつが重要サブキャラになるのかわからんという、スートーカー気味でかなり精神的にヤバイ教師がおって、しかしそのヤバさが強烈なカウンターパワーになっているという。もうシリアスなんだかギャグなんだか紙一重という感じで。

 21巻でめでたく完結します。これ、どうやって完結させるのか?と半分あきらめモードで思ってたら見事に完結しました。特に13巻でほぼ終わってたのを、14巻から第二部が始まったのは意外なくらいでした。あれからどうやって物語が続くというのだ?という。でも終わってみたらなるほどーという。なんか、A級というよりはB級なんだろうなーとは思うものの、やたら「愛を高らかに歌いあげる」ことで強引にA級っぽくしている作品(映画なんかによくある)よりも、こっちの方がずっといいです。もっとも、この作品でも愛は高らかに歌い上げてて、文字通り「愛は世界を救う」展開になったりもするのだけど、その種のむず痒さは全然ないです。非常に面白い個性があります。

 でも一番の読みどころは、気持ち悪い怪物のキャラデザだと思います。ギーガーのエイリアンをもっと誇張した感じで、どっかしらメカニカルなキャラです。怪物でも怪獣に近い。だからハカイジュウ(獣)なんだろうけど。あとでも紹介する予定の、気持ち悪い怪物の双璧をなす「彼岸島」の場合、もっと人間近親的に気色悪いです。ハカイジュウの方は、徹底的に人間の対極にあるような方向です。でも、人間離れしすぎてて、あんまトラウマになるような感じではないです。





[灰原 薬] 応天の門

 菅原道真と在原業平が主人公というユニークな時代設定です。
 かたや学問の天才、かたや六歌仙の一人であり、世紀の色男であった在原業平。業平といえば伊勢物語ですが、これ源氏物語よりも早く、源氏に影響を与えたようです。誰が書いたか分からないんだけど、誰がモデルかは誰でもわかるというリアル色男。光源氏のように100%フィクションとは違う所が凄い。なんせ当時タブー中のタブーだった伊勢の斎宮とエッチをしたとかしないとかいう下りが書かれてて貴族社会に大衝撃を与えたパンキッシュな問題作であり、そのモデルですからねー、いやあ大したもんだ。で、その業平さんと道真くんが、叔父〜甥くらいの年格好でいいコンビになるのですね。

 平安時代のコンビといえば、「陰陽師」の安倍晴明&源博雅が有名です。この漫画も平安時代だし道具立てや雰囲気は似通ってるのかなーと思いきや、コンビはコンビでも、「一休さんと新右衛門さん」的な感じですね。明るいの。で、道真くんが一休さん的に、賢くてこましゃくれたガキで、大人の業平さんが知恵をもらいにやってくるという構図です。でも、このコンビ、いい味してます。

 最初はおどろっぽいのかな〜と思いつつ、そういう呪いだの祟りという部分もあるのですが、道真くんは「そんな馬鹿なことがあるわけないじゃないですか、くだらない」と一蹴。これ、後の巻になってきて売り出す編集側もプッシュすべきカテゴライズが定まったのか「平安クライム・サスペンス」だと。火曜サスペンスみたいな。でも、もっといえば、平安時代の「金田一少年」ですよ、これ。

 でもね、謎解きそれ自体が推理小説的に面白いかというと、そうでもないのですよ。ただ、その全体の雰囲気がいいです。ストーリーやネタで読ませるのではなく、雰囲気や空気感で読ませるという、作る側としては一番難しいところ。なにがいいのかなーというと、まず、絵です。灰原薬(はいばらやく)さんという女性作家なのですが、同じ女性作家で陰陽師を描かれた岡野玲子さんよりも、骨太でガッシリした画風。でも、白梅、長谷雄、押しかけ女房の宣来子など、可愛いゆるキャラ陣も多く、ほっこりします。

 でもって、悩める少年である道真くんの聡明で、屈折して、いたいけな感じもよく描かれてます。が、一番惹きつけられるのは、「大人の色気」ですね。ナイスミドルの色気が漂う(でもひょうきんで親しみやすい)在原業平先生の造形、そして本物の大人の美女である藤原高子。若き日に業平と駆け落ちして、連れ戻され、今は天皇に嫁ぐために軟禁幽閉されている。お似合いの二人なんだけど、諸事情によって引き裂かれているという、もう演歌的な。

 あと、ちょこちょこ出てくる、監修をやっておられる東大の研究所の本郷さんが解説コラムを書いているのですが、これが面白いです。いやあ、一つのことを研究してる人の話って大体面白いし、すごい好きなんですけど、本来勉強や学問って面白いからやるもんで、この人も解説も楽しそうです。

 それと、そうかー、そうだよなーと思ったのは、藤原氏。平安時代に藤原氏が権力を簒奪し、日本のドンになるわけですけど、どうも平安貴族というイメージで、なよっとした感じがつきまとっていたのですが、あれだけの権力を奪う以上、めちゃくちゃ「強」かったのですな。それは武力背景もあるけど、宮廷闘争を勝ち抜くだけの凄味です。作中でも道真の父親が「あいつらには関わるな、藤原は人間ではない、鬼じゃ」と言うくだりがあるのですが、それだけのパワーをもっていたのでしょう。作内でも、道真の優しい実兄は、藤原に謀殺されたような格好になってますし(それが道真の政治嫌い、人嫌いのトラウマにもなっている)。

 でもって、藤原氏の実権を握っている鬼の権化のような藤原基経が藤原高子の兄にあたります。高子も幽閉されてなよなよと泣いている器ではなく、「私が男に生まれていたら、兄様の首をかき切って、都大路に晒しておりましたものを」と面と向かっていい切り、基経をして「そなたこそ本当の藤原じゃ」と言わしめている。武将なみに猛々しい気性を兼ね備えた美人ということで、ほんまもんの貴婦人って多分そんな感じなんだろうなーという。

 という、なんか事件が起きたり、謎解きして、へーそうだったのかという知的興味よりも、人間造形が出来ているから、その絡みだけでドラマになっていきます。中国から来た昭姫の妖艶なマダムぶりや、中国での宮中の恩師にあたる人が亡命してきた話とかなかなかいいです。













バスが来ない。のんびり待つ人々。来ないといっても10分足らずの話だが。



 文責:田村



文責:田村

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page