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今週の一枚(2016/09/26)



Essay 793:貧困化と治安と空き家問題

RedfernのEveleagh Stで思ったこと

 写真は、RedfernのEvelerigh Stの入り口付近。レッドーファーン駅あたりから撮ったもので、おそらくはシドニー大学の学生さんらしき人が歩いてます。
 

RedfernのEveleagh St

 今週のお題はちょいハードです。麗しい写真による、ほわわん調ではなく、ソリッドな。

 先日、ついにRedfernのEveleigh Stを歩いてきました。「ついに」と書くのはそれなりに感慨深いものがあるからです。

 僕が初めてオーストラリアに来た20年以上前には、エクスチェンジをやっていたオーストラリア人に「あそこだけは行くな」とキッチリ念を押されました。賢い彼は、なぜそうなのかも説明してくれ、また自分でも英語の文献などを読んで多少は調べました(当時はネットがなかったから一つ調べるのも大変だったのよね)。

 レッドファーンのイブリー・ストリート。"no-go zone"と言われ、うかつに足を踏み入れて殺されようが、行方不明になろうが、それは行ったやつが馬鹿だったというだけの話。高層ビルから飛び降りるのと同じで、「そりゃ死ぬわな〜」って話。そのくらい恐いところだと。

 ま、実際、佇まいが違いましたもん。おっかなびっくり入り口付近(レッドファーン駅あたり)から遠望すると、みるからにヤバそうな人達がたくさん路上に座り込んでいたし、窓ガラスにせよ電話ボックス(だったと記憶してるが)、滅茶苦茶に破壊されてるし。変な焚き火みたいなのしてて煙がたなびいてて、「こ、こ、これは失礼しました、、」って速攻逃げなきゃって感じでもありました。まあ、そういう先入観があるからそう見えるってのはあるのだろうけど、それを差し引いても、やっぱなんか違ってたと思う。

 傍証としては、当時通っていたシドニー大学(付属の英語学校)でも気をつけるように言われたし、シドニー大学の学生さんの送迎用にレッドっファーン駅からわざわざ送迎バスが出てるってくらいでした。また、新聞の記事でも、近くの通りで信号待ちしてたら、いきなりフロントガラス割られて、ドア開けられて強盗されたとか。そして、有名な2004年のライオット(暴動)があります(英語版Wikiにも載ってるくらい有名な事件)。数日にわたって警官隊と抗議住人とが激しく対立してます。このあたりは、ほんと映画かなんかで見るアメリカっぽくて、迷い込んだら無傷ではすまない「ネイバーフード」やら、今もやってる黒人VS警察の激しいプロテストやら。

 しかし、時が流れて、今は、普通に何事もなく通れるようになりました。ちょっと前のエッセイで夜のレッドファーンの写真を載せましたが、今回は真昼間だってことで、トコトコと通ってみました。何事もなく、無事に通れました。てか、ほとんど誰にもすれ違わなかったし。

 イブリーストリートを含む「The Block」と呼ばれる地区の歴史は、日本の同和地区のように、いろいろな理由や物語があります。こちらでも無知が偏見が産み差別を呼んで、さらに悪循環して、みたいな不幸なサイクルがあった。ほんでも、えらいなーと思うのは、AHC(Aboliginal Housing Company)というNPOやら、コミュニティのリーダーやら、行政やらが彼らの権利保護を果たしつつ、徐々に合意形成に進んでいったことです。The Blockは今はPemulwuy Projectと名前を変え再開発することになってます。これ書き出したら長くなるし、もっと調べなきゃいけないし、本題とは違うのでこの程度にしますが、こういうこじれきった問題が解決の方向に向かうということ自体が、すごいもんだなと思ったもんです。ちなみに、レッドファーンには、有名な無料法律相談の場所がありますが(Redfern Legal Centre)、その種のプロボノ活動(ボランティア)がレッドファーンに置かれているのも、単なる偶然ではないと思います。

 さて!ヤバかったエリアの建物の大部分は取り壊され、きれいな更地になってます。ただ、本来ならもう新住宅になってないといけないんだけど、まだ更地のままですね。イロイロあるのでしょう。

 ということで、以下、一挙に写真を載せます。


 往年の面影は無いねって感じにきれいに芝生に整地されてます。僕が見たときは、写真のちょうど人が3人歩いているあたりで、火が燃えてたり、ガラスが散乱したり、人々がうずくまってじっとこっち見てたり、、、


 整地され立入禁止状態になってる往年の住宅地跡


 AHCのNoticeが書かれてます。


 ただ右手の方の建物はまだ残っているわけで、、、、。


 これ駐車場かなんかだと思いますが、凄いことになってます。取り壊し予定なんかな。


 さらに隣の家はもっと迫力があって、、、


 こんな感じ。本格的にヤバいグラフィーティってこんな感じなんだろうな。昔はこんなのがずらりと並んでたんだと思う。


 その隣は微妙にまだ使えるような、使えないような、、誰か住んでるのかしらね?しかし、停まってる車は普通のもので、です。よく停めるよな〜、勇気あるな〜とか思うけど、勇気の問題じゃないよね。単に確率的に安全だから停めてるのでしょう。


 およそ住んでるようには見えないのだが、、


 さらに進むと普通の(?)ビルになり、Cleveland Stに出ます。反対側(Cleveland側)から撮影したもの。


 これがCleveland Stとの交差点あたりだけど、もう絵が凄いですよね。

 写真をズラズラ載せましたけど、これが前半。
 この廃墟のような建物を見ながら思ったのは、日本の貧困化と空き家問題でした、というのが以下の後半部分。

貧困と治安の関係

貧困化とは傾向やベクトルであること

 貧困化、あるいは中流層の破壊や下層化ですが、どんどん進行していくとどうなるか?です。そのあたりって頭の中で考えるだけなんで、中々ピンときにくいのですが、こうしてビジュアルで見ると、少しはイメージできるかと思います。

 貧困化するというのは、単にお金がなくなるだけのことではないです。治安もまた悪化するという問題が指摘されています。あ、ここで言っておくと、「貧困」という絶対的ななにかがあるわけではないです。ココから先が「貧国」国ですよという明快な国境があるわけではない。100度になると水が気体化(蒸発)するとかそういう客観的な線引があるわけではない。平均収入の半分とかいうのも統計の便宜に過ぎないし、生活保護法の受給資格などもダンドリの便宜のために設けているだけです。ここで貧困化というのは方向性やベクトルの話です。経済的に劣化している傾向、程度の意味です。

 その意味でいえば貧困化しているのは社会の底辺と呼ばれるごく一部の例外的な人々ではなく、日本でいえばほぼ全員がそうだといってもいいでしょう。経済ベクトルとしては劣化してる。そんなこと無いぞ、俺は勝ち組で稼いでいるぞという人だって、20−30年前の環境で、同じ能力・努力・幸運があったらもっともっと稼げていたでしょう。だって望めばほぼ全員正社員になれたし、20年で給料3-4倍くらい上がっていたわけです。定期預金の金利だって5%とかついてたときもあるし、不動産だって買ったときの数倍に値上がりもしていた。今は同じだけの資産と努力をもってしてもリターンは遥かにすくないでしょう?だから貧困化してるじゃん、ってことですよ。

 全体に下向きトレンドになってるのは、日本だけではなく、先進国はどこも同じ。もともと異常に優遇(つか強奪)してたのが徐々にバランス回復しているだけのことで、それ自体は不思議でもなんでもない。そして、全体に下向きに沈下していくなかで、そのなかでも割を食っている下の方はどんどん生活レベルが困窮していき、通常のマネージメントでは立ちいかなくなる。

困窮場面における対応パターン

 船が沈没していくようなもので、海面レベルに近い低層階から先に海に没する。そして徐々にその上、そのまた上と没していく。没していく層の中には素直に諦めて溺れ死んでしまう人もいるかしらんけど、大部分は死にたくないから頑張る。生活水準を落としたり、遣り繰り算段をしたりするけど、いよいよどうしようもなくなったら非常手段に訴えざるを得ない。一つはホームレス的にゴミ箱漁ったりする方向で、もう一つは窃盗その他で違法化する方向。その一歩手前で、搾取の極致のような漆黒ブラックかそれ以上の昔のタコ部屋みたいな仕事について、人生をすり減らしていく。

 具体的にいえば、素直に溺れる人が、自殺者だと思います。変死とか孤独死とか行方不明など、自殺者の本当の数は公式3万の3倍の10万くらいいると言われてますが、そっち系。搾取の極致という地獄コースみたいなのが、クレサラで借金こさえて、それがよりヤバい方向=サラ金→マチ金→闇金にいくやつです。そこでの”回収”方法はもう「死ね」で、角膜や腎臓などでは知れてるから、自殺に追い込んで生命保険を取る方向。ちなみにサラ金レベルでも借用書と同時に生命保険に加入させられていますよね。これは別に秘密でも裏話でもなんでもなく、普通に記事で載ってます。固いところでは金融庁の消費者信用団体生命保険の再調査結果についてという公式書類もあります。「死んで返せ」ですわね。まあ、別に手を下して殺すわけではないけど、サラ金側からすれば自殺されてパーでは困るから一種の自衛手段でもあるのでしょう。でも、まあ「やり方次第」だよなと(意味深)。でもって搾取系ですけど、ダム工事とかマグロ漁船とか昔から伝統的なやり方があります。あとは大阪の釜ヶ崎→関電の敦賀原発コースも伝統的です。今は、福島除染とかそっちでしょう。

 そういえば、最近、除染作業させ給料脅し取る=容疑で弘道会系幹部ら逮捕−愛知県警という記事が出てましたけど、まあ氷山の一角ですよね。しかしこの件、「給料計約540万円=全額」というのはヤクザのやり口にしては下手すぎ。弘道会も落ちたなー。そんなに追い込んだら表に出るじゃん。返済は温情的額でよく、「兄ちゃん、がんばってんなー、もうちょっとやで」と肩を叩いておきつつ、あとは飯場のチンチロリン(サイコロ博打)で有り金巻き上げ(これは返済にならないから丸儲け)って伝統的手段があったのに、やり方急ぎすぎ。ヤクザの方が金に困ってるんじゃないかな。あとは軍隊ですね。栄光の帝国陸海軍とかいっても、政策的に寒村化して、軍隊以外に食えなくして人手不足を補うと。アメリカなんかも似たようなもん。

 てか、社会の歪みで下の方に押しやられた人をどうするか問題であって、なんか歴史的みてると時代が下るほうが陰惨になってるような気もしないでもない。ローマ時代の奴隷は、詳しく知るものではないですけど、なんか資料などをみると今の住み込みのホームヘルパーとかそのあたりと大差ないくらいの待遇だったんじゃないの?いっときは人口の90%が奴隷だったりするし、もちろん悲惨なのもあるけど、今の感覚でいえば単なる従業員くらいの感じ?日本の場合、過去にも書いたが、江戸の頃には佐渡の金山とか地獄のような労働環境があって、さらに明治になるともっと悲惨で樺戸集治監の死ぬまでこき使うということをしている。このあたりは、社会のディスポーザーみたいなもので、下に落ちていくと鋭利な刃物で粉々に分解され、「無かったこと」にされてしまうという怖さです。まあ、オーストラリアだって、無かったことにしたいから当時の感覚でいえば火星移住レベルの超島流しをするためのものだったし。

 その意味でいえば、ホームレスやってるのが一番マシだと思いますね。金がないなら無いという前提で生き方を模索していった方が環境への適応という意味ではかなっている。妙にカッコつけて金を稼ごうとかするから、国家やヤクザ(まあ似たようなもんだが)の手の平の上で踊らされたりもするし、かといって金やプライドにこだわっていると窃盗などの犯罪に手を染める方向にいってしまう。

貧困化など犯罪要因の一部に過ぎない

 さて貧困化したら治安が悪くなるかというと、そういう論調が多いけど、必ずしもそうではないと思います。もちろん大きな要因ではあろうが、それが原因の全てではないし、また因果もストレートではない。なぜって、最貧状況=一村まるまる餓死寸前では、犯罪犯す元気も機会もないし、「貧乏長屋の楽しい面々」「ボロは着ててもココロは錦」的な状況はいくらでもある。大体、超リッチ層からみたら僕も貴方も「貧民」なのだ。だからといって悪いことするかというとしないわけだし。また富裕層ほど犯罪を犯さないのかというと別にそんなことはない。汚職とか遺産揉めとか、スキャンダルもみ消しとか、欲やプライドにかられてエグいことやってるし。そもそも暴力団とかマフィアとか金回り良さそうだし、非行や半グレだって実家は裕福だけでグレてますってのもいる。ヤンキー校のカツアゲも生活に困窮しているからやってるわけではない。そして、別に困窮ではない理由で犯罪を犯す奴の方が悪辣だったりして、単に金がないからパンをかっぱらってなんて可愛いレベルではない。快楽として人をいじめたりもする。

 犯罪を犯す理由なんか千差万別であり、純粋に経済的困窮だけで犯罪を犯す率は、僕の前職での現場感覚で言えば、実際には非常に少ない。インチキ商法や詐欺にしたって、「儲かるから」という理由ではあるが、「困窮しているから」ではない。まともに働くのが馬鹿馬鹿しいからやってるだけのこと。万引きなんか、最近では困窮した高齢者がよくやりますが、多くはスリルとか習癖になってしまった精神的な依存性が大きい。だから、貧困、即犯罪化ってもんではないし、貧困者=犯罪予備軍というのは大きな間違い。てか、そういうお馬鹿な早とちりが諸悪の根源でもある。

 とはいいつつ、経済困窮によって、それまで犯罪を犯さなかった人をして犯すように仕向けるという部分は確かにあります。いよいよ切羽詰まって、、って。それが社会的な規模になってくると、暗黒部分を社会に生じさせるようになる。これが困ったものです。アメリカの後からきた移民であるイタリア系が虐め抜かれてマフィア化したり、神戸の港湾労働者の労働条件改善のための団結や組織化が山口組の基礎になったり、一定の集団を社会から疎外したら、強烈なしっぺ返しを食らうことになるのは歴史の必然といってもいい。社会からはじき出されたら、まともな手段では救済してもらえないから、力でやっていくしかない。人を呪わば穴二つって言いますが、ほんとそうで、どっかの集団を差別すると、その数倍の規模と期間で復讐され続ける。それは弱者のレジスタンスでもあり、ある意味では正当な権利主張であり、局面を変えれば反政府ゲリラ活動になり、ある局面では犯罪結社化する。

 さらに、悪賢い連中にその反発感情を利用されたりもする。オレオレ詐欺の受け子とか掛け子がいますが、小学生とかが”先輩”に洗脳されてやってたりするとか。上の世代が無茶苦茶だから俺らの世代が貧乏くじを引かされているんだ、だから上の世代から奪い取ってやるのは一種の「聖戦」だという論理です。そーゆー問題じゃないだろって思うんだけど、妙に耳に快いのだろうな。同じように、このまま非正規貧困化がとめどもなく広がっていけば、金持ちや勝ち組面してる奴らをやっつけるのは正義の戦いだ、ジハドなんだ、天誅だみたいな発想が出てこないとも限らない(てかもうあるか)。ルサンチマンが正当化の理由をみつけ、またそのための行動(犯罪)がマニュアル化されたとき、ちょい面倒なことになるなー。

 いずれにせよ、貧困?俺関係ないもんねってことはないです。明日は我が身ということもあるが(資産や職なんか地震みたいなもので一夜明けたら壊滅なんてザラにある)、それ以上に、関係ないとか思って、そんな身なりと態度でいるから、会社帰りに狙われるとか、自分の子供がキッドナップされるということもありうる。回り回って自分に返ってくる。社会=船の例えでいえば、皆で同じ社会に住んでいる以上、自分の乗ってる部分だけ沈没しないなんてことはありえないのだ。周囲に引きずられて自分の立ち位置も下がっていくだろうし、水浸しになった階層から逃げてきた人々に蹂躙されてしまうってこともあるのだ。無関係ってことは、まあ無いだろうし、もし無関係だと本気で思ってる人がいたら、その程度の知能や想像力だったら先は暗いぞ。

治安悪化をもたらすメカニズムと原因 

 貧困について、世間の受け止め方は「なんか凄く可哀想な人がいるなー」みたいな感じで、分離して見てたりもします。それをかわいそうだと思うか、自己責任だから勝手に死ねと思うかはともかく、そこで自分には関係ない「特殊な事例」と思ってしまってる時点で、そのリアル感の無さ、想像力の無さ、そして致命的な世間の狭さが、現場にいる人々をイラつかせているらしいです。そのあたりは、貧困報道を「トンデモ解釈」する困った人たち〜ある階級の人たちは「想像力」が欠如しているという鈴木大介さんの論稿記事が東洋経済にありました。ご一読を。

 犯罪というのは、ごく少数の先天異常を除けば、そういう立場になれば、そういう選択もアリという合理性があるものだと思います(妥当であるとは言ってないよ)。戦後の闇市のかっぱらい少年のように、幼い妹が餓死寸前でなんとか食べさせてやりたいと思えば、もうかっぱらう以外の手段がないという”合理性”がある。毎日のように度を超えて虐められていたら、復讐してやろうとか、もうこんな生き地獄は終わらせたいと思う。それも合理性あるでしょう。人間、そいつが真性の天才アーチストでもないかぎり、その行動にはそれなりの合理性がある。話が合理ならば、それを未然に防ぐこともまた合理で出来るでしょう。だから考えるに値するんだけど。

 でね、つらつら黙考するに、結局、経済困窮→犯罪化という流れがあるとしても、途中に絶対もう1クッションあると思うのですな。それはココロですね。心情的な要素です。というか、犯罪はなぜ起きるのか=そういう気分になったからであり、ではどういう気分なのか?といえば、、、こういうと笑われるかもしれないんだけど、心の健やかさを失って、荒んでくる気分だと。「け!やってらんねーよ」って気分になると、他者を社会を大切にしようという気分にもならなくなる。

 これ、誰でもそうだと思いますよ。理不尽に割を食っている、攻撃を受けていると思ったら、相手や周囲を敵対視するのは当然だと思う。例えば同じように努力し成果をあげても、上司のエコヒイキが強く、他の同僚ばかりを褒め、自分にはアホボケカスと罵倒の嵐だったとき。あなたならどう思う?ムカつきますし、この上司を大切にしようとは思わなくなるでしょうし、より進んでなんらかの報復(給湯室でお茶にツバを入れるとか)をしようと思うでしょう。や、当然だと思うよ。そりゃ腸煮えくり返ると思うもん。でもって、そういう現象が頻繁に生じたらどうか?駅にいっちゃ意地悪され、食堂に入ったら嫌な顔をされ、平気で釣り銭ごまかされ、約束はシカトされ、面と向かって嘲弄され、さらには自分の大切な家族まで言ってはいけないような醜い言葉で侮辱されたらどうですか?それも毎日毎日、おそらくは死ぬまで。差別されるってそういうことなんけど、そうなったら、この社会や、この周囲の人々を大切にしようとは思わなくなるんじゃない?つまりは心が荒んでくるし、健やかさが失われてくる。

 経済的困窮は、この健やかさを失わせる要因になります。やれ着たきりスズメでせせら笑われたり、困窮であることをあからさまに嘲笑されたり、いい部屋をみつけても貸してもらえなかったり、仕事をみつけても断られたり、、、社会全体に拒絶されているような感じがしたら、バカヤローって気分になる人がいても不思議ではないよ。そういう気分でいるときは、あいつらのモノなんか盗ってもいいんだって気になったり、あいつらぶん殴ってもいい奴らなんだと思ったりするかしらん。

 犯罪というのは、グレてる状態がエスカレートしていくことであり、そもそもグレさせたのは社会の方だという言い分もまたある。社会に対して攻撃的な行為なんだけど、本人にとっては「反撃」「せめて一矢を報いる」くらいの感じでしかないのかもしれません。

理不尽感とレスペクト

 逆に言えば、経済困窮していても、この種の理不尽感がなく、社会や他人に対するレスペクトを失っていないなら=それは同時に自分もまたレスペクトされていると感じられるなら、そうそう犯罪はやらないと思う。それが食うや食わずの貧しい家庭であっても、親から愛されている、お兄ちゃんから可愛がってもらってる、皆が皆を大切にしあってると実感できたら、そうはグレないと思う。ただし、自分の親を虐めている世間に対しては激しい敵対感情を持つかもしれないけど。

 すごく奇妙なことをいえば、犯罪というのは、ある種の正義感から出てる場合も多い。理不尽じゃないか、ひどいじゃないかって思いが出発点になる。ただし、それが許されないのは、解決方法が短絡的であり、もっとちゃんとしたやり方があるのに、それをすっ飛ばしていきなり違法で攻撃的な手段を用いた思慮の足りない部分にある。その無知さ、その思慮の浅さが罪といえば罪。

 一方経済的に困窮してなくても、そしてそれがかなり手前勝手な基準であろうとも、そこに理不尽感があったら人は容易に心が荒むし、悪いことをする。例えば、何一つ不自由なくクラスで女王様的な人気を持ってた子が、もっと優秀でもっと可愛い転校生が入ってきたので、その座を奪われたとき、「なによ、あの子」ってキーッとなるし、なんだかんだ意地悪するかもしれないです。昔の少女漫画の定番だけど。これはマンガ的な実例だけど、でも職場でもサークルでも似たようなケースはあるでしょう。自分があんなに努力したのに、賞賛されるのは他の人で、理不尽だ、許せないって思う。客観的には、実は大したことやってなくて(自己評価だけが異常に高いだけの話)、真実、その他の人の力でなにかを成し遂げたのだとしても、自分的にはめちゃくちゃ理不尽に思える。だから、報復よ、天誅よ、これは正義の戦いよと、死ね死ねメールを沢山送ったり、大事な書類を隠して恥をかかせたりして、いい気味だわとかやってるという。これほとんど犯罪なんですけど、別に「困窮」しているわけではないですよね。

 だから共通点、エッセンスとして抽出されるのはなにかといえば、そこの理不尽感だと思うのです。不正義だ!と思う。理不尽なことをされた時点で、やった人間は不正義なことをする悪者であり、懲らしめられて当然であると思う。だから違法だろうが攻撃をしかけていいんだと。逆にいえば、理不尽感が中和されていたら、そこまで感情はトゲトゲすることはない。そして他人からちゃんと対等にレスペクトされているという実感があれば、かなりの部分我慢できるし、トゲは生えてこない。

 ここで思うのは、ボランティアとかやってて、可哀想とか、上から下を見るような視線は禁物だという話です。でも、どう考えても可哀想じゃん、何が悪いの?というのが、わかったようで分からんかったのですね。確かに見下すようなことはダメだけど、別に見下してないぞと。そこをクリアしてとかいうけど、どういう感情でいればいいのかようわからんと。超絶的な悟りを得ないとダメなじゃないかとか。今回考えてわかったのは、貧困者だから、被災者だからってカテゴライズがあかんのだろうなーと。もうそういう「可哀想な人」という分類仕分け、人種分けがされてしまってる部分が、トータルでの理不尽システムを追認してるみたいに思えるんだろうなー。「可哀想な人に愛の手を」とか言われて、自分がその「可哀想な人」と言われた場合、ちょっと待てよって気分になるけど、それと同じこと。

 そうではなく、本来、そして今も、対等平等な人と人であり、そこに上も下もない、全くノーマルな関係であるという前提に立ち、たまたま運が悪くてひどい目に合ってるから可哀想というのはアリなんだろう。「可哀想な人」というカテゴラズを前提になんか施されても、傷つくばっかで、うれしくないわ。むしろ「おう、兄ちゃん、ついてなかったなー」とか言われた方がよっぽど救われた気がする。そして「まあ、食えや」と握り飯差し出されて「困ったときはお互いさまだで、のう」とか言われると素直に「はい」と言える気がする。それは「お互い様」って言ってもらうことで、立場はイーブンなんだ、同じなんだ、同じようにレスペクトされているんだってことであり、それで救われるんだと思います。

 ということで貧困化によって治安が悪化というのは、それはそうなのかもしれないけど、貧困者を特殊なカテゴリーでくくって、自分は関係ないわ、どっかの特殊な場合なんだって感じでやっちゃうと、解決方向に向かうどころか、話をどんどん悪化させていく。貧困は大豆であり、治安悪化が醤油や味噌だとしたら、その種の偏見=思慮と視野が狭いがゆえに特殊カテゴリー処理をしてしまう心理傾向=が発酵とか醸造という工程にあたるのでしょう。その意味で、貧困に関する報道とか論評も、そのあたり要注意でしょう。また、オストリッチ症候群的に、自分は関係ない、自分だけは助かるという何の根拠もない、そして何よりも事実を直視する勇気のない思い込みは、助かるチャンスを自ら封殺するという意味でサバイバル戦略的に愚策であり、さらに事態の悪化に手を貸すという反社会的な行為でもあるのでしょう。ま、赤信号皆で渡れば怖くない的に渡ってんだけど(笑)。

 と同時に、これからも「自然の摂理」のように地球レベルでのバランス是正によって先進国は貧困化がつづくでしょうけど、それに対する解法の一つとして、この理不尽感の解消があると思います。

空き家問題

 これやろうと思ってたんだけど、もう長くなりすぎてしまった。もう走り書きだけね。空き家が治安を悪化させるという論稿は多々あります。まあ、そうだろうな、、とは思うものの、ネット見てたら、なんとなく胡散臭いものを感じてしまいました。

 一つは、ビジネス的な側面です。「空き家産業」ともいうべき新しいインダストリーが日本に生じてます。空き家の管理を請け負うビジネスですね。検索したらたーくさん出てきます。深い意味もなく(たまたま検索順位で上位だった)リンクはっておくと、例えばここここここここなどですが、いずれもポジショントーク的に空き家問題を語ってるフシがある。中には同じテンプレでやってるんじゃないかってものものあります。また、NPO法人とかいってるけど、要するに普通の不動産管理会社でしょ?ってのもある。

 いや別にディスしてるわけではないのですが、あまりにも言ってることが似通ってて、あまりにも雨後の筍感があったので。あたかも健康食品を売りつけるときに、ビタミン◯が欠乏すると、こーんなに身体によくない影響がありますよ、的な。空き家だって、月イチくらいで見回りいったり、換気したりすれば結構違う。それを委託するビジネスなんですけど、やり方としては、例えば遠隔地の空き家をケアするネットワークを作って、自分の家の近所にある会員の空き家を見回る代わりに、遠方にある自分の空き家を当地の会員にみてもらうというサービスの物々交換みたいなアプローチもあると思うのですよね。お金かからないしさ。でも、インダストリー的にいえば、そういう儲からないアプローチはあかんのかなー。

 その中でも空き家の活用で社会的課題を解決するブログは、かなり突っ込んだ実例と考察をしてます。

割れ窓理論のひとり歩き

 さらに、そのブラグにあったリンクで読んだ割れ窓理論にまつわるうわさを整理しよう。そして見えざる権力を見える化しよう。は考察が深くて読み応えありました。

 よく見かける「割れ窓理論(Broken Window)」とNYのジュリアーニ市長の勲功ですけど、まず「割れ窓理論」ですが、ストリートで窓が割れたまま放置されていると犯罪率があがるという法則です。ゴミだらけの場所にゴミをポイ捨てするのは抵抗がないけど、塵ひとつ落ちてないきれいなところにポイ捨てするのは気が引けるという心理的な傾向ですね。割れた窓を放置してると、そういう乱れたことをしててもいいんだって雰囲気になるから治安が悪くなるという。それをNY市長のジュリアーニは使って、細かい部分から取り締まることによって、トータルの犯罪率を劇的に下げたと。

 ただし、ほんとに?という鋭い突っ込みはあるべきで、それを書いているのが上の論稿です。本当の考案者はジョージ・ケリングという人の1982年の論文です、ジュリアーニが考案したオリジナルではない。また、ジュリアーニの功績は、別に割れ窓理論だけではなく、ちゃんと人員を増員したとか、銃規制を強化したとか、麻薬市場の変化(コカインが儲からなくなったので犯罪組織が衰退化した)、中絶が合法化されたので家庭破綻が減ったなどの理由がメインであるとレヴィットという人がシリアスに分析してます。だから、空き家問題でよく出てくる「割れ窓理論」は、多少割引して見ておいたほうがいいなーと。つまり商売用に誇張されていたり、プロパガンダやバズワード化している点です。

 ただし割れ窓理論の骨子部分は、特に間違っているわけでもなく、そういう心理傾向は確かにある。そして、それらは「そういう心理に傾かせる環境はなにか」という、最近でてきた「環境犯罪学」に収斂されていくだろうと。その環境が人々の心理に微妙な影響を与え、それによって治安の良し悪しが変動することはあると。

 これも思うに、結局は心の問題なんだよなーということです。ゴミだらけだったら散らかしてもいいと思うというのは心の問題ですからね。そして、貧困化という経済劣化に関することも、経済劣化だけが問題ではなく、それに伴って心がやせ細っていくかどうかこそが問題だと。

 これからも状況は厳しくなるでしょうけど、それだけにいかに理不尽感を減らしていくか、いかに対等レスペクト感を高めるかがポイントになるようにも思います。格差も、格差それ自体が問題というよりも、その格差が理不尽に生じているという部分が問題なのでしょう。また、対等レスペクトについていえば、貧困見世物報道みたいなスタンスでやってたら、状況は悪化こそすれ改善はせんだろうなーと思います。ま、お調子者のメディアに元々そんなに期待してないけどね。それだけに自分の問題意識や捉え方というのは磨いていかないとならんなーと思った次第です。そうやって意識を研ぎすませていくことが、自分自身のサバイバルにもつながるし、また全体の状況悪化を食い止めるコントリビューション(貢献)にもなるのだろうと。


 最後に、上で述べたのとは全く異なる視点を付記しておきます。経済劣化による治安悪化ですが、もっと露骨な要素もあります。国家財政が厳しくなって、治安を守る警察官や消防署員の人員が減っていくことです。ご存知かと思いますが、リオの五輪のときにも、空港で警察官や消防署員が大きな幕をはって「私たちは給料をもらっていません!だからあなた(訪問客)の安全は保証できません」と訴えてました。 Brazil emergency services warn airport visitors: ‘Welcome to hell. Police and firefighters don’t get paid, whoever comes will not be safe’。この「地獄へようこそ」って言い方が凄いよね。これはもう心の問題というよりは、単純にカネの問題です。






 文責:田村




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