★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
783 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2016/07/18)



Essay 783:選挙という通信簿

 
 

 写真は、Kiriibilli。どこぞの港みたいだけど、オペラハウスの反対側です。対岸に見えているのがNeutral BayとかCremorneです。
 参院選が終わって一週間、今頃なんか言うのは気の抜けたビールのようなものですが、感想を幾つか。

 選挙結果って、その昔、通信簿を貰った時の感じに似ています。
 自分ではココが出来るあそこがダメとか自己評価していたものを、先生という第三者から客観的に評価される。そこに意外なズレがあって「ほお」とか「くそ」とか思う。それに似ている。

 選挙の場合、自分ではなく自分「ら」という複数形、自分も含めた日本人(選挙民)全体の通信簿みたいなもので、「ありていに言って、俺らってこんなもんよ」と示されているという。で、「おお!」と思うこともあるし、「くそ」と思うこともある。それらをかいつまんで。


日本の中央支配の構造〜足を踏まれているかどうか

 「踏まれているのが他人の足なら百万年でも我慢できる」というフレーズを大昔にどっかで読んで、印象的でした(だからまだ覚えているのだが)。いや、ほんとそうなんですよね。今こうしている間にも、第三世界では年端もいかない子どもたちが無残に殺されたり餓死したりしてるんだけど、「我慢してる」「見て見ぬふり」という自覚もないまま日々幸せに過ごせちゃったりするわけです。

 明治以降の日本政府もこれと同じで、強者が弱者の足を踏み続け、地方を収奪して中央が潤うというパターンが基本構造としてあると思います。

経済的収奪と官僚支配

 遡ればヤマト朝廷の律令体制やら平安貴族の荘園体制やらいつの時代もあっただろうし、また国に限らず、暴力団のヒエラルキー組織や家元制度など、上納金その他で周辺から中央に養分を吸い上げるシステムはずっと健在です。マルチやねずみ講みたいなもの。強者が弱者を虐げて支配収奪するには非常に効率が良いメソッドだから頻繁に活用されています。場合によってはフランチャイズシステムなんかもその一種でしょう。大組織というのはどこかしらマルチ的構造を持ち、ゆえに中央にいけばいくほど and/or 官位があがるほどその蜜は甘い。この吸蜜行動を一般に「出世」などと呼ばれたりするのでしょう。

 ただ、日本史をみてると武家政権の頃(頼朝〜徳川)は意外とそうではない。武家とはもともと自作農が武装蜂起したところから始まってることもあるのか、収奪システムはない(百姓=武士という身分的収奪はあるけど)。江戸時代も、各藩が徳川幕府に上納金を毎年払っていたということはないんじゃなかったかなー(違う?)。武家政権は一種のユナイテッド・ステイツ方式で、各藩とも自給自足の独立経済で頑張る。では中央政府(幕府)はどうやって支配するかというと、もっと陰険なやり方(笑)。人事や規則による支配、そして「いやがらせ」ですね。とりあえずお家断絶やら転封(左遷)や改易(降格)やらの人事権=生殺与奪権で睨みをきかせ、金ばっかりかかってくだらない参勤交代をやらせたり、公共工事を藩に命じて国力を疲弊させたり(薩摩藩がなぜか岐阜の長良川の治水工事をやらされたり)、「本社による官僚的ないやがらせ」ですね。

 明治以降の日本政府(薩長政府)は、収奪と官僚統制の2つを効果的に併用し、戦後においてもそれは変わらず、現在まで地続きになっていると僕は思いますです。


 このあたりは建物がヨーロピアン風情でいいです。観光客なんかも白人系が多く、アジア系少なし。

三割自治

 まず経済収奪ですが、これは地方自治体の財源問題で、その昔三割自治とか言われてた問題です。どっかの都道府県の予算のうち、自主財源(自分らの財源)は3割程度で、あとは7割は国から「仕送り」してもらっているという状態をさします。多少は改善されましたが、それでも平均すると4割程度だと言われます。東京都ですら7割だというし。なんでそんなに少ないの?というと、最初の取り決めがずるいのですね。納税の最初の時点で、これは国税だから国の取り分と最初から決めているし、それが結構多い。所得税、法人税、消費税、相続税など主立つところは全部国税です(=国の総取り)。

 しかし、モノの考え方でいえば、まずは全部一旦自治体財源として、その上で各都道府県が上納金(ないしマンションの管理費みたいに)に国家に納めるというやり方でもいいはずなんけど、そうはしない。絶対しない。それやったら中央権力崩壊するもんね。

 その代わりに、まず地方には最初に絶対に自立できない程度にしか稼がせず、お金が欲しかったら国の言うことを聞けという支配構造にする。これは昔っから問題になってて、1997年には地方分権一括法が出来て(そういう一つの法律があるのではなく、475本の関連法案を総称してそういう)、是正の試みとか言われているけど、レッテルを変えてるだけで本質的には変わらないという指摘も強いです。

 国から地方への「仕送り援助」ですが、地方交付税交付金などの使途を定めないお小遣い的なものもあるけど、機関委任事務(現在は法定受託事務など)、お金もあげるが使途も限定する、と言うよりも事実上パシリみたいなもの(参考書買うためにお金をあげるのではなく、お金預かって豚コマ200グラムの買い物に走らされるような)。このカネの力で、中央は地方を子分化するわけですが、そこでは「中央との太いパイプ」を誇る政治家の先生方が官僚から金をぶんどってきて地方も持ってくるということがこの国の政治と選挙と本質であった。それは一昔前の自民党政治の風景であり、したがって地方にいくと自民の保守王国になる。ならないわけがないですよ。逆らったら生きていけないんだもん。最初からそうやって設計されているんだもん。

官僚統制と許認可権

 それに加えて官僚統制です。アレをしなさい、こうやりなさい、ソレはしちゃダメですって箸の上げ下ろしにまで口を出して、それに逆らうと認可しない、あるいは金を出さない。

 90年代初頭、細川さんが日本新党からいきなり総理になったときに流行ったのが、熊本県でバス停の位置を10メール変えることさえ中央官僚の許可がないと出来ないという例示でした。とにかくうるさい。そして目立ちたくない、失敗したくない、無事これ名馬的な事なかれ人材が官僚になる傾向があるので、無難でクソつまらないものしか認可されない。かくして、日本全国どこにいってもJR駅前の風景はデ・ジャヴュ状態になる。どこも同じ。駅前広場あって、大きな歩道橋があって、バス乗り場とタクシー乗り場があってって。これって、官僚の特性というよりも、管理者的立場にたった日本人の特性といっていいでしょう。そんなうるさく統制しても一銭の儲けにならなくたって、自然の本能のようにこれをやるよね。信じられないほど細かい校則とかさー、「おやつは300円まで」とかさー。なんなんだろね、この心理。自由な人をみると本能的に憎悪するようなDNAとかあるのかしらん?

 その許認可が、一見法律の定めによって理路整然と行われているようで、その実「気分」でやられているので、いきおい申請する側としては「顔色をうかがう」という卑屈な行為を強いられることになる。これが不正腐敗のシステム的温床になり、だからこそ天下りは無くならないし、それ以上に日本人の精神風土に一定の卑屈さを常に刷り込み、隷属的人格を育成するという精神的な犯罪性すらあると僕は思う(だから自分でモノ考えなくなるし、周囲に迎合するようになるし)。

辺境収奪支配

 これら二つの支配方法を使って、明治以降の日本はやってきたんだと思います。
 そこでは弱者、つまり第三世界のように、中央から距離が遠くて、だからあんまり悲惨な状況が伝わりにくくて、足を踏んでてもそんなに心が痛まないようなところの足をグリグリと踏み続ける。どこかといえば、まずは北海道のアイヌからの強奪と棄民的な拘置監やら炭鉱やら。そして東北と沖縄。薩長政府の東北、とりわけ旧会津藩(福島)イジメは悲惨を極めたし、その後も「東北の寒村(にしたんだけど)」を兵士と売春婦と労働者の供給源にしていると思います。まず食えなくして、東京に出てくるしかないように仕向け、兵隊になるか遊郭に入るか、戦後は復興のビル工事の季節労働者。

 ずっと前のエッセイで紹介した西村寿行氏の小説「蒼茫の大地、滅ぶ」では、虐げられ続けた東北が立ち上がり奥州国として独立するポリティカル・フィクションですが、リーダーである青森県知事の野上高明の血を吐くような独立宣言は感銘深かったです。長い小説ですが、蝗害(イナゴの大発生)パニック小説でもあり、面白いですよ。

 そして農村は官僚と農協と財閥(肥料)の三位一体支配をした。原発はおしなべて辺境な土地に作った。沖縄は、戦時中においては平然と捨て石にされ、戦後には日本ですらなかったし、復帰後もアメリカの半植民地状態が尚も続いている。

 僕自身は東京生まれ育ちであり、性別的にも、偏差値的にも、身体的にも「普通」という名の強者であったわけで、被害者意識満載の中二病から卒業するにつれ、「ああ、俺は」と立ち位置が見えてきました。ああ、俺は、被害者ではなく加害者であったのだと、昔から、そして今も他人の足をグリグリ踏み続けているのだと。

純友と将門

 で、それが今回の選挙とどういう関係にあるのかというと、もうおわかりでしょう。自民圧勝とか書いてるマスコミもあるけど、東北の一人区は自民勝ててないです。秋田県以外、つまり青森、岩手、山形、宮城、福島は全部自民が負けている。1勝5敗。ちなみ全32区で21勝11敗で、それだけみれば勝率6割5分だけど、前回(2013)は31選挙区で29勝、勝率9割3分だからガクンと減っている。勝率93%→65%をもって「圧勝」と表現するか「惨敗」と表現するかは、その人の視点によるでしょうけどね。問題は、落とした11区のうち半数近くが東北である点です。原発の福島では現職大臣が敗れるという非常にレアなことになっています。

 同じく現職大臣が落ちたのは沖縄も同じで、これで沖縄出身の国会議員は自民ゼロになってしまった。
 加えて言うなら、参院選ではないけど、同じく行われた鹿児島県知事選挙では、自民の推す現職知事が敗れている。

 その理由は個々の選挙区でそれぞれだとは思うけど、足をグリグリ踏まれてきたエリアから徐々に変わってきてるような気がします。福島や東北は原発とTPPでしょうか。原発がどうのというよりも、「復興」の名のもとに何をやっているのか?ということじゃないんでしょうか。結局は、膨大な税金使って公共投資やって、東京などの中央資本を潤わせるだけという、日本のODAと同じ構造(日本政府が税金を払い日本企業がそれを受け取り、外務官僚OBがピンはねする)のにうんざりしてきたという点もあるでしょう(奇しくもバングラデッシュで似たようなことになってるけど)。TPPも、アメリカの国内情勢を見てると結局お蔵入りになって、永遠に陽の目を見なさそうなんだけど、じゃあアレは何だったんだ?ですよね。あれで農協を敵に回して、担当者の甘利君はミソつけすぎで、何のためにやったことやらって感じですけど。

 東北の結果だけみてるとまるで奥羽列藩同盟の戊辰戦争みたいだってネットで言われてるみたいですけど、全国的に見れば、藤原純友と平将門の乱の方が近い。中央政府(平安貴族)の荘園支配にうんざりしてきた武士階級の勃興の予兆が、東と西とで同時に起こったという。

 ま、過去の史実にひっつけて類似性を楽しむという趣味はともかく、その程度が露骨であればあるほど、足を踏まれていることを実感してきた人が徐々に増えてきた、ということは言えると思います。関東から西日本は一般に自民優勢ですけど、それはまだ足を踏まれていること、あるいは踏んでいることの認識が薄いのでしょうね。




劣化=粉飾落魄

 これらをどう見るかですけど、ここ最近になって日本政府が急にひどくなった、、、のかどうかは保留が必要だと思います。いや、ヒドいのはヒドいと思うのですけど、昔っからそうだっただろ?と。戦後のレッドパージにせよ、高度成長の歪みにせよ、広島長崎の被曝被害者の救済どころか官民あげての差別、公害や薬害被害者への扱い、昔が素晴らしかったとは到底思えない。なんだかんだ理由をでっちあげて骨までしゃぶる地方収奪は律令国家の頃からやっていた伝統芸能ですある。だから、急にそうなったというものではないと思います。

 むしろ、隠すのが下手くそになったんだと思う。その昔はヒドいこともしたけど、粉飾も上手だった、ひどい話なんだけどまあ、いいじゃないかってムードにもっていった、そのマインドコントロールや洗脳が上手だった。それまで敵視してた中国が文革という非人道極まること(数百万〜一千万人も虐殺されたといわれる)をやっていたときでさえ、アメリカの対中路線の変更や、田中角栄の親中政策によって、それらは綺麗さっぱりメディアから隠された。そのとき日本人は何をしていたかというと、ランランとカンカンのパンダブームで上野動物園大盛況という脳天気ぶり。あそこまで綺麗に騙してくれたらお見事!ですけど、それに比べたら、すぐにボロがでる嘘ばっかで、ここ20年で日本で何が一番劣化したかといえば、嘘の付き方が劣化したのだと思います。

 どうしてそんなに馬鹿になったのか?といえば、複数の理由が考えられます。一つは全体のパイが縮小していったので、成長期のように皆にパイを与えて、豊かさで誤魔化すという手法が使えなくなったこと。これが一番デカイと思います。子どもたちにお寿司を腹いっぱい食べさせていたら、お父さんが多少晩酌の量を増やそうが問題はなかった。でも、全体に食事の量が減ってきて、ひもじいよーという子供に「食べ過ぎは健康に悪いんだ」とかおためごかしをいい、お父さんがちょっとだけお酒を飲んでると、すごーくズルい感じがするという。昔は政治家の腐敗も数十億円単位(今でいえば数千億レベル)でドンパチやってきたんだけど、今は出張費を誤魔化したりするだけで糾弾されてますからね。それがいいことだとは言わないけど、往年を知る日本人としては、妙な意味で、涙がチョチョ切れるような気分です。そこまで落ちたかと。そのうち、某政治家は子供の頃におやつ300円のところを400円分持って行ったというのが政界を揺るがす大スキャンダルになるかもしれないです。

 もう一つは、なんだかんだいってネットの集合知でしょうね。ネット馬鹿も量産してますが、同時にネットがなかったら絶対に広がらなかっただろう情報も多いです。報道しっぱなしで言ったそばから消えていくマスメディアと違って、ネットは後々まで残りますから、積み上げ効果や学習効果も高い。電通なんか、その昔のバブルの頃なんか、そこそこのビジネスマンでないとその存在すら知られてなかったんだけど、今では皆知っている。まあ、皆といっても10人に一人くらいでしょうけど、その昔は100人に一人も知らなかったんだから大したもんだと思いますよ。

 このように豊かな資本によって、用意周到に誤魔化したり騙したりってことができなくなってきて、すぐにバレてしまうような愚劣なプロットが増えてきた。乏しいパイの奪い合いだから、エグさも理不尽さも分かりやすい。逆にそれを検証するレベルは高くなってるから、瞬時に細かく検証されてしまう。逆に、どうしてこんなミエミエの嘘に騙される奴がこんなにいるのか、それが不思議って感じになってます。マスメディアの劣化はとどまるところを知らず、日本の報道自由度ランキングは今年また11位落ちて世界で72位です。もう少し上手な嘘をつけばいいのに、いちいち露骨なやりかたをしてるから、どんどん信用を落としている。またお金が無いのはツライところで、これが大ヒットになるようなドラマや番組をバンバン量産してたらまだ自然とそちらに耳目が向かったでしょうが、そういうわけでもない。

 ひとことで言えば粉飾落魄で、年いってきたのでお白粉のノリが悪いわ〜ってことなんかなと。



その他

 その他で一括りします。長く述べたらそれぞれ一本分くらいあるけど、かいつまんで。

人間性の問題

 ゲスとかゲスいって言葉が流行ってますが、それに象徴されるように、複雑な不正システムがどうの、正義や理念的にどうのって話ではなく、「人としてどうよ?」ってレベルに収斂されていってる感じがします。

 メディアの劣化も、どうしてあそこまで醜悪な自己保身に走れるのか?メディアの矜持とかいうレベルを超えて、人のあり方として疑問?という感じ。また、そんなちょっと考えればわかるような騙しにひっかかる人が大量にいたりして、どうしてそんなに愚かなの?そんなんで人生を全うできるのか他人事ながら心配になるという、これも人のあり方ととして疑問をもったりします。

 こうやって何でもかんでも人間的な問題にしてしまうこと、道徳的・倫理的な問題に還元してしまうことは、一面ではそのくらい強烈な批判精神や問題意識があるということでもありますが、他面ではとても危険なことだと思います。

 なぜって、他者に対して全人格的な断罪なんか、恐れ多くて普通できませんもん。それは、してはいけないことじゃないの?それが出来るのは神様仏様、閻魔大王様くらいで、普通の人間がどれだけ他人様のことが分かるというのだ?そもそも自分のことだってよく分かってないくせに。僭越だとは思わないのか?人に対する畏れはないのか?と。

 また、人間性の良し悪し問題にすることは、多くの場合感情的になりやすく、無用なシコリを残す。全体としては利益よりも害悪の方が強い。仕事でのミスを指摘し、改善を要求する場合でも、その点に関して「だけ」指摘し、もう少しいいやり方をしようねって言えばカドも立たないし、修正も早いでしょうが、そんなミスをするのは人間として低劣でゲスの極みだからだとか言い出したら、言われる方もツライし、反発するし、それで結局全体に良くなるの?といえば逆効果でしょう。他人のことなんかわかりゃしないんだから、人格がどうのなんて余計なお世話だからそこは触れず、ただ自分に関連する部分については迷惑だから、そこをなんとかしてねってクールにやればいいのに、そうしない。

 これは知性の劣化だと思います。メディアの劣化、というか昔から低劣だったけど、その人が要求される社会的役割を果たしてないと思われる事象があったという客観批判だけではなく、人としてどうかとか、世間をお騒がせしてとか、愚劣極まる問いかけをするよね。なんでもかんでも感情問題に引きずり下ろす(その方が馬鹿な視聴者には分かりやすくて受ける)というワイドショー的なもの。人間を善人・悪人に二分割して、好ましいか、おぞましいかという感情一発で仕分けしようとする。僕は思うに、そういう発想ばっかしてる人間に社会生活を営むだけの技術適性はないんじゃないか。車の運転免許を与えるかどうかでも、信号とか交通法規よりも「気分でGO!」みたいな運転してる人には、与えないでしょう?それと同じことです。

危機感と投票

 選挙の得票がどうのこうのいう以前に、まず二人に一人は投票してないってことの方がずっと大事だと思います。これはそれだけ皆の危機感が乏しいことであり、それだけ愚かであるという見方にも通じますし、逆に言えばそれだけ危機というのは実は存在しないのだという見方にもつながります。

 特に後者。政治なんかやりたい奴にテキトーにやらせておけばいいのさ、それで特に困らないし、俺には関係ないもんねって意識です。これを馬鹿だというのは簡単なんだけど、いや実際そうじゃん、関係ないじゃんっていう見方もありうる。その見方を二人に一人はしている。

 確かにこれまでのところ取り立てて「危機」はないかしれません。これも"It depends"で、人により、場合により、程度による。例えば、具体的に何らかの被害や生活困窮に追いやられた人は、リアルな問題として危機を感じるでしょう。でも、たまたまそうではなかった人は、これまでと同じく平和で幸福な日々だと思うでしょう。そこはマダラ模様であると。

 また感度の問題もあります。そのくらいだったら許容範囲だと思う人もいれば、学校側におやつの値段を決められるだけで、もう革命起こしたくなるくらい腹が立つ人だっているでしょう。極論すれば、2000年前から僕ら庶民は骨までしゃぶられ続けた家畜扱いされているわけで、まずい餌を与えられることを成功だとカン違いしている度し難い馬鹿であり、ときどき散歩に連れて行ってもらえるだけで尻尾振って幸福だと思いこんでる卑屈な奴隷そのものだっていうことも出来る。

 どのレベルで危機感やモチベーションを得るかは、人によりけり、感覚によりけりです。最低限メシが食えたらそれでいい、それ以上は望まないし、興味もないというのであれば、今はそれほど危機ではないです。あるいは、ホームレスになりさえしなければそれでいいと思うなら、この先5−10年くらいで、労働者の半分くらいはそれほど危機感を感じなくて良いかもしれない。

 そして危機感や必要性で政治を考える向きでは、日本の政治も高校の生徒会みたいなもので、やりたい奇特な奴がやりたいようにやれってればいいんじゃないのー?って感じだと思います。生徒会だと思えば、投票率が半分くらいなのも何となく納得できます。そういう感じじゃないかなー。

 しかし、危機感持つから政治参加するってもんなの?という根本疑問もあります。危機感なんか全然ないし、別にいまでも十分うまくやってると思うけど、それでももっと上手に出来るんじゃないか、もっと進歩できるんじゃないかで考えて、参加して、意見いってってのはアリでしょう。てか、仕事でも、趣味でもなんでもそうでしょ?別に、死ぬ〜!という危機感があるから何かをやってるわけではないよ。もっと素晴らしくなれるから、なんかやるだけの話で。

 だから投票と危機感がイコールでリンクするもんでもないし、むしろリンクしてる時点でもう駄目だとすら思う。だいたい何でもそうだけど、困ってから始めるようではもう手遅れの負け組でしょ。ガンになってから健康を考えるとか、子供が家出して初めて危機感持つとか、リストラされてから生き方を考えるとか、そこまで追い込まれてから何かを始めているようでは後手後手に廻る。そうなってない段階、全ては順調のようでいながら、本当にそうか、もっと良くなれるんじゃないかって飽くなき向上心でやっていくべきじゃないの?売れなくなってから経営を真剣に考えるとか、飛行機が落ちてから安全性を考えるようでは遅い。

 政治について危機感と行動をリンクさせている時点で奴隷臭いよなーとすら思いますよ。それは飼い犬レベルの発想で、餌を減らされてから初めてワンワン文句を言うだけだという。そうじゃなくて、餌の質量が劣化する前の段階で、飼い主ももっと仕事に精出せよ、効率悪い働きしてるんじゃないよ、これをこうしたらもっと楽に稼げるし、そうしたら俺の餌ももっと増やせるはずだろ?しっかりしろよ、てか、そもそもどうしてお前が飼い主で俺(犬)が飼われているわけ?俺の方が崇高な存在で、お前はそれに奉仕するんだよ、俺は存在するのが仕事、崇高な姿をお前に見せてやるだけで仕事をしてるわけで、お前は愛らしくも素晴らしい俺の姿を見るその対価としてせっせと俺に奉仕すればいいんだよな、そこんとこ履き違えたらダメだよ、くらいに思えたら、奴隷脱却です。

 政治も国家も自分にとっては外部環境の一つに過ぎず、そしてそれらに微細ではあるけど影響力を行使しうる立場にあるのだから、常に考えうるベストにもっていくようにした方がいい。ここで、1億分の一票で何が出来る?というのは典型的な負け犬論理で、2票持ってる奴は誰もいないんだから誰もが条件は同じだし、政治も社会も「人」がやってることに変わりはないのだ。ゴジラが動かしてるわけではない。あいつに出来て自分に出来ないという発想から始まるところが敗北主義だと。願わくば、今の国政はけしからん、責任者出てこいって誰かがいったら、「あ、責任者は俺っす」「すいませんね、管理不行届きで」って名乗り出るくらいでいいのだ。国家や社会、自分に関わるものであれば「俺のものだ」と思う。自分に関するものであれば、自分が動かす側に廻るべきで、決して動かされる側に廻るべきではない。そこまで気宇壮大というか、誇大妄想狂みたいに皆が思うべきじゃないのかね。この国の最高権力者である主権者様なんだから。それをそう思えない、微塵も発想できないという時点で、もう負けは決まってるようなもんだと。


虐待と正当化 

 先々やばそうな気がするけど、とりあえすオストリッチ的に見なかったことにしよう、今日明日破滅するわけではないしって心理はあるでしょう。どうすればいいのか分からない場合、何かをしなければならないって状況それ自体を否定する心理、危機があるんだろけど、危機なんかないんだって思う心理。

 アホみたいだけど、でも一定有効です。そりゃ飛行機乗るたびに、もし落ちたらどうしよう、絶対に落ちないという保証はどこにもないのだと「危機感」つのらせていても疲れちゃうしね。

 投票率が低いのも、自民が強いのも、それらが素晴らしいからというよりは、危機をあまり感じたくない、感じたところでどうしようもないじゃないかって心理が本体にあると思います。

 以前、虐待児童の話を読んだことがありますが、児童相談所とか先生とか周囲の大人が虐待されている幼児に話を聞くと、「こんなに虐待されてます、助けてください」とはまず言わない。お母さん、優しいよ、この傷は折檻されたんだけど、あれは私が悪かったから仕方ないの、お母さん悪くないのと懸命に親をかばうケースが多いと。これは一種の洗脳でもあるし、同時に、親からそこまで嫌われていると思うと生きてけないから、あれは一種の愛情の現れなのだと懸命に思い込もうとしている、現状を正当化することで心のバランスを保とうとしているのだという話です。

 本当かどうかは分かりませんけど(リアルな直接経験を豊富に持ってるわけではないので、そこは何とも)、しかし、ありがちな話だなーとは思います。そして、それと同じ。国がそこまでひどいことをするわけないよ、あれでも一生懸命やってるんだよ、いざとなればなんとかしてくれるよという、一筋の願望のような思い。年金もダメだとか言いながら、いざとなったら借金してでも出してくれるよという一縷の望みのようなものをどっかで抱いていたりする。これが100%無理に決まってるじゃんってことになったら、そして今ですら数千万あってもロクな老後を送れないとしたら、もう身体が動かなくなった時点で餓死確定、あるいはそのニアリーなところまで彷徨うのは確定じゃん。現に僕自身、自分の将来の死因は肺がんとか事故死と並んで、餓死かな−と思ってて、ほっとけばそうなるという前提で、じゃあどうしよう?と考えます。毎日ね。

不正選挙

 不正選挙が話題になってますが、その真贋はわかりませんが、話題になっていいです。常に。どんなことにも不正があるのだという前提はあってしかるべき。試験をやる場合だって、カンニングをする人がいるかもしれないという大前提で、試験監督は目を光らせるわけですからね。

 選挙にも不正があるという大前提があるからこそ、選挙管理委員会があり、検認など厳密な投票手続きがあるわけで、お飾りや儀式でやってるわけではないのだ。そして、それがお飾りや儀式、ひいては粉飾になってしまって機能していないのであれば、じゃあ次にどうすればいいという対案が出てきてしかるべきです。てか、投票用紙というミエミエの物証がありながら、それで不正があり、疑惑があっても白黒証明する手続きがないというのは欠陥でしょう。

 対応策も、今は無記名投票だけど、選択式記名投票でも良いとか、全投票用紙をスキャンして、WEBで公開して誰でもそれを見て、カウントできるようにすべきであるとか、やり方はいくらでもある。行政が動かないなら、手間はかかるが各投票所の出てきたところにテント張って、希望者だけ自分の投票した名前を記名してってもらうとか。そうすれば確認できた票数以下になることはありえないわけで、疑惑が深まり、参加率が高まるにつれ不正の余地は減る。まあ、やり方ひとつであり、やり方を考え、集議し、提案し、実行を求め、やらないなら自分らでやる。その積み重ね。

政治と政局の違い、暴力革命のコスパ悪さ

 今の政治がダメだから、じゃあもう非合法でひっくり返そうというのもアリだと思います。暴力革命ですね。面白そうですね。でも、コスパ悪いでしょう。なぜって、いざそれをやろうとするなら、絶対に勝たないといけない。中途半端で負けたら、古来政治犯というのは見せしめに悲惨極まる処刑をされるわけで、ああいう死に方だけは絶対にしたくないという死に方をするでしょう。それは嫌だ。だからやるんだったら絶対勝つという方法でないと。

 とりあえず暴力的に凌駕しないといけないので、全国の警察官と自衛官あわせて50万人くらいですから、50万人以上の黒帯クラスの猛者を集めること。第二に、武装させなければならないので、お金がいる。防衛費が大体5兆円だからそのくらいはいる。てかあれは既に持っている武装の維持費みたいなものだから、ゼロから揃えようとすればその数倍はいる。とりあえず20-30兆円は必要ですな。ちょっとひとっ走りいってきて、20-30兆都合してきてくんな!てなもんでしょう。

 まあ、そこまでは無理だから、武装的には劣るけど、そこはスピードでカバー。都市ゲリラ戦を展開して一気にというのでも、世界各地のルートから武器弾薬集めるのに1000億円くらいはかかるんじゃないかなー。いずれにせよ、ガチにやるならそのくらいの資金調達能力がいるし、1兆レベルでの資金マネージメントが出来る人材が必要です。でもって、そのくらいの人材は幾らでも世間にいます。でもそういう人たちって大体あっち側にいるので、引き抜いてこないとねー。

 そんでもって武装蜂起して権力者や従う連中を皆殺しにして、さんざん破壊して、社会をゼロから建設しましょうっつてもロスが多いです。第一、それをアメリカはじめ周辺国が黙って見てるわけないし、これ幸いと火事場泥棒やるに決まってるから、そのあたり睨み合いっこさせて動けなくするだけの外交手腕もいる。一国をひっくり返すのは途方もないお金と能力と手間がかかります。で、失敗したら惨たらしく殺されるわけで、コスパ悪いです。

 じゃあどうすんの?といえば、合気道みたいなもので相手の力を逆用すればいい。軍隊炊きつけて叛旗を翻させればいい。これは簡単だからどこでもやられてます。クーデターですね。最近ではトルコだけど、タイなんか年中行事です。そうなると、軍隊支配権を取るかどうかのゲームになります。てか、要するに政権取ってしまえばいいんだって話になり、必死こいて全財産カンパしあって、ベイルート経由で武器を密輸して、長野県の山奥で軍事教練やって、手榴弾が暴発して手足が吹き飛んで、それでもメゲずに自衛隊の高級将校を拉致して、、とか大汗かいてやらなくても、投票すればいいじゃんって、あれなら数年に一回1時間程度の手間ですむんだからって話です。

 それに思うのですが、政治権力奪取ゲームと、政治そのものは全然別物です。今の日本だって98%はマトモですよ。てか制度それ自体はよく出来てます。これのどこが?と思うかしらんけど、119番電話するだけで救急車が来てくれて、手当してくれるのですよ。ゼロからそういうシステムを構築しようと思ったらどれだけ大変か。まず医者や看護師などを育成するための教育機関を作り、教師を集め、生徒を集め、建物を作り、基準やカリキュラムを作る。平行して病院をつくり、その設計施工をなし、多くの医療機器を購入し、またその医療機器を操作出来る有能な人材を育成し、採用し、給料を払い、、、ってやるわけです。水道だって、地下鉄だって、株式市場だって、なにからなにまで全部そう。それらが適正に日々円滑に進んでいるようにすることを政治というのだと僕は思いますし、その意味でいえば98%くらいはマトモに機能してると思う。壊す必要はない。

 そして思うに、その種の本当の政治(行政、その大綱をつくる立法、監視する司法)の殆どが、別に国家という枠組みでやらねばならないものでもない。自治体レベルで十分できるんじゃないの?警察だって教育だって都道府県レベルでやってるんだから。例外としては、途方もなくお金がかかるので自治体では出来なようなこと、つまりは戦争くらいでしょう。あとは原発くらいかな、金かかるのは。それと外交交渉だけど、今のグロバール時代に「外交」って結局なんなの?何やるの?出来るの?戦争しかけて何かが解決する時代じゃないでしょ。経済とかいっても、G7で雁首揃えて困りましたねーと嘆いているだけでしょ。

 例えばの話だけど、冒頭に無理やり繋げるけど、3割自治を10割にして、国会議員を全廃して、全国知事会にしてしまっても別にいいんじゃないの?と。ただし、地方政治の腐敗は中央よりは遥かにキツイので、オンブズマン制度や監視制度を高めて、三権分立ではなく四権分立にしてもいいよね。あ、権力分立が別に3というマジックナンバーである必要はないですから。現に台湾は五権分立です。考試院と監査院があり、前者は公務員試験など人材採用を独立部門でやらせて権力の介入をシャットアウトするもの、後者は今いったオンブズマン制度です。まあ、あんまり機能してないらしいけど。

 何を言ってるかといえば、現状を前提にした選択肢だけで発想しないということです。自民 or 野党みたいな選択肢にしてしまうとツライもんがあるけど、もっと自由に、いまある人材、制度、資源などを組み合わせてどうすれば効率マックス値にもっていけるか?どうすればもっと良いものが作れるかという発想にした方がいいと。それをフリーハンドで描くためには、それなりの基礎知識は必要だし、その多くはクソ地味なものなんだけど、そこは集合知で、もっとこうしたらいいじゃん、いやそれをやるならいっそ、、とか、そういう議論の方が未来は明るくなると思います。あー、ここんとこ短めに切り上げていたのに、今回は長くなっちゃった。すまん。











 文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page