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今週の一枚(2016/08/15)



Essay 787:馬鹿はいくら勉強しても無駄!なのか?

知的格差と経済格差について

 写真はGlebe Point Park

馬鹿は何を勉強しても無駄だという所論

 先日、ネットで見つけたのだが、言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書) という本がベストセラーになってるようで、知識社会の「格差」が生む 言ってはいけない「日本の内戦」に作者(橘玲氏)本人が関連(というか要旨の)記事を書いてくれています。

 詳細はそれぞれをごらんいただくとして、内容を要約すると、、、思いっきり要約しまくって一行で言うと、「馬鹿が何を勉強しても無駄無駄無駄あ!」ということです。もともと先天的に遺伝で知能は大部分は決まっているんだから、いくら親や国家が教育にお金をかけようが、又はどんな素晴らしいカリキュラムを作ろうが、結局は無駄だし、実際にも効果はあがっていない。だから、頑張ったって無駄だよーんという、超ミもフタもない話で、だからこそ「言ってはいけない、残酷過ぎる真実」だと。

 しかし、これだけじゃ一行 or 一ページで終わってしまうので、現状にあてはめたり、豊富な知識から世界の動向やら統計やら論文やら数字を引用して論を展開しているのでしょう。といっても書物それ自体は僕は読んでなく、上の要約記事だけしか見ていないのですが、だいたいのことはこの記事でわかるし、また分かるように著者本人が書いて下さっているのでしょう。

 なんだかこの本がベストセラー一位らしいので(え、そうなの?とちょっとビックリ)、アマゾンにも賛否の書評が沢山ありました。が、僕の感想は以下のとおり、
 (1)ま、そう(遺伝メイン)なんだろうけどね〜でもそんなの皆も薄々、てかしっかり知ってたんじゃないの?
 (2)でもそれと収入格差や身分格差が本当にリンクするのかしらね?
 これらについてちょい書きます。

 あ、別に読んでもいない書評を書きたいのではなく、話題のネタのその発端をちょいいただきましたってくらいで、あとはこの本から離れて、自分で立論します。


 Glebeの先っぽの公園には、僕が「長老」と呼んでいる巨木が二本並んでます。ここに来たら長老に挨拶する習わしになっています(笑、自分だけの話だが)。


知能格差→収入格差→身分格差の点

なんでホワイトカラー全盛時代になったのか?

 頭の良し悪しが収入の格差を生み、これからその格差はどんどん広がっていく、、という点ですけど、これは先進国に限っていえば、概ねそうだと思いますよ。てか皆さんそう言ってるじゃん。

 なんでそうなるの?ですが、戦後〜高度成長〜そして80年台以降、本格的に知価社会へ移行してきてるからですよね。その前提としてサラリーマン社会(ホワイカラー全盛時代)があります。

 社会科でよくやらされたように、わが国の第三次産業従事者数とかがグラフでばーっと伸びていて、農林水産業や鉱工業の現場作業の従事者は減っている。誰もがサラリーマン/ホワイトカラーになろうとし、それがスタンダード化し、それに伴ってその下ごしらえのプロセスである学歴ゲット=大学進学が普通の話になっていった。

 当たり前すぎて改めて考えなくちゃったかもしれないけど、かなり巨大な変化が直近過去に生じているわけで、問題はなんでそうなったの?です。はい、あなた、なんでそうなったんだと思いますか?なんで猫も杓子もサラリーマンになろうとしているのですか?

 理由は簡単で、それが一番コスパが良いと思われていたからでしょう。ロックスターやアイドルや宇宙飛行士は、そりゃあなりたいけど、要求される努力と運の量がハンパないし、リターンと確率は低い。その十分の1程度の努力でそこそこリターンがあるのはなあに?となれば、サラリーマンだって皆が思ってたし、実際そういう時代もあったということでしょう。

 じゃあ、なんでそんなに大量にサラリーマンが必要になったのかといえば、当時発展途上国だった日本が発展したからでしょう。仕事がどんどん増えた。そして工業製品からハイテク産業に移行し、国際的に売りに出るようになったので、現場の高度な技術開発要員はいるわ、膨大な事務作業を片付ける事務職員はいるわで、需要があるから給与も良く、田舎で大根掘ったりイワシ獲ったりしてるよりいいわってことになったのでしょう。

 んでも需要が増えるのは発展してる間だけであり、そんなもんバブルを境に成長鈍化、てか停止してるから、過去ほど人手は要らなくなります。それどころか普通の工業生産(製造業)だったら、雨後の筍のように生じてきている他の新興国家に奪われる。だから先端産業でやっていかないといけないから、頭数を揃えるという話ではなくエキスパートがほしいということになる。職自体が高度化し、且つ減少した。と同時に、テクノロジーの進化でOA化とAI化で、別に人がやらなくていいじゃんって職域が増えてきた。

 かくしてどんどん狭き門になっていく。たまたま今は団塊世代の退職期で大量の人員補充が必要だから新卒就活状況も多少は良いかしらないけど、長期のトレンドとしてはそんなにホワイトカラーは要らない。少なくともコスパの良い高収入なポジションに限って言えば争奪戦は厳しくなるでしょう。それ以外の大部分は、いわゆる非正規の派遣社員で十分回せるし、正社員そのものもどんどん空洞化して名ばかりの存在になる。ホワイトカラー・マックジョブで、仕事はハードでキツイかしらないけど、それは知的にハードというよりも物理的 and/or 精神的にハードなだけで、要はスーツを着た現場作業員や労務者でしかないという。

実はそんなに知的ジョブではない

 ところで今から思うと昭和30−40年台くらいのホワイトカラーって、それほど知的に大したことやってなかったと思いますよ。サザエさんの連載当時とか、「蘇る金狼」などの大藪春彦の小説の舞台なんかを読んでみると、皆で机を並べて算盤はじいて伝票整理ですからね。あとは得意先廻りの営業さんとか。サザエさんのマスオさんや波平さんが、そんなバリバリの企業戦士で、エクセレントなビジネススキルを豊富に持ち合わせていたような感じはしませんもん。

 記憶を呼び起こしながら思うのですけど、その昔のホワイトカラーの知的ジョブって、やっぱりそんなに知的じゃなかったような気がする。社会そのものがそんなに複雑じゃなかったしね。伝統的な日本企業の終身雇用とか家族主義だって、前時代の農村社会や職人世界の感覚、親方は文字通り親のように〜って感覚であり、それがそのまま横滑りしていったからこそだと思います。全く新しい世界がボンと登場したというよりは、スタイルが変わってるだけでやってる本質は同じというか。

 ただ職種や業種は新規のものなだけに、それほど深く究められていなかったから、かなり初歩的なことを皆でやっていたような気がします。むしろ大根育てたり、イワシ獲ってるほうがよっぽど知的レベルは高かったかもしれないです。土壌を見て、天候を見て、潮の流れを見て、多くの現場の作業員の配置を考え、船団を動かしって、生半可な知的労働ではないですよ。かなりクレバーじゃないと出来ない。少なくとも、どさっと積まれた伝票の束をせっせと記帳するとか、決まりきった会計法則にしたがって仕分けして集計するよりもは、現場の方が技が究められ、奥行きが深く、要求水準が高い分だけ、はるかに創造性や臨機応変の機転も要求されたでしょう。

 だからこそ新卒でいきなり働けたり(現場で一人前の漁師や百姓になろうと思ったら相当年数かかる)、「気楽な稼業」と植木等が歌ったりもしたのでしょう。ゆえにコストパフォーマンスも高いわけですな。少ない努力で多くのリターンだと。

 ところがそんな古き良き時代は、作れば飛ぶように売れたほんの一時期だけの話で、あとはずっとジリ貧。そりゃそうですよね、構造的にそうなってるんだから。

 で、今はどうなの、この先どうなるの?といえば、それが進行するだけの話で、求められる知的能力はどんどん上がってきているから、頭数揃えの誰でも出来るようなマックジョブはそれなりに扱われ(英語的にはカジュアルジョブで、日本的には非正規)、本当に優秀な一握りの人だけでしょう。要するに本当に知的でないと知的職業にはつけない。単に大卒なだけでは話にならんだろうし、大学でもかなり上位のそのまた上位でないとダメ、ゆくゆくは東大であれどこであれ日本の大学(アジアのローカル大学)出てるようでは論外だねって時代になるかしらん。


ある程度の地頭や才能は要求される

 まあそこまでは極端にしても、そこそこの知的事務処理能力を要求されるとなれると、人間の持って生まれた差ってのはあるとは思います。僕個人は、そんなに個々人に頭の良し悪しの差なんて無いと思ってますけど(使うのに慣れているとか、使い方が上手とかの差はあっても)、でも、専門職種の一定レベル以上になってきたら、確かにそれはあるよなーと思います。ある程度の地頭の良さ、それが1000人に一人レベルか1万人に一人レベルかわからんけど、一応プロですからね、プロの音楽家や選手になる程度の基礎選別はあるとは思いますよ。実際、実務をやっていても、並行的に10も20もいろんな事を考えながら処理しないとできないですから。

 これはサラリーマンだろうがなんだろうが、同じことだと思います。なぜなら、職業そのものがそれを規定するのではなく、現実がそれを規定するからです。この世界の現象というのは、本当に千差万別で、いろんなパターンがありますし、なかには、「嘘!?」と思うようなことも起きる。だからその現実に適応して物事を進めていくなら、それを処理出来るだけの知的能力は絶対必要ですもん。その意味で「1:99」とよく言われる数字は、妥当な数字とも言えます。実際、そんなもんだろ?と。

 ただし!これらはかなり一面的なものの見方であって、本当にそうなの?てか、今の御時世に、マジに99人が搾取奴隷階級に落とされ、絶望的に諦観し、あとの1%が貴族階級で栄耀栄華を謳歌して、、って、そんな話になるんかい?それもかなりお伽話な気がするぜよ。それらを次の章で幾つか述べます。

100人に一人でも、業種が100以上あれば問題ない件

 ただ、その前に、とりあえず今言った点(どんな業界でもプロは1:99)についてフォローしておきます。話題が離れないうちに先に。

 えーと、確かに1%の才能ないし超人的努力者が勝つわけですけど、ほんでもそこで要求される知力(才能)というのは、業界ごとに違います。頭が良いとかいっても、頭を使うエリアやその特性なんか多数あります。無限にあるかも。大きく文系理系でも、弁護士のような文系仕事の場合、これは自分の業界だからある程度体験的に言えるのだけど、理系的な知力はお寒い限りだし、また同じ文系・社会学系であっても、税理士や公認会計士のような計数センスは全然ダメだったりします。語学力もからっきしだし(そんなの勉強してるヒマなんかないって)。

 これはどの業界でも同じだと思います。理系であっても、化学系に強く、頭のなかでベンゼン核が軽やかに踊っている化学脳と、天文学のスケールでモノを考えるに向いている人、量子力学のようにほとんど哲学に向いている人、さまざまでしょう。さらに現場実業系においても、年商とか経費とか回転率などがさくっと出来る凄い人もいるし、美容師さんのように球面座標感覚(人の頭)と時間感覚(伸びてきたらどうなるかを予想して切る)に優れている人もいるでしょうし、土木現場の作業員のように空間把握能力に優れた人(ユンボの動かし方とか)もいる。

 それって知的能力じゃなくて、ただの職人芸じゃないかって言われるかもしれない。でもね、どこまでが知力で、どこからが才能で、どこがセンスなのかってわからんのですよ。弁護士は文章作成能力が求められますけど、これって結局センスだと思いますよ。絵心と同じく、文(ふみ)心みたいなのがあって、作曲するように文章が書けるかどうかは、先天後天それぞれのセンスと能力がいります。でも、それって「知力」なの?というようわからんです。てか、「知的能力」とか言われつつも、真剣にその力を分析していくと、音感や色彩感覚のように才能やセンスになっていくんじゃないの?って気もするのですねー。

 だからプロの領域で100人に一人の能力が必要だとしても、1%の人しか食えないというわけではない。だって、仕事や業種が100種類あるなら、100人に一人でも全員なにかの仕事を得られる計算になるでしょ?そして、実際にもそうでしょ。

見えない内戦ねえ〜庶民舐めてない?

 くだんの書物では(記事から推測するに)、知能の7−8割は遺伝によって決まってしまうという自然科学の研究結果があるらしく(出典が記事では書かれていないので、その信憑性は検証できてないです、嘘や誤謬が入ってる可能性も無いとはいえない)、素材で決まってしまうのであれば、どんなに税金を投入しても、どんなに英才教育を施してもあまり効果はない。知価社会を迎えた先進諸国の政策として、教育によって全ての国民の知的能力をアップさせて就業率を維持し、国民生活を豊かにしていくんだって言われていたし、「馬鹿に何教えてもダメ」なんてことは口が裂けても言えないというか、言えば、差別主義者のトンデモ発言呼ばわりされてきたけど、もうそんな誤魔化しはきかない。自然科学レベルで論証されつつあるんだから、いい加減PC(Politically Correctness〜政治的な配慮によってキレイゴト的にごまかしてしまうこと)はやめたらいい。かくして生まれながらにして貧困層と富裕層が区分されていくわけで、我が国でも「見えない内戦」が始まっているのだという話です。

 この部分については特にそんなに意見ないです。要は「蛙の子は蛙」だってことで、よく考えたら別にいまに始まったことじゃないでしょう?それに親が必死に子供の教育や進学に夢中になるのも、それで社会の上位層になって勝ち組に〜とか、どこまで真剣に思ってることやら。それは親自身が高学歴で高所得者の場合であって、そうでない場合は、この子も俺に似て馬鹿なんだろうな〜、でも馬鹿だったらなおさらハンデを少なくしておいてやらなきゃな〜くらいの感じだと思いますよ。遺伝的なことって、普通の世界の庶民は、遺伝子やDNAって概念も無かった頃から常識としてわきまえていたと思いますよ。だからこそ「蛙の子は蛙」ってコトワザがあるんだし、「トンビがタカを産んだ」って言葉もあるわけだし。何を今更っすよ。

 生まれながらにして貧困層で〜、内戦で〜というネタに戦々恐々とする人って、子供の頃から勉強が出来たからじゃないですかね。勉強ができることが今の自分の生活や幸福の支えになってるんだと意識的か無意識的にか思ってる人。自慢じゃないけど(ほんと自慢じゃないけど)、僕は小学生低学年はド劣等生だったから、出来ない子の悲しみはわかるし、その世界も知ってるけど、別に勉強できなくたって不幸になるってもんじゃないよ。てかあんまり、いや全然関係なかったけどな。勉強できないボンクラ一族マジョリティからしたら、学者一族とか医者一家みたいなところの一人息子が勉強できたとしても、そんなに羨ましいとは思わなかったし、むしろ大変そうだなあって同情すらしたけど。だから、静かな内戦が〜とかいっても、妙な勘違いしている人達(大して頭も良くもないのにエリートだとか自惚れているとか)は別として、そんなに衝撃的なことかにゃ〜?って、そこは結構疑問だし、楽観的でもあります。庶民の逞しさを舐めてない?って。

 勉強できない奴が、お前は勉強ができない、アホだと言われても、実はそんなに傷つかないよ。僕は傷つかなかったよなー。むしろスポーツなどでヘタクソ呼ばわりされる方が傷つく。そんな馬鹿なと思うかもしれないけど、大人になったってそうじゃん。例えば英語。英語に自信ありますって日本人はすごい少ないでしょ。大体皆さん「いや〜、英語はちょっと、、」と頭を掻く感じでしょ?で、そこでコンプレックスでグサグサになってるかっていうと、そうでもないでしょう?そりゃ周囲が出来るやつばっかだったら引け目に感じるかしらんけど、俺もお前もみんな馬鹿〜という環境におったら、別になんとも思わんよ。「メカはちょっと、、」「料理は苦手で、、」「パソコンとかそのへんは、、、」「クラシックとかあまり知らないので」とか、いくらでもダメダメなところはあるんだけど、劣等感感じないっしょ?人はマジョリティにいるという意識があれば、そんなに傷つかないって。出来るヤツのほうが特別なんだし。

 だから勉強出来ない、落ちこぼれ、貧困確定、人生詰んだ、もう死ぬしかないみたいに感じることはないと思うぞ。そう思うのは、それまで優等生でやってきて、どっかの時点で劣等生に転落したやつの話で、最初から劣等生やってたらそんな風には感じないと思うのですけどね。違うのかな。だから知的格差が〜とかいって、「落ちこぼれ」た時点で死ぬんだみたいに思うのは、その世界を経験したことない人、子供の頃から勉強ができて今もそのまま上空(と本人は思っている)を飛んでる人が空想で地獄絵図を描いている場合だけじゃないのかしらね〜?と。僕がスパッと弁護士辞められたのは、子供の頃が劣等生で、あの世界を知ってるからで、てか司法試験受験生時代は社会の最下層のゴクツブシ的ポジショニングで、どんな馬鹿でも正社員になれた時代にそれやってるのは、「ニート」という言葉がなかった頃の元祖ニートみたいなものでしたよん。大学の研究室で仲間たちと「私ら虫ケラですから」「ああ、世間がまぶしいっ!」「早く人間になりたい〜」とか常に言ってたよな(笑)。ロックの世界も似たりよったりで、世間様を井戸の底から見上げるような感じね。それに慣れてる。今思うと、あの劣等経験というのは大きな財産になってますねえ。だって下に落ちるのが全然怖くないもん、てかそれ「下」じゃないもん、それが地獄じゃないのを知ってるもん、それどころか結構居心地いいもんだぜってのも知ってるし。

本当に1人:99人の貴族VS奴隷社会になるのか?

そんなもんが固定化できるのか?

 さて、ここから先、紹介した書籍からは離れます。
 一般によく言われている、1人の勝ち組と99人の負け組といういつもの話です。殆どニアリーな話なんだけど、そもそも知的能力差→収入格差になるのかしら?ということです。

 まずもって指摘すべきなのは、本当に「一握りの〜」って社会になってしまうなら、それは社会のシステムそのものがクソだということであり、そのあまりのしょーもなさによって、自然となんらかの形に変化していくんじゃないの?ってことです。なぜって、当然じゃん。わざわざ100人が集まって何のために社会を作っているのか?といえば、「99人(ほぼ全員)が屈辱と絶望にまみれるため」って話はないでしょ。そんな馬鹿なことをみすみすやるわけがないもんね。だから、不承不承とはいえ、皆がそこそこ納得するくらいの形に自然となっていくんじゃないのー?ってことです。

 いや、世界史的にはそういう完全ピラミッド社会みたいなのは幾らでもあって、その方がむしろ通常状態だと言えたりもするのですが、でも条件が違う。古代中世の生産力、交通力、そして情報力からいえば、生まれた所=死ぬ所という宿命運命に厳しく支配されましたもんね。今は違う。誰でもそこそこは知ってる。その分析力とか構築力に差はあるだろうけど、古代中世の庶民からすればその力量は格段に違う。第二に、ほんとにリアルタイムにその時代にいって貴族が栄耀栄華を〜ってなってたのか?というと、貧乏貴族の悲哀とかあったりするし、権力を掌握できるのは本当に一握りだけど、同時に熾烈な暗殺と陰謀が渦巻いて醜い物事を体験せずに幸福に一生をってパターンがどれだけあるのかねえ?と。また江戸時代の文化を見てても、歌舞伎にせよ浮世絵にせよ火事と喧嘩は江戸の華にせよ、そんな文化を創造して皆が楽しめる程度の生活力はあっただろうし、それは豊富な各地方の民芸文化を見ててもそう思う。そんなひたすら地虫のような人生だったのかというと微妙に疑問も残るんですよねー。

 だから99人という圧倒的マジョリティが思いっきりスカを引き続けるような社会体制って、実際には維持しにくいんじゃないかと。それを実現するために、物凄い洗脳テクニックとファシズムで国民をギンギンに締め付けるとしても、日本の戦前にせよ、文革の中国にせよ、スターリンにせよナチスにせよ、大した期間持たなかったもん。いいとこ十数年でしょ?だからそこは戦争でもおっぱじめて〜っていうけど、いいよ、戦争やったんさいな。でも永遠にはできっこないでしょ。一発やったらおっそろしく国力は消耗するし、負けたら全員奴隷になるかもだし。やるとしたら全面ガチではなく、指相撲みたいな先端の小手先作業の戦争(っていうか、ただの小競り合い)をやって、それを針小棒大に大宣伝して、だから挙国一致で〜って締めあげることだろうけど、それも賞味期限がある。ベトナム戦争しかり、アフガンしかりで「まだやってんのか」でうんざりしてくる。だから戦争詐欺なり戦争テクは、永続性に欠けるアホな方法論だと思う。後は野となれ山となれで火事場泥棒がやる手であり、実際にもそうなのかもしれないけど(だから「今だけ金だけ自分だけ」って言われるんだけど)、火事場泥棒は所詮泥棒であって、話の本体である1:99を固定化・永続化する接着剤にはなりにくいでしょう。

 締め付け体制を長いこと維持しているという意味で、一人で気を吐いて頑張ってるのは北朝鮮くらいのものですが、でもあれも(内情は詳しく知りませんが)、貴族が栄耀栄華を〜って感じでもなさそうでしょう。そりゃ幹部になるといいモノ食ったりしてるかしらんけど、でも平安貴族のような感じじゃないよな。それに人材育成登用システムも、意外と公平だったりするというし(てか、有能な人間を埋もれさせている余裕が無いのだろうが)。

 しかも、ここまで消費文明で贅沢三昧やってきた先進国の連中(つまり我々)が、唯々諾々と従うか?というと微妙でしょう。まあ、大筋はそうなるかしらんし、その過程で、大量にホームレスになったり、人格やら精神が崩壊したり、自殺したりする人もいるだろうけど、それでもマジョリティに言うことを聞かせようとしたら、ある程度の納得はいると思いますよ。

 その納得は何か?といえば、所得の再配分でしょう。1%の勝ち組からごっそり税金とって、残りの99%になんらかの形で分配するという。要はある程度は「国らしいマトモなこと」をやらないと収まらんでしょ。また、1%の勝ち組も、99%を路頭に迷わせ、餓死させてたら、結局客も居なくなるんだから、遅かれ早かれ自分らも餓死です。海外に活路といっても、海外でも同じことやってたら世界的に客が居なくなるから、やっぱダメだと。それを算数的に馬鹿正直にやるなら、1%の勝ち組さんは100円稼いでも99円税金で持っていかれて何のこっちゃ?だし、それだと働いた分だけ損だし、それって「勝ち」なの?って話なります。まあ、そんな税率99%なんてことはないにせよ、相当程度もっていかれるでしょうね。てかそうでもしないと国家予算ないですから。

変容した社会で旧来の選別ルールが通用するのか?

 何が言いたいかというと、今以上に1:99構造が進行して、名実給与ともに正社員率1%くらいになるとするなら、それに伴って自然と社会自体も変容していくだろうなってことです。就活のライバルの99%を蹴落としたら、自分の顧客の99%も蹴落とすことになってビジネス自体が成立せんから意味ないだろと。税金使って公共事業で美味しい利権をとかいっても、そうなった時点での税収なんかほとんどないわけだし、払うとなったら自分らが払うしかないし。就業レベルでドラスティックな変更がありつつ、ビジネスや消費レベルで今と同じって前提はありえんだろうと言いたいわけです。

 じゃあそのときの社会はどうなっているのか?といえば、それはまだ誰にもわかりません。すでにギリシャやベネズエラの庶民レベルで行われている物々交換やら、市民レベルでの通貨が出来るかもしれないし、自給自足的なライフスタイルが今以上に一般化するかもしれないし、皆枕を並べて討ち死にするかもしれないし。

 でね、さらに問いたいのは、もしそれなりの変容があった場合、それでも1%の知的優秀者が総取りするような社会になっているのか?ってことです。多分なってないと思います。今そういう議論をしているのは、先進国は新興国に仕事を奪われて先端で難易度の高い知価労働くらいしか職がありえないという前提であり、またそもそもの前提はグローバル資本主義をやっているという点があります。そういう何重にもある前提条件が満たされて初めて1%の知価労働という話になってるわけで、前提が変われば、また変わる。

 実際、自給自足村的な、あるいはシェア的な共生社会になるのだとしたら、単に知的処理能力が高い人だけが脚光を浴びるわけではなく、ほがらかな人間関係形成能力だとか、なにか現場作業における一芸であるとか、単に力持ちであるとか、何にもできないけど潤滑油的な存在になるとか、総合的な人間模様になるでしょう。だとしたら、もう1%という構造は崩れ、100%とは言わないまでも大多数が何らかの居場所を見出すような形になるかしらんです。

 だから1%になるから、99%は何をやっても無駄無駄ってことはないと思うのですよね。1%になったらその1%も共倒れになるんだから意味ないでしょうと。

 これは実際の知価労働のリアルからしても言えると思います。以下その点を。

知的能力だけではどうしようもないこと

頭がいいだけでは1日ももたない

 僕がやってた弁護士業務は知的労働の最たるもののように思われるかしらんけど、実際には肉体労働的な側面も大いにありますし、さらに「感情労働」としての要素もあります。頭がいいだけだったら1日も勤まりません。何が肉体労働なのよ?といえば、あのクソ重い資料をもって法廷にいくだけでも相当の腕力いりますよ。積み重ねて50センチとかそんな資料ですからね、普通のカバンでは無理で、だから昔ながらの風呂敷が一番リーズナブルって世界です。それもって遅刻しそうだから全力疾走ですもん(笑)。また、とにかく現場に行きます。破産の現場、交通事故の現場、打ち合わせ、土地を見たり、人を見たり、拘置所で接見したり、営業社員のように一日中飛び回ります。遠方の出張もあるわ、各種委員会の会務もあるわ、顧問との飲み会はあるわ、あれはあるわ、これはあるわで激務であり、激務くらい働かないと食えないです。これはお医者さんもそうかしらんですし、ビジネスマンもそうでしょう。体力いるのよ、まずもって。

 あとは感情労働ですね。朝から晩まで泣いてる人、怒り狂ってる人、ネガティブオーラが鳴門の渦潮のように巻いているのが現場ですから、ヤワな神経だったら持ちません。来る日も来る日も喧嘩!喧嘩!喧嘩!ですので、いちいちそんなので感情を乱していたら、知的労働もクソもないです。最近では、ビジネスシーンでもIQ(知能指数)よりもEQ(感情指数)が注目されているといいますが、落ち込んだり、取り乱したり、人によって不公平に態度を変えたり、気分屋だったり、情動的に脆い人は向いてないです。

 加えて、人間関係形成力も大事。もういろんな人に会います。議員先生からヤクザから大学教授から自営業から主婦からありとあらゆる人が顧客や相手方や関係者になりますから、そこでは誰とでもある程度はうまくやっていかないと仕事にならない。特に独立自営の場合は、営業能力に直結しますから、ファンの心をがっしりつかむカリスマ性もいるのですね。それって、頭の善し悪しと関係ないです。まあ頭いい人はその重要性を的確に見抜くけど、見ぬいたからといって上手に出来るとは限らない。ある程度は天性の人柄もあります。


 草のふぁさっとした柔らかそうな触感視覚がよかったので

1%だとしても本当に「知力」で決まっているのか?

 僕は何をいいたいのか?
 1%の知価労働とか、知的優秀者だけが〜とかいっても、本当にそうか?というと、僕は大いに疑問です。純粋知的能力でいえば、1%ではなく5%であっても、50%であっても、それ以外の能力が優秀だったらやっていけるし、逆に純粋知力が1%でもほかがダメならやっていけないです。1:99という構図になったとしても、その1%を決めるのは知力だけではないよと。

 先ほど高度成長の頃のサラリーマンの知的労働は大したレベルではないと書きましたが、今だってそう大したことはないかもしれないのですよ。相対的に、他の部分が大きいですから。上にいけば交渉力がいるし、平然とブラフかませる胆力もいるし、清濁合わせて飲む度量もいる。昔のサラリーマンの知的労働のレベルがそれほど高くなかったとしても、人間関係の難しさは昔も今もないですし、総合的な「仕事」の難易度は今とそんなに変わってないでしょう。なぜなら、人間社会を構成する人間、そして人間を突き動かす感情の作用原理というのは、ぜーんぜん変わってないからです。

 よく昔気質のサラリーマンや職人さんが精神論を説いているって批判されたりもするけど、それが現場では一番役に立つって事実もあるのかしらんです。賢いだけで、部下の気持を全然わからない上司だったら、やっぱり下は付いてこないから結果を出せないことになるし、チームプレイやシナジー効果をマックスにもっていきたかったら、道徳の教科書のようなより良い人間性が結局モノをいうわけです。

 結局仕事であれなんであれ、人間がやってるんだから、人間に精通してないと現場で結果を出せない。その構造が変わらない以上、単なる知力だけで話が進むってことはないんじゃないの?ということです。

 いや、今は完全にオートメ化されて、AIで殆どのことができるから、求められるのは人間的共感力とかじゃなくて、冷徹なプラグラム作成能力なんですとか言うかしらんけど、それを推し進めていけば、1%も要らないでしょう?てか究極的には0%でいい、要するには機械任せで人間はなんも働かなくてもいいか、あるいは上から下まで全員マックジョブになるかしらんです。それも面白いよね。総理大臣も時給800円とかさ。まあその程度の仕事しかしとらんだろ?とか(笑)。

 そもそもですね、考えてみたら、50%の正社員就業率が、10%に減り、3%に減って、1%になったとしても、そこで打ち止めって保証はどこにもないでしょ?なんでそこで止まって、それが永続するの?普通に考えたら限りなく0%に向かっていくんじゃないのかなー。そして、そうなるとしたら、それはもう社会そのものが根本的に変容していくということでもあり、だとしたら、「1%の勝ち組に入るためには結局遺伝的な知力がモノをいうから」→「馬鹿はなにやってもダメ」って前提が崩壊するわけですよね。0%だったら、遺伝もクソもないでしょ。

問題は優秀でない奴が不当に勝ってる点ではないのか

 さ、このくらいにしておきましょうか。
 あ!でも、もう一点思いついちゃった。ごめん、それだけ書かせて。

 今の日本でリアルに問題になってるのは、1%の優秀者が〜って話じゃないでしょ?むしろそれだったらまだ我慢できる。ムカつくのは、優秀でない人、単におべっかが上手とか、卑怯だとか、恥ずかしげもなく嘘八百並べるとか、なりふり構わず利権にしがみつくとか、優秀どころか、はっきりいって無能やら、人間的に問題ありげな人々が、なぜか1%の座席に座っているという状況ですよね。

 こんな状態で1%論なり、知的能力による所得格差論を唱えても、むしろ虚しい。現に頭が悪い奴の方が出世してるじゃんかよーって。だから、結局は理屈先行のお伽話だにゃあ〜って思ったりもするのでした。実際、金ガンガン儲けてる人って、頭が良いというよりもタフですよ。なまじ賢かったら恥ずかしくて言えない・出来ないようなことを厚顔無恥にもやっていける人。例えば自分のことを「カリスマ◯◯」とか言えますか?僕だって、自分のサイトをカリスマ・エージェントとか、究極の〜とか、言えるかといったら、そんなDQN風味、こっぱずかしくてできないよ。でもそれやった方が儲かるのは事実なんですよね。いけしゃあしゃあとこっ恥ずかしいことを出来ないと金は入らない。その意味でも知的格差→経済格差って説には疑問が残るのですね。それって勤め人の世界の話でしょ?そして、勤め人という時点で、もう純然たる金儲けという観点でいえば最下層レベルなんだわ。本当に儲けてる奴は人に使われたりしませんって。でもって儲かってるなんてことは表に出しませんって。年収◯◯なんて言えてしまってる時点で、もう富裕層じゃないよ。

 でね、ついでにもう一つ。本当に優秀な人がそれなりに大きな収入を得るだけなら、別にそんなに不幸感はないような気がするよ。優秀な人が、偉大な仕事を成し遂げて報酬を得たり、メダル獲ったり、チャンピオンになったり、スターになったりしたとしても、憧憬はあれども不遇感はないっす。それ相応に血の滲むような努力もしてきたんだろうし、それはわかるもん。スティーブ・ジョブズが金持ちだったと聞いても、そりゃそうだろうなーと思うだけで怒りはこみあげてこないよ。

 もっと言えばね、1:99くらいの数字だったら、そこでの格差がどうであろうが、そんなんどーでもいいって気もします。その格差が大きかろうが小さかろうが、1.01倍だろうが1億倍だろうが、大事なのは99%の日々の生活が成り立つかどうか、そしてそこで自分を過度に殺さずに、心豊かに生きていけるかどうかであり、それが全てじゃないんですかね。問題は、格差があるかどうかではなく、大多数の普通の人達が普通に安らかに暮らせるかどうかでしょうが。そして時代の流れによって旧来のシステムが通用しなくなるのは当たり前すぎるほどに当たり前の話であって、それっぱかしの事でオタオタしてどうする?って思いますよ。また皆で考えればいいじゃん。それだけのことじゃん。

 それにこの数字って広がれば広がるほど、逆に気にならないんじゃないかな。100人の一人の特権階級が、1億人に一人になったら百倍ムカつくか?っていうと、そうでもない。そんな超レア事例、リアルな実感なんかないから「ふーん」くらいでしょう。例えば、皇族はああいう暮らしをしていて(ってリアルに知ってるわけではないが)、だからといって嫉妬や正義感に身を焦がすってもんでもないです。むしろ、話は逆で、この数字が縮まる方がしんどいですよ。つまり二人に一人は貧困で負け組くらいがしんどい、てか8割は大丈夫だけど2割は地獄と逆転してるくらいが一番しんどい。その2割に自分が入って地獄に行くんじゃないかって不安にかられるほうがキツイと思います。

 ということで格差論って、一見もっともらしいんだけど、リアルな生活実感にひきなおしてみると、結構あれ?って部分もあったりするんじゃないかしらって話でした。





 手前がAnzac Bridge、その向こうがハーバーブリッジ





 ワンコ天国、放し飼い






 文責:田村




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