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今週の一枚(2017/05/15)



Essay 825:実は80年代から「嘘(型)の時代」に入ってるという私見

 C/W 漫画紹介(4)

 写真は、シドニーのCentral駅直南にある公園(Prince Alfred Park)。日本でいえば東京駅の隣がこうなってるのと同じことで、それを考えたらのんびりした国だよなーと。
 先日、お訪ねいただいた方と話ししてて、出てきた話を発展させ書きます。
 こういうネタって他人と話してるときが一番よく出てきますよね。

仕事と勉強、本質と形骸

仕事で一番得意なのは就職面接

 話の発端は、「オージー仕事しない」といういつもアレですけど。
 その方はローカルのカフェで働いているのだけど、新しく同僚になったバイト仲間のスコティッシュとスペイン人(だっけな)が全然働かない。いい加減にしろ!って怒鳴りつけたくなるくらい、やらない、やる気がない、仕事を覚えようとしないわけで、毎日カリカリきているし、実際にも喧嘩になったりもする。なんであんなに働かないのだ。しかし、それとてバックパッカーのヨーロピアンでまだマシな部類であり、これが本家オージーになるとさらに凄いという。どうしてそこまで?と唖然とするくらい真面目に仕事しない。

 あ、一応注意しておきますけど、こんなの人次第で、オージーでも超有能な人もいます。実はライトパーソンにあたると凄く有能だし、日本でもトップクラスに有能な人達はたくさん見てきましたが、それ以上に有能かもしれない。でも、そうじゃない人もいる。そして、その数が日本人がなんとなく思うよりも多く、質も低い。まあ、このあたりは都市伝説とか、アネクドータル・エビデンス(町の噂、世間の通り評判)くらいで、大雑把に聞いて下さい。ホワイトカラーの生産性は実は日本が先進国中で最低だと言われてますし、頷ける部分もあります。だからそのあたりは一概に言えない。

 が、ここではその真贋を論議するつもり無いです。そういう場面に出くわした人がいると。それが全体を象徴するスタンダードなのか、特殊な例外なのかはともかく、そういう実例があったと。そして、何がテーマになるかというと、彼らは、仕事を真面目にやらないことを悪いことだと思ってないということです。いや、人の内心はわかりませんしね、本当は悪いと思ってるのかもしれないけど、それでも日本人の平均的な視線でみれば、悪いと思ってるような態度や言動ではない、思ってたらもう少しなんか違ってくるんじゃないかと。

 もう一点あります。そんなに真面目に仕事しないくせに、CV(履歴書)やジョブインタビューだけは見事なんですよね。面接の達人ってありますけど、もう皆が超達人レベルって感じで、「よくもまあ」って感じ。まさに立て板に水を流すように。それはもはや立派な「弁論」といっていいくらい自分を売り込むプレゼンテーションをする。その方は幾度かそれを見る機会があって「は〜!」と感動していたそうです。すごいんだわ。

 で、結局、彼らが仕事に関する領域で何が一番優秀かといえば就活技術だという。職を得るまで何百件でもマシンのように繰り返せる不撓不屈のパワー、美しい履歴書、そして芸術のような自画自賛プレゼン。本来の職域のスキルよりも何よりも、それが一番突出しているんじゃないか?と。で、職を得るだけ得たら、あとは全力でサボることを考え、実践すると。

 なんじゃそりゃあ!って感じなんですけど、ちょっと前に「世界大嘘祭り」のポスト真実時代を書きましたが、就活だけ上手だってことは、要するに「全力で嘘をつく」ってことであり、嘘つきこそが本体活動ではないかと、政治のポスト真実もなにも庶民レベルでは昔っから嘘ばっかついてるじゃないかと。これでいいのか?と。

でも、日本人も同じ

 で、こっからが話の核心なのですが、それでもいいのかもねーってことです。

 だって、ちょっと視点をズラしたら日本人だって同じことやってるじゃないですか?何を言ってるかといえば、大学と大学入試です。

 日本の大学生の最高の知的スキルはなにか?といえば「入試」「受験」ではないでしょうか?そこはもう死ぬほど頑張る。だから日本の受験生(特に難関校に挑む人達)の必死度やレベルは世界でも引けはとらないでしょう。が!入ってしまったら、勉強しない。もう世界的にみても、ぜ〜んぜんやらない。代返頼んだり、ノート写させてもらったり、昔っからそうよね。

 ね、同じじゃん。
 「入るときだけ一生懸命」「入ったら手のひら返したようにやらない」のは日本の大学も、オーストラリアの仕事も同じじゃないですか。さらに、手のひら返したようにやらないことを、「別に悪いと思ってない」という点も同じでしょう?

 僕はたまたま司法試験をやってたので大学時代は超勉強してましたよ、人間やめるくらい。しかし、それも三回生からの話で、1〜2回生のときはご多分に漏れず遊び呆けてました。必死になってやってた時期の自分からみれば、他の学部の学生(=昔の自分)は、実力において赤子レベル、いや犬猫レベルくらい差がありました。甲子園優勝を狙ってる野球部のレギュラーが、普通の体育の授業でソフトボールやってるくらいの感じ。本気でやる/やらないというのは、そのくらい巨大な差がつく。

 ということで、普通の日本の大学生はそんなに勉強してない。僕自身やってない時期があるから、それは分かる。実際、誰に聞いても「いやあ、勉強しなかったなー」とか言いますもんね。理系はまだマシだけど、文系は特にやらないですね。そして勉強しなかったことを心底後悔しているとか、恥ずかしいとか思っておらず、「はははー、遊んでばっかでしたから」と、ちょっと誇らしげですらある。一応は「もうちょっと真面目にやっときゃ良かったなー」とは言うんだけど、まあ多分、百回生まれ変わってもやらないでしょう(笑)。

 そして、別にそれで(遊んでいて)いいんですよね。僕自身、今から思えば遊び人時代(1−2回生)の蓄積の方が人生的には意味あるし。例えば、親元離れて一人暮らしで、金銭感覚その他の生活技術(自炊など)を身に着けたとか、今でいうシェアハウスにような共同生活の面白さとか(他人の部屋でも勝手に入ってたもんなー、鍵なんかかけてなかったし)、女の子との付き合い方のイロハであるとか、ギターやバンドであるとか、バイトであるとか、シモネタ馬鹿話から高邁な哲学論までの話題や話し方のあれこれとか、全部遊んでる時期に学んだことです。それがその後の人生でどれだけ役に立ったか。

 これをオージーその他世界の真面目に働かない人々に当てはめて考えたらいいわけです。
 「真面目にやらない」といっても、入社後の仕事に関してだけであり、就活時のノウハウについては高い技術を持ってるわけだし、真剣にやるわけです。そして、真面目に働かない(彼らにとってはそのレベルが「真面目」なのかもしれないが)といっても、そんなの広い人生局面の一部分しか過ぎないわけで、ほかにも自己を表現したり、自分が成長したりするフィールドは山ほどあるわけです。何も人間修養や生き甲斐は、「すべて仕事を通じてやらねばならない」という法律があるわけでもないし、そういう教義の宗教があるわけでもない。

 日本人における小学校から大学までの「勉強」だってその程度のレベルであり、大事なのは節目・連結における「乗り換え」だけでしょ?つまり中学生においては高校入試、高校生においては大学入試、大学生においては就活という結節点での活動こそが大事であり、逆に言えばそれだけだと。小田急線に乗って新宿駅で丸ノ内線に乗り換えるとか、丸ノ内線で東京駅まで着いたときにまた乗り換えて成田空港に行くとか大阪にいくとか、、、その「乗り換え」こそが大事であり、乗り換え時において有利になるように勉強はしますが、あくまでその程度。途中の電車乗ってる時間は、ただ乗ってるだけで、真剣に乗ることに打ち込んでるわけではない(笑)。つまり勉強それ自体に価値があるから真剣にやるってものではない。

勉強 VS 仕事

 ねえ、これまで人生ずーっとそれでやってきたのに、なんで仕事になると打って変わって仕事それ自体が価値を持つかのように思うの?おかしいじゃん。そんなの勘違いだって、誰かに洗脳されてるんじゃないのー?学生時代は遊んでて、必死で勉強してるやつをガリ勉とかいって馬鹿にしてたのにさ、仕事になると必死に仕事してる人を「ガリ仕事」とか言わないじゃん。なんで?就職を期に心を入れ替えたの?まさか。

 これは論理的にも実戦的に変ですよ。論理的っていうのは、勉強と仕事とどちらが価値があるか論で、普通は「どちらも」でしょう。勉強だって意味ありますよ。なんせ人類の先哲、各時代の天才達が一生を捧げて人類の共有資産である「知」を積み上げてきたわけで、それを後進のものが学ぶというのはとても価値のある営みだと思いますよ。また聞きかじりの一口知識ではなく、一つの領域を体系的にマスターするのは、その人の知的器量を広げ、さらに人間的な器すらも広げる。一方仕事はどうかといえば、他の人達のために期待されている水準の仕事をこなすのは、人間社会のイチメンバーとして基本的な役割でしょう。グランドに立っているサッカーのプレーヤーが、パスが飛んできたらきちんと受けて、また次のステップのためにパスを繋ぐことは、一人前のプレーヤーとして最低限の義務でしょう。価値あるよね。どちらが上とかいう問題ではない。

 あるいは人類の知の遺産なんてレベルではなく、またエキサイティングな知的興奮もないまま、単なるベタ暗記、受験のためのくだらないノウハウの勉強なんか、およそ価値がないとも言えます。一方で、偽装表示とかぼったくりとか、知らないうちに手数料を5%上げて広く薄く集金するみたいな活動が、「一生の仕事」たる名に値するのか?そんなの形を変えた詐欺や窃盗みたいなもんじゃないのか?って見方も出来ます。どっかの強欲な資本家のために、ろくでもないものを美しい言葉とビジュアルで飾って高く売りつける行為のどこに人としての尊厳を全うしうるような実質があるか?高貴な人間性が表現されているのか?

 つまり、プラスにもマイナスにもどちらにも言えるし、どちらもリアルには正しい。でも少なくとも、どちらがどちらに優越するということは無いでしょう?議論の余地なく仕事が優越するという根拠はないはずです。

 実戦的に変というのは、昔の日本人の方が真面目に仕事しなかったからです。植木等のサラリーマンは気楽な稼業と歌ったように、東海林さだおのサラリーマン漫画の主人公が常に仕事が出来ずにサボってばっかだったり、サザエさんのマスオさんだって企業戦士っぽくないし、あれが昭和のサラリーマンの普通の姿だったと思いますよ。そりゃ、モーレツ社員とかやってましたけど、あれって今から思うに、仕事だからやってるというよりは、「面白いから」やってたんでしょう?実際、作ったそばからどんどん売れるし、大したことしてなくてもどんどん出世するしで、そりゃ面白いですよ。ビッグバン直後の宇宙のように急速に空間が拡大してるから、何もして無くても勝手に広がってくれて結果が出るから、それで自分は大したものだ、一流のビジネスマンだとか錯覚できたんだから、そりゃあ気持ちいいですよ。だから頑張ってた、それだけでしょ。もし本当に皆が一流だったらバブル崩壊後のウダウダ惨状は無かったはずですよ。今だったら初任給60万円くらいいってないと嘘ですわ。同じ期間をつかってオーストラリアはそれができているんだから出来ないはずはないよ。オーストラリアごときに出来て、日本に出来ないのはなぜかといえば、だからそれが正味の実力だってことでしょう。

日本における「嘘の時代」

 基本真面目に仕事なんかやってなかったんだと僕は思うわ。面白くないことは全力でサボろうとするのが人の本質だし、別にそれでいいのだと思う。ただ仕事をする「ふり」(形)だけは年々巧くなってるというか、型それ自体に価値があるようになってるというか、それは感じるのですよ。

 なんで後の世代にそのこと(サラリーマンとはサボるものと見つけたり的な)を伝えないのか?僕はそれが不思議なんですよー。仕事なんて、画家が渾身の力作を描きあげるような場合は別にして、命令されて給与を貰う程度のレベルの仕事であるなら、それはガッコの勉強と同じで、大したこたあ無いんだよと。あんなもん、できようが出来まいが気にするこたあねーぞ、もっと大事なことがあんだろ?と。

 一方、80年代後半から90年代にかけて、大学生が真面目に勉強するようになった。先輩達のように、デモやったりハンストやったりフーリガンみたいなドンパチを楽しむでもなし、愛欲に爛れた(笑)同棲生活とか、親から勘当されてどうのとか、朝から晩まで麻雀やってとか。僕の大学の先輩も中学の頃から家出してたとか、あるいは一回生の頃から祇園の女のところに転がり込んでパチンコやって食ってたとか(今では京都弁護士会の大物になってるだろうけど)、豪傑君が多かった。僕らの世代なんか彼ら野武士集団からみたら既に小心翼々たる羊さんだった。それでも学部の8割は留年し、下手に就職なんぞしようものなら「この小市民が」と言われた。それがどんどん森の小動物化して、真面目に講義に出るようになった。最近みんな講義でてるみたいよって聞いて、え?と思った。受験をするわけでもないのになんで出るの?意味ないじゃんって不思議だった。そのくせ、学力や知的能力は下がる一方で、2000年頃だったかな、東大のセンセが今の東大生は80年代(僕らの頃)の明治大学レベルとかいってて、あれからまた十数年、どこまで下がったんだろ?と。子供の頃から塾やらなんやら勉強時間だけはやたら増えてるんだろうけど、でも全然モノ知らんし、抽象的思考能力も怪しい。なんで?と思う。

 それと歩調を同じくして、仕事も真面目にやるものになったですよね。

 僕の私見は、このあたり(80年代)から日本は巨大な「嘘の時代」に突入したというもので、勉強する「ふり」だけ、真剣に仕事をする「形」だけが独り歩きして実質を考えないようになった=「形を整える」ことに意味が置かれ実質は等閑視されるようになったと思います。思えばバブル時代もそうで、「24時間戦えますか?」のリゲイン(健康飲料)のCMが流行ったけど、24時間戦ってるという「形」が重視され、それっぽく見えたらそれでいいという。武道でいえば「型」ばっかになったと思う。

 一点付言すると、これは世代の問題ではないです。時代の問題だと思う。若い世代だけがヘタレてるわけではなく、社会全体でヘタれてきたんだと。生きるか死ぬか、文字通り「必死」」でやってた戦後の熱気や馬鹿パワーが一段落して、もはや戦後ではないとか言われてきてからおかしくなったんでしょうねー。ほっと一息ついて、誇らしげに自分らを感じるようになってから、パワーが落ちるのは無理からぬところです。自転車でも一回スピードを落として、また上げるのはペダルが重くてしんどくなるように、一回でも気を抜いたらもうあかんね。あとは自己模倣になっちゃう。売れたミュージシャンが、そこから先に進むのがすごく難しくなって、結局は自己模倣になっちゃうのと似てて、緊張の糸が切れたら、もっかいつなぐのは容易ではない。だから社会全体でヘタレ化していっただけだと思います。ま、それはそれで順当に人間らしいことなんだけど。

江戸時代の武士道

 でもって既視感があるのは、歴史上似たようなことはあったよなと。例えば武士道や武士の存在価値です。武士道とか葉隠とかいい出したのは平和な江戸時代であって、だいたい「道」とかいってカッコつけだした時点で、草創黎明期のパワーはもうないよね。武士が純粋に「プロの人殺し」であった戦国時代、忠義もクソもなかったし、今の西欧流の就職といっしょで、待遇が悪かったらさっさと主君を変えて転職していた。そのためのCV(履歴書)に書けるように論功行賞が重視され、いちいち紙に書いてどういう手柄を立てたかというリファレンスレターを書いてもらっていた。「某(それがし)○○家において忠勤相勤め、感状(そう呼んだらしい)○枚を所持致し候」とかカバーレター書いてたらしいじゃないですか?そして、ちゃんとリファンレスレターを書いてもらうため、正しく年俸アップしてもらうために、戦場の殺し合いで誰かを殺したら、わざわざ手間ヒマかけて首切って、キュッっと捻って頚椎をポッキンと切って生首を切り離し(その作法も習ってたらしい)、何個も生首を腰に巻き付けてやってたという。人の生首って一個で数キロあるらしいから、動きにくいだろうし、疲れるだろうし、そもそも戦場の全体からしたら、そんなことやってるヒマがあったら戦えよてなもんだけど、でもやってたらしい。風景を想像すると、凄惨でもあるし、ちょっと滑稽でもあるよね。ということは、忠義もなにもなく、要は自分が出世するかどうかだけがテーマであり、戦場なんかそのための草刈り場でしかなかったってことでしょう。

 それが江戸時代になって、人殺しなんか滅多にやらなくなってからでしょ、武士道とか、武士とはとか、高邁な倫理や能書き垂れるようになったのは。形が武士っぽく見えたらいいんだわ、内実はともかく。リアルな合戦なんか一生に一度あるかないか、それどころか真剣での斬り合い自体がなくなるほどに、その種のゴタクや形式論が磨かれていった。

 80年代以降の日本の勉強も仕事も、そしてその統合体である人生も、形だけになったような気がします。言い方を変えたら、「嘘(虚構、形)で始まって嘘で終わる」という、武道における「礼に始まり礼に終わる」みたいな感じね。

 そんな「形」重視であるならば、そりゃオージーその他の仕事ぶりがダメにみえるでしょう。茶道の作法のように思ってるから、あれがなってない、ここで気がきないとかアラばっか目につく。でも、そもそもなんで仕事やってるの?それが自分の人生表現だとするなら、そういう表現をしたいの?その仕事は自分を100%表現するようなものなの?という根本的なところはスルーですよね。「殺し合いもないのに、刀振り回しても意味ないんじゃ、、」とか江戸時代には口が裂けても言えないような、考えないような感じ。

 要は金さえ入ればいいんだったら、そして純粋に(資本主義の権化になって)ビジネスマインドを貫けば、コスパ最大効率の法則で、いかに労力を使わず(サボって)、いかに最大効果(給料)をゲットするかが基本方針になるべきで、そんなことも出来ない、わかってない奴がビジネスを語るなど笑止千万とも言えるわけですよ。

原理と倫理、本質と形骸

 一方、勤労の美徳はありますよ、英語にだって "work ethic"って言葉があるくらいだから、額に汗して働くことは尊いことです。それは全然否定しない。だけど、それは仕事だから尊いのではなく、一個の人間が真摯になにかに打ち込んでいるからこそ尊いのでしょ?また、仕事だから無条件に素晴らしいわけではなく、仕事を通じて成し遂げようと思っている目的(多くの人々の幸せを創造する)こそが尊いのでしょ?つまり、尊さの源泉にあるのは、素敵な人間性であって、仕事そのものはイチ表現形態でしかない。また仕事こそが唯一の表現ツールであるわけでもないし、親子家族、友情、コミュニティ、真理への探求、限界への挑戦、、、いっくらでもある。

 倫理というのは、平たい言葉で言い直せば、「より素敵な自分になろうとすること」だと思います。そんなのあらゆる局面で考えられることであり、仕事に限らず、ペットの世話をしてようが、セックスをしてようが、公園を散歩してようが、いかなる局面でも観念できます。飽きたからといってペットをネグレクトしてはならないとか、信じてくれているパートナーを裏切るのはよくないことだとか、ゴミはちゃんとゴミ箱に入れようとか、「こうした方がいいんじゃないか」と思うこと、実行すること、その全てが倫理であるとも言える。だから勤労だけが突出してるわけではない。

 だとすれば、勤労だけに倫理の比重が傾いているのはトータルではバランスが悪い気がする。のみならず何かを見過ごしているんじゃないか。何を言ってるかといえば、仕事をしてる形は満点なんだけど、本質的な意味では全然仕事をしてないのかもしれない。勉強をしているフリだけは一人前なんだけど、でも全然身についてないんじゃないかとか。

 例えば、なんでカイシャで仕事するの?といえば、人類がこれまで築き上げてきた高度な分業社会、それを維持し、さらに発展させること、究極的には人々がより豊かに、より幸せに暮らせるためにやってるのではないのか?その意味でいえば、他人の幸せを創造しない行為を「仕事」と呼んではいけないのではないか?その観点からして、本当にこれをやる必要があるのか?と。仕事に倫理や価値をからめて考えるのならば、それが原点であるべきでしょう。そしてその原点は、毎日確認される必要がある。ついつい惰性に流れ、形骸化しますからねー。でも、そんなレベルで胸張って仕事だといえるだけのものがどれだけあるのか、多くは生計のための金銭獲得活動でしかないし、企業の存続理由もまたそれだけになってる場合もある。

 勉強においても同じで、それを学ぶことで、いったい君の人間性はどれだけ豊かになったのか?それは常に検証されるべきじゃないすか。形だけ学んでも本質を学ばなかったら意味がない。もし法学士の称号に相応しい実質を備えたいなら、法学とは苦悩の学問、悩みの世界であって、あちらを立てればこちらが立たず、どちらかを犠牲にしてどちらかを救いという切ないことをする学問です。長い目でみて「泣いて馬謖を斬る」的な、断腸の思いで何かを決断する行為であり、法解釈学の利益衡量というのはそれであると。司法試験でもダメ答案は「悩みのない答案」と言われていたけど、それが本質。命がけでなにかを判断する、そのために逆恨みされて殺されるかもしれないけど、それでも断固として、自分の全存在をかけて何を決めること、その覚悟こそが法学の本質なんだけど、そこまで辿り着いてる学生がどれだけいるというのか?

 だもんで形ばっか、嘘ばっかと思うわけっす。80年代以前の日本人はもっと正直だったですけどねー。つまらん仕事をサボる、面白くない勉強はしない、だけど人生や哲学については超青臭く、つかみ合いの喧嘩をしてまで論じてた。また何が楽しいか、何をやりたいかは、今に比べればかなりはっきりわかってた。だって「形」が今ほど明確ではなかった。だから自由に考えられたし、自由に考える以外にやりようもなかった。ある意味では幸福な時期ですよね。

 僕の場合は、軽薄になっていった80年代にガチに受験なんかやってたもんで(しかも世間の番外地のようなロックなんぞもやってたし)、日本のメインストリームから外れていたのであんまり影響受けずに済んだのでしょう。ラッキーと言えばそう。そして、その余熱が冷めないまま、最近の日本はクソ詰まらんわ〜で90年代前半に海外に行っちゃったんで、タイムカプセルで保存されている昔の状態なんでしょう。ただ、それだけに普遍性はあるのかもしれない。仕事柄、十代から70代以上の人と喋るけど特に違和感を覚えないし、国や民族が違う人とも別にそんなに何が違うとも思わん。多分、それは僕のなかに「形」がないからじゃないかなー。ただそれだけのことだと。

 ほんとはもっともっと喋ってたんだけど、長くなったのでこのくらいにしとこ。


漫画紹介〜PART 4

 予期されたことではあるが、だんだん紹介が面白くなってきて、気合が入ってきて、そうなると書く前に一度全部読み返して、、とか暴挙をやろうしたりして。で、面白くなってまた読みふけってしまったりして、、、時間が全然足りなくなっております。馬鹿か、俺は。ということで、少量づづぼちぼちいこ。

★昭和人情系

[たなか亜希夫×ひじかた憂峰] リバースエッジ 大川端探偵社
 これは、なんか昭和時代の古き良きテレビドラマみたいですね。って、実際にもテレビ番組になってるらしいのですが(マンガ連載は2007年からで、テレビは2014年らしい)。

 しっかし、連載している雑誌が「漫画ゴラク」ですからね。ジャンプやマガジンのような少年誌、ヤンジャンのような青年誌でもない、「大人誌」みたいな、濃ゆい漫画が載ってる雑誌です。青年誌がキャバクラだったら、ピンサロみたいな(笑)。

 で、この漫画も濃いんですけど、でもあっさり風味。どっちなんだ?って感じだけど、いや、絵柄やキャラやテーマは濃いんですよ。「萌え」の対極にあるような。いわゆるマンガ的な美男美女が出てこない代わりに、人生「いろいろあった」年輪が深く刻まれているような中高年がメインに出てくる。

 でもってテーマになるのが「いろいろ」な人生模様なんだけど、感じが似てるのが弘兼憲史(課長島耕作描いた人ね)の「人間交差点」です。あれも味わい深い作品集なんだけど、あれが映画とか文学風に仕上げているのに対して、このリバースエッジは落語風に仕上げているというか、もうちょい軽妙洒脱なのですね。内容的には、リバースの方が、アンダーグラウンドや社会の片隅系が多く、ダーク&ディープなんだけど、だからこそ出てくる人間の巧まざるペーソス(哀感)と可愛げがダシになっている。

 もっともっとドロドロした方向に持っていくことは出来るんだろうけど、そこは大人の度量みたいな感じで、軽く仕上げて深追いしない。濃い素材を使ってあっさり仕上げている。したがって読み味が薄いと感じる人もいるだろうし、「え、これで終わり」「それがどうした」って感想を抱く人もいるだろうと思う。でも、僕は、その薄い味付けが好きですねー。けっこう悲惨でディープな話なんだけど、「悲しいよなあ、人間」的に受け止めつつも、そっとしておく感じね。

 あと、ここから先は詮索しないのが人としての仁義であるとか、裏街道の情報網とか、どこから先が手に負えなくなるので触ってはいけないボーダーなのかとか、そこは結構読ませます。僕のしょぼい実経験に照らしても、かなり当たってるような。

 トータルでいえば、これは「人間賛歌」なんだと思います。いろいろワケありな人達が出てくるし、変だったり、ダメだったりするんだけど、変でダメであるからこその健気さ、人間というものの業の深さ、それゆえの可愛さ。ベーシックには人間をすごく肯定してて、それが読後感の爽やかさにつながっていきます。結局はどこかしら美談なのですね。人間の立派さや気高さゆえの人間愛ではなく、ダメダメだからこその人間愛という。

 舞台が東京の下町ということもあるのか、江戸前の味付け。蕎麦の食い方みたいに、濃厚なつゆなんだけど、べったり浸すことはせず、ちょっとだけ漬けて、ズルルっと一気に食べる。濃いけどあっさり、というのはそういうニュアンスです。考えさせられるセリフがかなり多いので、選んでたら捨てきれなくなってしまって、ちょい多めに。

 


[あずみきし] 死役所
 舞台設定が秀逸で、死んだあとに天国行くか地獄にいくかの行政手続をする「シ役所」。本当の役所のノリで、「他殺課」とか「老衰課」とかあり、死んだばかりの人は総合案内で管轄の課にいき「成仏申請書」を提出するという。カウンターでの言葉遣いや、デスクの配置の感じなんかもいかにも市役所。ただし、そこで働く職員は死刑執行によって死んだ人がなるというのが、ちょっと変わってます。

 「お客様は仏様です」というキャッチフレーズのシ村さんが主人公なのだが、本当に主役は毎回登場する「死んだばかりの人」であり、その人達の人生そのものです。だから市役所云々は設定に過ぎないのですが、この舞台設定が秀逸だな〜と思ったのは、単に新しい思いつきだからではないです。登場人物はほぼ全員死者ですから、当然、話もヘビーになります。ネタのディープさや悲惨さでは、上のリバースの比ではないかもしれない。なんせ人が死んでるわけですからね。しかし、既に死んでしまっている死者目線で話が進むので、それが淡々と語られ、過度に重くならないのですね。「まあ、今更言ってもしょうがないんだけど」みたいな。

 そして死者目線であるからこそ、生きてきた軌跡をクールに見直すことが出来る。(もう死んでるから)死に対する遠慮がない分、僕ら生者の見方よりも、半歩突っ込んで考えられる。またあくまでも役所ノリで話が進行しているというすっとぼけた要素もあるので、無意識的に考えるのを避けがちなことも、わりと考えやすいように出来ている。つまりは口当たりがいいんですよね。

 ヘビーな話というのは、例えば、幼児虐待で死んでしまった可愛い女の子であったり、いじめによって自殺した子供であったり、逆恨みの犯行で殺された人、単に事故死だったのに生前に悩んでいたので自殺と思われてしまってる人であったり。一方、シ村さんほか、職員の人達はみな死刑を執行されて死んだ人ばかりという設定で、なぜ死刑にまでなったのか?という物語があります。

 特にイシマさんというおっちゃんの話は泣かせます。身寄りのない姪っ子を引取り実の娘のように可愛がっていたのだが、あるとき帰ってきたら、その姪っ子が二人の少年に強姦されていた。助け出すのだけど、このことでまた姪が脅迫されたりするのを案じて、その二人の少年を殺して埋めてしまう。後日死体が発見されて逮捕されたのだが、姪の名誉を慮って真実を話さず、単にカッとなって殺したとかいう言い方で通す。だもんで極めて残虐と非難され死刑になってしまう。それでも姪のために本当のことは喋らず死刑執行される。シ役所で働くようになってしばらくして、天寿を全うした姪っ子が認知症のおばあちゃんになってやってきた。認知症でも過去のことはよく覚えているから、また昔のように再会して、、という話です。悲しいけど、いい話なんだよね。

 主役のシ村さんは、いつも大きなスマイル口をしてるのだけど、二回だけヒヤリとした目で見るときがあって、そのときに素顔が垣間見れる。そしてもう7巻になるんだけど、どういう経緯で死刑になったのかは明らかにされず、もしかして冤罪で死刑になり、それを自ら受け入れたかのような示唆もあり、過去のディープさはやっぱ一番深そう。

 そのあたりの謎解き要素もあるんだけど、95%は、やっぱり人の人生のあこれこれですね。ああ、死んでいくってこういうことなんかなーという妙なリアルさもあります。なんで死んだのか本人もよく思い出せなかったりとか、急性アル中で死んだりしたら、そういう死に方だけはしたくなかったと後悔したりとか。そのあたりはちょっと考えさせられますね。

  物語の最後に、その人の人生走馬灯のように過去のアルバム写真が数葉あるのですが、その構図とか状況とか、よく見えると実によく描かれていて、相当時間かかったんじゃないかなーって思います。シンプルな絵柄なんだけど。ちなみに単行本巻末の著者の日常をあれこれ描いたおまけ漫画があるんだけど、これが可愛くて、面白いです。


 

 長くなったんで、二本くらいでいいか。



 以下、次回予定。

→書き残したタイトル一覧



 



 文責:田村



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