★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
813 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2017/02/20)



Essay 813:天ぷらのコロモ的な大局観

 

 写真は、つい数日前(毎週土曜日)に行われるGlebeのフリーマーケット。
 なんせ今度は歩いていける距離だもんで、行ってきました。

そりゃ、簡単でいいなー

 「そりゃ、簡単でいいなー。」
 と、ここのところ思うことが幾つかありました。いや「仕事のやり方」について、です。

 世間話以上カウンセリング未満的な話というのは、メールや口頭で年中やってますが、その中で前職/現職(弁護士とエージェント)に関する他所さんのやり方を漏れ伝え聞くことがあるのですが、時として、「え、それだけ?」と思うことがままあります。それで済むならいいなーって。

 例えば、弁護士ならば、証拠がない?じゃあ勝てませんねで終わりとか、申し立ての費用が足りない?じゃあダメですねで終わりとか。エージェントでも、単に学校紹介してそんで終わりとか。

 まあ、それでいいっちゃそれでいいんですよ。八百屋さんで大根下さいっていって、はい大根どうぞで手渡せばいいだけのことですから、それ以上うざうざとやる必要はないのでしょう。

プロとは

 でもねー、本当にそうなの?って思ってしまいますです。

 僕の日本時代は、勤務初日から選りすぐりの難件をやらされてました。他に比較のしようもなかったので、そーゆーもんかでやってたけど、今から思うとかなりキツイのばっかり。他の弁護士事務所が見放したような案件を、ボスが男気で拾ってきて、でも面倒くさいから僕に振ってくるという感じ。証拠もないし、勝ち筋も全然ないけど、でも勝ってね、よろしくね、勝てないまでも負けないでね、たのむわーって。

 これは鍛えられますよ。設備も人員もろくすっぽ揃ってない野戦病院で研修医やってるようなものですから。目の見えない人が聴覚や臭覚に鋭くなるように、いろいろな能力や視野がひろがっていきます。例えば、証拠はないけど「勢い」で勝つとか、なんとなくそんなこと言えないような雰囲気にしてしまうとか、敢えて解決不能な方向にもっていってドローにもちこむとか、法律的には負けるけど政治的には勝つとか、政治的にも負けるけど人生的に勝つとか、、、、

 大体ですね、借金地獄に陥って、今日の飯代にも事欠くような人が、自己破産費用最低30万円即座に用意しろとか、法人だったら申し立て費用と管財人報酬の予納金合わせて100万用意しろとか、誰もが出来るわけではないでしょう?そこを、それが足りないんだったら、お力になることはできません、お引取くださいって言ってていいの?って気もするわけですよ。お金がないから問題になっているのに、お金がないからダメですねはないだろうと。

 まあ、実際そういう冷酷な部分は現実にあるので、そんな理想論ばっか言ってられないんだけど、そこで冷たく突き放してしまうんだったら、プロや専門職は社会の役に立ってないじゃん、なんのために居るのだ?って気もするのですよ。少なくともそこで葛藤を感じるのがプロであり、そこが麻痺して葛藤を感じなくなることがプロであるかのような考え方は僕には馴染めない。「非情」であることがプロの資格みたいな言い方があるけど、本当にそうなのか。プロというのは素人的な感覚から遊離するほど社会の存在価値は乏しくなり、限られた特殊世界のマニアになっていく。前職中、剛腕&凄腕な人は数多く見てきましたが、凄い人ほど子供のような素朴な正義感で動く。いわゆる「業界の常識」をバキバキと踏み潰して素人側に寄ってきて、ひいては業界の常識そのものを変えてしまう。

 でも、実際そのマニア・パターンが多いです。弁護士で儲けようと思ったら、どれだけそこを無慈悲に切り捨てるかどうかにかかっていると言ってもいい。よく世間の人が、儲かってる弁護士が腕が良いとか、負けたこと無い弁護士が良いとかいうけど、大間違いですよー。儲かってて負け無しって状態は、単に富裕層で証拠バッチリの強者の味方ばっかりしてればそうなるわけで、ある意味では簡単なんですよ。そういう人の凄いのは、訴訟技術が優れている点ではなく、お金と権力のあるサロンに出入りして人脈作っていく営業能力が凄いんですわね。ロータリークラブで積極的に役員やるとか、ホテルのパーティーにはかかさず名刺配って歩くとか。大したことない商品を高く売りつける技術が凄い。

 逆に、本来の技術に自信にある人ほど、負けて当然の難件を受けるし、情にほだされたり、正義感にかられてやりますから、敗訴率かなり高くなります(それじゃ食えないから、普通の案件も受けますけど)。てかね、普通の弁護士は、何勝何敗とか数えません。僕だって覚えてないし、どう数えていいのかもわからんもん。そんなことを数えたり、売りにしてる人がいるとかいうのがまず信じられん。周囲が勝手に言ってるだけじゃないの?

 エージェント仕事でも、ワーホリだったら最低1年で200万円必要で、それが無かったらダメよとか、永住権取るならまず大学院年間300万円揃えてねとか、それで話が済むならいいですよー。営業戦略的にいえば、大金かけて大々的に広告打って、地引き網的に多くの客を吸い寄せて、そのなかからお金もってる客だけを選んで、あれこれ買わせるって手法でしょう。資本のある企業においては、まずまず順当な戦略ですよね。

 別にそれを批判する気はないのだけど、でもそれが全てではないだろうし、そこから漏れ落ちた大部分の消費者はそれで終わりになって良いものでもないでしょう。それは、そういう経営戦略を取るのが効率的なお金儲けとしてベターであるというだけの話であって、それが唯一の正解ってわけでもない。これを消費者の側からみれば、資金がないなら知恵をつけろ、洞察力を深めろという話だと思います。

自分が欲しいものをわかってない

 カウンセリング、コンサルタント、あるいは知的価値のある専門的な接客業すべてに共通すると思いますが、本来「大根ください」「はいどうぞ」って世界ではないと思うのです。

 何が共通するかというと、「消費者やクライアントが、いったい何を欲しているのか自分でもわかっていない」という点です。

 自分のほしいものを自分でわかっていない、そんなことがあるのか?といえば、幾らでもあります。極論すれば殆どがそうだと言ってもいい。特に専門性の強い領域では、素人に取ってみたら理解しにくいのですから容易に誤解しがちです。Aという状態になったらBしかない!と思い込む。本当はCも、Dもいくらでも選択肢があるんだけど不案内だから気づかない。

破産の場合

 例えば借金で首が回らないから自己破産をしたいというのもそうです。そこでは借金地獄から解放されたいというのが「欲するもの」なのだろうけど、自己破産が最適解なのかどうかはケースバイケースです。だって破産しても免責されなかったら意味ないですから。

 破産手続というのは、差し押さえ禁止財産とよばれる身の回りの最低限の財産以外の総資産を、公的権力が公平&透明な手続で、債権者に平等に分配するだけのことであって、破産者の救済は本来入ってません。破産というのは、債権者から申し立てる債権者破産が本筋で、破産者自らが申し立てる自己破産はむしろ異例です。今ではそっちの方が原則なんだけど、それは原則と例外を逆転させて業界の常識をひっくりかえした偉大な先駆者弁護士がいたからです。で、破産しただけでは借金ゼロにはなりません。裁判所による免責決定(もう返さなくてもいいよという借金免除のお墨付き)をしてもらわないといけない。多くの個人破産の場合、破産申立→審尋(裁判官による面接試験みたいな)→破産決定+同時廃止(破産手続き完了)+免責決定がセットになってます。しかし、免責は、本来払うべきものをチャラにするという踏み倒しOKの凄い話ですから、それ相応の理由がいります。あー、これは可哀想だ、気の毒な部分もあるなという「破産に至る経緯」が良好な場合だけです。どうせ破産になればチャラだ〜とばかり、何度も何度もクレサラ破産を繰り返しているような輩には免責は出ません。裁判所も馬鹿じゃないですからね。だから借金から開放されたい→破産だというのは、一つの方法ではあるけど、万能ではない。

 破産以外にも任意整理もあるし、何もしないで地道に返した方が良い場合もある。債権者(お金を貸した人)が全て親類縁者や知人ばっかりだった場合(恩借という)、そして将来的にもそういう人間関係で生きていくとするなら、恩を仇で返すようなドラスティックなことをしない方が良いかもしれない。しかし、サラ金どころか闇金まで入ってきてたら、地獄の底までひきずりこまれるから、その「魔除け」として公的に破産しておいた方が良い。また、経営的に仕方なしに破産するような場合でも、これまで助けてくれた業界筋や恩筋には一軒一軒丁寧に説明して、頭下げて、免責をうけていても、なんらかの埋め合わせをする努力をしておいた方がいい。瀬戸際で逃げずに誠意を尽くしたというのは、大きな実績になりますから、逆に信頼を高めることになる場合が多いし、そのあと仕事を回してくれたりもします。だからほんとケースバイケースなのですよ。

 ちなみにケースバイケースの例でもう一ついうなら、破産の要件は「債務超過」ですけど、自分で経営してたら分かるでしょうが、債務超過なんか年がら年中なってます。自己資金100万で2000万借り入れてマンション買ったような場合、日本の場合、新品→中古の格落ち損が激しいから、もう買った瞬間から中古マンションになってゴーンと値下がりする。2000万借金して2100万の資産を保持してるから黒字だってもんじゃなくて、格落ち損やら金利を考えたら、もう最初の一歩の段階で既に「債務超過」になってるとも言える。企業経営だって、立ち上げ資金を借りて起業するわけですけど、その資金は内装費やら人件費やら、転売できないものに化けてるから、その時点で清算とかいったら、既に債務超過になってても不思議ではない。実際の経営では、今は借金まみれだけど、この認可が通れば一気に大逆転〜とかいう話はいくらでもあって、その時点での債務超過など大した目安にもなりません。それを一瞬でも債務超過になったら即破産!と杓子定規にやるなら、今この瞬間に日本国民の大多数は即死的に破産することになるでしょう。

 まあ、多くの日本人の場合、破産は最後の手段という禁忌感が強いから、自分でそれを言い出すときは、大抵の場合それで合ってますけど、常にそうだというわけでもない。選択肢は無限にあるわけだし、破産するにも、そこまでの持っていき方なり、周囲への説明やら、仁義や筋の通し方なり沢山考えるべきことはあるということです。

 それを借金→破産、あるいは10年以上前から流行ってる、多重債務→過払い金返還とかワンパターンにやってたらあかんし、それを馬鹿の一つ覚えというのだし、そこでクライアントの本当の意向を聞き出して、多彩な選択肢を説明し、なにがベストになるか一緒に考えてくれるのが、本当によいプロだと思うのですね。破産おねがいします、はい、破産一丁入りました〜、毎度あり〜!みたいなことでいいのか?と。

離婚の場合

 法律話でいえば、離婚なんかもそうです。嫌いになった、相手が愛人を作ってる→離婚だ、慰謝料がっぽりだって単細胞に考えるものではないです。特に女性からする場合、あらゆるパターンを考えたほうがいい。離婚して(籍を抜いて)良いのは、自分に新しくパートナーが出来て、前婚関係を清算しておきたいという場合などであって、嫌いになったから清掃処理みたいに考えるべきかは別。誤解されがちなのは慰謝料なんか、証明しにくい離婚事由や相手の支払い能力次第であって、多くの場合はほとんど出ないこと。養育料も継続的に出ることは少ないこと。離婚しても実利として得な場合は実は少ない。だったら、完全に冷えまくって完全別居でありつつも籍だけ残しておいた方が、間違っても親権取られることはないし、日本の場合は西欧と違って「内助の功」を認める度合いが高いから年数が多いほど財産分与で半分取れる率が高いとか、相手になにかあった場合に相続権を持っておいたほうが得とか、別に離婚しなくても婚姻費用分担調停(コンピという)で月額の婚姻費用(生活費、養育費)を貰えるようにしておけば、縁が切れてないだけ養育料よりも確実にゲットできるとか。もっともマイナスもありますよ。相手の親の介護の面倒を押し付けられるとかね。

 このように様々な事由を秤に乗せて考えるべきでしょう、もし実利を望むのであれば。しかし、実利ではなく精神的な部分を重視(すっぱり縁を切って、まっさらな人生を歩きたい)するなら、それはそれでありです。つまり実利面と精神面、どちらをどれだけ重視するか。よく「金か、意地か」と言いますが、どっちを取るか。そこを「両方」とか夢を描いて、そこで思考停止してたら、思考を再開しなければならないし、そこを一緒に考えるのがプロの役目だと思います。ここでも、はい離婚一丁入りました〜の世界ではないのではないかと。

留学や英語の場合

 留学やワーホリ、永住権でも同じことです。クライアントが本当に何を欲しているのか自分でもわかってない場合が多いし、わからないのが普通でしょう。だから、そこは一緒に考えるということをすべきではないかと。

 例えば英語が出来るようになって、バリバリ仕事をして〜とかいいますが、それが幻想だということをまず指摘しなければならない。もちろんプラスにはなるでしょうけど、百点満点中2点や3点プラスになったくらいだったら現実的になんの意味もないですもんね。問われるべきは何点くらいプラスになるかであり、それはその人の置かれた状況その他によってかなり違ってきます。

 海外のガチな場面で英語で仕事できるようになるためには、相当時間がかかりますし、どこまでいってもネィティブのようになるのは不可能でしょう。そしてネィティブレベルに英語ができたら、お金や職の心配は無いのか?といえば、それも嘘でしょう。だって、そんなこといったら、アメリカ人やイギリス人は失業率ゼロパーセントで、全員左うちわで楽勝になってないと嘘じゃないですか。でも実際は、日本以上に格差が広がって、ネィティブであればあるほど割り食ってる感が強くて、だからトランプが大統領になってるんでしょ?だから英語は万能薬ではないよ。それは日本で就職する場合、日本語が堪能であることがどれだけ就活に有利になるかと同じことです。実効性はかぎりなくゼロでしょ。

 だもんで英語というのは、何かと抱き合わせることで意味を持ってくる。例えば優秀な技術を持っていても、言葉が全然できなかったら自分を売り込むこともできないし、職場で頼まれたことも出来ず、実力を発揮できない。日本で民泊やるにしても、英語が全然ダメだったらお客さんからの問い合わせにも答えられないし、個別のリクエストにも応じられないし、つまらない意思疎通のミスでボロカス書かれて閑古鳥〜ってことになるかもしれない。つまり言語というのは、なにか商品Aがあって、それをより有効に売り込むための潤滑油や起爆剤になりうるけど、それ自体は商品にしにくいと。あるとしたら英語教師などの「教える仕事」ですね。でも、これとて教える技術や営業力が必要ですからね。

 でもねー、そこまで真剣に英語を!って考えている人は少ないです。それを真剣に考えるのは「外堀が埋まってる人」です。既に海外で仕事もしている、しかし英語がヘタクソなので職場で辛いとか、損ばっかしてるとか、昇給なり転職なりビザサポートなり有利な交渉ができないから展望が広がらない、あるいは永住権に必要なIELTSの点数が取れないとか、英語以外の局面ではかなりいい線いってるんだけど、ただ英語が全ての足を引っ張っているという「外堀OK」系の場合です。外堀もなにも、まだ何も始まっていない最初の段階では、英語〜とかいっても、多分に空想的なレベルでしょう。

実は英語は本体ではない

 でもって、空想的であっても、それはいいです。大事なのは空想をいかに現実化していくかですから。そして、多くの場合、英語が〜とか資格が〜とかいうのは、ご本人の本意を意訳してみれば、「ひとりで生きていくための、なんらかのつっかえ棒が欲しい」ってことだと思います。人によって勿論違うけど、大なり小なりそういう部分はあると思う。さらに突っ込んでいえば、「一人で生きていくための自信が欲しい」ってことだと思います。

 これはなんとかなります。叶えて差し上げられるでしょう。例えば「自信」でいえば、英語ができるようになって初めて自信がつくってものではないです。そういう構造にはなってない。というのは、英語というのは(どんな技芸でも)上達するほど、いかに自分が至らないか思い知らされるような構造になってますから。いわば自分がいかに無能であるか思い知らされるために上にあがっていくようなものです。だから英語→自信でやってると、やればやるほど絶望感に打ちひしがれるというか(笑)。

 しかし、巨大なグッド・ニュースは、英語ができるようになる、その遥か手前で「自信」がついてしまうということです。英語ができないで英語圏の海外にいるのはツライことですし、日々大変なんですけど、その大変な日々が自信という作物を栽培するいい土壌になっている。こんなに英語ができないのに、それでもなんだかんだ暮らせていけてる、シェア探しも余裕でできるようになっている、一人ぼっちの武者修行の旅を廻ってそれなりに楽しくやっていけているという動かしがたい事実が、かけがえのない「自信」をつけさせてくれる。

 矛盾するようでいて、考えてみれば当たり前の話です。自信というのは「こんなハードな局面を乗り切っている俺」という認識によって生じるわけですから、ハードさと自信とは比例関係にあるわけです。つまり英語が出来なければ出来ないほど、より容易に自信をつけやすい。ただし、そこでココロさえ折れなければ、という条件付きです。だとしたら、心が折れないように、どれだけ難しいことをやっているのか、どれだけ勇敢に戦っているのか、それをオベンチャラではなく、客観的に公正に伝えてあげればいい。

 だったら自信という意味では、別に英語なんかやらなくても良いんじゃないかって話になります。そのとおりですよ。でも英語やったほうがいいよというのは、自信がついたら必ずその次のステージがくるからです。健康に楽天的になれるし、そうなると健康な欲も出てきます。もっとこうなりたい、こういうことをしたい、やりたいように生きていきたいと。その段階になったときに英語というのは基礎的な武器になります。というか英語ができないと何をやるにも効率が悪すぎる。場合によっては泳いで太平洋を渡れと言わんばかりの無理度だったりもするわけです。それなりの行程をクリアしようと思ったら、交通機関を使えとかそれなりの方法があるわけで、そこで乗車券や搭乗券をゲットするためには、やっぱり英語を含む基礎条件はクリアしてないとしんどい。だから勉強しておくといいと。

 英語論はこのくらいにして(いくらでもあるから)、ここでは単に学校を紹介すればいいってもんじゃないんじゃないの?ってことが言いたいわけです。予算に応じて高い学校を出してきて、資金が足りなら、じゃあ貯めてきてねってだけではないだろう。貯めている余裕がこの人にはあるのか、ここで貯めてたら人生の潮時を失うのではないか、本来の目的からしたら闇雲の長期間通わせればいいってもんなのか、現地で資金が足りなくなることにそなえて、馬鹿な無駄使いを抑えるコツ(オーストラリアにおける価格の極端な差と生活の知恵とか)、バイトをする場合のノウハウやら構造やら、学校行ってない時間での英語や英語世界への親しみ方とか、、、もう教えなければならないことは山ほどあると思うのです。

 それ全部ひっくるめて「仕事」だと僕は思うわけで、大変ではあるし、殆どの部分は儲からないのではあるけど、顧客の依頼に答えるというのはそういうことだと思います。100%出来ているのか?といわれたら至らない部分は多々あるとは思うけど、でも、はい、○○一丁〜みたいなやりかたには違和感があります。

天ぷらはコロモこそが重要

 以前、「ハミ出し仕事論」でも似たようなこと書きましたけど、今回はまた違った観点で書いてます。というわけで、仕事とはなにかというと、本体的な部分よりも、それに付帯する部分の方がより重要であるし、それなくして本体願望の成就もないのではないか、と。

 いわば天丼の天ぷらのようなもので、天丼くださいって言われたら、ちゃんと天丼を出すべきで、鉛筆のように細く貧弱なエビだけをはいっと渡せばいいってもんじゃないだろう。やっぱサクサク揚がったコロモがあってこその天丼でしょう。天丼というのは、この熱々のサクサク感+濃厚なタレ+ゴハン=三位一体で成り立つのであって、ゴハンのうえに細い海老がゴロンと乗ってるだけではダメだし、サクサクしてないやたら油臭いコロモだったらダメなわけです。

 それを海老だけ〜みたいにやってられると、そりゃ簡単でいいや〜、でもそれでいいのかなって思ってしまったという話でした。


 海老を包み上げる「コロモ」に相当する部分まで視野に入れて考える事、それは大局観ってことだと思うのだけど、「なぜそれをやるのか?」ってことだと思います。

 日本で裁判をするということは、やっぱり特殊な話で、裁判の目的はコロモ部分にある場合が多い。ほとんどがそうじゃないかなー。個人でやる場合は、人生の一区切りをつけたいとか、泣き寝入りはしたくないとか、世間にこの理不尽を伝えたいとか、子供が被害者で親が訴訟を起こすような場合だって、この子のために出来ることは全てやっておきたいとか、本人の欲得を超えた部分に本当の意味がある。民事訴訟である以上、請求の趣旨に「被告は原告に金○円を支払え」という形になることが多いけど、別にゼニカネじゃないのよね。形式的に必要だからそういう形にしているだけ。

 これはビジネスライクな訴訟においても同じです。お金が返ってくる見込みは殆どないにもかかわらず、大企業が個人消費者に訴訟を起こしたりしますが、あれもお金が欲しいからとか、弱い者いじめが楽しいからやってるわけではなく、税務上「損金」で落としたいからだったりします。やるだけのことはやったけど回収不能でした、だから損金処理をします、文句あるかと税務署に言うために形だけでも訴訟をかけるとか。名誉毀損の訴えも同じで、幾らかの賠償金をもらうことが本意ではなく(取れるとも思ってないし)、世間に対して自社の立場を示すところに意味がある。

 海外でもワーホリ、永住でも同じことで、海外、英語、永住などが本体ではないのですよね。本体は絶対コロモ部分にあります。より自分らしい人生にしたいとか、生きているという実感が欲しいとか、僕が最初に来たときのように敢えて暴挙をやることで、人生が守りに入るのを防ぐとか、自分なりカスタマイズしていく行動に慣れること、そのためのノウハウを実践練習で培うことに眼目がある。

栄養分とモチベーションはまた違う

 そして、さらに複雑で難しいことを言いますと、それらの栄養分はとても大事な枢要部分を占めるのだけど、栄養素的な中核部分がモチベーションになることはない、という点です。そんな栄養満点、身体にいいですよ、人生のタメになりますよって部分では、実は人の心は動かない。本当にモチベーションになるのは、それとは全然違った、地平線が見えるようなだだっ広い平原であったり、すかっと抜けきった青空であったり、そこで感じる果てしない開放感であったり、鮮烈な陽光に照らされた市場のさんざめきであったり、当たり前のように現地のバスに乗って通勤通学している自分のちょっと誇らしげな気分であったり、、、するものだと思います。

 左脳的な栄養分的理屈と、右脳的な感性一発系モチベーション、その2つがジョイントしてこその人間の意思決定であり、行動だと思います。そこまで視野を広げて、大局的にクライアントの意向を推し量って、あるいは口頭で意見交換して、それから実務処理にはいっていく。先々迷ったら、またこの大局まで戻ってきて、善後策を考える。あくまでもコロモ部分で始まり、コロモ部分で考える。本体たる海老は、まあ無いとカッコがつかないから一応置いておく当て馬みたいなものでしょうねー。

 でも、これ、どんな物事でも同じだと思いますよ。就職したいとは思うけど、別に仕事が大好きなわけではない、てか何の仕事をするのかすら決まってないのに好きも嫌いもない。抽象的に結婚したいとは思うけど、特定のだれかと肌を重ね、生活を重ねたいとはリアルに思ってないとか。温泉に行きたいと思っても、別に風呂にはいるだけがポイントではない。それらをすることによって得られるであろう「なにか」が欲しいからでしょ。だから本体はむしろコロモにあり、コロモを見極めるにはそれなりに視野を大局的にしないとわからないって話です。

 だからカウンセリングにせよ、接客にせよ、そのコロモ的大局に即してお話すべきであって、話を海老一本に限定してしまうのはどうかなーと。そりゃそうした方が話は早いし、販売促進という意味では良いのでしょうけどね。でも、そこでもコロモ的に考えてしまうのだが、そんな仕事のやり方をしてて楽しいのか?という。


















 文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page