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今週の一枚(2017/01/02)



Essay 806:悶々無重力地帯の歩き方(2)

 自分だけの羅針盤〜架空のトラックに惑わされないために

 写真は、先日までやっていた、St Mary大聖堂のライティングワーク。なかなかきれいだったですよー。
 今回は最後にいつもよりも多く写真を掲載しているので、右横の移動バー→がひときわ小さく表示されているでしょうけど、、ビビらないでね。



 あー、今日は元旦なんですよねー、そういえば(笑)。休むのも手なんだけど、まあいいや、ここまで書いちゃったし。

 細かく分けているのでシリーズ化してますが、もともとは第803の永住権のためのコネ就職の話。そこで述べきれなかったことを前回から書いてます。

 要旨は、
(1)就職 (and/or)スポンサードに重要な役割を果たす「よい人」に出会うまでが難しく、出会ってしまえばあとは簡単。特に日本人の場合、世界基準でいえばかなり真面目に働くので雇用主が重宝がって手放さず、ゆえにスポンサードされる確率が高い。

(2)したがって、勝負は「出会うまで」という曖昧な無重力地帯をいかに切り抜けるかという一点にほぼ集中する。そこでは技術・知識というよりもメンタル要素が大半を占め、それは精神力やストレス耐性を超えて、殆ど人生哲学のような世界になる。

(3)出会うまで=何らかのブレイクポイントに達するまで=のシンドイ期間の攻略法は、一見相反する2つの行動によって成り立っている。一つはブレずにコツコツ積み上げていく持久性であり、その持久力を支える価値観の強靭さ。もう一つは「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」「犬も歩けば棒に当たる」式のランダムで数をこなす作業。このコツは、永住権に限らず多くの局面において普遍化できると思う。

 このうち(1)は前回805回に述べました。今回は(2)(3)です。2と3は同じことを別の側面から言ってるものですが、それをさらに展開して、細かく述べます。

無重力地帯

 「無重力」というネーミングをしたのは、「地に足の着いた感じがしない」という生理感覚からの比喩です。

 「ライトパーソンと良い出会いをする」までの期間、何が辛いかといって、今どのくらい進んで、あとどのくらい頑張れば良いのかさっぱりわからない点でしょう。GPS信号は完全にロストして、「今ココ」というのが全くわからない。ダウンロードのように「○%終了」という表示も出ない。なんせ初日に出会うかもしれないし、10年後かもしれないし、もしかしたら一生出会わないかもしれない。東西南北どの方向に進めばいいのかも分からないし、何すれば出会えるのかもわからない。

 殆ど「運命のイタズラ」とか「幸福の女神」に出会うようなもの。あたかも大海原や大砂漠にぽつんと漂流しているようなもので、このあまりの取り留めのなさ、あまりの茫漠とした感覚は吐き気すらもよおすでしょう。

 でもね、これが永住権への道、就活への道のリアルな実体なのですよね。いや永住権に限らず、生計の立て方の本来の姿であり、ひいては人生の基本はコレだと言ってもいいと思います。これが原型、これが基本。生まれてから死ぬまで全部コレだと。なぜなら「人の世のいとなみ」とは、本来こういうものだからです。

砂漠のトラック、ゴールにはなにもない

 そのあまりの心細さに耐えきれず、803回で述べたようなお勉強至上主義のようなものが出てきます。ここがスタート地点で、今ココにいて、あそこがゴールだよ〜と。これをやってもらうと、すっごい気分は楽です。でもそれはそれだけの話で、ゴール地点が砂漠のど真ん中の取り留めのない地点であることに何の変わりもない。いわばミステリーサークルのように、砂漠に線を引いて陸上トラックを作っただけの話、

 ゴールということで言うならば永住権だって同じことです。永住権ゲットまでたどり着いた方は、あるいは頷いていただけるかもしれないけど、あれほど望んでいた権利であっても、取れてしまえば、「だからなんだってんだ?」という気分になるでしょう。そのあまりの無内容さに「ふーん」という複雑な気分になるでしょう。だって永住権が取れたところで、働かなければ食えないし、頑張らないと日々進まないことに何の変わりもないですもん。そりゃ追い出されないとか、公的扶助が得られるとか、税率が安いとかいろいろあるけど、日々のリアルな生活実感でいえば、驚くほど何も変わらない。

 ま、「ゴール」なんてそんなもんスよ。以前、ESSAY 464/確認の旅、「なるほど」の旅で書きましたが、人間やめました的な猛勉強を延々つづけて合格した司法試験だろうが何であろうが、出来てしまえば、頂上には何もなかった、てかもっと過酷な修羅場が待ってました、というだけで、それを確認するための旅だったってことです。「ゴール地点にはなんにもないよ」「それもまた砂漠の一点にすぎないよ」ということを身をもって確認するために人は死ぬほど努力をするのだと。

 でもそれは、皮肉や厭世的に言ってるのではないです。「ゴールには何もない」という認識は、死ぬほどの努力を払っても尚得るだけの価値がある。人生観や世界観、幸福感がワンノッチあがります。「なるほどね、そういうことか」と。ゴールに達してみて初めて、それが砂漠に石灰でかかれたトラックに過ぎなかったことがわかるし、「ははは、なんだー」って笑い飛ばしたくもなるし、笑い飛ばせるようにもなる。その認識は値千金で、それは得ておく必要があるでしょう。もう二度と騙されないために。そして本当の自由を満喫できるようになるために。

ブレない歩き方の基本

羅針盤

 東西南北どっちに向かえばいいのかわからないという圧倒的な不安感は、東西南北どこに行っても良いという圧倒的な自由でもあります。同じことなのよね。

 そうなってきたら、今ココというGPSや「よし、こっちだ」という方向感覚は、他人が作ってくれた標識ではなく、自前の感覚で決めていかねばならない。その際頼りになる羅針盤は、(1)生まれてから死ぬまで自分が対峙し続ける森羅万象・全世界であり、(2)自分自身の意思や感覚です。それ以外は、本質的に役に立たないと思います。

 (1)の世界は、夜空を仰いで北極星をみつけたり、風の向きや気温変化でさぐっていけます。あっちが北だとか、潮の匂いが微かにするようになったから海が近いぞとか、だんだんヒンヤリしてきたので寒い地帯に向かっているのか、あるいは寒い季節に向かっているのか。それは紀元前からとうとうと流れる大河のような人類史を知ることであり、だからこういう方向に行くだろうと推知することでもある。あるいは、風や温度の皮膚感覚は、お客が年々減ってくるので、もうだめかもねーこの業界という経済感覚でもあります。まず世界を知る、予測する。これ、人に教えてもらわないほうがいいよ。本とか、ネットとか。なぜって皆色々言うし、結局それらを揃えたら全ての方向の理屈がありうるからです。そして全巻読破なんか出来るわけないから、結局たまたま読んだ本によって「なるほど」と思って決めるということなる。要するに偶然であり、鉛筆転がして答案用紙を埋めているのと価値的には同じでしょ?そんなくだらないバクチを打つくらいなら、わからないまでも自分で感じ、考える感覚を養ったほうがどんだけ役にたつか。

 そして(2)が極めつけに重要になります。自分は何をしたいの?どうなりたいの?という本来の価値観や人生観です。

 この価値観は100%何でもアリです。将来医者になるとか、映画俳優になるとか、年収数千万の稼げるビジネスマンになるとかそれはなんでもいい。

 てか「自分は○になる」というフォーマットである必要もないです。いやむしろそうしない方がいいかも。
 別に何者にもならんでええわ、どこまでいっても自分は自分でしょって。だからできるだけカタチを決めたくないし、決められたくないって基本路線もアリだと思います。ちょい難しくいえば、自分のありようや人格に、不本意な干渉をされたくないと。そのため=他人にとやかく言われたり、強制されたりしないだけのパワーが欲しい、他人をして一目置かせるだけ、沈黙させられるだけの自分でありたい、その強さが欲しい。じゃあどうするんだ?その自信や強さはどうやったら獲得できるのか?と思考は進み、ああそうか、他人を目を気にしたり、他人に褒められようと思ってやってても自信なんかつくわきゃないわな、そういう「顔色うかがって生きる」みたいなところから直していかないと、本当の自信や強さはでてこんわと納得したり。じゃあ、他人の目を気にしないで、例えば自分以外の全人類が消滅したとして、それでもやりたいことはなにか?というと、、、えーと、、、だんだんと無表情な砂漠に陰影や起伏が見えてくる。

 あるいは、とにかくキャーキャー言われたいんだあ、承認欲求のあくなき満足こそが我が人生なのだーって人もいるでしょう(そういう形で自己認識することはマレだろうけど、要するにそういうことだろ?という人)。そういう人は、その価値観に基づいて方向やルート選定をすればいいし、それにしたがって「今ココ」という地点感覚を養えばいい。朝から晩までどうすれば他人に「凄いですね」と言われるかを研究し、そのためアイテム(高級車とかファッション)に金がかかるなら馬車馬のように働いて稼げばいい。また、リアルタイムの世間で受けているのは何か?これからどうなるのか?という世間の動向にも敏感にならねばならない。今時こんなことやっても流行らないなーとか。

 なんでそんな根本まで掘り下げないといけないか?というと、だから砂漠にひかれた架空のトラックに惑わされないためです。僕らは子供のころからずっとトラックを引かれて、走らされてきたから、いざそれが取り外されてみたら、いきなり虚空に放り出されたような心地がするでしょう。そのナマな実感は「怖い!」でしょう。飛行機から蹴り出されて、宙空を浮いているような圧倒的な恐怖感をいだくでしょう。それを防ぐためには、自分でトラックを引くべきであり、その際どこにどのような線を引くかは、すぐれて個々人の価値観やライフスタイル選好からくる。

 ちょっと横道に逸れますけど、「不安」というのは想像している段階に感じるものであって、実際にそうなってみたら、リアルに感じるのは圧倒的な自由感です。これは思い悩んで会社を辞めた人、こっちに来た人だったらある程度理解してもらえるかと思いますが、辞める前がとにかく怖いんですよねー。どうしよう?失業者だー、もう人生終わりかもって思うんだけど、いざ辞めてみて、朝起きてもカイシャ行かなくて良くなったときに感じるのは、とてつもない開放感であり、自由の素晴らしさでしょう。僕も独立して弁護士開業する準備をしつつも、なんだかなーと感じて、「タイム!」って強引的にぶった切って、こっちに来たわけです。そりゃあ不安感なんか山程ありましたけど、いざシドニー空港に降り立って、見渡すかぎりぜーんぶ外国(当たり前だが)って環境になって感じたのは、「ひゃっほー!」という喜びでしたもん。いやあ来ちゃったぜい、やったあ、ざまあみやがれ、後は野となれ山となれだー、わはははははは!という、なんかよく分からない高揚感に包まれましたもん。自由と不安は表裏一体、てか同じものなのだけど、不安はもっぱらやる前に想像上感じるもので、いざ実行段階に入ると感じるのは自由の素晴らしさです。だもんで成功慣れしてる人は、すぐ行動するんですよね。「え、もう?」とめっちゃ早いね。スポーツの試合前のように、なんでもやる前がキツいから、できるだけ恐い時間を減らして精神的余力を残したいからです。そこをウジウジやってると、始める前に精神的リソースを使い果たして、消耗して終わってしまう。何やってもうまくいかない人の一つの典型ですね。

 話を戻して、価値観の根本まで遡るのは、そこからやってかないと羅針盤が用意できず、無重力地帯で完全ロスト!してしまったり、あるいは、また性懲りもなくお勉強やら資格やらの「架空のトラック」にしがみついて貴重な資源を使い果たしてしまう恐れがあるからです。それがなんであれ、不安がモチベーションになってる営みは、大体うまくいかないです。精神的に逼迫してるから、バランスのとれた良い判断ができない。目先の餌にパクンと食いついて釣られてしまう。そうならないためには、確固たる自分だけのオリジナルな方針が欲しいし、それは地中深く、人格の核心から生えてくるものである方が好ましいです。それが深く核心的なものであればあるほどブレないですからね。

 また矛盾するようですが、深く核心的なものであるほどにフレキシブルに可動領域が広くなる。自分が自分であり続けるためには○○が必要で、それさえキープできたらそれで良いってところまで極められたら、あとは銀行員になろうが漁師になろうが、その部分がキープされているかだけがポイントになります。逆にいえば、一見ものすごーく違うことをやっていても「ブレ」にはならないってことです。これが浅い表層的なところで決めていると、1メートルズレただけでもう全然意味がないとかいう話にもなる。つまり、核心的であればあるほど選択肢は無限に広くなりうるし、浅い決め方をすればするほど選択肢の幅は狭くなる。どっちが良いか、成功率が高いかは言うまでもないでしょう。

 わかります?例をあげましょうか?核心から出てくる物事が例えば「子供」だとするなら、保育士とか教諭とかが出てきますが、それに限るものではない。児童養護施設もあるし、里親制度などもあるし、各種ボランティアもあるし、童話作家になるとか、紙芝居や指人形の劇団を作って巡回するとかもあるし、役所や政治家になってよりよいシステムを構築する方法もあるし、心理士などでカウンセリングするとか、子供用に体験農場をやるとか、子供用の安心できる食材を提供するとか、タイガーマスクの伊達直人になって訪問するとか(笑)、、もう無限にあるのですね。これがさらに「人の笑顔を見たい」「他人と明るく生産的な形でつながりたい」「自然の息吹を感じていたい」とかになったら、もう殆どこの世の半分くらいがストライクゾーンに入ってきます。なんぼでもやりようがある。ところがあっさい浅いところで決めると、例えば「今申し込むとこんなにお得!」だけで決めたりするなら、タイムアウトで割引終了とかもっと安いところを見つけただけで、全てが崩壊してしまい、ゼロからやり直しになる。積み上げもない。そこまで極端ではなくても、このコースだと永住権のSOLに入ってますよで大枚叩いて入学したはいいけど、卒業する頃にはSOLから外れてしまったら、全てが水泡に帰する。

永住権ゲームがその価値観に乗るかどうか

 とりあえず、永住権でいうならば、永住権獲得プロジェクトという永住権ゲームをやるということが、自分の内なる価値観に照らして「アリ」と判断できるかどうか、です。

 例えば、今僕が日本にいて同じことを考えるなら、多分次のように思うでしょう。

 なるほど最終的にゲットできるかどうかは運賦天賦なのね、でもこの世に確実なものなど何ひとつないもんね、それは特に問題ではない。それよりもそれをやる過程で何が得られるかだけど、とりあえず現状を固着させないで意思の力だけで変革するという自己変革の練習にはなる。守りに入ったらあとはジリ貧だから、守りに入らない、常に攻めに出るという行動パターンをここで強化しておくのは長い人生において意味があるだろう(これは僕自身実際そう思ったし、それが渡豪のメインの理由でもあります)。
 第二に、没落日本におっても先は厳しいので、保険をかける意味で世界に橋をかけておく必要はあるだろう。それは海外の知人を紹介してもらうだけではなく、海外での人間(商業)関係を常に作りうるだけの自分でなければならない。それは言語力もそうだし、海外ならでは感覚に慣れること、独特の波長やノリにシンクロさせること、そういう感性を開花させることが必須だろう。人間的に波長が合わなければ何も始まらないしな。また、それを楽しい!と思える自分になれなかったら、やってて辛いだけで何の意味もない。
 第三に、常に変動するビザ規定を右目で睨み、左目で海外で稼ぐという現実を追い、頭のなかで統合しつつ、チャンスを探し、つかみ、しょーもなかったら躊躇いなく切り捨て、またさらに、、、と千変万化する戦場で臨機応変に動き、勝機を探し、モノにするという訓練は、これは人生そのものだし、やっておいて損はないどころか必須教程ですらある。ただ日本でそれを訓練しようにも人の目もあるので自由奔放に出来ない恨みはあるし、やったところでその右往左往の軌跡が正しく評価される可能性は低い。だとしたら誰も知らない海外でどこまで踏みとどまって戦えるか、それは思う存分やってみる価値はあるとは思う。こういった営みは、それが結婚でも事業でも同じことなんだが、この場合はダメだったところで帰ってくればいいだけのことだからリスクは少ない。旅の恥はかき捨てだもんね。日本で乾坤一擲なんかやる方がリスキーだったりもする。とりあえず、それを5年、できれば10年くらい転戦に転戦を重ねて、揉まれて揉まれてくれば、ちっとはしぶとい生存能力はつくだろうし、俺はどこでもやっていけるという自信もつくだろうし、目の前の状況に応じて手なりに創り上げる技も増えるだろう。
 第四に、英語に関しては10年もやってれば、そこそこはいくかも(これも実際にそう思った、一つの技術を本当に使えるレベルで身に着けるのに10年はかかるし)。英語がそこそこ使えるレベルになれば、日本の最大の成長産業である「やってくる外国人のお財布を狙う」系は有利になるだろう。Airbnb的なものでも、紹介文に、カタコトの日本人英語でななく、本当にネィティブが書いてるかのようなこなれた英文を書き、こなれた英文でメールのやりとりをすれば、相手の安心感はかなり増大するから商売繁盛、かもしれない。相手が欲しいのは、不慣れな異国で、言葉が通じるだけではなく「価値観が通じる」ことだから、それを英文で示すだけの力は絶対必要だろう。その感覚は不断の日常によって磨いていくしかなく、そのためにはざっと10年。
 おし、じゃあ次の10年はこれでいってみますか。これだけのカリキュラムをこなしたら、ワガママな自分がワガママに生きていくためのスキルと自信は養われるかもしれない。ほかにもっといいカリキュラムがあればいいんだけど、先が読めない反面、全部自分の判断でやっていけるというのが気に入った。自分向きだわ〜。じっと我慢で懲役3年出てきたら金バッチだ、なんてのは自分には似合わないもんな。おし、これでいこ。

 みたいな感じね。
 別にこのとおりである必要はない、てかあってはならない(それはあなたのオリジナルで)のだけど、根っこの部分から、「なんでそれをやるの?」というのが納得できて、すっと通ったら、無重力地帯に「重力」が発生する。地に足がついてくる。そして、見えなかったルートも、それぞれの地点の「意味」も見えるようになってくる。羅針盤というのはそういう意味です。

もう少し具体的に

ライトプレース、環境整備

 とりあえずは居場所選定でしょう。シェア探しを最初にやるのは、その基本スキルが最も効率よく学べるからです。運によるランダム変数を身体で理解できるという、日本の正社員経験3年分くらいのノウハウが1週間くらいで身につくという学習効率の良さもあります(それを後に応用活用できるかどうかは本人次第だが)。

 よいシェア先、よい住まいは、自分を新しい扉に連れて行ってくれます。以前こられた方も美容師さんだったけど、日系の美容室ではなく地元ローカルの美容室でいきなり働いてました。英語初級だけど。それはシェアメイトのおじさんがいい人で、そういうことならと、自分の行きつけの美容室に働けるように口を聞いてくれて、それどころかトライアル初日には半日仕事を休んで授業参観のようについてきてくれたという。これによって自信をつけてからは、結局2年のワーホリ期間中、ラウンド行き先で都合4軒のローカル美容室で働き、最後の方は時給23ドル(数年前の話だから今なら26ドルくらいかな)でも不満たらたらで、「今日こそ賃上げ交渉にいってきます」とかいってました(玉砕だったが)。

 けっこう予算オーバーのシェア先だけど、人がいいからということで思い切って決めて正解というケースです。まさかそんな余録があろうとは最初の時点で夢想だにしてないのだけど、ライトパーソンに出会いたければ、ライト・プレースに居ろってことですよね。

 もう一つはバイト先です。学校ではない。多くは語学学校やビザ取り学校とか上級学校に行くのですけど、学校というのは主たる機能が別にあり(技術習得やビザ取りとか)、それは一定のクォリティを備えていれば(その判断が素人には難しいんだけど)、それでいいです。それ以上に「新しい扉」があるかどうかは微妙ですね。なぜって留学生仲間は打ち解けるのも早いし、楽しいんだけど、みんな「よそ者」だからローカルに太いパイプがあるわけではないのですよね。まあ韓国系のクリーニングのバイト(多い)を紹介してもらえるとか、そのくらいかなあ。だから技術とビザと、あわよくば日々の彩りを得られたらそれで良くて、それ以上に期待すべきではないと。むしろバイト先の方が扉があるでしょう。潜在的雇用主やライトパーソンがいるローカル社会の一角を占めており、地続きになってますからね。

 バイト進化論でいえば、最初はジャパレス→ローカルのカジュアルジョブでクリーニングなどか、あるいは地元のカフェ、レストランなど→その他のローカルの現場カジュアル系の仕事(ペンキ塗りとか、工場とか。ファームは典型的だが)。そしてそこから専門性の強い方向にいくか、よりマネージメントに近い方向にいくか、です。そこはその人のスキルと、あとは成り行きでしょうね。まあ、実際には日本人の場合、ジャパレス系でビザが取れるパターンが多いです。あとは自動車整備とか建築関係、看護師などの手に職系ですね。専門性でルートが決まってるなら格別、そうでないなら、「なんでもこい」「かかってきなさい」でオールマイティにやっていくしかないかなーと思います。職種っつっても、どうせ下っ端仕事ですからねー、大したキャリアになりっこないし、それよりも人の善し悪しの要素の方がデカイですから。

 なぜってね、その職種のバイトをやってるからその職種で永住権を〜とかいうものでは「ない」からですよ。ローカルの人と知り合う「場」としての職場が欲しいんですよね。チャンスは思わぬところからやってきますもん。僕が知ってるだけでも、犬の散歩のバイト(Dog Walking)を自分で電柱に広告貼って(それをやってくれたのはシェアメイトのオージー)みつけて、散歩が終わったあとホームパーティやってるから「一緒にどうだい?」と呼ばれて(こっちはそういうのが多い)、そこでたまたま会った人から、ステイブル(厩舎、馬のお家)の世話係の就労ビザ出してもらったケースもあります。あるいは働いてたジャパレスの常連客や、ボードにシェア広告貼りに来た地元のオージーと話をしてそれがキッカケで〜というケースもあります。

 つまり狙って狙えるものではない場合、どうしたらいいか?です。狙えないんだったら何やっても等価ですよ。その代わり、その場で生き生きとした自分、自分らしい自分が出せるかどうかです。卑屈に打ちひしがれたり、疲労困憊して人と話をするのも億劫だみたいな状況ではなく、自分の良さがちゃんと表現されるような場であるかどうかだと思います。ツラすぎたり、気詰まりだったり、ムカつき過ぎる職場ではナイスな自分なんか出せっこないですし、誰と会ってもおざなりな対応しかしないだろうし、そこから広がっていかないでしょ?

 また、そのバイト本来の筋もありますよ。やってて居心地いいな、楽しいなって職場だったら、自然と励むようになるだろうし、そうなれば覚えもめでたいだろうし、そうすれば 「あのさー、ちょっと話があるんだけど」、"Hey, we need talk"とかいって何か新しい展開があるかもしれない。

 あるいは、meetupでも、ボランティアでも、ヨガでもダンスでもサーフィンでも何でもいいから、人がいる場所にいくことですね。無理やり行くってんじゃなくて、好きだから行くってところ。こっちは皆さん人懐こいし、人見知りしないから、全くのよそ者が「まいど〜」と入っていっても、大体は快く迎え入れてくれるし(そのへんは上手ですねー)。前に、サーファーで、ローカル仕事は全部地元のサーファーから紹介してもらってた人がいるけど、ああいう仲間は強いですよね。

 ということで、Right Placeという環境設定は、これはとても大事だと思います。

 でもせっかく良い環境に恵まれているのに、英語がいまいちだからよう話も出来ませんでしたでは、チャンスをドブに捨ててるのと一緒ですよね。だからまだヒマな時期(なにかをしていく力もコネもないし)、マンネリ化しないでなにもかもが新鮮な時期、つまり初期において固めて英語やっておけ、可能な限り底上げしておけと口を酸っぱくして言うわけです、僕は。生活が充実するするに従ってやってるヒマがなくなるんだし、語学なんか膨大なヒマ時間がないと中々伸びないし。でもなっかなか通じないのですねー、まあ無理ないんだけど。でも、「ああ、そういう意味だったのか」と気づいたときは半分手遅れなんだわ。難しいもんです。永住権とった後に語学学校行く人もいるもんね、僕が学校行ってる頃にクラスにいました、韓国系の牧師のおじさんで、さだまさしに似た人でめちゃいい人だったけど「こんなんじゃ話にならん」と頭かきながら懸命にやってました。

Faith〜健康な楽天性を支えるもの 

 以上はいずれも、ライトパーソンにであえる「かも」という話です。絶対に出会えるという保証はどこにも無いです。出会えないかもしれないし、それも十分ありうることでしょう。

 でね、そこで「そんな曖昧な話は不安でいやだ」「なにか確実な保証が欲しい」と強く思うあなたは、永住権とかやめた方がいいです。今この場できれいサッパリ忘れたほうがいいです。その代わり、上に書いたように、「この世に確実なものなど何ひとつない」という当たり前の原理を、自分の人生上の体験として10年かけてでも履修したらいいと思います。大企業だっていつ潰れるかわからんし、潰れなくても知らない間に合併してて、リストラ要員にされて、出向とは名ばかりの片道切符の特攻隊に入れさせられたり、実はガンでしたと発見されたり、身内が不慮の病や事故にあったり、地震、噴火、家事、台風なんでもありです。大体こんな自然災害の多い国に生まれ育って、諸行無常が国是のようなこの国で、どの口が「確実」なんて口走るのかって。

 確実なんかこの世にないです。何度も言うけど。めでたく志望会社に就職できても、鬱になったり過労死したり。めでたく結婚しても離婚したり。あれだけ多くの人が就活頑張ってるのに、なんであんなに大量の離職者が出るの?あんなに婚活頑張ってるのに、離婚の数があんなに多いの?「確実」なんか幻想だって、そういう世界にリアルに生きてるんでしょうが。これも繰り返しになるけど、そこは「ゴール」ではないよ。あるいはゴールには何もないよ。You know that!

 OK、この世はすべて不確実だ、不確定性の原理だ、わかった、じゃあそれを前提にしてどうすればいい?といえば、

(1)できるだけナイスな環境を設定し、できるだけナイスな自分になる作業をする(前述)に加えて、(2)Faithが試されると自覚すべし、(3)羅針盤に照らして確認すべし、(4)あとは実践、手数の勝負、数をこなして解決する。

 Faithというのは、これも最近どっかで書いたな(Essay 786:Lost Faith)、信用とか信仰とかいう概念で、この場合何を信用するのかといえば、「この自分には普通にいい出会いはある筈だ」「この世界はその程度には素晴らしいはずだ」という信頼です。「こんなことやっても無駄無駄あ!」と投げてしまう人は、フェイスが足りないのだと思いますね。

 このあたりはその人の世界観が鋭く問われると思います。例えば「真面目にコツコツやってたら報われる」という命題を正しいと思いますか、間違ってると思いますか?と。僕は概ねYESです。どの程度のYESかといえば、「日本には毎年台風がやってくるから、今年もやってくるだろう」程度ですね。ほぼ大体そうだろ?という。そこで、いいや違うぞ、コツコツやってても全然報われないで、貧乏くじばっか引かされている奴もいるぞ、私は知っている、てかそれは私だ!という人もいるでしょう。そこは人それぞれだと思うのだけど、僕がほぼ確実にそうだろうと思うのは、それ以上にトータルで成功率があがる方法が見つからないからです。そりゃ犯罪すれすれのズルい手段や要領カマしたやりかたもあるんだけど、でもそっちの方がずっと難しいでしょ?それって特殊な才能いるもん。個々人のミクロ特性を一切捨象して、マクロ命題として考えてみたら、誰も彼もが一発ホームラン狙いの大振りをしていくよりも、脇を締めて確実なミート打法にしていった方がトータルでの勝率はあがるでしょ?と。まあ「真面目」「報われる」の程度にもよりますよ。バイトを無遅刻無欠勤でやれば(業務中失敗ばっかでも)、ノーベル賞とれますか?報われますか?といったらそれは無理だけどね(笑)。まあ、常識的な線でいえば、大体符合するんじゃないのかな。

 そこで何がなんでも世の中スサんでて、人をみたら泥棒と思えと思い込んでる人とかいるけど、それはそれまでのご自身の体験がそうだったんでしょう。あるいは何も体験してないんだけど、耳年増になってるとか、失敗を異様に恐れるがゆえに何も出来ず、やらないことの言い訳として世の中を恐怖的に描いている(とれない葡萄は酸っぱい)のかもしれないです。でも、それは自由っすよ。何をどう考えようが、それは個々人の自由。んでも、そこでフェイスがない人は向いてません。そもそも地球ライフに向いてるかどうかも疑問なのだが、少なくとも海外とか永住権には向いてないなー。「分かんないから、面白いんじゃん!」「いやあ、結局なんとかなるんだよ」って人でないとね。

 そのあたり本人の責任も功績もあるんだけど、周囲の人の影響も大きいでしょうね。物の道理が通っている、悪いことをしたら罰せられ、良いことをしたら賞賛されるという大雑把な是非善悪がきちんと通ってる生育環境で生まれ育ってきたかです。特に親が公正に信賞必罰で育ててきたり(完璧は無理だけど、でも大筋では)、親自身がそういう生き方をしてきたら、そのあたりのフェイスは養われると思います。真面目にまっすぐ進もうとするでしょう。でもって、世の中真面目にまっすぐやってりゃそこそこ成功するのが90%以上だと思いますからね。その意味で日本はいい社会ですよー。前回の仕事が真面目だってことも、社会というのはそのくらい真面目な気持ちで参加するものだというFaithが多くの国よりも強いからだと思うし、それが養われてきたのは、生まれ育った日常的な生活風景(メディアのあれこれではなく)がそうだった、まっとーな人で占められている比率が高かったということでしょう。これがどいつもこいつも悪党ばっかだったら、そういうもんだと思うでしょうしね。

羅針盤GPS

 ぜーんぜん話が進んでる気がしない、何も伸びてる気がしない、せっかく決まった職場もクソだから又振り出しに戻るでやってらんねーぜってなりますけど、そのとき自分を助けてくれるのが上に書いた羅針盤(自分の価値観)でしょう。

 まずは「進んでる」とか結果ばっかを気にする根性を改めるべしです。出会いというのはスロットマシンで数が揃うようなものです。そこではいきなり揃うか、ダメ化の2つがランダムに出るだけです。3桁の数字だったら、まずは百の位が揃って、次に十の位、最後の一桁で微調整が、、とか、だんだん揃っていくもんではないです。今回1番違いという、惜し〜い!という番号が出たかといって、次回はまるっきりのブタになるかもしれない。

 以前、永住権のための実習のレストラン探しをやってる人がいて、たまたまとある有名なレストランにレジュメ突撃をしたんだけど、しっしって感じで追い返された人がいます。んでも、しょぼんとして帰ろうとしたときに、たまたまその店のやり手の女性シェフの人が休憩から帰ってきて、事情を聞くや、じーっと顔をみて、「この子、雇ってやりな」って鶴の一声で決まったそうです。その後は有名店だったこともあり、あとは引く手あまたみたいになったそうですが、この話のポイントは2つ。一つは運命の女神なんかそんなもんよ、ということです。このとき外に休憩にでていたシェフが、もし信号待ちかなんかで数分遅れて入ってきたら、多分横断歩道かどっかですれ違ってそれで終わりになってたでしょう。チャンスというのはそういうもので、逆にいえば、今日も昨日もものすごい数のニアミスをしてるかもしれないってことです。そういう性質の物事に「あとどれだけ」とかいう概念を持ち出すこと自体ナンセンス。

 もう一つは、じーっと顔を見られたとのことですが、こういうパターンはよくあります。僕も見られたことあるし、それがいわゆる「人を見る目」で、やり手のおばちゃんなんかがよくそうするイメージがあります(統計根拠はないよ)。で、そのときに何を見られているのか?です。多分、そういう人は、人の本性を見抜く力があるのでしょう。それが合ってるかどうかは神のみぞ知るでしょうけど、生き馬の目を抜く実戦現場でこれまでそれでやってきてるということは、それなりに本当に見抜くのだと思う。その際、顔に出ると思うのですよ。表情とか、特に目ですか。真面目そうか、根性ありそうか、学習能力ありそうか。そのときにナイスな自分(単に如才なく快活な、という意味ではなく、それまでどれだけ誠実に生きてきたか)が問われると。真面目コツコツ→報われるという一例でもありますけど。

 でね、そんなある日突然!みたいな出来事に一喜一憂してても始まらない。もっと他に考えることがあるということで、羅針盤です。先の例でいえば、守りに入らず攻めに出る訓練としてやってるんだから、ちゃんと攻められているのか?という自己採点とか、同じ断られるにしても、今日はこれまで出来なかった「もうひと押し」が出来るようになったぞ、えらいぞ、自分とか、もう「このくらい進んだ」「これだけ出来た」という位置感覚は幾らでもあると思います。どうせゴールにいっても何もないんだからさ、それよりも日々の営みで、今日は何をゲットできた、これまでどれだけ進んでこれたか、考えるべきはそこだと思います。それが自覚的に出来るようになれば、進んでいく喜びは得られると思います。

 でも言うは易しで、自分のこととなると良くわからないんですよね。全体にこうなっていて、そのためにはAとBと、、、Gまでの要素が必要で、BとFはここまで出来たし、それは予定よりもかなり早く達しているのでいいぞー、でもCの部分は難所だから中々進まないよね、引き続きCのとっかかりを探す作業を継続、とか、自分ではわからんもんです。僕が皆の相談を受けたり、カウンセリングでやるのは、この部分ですね。なかなか全体構造を整理したり、個々の内容を言語化するのって難しいですから。特に不安になってると焦燥感でわーっとなってよくわからなくなる。そこを第三者がピッピッピと整理するとスッキリ見通しも良くなるし、ここまではまずまず順調に推移してるなってのもわかってほっとするという効能はあります。無重力はしんどいですからねー。

実践

 もう長くなったのでちょっとだけ。とにかく手数の勝負、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる方式でやっていくしかないです。狙いすました一発でなんてのは、ゴルゴ13のようにすべてを理解した超プロのやることで、やったことない人間がそれをやるのは「鵜の真似をする烏、水に溺れる」というコトワザのとおりです。近代機甲師団に対して火縄銃で攻めるようなもので、話にならんです。

 また、多くの失敗は、全体のプロセスを短く見積もりすぎです。45手詰くらいの詰将棋を3手で詰ませようとするから無理がある。東京から大阪まで歩いていくのを、近所のコンビニくらいの距離しかないと見誤る。やることやってきた人は、この距離感見誤らないでしょう。英語10年、現地10年とか僕がいうのも、過去の経験に照らして、そのくらいはかかるだろうという見積もりですし、実際にそのくらいかかってますしね。だから3段階でゴール!じゃなくて、100段階くらいあるんだと思うことです。いきなり永住権取れそうなスポンサード付き就職を日本から狙うというのは、これもコトワザでいえば「二階から目薬」ですよ。現地で働いた経験のない人だったら、とりあえずなんでもいいから働いてみる。1セントでもいいから稼ぐという体験を積む。これだけで100ステップの1ステップは達成!です。このように距離を正確に考え、ステップを小刻みにするのは必須だと思う。それは同時に、上で述べた羅針盤的な達成感につながるし、不安も和らぐ。

 と同時に、100ステップもあるんだから、1ステップで満足しない。はい次!と次から次へと流していかないと。これは人生哲学でいえば「小成(しょうせい)に安(やす)んずることなかれ」です。小さな成功に満足し、それにしがみつくことで大きな果実を見過ごしてしまう愚かさを戒めたものですが、ほんとにそう。ラウンドいいよーとか勧めているのも、これを学べるからです。あるファームでいい思いをしました、でももっとほかも見てみたい、もっと違うをことをしたいと流れていきますから、なんとなく身体でコツを覚えられるのですね。ビジネスでもそうですけど、去年売れたから今年も売れるとは限らない。てか去年売れたからこそ今年は売れなくなると思うべしで、次々に新しい展開を模索していかないとジリ貧でしょ。

 以上、いずれも日めくりカレンダーに出てくるようなありきたりな話、全部コトワザで説明できるようなことであり、そんなにこの世界の秘奥義があるわけじゃないです。当たり前のことばっかです。ただ、それをどれだけ解釈できるか、そして自分の現実に適用できるか?ですよね。

 最後に、これもいつも言ってることだけど「夢は毎日口走れの法則」です。心のなかで密かに思っていて、、、とかダメっす。毎日毎日、会う人、会う人に、永住権が欲しい、こういう仕事がやりたい、○○したい、○○が欲しいと言うべし。恥ずかしいとか言ってる場合か、です。

 だって言わなきゃわからないもん。でないと、「え、そうだったの?」「なんだよー、言ってくれたら○○とかあったのにー」って、後の祭りです。確率的に数年に一度の大当たり〜がパーです。なんて勿体無い。

 なにげない雑談であっても、人は結構覚えているもんですよ。学校やバイト先で、毎日毎日スケボー欲しいとか、自転車が欲しいとか、いい続けてたら、いつか手に入るよ(笑)。自転車欲しいとか言ってなかったっけ?シェアメイトがドイツに帰るので、いらなくなった自転車処分したいって言ってたんだけど〜ってね。サイババのアポーツ(物品引き寄せ)みたいなものです。

 といっても、願望実現とかオカルティックなことではなく、これも結局はフェイスになるのだと思いますが、世の中では皆誰かの役に立ちたいって思ってるんだよってことですね。そういう世間にエーテルのように満ちてる善意ってもんを、もっと信じろと。ただちにどうこうという話ではないけど、天満宮に合格祈願の絵馬を奉納するよりは、現実的な実効性はあると思いますよ。




























 文責:田村




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