★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
798 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2016/10/31)



Essay 798:全ての日本人はオタクであり、ヤンキーである件

〜個人主義と普遍性

 写真は、解説するまでもないですね。でも、オペラハウスとハーバーブリッジを飛車角みたいに等分にドーンと臨める場所って、意外と少ない。パブリックに立ち入れる場所としては、多分ここかなーと。たまたま映っているお二人は、縁もゆかりもないのですが、「おー、この子ら、いい場所知ってるなー」と感心したもんです。ここでランチやお菓子食べたら気分いいだろうなー。
 他に誰も映ってないことから分かるように、ここ、ちょっと分かりにくい、、というか盲点になってる場所です。
 今週も先に写真の解説からやっちゃいますね。


 ハーバーブリッジの北詰があって、ここも絶景ポイントなのですが、橋の西側にルナパークがあり、その反対側(東側)です。New Yearの花火では人気のある場所で、早々に入場制限がかかるあたり。

 さて、Milsons PTのフェリー乗り場があります。


 フェリー乗り場よりも、もっと先まで歩いていけるのですね。なんとなくそこから先には行く人少ないんだけど、それでもトコトコと歩いていくと冒頭の写真の位置になります。


 さらにその先になると流石に個人宅になって行き止まりになりますが、その横に階段があって、その階段をあがると次の写真。


 こういう芝生の広場があります。語学学校のパンフレットによく出てきそうな風景。なんかヤラセっぽく車座になって談笑してたりしますが、別にヤラセではなく、ナチュラルにそうです。

オタクとヤンキーの共通性

快楽と幸福には必ずオタク成分が入る

 さて、今日こそ短く済ませるぞー。

 現代日本によくある2大人間類型であるオタクとヤンキーですが、「全ての日本人はオタクとヤンキーかに二分される」という説、あるいは「オタクとヤンキーは共通項が多い」とかいう説もあります。今回はそれがテーマ、、、というよりも、簡単に済ませるつもりなので「罪もない話題」くらいな感じで。

 まず共通項ですが、確かに多いです。メインストリームから外れているサブカルチャーを持ち、その異端的な価値観によって日常生活やアイデンティティが形成されており、同じ価値観の人々と集団を形成する場合が多い。うむ、たしかに似てます。ある意味、ヤンキーもオタクの一種と言えなくもないです。ヤンキーがもってるフィジカルな粗暴属性は、オタクがもってるアンチフィジカル属性と真逆なようだけど、しかし格闘技オタクとか異様に強いオタクもいるしな。それに本当に「強い」という点でいえば、真剣に格闘技に打ち込んでいる連中には叶わないし、暴力性や反社会性でいえば、本職の暴力団とか頭のネジがいっちゃってるシリアルキラーの比ではないでしょう。ヤンキーの粗暴属性は、そういう部分もあるけど、本質的なものではないように思います。そして、そのフィジカル属性を取っ払ってしまえば、同じ価値観がベースにあって、その価値観が共通言語とオキテのようになっているという点ではオタクと何も変わらない、むしろ一種のオタク集団と言えなくもない。

 しかしですね、そんなことを言えば全ての人はどっかしらオタクですよ。いわゆる趣味とか、フェバリットとか言い出したら、どうしてもオタク化します。深い快楽を得ようとしたら、細分化されたとある領域を「極める」という作業になります。これはもう大体そうなるでしょ。一般に間口を広げて横断的に賞味するよりも、間口を狭めて奥深く進んだ方が快楽度は高い。世間で流行している曲を当たってるだけの聴き方よりも、特定のジャンルやミュージシャンにガビーンときて、ディープにのめりこんでいく方が快楽は深い。

 そうやって分岐して細道になっていくにつれ、メインストリームからは外れる反面、「同好の士」の存在が強烈な意味を持ってきます。もう、異様に細かいオタク話をする相手がいるという快感は、日常生活においてトップ3に入るくらいの快感度だと思いますもん。「そうそうそう!」とか盛り上がるもん。

 もっと普遍化したら、「同じ価値観の人と一緒にいると気持ちがいい」ということになり、こんなの万有引力の法則のように万人に通用します。そしてその快楽は、価値観の細かな合致度が高ければ高いほど満たされるところ、どんどんメインから外れていくほうが楽しい。ゆえにオタク的になっていくと。

メインストリームなんかない

 一方、それとは対置されるところの「メインストリーム」ですけど、これも遠くから見ての話で、実際にその中に入っていったら、実は細かく分岐してることに変わりはないです。いわゆるサラリーマンだって、サラリーマン的な価値世界に浸っている一種のオタク集団だし、そこには「なあ、ご同輩」的なツーカーの共通感情がある。と同時に限りなく分岐していく。まず業界。鉄鋼業界と出版業界では論理も価値観も違うでしょう。次に立場、ヒラと中間管理職ではまた価値観も行動原理も違う。キャリアとノンキャリってのもある。正社員と派遣もある。本社と支店もある。単身赴任組とか、リストラ待ち組とか、中途採用の外様組とか、、、、そんなの言い出したら幾らでも分岐していきますし、その中で、さまざまな「集落」があったりするわけでしょう。

 僕のいた法曹界だって、オタクやヤンキーからみたらメインストリームに見えるでしょうけど、でも中に入ってみたら、彼らの比じゃないくらい絶対人口が少ないですから(日本で数万人程度だから、千人から1万人に一人くらい。あなたの友人に判事・検事・弁護士って何人いますか?)、超オタク世界と言えなくもないのですよね。その卵ともいうべき司法試験受験生世界では、「基本書、なに使ってます?」「刑法、どっちで答案書いてます?結果無価値?行為無価値?」とか、これ以上ないくらいのオタク話が爆裂してます。でもね、オタク話は癒やしになるのよね〜。だから辛い受験勉強もやれるという。弁護士世界でも、東京だけで3弁護士会(トーベン、イチベン、ニベン)があり、次に大きな大阪弁護士会の中でも、◯◯会という会派(派閥)が、いくつだっけな、6つくらいあるわけです。春秋とか一水とか。でもってイソ弁とボス弁ではまた立場は違うし。

 医者の業界だって開業医か勤務医かで違うだろうし、勤務医でも研修医とベテランでは違うだろうし。板前さんの世界でも同じでしょう。だからメインストリームってマボロシだと思いますよ。近くに寄ってみたら皆さん細かく分岐して、それぞれに集落を作っている。遠くから見るとあるように見えるし、それを前提にものを考えるとわかりやすいって思考のための仮の存在というか、虚数みたいなものね。二乗するとマイナスになる虚数は、絶対にありえない数字なんだけど、でもその存在を前提にして数式をつくると、電磁気学,波動力学などで周期関数をやるときにわかりやすいという。

 ここでは、人間の幸福の条件ともいうべき対人関係、そして対人関係が円滑になりやすい条件=波長が合う、話が合う=価値観や興味世界が共通し、その特殊な論理で動いていること=を指摘しておきます。この原理を徹底するならですね、もう人が幸せになるためには、どっかしらオタクになるしかないのだ、くらいの勢いがありますな。

オタクとヤンキーの違い

現場・感情 vs 理論・知性

 次にオタク・ヤンキー二元論について。二元論ということは、オタクとヤンキーは「違う」ということで、同じだったら一元論です。一元論(特殊価値世界の共有)は上に述べました。今度は、ここが違うという点。

 ヤンキーの特徴(本質なのか属性なのかわからんけど)で、僕が思うのは、現場性と感情性ではないか。現場性というのは、本社のおきれいなデスクで立案した美しい机上の理論ではなく、現場ならではのニュアンスや機微を大切にする部分です。脳内理論よりも、現場の空気感に重きを置く。それとニアリーなのは、情動を大事にする部分。「男気」とかその種の感情で動く。「命張ってでもダチは守る」という決然とした美学がありますよね。2つまとめて「現場の心意気」みたいなもの。

 これに対してオタクの場合は、脳内快楽にややシフトしていると思います。細かく調べて、深く研究して、「え、こんなんあるんだ!」って面白さが基軸になっている。もっと知りたい、究めたいという知識欲や探究心です。これらはすぐれて脳内の快楽であり、それは面白いという感情の一種ではあるんだけど、「おおおお!」という熱っぽい情動ではなく、もっと理知的なものです。そこでは該博な知識世界や、精緻な理論体系が好まれます。

 大雑把にいってしまえば、感情と知性、肉体 vs 頭脳みたいなものでしょうか。

両立しうるし、普通どちらもある

 でも、これ、A派対B派ってもんじゃないと思います。人間に精神と肉体があるように、誰にだってどっちの要素もありますし、どんな仕事どんなアクティビティにも2つの要素があるでしょう。どっちか一つだけってことは、ほとんど無いんじゃないか。ただレシピーが違う。身体性、現場性、感情性をやや重んじるタイプ(or シチュエーション)と論理性、知識性、考究性を重んじるタイプがあるだけだと。

 学者というのは、筋金入りの究極のオタクでしょう。ランダムに好きなものだけ食い散らかすとか、ネットで検索するなんてクソぬるいやり方ではなく、古今東西、全人類の全英知と全業績を可能な限り調べて調べて調べ尽くして、考えて考え尽くして、その上で自ら新しい1ページを書こうというのが学者の本質であり、生半可なハマり具合では出来ないです。

 先程司法試験受験生のオタク話で結果無価値と行為無価値という例を出しましたが(これ、過去にもエッセイで書いてますが)、一般の法学部の学生レベルだったら、この概念をきっちり理解してないでしょう。てか知らないって人も多いだろうな。この言葉が出てくるだけで十分にオタクっぽいんだけど、しかし学者のレベルはそんなもんじゃないです。まず用語が違う。日本刑法はドイツ刑法を継受しているから、基本アカデミックな掘り下げはドイツ語になり、今はどうかしらないけど昔の刑法学者はドイツ留学するのが普通だといいます。なんたら無価値論も、エアフォルグス・ウンベルト(Erfolgsunwert)とハンドルングス・ウンベルト(Handlungs〜)と呼び、要するにドイツ語からやらなきゃいけない。そしてそれらの思想の基盤になってるドイツ観念哲学まで掘り下げて、日本語で読むだけでも脳味噌が溶けそうなカントとかヘーゲルの論文をドイツ語の原書でバリバリ読みまくって〜、、って世界です。でもって、それが出来てようやく基礎終了くらいという途方もない世界なんですよ。僕らの頃はそうだったような気がする。あの当時、近畿圏全体で合格者40名ちょっとという司法試験を目指すというのは「極道になる」くらいの根性がいったけど、それでも大学院にいった先輩とかは、極道どころか「仙人になる」って感じで、付いていけないって思ったもんです。大学院というのはそれほどのものだと。今は就活エスケープのモラトリアム院って部分もあるけど。学者も楽じゃないです。オタク道も極まれリ的な。

 なんでそこまでやるの?といえば、生活のためとか功名心とかもあるでしょうけど、やっぱ面白いからでしょう。知的に究めていくのって、問答無用に面白いんですよね。

 これは別にアカデミズムの世界だけではないです。日本人が大好きな「◯◯道」の世界は全部そう。単に茶しばくだけのことを茶道として立て、「お花が奇麗だな」という素朴な感情を華道にする。そして、天・地・人と見立てたり、究極の人間関係モデル論を打ち立ててみたり、もう宇宙レベルの大哲学にまで昇華させていく。その種のお芸術だけではないです。ロックの世界もオタクのかたまりみたいなものです。好きなミュージシャンだったらブートレッグ(海賊盤)も集めまくるし、ギターフェチになったら、メーカーとか型だけではなく、製造年やら、各部品を全部自分で特注して取り替えるとかしますもん。なんでそこまで凝りまくるのか?といえば、楽しいから、でしょう。とにかく小道にはいって、さらに細かい道に入ってってどんどん奥に進めば進むほど面白い。

 仕事でもそうです。どんな末端のつまらなそうな仕事でも、いろいろとやり方に気を使い、お客様のお気持ちを考え、配慮の上に配慮を積みかねる労働技術の研究やら、ホスピタリティの追求は、日本人のお家芸といってもいいです。その昔、オーストラリアの番組で、日本の芸妓さんの特集があって、「人類究極のホスピタリティ・サイボーグ」って言ってたけど、立ったり歩いたりの立ち居振る舞いだけではなく、お酌の仕方、お銚子のつまみかた、袖の押さえ方、最も人間が動作が美しく見えるのはどうすればいいのかを何百年も考えてきてるし、会話の振り方や持っていき方、考え抜かれてますからね。僕は不調法で全然そのへんは駄目駄目なんですけど、茶道やってる人に「袱紗(小さな包み布)のたたみ方」というのを目の前でやってもらって、その魔術のような身体動作(腕と手指だけだけど)美しさにびっくりしたもんです。すげーって。そういう特性は日本人には大いにあると思いますし、これ以上くでくでと言わなくても分かると思います。

 もうわかったと思うのですが、いわゆるヤンキーの人達もこの種の「究め」は大好きです。まずマシンに凝りますよね。どのバイクがいいかとか、チューンアップとか、マフラーとかカスタマイズするし。ガンメタがどうのとか塗装にも凝るし。その種の専門知識やら、追求していく姿勢というのはオタク魂そのものです。だからどっちもあるのよね。

 会社における仕事だって、営業なら営業で、そこには確固とした技術体系がありますし、極めれば無限に極めていけるだけの奥行きがあります。だからこそ職業系の漫画はネタが尽きないわけですな。大のおとなが一生これに取り憑かれてやってるわけですから、その知識や技術の蓄積たるや凄まじいでしょう。だから日本人の仕事はレベルが高いと言われるんだけど、それって「勤勉だから」ではないと思います。「面白いから」だというのが本当のところじゃないですか?日本人、勤勉じゃないですよ。選挙行かないし、夏休みの宿題でもギリギリまでやらないし。

 このように溢れんばかりのオタク性を持ち合わせている日本人は、しかし同時に、現場ヤンキー感覚もふんだんにあります。現場の連帯感というか、根性一発〜!って馬鹿パワー礼賛ですね。燃えるもんね。つまり、膨大な手間暇をかけて知識を学び、技術を磨いた上で、最後の現場では「気合いだ、気合!」「うぉしゃあ!」でやるという、オタクとヤンキーが二人三脚してるような感じですな。

 だから両方あるのだと。
 また、両方ないとダメだともいえます。気合だけで技術や知識がなったら単にドン臭いだけだし、知識や技術があっても、現場の熱さがなかったら物事が成就しないですから。どっちも必要よね。だもんで、全ての日本人はヤンキーかオタクかという二元論があるわけですが、同時に、全ての日本人はどっかしらヤンキーでもあるしオタクでもあるとも言えると思いますよ。

オーストラリアでは

幸福になる特殊性という補助ツール

 ここで「およそ人は」ではなく、「日本人は」と限定しているのは、オーストラリアにはそのどちらでもないパターンがあるからであり、そっちの方が主流かもしれないからです。

 この題材で書いてて気づいたんですけどオタクもヤンキーも、メインストリームから外れている点に共通点があるのですが、もっと掘り下げていけば、自分が幸せになるためには、なんらかの「特殊なオモチャ」が必要だという点です。つまり、細分化されたマニアックな領域、その特殊な価値世界か、あるいは9回裏ツーアウト満塁的な「現場の熱気と連帯」という、これまた特殊な状況を基軸にした人間関係です。

 思うに、「特殊なもの」を持ってくると物事は楽しくなります。何の変哲もない日常風景だけで幸せを感じるのは結構難しいですよ。平坦すぎて、心が盛り上がるための凹凸や取っ掛かりがない。やっぱり狭くて特殊な価値観を持ち出してきて、それをテコにして興趣を高め、面白がって、盛り上がって、幸福感を得る方が楽です。

普遍性だけ

 ところがですねー、オージー連中(てか世界から来てるから世界の連中といってもいいが)は、ハッピーになるためには日本人ほどの特殊性を必要としてない感じがします。誰もがやってるような普通なことを、誰もがやるようにやってるだけで、十全に満ち足りてしまうという。それほど特殊性を必要とはしない。

 たとえば、スポーツ大国のオーストラリアでは、ほんとアホみたいにスポーツやってるし、Walkingしてても走ったり歩いたりしてる人は沢山います。都心部の昼休みなんか、ランパンで走ってる推定年収数千万って連中がごろごろいます。てか、それが標準みたいな。でもね、彼ら見てると、スポーツをやることに何らかの特殊性や興趣を感じてる風ではないのですな。単に身体を動かすと気持ちいいからやってる、だたそれだけだと。

 でも日本人の場合は、「スポーツをやってる俺」みたいな感じで、スポーツをやること自体に何らかの特殊な意味性をもたせ、その意味性や深さを味わうみたいな楽しみ方をするように思います。だからジョギングひとつとっても、やたらギアに凝ったり、理論に走ったり、勉強熱心っていえば勉強熱心なんだけど、どっかしらオタクっぽいんですわね。でも、オージーとか見てると、そういうマニアックな人もいるだろうけど、多くは単に走ってるだけって感じがする。

 そこには大いなる普遍性があります。僕らは毎日食事をしてるわけですけど、食事オタクにはならない。食通とかグルメとかいう人は別ですが、食べたら美味しいし幸せなんだけど、でもそれ以上に食べるということを突き詰めて意識したりしないでしょう。そこをオタク的にこだわるとベジタリアンとかマクロビとかなるんだろうけど、そこまでいかない領域だったら、食べました、おいしかった、ああ満足、それだけでしょ?オージーのスポーツってそんな感じなんですよね。日本人のスポーツは(社会人になるほど)、マクロビみたいな「意識的」な感じがする。それがオタクぽく感じる。

 何を言いたいかというと、彼らは、普遍的なことやってるだけで幸せになれちゃうんだなーと。こいつら「特殊な意味性」という補助ツールはいらんみたいだなと、それは来た当初から漠然と感じてました。明瞭に言語化して意識はできなかったんですけど、「なんか根本的に違うな」って。

アイドリングの幸福値の高さ

 これをさらに突き詰めていくと、自我がぶっといというか、個人主義ってそういうことなんかなーって。
 ここからかなり難しい、というか自分でもろくに検証してないことを直感まかせに飛ばしますので、読み流してくれていいです。

 これは想像なんですけど、オージーの人達って、自分が今この世界に存在するという、ただそれだけで結構幸福になっているのだろう。もちろんそれでは足りないのですが、日本に比べてみてナチュラルなアイドリング状態での幸福値が高い気がする。そして、ベースがしっかりしてるから、あとは何をやってもすぐ楽しくなっちゃう。料理でいえば、すごく良いダシをしっかり取ってあれば、あとは何をどう料理しても自然と美味しくなるような感じ。

 日本の場合、ナチュラルに素の状態での幸福値が相対的に低い。だからなんかオカズが要る。ダシがいまいちしょぼいから素うどんではやってられずに、上に天ぷらとかとろろとか載っけるように、特殊なサムシングがいる。そのサムシングは、多くは特殊な価値世界のあれこれで、その特殊性と価値性を基軸に人と人とが専門知識で、あるいは現場共有でつながる。逆に言えば、特殊性を共有できない人間関係があまり上手ではない、てか観念しにくい。

 だからではないかと思うのは、日本での同調圧力の高さです。幸せや居場所を感じるためには、価値を共有する他者を必要とする度合いが高いと。自分ひとりだけでは寂しいと。また、自分ひとりだけのアイドリング幸福値が低いから、いろいろ能書き垂れたり、専門知識やらワザを究めたりやら補助作業がいるのかもしれない。その裏返しとして、その種の特殊性のない世界、例えば一般的な国民としての義務とか意識とかになるとテキメンに低くなる。

 一方、オーストラリアは、仕事を極めようとはあまり考えず(起業家、自営、高級職の場合は激しく違うけど、一般の給与所得者の場合)、より効率がよく顧客満足度が高い方法を考えるのではなく、いかにしてサボるかを考える。そこにそんなに意味性や価値性を見出さないし、見出す必要もない。その代わり、投票率は100%になるわ、公的なことに関心は強いわ、周囲を窺わずに一人でもバンバン行動するわ、ボランティアも何らかの形ではほとんど人が現在ないし過去にかかわっていたりもするわで、つまり一般的で普遍的なフィールドでは抜群に強い。特殊な価値共有とかをさして必要としない。一般的で普遍的な価値共有で足りる。結果としてセクショナリズムや派閥が生じにくく(無いことはないが)、人見知りもせず、誰とでも気楽に付き合えるし、オープンマインドでいる。特殊な仲間内、日本でいう「ウチ」「ソト」感覚が薄いのは、普遍性だけでやっていけるからでしょう。

個人主義

 問題は、どうしてそうなのか?ですが、やっぱ個人主義だからですかねえ。個人主義って、利己主義とか誤解されがちなんだけど、全体主義、集団主義に対置するもので、人はひとりでも価値があり、その価値ある1単位である個人を起点にものごとを考えていくべきだって発想です。決して「一山なんぼ」の集団主義ではない。集団に属していない個人は無価値であるという発想ではない。ただし、それは温かい感覚ではないですよ、孤独の薄ら寒さが前提にある。

 この世にはまず自分がおって、自分は絶対的にひとりであるのだ、もうどうしようもなくひとりぼっちなのだとまず徹底する。そして、この荒涼とした大地に自分の足で立ってこそ一人前であるという個人主義ですが、これがバックボーンにあるから、他の価値観とか仲間とか補助ツールを使わない(使っても本質的な意味はない)ってなるんじゃないかな。この誰も何も頼れない、もう徹底的に頼れないというアンチ依存性を骨の髄まで理解してるかどうか。単に頭でそう思ってるだけではなく、深層心理の奥のレベルで理解してるかどうか。

 そういう認識においては、もう自分以外に素材はないわけですから、自分という素材を濃くしていくしかないわけですな。かなり過酷な作業だとは思います。だからこそ、カウンセリングとか精神医学は西欧の方が早く発達したし、日常的にもバンバン利用されています。公的サービスも手厚いです。ポスト・トラウマに対する公的サポートは、もうルーチンになってるくらいです。例えばポーカーマシン=パチスロみたいな=のギャンブル依存症に対するカウセリングサポートを役所がやっているとか、犯罪被害者、交通事故のあとのカウンセリングとか。そこには、人間の心はそのくらい弱いものだという理解がベースにあるからでしょう。「根性だ」とかいうクソ原始人みたいな雑な話ではどうにもならないという。その認識が深くなるベースには、やっぱり会社にも部族にも頼れないで皆が一人でやってるからってのがあると思います。

 しかし、自分が自分だけで成り立てるくらい脚力が強くなって、自分が濃くなってきたら、すごい普通なこと=例えば空が奇麗だとか、花が美しいとか、風が気持ちいいとか、知らない人とふとココロを通わすだけで、もう十分にハッピーになれてしまうという。これはワーホリなどで良いラウンドをした人だったら分かるんじゃないかな。絶対孤独のひとりぼっち旅を延々やってるからこそ、自然がよく見えるし、美しさもわかるし、ひいては自分が存在してるだけで既に気持ちが良いという存在快感がベーシックにあるのを感じるようになる。同時に、他者の温かさもよくわかる。よく分かるからこそ、過剰に求めすぎない。集団に所属して自我を曖昧にして羊水みたいな快楽に浸ろうとは思わない。ゆえに他人といい距離感で気持ちよく付き合える。冷たくもない、暑苦しくもない、適度な温かさを感じられる距離感ですね。

環境次第

 とまあ、そんなことまで考えてしまいました。合ってるかどうかわからんけどね。
 でも、これは日本人の精神の脆弱性ってことがいいたいわけではなく、そうなるにはそうなるだけの環境的な必然性があったんだと思いますよ。人口密度が高い環境で育てば、日本人だろうがオージーだろうが誰だろうが、絶対的な一人ってのは観念しにくいでしょう。逆に、日本人だって、東北のマタギ(猟師)のように、村田銃担いで森の奥深くをひとりぼっちで歩いている生活をやっていたら、その感覚は個人主義的な方向に馴染むでしょう。

 また、西欧の個人主義というのは、キリスト教的な「神様と一対一」という世界観がベースにあるのでしょう。僕はキリスト教徒ではないので、どんな感じがするのかわからんのですが、それでも適当に想像すると、敬虔な人だったら、常に神様が近くにいて、じっと見守るというか、じっと監視されてたりして、全ての瞬間に神と相談できて、そして死んだ後に総決算のように最後の審判を受けてって世界観でいるかもしれません。もしそうなら、そりゃ他人は要らんかも。神様(みたいな存在〜自分の良心が外部に投影され擬人化したもの)を、ある程度リアルなものとして感じられたら、その人と「これじゃダメすかね?」とか相談してればいいんだから、絶対孤独ではないわけだし、楽は楽です。また、そういう(神様みたいな)存在と相談する以上、方向性としては常に「人としてどうなの?」という普遍的なものになっていくでしょう。

 ちなみに、日本でも「人としてどうなの」って言葉がここ数年くらい見かけるようになりましたけど(10年前にはあんまりそういうフレーズは見かけなかったよ)、これって、価値共有世界が段々乏しくなって、いやでも個人主義的な、ぼっち世界観になっていって、そこで普遍的なものが柱になりつつある裏返しの表現なのかなとか思ったりして、いや穿ち過ぎかとは思うけど。

 さて、僕個人としては、もともとB型だし、引っ越しや転校も多かったし、小学生のひとりぼっち長距離通学が長かったしで、一人でいることが心地よく、あんまり一人がさみしいとか思わないです。その意味では西欧系に近いんだと思う。もちろん特殊な価値観を共有する楽しさはわかりますし、楽しみますよ。オタク性もヤンキー性も人一倍持ってる方だと思います。だけど、その同質性とか特殊性に自分の人生や幸福の基盤を求めようとはあまり思わないタイプだと思います。それもあって、あまり辞める人がいない前職においても、大した未練もなく出てこれたのだとも思うし。ローカルの良さは両手を上げて賞味しますが、ローカルが檻や拘束になることは大嫌いです。人とのつながりにおいても、ローカルで特殊な接点でつながるよりは、より普遍的な部分でつながってたいですね。集まったとしても、何の集団なのか外からみてさっぱり見当がつかないような感じが好きです。でも、そういう人、結構日本でもいると思いますよ。自我の置き所として、「◯◯商事の◯◯」ですという所属集団あってこその自分というよりも、ただの◯◯ですって方が気持ちいいわって人、結構いるでしょ?

 さ、長くなったらいかんので、このくらいにしよ。




 文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page