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今週の一枚(2016/09/19)



Essay 792:Facebook Pageを1年やって思うこと

 写真は、Chatswood West
 最近鬼のように高層ビルがボンボン立ってるChatswoodですが、大通り(Pacific HWY)を超えて西側にいくと、いきなり遠足モードになります。もともとはこんな街だったと。
 APLACのFacebook Pageをはじめて、そろそろ1年が経ちます。今日はそのあたりのことを思いつくまま書き散らします。
 本来ならFBに書けば良さそうなんだけど、長くて収まりきれないので。

速報性と発掘性

 Facebookは純然たる個人のページで、Facebook Pageは法人とか団体、イベントなどのページだとされる(んだよね?)。でも、僕の場合は、田村個人とAPLACは事実上・社会生活上、同じようなもので、それを分ける必要はあるのか?違いはあるのか?ですけど、僕の感覚では違いはあります。あるように感じる。

 個人のFacebookは、ずっと昔に出始めの頃にちょびっとやったことがあり、請われるまま友達とかやってたんですけど、すぐに飽きました。あんま面白いとは思わなかった。以降ほったらかしにしてたんですけど、それはには幾つか理由があります。

 ここの説明がすごく難しいです。書いてたら何やら哲学的にすらなってしまったので、もう後回しにします。簡単なことから先にやります。

 一旦放棄したFacebookというSNSメディアをまた使う気になったのは、最初にも書いたように速報性と統合性という点で便利なツールだなと思い直したからです。

速報性

 速報性というのは、本家のHPの作成の面倒臭さの裏返しで、FBって画像でも動画でもなんでも、とにかく簡単なんですよね。ちゃらっと文章作って、ポンポン画像載っけておけば良いという。本式のHP(Wordpressとか出来合いではなく、本当にゼロから自分でタグ組んでやる場合)の面倒臭さの10分の1くらいのお手軽さです。それだけに表現方法に限界があったりするのですが(画像を後で差し替えられないとか)、そこに目をつむったり、工夫して補完すれば、簡単なだけにすぐに書ける。このメリットはデカいです。

 本家HPは、タグ作業やら画像の処理などの事務レベルの面倒臭さに加えて、コンテンツの整合性という別の面倒臭さもあります。既に出来上がってるテキスト体系の一部を改変したり、新章を作ったりする場合、全体のバランスや整合性も考えないといけない。そこだけ部分的に変えればいいってものではない。前後の部分と微妙にチグハグになったりするので、トータルに読み直さないとならない。これが意外と大変な作業で。そこでうんざりしてしまって、結局なかなか変えない→速報性が落ちると。

 これを補完するものとして、Facebookは使えるんじゃないかと。実際使えてます。
 

発掘機能

 それだけではないです。単に遅いものが早くなるだけではなく、ゼロだったものが形になるという無から有になる部分もあります(これは速報機能というよりも発掘機能、拡大機能といった方が良いかもしれませんが)。

 例えば、僕が日々いろいろ聞く皆の体験話も、体験談としてまとめようとすると凄く時間がかかる。皆もうんうん苦吟して書くわけですが、帰国しての新生活などに取り紛れて、やっとこさ書き上げたのが数年後って話もよくあります。さらには、結局難産のまま死産(ついに形にならず)ってはその数倍あるでしょう。

 僕個人が対面やメールで見聞し、皆でシェアした方がいいなーと思われる良い話とか役に立つ話などは山ほどあるのですけど、でも形にならない。HPではその数十分の1しか表現出来ていない。勿体無いなーと。実際、この1年でFB上で紹介した皆の話は沢山ありますけど、HPオンリーだったら、あの全てがお蔵入りして日の目を見なかったわけです。勿体無いでしょう?事実これまで十数年間、ずっと勿体なかったんです。それが多少なりとも解消されただけでも、やる意味はあったと思います。


統合性

 統合性ですけど、これはちょっとわかりにくい概念でしょう。
 要は全体像がわかるようにする、あるいはその手前のもっと他にもいろいろありそうだぞ、全体像はもっと大きそうだぞと感じてもらうことです。

二次元を三次元にする端緒

 例えば、永住権の解説ページや、お金の移動方法のページなどはよくアクセスがあるのですが、そこだけ読んでるとオフ会があるとか、こちらにきて最初具体的にどんな感じに進むのかとか、そのあたりは見えてきません。また、何かの縁で人と人とがつながっていくダイナミズムも、ノウハウ情報として読む限りにおいては見えてこないでしょう。

 でもリアルな社会的な実在としては、全部関連しているわけです。
 例えばこのエッセイから入って、オフ会を知って、参加したらまた他の参加者の話にインスパイアされたり、背中を押されたり。そしてこちらでの体験やつながりが、また別の国に行ったり、帰国したり、その後の仕事や人生でまた生かされていくという。そういう血肉の通ったプロセスがあるわけですね。でも、ただのトピック別の活字情報だけだったら、そのあたりは浮かんでこない。広がっていかない。二次元活字が三次元の現実に立ち上がってこない。

 その点Facebookは時系列でズラズラ出て来るだけですので、体系的説明をするには致命的に使いにくいメディアですが、それだけに思ってもいなかったネタや題材がランダムに出てくることにもなり、横断的な理解はしやすい。少なくともその端緒にはなりうる。

ネタはなんでもいい

 そういった事柄に加えて、僕のなんとなく考えている枠組みというのは、もう少し広く、別にただオーストラリアのノウハウやあれこれを提供しているのではなく、とんでもなく膨大なパターンがあるこの世界の生活と文化をエンジョイすることであり、そのエンジョイするための「研究」であり、いいものを教えあい、ヘルプし合う「互助会」をやりたいのです。APALCは、Association for Pluralistic Life and Cultureの頭文字をつなげたものですが、日本語では「多元生活文化研究会」であり、アソシエーションとは互助会のことです。この名前にしたときから、構想はそれ一本でそこは全く変化ないです。いわゆる「一丁目一番地」ってやつです。

 原っぱで遊んでた子供の頃を思い出して欲しいんですけど、だれか一人が原っぱの片隅でなんか面白そうなモノをみつけたら、「おーい、こっちこっち!」「ちょっと来いよ!」と大声で皆を呼んだりするでしょう?独り占めしないで、皆で面白いモノをシェアしたくなる。あの心理がこのHPの原点であり、今もそうです。

 なんだか分からんけど、海外じゃーって来てみたらこれが面白いのなんの。そうかー、こんなに面白いものだったのかー!?と思って、「おーい!」と言っているサイト。で、何が面白いのか、その面白さを賞味するためにはどういうステップがあるんか、それを人生レベルで楽しむには例えばこういう技術がいるとか、こういう発想がいるとか、日々発見や学びがあるわけで、それを言いたい。

 そこでは海外とかオーストラリアというのは、「面白いもの」の一例に過ぎず、別にオーストラリアでなければならない理由は毛頭ありません。せっかく生まれてきたんだから、せいぜい楽しもうやと。だからネタなんかなんでもいいです。その意味ではこういうエッセイの与太話も立派なコンテンツだと僕は思ってるし、FBのネタも、別にオーストラリアに限定する気もないです。「おーい」と言いたくなったら書く。

 海外とか英語とかいうのも面白くなるための「手段」の一つに過ぎない。子供が遊び場を川や林に変えていくのと同じこと、大人でも楽しくなりたい、いい気分になりたいからあれこれ旅行したり趣味やったりするのと同じことです。つまり、テーマそれ自体が価値本体ではなく、御本尊はあくまで「楽しさ」だと。

 それを理念として言うだけではなく、現実にボンボン書いて、まぜこぜにしていって、そのトータル感を出したい。FBは整合性や体系性はダメダメなメディアなんだけど、逆にいえば整合性や体系性から自由になれるメディアでもある。だから精神分裂的なゴッタ煮にした方がいいかと。HPはパラノ(イア、偏執的)的に体系性が軸となり、FBはスキゾ(フレニー、分裂的)的な軸にする。だから、意識的に「こんなこと書いていいの?」という枠を外していきたいと思ってます。書評サイトや音楽サイト、旅行サイトと見紛うばかりに。

楽しさのノウハウ 

 でも「楽しむ」というのは、これで意外と技術も知識もメンタル調整も必要です。「はいっ」って原材料のまま渡すだけでは、その面白さがわかりにくい。そこには多大なるノウハウがあり、そこはちゃんと書く。

 楽しむノウハウとは、先ほどの原っぱの例では、「ほら、あれ見ろよ!」「あれってどれ?」「ほら、あそこに赤い屋根の大きな家があるじゃん、その右側の〜」などと細かく指定しますよね。単に「あれ」「見よ」だけでは不十分です。

 例えば面白い本や音楽を紹介するにしても、「コレいいよ」とだけでは不十分で、これの何が良いのか、どの部分が良いのか、それはどの角度から味わうと面白いのか。小説だったら、ストーリーやテーマそのものはありふれてて別にどうということはないだけど、文章が面白い。それも言葉の選び方やら、リズム感が良い。抜群の技術で言葉をツブを揃えていて、それだけでも驚嘆すべきレベルなんだけど、でもここぞというときに、何食わぬ顔で違うレベルの言葉をポンと放り込んできて、そこに生じる違和感があって、その違和感を醸し出す絶妙なセンスがすごい。音楽だったら、コード進行の突拍子のなさが凄いとか、ギターソロが終わってから歌い出すまでの間のドラムのフィルインが凄い、それもバスドラとスネアのコンビネーションが微妙にズレていって、失速しそうな飛行機のような不安定さを出してて、そのスリリングな感じがもう鳥肌モンにカッコよくて、気持いいとか。

 オーストラリアや海外でも同じで、日本に比べれば万事いい加減なんですけど、でも「いい加減」であるということは、別の角度からみたら「自由度が高い」「人間臭い」ということでもあるので、その角度から楽しんでいかないとしんどい。バスの時間なんかいい加減すぎるくらいなんだけど、それだけに頼み込んだらバス停じゃないところで下ろしてくれたり、最後の一人になったらバスルートを外れて自分の家の前までタクシーのように行ってくれたとか。でも、常にそうなるわけではなく、そこにはバスの運ちゃんとの人間的波長が合うかどうかがポイントであり、狙ってどうとかいうものではない。自由度を楽しむということは、偶然性を楽しむということであり、なんでもキチキチ決めてそれで安心したいという安心快楽しか基軸がない平均的な日本人にはそこで頭の切り替えが必要だと。居酒屋や寿司屋のカウンターで聞く「本日のオススメ」みたいなもので、事前にはわからない。その日になってみないとわからない。わからないからこそ、偶然一発だからこそ面白いって頭を耕しておかないと、「いい加減だ」という不快感一色になる。

 天然色に数百万色(いや無限)のバリエーションがあるように、楽しさも快楽も無限にバリーションがあるわけで、この角度からこの部分って細かな指定をしないとわからない場合が多い。

 だもんで、音楽なんかでも、この曲のこの部分のココって細かな番地や部屋番号まで指定したいです。一曲まるまる聴くには長すぎるし、実際に自分が楽しんで聴く場合でも手続きのように聴いてる(待ってる)部分がほとんどで、快楽度が高いのは「きたきたきた〜、ココ!」って部分です。紹介するにしても、一曲全部ではなく、編集ソフトで切り取ってそこだけって感じでやりたいし。

 なにかの記事をシェアするにして、なぜこの記事をシェアしたいと思ったのかという部分はねちっこく書きたい。また、それは他の人にも求めたい。フィードであがってくる「シェアしました」という投稿でも、なぜそれをシェアしたいのかというその人のコメントこそが、僕にとっては一番の情報価値がありますから。シェアされる内容もさることながら、この問題に目をつけて共有したいと思っている「あなた」にこそ一番価値がある。おお、この人は今こういう問題に取り組んでいるのかと、こういうセンスがある人なんだーって部分が僕にとっては大事なんです。

人間について

ネタは人であっても良い

 あー、これ面白い、楽しいって対象は森羅万象すべてがそうです。そして人間も含みます。

 人物紹介とか他己紹介とかやってるのも、僕が面白いなーって思うからこそやってるわけです。そして、上に述べたのと同じように、ココが面白い、この角度からみるとこう面白いって、その人の楽しみ方みたいな部分を書きたい。「いい人」「面白い人」だけではわかんないですもん。何がどう「いい」のか、どう「面白い」のか。

 あと付加的な理由ですけど、余計なおせっかい的に「世に出してあげたい」って気分はあります。こんないい人、こんな面白い人、内輪で埋もれさせるのは勿体無いよ、もっと不特定多数に知られるべきと。まあ、もっと具体的にいえば、将来的にその人がなんかするとき、それは就活でも、起業でも、お見合いでもなんでもいいんですけど、この人どんな人なの?と検索したら、その人の良さをちゃんと伝えているコンテンツがあがってくるようにしておきたいです。それはささやかな人生支援でもあるし、楽しい時間を共有してくれた恩返しでもあります。

 ネットでいろいろ情報ありますけど、特定個人についてきちんと書かれているものは驚くほど少ない。友達ですとか、いいヤツだとかいうのはあっても、この人のどこがどう素敵なのかきちんと書いているのは本当に少ない。逆にネガな中傷は山ほどある。だからこそ、書きたいですね。もっと正当に評価されるべきだと思う部分はちゃんと発信したい。だもんで、他己紹介とかは、将来の採用担当者や取引先が読むと想定して書いてます。シビアな人物鑑定眼のある人には、くだらないおべんちゃらなんか通用しませんから、虚構成分は極力ゼロにして、本当にそうだよって部分だけで構成し、「こう味わうべき」と。

自意識過剰ホルモン

 これは前にFBの記事で書いたけど、FBってHPをやる以上に自意識過剰になりますよね。HPをよりも記事ネタのハードルが低いから、日常的に些細なことでもなんでも書ける。その自由度がいいです。今日ランチに◯◯を食べたら美味しかったという定番ネタであっても、そのためだけに自分のHPを立ち上げようとは思わんでしょう。ブログくらいだったらまだしも、ゼロからテーマ性をあるサイトをつくるのは大変すぎる。

 しかし、FBの敷居の低さにこそ麻薬性がありますよねー。
 自分の日常のことをあれこれ発信していると、自分自身がなんかVIPみたいな存在であるかのようにカンチガイしやすい。「今日の首相」の首相番記者がいて日常のあれこれを発信するように、あるいはスターのおっかけのように、一挙手一投足に価値があるかのように。

 100%そんなカンチガイしている人は、そうはいないと思うのですけど、でも、混濁してきますよね。冷静になれば、俺が昼飯に何を食ったかなんか、世間の誰が気にするというのだ?そんなもん面白いか?せいぜいがいつも「ちゃんと食べてるかい?」と聞いてくるオフクロくらいのもんじゃないのか?と。

 まあ、そこまで突き詰めてしまうと何も書けなくなってしまうわけで、そこは適当にボヤかすわけですよね。小学生の手紙に「こんにちわ、元気ですか?僕は元気です」の、「僕は元気です」の日々の「息災情報」は普通にやるわけで、いわばそれをやってるだけだと。まあ、罪もない「世間話」としてやってると。「先日、生まれて初めて海釣りというのをやってみましてね、いや後輩に好きな奴がいるんですよ、こいつにズルズルと引っ張られるような形で、でやってみたら、これが意外と面白い、、」みたいな。

 情報価値なんか相対的なものです。先程書いたように、自分にとってその人に価値があるのであれば、その人の発信する情報価値自体は低くても構わない。「先日、山中温泉にいってきました」という情報価値としては限りなくゼロに近いようなものでも、自分の親兄弟や親友だったら話は違う。

 それは良いのですけど、この「適当な塩梅(あんばい〜塩加減)」が難しい。書いてると、なんかステージの上にあがってるような妙な高揚感があって、誰もが自分に注目しているかのような錯覚をしがち。んなわけねーだろと理性では当然否定するのだけど、でも完全ゼロ否定したら、「何も書くことがない」「皆様の貴重なお時間を費やしていただくほど価値のある話には私にはございません」ってことになってしまう。

 HPでも同じっちゃ同じなんですけど、でもあれはレスの速報性がないから、寂しいけどまだマシなんですよ。書いても書いても書いてもメール一本こないし、やりはじめて数年後に来て初めて、あ、読んでくれてる人がいるんだとわかるようなもんです。でもFBってヴューとかリーチ数とかリアルタイムにでるから、否が応でも受けたとか、受けないとか、自意識を舞い上がらせる方向にいく。あれも良し悪しですよね。

 僕個人についていえば、この種の自意識コントロールは、パソコン通信時代からSNS歴二十数年だし、仕事だって自分の名前を前に出して仕事をするという自営系ばっかなので、多少は慣れてます。慣れてるから分かるんだけど、FBって麻薬性や、意識混濁性があるよなーって。だもんで、すっぱりそこは割り切って、自分自身の価値をゼロに措いて、それでもなおも発信してよい「こんなことがちょっと面白い」ってネタ価値だけでやる。ただしそのネタ価値はかなり低くても良い。かなりくだらないネタでもいい。「他愛のない雑談」「冗談」でもいいと。つまり発信者は誰でもあってもよく、ネタそのものが面白いというタンブラーみたいな感じね。そこを基準にし、そこを地面にしておくと三半規管が狂わないで済むかなと思ってます。ただし、それは個人的な決め事で、人にはそれぞれ決め事があるでしょうし、そこはもちろん自由です。

商業利用と出会い

 APLACの営業サイトとして考えてみた場合、あまり関係ない話(書評だとか)は書かない方がいいでしょう。でも、それはしたくない。普通のエージェントサイトとしては無駄な部分が山ほどあります(このエッセイもしかり)が、自分にとっては全然無駄ではないのです。僕の頭のなかの体系では、まず上述の原っぱでの「おーい」があって、そのなかに海外とかオーストラリアとか英語や永住権やらがあって、そのノウハウを伝える部分で、細かな手取り足取りが必要なパートがあって、だからその部分をやっていると。でもって紹介するとコミッションがもらえるということが後になってわかって、じゃあ、もらえるならばもらいましょって感じでやってるのが自然のなりゆきですし、意識的にもそう。

 別にこの全てを理解してもらいたいとは思わない。でも、スタンダードなものとは角度も内容も異質になるでしょうから、その異質さを感じとれるだけの感性があり、それを肯定的に思える波長親和性があるかどうかです。ある観点からみたら、営業活動とか集客なんだろうけど、別の観点(僕の観点)からしたら、それは人との出会いの1パターンです。だから商業的な意味での「お客」だとは思ってないです。したがってその付き合いにおいても、商業性や営利性のみでやるわけではない。てか、営利的には無駄の極致みたいなことをせっせとやってるわけです。

 思うに、「仕事と趣味」、あるいは「ワーク vs ライフ」という二分法があるわけですけど、そういった二元論的価値観だけでええの?という気分はずっとあります。また仕事=営利活動=金儲けという観点も、そうとばかりは限らんでしょうって思います。それは、お母さんが子供を育てるのは「趣味」なのか「仕事」なのかと問いかける不毛性に近い。立派な仕事だと思うんだけど、だけど育児をやってもお金なんか入ってきません。営利性ゼロ。どっちかといえば、支出のほうが遥かに多い「消費」ですらある。でも、そんな区分け自体がクソでしょ?そーゆー視点で物事見るんじゃないよって。育児が営利事業になるとしたら、補助金欲しさに孤児を引き受けて食い物にするとかいう鬼畜親みたいになっちゃって、そういう文脈じゃないんだと。

 生まれて、育って、なんかやって、死んでいくわけですが、その「なんかやって」って部分だと思うのです。アクティビティという形で一元化していいじゃんって思う。あるいは敢えて二分化したいなら、アクティビィティのうちに「気合が入ってるか/入ってないか」「他者と関連するか/しないか」「幸福を創造するかどうか」とかね。

 大体ですねー、優秀な商業活動は優秀な人生活動でもあるわけです。なにかの音楽聞いてガビーンとなって人生変わりました、励まされましたってことはあるわけですけど、それはCDの購買活動、消費活動、売上貢献、営利的成功、、、とかいう文脈だけではないでしょう。発信する側は自分の表現として出すわけだし、受けてはその表現によって自分のライフが豊かになるという幸福な関係がある。近所の美味いもの店屋さんだって、どっかの税理士さんに出会うにしたって、どっかの旅館を利用するにしたって、単に金銭の授受を超えて、もっと豊かなものにふくらんでいくわけで、それは両立するんだと思う。

 そこで大事なのは、提供しているサービスや財貨の質もさることながら、その質を生み出す「人」そのものだと思うのですよ。どういう価値観で、どういうポリシーで、どういう日々の営みがあるからこそ、こういう質、こういう方向性のものになるわけで、それを規定するのは「人」でしょう。

 そこまで突き詰めて考えていくと、自分はこんな人間ですということを遠慮なく出していくことと、営業活動と、そして「おーい」的な楽しさシェア活動とが、どっかの地点で交わってくるはずだと。それは理想論なんだけど、理想だからこそやるべしと。よく「それは理想論だ」というとき「それは非現実的だ」「それは不可能だ」という意味に使う場合が多いです。実際そうでもありますからね。でも、なんでもかんでもそこで終わったら生きてる意味無いじゃんとも思う。それが理想なら、追い求めればいいんだし、追い求めるとか敢えて言葉にして言うまでもなく、要はしれっと実現しちゃえばいいんだろと思います。リアライズ(現実化)してしまえば誰も否定できないんだし、それを理想と嗤うこともない。

FacebookとFacebook Pageの違い

つながりではなく化学反応にこそ価値がある

 最後に、難しいから後回しにしていた部分を書きます。
 個人のFacebookとFacebook pageとはやっぱ違いますし、個人のFBはそれほどピンとこなかったって部分です。

 ピンとこなかった根本的な理由は、おそらくは個人の資質に由来すると思うのですけど、他人とつながりたいと思ってないんでしょうね、僕は。いや、こういうとめちゃ冷淡なようだけど、別に人がキライなわけじゃないです。人がキライでこんな商売(前職も現職も)できませんし、どっちかというと平均よりも人好きするタチだとは思います。ただ、好きということと、つながるということは自ずと別問題に感じる。

 それは例えば、野辺に咲く花を見て、奇麗だなー、好きだなーと思っても、それとつながってたいとは別に思わないのに似てる。手折って、持って帰って、家で活けようとは思わない。野辺に自由に咲いてる花と、自分がたまたま同じ時空間におって、「おー」と思ってるその不思議さを愛でたいし、それはそれで完結してるような気がするのですね。それ以上なんらかの「作為」を入れてはいけないんじゃないかとか。そんな気分もあります。

 だからといって、全ての人間関係は一期一会で、後に引きずってはならないってことではないのですよ。つながっていいんです。全くそこには異論はないし、そういうシナプスがピキピキと形成されていることは単純に楽しいし、有用だし。でも、つなごること、知り合うこと、それ自体に価値があるんじゃなくて、一瞬交錯してそこでなにかの楽しい化学反応が生じる、そこに価値がある。また、将来的にそれが再現できる可能性や、知識情報として価値がある(あそこに行くとこんな面白い人に会えるとか)。

 だから、友達が増えるとかそういうことはどうでも良くて、そこでどんな化学反応が起きて、それをいかに楽しく味わえるかというテーマ性をもっとメインに打ち出したいのです。もっとアクティブな感じにしたい。それにはただの個人起点だけではなんとなく不具合に感じた、、ということです。

 これも二元論になるんですけど、友達かそうでないかなんて区分は、自分にとってはほとんどなんの意味ないです。クソだと言ってもいいくらい(笑)。なぜって、例えば日常の路上で、あるいは旅先で、名も知らない人と交わした会話やら、受けた温情やら、そういったものが自分には価値あることだと思うからです。でも、名前も知らない、ましてや「友達」でもないわけだから意味ないよね、、、なんてものの考え方はしたくない。そもそも友達だとなんで良いのか?といえば、そこでの化学反応(心がほっこりするとか、ガビーンと刺激を受けるとか)をコンスタントに与えてくれるからでしょ。だったら友達と呼ぶかどうかなんか瑣末なことでしかないし、話がややこしくなるから一切捨象してもいいくらいです。

 そういう世間との向き合い方をしたい僕のとっては、友達主義的なFBは肌が合わんなーと思ったわけです。別に悪いわけじゃないけど、ちょっと俺のとは違うなーと。それで十分上手くやっていける人はそれでいいんだけど、自分のとは微妙に角度が違うなと。でもFacebook Pageは法人主体ってこともあって、そういう価値観や打ち出し方をしているという出発点があるので、まだ合うんですよね。

局面別の人間関係

 もう一点。なんか違うなーと思ったのは、個人レベルであれこれつながってしまうと、幼稚園時代の友達と現在の仕事の取引先とが同じ地平に登場してしまい、同じ自己情報が共有されてしまう点です。

 人は誰でもペルソナというのをもっていて、仕事関係でかぶってる社会的人格仮面と、趣味の会でのそれ、恋人との間でのそれ、親兄弟との顔とは、それぞれ微妙に違うはずです。それは別に「嘘をついている」とか「演じている」というほどのこともなく、自分の人格のどの面を前面に出すか、どういう波長で接するか、自ずとケースバイケースになるだけのことです。

 自分の子供や家族に見せる優しい顔と、取引先や世間に対して見せるコワモテなイメージとでは違って当然だし、それは楽屋裏が見えてしまったらぶち壊しになる。そこがFacebookでは全部つながってきてしまうので、それでいいのかなーという気もします。これ、固い仕事をしてる人とか、無理じゃないのか?とか。例えば、警察官をやってる人がFacebookをやっても良いですし、プライベートの仲間たちの間ではひょうきんに振る舞っても良いと思います(それが地だったりもするし)。でも、プライベートの仲間と「うきゃー!」とかはしゃいでいる姿を、警察の上司に見られたいとは思わないんじゃないかなー。

 もちろんこれは誰もが議論するところで、制限リストを使えばいいとか、友達ではなく「知り合い」にすればいいとか、ワザはあるわけですけど、その管理自体が難しいし、根本的に違うんじゃないかなーと。

 人間がもってる生活の分厚さとか、人格の多面性とかいうのは、もっと積極的に肯定されるべきだと思うのですね。そこをレスペクトするなら、もう舞台そのものを分離すべきだと。同じ舞台で、シュークスピア演って、パンクロックのコンサートやって、落語もやるってのは無理があるんじゃないか。それは落語の人は落語しか聞こえない特殊な人リストや補聴器を使えばいいっていうけど、なんか小手先な感じがする。そーゆー問題じゃないだろって。

 そこはザッカーバーグさんと価値観が違うからしょうがないのかもしれないけど、パーソナルアカウントを5個も10個も持てるようにしたらいいのにと。むしろそれを積極的に推奨するくらいであって欲しいなと。ママ友系の顔でやりたいときはこのアカウントで、他の文脈の人は入れないとかさ。そこは人間理解につながっていくと思うのですが、一人の人間の内面世界というのは、それ自体が1個の宇宙のくらい広いと思うので。

 でないと、知らないうちに副作用がでてきてしまう感じがして。誰にでもオープンになってると、生まれてこの方全ての知り合いに読まれて良いようなネタに制限されてくるわけです。そこで制限される、そこで自己検閲するあたりが僕個人としてはちょっと不自由に感じる。不自由なだけではなく、それを長いことやってると、影が本体を規定するような本末転倒が起きて、本当にそういう人になっていってしまいそうで、それがちょっとうそ寒い。だったら、局面ごとにビシっと分けられるPageの方がいいなーと。

 ああ、あれこれ書いてたら長くなってしまいました。
 こんな長いのはさすがにFBにも書けないしねー(笑)。
 ああ、あとFBのデメリットは沢山ありますよ。一番ひどいなと思うのは賞味期限の短さですね。ほとんど24時間持ちませんからね。20時間超えたらもう誰も読まなくなる。HPのコンテンツは、10年前のエッセイでも読んでくれる人はいるわけで、やっぱりそこらへんは使い分けと工夫次第ですね。




 これが駅西側のピカピカの高層ビル群


 同じ撮影位置で180度振り返ると、じつはこんな感じ。街といってもこんな程度だったのですな。


 上の地点から、ほんの10分くらい歩くと自然林があり、クリーク(小川、Blue Gum Creekという)が流れ、鳥の声が〜という。ちなみにこの丸太は橋ではなく、なにかでドーンと倒れた感じです。どういう経緯(落雷?人為?病気?)かはわかりませんが。


 ブッシュを抜けるとまたこのあたりから住宅地になります。  これらの位置関係はこんな感じ







 文責:田村




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