★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
821 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2017/04/17)



Essay 821:書く快感

 C/W 最新のオーストラリア採用現場の記事

 写真はCoogee Beach
 このイースター連休、お天気にも恵まれたこともあって、暇見つけてぶらりと行ってきました。家の前から370番バスで一本でいけるのですね。

 このトビラ写真ですが、サーファーさんに言わせるとクージーはダメだそうですけど(実際やってる人はいなかったような)、それでも結構波がありますね。でもって、4月(日本では10月)でもまだ海に入れます。てか入ってるでしょ。まあ、あの人達は真冬でも入るけど、でも水温は気温変動よりも遅れますから。

 しかし、まあ、すごい人出。これまで雨ばっかでうんざりしてたし、連休だし、外国人観光客山盛りだし(日本だけではないのよ)。

 比較的人の少ない方向へと歩いてきました。Coogee〜Bronte cliif walkです。ブロンティからボンダイまでの遊歩道はメジャーだけど、クージー→ゴードンベイ→クロバリー→ブロンティのルートはそれほどでもない。でもいいです。ちょっと距離が長いけど。

今回はだらだら喋り

 今週はどうしましょうねえ。
 また日曜がきて、821回目のオツトメです。なんか書かなきゃ。いや、書くネタはいくらでもあります。でもなんか気がのらないので、今日は、昔の深夜ラジオのDJみたいな、いわゆる普通の随筆っぽくします。

 まず、ネタがあるのに書かないのはなぜか?ですが、自分で飽きたからです。ある程度カチッとしたテーマは、頭のなかでガムのようにくちゃくちゃ噛んでるわけですが、ガムのようにだんだん味が抜けてきて、いざ書く段になると「また、この話か」という。「また」もなにもこれから初めて書くんだけど、自分的には飽きているという。

 一番ノリがいいのは、書いてるうちに次々に書きたいことが思いついて、いわゆる「筆が伸びる」という状態です。実際に書くまでは何を書こうか決めておらず、なんだかんだ書いているうちに「そういえば」「ちなみに」で話が分岐していってふくらんでいく場合です。

 これ、普通の雑談と同じですよね。雑談だって、最初から「今日の世間話のテーマは」とか考えないもんね。でも喋ってるうちにあれもこれも思いつくという。そういうのが一番鮮度が高くていいです。論理的にはきちんと吟味してないから穴だらけなんだけど、それを補ってお釣りが来るくらいの「勢い」があります。

カラオケみたいなもん


 よく自分のブログなどで書くネタがみつからないって人がいます。あるいは自分の思ってることを世間様に発表するなんてそんな恐ろしげなこと、ようやらんって人もおられます。お気持ちはすごい分かるんだけど、でも、日頃雑談やってたら書けないはずはないと思いますよー。今日やった雑談を、そのままスクリプトにして載せたって結構面白いと思いますもん。「考える」とか改まって思うと難しげだけど、何も考えない方がよほど難しい。考える事=脳の働きというのは、呼吸と同じように、生きていれば自然にやってしまうものでしょう。

 いや、友達と喋るのと、不特定多数相手に書くのとでは違うだろって言われるかもしれないけど、本質的に、そして事実上もそんなに差はないんじゃないですかねー?本質的というのは、表現手段がなんであれ「自分以外の他人」に向けてなんか言うことに変わりはないでしょうってことです。事実上というのは、ブログで改まって「意見を公開」とかいっても、事実上それを見るのは自分の友だちくらいなんだから雑談と大差ないでしょう?と。だって、HPやブログとか、びっくりするくらい誰も読みませんよね。僕のように「虚仮の一念」で20年以上延々やってりゃ多少は読み手もつきますけど、昨日今日始めていきなり読む人が出てくるわけないです。だから、いかに自分は世間からみて重要な人間じゃ「ない」のか、いかに誰からも注目されていない雑魚キャラなのか、それを身にしみて理解するためにブログをやるようなものです(笑)。ま、それはそれで大事な修行(自意識過剰の抑制作用)なんだろうけど、だから肩肘張って「公開〜」とか思う必要はないんじゃないの?と。限りなく日記に近いぞ、実際。

 だいたいですね、ネットの自分の文章なんか、カラオケみたいなもんだと思います。歌う快感を求めて歌うだけで、聴く方は歌ってる奴ほど楽しくはない。よっぽど上手かったら別だけど、他人を喜ばせられるくらい上手な人はプロのミュージシャンになってるように、文章でも作家とかプロになってるんでしょう。だから、僕も書く快感をメインにして書いてます。800回以上続いて、おそらくは千回を超えるだろうこの作業がなんで続いているのか?といえば、多分、そこ(自己快感ファースト)かもしれない。自分が書く快感だけにフォーカスして、それ以外の「雑念」はカットしてる。たとえば営業目的で書くとか、読者の期待に応えてとか、あんま思わないし、思わないようにしています。その意味では、徹底的に無目的に書くこと。友達とカウンターで酒飲んでて、「あ、そういえばさー」って感じで書くこと。その言いたくなる些細な初期衝動を大事にする、とかいうとカッコいいかしらんけど、要はあまり考えないこと。考えない力ですね。だって、それ以上なんだかんだ乗せてしまうと、重くなって、おそらくは30回も続かなかったと思いますよ。

書く快感はギターに似てる

 じゃあ、書く快感ってなによ?ってことですが、一つは、うーん、くだらないことなんだけど、キーボードの上で指先動かす快感。そんなもんが楽しいのか?って思うかしらんけど、楽しいですよー。それはギターだって同じこと。フィンガーボードの上で指を走らせていくのは、車や自転車を走らせるのと同じような快感があります。てか、人間って何かすると自動的に気持ちよくなるように出来てるんじゃないの?

 ああ、その意味では、このエッセイを書くのって、ギター弾いてるのとかなり近い気がします。
 いつもギターを弾くときは、かっちりきまった曲を弾くってことは少なく、95%は気分一発でアドリブで弾きます。クラシックの場合はまた違うのだろうけど、ロックギターの場合は、なんとなくギター弾いてる時間のほとんどがアドリブでしょ。それはサッカーとかサーフィンとかと同じ感じじゃないかな。とりあえず音=ボール=波と戯れて、それまで自分が培ってきた技術をぶつけてみて、その反応(うまく出来たか)を見て、で、「あー、ダメだなー」とか欠点がすぐ見えて、そこからその「練習」という要素が入る。でもすぐ飽きるから、またやって、大体は指グセ、足グセで動くんだけど、そうなると「いつものアレ」になっちゃって、あかんなー進歩がないなーって思うから、また練習になって。ちょっと日頃使ってない音使いを試みたり、あまりやらない技法を使ったりして、うまくいくと「お」とちょっとうれしいという。カチッとした曲をやるのは、バンドで練習するから覚えなきゃとか、サッカーでも今度試合があるからとか、そういう感じじゃないですかね。サッカーだって、まずボールを蹴る快感があって、次にボールを自由にコントロールする快感があって、でも上手くいかなかったり、ワンパターンだったりして、そこで練習要素が出てきてって感じじゃないですか?同じだよね。

 文章書くのも同じで、頭の中のもややんとしたのを個別の言葉に落とし込んでみて並べてみる。言葉と戯れる感じね。ま、それがまず気持ちいい。で、上手いこと表現できたような気がしたら、とりあえずうれしい。でも、あかんなーとも思うから、ちょっと直してみて、、って感じ。

 でもって、弾きたい曲想っていうのは、自分がそのときに聴きたい曲想でもあるのですね。静かな感じの癒し系の音が欲しい時もあれば、ファンキーでリズムが跳ねるやつが欲しいときもある。しばらく自分で弾いて浸ってると、今度は別のがやりたくなる。文章も同じで、理路整然とした仮説みたいなものを作ってみたいなって思うときもあれば、情緒性の強いものがいいなーってときもあるし、論文ぽいのはなんかお腹一杯な感じがするときは、今回みたいに、だらっだらくっちゃべってる感じがいいなーとか。それが書きたいっていうのは、それが読みたいってことでもあります。自分が読みたいものを書く(てか、自然と書きたくなる)。

 さらに、意外性があるのですよ。発見というか。ギターも最初はコード(和音)覚えるけど、だんだんどーでも良くなってきて、出てきた音だけに注目して、押さえ方は指のカタチだけで覚える。僕にもお気に入りの響きやコードがあるけど、指のカタチだけ覚えているだけで、それが一体音楽のコード理論的にどう記述されるのか全然知らん、興味もないってのが多いです。呼び名なんかどーでもいいだろって感じ。そして、その時の気分であれこれ押さえる位置を変えていくと、「おおっ」という響きがするときがあります。新コード発見!って、別に昔から普通にあるコードだろうけど、自分的には「発見」で、あー、この音とこの音を重ねるとこんな感じになるのかー、なるほど、そうなのかーという意外性がある。それが楽しいんですよ。プロの曲、特にギタリストの作った曲なんか聴いていると、「ははあ、これは多分」と何となくアタリがつくときがあります。これはおそらくは、この新しい響きのするコードを発見したのがキッカケで、それを曲にふくらませたなとか、コードの組み合わせ(コード進行)がヘンテコだから、多分のそこがキッカケかなとか。

 その意外性は、文章でもあります。どんぴしゃの日本語がないから、頻繁に造語をしたり、比喩を使ったりしますけど、やってるうちに「ああ、こんな感じ」としっくりくる言葉の並びを見つけてしまうときがあります。ときには、キャッチコピーみたいに思いついたフレーズ一発がキッカケになって、エッセイ一本書けてしまうときもあります。こう思うと、ほんとよく似てるなー。コード一つ、フレーズ一つがキッカケになって一曲出来るという(そこで曲に仕立て上げるワザがまた難しいんだけど)。

 さらに、なんだか偉そげな気分に浸れるという快感も(笑)。ギターでも、大したことやってないんだけど(それは自分が一番知ってる)、でも出てきた音がやら曲想がカッコよかったり、「おおー、これ俺が弾いてるか」と今更ながら感心したりしたりするときがあります。で、自己満足の自画自賛的にうれしい。文章もそうですね。脳内にあったときは、ミミズと蛙がダンスしてるようなウニャウニャだったのが、時間をかけて文章化していくと、なんか立派っぽいものになってて、自分でも「おお」と思うという。馬鹿といえば馬鹿なんですけど。

 でも、これは僕だけではなく、誰でもそうじゃないかなー。だって、それが「表現」というものの面白さでしょ?
 頭の中にあったネタの原型は、実はそう大したものではない、いっそしょぼいくらいな、些細なサムシングです。それをぺっと吐き出すだけだったら、それがどうした?ってなもんでしょう。でも、音楽にせよ、言葉にせよ、「表現」という技法をかますと、なにやらもっともらしくなるし、妙に立派になる。それは、ひとえに先人達のご努力の賜物だと思います。気持ちのいい音を出す楽器が作られ、そして究極形態ってレベルまで洗練されており、コードその他の音楽理論や、優れた楽曲先例がある。それらの人類遺産ともいうべきフォーマットにかけると、あら不思議、へっぽこだったのがそれなりになってくれる。文章でも、多くの言葉が開発され、洗練され、組み合わせの粋を尽くした用法があり、、、で、これらを借用してカタチにすると、それなりのものになるという。あのしょぼかった○○が、なんとまあ立派になって、馬子にも衣装だわーと。だから表現って面白いんだと思います。

 とまあ、種々の快感があるから続いているんじゃないでしょうか。常々書いているように「気持ち良くないものは続かないの法則」からしても。


オマケ〜最新の採用現場から

 これで終わってもいいけど、一本書くにはネタとして不十分、かといってFBで紹介するにはキャパ的に消化不良になりそうなネタがころがってるので、書いときます。

 I looked at hundreds of millennials' CVs and this is what I learned
 How leading employers are hiring and promoting for diversity

 どちらもオーストラリアのABCニュースサイトの比較的最近の記事で、オーストラリアの就職につき、採用するサイドから書いているものです。

 前者はdigital producers募集で集まった260通の応募(+履歴書)の採用経験をした人が、その経験での雑感を書いているものです。印象に残ったのは、今はもうエントリーレベルがとてつもなくあがってきて、親の世代のように、学位だけ取って入社すれば、あとはあれこれ教えてくれる時代ではない。まず数年間の実務経験が必要なので、応募してくる人は、そのほとんどが複数のボランティアや無給仕事(インターンなど)を経てキャリアを積んできている。

 これはもうめちゃくちゃ不公平な話で、そんな数年も無給ボランティアが出来るだけの資力がある人など限られている。するとどうなるか?結局損をするのは会社であって、採用段階で一定の階層に限定してしまうから、優秀な人材を見逃してしまう。現場ではその点に配慮して、修正をかけようと頑張るんだけど、限界はある。構造的な問題には構造的な解決をはかるしかない。

 一つの方法は、大学の学位やらCVキャリアではなく、aptitude tests(適性テスト)を重視しようという試みで、既に実施している企業もある。 過去の「実績」よりも、素質、適正、潜在能力にシフトしようということですな。

 そこからリンクが飛んで、二番目の記事になります。
 これはWestpac銀行の役員であるYung Ngo氏(ベトナム生まれの中国系で、スタンフォードの教授でもあった)を中心に取材がなされてます。要旨は、企業内のダイバーシティをいかに広げ、機能させていくか、です。「適性」といっても、単に能力や資質だけではなく、民族その他のバックグランドも含めて考える。

 ベースにある危機感というのは、思うに「同質集団はヤバイ」という認識でしょう。なぜなら自分らが商品を売るマーケットというのは、完全に非同質で、なんでもあり社会なんだから、一部の社会経済的階層や民族文化的な人だけが考えて売ってたって上手くいくわけないじゃんってことでしょう。それはまた企業の体力強化にもつながって、エントリーレベルで狭き門にしちゃうと、本当に欲しい人材が入ってこない、てかそもそも興味すら持ってもらえないというリスクもある。

 ダイバーシティはリクルート(採用)業界ではバズワードになってるんだけど、なってるだけで本当の意味ではまだまだ実践されてない。いかに広げていくか、広げたものをいかに有機的に連結させていくか、そこはまだまだ未開地であり、多くのチャレンジングな試みが必要である。実際、コンサルタント会社の大手のPwCでは、50-80%の採用について、オーストラリアの現在の社会構造を反映するように人材配分にするように心がけている。また、同社では、ディスアドバンテージ(社会的に不利)な高校のYear12(高3)を対象に2日間のプログラムを実施し、それまで(どうせ無理さなどの理由で)興味もなかった層に振り向いてもらおうとしている。

 でも、そうやって採用部門が頑張ってダイバーシティを確保しても、肝心の本丸企業が旧態依然のままだったら意味がない。Yung Ngo氏はWestpac銀行グループ内部の従業員組織の長もやっていて、同行内部には8つのグループがあるとか。それはLGBTのグループであるとか、アボリジニ系のグループであるとかさまざま。そこでは、保守本流ともいうべき「Australian-born staff from Anglo backgrounds(アングロ系でオーストラリア生まれの社員)もまた一つのグループでしかない。それらが単なる派閥を作るのではなく、相互に教室を開いて教え合ったり、交流しあうという相互理解を深めている。

 そして、多分ここが大事だと思うのだが、そういったグループが、優秀な国際リクルートエージェント(a de facto internal recruitment agency)になりうる。社会、世界のあらゆる階層、人たちにネットワークをもっている結節点ともいうべきものを企業内部に作ることによって、国際的にリクルートしたり、あるいは世界進出するときの水先案内や現地採用のパイプにもなる。

 とまあ、そんな内容です。オーストラリアは、白豪主義をやめてからマルチカルチャルに進んで、現時点においても、江戸時代のような日本の企業文化からしたら40年くらいは進んでると思うけど、それでもまだまだ全然足りない、もっともっと先に進まねばって感じでやってる(ところもある、もちろん全部ではないが)って話でした。

 この話は、就職とか採用などから離れても参考になります。それは組織論としてもそうだし、個々人のネットワーク論としてもそうです。自営でなんかやる場合、どれだけ異業種の友達、あるいは異「人種」の人たちを知ってるかが実際にはキモになりますから。前職でやってるときも、医療過誤系だったら医療系の知り合いが必要だし、民事暴力系だったら暴力団など地下社会に詳しい人が必要、IT業界、広告業界、政界、不動産業界、教育、運輸、、、数限りなく必要で、同質同業の人とだけやってても案件は1ミリも先に進まない。それは別にぶっといパイプである必要はなく、「ちょっと聴く」程度でいいです。電話かけて、「あのさー」って聞ける程度。

 もちろんそれらはお金で買うことも出来ますが(専門の会社に査定を依頼するとか)、そんなのいちいちやってたら金がいくらあっても足りない。それに、そもそもそれ以前の段階、意思決定の段階や、さらにそれ以前の「全体の感触をつかむ」というレベルでは、自前である程度知ってないとならない。素人目には一見良さげな話であっても、専門の○○業界的にいえば、かなりスジが悪いぞ、手を引いたほうが無難だぞ、いやあそこは信用できるからいけるぞ、とか。それを企業も真剣にやってて、それが採用レベルにおいては、こんな流れになってきているということでしょう。



なんかバックパッカー旅行の広告写真に使えそうだな


めっちゃ綺麗なGordon Bay。あー、水着持ってくるべきだったかもと、ちょい後悔。


上と同じ。イースタンサバーブは、ボンダイ〜クージー〜マルーブラが三大ビーチですけど、他にも沢山あります。むしろマイナーな方が狙い目かと。特にゴードンベイは、岩場メインで、且つ近くまで樹木があるので、雰囲気がほかと違います。


これもGorodon Bayで、正面というか浜辺からはこう見える。かなり入り組んでいるので波が少なく、いい感じ。どこかしら南太平洋諸島っぽい。


ブロンティの手前の巨大なセメタリー(墓地)があります。海が見える公園の外人墓地って感じだけど、スケールがでかい。クージーの南にもあるよね。墓地といっても秘めやかな感じではなく、墓地を突っ切るように遊歩道があり、そこを人々がぞろぞろ歩いていくという。


向こう正面、手前がブロンティ、遠くがボンダイ・ビーチ。ボンダイは、あの煙突が目印ですね。



 文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page