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今週の一枚(2017/01/23)



Essay 809:恋愛効用論

 

 写真は、オペラハウスですけど、結婚カップルのフォトセッションがよく行われてます。あの場所をよく覚えておいて(どこに立ち、どこから撮るか)あとで真似するといいすよ。なんせ「プロが選んだ構図」ですからね。


 例によって、引っ越しのための断捨離三昧、スキャン三昧をしてたら、昔々大昔に書いた恋人との交換日記やら書簡やらが出てきました。実家の「いい加減にしなさい」攻撃を受けて、帰省の度に昔のものをテキトーにダンボールぶち込んでは持ってきてたものです。

 最初は、うわあ!って、恥ずかしいやら、痛いやら、とても読めたもんじゃないよなって感じだったんだけど、パラパラと見ているうちに、照れ笑いが消えていき、しまいにはシンとした厳粛な気持ちになってました。自分のことでありながらも、そのひたむきさに打たれるというか、笑ったり、茶化したりしたりするようなものではないなって気分になって。

 さらに思ったことがいくつか。
 ・恋愛やってると頭がよくなる(かも)
 ・文章や喋りが上手くなる=言語力がつく(かも)
 ・人間的により良くなる(かも)=もっとモテるようになったり、対人能力つくからより成功しやすくなる(かも)
 ・エッセンスを抽出すれば、別に恋愛でなくてもこれらの成果を得ることは可能(かも)

 なんか「かも」ばっかりで、鴨南蛮みたいなんですけど、常にそうなるわけではないし、真逆の場合もすぐに思いつくので留保をつけておいた次第。


恋愛すると頭が良くなる(かも) 

 なんでそう思ったのかというと、とにかくヒタムキな頃はメチャクチャよく考えるからです。これだけ真剣にモノ考えていたら、そりゃあ考える力はつきますよ。下手な暗記勉強を10年やるよりは、超真剣な恋愛を半年やった方が頭は確実に良くなると思う。

 特に十代や思春期の頃の方が効果は高い。他にやることが少ないし、視野も狭い分だけ、純粋命題として考えらるようになるからです。大人になるつれて、色々と不純なことを考え、思考のフォーマットも手垢にまみれて、発想が硬直していくからそんなに思考訓練にはならない傾向があるんじゃないかな。

 恋愛時に考えることって、要するに哲学なんですよね。だって、テーマになることを難しく言えば「利他と利己の絶対矛盾とその超克」だもん。思いっきり哲学ですよ。

 最初は純粋利己から始まります。誰か好きになって、その人の側にいたい、その人のハートが欲しい、振り向いてほしい、つきあったら浮気しないで自分に尽くして欲しい、、、などなど自分の欲求ばっかです。でも、本気で好きあっていくにつれ、この人の笑顔を見たい、この人だけは幸せになって欲しい、この人が幸せになるためだったら何でもすると利他的になっていって、しまいには岩清水くんの「君のためなら死ねる」的なオーバードライブがかかるようにもなります。

 もし恋人が不治の病にかかって余命幾ばくもないとなったとき、神様がどろろんと現れて、お前の命と交換だったら助けてやると言われたら(そんなこと言う神様もどうかと思うけど)、二つ返事でお願いするんじゃないかと。え、本当ですか?やったー、こんな命でいいならなんぼでも持ってってください、そのかわり、あの人だけは、あの人だけは幸せにしてくださいと思ったりもする。思春期の頃は、そんなことを妄想しては一人で涙ぐんでたりするわけです。アホといえばアホなんだけど、ある意味では崇高なアホです。

 でも実際、我が子を思う親は普通にそう考える場合が多いでしょう。「この子だけは」って。出産の時だって、難産が予想されるときは、先生お願いです、私はどうなってもいいから、この子だけはって言ったりするでしょう。あれは見栄やカッコつけで言ってるのではないと思いますよ。まあ、僕は本人でもないし、ましてや男だから本当のところはわからんけど、「自分の命よりも大切なもの」なんて、普通にいくらでもあるでしょう。むしろ一生それに出くわさないことをもって「不幸」と呼ぶのではないかと思えるくらいで。

 ここにおいて利己は極端に利他に振れます。
 でもね、実際には入り乱れたり、何がその人の利益なのか問題がでてきたり、哲学演習問題は日々複雑になっていくのですよ。よくある命題ですけど、「この人のため」とかいいながら、その人が幸せになることを自分が望んでいるんだから、結局はどこまでいっても利己じゃないかって話もあり、これはボランティアや他者との関わりに常に付いて回る問題です。また、何が利他なのか?という具体的判断でも、例えば私といると○○君の勉強や部活がおろそかになって、彼の夢が果たされないままになってしまう、これではいけない、ちょっと距離を置こうとか思うんだけど、でも当の○○君はいつも一緒に居たいというのがご意向で、それに比べれば進学も部活も劣後するという。何がその人の「ため」なのか、なにを基準にして、何を利益と判断すべきなのか、価値判断の相対性という問題にブチ当たって激しく悩んだりもする。

 また、時期的変動もあります。
 あなたのためなら命すらもいらない!ってのも、四六時中そう思ってるわけではなく、あれは一瞬の感情の高潮であり、最大瞬間風速みたいなものでしょう。微風のときもあれば、ベタ凪のときもある。そうなると本来の自己中感情が湧いてきて、ワガママ言ったり、一方的な価値観を押し付けたりもする。でも時間がたち、状況が変われば、そんな気持ちもどこへやらで、また殊勝で誠実になったりもする。とにかく変わる。自分の変われば向こうも変わるから、寄せては返す波のように二人の感情距離は縮まったりまた離れたり。その度に、うろうろオロオロしたりして、またそのことの意味を理解しようと考える。

 ともあれテーマそれ自体が難解なうえ、それを間断なくケーススタディとして突きつけられ、しかも毎回微妙にニュアンスや角度が違うという応用問題つきです。でもって、真剣にやってるだけにものすごい集中力ですよね。これだけ集中してやってたらどんな受験問題でもできてしまうような気もするのだが、恋愛は「本能」という強力なターボエンジンを搭載してますから、もうガンガンいくよね。

言語能力がつく

 その昔はケータイもない、ネットもない、だからメールもないって世界だったので、遠隔の意思疎通といえば古式ゆかしい手紙しかなかったわけです。ラブレターですね。今から思うと、遠距離恋愛してたこともあり、呆れるほどよく書いたと思うし、向こうも沢山くれました。

 何をそんなに書くことがあったのか、今となっては覚えてないのだけど、やっぱ自分の思ってることを全部知ってほしいという欲求があるのでしょうし、相手が考えていることは全部知りたいとも思うのでしょう。

 あれだけ書いてりゃ、そりゃ文章も上達するでしょう。それも適当にもっともらしい美文を並べておくような、知的生産性の低い、ぬるいレベルではなく、自分の微妙な感情の陰影をストレートに伝えたいから、ものすごく表現に苦労するし、うんうん唸って書きますもん。

 よく言われることですが、技術の上達というのは自分の限界から始まります。「もうこれ以上はできません」という地点がスタートラインで、そこからあれこれ必死に工夫を凝らすからこそ技術は伸びる。自分の限界内の力だけでやってたら伸びはない。今の自分に出来ることをやってたってダメで、今の自分には出来ないことをやらなければならない。

 恋愛というのは刻々と感情の色が変わりますから、練習素材としては最適ですよね。離れていて寂しいよ〜というだけだったらアホでも書けるけど、その寂しいの内容をちゃんと伝えたい。さっきまで一緒にいて満ち足りていたのに、駅のホームで別れてまたひとりになったときの何とも言えない欠落感。あるべきものが無い空漠とした感覚。でも、心のどっかでは、一人になれてちょっとほっとしてる部分も正直あったりして、なんなの、これ、なんでほっとしてるの、自分?という複雑な感情のヒダがある。それをどう誤解なく伝えることが出来るのか?当然伝えられないから、意外な返事がかえってきて狼狽する。そ、そんなつもりで書いたわけじゃなくて、あー、なんて言ったらいいんだー?と悩む。全く思いもかけない視点から読み手は読むもんだということも知り、ひとりよがりの文章も矯正されていく。その過程で、句読点の打ち方も気を使うようになるし、また「淋しい」と「寂しい」の漢字の違いにも意識的になったりもする。

 後日受けた司法試験の天王山は論文式試験で、僕らの頃は一科目2時間で2問、1ページ10行(マス無し)が8ページ綴になっているのを2通書きます。つまり2時間で合計160行近く書くわけですけど、これって結構な分量です。しかも鉛筆不可のペン/ボールペンの一発書き。書いては消し、消しては書いては許されない(時間的にも無理)。それを七科目。全部で14通の答案を規定時間内に仕上げないとならないので、迅速&正確な文章作成能力が求められます。巧緻でも拙速でもダメで、時間配分を考えつつ、答案構成と文章推敲を頭のなかで済ませ、いきなり最適解文章を書き続ける。思うに、ラブレター書いてなかったら受かってなかったんじゃないかなー。ちなみにPCで文章作るようになると、あとで変更が容易な分だけ文章力落ちましたね。このエッセイもかなりダメっすね(すいません)。やっぱ修正不可の集中力が落ちるので、全体に甘いテンションになってしまうという。文章力あげたかったら、手書き×一発書きですねー。

 そこではもっと正確、的確で、簡明で、誰が読んでも一発でわかるわかりやすさを持ち、文章と文章、論理と論理のつながりがシームレスで滑らかに流れ、しかも奥行きと深みがあり、格調の高さもあるもの。さらに文章にリズム感があり、それもミクロ的な歯切れの良さと、マクロ的に全体を通じての「うねり」のような山と谷の作り方とか、そんなことまで配慮して書かねばならない。もう無限に修正箇所があり、どこまでいっても正解はないです。勉強はじめて1−2年目の頃は、先輩の書いた最優秀答案とか読む度に、はあ〜と吐息をついていたものでした。なんだこれは、同じ人間が書いたものとは思えん!これはもう芸術じゃないかてな感じ。それでもなんだかんだついていけたのは、やっぱりラブレター時代の下積み修行があったからだと思いますね。別にその頃は修行だとか全然思ってなかったんだけど、だから物事の上達なんかそんなもんですわ。夢中でなにかをやってると、結果的に必ず何かが身についてしまうという。

スピーキング

 以上は文章言語力ですが、スピーキングもリスニングも伸びます。
 「愛する二人に言葉はいらない」とかいうけど、いるって!そりゃラブラブ最大風速の瞬間は要らないけど、平常時においては、こういう言い方をするとややこしい誤解を生むとか、地雷のようなフレーズとかありますからねー。いちいち踏んじゃあドカーンと吹き飛んで学ぶという。結婚生活でも、奥さんが夕飯作ってて、自分がダイニングルームに入ってきたとき「なんだ、又カレーかあ」とは間違っても言ってはイケナイ。「今日”も”カレーか」もNGでしょ。仮に内心、「マジか、またかよ、ちょっと手抜きすぎじゃないのか」と思ったとしても、そうは言わない。言おうものなら、「文句があるなら自分で作れ」と言われるし、それが皮切りになって、大体二人共働いて疲れてるのになんであたしだけ作らないといけないのよ、結婚する前はなんでも家事は平等に分担とか言ってたのは何処の誰よ?あなたっていつもそうよね、口先だけじゃない。なによ、外面だけ良くて、エラそうなこと言って、要するにええカッコシイの偽善者なのよ、こないだだってそうじゃない、、、と機関砲の連続照射を浴びるわけですな。

 そんなものが「スピーキング」なのかというと、そうですよー。用件が伝われば良いなんてのは、人間の口頭意思疎通技術全体でいえばベーシックな30%くらいであって、上部には社会性だの、人間関係の維持・構築能力が問われるわけでしょ。接客だって、「お客様は、かなりデブですから」とか言おうものなら、即、打ち首獄門でしょう。そりゃ文法的には正しいですよ。意味内容が明確に伝達されたという意味でも文句ないですよ。でも死刑は死刑だよなー。それなりの言い方というのがあって、女性に対しては「ふくよかな」「やわらかな」とか、男性に対しては「恰幅のよい」「押し出しがよい」とか。

 これは英語でも同じで、かーなり無礼なこと喋ってるんだけど、インターミディエイト(中級)くらいまでは全体にヘタクソだから、まあしょうがないよな、悪気があるわけではないよねってわかってくれるから許されるけど、上級になってくるとだんだん許されなくなってくる。「お前、喧嘩売ってるのか?」というキツイ対応をされるときもある。英語に限らずなんでもそうだが、一般に上級者になるほど顔色が冴えず鬱々としてくるのは、一つ階段を登ると10個新しい課題が見えてくるという、多重債務者状態になるからですよね。ヘタな頃は課題があること自体わからないから、いい気なもんなのよねー。夏休みを純粋に楽しめるのは小学校低学年くらいまでで、高学年になる連れてだんだん夏休みの宿題が負担になってきて、中高にもなれば進学や受験がのしかかってきて夏の補講セミナーに行ったり、やがて就活の炎天下リクスーを体験し、そしてあれだけ長かった夏休み自体が縮小する。それも「お盆休み」という形で10分の1くらいにシュリンクし、やがてそれすらも怪しくなるし、あったところで配偶者の実家で「借りてきた猫」になってるだけだったり。上に行くほど鬱々とする。それにちょっと似てますな(笑)。

 話は戻って、若いときの恋愛は、この初歩的な練習をやります。楽しくおしゃべりしてたのに、気がついたら何故か相手の機嫌が悪くなっている。え、なんで?なんか変なこと言った?とか焦る。えー、なにがダメだったんだー?って必死に記憶を検索する。逆に、そういう言い方はないだろ?とカチンとくることもある。そういうことは友人間でも家族間でも普通にあるけど、恋人間の場合が一番鮮鋭に生じるし、問題になる。だからあれこれ考え、学び、上達もする。

 これが後日の就活面接やら、営業トークやら、外国語学習の基礎になる。「正直に言いたいことを言えばいいじゃん」というのは、かなりプリミティブで原始的なレベルであって、それって「ムラムラしてきたら、押し倒して犯しちゃえばいいじゃん」といってるくらい粗野なレベルに過ぎない、ということも学ぶ。大事なのは、誰も傷つけないで、しかも正直で率直であるという真部分集合のような、針の穴を通すような精妙なスポットをいかに迅速に、的確に見つけ、抜群のコントールで実行するかです。外角低めギリギリ、球半分だけボールになるスライダーを投げるようなものですな。かなりの技術が要ります。

人間力

モテ/非モテ期〜素敵な自分になるゲーム

 一番大きな効用は、自我の無駄に(有害に)出っ張ってる部分が削れることでしょう。同じくらい大事な効用は、その分、新しい自我が構築されることです。家の大規模な改築工事をするようなもの。それは男と女では価値観の体系がまるっきり違う点に由来するのでしょう。コンピューターでいえばOSが違うくらいに違う。この男女差に比べれば、地球上の民族文化の差異なんか微々たるものにすぎない。

 僕は男ですから、男系価値世界がいかに崩壊し、そして新たに広がっていったかという点しか語れないので、それを書きます。過去にも書いたことですのでさらっと流しますけど、まず男の子価値世界というのは、あくまでも「強い俺」「カッコいい俺」になるというただその一点に集約されます。男の人生の全ての営みは、強く、カッコイイ自分になるための過程でしかない。趣味が嵩じて「病(やまい)膏肓(こうこう)に入る」というフレーズがありますが、趣味に熱中しすぎて殆ど病気になることです。これは大体が男がなる。全財産投げ打ってでもコレクションの完成を目指したり、死線すれすれに車をかっ飛ばしてドラテクを養ったり、山にこもって格闘技にはまったり、あくまでも権力を目指したり、、、だいたい男が多い。それをしたから何かイイことがあるかといえば実は殆ど無い。その過程が面白いし、なによりもそれによって自分がちょっとでも強く、カッコ良くなる以上の快楽や価値はこの世に無いと工場出荷設定の男は思ってる。そういう種族なのよね。

 そんな男の子は、自分の趣味世界を滔々と彼女に話して聞かせるという致命的なミスを犯します。それこそが自我の本体だったりするのですが、でもそこで「興味ないし」と言われ、あまつさえ「キモい」とか引かれたりして、木っ端微塵になります。女の子にしてみれば、それは面白いだろうなーってのは多少はわかるけど、やりすぎなんだよ、程度ってものを知らんのかと。

 これは合わせ鏡のように女性にもあります。対比していえば、女性においては「美しい私」「可愛いわたし」になることが最高価値であり、そのためにはどんな努力も惜しまない部分がある。高額な基礎化粧品でも大枚はたいて買うし、お化粧のときは納得のいくアイラインを描くために超真剣に鏡に向かう。ネールアートも時間をかけて頑張る。お気に入りの服は自分の分身のようなものであり、それを誰かが切り刻んだりしたら自分の身が切られたかのように思う。それはバイクに熱中している男が、自分のマシンを誰かに壊されたときの気分と同じ。しかしそこまで必死に努力していても、男性からの積極的な評価はないし、共感も呼ばない。男性との間で、化粧テクをいかに磨くか論が話題になることはあまりない。むしろ男からみたら、そこまで必死に化粧命でやってられると、どんだけ化けてるんだよ?って薄ら寒い部分すらある。興味もないし、場合によってはキモくもある。

 男女いずれも共通しているのは、魅力的な自分になるゲームが楽しいということであり、それはそれなりに訴求効を持つが、しかし本質的にはズレている点です。たしかにスポーツ万能の男の子や、きれいな女の子はモテます。訴求力はある。でも、異性がそれを求めるのは、トータルとした、ざっくりとした「かっこいい」「かわいい」という結果、あるいは素材そのものであり、そうなっていく過程や、その過程技術の奥の深さや面白さには全く興味がない。

 これは生物界におけるメイティング(配偶者探し)が、「健康で優秀なDNAハンティング」であるという本質に由来するのでしょう。優秀な素材であるか、あるいは健康な現状であるかどうかが問題であり、そうなる過程や、そうなるためのテクニックの面白さはポイントではない。何かに打ち込んでいる男性が魅力的に見えたりするのも、燃えるような生命力の輝きが魅力的なのであって、カッコイイ俺になるため道のあれこれに共感してくれているからではない。

 その意味でいえば、男よりは女の子の方がデフォルトで賢く、したたかではあります。女の子は、化粧やファッションなどがいかに面白かろうが、価値を感じようが、それを彼と共有しようとは思わないし、共有できないし、すべきではないことを本能的にか知っている。男が求めるのは最終結果か素材だけであって、過程ではないことを知っている。大事なのは商品をいかにプレゼンするかであって、そのための努力は裏方のものであり、表に出すものではないと。でもアホな男の子はそのあたりが分かってないから、その過程を共有しようとする。最初のデートで、いかにこのギタリストが凄いのかを熱く語り、なにかについてディープな知識を披露してさらなる尊敬を勝ち得ようとする。やさしい女の子は興味ありげに聞いてはくれてるかもしれないが、本当は超退屈だったりもする。そのギャップ。

 恋愛ビギナーの男性がまず最初に学ぶのはそこですよね。自分の価値世界が全く共有されないという冷酷な事実にガーン!となる。次に学ぶのは、女の子が化粧やファッションにどれだけ時間をかけるかですね。デートやお出かけのために身支度に時間がかかる。服選びにつきあって、所在なげに店内外でぼけーと阿呆面さらして待っている。死ぬほどヒマなんだけど、それに耐えることですな。以上は、モテるかどうかという初期レベルで、底の浅い世界ですが、そこでもこれだけ違う。ちなみにこの原理を応用すれば、モテたかったら過程はプレゼンすべきではなく、本能的に訴えかける「素材の良さ」と「現状の輝き」を打ち出すべきだということになるでしょう。「もともと自分はこういう人間である」という素材系(例えば子供の頃の話とか)、そして今現在、これに頑張っていて、将来的にはこうなりたいという現状生命力系の話。

 余談ながら、女性の方が皇室・王室、家柄、王子様にキュンとなる傾向が高く、男性的には王子なんて軟弱な息子よりも、一代でのしあがった初代の英雄譚の方に興味がある。また自分が二代目だったとしたら、二代目と呼ばれることを嫌うのは男性が多い。自分だけの実力を誇示できませんからね。

本格期〜自我と世界観の再構成

 モテとかいうのは所詮はただのキッカケだけであって、そんなものは全体の行程からしたら5%もない。あとの95%は対等な人と人との激しい人格バトルでしょう。これがめちゃくちゃ意味あるカリキュラムになってます。

 僕が一番学んだのは、この世は、強い/強くない、優秀/劣等のデジタル二進法でできてるわけではないのだなーという男性世界観の崩壊と修正です。女性的な価値世界がだんだん自分の中に入ってきて、視野が発想が広がる。

 僕からみて女性の素晴らしさは、森羅万象と交歓できるチャネリング能力です。道端のお花が綺麗だとか、子猫が可愛いとか、ファンシーグッズが好きとか、甘いものに目がないとか、美味しいものが好き、美しい風景が好き、、、この世界の素敵な物事とダイレクトにチャネリングして、その素晴らしさが自分の中に入り込んできて、梵我一如みたいな境地に達する。

 女性にとっては当たり前のことかもしれないけど、男はそうではないのですよ。どうも男には本質的にこれが少ない。男の快楽やら価値体系は、「すごい俺」という自我の確認・強化の成長快感(だけ)がベースですから、何をやっても自分というワンクションを置くのですな。いろいろ食べ歩きして味覚が鋭くなったり、素敵なお店を見つけたりしたとしても、「味にはちょっとうるさい俺」「素敵な店を知っている俺」という自画自賛快楽に脳内でコンバートされるんですわ。あとあるとしたら知的好奇心です。世界が見えてきたり、知らないものが分かっていく過程が面白い。なんでそうなるのかのメカニズムが解明されていくところがエキサイティングだとか。これも凄い俺になるための過程としての技術論とか知識論から派生するものでしょう。

 でもそうやって自我というワンクッションを置く分だけ、男の場合、女性に比べて感動のボルテージが下がる。女の子ほど感動しない。その昔、ビートルズのコンサートで女の子がキャーキャー言うだけではなく、感極まってバタバタと失神したらしいのですが、男性で失神するくらい感動する人はいないでしょう。

 それを評して、世の男性は女性は感情的にすぎるとか、しょせんは女子供の趣味だとか、概して蔑視する向きもあるのですけど、そこは軽蔑ではなく尊敬すべきだと僕は思うのですよ。てか、だんだんそういう具合に世界が見えるようになってきた。ああすごいなー、あの森羅万象の受信感度、その官能の鋭敏さは見習うべきだと。スィーツを食べても「甘いだけ」「甘いもんは嫌い」とか感度鈍過ぎだった僕も、つきあいでイヤイヤ食ってるうちに段々とわかるようになっていった。わかるようになっていくと、ああ、これは知ってたわと思う。男にも自我を媒介としない純粋快楽があって、それは酒の味であったり、風と一体になって走る快楽であったり、それを全てに適用すればいいんだーってのがわかってくる。

 そうなると段々俺が俺がという自我肥大がダイエットされるようになります。俺様全能感の中二病から脱却できるようになっていく。この世界における自分の適正サイズが徐々にわかってくる。そうなるほどに無駄でバカバカしくて痛い力みがとれるようになる。別に自分なんか凄くなくてええわ、イケてなくても構わんわって気分に傾いていく。もちろん完全に脱却するのは難しいし、不可能だとも思います。それでも力みが消える分だけ、周囲を見回す余裕もできる。それを評して、包容力があるとか、懐が深いとか好意的に評されるようにもなる。「包容力のある俺」になろうと思ってもなれません。そこに「俺」という無駄にでかい家具が狭い部屋の真ん中にドーンとあるから、「俺」にこだわってる限り、どこまでいって狭いまま。無駄な俺を小さくしなければ。

 ここまでくると、女性が自分に何を求めているのかも分かるようになるし、デートの組み立てや、結婚生活の基本もわかるようになる。自慢快楽に取り憑かれているときは、いかに凄い俺を見せびらかすかという点にフォーカスするのですが、そうではなく、いかにこの世界の生理快楽を提供し、共有するかこそが求められていると。飽きさせない、話が面白い、息を呑むような景色の場所に連れて行くとか、こうすると面白いよ風情があるよってネタをどれだけ知ってるかです。

 で、ビギナーにおいては、懸命に雑誌やネットで調べてそれを知ってる自分をまた誇らしげに見せびらかすという愚劣なことをやりがちなんだけど、そうじゃないよね、「凄い俺」は期待されてないから。知らなかったら教えて貰えばいいのよね。若いうちは女の子の方が概してその種のストックは多いから、素直に学べばいいです。で、教えてもらって一緒に風景を見るなり、食べるなりしているときに、その感動を共有することです。単なるクソつまらねー田舎の風景だという杜撰な記号処理をしないで、改めてこうしてみると、いいもんだなーと子供のように新鮮な感性で味わうことです。

 そんなこんなで沢山教えてもらってきました。もういくら感謝してもしきれんってくらい。今の自分の中にはもともとの男性性と、後天的に学んだ女性性が半分づつくらいになってると思います。でもって、日々の喜びや快楽は、これによって飛躍的に増えましたから。

 特に海外生活ではこれが効いてます。何度も書いてますが、海外でメゲるのは民族を問わず男性が多いといいます。どこの社会も男社会ですから、「すごい俺」という自我フォーマットはどこも同じなんでしょう。でも、外国にくると何もかもが分からないから社会の最下層に組み入れられる。とくにアジア人男性がオーストラリアなどにきた場合、ガタイの良さも、脚の長さも、英語力も、社交的な技術も、金力も権力も、全てにおいて劣りますから、ほんとゴミみたいな存在に感じられたりもするのですわね。それで凹んでしまう。

 でもこれは「凄い俺」自慢価値観から脱却するいいチャンスです。「凄くなくても成り立つ自分」を模索するチャンスだって。もともとそんなに凄くないし、この先一生努力したって、今現在でこれなら先は見えてるんだわ、残酷な話。だから遅かれ早かれ「やっぱりヘタレだった俺」という辛い現実に対面しなきゃいけない。でも、凄くなくても人生全然OKだし、そんなこと気にするほうがおかしいのだ。実は世界はそんな風に出来ていないのだ。凄かろうがダメだろうが、夕焼けの綺麗さは一緒だし、感動は同じなのだ。てか、オレオレ願望が薄らいだ分、よりピュアな快感が用意されているわけで、人生が本当に楽しくなるのはそこからですわ。

 ちなみに、この原理を応用すれば、女性が男性を操縦するのは簡単でしょ。特に、自分の息子や年下の若い部下を操縦するのは、「赤子の手をひねる」容易さでしょう。だって自慢させてやればいいんだもん。その彼が成り立つように仕向けていけばいい。「さすが○○君だわ」「頼りになるわ」という言葉一つで、もう犬コロのように忠実に走り回りますからね。

おまけ

 こんな話は幾らでもできるのですが、長くなるのでこのあたりで。最後に断り書きを述べておくと、男とか女とか書きましたが、あれは理念型としての話であり、実際の生物学的ジェンダーが100%完全に対応するわけではありません。大体そうだろうなってくらいのアバウトな話です。ジェンダーは女性でも価値観や感性はかなり男性的な人もいますし、その逆もしかり。

 これらの男女差ですけど、なんでそうなるの?といえば「大自然の法則」なんでしょうねえ。生物としての完成度が高いのは一般的にメスの方だといいます。子孫を再生産できるから。不老長寿型ではなく、再生産繁殖型をとる地球上の生物、そのなかでも有性生殖型で、子育てをする哺乳類の場合、生殖・育児が基本タスクになるでしょう。その殆どをやる女性の方が完成度は当然高い。一方オスの役目といえば、精子(花粉)の提供という「出入りの部品業者」みたいなものです。一生に何回か精子を提供すれば良いだけの存在で、あとは存在理由がない。ミツバチの雄蜂のようなもので、日頃はぼけーっと過ごして寄生虫のように養ってもらって、女王蜂の生殖のときだけ精子を提供し、用が済んだら巣から叩き出されて、あとは野垂れ死にというのが大自然の正しい姿なのでしょう。

 そのことから以下の現象が出てくるのでしょう。出入りの部品業者としては、いかに自分の部品(DNA)が優秀か、お取引いただくために激しい競争でライバルたちを蹴落として勝ち抜かないといけない。だからオスの本能に競争とか自我優越願望がデフォルトで組み込まれている。そして、メスに何を提供できるかといえば安全な出産・育児環境であるから、喧嘩の強さとか生活力(財力)をまた競い合って獲得し、それを誇らしげにメスにアピールしてお取引いただくことになる。だもんで、自慢願望、見せびらかし欲求はオスの本能だから、それはもうしょうがないだろうなー。

 ところで人類の場合、知恵が発達していて生産力が増強していき、文明社会ができるようになりました。ここから脱自然というか、不自然でいびつなコロニーになっていったのでしょう。生産力向上によってヒマができる。もともとやることのない暇な男達がさらにヒマになるから、暇つぶしにいろいろやり始めるわけですな。それが今日まで続く不完全で出来損ないな文明社会の本質でしょうね。なんせ「部品風情がヒマつぶしにやってる」だけだからロクでもないのよね。無駄に筋力や論理構築力だけはあるし天然の闘争本能があるから、やたら喧嘩ばっかやるし、一生かかっても使い切れないくらい金を稼いでも、それでもまだ欲しがるし。対人欲求だって、愛する人に側にいてくれたらそれ以上は不要なはずなのに、無駄に大群衆にキャーキャー言われたいとか無意味に肥大した欲望だけが突出したり。でもって、こういうロクでもないことって、生物として出来損ないで無駄な慾望が強い奴ほど、それが上手になるし、執念のようにそればっかやるから権力を握り、もっとろくでもない社会を作る。

 大学で法学をやってるころは、世界は政治と経済で動いているとか信じていたけど、そんなことないよね。てか、あれって「邪教」ですよねー。そんなの動いてないもん。だんだん分かってきたけど、あんま関係ないかもって。だってさ、愛する人の髪の毛に触れたり、触れられたりする時間を過ごすために、なんでこんなに不快な苦労をしなきゃいけないの?ただ、その手をすっと伸ばせばいいだけなのに。

 人は愛しあうために生きてるっていう噂 本当かもしれないぜ (C)Blankey Jet City





 オペラハウスの建物は実は3つもある!というのは目の錯覚で、一番左端のやつはサイズも小さいレストランホールです。でもこの角度からみるとこう見えるという。







 文責:田村




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