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今週の一枚(2017/05/22)



Essay 826:カリキュラムとしての中二病

 C/W 漫画紹介(5)

 写真は、Rockdaleあたり。昨日撮影したもの。

 最近Walkingと毎週日曜の”遠足”やってて、昨日は南の方、HustvilleからWolli Creekまで歩きました。線路沿いをトコトコと。測ってみたら14キロくらい。よく晴れた秋空で気持ちよかったすよ。

年代別やることリスト

 なんとなく振り返って思うに、
 10歳までは生き物として育つのが仕事、
 10代は反抗するのが仕事、
 20代はボコられるのが仕事、
 30代は全と個の折り合いを付けるのが仕事、
 40代は諦めて油を抜くのが仕事、
 50代は純化・楽しむのが仕事

 じゃないかと。
 10代と20代で自分(個)の確立段階で、10代で出っ張って、20代でヘコまされてという凹凸による板金加工みたいな。
 30代は、自分はもうわかっただろうから、その自分が社会にどう貢献するかというレベル。ある程度の社会的にポジションや力もあるだろうから、そこでどう後輩や部下を育てるか、どう次世代(育児)に伝えるか、そしてビジネスやアクティビティでどういう情報・サービスを皆に提供できるか。

 40代は「諦める」って書いたけど、身体も言うこともきかなくなるし、自分ってのは所詮この程度の存在・実力なんだってのもわかるし、いろんな意味で限界が見えてきます。それまでは企業の将来計画みたいに、取らぬ狸の皮算用的に「ここまで伸びる」とグラフで点線で上昇曲線描いてたけど、それも、まあ、無理があるよねーって。悟れと。自分もまた雑魚キャラなんだと。それでいいじゃん、別に、みんなと一緒よ。どっかしら「俺様」的に思ってたかしらんが、もう「様」は外しなさいよ、ダサいよ、いい加減にしなさいって。結構しんどいんだけど、うまいことエゴ&ナルの油を抜くのが仕事だと思うのだわ。

 50代は現在進行形でようわからんのだが、多分「純化」「楽しむ」のが仕事なんかなと思います。40代で油が抜けて=10代から持て余してきた「自我」が適正サイズになっていくから身も心も軽くなります。そしてその分、世界もよく見えてくる。「世間」→「世界」という感じに生臭さが取れて、純化、普遍化していく。ああこの世は、そして人の人生は、きわめてシンプルな原理を二つ三つ組み合わせているだけの単純な話なんだわねー、E=MC2みたいに簡単な話なのよねーってのも見えてくるような気がする。

 このへんのニュアンス、油が抜けて純化するって意味がわかりにくいかしらんけど、例えば、どっかのお店ですごく美味しい日本料理を食べたとします。おいし〜い!って思いつつも、油が抜けないとそれにエゴが服の裏地のようにへっついている。こんないい店を知ってる俺はイケてるとか、有名店で食べたからチュック済とか、玄人っぽい日本酒の飲み方をしているカッコいい俺とか、こんな高い店に連れてきて貰える〜大事にされている私=価値のある美しい私とか、物理的な美味以外になんか主観的な達成感やら自我快感が、オシャレ小鉢のようにもれなくついてくる。そのうざったいのが40代で濾過されていって、大分薄くなって、50代は子供のような純真さで、ひたすら舌先の快感に酔いしれる。純化、普遍化ってそういうことで、こんな生理的快感でこんな幸福感が味わえるんだから、自分なり人生なんかちょろいもんだわねー。花が綺麗だとか、空が美しいとか、海がデカいとか、風が気持ちいいとか、そんなんで十分だよねー、べつに首席で合格とか、表彰されたとか、キャーキャー言われたとか、銅像立ててもらわなくても十分ハッピーになれるんだわね、簡単よねー、なーんだって。だから40代の人によく言うのですが、50過ぎたら楽しくなるよーって。

 じゃ60代は?というとまだ未経験だからわからんです。もうワンノッチ上がるんだろうけど、なかなかにチャレンジングで楽しみです。おそらくは、50代で始まった純化がさらに極められ、洗練され、あるがままで満ちたりるようになっていくのかしらね。そうすれば、もう幸せである必要すらない、そんな概念いらない、ひいては自分すらも存在する必要がないって感じになって究極的には無になっていく。無になった時点で個=全、全宇宙=自分になっていくのかしらねー。仏教とかでよく言われてるじゃないのかな?梵我一如ですね。なんで死んだら「仏」になるのよ?というと、そういうメカじゃないかと。でもって、そこから先が多分まだあると思うのですよ。むしろそっから先のほうが本番だと。なんとなく直感的に。今はその準備やってるところで。

国も同じかもね

 書いてて思ったけど、これって国の年齢にも言えるかも。10年以上も前の話ですけど、日本の国民の平均年齢が46-7歳くらいとか?今はだから47-8歳くらいになってるのかな。50歳になるかどうかってくらい?オーストラリアは37歳くらいだったかな。でも、ベトナムとかインドなんか国民の平均年齢が20代だからもうイケイケ。日本も戦後直後は20代だったらしい。このくらいの時期は、仕事はリスクをおかすこと、趣味もリスクをおかすこと、主食もリスクでおやつもリスクってくらい、ヤバイことがしたいのよね、体力気力有り余ってるから、ヤバくて危険なことをしないと満足できない。バイクかっ飛ばして峠のコーナーを攻めるみたいな。ちんたら走ってられるかって。そのくらいでないと成長なんか出来ないっすよ。

 でも日本はそんな感じではないよね。なんとなく分かる気がするのは、日本が40代終わりで50歳に近付いているなら、集合的無意識みたいな社会の空気が、何をするにも「億劫さ」の方が先に立ったり、無事これ名馬的なコトナカレ主義になったり、いちいち「よっこらしょ」って掛け声かけないと椅子から立ち上がれないような。全体にヘタレてきている。

 しかしそれは悪いことばかりではない。いいこともある。油が抜けていって純粋に楽しむってベクトルになっていってるんじゃいですか?なんたらドリームみたいな、成功!出世!とかいう概念の胡散臭さというか、油っこさというか。人生の最高の理想が、豪邸に住んで庭の池には錦鯉を泳がせて〜って感じでもない。そんな面倒な迂回路を通らなくても、もっと簡単に充実ハッピーするんじゃないの?夜ぐっすり眠れて、ほっといても自然に早起きしてしまうくらい健康な生活とかさ、朝起きてサンダルつっかけて庭先に出たら、周囲の緑の「いま作りました〜」って新鮮な酸素が満ちてて、それを胸いっぱい吸い込んで、ちょっといい気分になれて。でもって会う人々の邪心のない笑顔とか。そんなんでいいんじゃないの?

 「ちょっといい気分」で別にええやん。「♪たくさん欲しいわけじゃない、ちょっぴり欲しいだけなんだ〜!」ってHigh-Lowsのマーシー(真島昌利氏)が歌ってたけど、そんな感じ。自分の私有地に錦鯉が泳いでいるよりも、そのへんの小川や海などみんなの公共の場所に魚がちゃんといる環境の方が豊かなんじゃないの?いや「豊か」とかいう貧乏臭い尺度すらもう要らないんじゃないの?

 「世界に冠たる日本」とか、別に「冠」なんかいらんし。あたま重いし、肩凝るし。大国でないとダメなの、首席でないと死んじゃうの?別にエクアドルとかカザフスタンの人達と同じでもええやん。そういう人らと「よう、元気?」って対等目線でつきあうのも悪いことじゃないよ。なんでそんなに他人を見下さないと気が済まないの?なんでもトップでないと満足できないって、考えてみたら幸福コスパ悪すぎ、頭悪すぎじゃない?と。思うのですが、いまはいい感じで油が抜けている最中かもしれないよ。そりゃ覇気はないですけど、でも、すごーく限られた局面だったら、昔取った杵柄で「競争」とかやるだろうし、競争のやり方も楽しみも覚えているけど、でももう昔みたいに全存在は賭けない。割り切ってスポーツ感覚、ゲーム感覚でやればいい。そんなのが時代の空気だと思うし、それは年相応の進化ともいえる。

 そこを肯定的に捉えられないから変な話になるのでしょう。50になってもまだ油ギッシュだったり、妙に若作り厚化粧してたり、あるいは童貞こじらせたり、ルサンチマンに凝り固まったり、「まーだそんなこと言ってるのか」的な勢力がおって、それが話をややこしくしているって気がしますねー。


中二病が必須過程である意味

 さて、中二病の話です。これは「反抗するのが仕事」である十代の話です。
 中二病の定義とか症例を言い出したら諸説あるでしょうから、ここでは簡単に僕の感覚で言います。このくらいの年になると(12-3歳、思春期の頃)、妙にこましゃくれてきて、サブカルにのめりこんだり、この世の「裏」を知ったかぶったり、小理屈こねまわして、「世間が馬鹿に見えて馬鹿に見えてしょーがない」って諸症状。

 なんでそう思うのかというと、まあ言ってみれば「大人への階段」で、それまでか弱く庇護されるしかなかったコドモから、だんだん身体も大きくなり、一人前になりつつある段階で、いったい自分はこの社会でどれほどのものかを知りたくなる。でもって、部分的には、そのへんの大人にも優るようになる。単純に部活でやってるスポーツとか、好きで掘り下げている趣味の領域とか。そうなると、これまで見上げるような存在だった大人たちが、それほど大したことないんじゃないか、自分って結構イケてるんじゃないかって気になる。背伸びしたいお年頃であると。

 客観的には、世間知らずのクソガキが勝手に思いあがってるだけなんだけど、それは第二次反抗期のように、自我が確立していく段階では必須の教程でもあると思います。エディプスコンプレックスとか、承認欲求の萌芽とか、なんかいろいろありますよね。ともあれ社会的自我の芽生えってことで、あんなことこんなこといろいろ考えるわけです。考えていくと、世間の大人たちのやってることが、どれもこれも「ばっかじゃねーの?」と思うくらい理不尽で不合理なのが見えてくる。周囲の頭の悪さというか、愚民性というか、馬鹿さ加減に年中ムカムカしているという。

批判的思考の練習

 この効用はデカいと思うのですよ。なぜって、この時期は自我を確立するのが仕事であり、その自我確立の表現の一つに、とりあえず周囲の物事への批判的検証という形になる。親とか教師から、○○しろとか、○○しちゃダメだとか言われて、なんでだよー?と理由を聴いても、要領を得ない。バイクに乗って通学してはいけない、なんで?といえば、「不良になるから」とか無茶苦茶な論理の飛躍を頭ごなしに押し付けられる。もっと自分が大人になって的確な言葉を覚えていけば、「それは親和性と因果関係を混同した立論であって、他に有力な補強的事実がなければ、直ちに首肯することはできない」とか言えるんだけど、そこまでの知能はないから、「ざけんじゃねーよ」という猿みたいな言い方になるわけですな。でも、そこでいろいろ考えることが、成熟した社会における構成メンバーとして最も大事な「批判的検証」をする訓練になります。なんせムカついてるくらいだから考えるパワーあるし。

 この通過儀礼を経ていないと、大人になったときに洗脳されやすくなる、騙されやすい従順な家畜になるというリスクがあると思う。極論かもしれないけど、適齢期における中二病患者の少ない国や民族は、ファシズムに染まりやすいし、批判勢力による適切なブレーキや軌道修正も行われないから、全員一丸となってイケイケ街道を驀進し、いずれ木っ端微塵になる。ファシズムって要するに国全体が中二病になってるわけで、それやって長続きした国はない。世界史上、もっとも長期にわたって安定した帝国はオスマントルコだけど、あそこは宗教の自由とマルチカルチャル多様性を容認していたからこそ保ったのだと思います。ともあれ皆で同じこと言ってる集団、違うことが言えない空気になってる集団は、遠からず痛い目にあうというのが歴史の示すところでしょう。

 余談ですが、悪賢い政府は、少年少女の中二病的性質を巧みに逆利用するんじゃないかなと思われるフシもあります。大人への反発感情はあるが、基本コドモだから騙されやすいこの年代をうまいこと利用して、大人たちを監視させる。ナチスにおけるヒトラーユーゲントとか、中国の文革のときの紅衛兵とか、遠くは平清盛が禿(かむろ)といって子供たちをスパイに使って、平氏の悪口いってる大人をチクらせたという話も聴いたことがあります(河童伝説の遠因の一つとも言われているとか)。

自我の確立

 第二に、自我とリンクして考えるから、このときくらい「自分の頭でものを考える」という作業をやることはないです。てか、ここで自分で考える癖をつけておかないと、年取ってからでは難しくなるんじゃないかな。この時期にやっとかんとアカンという意味では一種の英才教育ですな。でもって、この大事な時期に、ネットかなんかで見つけたどっかの誰かの言い回しをパクって満足しているようでは、将来性ヤバいっすよ。ムカついてるのは自分、割り食ってるのは他ならぬ自分なんだから、もっと自分に即したオリジナルなニュアンスってのがあるはずで、そこを大事にできなかったらダメでしょー。結局はA(親、教師)に従うか、B(どっかの誰か)に従うかであって、知的自立は果たされてないやん。

 また、親や世間を敵に廻してでも、これがやりたい!ってのがあるという体験は、その後に大きな財産になります。「せっかくこの世に生まれてきて、さて君は何がしたいのかね?」と言われたときに、「え?いや、べ、別に、、、」と口ごもらなくなる。それは将来の進路決定のときに大きな力になるだろうけど、本当のことをいえば30-40代くらいに一番役に立ちますよ。なぜなら20-30代くらいまでは世間の書いた筋書きとかルートを追ってるだけでいっぱいいっぱいで、そんなに「自分は何がしたいか」とか切羽詰まって考えなくても済む。でも、一段落したあとに来るんですよね、その問いかけが。どうにも納得できないとか、一生コレかよ?と思ってげんなりしたり、鬱になったり。あるいは目的を達成してしまったあとの茫漠たる空虚やら、離婚したあととか。「ああ、それでも人生は続くのであった」という切ない状況になるわけですよ。そのときの羅針盤になるのは、自分の「これがやりたい!」って内発的なものです。そしてそれは十代の頃の狂犬のようにジタバタ暴れてたときの想いが原型になると思いますから。僕も今から思うとかなり激しく中二病だったと思うから(笑)、弁護士やめてオーストラリアに何のアテもなく行くのも、決めるのはそんなに抵抗なかったですね。「おおー、ええやん、それ。おし、それいこ!」ってな感じで、なんでそこまで簡単だったのか?といえば、中二病時代の遺産があったからだと思います。

総合理解の前提準備として

 第三に、小賢しかろうが、屁理屈だろうが、一度徹底的に理屈っぽくなったり、理論武装するなりしておいて、そっからでしょ、「理屈で世の中(人間)動いてない」という実相を知るのは。人の世は、論理的な部分と非論理的な部分との二層構造になっていて、それをどれだけ把握できるかだと思うのですよ。「悪に強ければ善にも強し」って言うけど、一度理屈に強くなっておかないと、非論理の部分も正確に把握できないんじゃないかな。だから、大人になる通過点というか、まず中二病で十分に耕して、「下味」をつけておいて、それから本格的に調理に入ると。その観点でいえば、中二病には意味があると。

 いやあ当時も激しく思いましたが、世間の文化、シキタリとか慣習とか、およそ合理的じゃないですよね(笑)。

 例えば、よく思ったものですが、お正月になるとテレビでも「おめでとうございます〜!」とか言うわけですが、まあ挨拶なんかそんなもんなんだろうけど、こうも思考停止的に同じことを繰り返されると、その無批判性や盲従性にムカムカしてました。別に俺個人としては全然めでたい感なんか無いんだけどーとか、新年とかいってもまだ始まったばかりで、今年が本当にめでたくなるかどうかなんて終わってみないとわからんだろうが、今年死んでしまう人だって何十万人もいるわけだし、その人らにとってみたら人生最悪の一年が始まるわけだし、もしかしたら自分がそうかもしれないわけだし、どこがめでたいんじゃあ!とか思ったもんです(笑)。

 それはそれで一応理屈(屁理屈)なんだけど、そのくらいのレベルの疑問はやっぱ12−14歳くらいで一応履修済にしておくといい。なぜなら、そのあと「実はこういう意味があって」というのを考えられますからね。新年が慶賀すべき祝い事なのはなぜか?といえば、おそらくその昔は結構な確率で、新年未満で死んでたりしたと思うのですよ。旧暦の正月は、新暦と大体1ヶ月ちょい(年によって違うが)ズレてるから、今で言えば今で言えば2月上旬くらいでしょう。だから初春、新春とかいうわけです。その昔は、冬季は食べ物がなくなるし、前年不作だったら食い物がなくなる(種籾まで食べたら翌年餓死だし)。実際飢饉その他でバタバタ死んでた。その意味で厳しい冬もそろそろ終わり、なんとか生き延びられたぞというサバイバルの喜びはひとしおだったと思います。めでたいことなんだろう。それに冬季にかぎらず、天災やら、戦乱やら、疫病やら、昔はすぐに死んでましたので、1年死なずに生きていること自体すごいことだったのでしょう。逆に言えば、ぼっとしてても新年なんか時間がきたら来るわけで、めでたくもなんともないわって思ってること自体、生きることを舐めているというか、平和ボケしてるからそう感じるだけなんだってことなのでしょう。

 また、四季折々やら何かの節目を設けることは、生活にメリハリをもたらすし、いい刺激になります。時間なんか連続的につらなっているから、ほっといたらダラダラ〜とただただ過ぎていくだけ。それでも良さそうなものだけど、デメリットもあって、ダラダラやってると時期を失する。何も予定もない休日とか、朝からダラダラしてると、気づいたらもう日が傾いて夕方になって、なんもせんまま一日が終わった〜ってことがありますが、あれが人生レベルで起きるわけですな。だからタイム感ってのが大事だと思うのです。そのためには「あと30分で出発でーす」とかカウントしないとうまく物事が進まない。「年齢を数える」という習慣は大体どこの民族にもある。そろそろ一人前だとか、結婚適齢だとか、隠居だとか、カウントしてるからこそタイミングをはかれるわけでしょう。新年というのも同じで、年イチくらいで一周ラップを皆で確認しあってもいい。その意味では「一年たちましたね」「たちましたね」でもいいんだけど、いちいち言うのはうざったいので、「おめでとう」といういつもと違った挨拶をすることでリマインドしましょうねってことかもしれないです。

死後の世界や霊的なるもの

 他にも死後の世界の関する見解の不統一なんてのもありますな。
 死後の世界なんか無い、魂とか幽霊とか迷信じゃってのが、一応の公式見解なんですかね?世間の。死後の世界は絶対ある!幽霊はいる!と確言してる人がいたら、それは通説的見解というよりは、そういう見解を持ってる人(宗教とか)って見方がされます。そこまではいい。しかし、それならば、あのおびただしい宗教的儀式・設備はなんなんだ?ということになります。死後や霊が存在しない!のであるならば、仏壇なんかいらんし、お盆も法事もいらんでしょう。そもそも全国に山ほどある社寺仏閣なんか無駄の最たるものだから、ぶっ潰してマンションでも建てたら儲かるじゃないかと。ご先祖様にご報告をとか言っても、居ないもんに報告なんかしても無駄じゃん。

 これ、正確に言えば、死後の世界も霊も「いないけどいる」というどっちもアリ的な、非論理的な感覚なんでしょう。本気で信じているわけではないが、まるっぽシカトするのもなんか気がひける。もう少し精密に言えば、死後なんたらなんか所詮検証のしようがないことであり、論証不可能な事柄である。存在が証明されてもいないもの、それも現世の我々の日常感覚からかけ離れた存在を「ある」と断言するのは難しい。かといって絶対「ない」という証明もまたなされているわけでもないし、そもそも論証方法すらよくわからない。だとすれば「わからない」というのが正確なところであり、それを別の言葉でいえば「無いけどある」ということだろう。それは曖昧で非論理的なのではなくこの上なく論理的な表現とも言える。

 さて、その前提にたって、いかにすべきか?という実践方針の策定においては、場合分けをして考えればよく、死後云々があった場合と無かった場合それぞれに加えて、そのデメリットをも考慮する。例えば、死後や霊界があるという前提で、さらに壮大な仮説を構築し、個人の結婚とか就職の是非まで神のご託宣によって決する、政治すらも占いで決めるとかになったら、デメリットが大きすぎるからそれはやらない。そういう存在がある場合のデメリットが大きすぎる場合は「無い」ものとして行動する。しかし、そのデメリットが、せいぜい仏壇を置くとか、墓参りや初詣に行く程度だったら、それはやる。つまりデメリットの少ないことだったら「ある」という前提に立つ。クレバーというか、ご都合主義というか。

 また、リスクヘッジという観点もある。土木工事の際に地鎮祭をやったり、お岩さんの撮影をするときはお参りにいったりとか迷信バリバリの行為をするのも、あれは馬鹿で迷信を盲信してるからやってるわけではなく、万が一その種の祟りがあった場合を考え、その被害の大きさ(建設事故や撮影中止とか)を考え、他方ではその回避策のコストを考え、さらに漠然と確率を考え(わからんのだけど)、ま、こんなもんだろうという予算が出てきて、それの限りで執行してるのだと思います。地鎮祭がいくら掛かるか知らんので、今調べたら2万〜10万くらいみたいですね。一方、建物の総工費は少なくとも数百万はするだろうし、ビルになれば軽く億単位になる。だったらその程度の出費でリスク回避できるなら「買い」ではないかと。多分税金でも経費として落ちるだろうし、分譲価格に上乗せできるし。ま、保険に入るようなものですな。それにやらないと、あのマンションは地鎮祭をやってないので祟りがあるぞとかいう悪評を立てられるリスクもあり、売れ行きにも関わる。かくして種々の観点から総合的に勘案すればやったほうが得だと。

 もう一点、全然別な観点でいえば、仮に死後の世界がまったく存在しないとしても、ご先祖さんという先人が過去に実在したことは事実です。だって自分が存在する以上、誰かが産んでくれたわけだし(お母さんだけど)、さらにその先代が、先々代がいるわけで、それは日本書紀の天孫降臨なんて「最近」の出来事なんてレベルではなく、ネアンデルタール人の昔から連綿と続いてきた生命のバトンであるわけです。考えてみればドエライことで、人類発祥、いやそれ以前の人類以前のなにかから継承されている数億年レベルの財産が自分自身の命であり、それは厳然たる事実です。そういう生命の連鎖という全体像を折に触れて考えるもいい事だろうし、またそれをしないと視野が狭くなるよと。

 別の観点でいえば、例えば49日というのは、一段落して遺産分割の話をするのに丁度いいタイミングだというのもあります。本葬儀の席でそんなナマい話はしにくいのだけど、1ヶ月半くらいすれば、そろそろいいんじゃないか。事柄の性質上、家族親族全員せーので雁首揃えたところで話したほうが効率がいいので49日はあるとか。

古い革袋に新しい酒を入れる〜慣習リサイクル

 この種の物事はたくさんあります。てか殆ど全部そうだと言ってもいいかも。

 初詣はもう単純にレジャーであったり、家族や恋人団欒の場であったり。お盆は、行ったきり鉄砲玉の息子娘が帰ってきてくれる楽しみもある。つまり、本来の論理とは関係なく、全然別個の意味付けをすることは幾らでも可能であり、だからこそ存続しているのですね。なにも世の大人が知能程度が低いから、無批判にやってるわけではないのだと。

 これって要するに「古い革袋に新しい酒を入れる」って行為だと思います。シキタリや慣習は古いし、今の時代にはイレレバントで、完璧に時代遅れなんだけど、そこに新しい意味を付加して、再活用する。慣習リサイクルです。

 西欧のイースターは春の祭典という意味があるし、秋の収穫作業や打ち上げパーティ、さらに冬に備えて全員での準備のために秋祭りが行われるんだけど、それがハロウィンやサンクスギビング、日本だったら新嘗祭やら勤労感謝の日(サンクスギビングやね)だったりするわけですよね。

 クリスマスなんか典型的だけど、別にキリスト教徒じゃないくてもやってる。商業利用も大いにされてる。これは何も日本だけではなく、どこでもそう。バレンタインは日本では女性→男性の告白タイムだけど、オーストラリアでは「恋人の日」的に扱われ方をしていて、それでデート系の商業利用に活用されている。

 中二病的には、これらは全て大人の頭の悪さを示す例として感じられたりするんだけど、別に馬鹿じゃないのよね。理屈に合わないとか、矛盾しまくってんだけど、そんなの全然気にしない、理屈が通って無くても平然と無視できるのが大人のしたたかな強さであって、子供のうちはそれがわからん。分かる必要もないんだけど。

大人の非論理

 前にも書いたけど、夫婦関係においては「”解決しない”という解決の仕方もある」と。人間なんか矛盾のカタマリだし、自分自身からして矛盾しまくってるんですよね。激しく奔放に生きたい!とか思うくせに、心安らかな堅実な暮らしもいいよねとか思う。どっちなんだ?って思うけど、どっちも。

 Which one?ときかれて、"Both"って答える局面、それじゃ答になってないよって局面は世の中いくらでもあるし、自分に関するあらゆる物事が実はそうだったりします。銭金じゃねーんだよ、金より大事なことはある!と言い切ったあと、でもお金も大事だよねって小声でフォローするようなもので、どっちも大事なんですよね。それは理屈で「どっち?」と問うようなものではないと。

 理屈では割り切れない問題もある、、、というよりも、理屈で割り切れる物事などこの世に一つもない!と言い切ってもいいくらいです。理屈で割り切れる物事というのは、割り勘の計算とか、それほど大事ではない雑務処理みたいなレベルである場合が圧倒的に多く、大事なものごとになればなるほど理屈ではどうしようもない。

 例えば、そうですね、自衛隊は九条違反か?というのもそうです。尖閣諸島もそうかもしれない。あれって「解決しないという大人の解決」パターンだと思いますわ。僕も昔いろいろ考えて、あ、これ、理屈でやっちゃダメだなーと思った。理屈で考えたらどう見てもあれは「戦力」であり、「一切保持しない」という明文に反しているでしょう。自衛のためだから戦力ではないというのは中二病もびっくりの屁理屈です。それは裸で抱き合ってる不倫の現場を発見されながらも、「いや、これは抱き合ってるだけでセックスしてるわけじゃないから」と言い逃れを言ってるようなもんでしょ。でも、今となったら自衛隊を全部解体しろというのも非現実的だし(せめて「国民救助隊」とか言えばいいのにね、災害出動が多いんだし)、かといって明文で認めてしまったら(しようとしてるけど)、国際的の微妙なバランス感覚でいえば問題ある。ボス顔してあれこれ無茶いっているアメリカさんにも、「いや9条がありますから」「国民感情からして」とかいうのは現場ではすごい「防波堤」になってたし、言い訳になってたと思うのよね。だからアメリカはとっぱずたいんでしょ、パシリ利用しやすいように。

 都市開発におけるスラム街的なエリア、同和地区問題でも、下手に触ったら収集がつかなくなるのですね。本当はおかしいんだけど、今とりあえずバランスがとれているから、これ以上何をどう触ってもリアルな確率で今よりも確実に悪くなるとするなら、もう放置の方がいいと。北朝鮮の存在なんかもそうです。本気でぶっ潰したいなら、米中露が団結して核兵器300発くらいぶち込んだら皆殺しに出来るだろうけど、そんなことしても何のメリットもない。それよりも、ああいう「ワイルドカード」というかジョーカーみたいな存在は利用価値があるわけでしょ?国内がヤバくなると「あ、北朝鮮が!」とかいって話題逸らせるしさ、北朝鮮を真ん中におくことで、米中露のポーカーゲームやブラフも巧みに戦略かませるわけだしさ。それに北朝鮮を潰したところで2000万人の難民が出現するだけの話で、どこも国際的にカッコつけなきゃいけないわけで、支援とか難民受け入れとか金ばっか出てって何のメリットもない。貧乏な親族が破産して家に住まわすようなもので、そんなの誰もやりたくない。だから茶番のように非難したり、力んでみせたり、でもってほとぼり冷ましたり、有効利用してるんでしょ。

 そんな大きな話ではなく、自分の自宅だって、いい加減この名簿も整理しなきゃなーとか、古い家具とか押入れ満載のガラクタを整理しなきゃなーとか思いつつも、いざやりだしたら家中足の踏み場もなくなるし、一回やりだしたら最後までやらないとダメなんだけど、そんなことしてる時間的余裕はない。下手に中途半端にはじめて強制終了させたら、今以上に何がなんだかわからなくなる。つまり整理するメリットと、その後の破滅的なカオスを考えたら、せっかくの休日をぶっ潰してそんな事をする気にならない。だから、わかっちゃいるんだけどねー、これが中々ねーとかいう煮え切らない話になる。

 会社における使えない中高年の雇用もそうかもしれないですな。ガンガンとリストラかけたら、どうなるか?というと、多分、有能で使える人から先に辞めて出ていっちゃうのですな。ウチも長くないな―と。で、使えない人ほど頑強に居残ろうとする。それはそれで合理的な経済活動ですよね。麻雀やトランプと同じで誰もが自己利益の極大化を図る。それにボンボコ辞めさせたら、社会的な影響もある。お父さんリストラされたら、息子娘もニートやパラサイトで引きこもれなくなるし、親の介護なんかも資金的にできなくなる。その尻拭いは誰がするかといえば、一応国がやることになってるから、また失業保険、生活保護、なんだかんだで金がかかる。使えないお父さん一人雇ってるだけなら企業が給料分割食えばいいだけだけど、リストラすると一家5人分全員の面倒を国やらNPOやらいろいろ見ないといけなくなる。もちろんその分消費が低下するから、景気はさらに悪くなる。なので、国家の福祉予算を企業に肩代わりさせるような感じで使えないオジサンの給料払ってるんだと。それを若手からみると、めっちゃムカつくわけですけど、広い視野でいえばそれがベストだと(笑)。だって、雇用調整金とか、あれこれ国からも出てるんですよー。下手にリストラしてスリムになったら、今度はシルバー活用とか、一社あたり幾ら採用しろとか、それやらないと「次の入札でどうなるかわかってるんだろうな?」と暗黙に国にカツアゲされたりするかもしれないのですよ。使えない中高年リストラしたら、もっと使えない人材を受け入れさせられて、しかも社内の士気はぐちゃぐちゃだったら、何もしないほうがマシになるでしょう。

 原発や放射能もそうでしょう。あれ、実際にどのくらいかわからんけど、マジにやりだしたらそれこそ悪い話がばっと広まって、一気に首都圏の地価が崩壊するかもしれない。でもって日本の大企業は首都圏の自社物件の膨大な含み資産が信用になって生き延びているから、それが無くなると背骨を抜かれるに等しく、下手すりゃコケます。そこは会社によりけりだろうが、少なからぬ影響は被る。経済というのは津波みたいなものでどっかで一つ何か起きたら、めぐりめぐって伝播しますからね。だとしたら国民経済はかなりヤバくなる。放射能もヤバいけど、金のヤバさの方がリアルだし即効性あるし、それを考えたら、極端な話、二人に一人とか3人にひとりくらいなんか影響が出てとしても、それでも頑張ってシカトしてる方がトータルではマシだという凄い算盤勘定が出てくる。僕が為政者でもそうするかもね。小の虫を殺して大の虫を助けるのが政治の冷酷な側面でもあるし。まあ救命ボートで誰を海に蹴り落とすか問題です。答は大体いつも「運の悪い人」ですかね。

 世の中そんなもんばっかですよね。それをもって中二病的には「大人は汚い」って思うのでしょう。その通り、汚いですよー、もうドス汚いよね(笑)。でもね、それ以上の解決策があったらやってみ?って話もあるわけです。必死に考えて、何をどうやっても詰むんだったら、長考するふりをして破局を先延ばしにするとか、盤面ひっくりかえすとか、なんとか生き延びる方法を考えないといけない。理屈でスパーンと割り切ったら、その瞬間に即死するかもしれないし。

 でもそういったことを理解するためにも、理屈ではこうなるというのを一応やっておいた方がいい。てか、そこをやらないと非論理の微妙なバランス感覚がわからない。非論理な話を言ってるのに、論理的なことを言ってるかのように勘違いしてしまうという。

 ということで中二病にはかかっておけ、という話でした。大人の非論理を学ぶための前提としてね。

 もっとも中3になってもまだ中二病やってると知恵遅れですよね(笑)。まあ、そんな厳密に年齢区分があるわけでもないけど、ものには限度というものがある。20過ぎてまだやってたりすると、いい加減にしなさいってツッコミを入れられ、30過ぎてまだやってるとキモい存在になっていくでしょう。40過ぎて論破〜とか言ってると、もうちょっと、かける言葉もないなあ。


漫画紹介〜PART 5


 この二部構成(最後にコーナーを設ける構成)って結構やりやすいので当面ちんたら続けることにしよう。

★昭和人情系(つづき)

[柳内大樹] セブン☆スター
 これはヤンキー系でも良いのですが、設定が元ヤンだというだけで、内容的には昭和時代の下町人情話系かと。あ、この前作という位置づけになる「ギャングキング」が28巻もあるのだけど、こっちは未読です。機会があれば

 ま、カテゴライズする意味もないのですが、マンガにせよ映画にせよ、話の組み立てやら面白さの軸やらを考えると、(1)新キャラの魅力(またすげーのが出てきたな的な)、(2)勧善懲悪的カタルシス(チョーシこいてる悪党をボコボコにする快感)があると思います。この2つが入ってると人間は(少なくとも僕は)面白いと思うみたいですね。例えば、名作の北斗の拳は、1と2がふんだんに入ってました。あれは連載時にリアルタイムで読んでたんですが、ラオウとか初めて出てきたときは画力もあって感動モンでしたもん。でもって、弱い者いじめをしている悪党が激しくやられちゃうわけでスッとするという。1(キャラ)に特化してるのもあって、早い話がウルトラマンとかの怪獣モノです。あれはもう怪獣のキャラだけでもってるようなもの。2(悪党ボコ快感)に特化してるのは水戸黄門で、新キャラ的にはそう魅力はないのだが、憎々しげな悪党がぺしゃんこにつぶされてザマーミロ的にすっとする。

 ヤンキー系、格闘系もこの原則の範囲にあって、次々に魅力的な敵キャラがでてきたり、そこらへんの雑魚に格の違いを教えてやってスッとする的なのがありますよね。「セブンスター」もそれがあるのですが、敵キャラは大したことないです。一応フリーマンとかいるんだけど、あんまり魅力的じゃないかな、リアリティがないというか。どっちかというと味方キャラが増えていく(最初からいるけど徐々に明らかにされていく)という八犬伝パターン。でもって、ちょいちょい2のカタルシスがあるという。

 ただ、それら(キャラとカタルシス)には入り切らない部分=下町の幼馴染同士が大人になってもつるんで、何だかんだやってるまったりした日常風景、それがかったるいんだけど、でも悪くない。いい湯加減みたいな。ストーリーも何もないんだけど、叙情的な情景描写の良さです。

 思うに物事の面白さ・良さには、叙情的なものと叙事的なものがあって、前者は和歌俳句、風景画や街角の人々の写真。後者は、推理小説の論理整合性やら謎解きの知的興奮、上に述べたドラマツルギーの面白さ、新規性などです。音楽にもあるな。小説でも村上春樹は叙情的で、ストーリー展開よりも選び抜かれた言葉の並びと、それによって醸し出される上品な時空間に魅力があるし、そこが肌に合わない人には全然おもしろくないでしょう。これに対して同じ村上でも村上龍の方は叙事的で、本質は論文だと思います。主張があって理由付けがあって、それをわかりやすく説明するためにストーリーやキャラがあるという。春樹の方は叙情的な風景のなかに哲学的な思いを寓話的に忍ばせていくという。

 なんか話が大げさになっちゃったけど、セブンスターの魅力を考えているとこの叙情性かなって。ま、そんな凄い感じではないんですけど、ストーリー展開に必ずしも必要ではない、ただ飲んでくちゃべって喧嘩してって描写が多く、それが良かったりします。逆にいえば、ストーリーはそんなに強くないし、また、敵役のフリーマンが政界に進出して、主人公たちの愛する地元の築地市場をカジノにするとかいう対決構図もそんなに面白いものでもないのですね。9巻までいって話が止まってるんですけど、ちょっと暗礁に乗り上げている感じはしますな。

 絵柄はバガボンドの井上雄彦氏によく似てるので元アシスタントの人?とも思うのだが、定かではない。ギャグの間のとり方などもよく似てます。もっとも似てるからどうということも無いのだけど。

 あと、主人公がちょくちょくいい事言いますな。一種の不良の主張なんだけど、すごいまっとーな主張でもある。特に、「昔の人間が勝手に決めた常識も法律も従う気はない」「だから全部自分で決める」という部分は、今回のテーマと重複するのだけど、僕自身中二病の頃から思ってたことだし、今でもそう思います。レイプがなぜいけないのか?の理由付けの部分も、ほおなるほど〜と思ったりもします。ま、このキャラ設定で、このセリフ(言葉選びや論理性)が出て来るところがちょっと微妙だけど、そこはまあスルーしよう。

 ところで、こういうまっとーな主張や意見について、「名言」とかいって尊ぶ人もいるし、逆に「説教臭い」って嫌う人もいる。そこは好き好きですけど、僕が思うに「名言」ってTPOがあって、こういう人がこういうスチュで言うから意味を持つってコンテクストはあるんでしょうね。後者の「説教」ですけど、いい年してまだ説教臭いとかいう人もどうなの?って気もします。なんか無意識的に説教「される」立場に自分をおいているようで、その安易な被害者意識つか、楽なポジションをみつけようとする卑怯さ、そしていつまでコドモぶってるの?って部分。長い人生レンジでいえば、説教する時間とされる時間とでは、する方が何倍も長いでしょ。20代後半以降になれば逆転してるのが普通で、してなかったら「お前、今まで何やってたんだ?」ってことで、説教してあげるからそこにお座り(笑)。


 「セブンスター」と設定がよく似てるのが、タイトル通りの[山本隆一郎] 元ヤンです。もとヤンキーで鳴らしてたのが、”卒業”して、今は自動車教習所の教官をやってたり、警官になってたり、でもあまりの日常の理不尽さに昔の血が騒いで、、でも、まあそこはじっと我慢だったのだが、昔の仲間が何か大きな陰謀めいたことに巻き込まれ命を落とす、その遺志をついで、、という話なのですが、ちょっと微妙かも。だったら紹介するなよってことで、半分だけ紹介ね。

 なにが微妙かというと、大きな構図として、日本史をもじったような設定があるのですね、「平成の五大老」とか戦国時代とか、地名をいちいち紀伊、水戸、薩摩というとか、それがハマってればいいんだけど、ちょい浮いてる。さらに7つのアイテムが揃うと天下制覇という、ドラゴンボール的、八犬伝的な古典的な。でもって、昔の仲間がしょーもないダベリで盛り上がってる感じはいいんだけど、でも、そこはセブンスターの方がナチュラルかな〜。


 以下、次回予定。のんびりいこか〜

→書き残したタイトル一覧


季節モノということで。Calton駅前あたりです。


上と同じ場所

Arncliffeの駅前。マケドニア人が多いんだ〜(英語ではマ”セ”ドニア)。「ヒストリア」みたい。

新築マンションが大規模に林立するWolli Creekなんだけど、こういうエリアも残されていていい感じ

でも駅前はこんな感じ。まだまだガンガン建ててます


 



 文責:田村



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