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今週の一枚(2016/07/04)



Essay 781:暴君化する大黒柱と国家内DV

 競争原理と共生原理のバランスとレシピー
 

 写真は、オペラハウスの真正面サバーブのKirribilli

バランスをとる

 先週紹介したオーストラリアの総選挙ですが、現時点でもかなり近接しており、ハング・パーラメントになるのでは?とか言われています。ハング・パーラメントというのは、与党第一党が過半数を獲得出来ない状態をいいます。第一党だから組閣はするんだけど、でも絶対多数を得てないので強行採決しても負ける、だから法案によっては第三党のグリーンズや、インディペンデントと呼ばれる無所属議員の協力を求めざるを得ず、そこでは数では絶対少数である無所属が事実上のキャステイングボードを握ることになります。2つ前のギラード内閣のときがこれでした。

 さて、本当にそうなるかどうかですが、まだわかりません。こちらの投票システムは複雑なので、接戦になってくると最終結果が出るまで時間がかかるのですね。まあ、来週(今週)中頃にはわかるのではないでしょうか。

 でも、どういう結果が出たとしても、争点はなんだったのか?と言われると相変わらずよくわかりませんねー。政策にそんなに大きな隔たりがあるわけでもないし、だから、まあバランスを取ろうとしたということじゃないかなって思います。思うに、これからの政治風土というのはこのバランスがキモになるのかもしれません。

 バランス調整というのは政治の本質であるので、別に今に始まったことではないのですが、でも、現在特にそれが求められているような気がします。

 来週は日本で参院選がありますが、日本独自の問題も多々あるんだけど、でも同時に世界全体の潮流の影響もまた十分に受けていると思います。今回はその漠然としたあたりをちょっと書いてみます。

昨日の合理、今日の理不尽

みんなでサバイブ=最大多数の最大幸福

 一国の中にはいろいろな立場の人がいます。利害関係もさまざまです。全員が同じ利害関係を持つということは、成熟した先進国の場合、まあ無いでしょう。

 これに対して、絶対的に窮乏しているような状態だったら、まだ客観的に分かりやすいし、優先順位もつけやすい。まず衣食住の最低限のレベルを上げることが第一課題になるでしょうし、食料の生産やら、天災や猛獣に対する安全な暮らしなど、皆の目的は合致しやすい。毎日誰かが餓死して、誰かが猛獣に襲われ、大雨になると必ず人死が出るとかいう原始的な段階だったら、やるべきことは自ずと明らかになるし、意見もまとまりやすい。あとは細かなやり方論でしょう。

 ところがある程度システムが完成され、そこまで生存のために必死にならなくてもよくなると、まとまりにくくなっていきます。目的が分化してくる。

 とまあ、抽象的に言っててもわからんな。もうちょい具体的に家族レベルの比喩にしましょう。
 とある家族がいて、このままだったら全員餓死してしまうー、なんとかしなければって状態にある場合、まず一番稼ぎやすいメンバー(通常お父ちゃんやお兄ちゃん)が稼ぎに出て、お金をゲットして、それで皆の暮らしを成り立たせていくって方法論が最も理に叶っているということになります。いや、男手がいくらあっても全然仕事がなくて、むしろ娼婦のような風俗系の方がまだしも可能性があるとなったら、そっちのメンバーがフロントに出て、他のメンツは後方支援に廻る。いずれにせよ「皆でサバイブする」という客観的な合理性はあります。

 人類は、そして戦後の日本も、しばらくは飢えた時代を過ごしてました。だからとにかく稼ぎ頭を外に送り出して、より多くの「外貨」を獲得し、それで皆が潤うという方法論が良しとされました。そこではナチュラルに一家の大黒柱と呼ばれる人(通常は夫的な立場の人)が重要人物になり、だからこそ「主人」「家主」「戸主」などととも呼ばれ、レスペクトを集め、最も権力があった。江戸時代の武家も、やたらアラ探しや無理難題ふっかけてくる武家社会を無事に旦那がサバイブすること、間違ってもお家断絶(=一家路頭)にはならないようにすることが第一命題であり、そのためには厳然たる秩序が構築された。そして、再生産サイクルとしては、世継ぎや二代目の育成が次の重要命題になった。武家社会で仕えられるレベルの教育と技術、人付き合い、そして健康な世継ぎを生む嫁取りですね。

 戦後の日本も似たようなもんで、とにかく父ちゃんが偉く、父ちゃんを支配している会社がエラかった。仕事が得られなかれば死ぬしか無いかのように、まずもって仕事第一であるし、どんな転勤を命じられても、どんなクソ残業があろうとも黙々とこなすしかなかった。他の家族はその後方支援に廻る。そして、次世代の育成のために、勉強が奨励され、よい就職が求められた。

 ほんでも、「大きいことはいいことだ」とか言ってた量的拡大=幸福拡大の60年代から70年代になり、さらに80年代になるにつれ徐々に「働き過ぎ」というアンチテーゼが出てきます。そこまで必死こいて頑張らなくてもいいんじゃないの?もうそこまで飢えてないわけだし、それよりも家族と一緒に過ごす時間とか、ゆとりのあるライフスタイルが模索されてもいいじゃないの?という感じに変わっていきました。それはそれで合理的な推移だと思います。家が火事のときはとにかく鎮火活動が優先されますし、バケツリレーをやるのがベストな行為であった。しかし鎮火し終わったら、いつまでもバケツリレーをやらなくてもよくなる。



量的拡大主義と家族ユニットシステム

 同じようなことを何度も書いてて恐縮なんだけど、歴史の発展段階でいえば、70−80年台である程度のところまで達していて、あとはそこで次の一手が求められつつも、これといった形になりにくく、ずっと現在まで足踏みしているんだと僕は思います。遡れば60-70年台のヒッピー・ムーブメント、あるいはそれ以前にまでいくと思うのですが、「稼ぎ頭が社会的スペックを上昇させて、より多くのお金をゲットして幸福になる」という方法論はもう古いという発想ですね。それがダメってわけではないのだけど、他の選択肢があるだろうと。

 しかし、それまでの社会体制がとにかく増産、とにかく経済成長、という量的拡大=幸福拡大のフォーマットになっており、且つ、皆の仕事も、社会システムも、なにもかもがそれを基準にしているので、それを変えるというのは途方もない困難さを伴う。ぶっちゃけ社会全体で何をどうしたらいいのか、よう分からんのだと思う。

 例えば、年金システムや老後の資金という発想ですけど。あれは身体が頑健な頃にガンガン働いて稼いで、お金を貯めて老後にあてるという発想ですけど、別にそこまで必死こいて稼がなくてもいいじゃんとか、若いころはあれこれ遊学や修行をやって、本当に稼ぐのは老境になってからという人間国宝みたいなあり方だってあるわけですよ。「若く壮健=一番稼げる」というのは、数あるメソッドの中の一例に過ぎない。人生における働く時期やその内容、そして稼働と金銭ゲットの関係は、ケース・バイ・ケースであってもよく、何が何でも若い時に稼いで〜ってフォーマットである必要もない。したがって年金システムというのも良い制度ではあるだろうけど絶対ではないよねって発想もあるでしょ。というか、あれは給与所得者のシステムであり、働く=給与取得者というある種の固定観念に基づくものです。自営業とか富裕層の投資収入とかは別のフォーマットを使うし、大相撲の年寄株にせよ、落伍や技芸の「師匠」になるにせよ、退職した後に天下りの渡り鳥になるにせよ、院制を敷くにせよ、ぜんぜん違うフォーマットで動いているし、どっちかというと後白河法皇の昔から、むしろ日本の伝統的なあり方に近いのかもしれない。

 戸籍や社会保障についても家族単位で構成されています。戸籍筆頭者がおって、婚姻によって新戸籍が編成され、当然のように子供は親の戸籍に記入される。当たり前のようだけど、戸籍というものがある国の方が世界では少ないです。てか、もしかしたら日本以外には無いのかも?(詳しく調べてないですけど、少なくともオーストラリアには戸籍も住民票もないよ)。誰かを好きになって、一緒に暮らして、愛の行為の結果として子供を授かって、、という極めてプライベートなことに、なんで国家がそこまで詳しく知りたがるのか?なぜそれが国家社会の基本単位になるのか?といえば、それが生計の最小ユニットであるからだという社会経済的実体があるからですよね。

 それは大黒柱が家族の食い扶持を稼いで〜という発想がベースにある。だからこそ「被扶養者」という概念が出てくるわけだし、年金にせよ、税金にせよ、それらについて実体に即した取り扱いが行われていた。ところが、若い世代になるほど一生結婚しないかもという人達が増えてきてるし、どうかしたら将来的には、しない方がマジョリティになるかもしれない。これもある意味では合理的な趨勢です。だって結婚して生計を〜と家族ユニット主義がリアリティを持っていたのは、家族全員養えるだけの給料を払うという会社システムが健在だったからこそでしょう。しかし企業がそれを拒み、非正規採用を重宝し、いつでもリストラできる経営のフリーハンドを欲しがるようになった(そうしないと国際競争に勝ち抜けなくなった)時点で、大黒柱的な発想は夢や幻のように溶けていくでしょうし、現に溶けている。

 だとしたら求められるのは、個人を最小ユニットにした社会システムになるのだろうけど、今なお家族単位で動いている部分は強固にあるし、そこらへんは入り混じってます。だからどうしたらいいのか、よう分からんのですよね。ある日を境に、今日から文明開花です、今日から戦後ですって過去のすべてを叩き壊すくらいの大変革があればまだ分かりやすいですけど、徐々にというのは難しい。システム構築技術上、それは無理だと言ってもいい。将棋でいえば、挟み将棋と本将棋を同時に同盤面でやるようなもので、そんなん無理。そうこうしている間に、どっちが原則でどっちが例外なのか拮抗してきてよく分からなくなってきている。

 さて、そうなってくると一国の間でもライフスタイルの基本原理が人それぞれになってきますし、利害関係もかなり違ってくるでしょう。同じシステム上で利害が異なるというよりも、もう寄って立つシステムそれ自体が違う、みたいな感じ。

 しかし、従来の原理Aと、それとは根本的に異なる原理Bが出てきて、しかしA軍とB軍が東軍西軍みたいに綺麗に別れて睨み合うのではなく、同じ人間でもある部分では原理Aで動き、ある局面では原理Bで動くという複雑に入り乱れている。だからわかりにくい。

原理Aと原理B

頑張って働く=競争に勝つ

 では原理Aとは何で、原理Bとは何か?というと、それもまた難しいのですが、原理Aは従来の基本ドグマだとします。それは例えば、一家の大黒柱が頑張って働いてお金を稼いで、家族を養うという方法論です。それをさらに突き詰めれば(突き詰め過ぎかもしれないけど)、そもそもお金が廻る原理は何かであり、それは競争的な経済原理なのかもしれない。

 えーと、何を言ってるかというと、「頑張って働く」という「がんばり方」ですけど、今の時代、どっかしら競争的なニュアンスがありますよね。マーケットにおけるシェア争いのように、より魅力的でより安価な商品を、より訴求的に売りだした方が「勝つ」という勝負的な、つまり「勝ち」と「負け」が観念できるようなフォーマットです。その昔はそんなことなかったように思うのですね。荒れ地を開墾して、豊穣の実りをもたらすという基本的な努力や頑張りには、勝ちも負けもなかったでしょ。そこでいう「頑張り」とは、より丁寧に大地を耕し、よりしっかり作物を植え付け、雑草を取り、、という、腕やら腰が痛いという肉体的苦痛を我慢してやる部分が「頑張り」でありました。わかりやすい。

 でも、今は、競争に勝つのが頑張りであり仕事になっている。
 「あれ?いつからそうなったの?」といえば、資本主義がメインストリームになってからでしょう。あれは個々人の射幸心(一発当てたろって野心)をエネルギー源としますから、どうしても競争的にならざるを得ない。だからこそ、この社会で正しい行い=きちんと働き、頑張ること=競争に勝つことになり、四当五落で夜も寝ないで受験勉強をしたり、ライバル社に打ち勝てる商品開発や営業活動をやったりするし、仲間であるべき同僚やクラスメートとの間で競い合いをさせられ、順位がつけられ、「いまこのへん」という順位GPSの偏差値がつけられ、営業成績が壁にグラフで貼りだされ、、という感じっすよね。それは競争活力をエネルギーとする経済システムだといってもいい。

 それは一面も二面もこの世の真理であり、競ってなんぼ、勝ってなんぼです。僕自身、最も熾烈な資格試験を打ち勝って来たし、その後は露骨に勝ち負けがハッキリする紛争処理なんかやってたから、もう競争社会の申し子のようなものです。競争、得意だし、キライじゃないし、てか好きだし(笑)。しかし、だからこそというべきか、詰まらんスよ、競争。ゲームとして割りきってやれば面白いけど、社会の根本ドグマに出来るほどの奥行きのあるものじゃないです。そんな人間性の深淵に迫るような哲学はないし、言うならば「ちょっと面白いかも」というゲーム的なものでしかないですよ。

争う必要あんの?

 80年台くらいから思ってましたけど、これだけ豊かな社会になって、なんで競争せんならんの?と。アホやんけと。「豊かな」というのは、必死こいて毎日頑張らないとすぐに餓死してしまう、、わけではないというくらいの状態です。もうそれだけで自然界の法則からしたら、途方もなく豊かでしょう。野生動物は今日も明日もグズグズしてたらすぐに餓死する生活を張ってるわけで、それが地球のデフォルトですから。でも少なくとも先進国においては、そこまで張り切らなければならないってものではない。そこそこは食える。ホームレスやっていてさえ、まあ食える。だったら、何のために競争をするのか?です。

 一定レベルを超えると、競争のための競争みたいになりますよね。受験でいえば、合格ボーダーを超えればいいわけで、ボーダーが80点だったらきっちり80点取るのが最良の方法で、そこを90点とかとるのは10点無駄な努力をしている。しかし、競争のための競争になると、誰が首席を取ったかとか、満点でないと悔しいとか、そういう無駄な情緒が出てきます。ゲーム感覚だし、自己実現とか自己顕示欲とか別の原理が入ってくるのですよね。今の資本主義もそれに近いような気がします。別にそこそこ食えたらそれでいいじゃん、60%の労力で食えたら、あとの40%は遊んで豊かな時間を愉しめばいいじゃんって思うけど、100ギリギリまでやりたがるという。そこで燃えたがる。そこでなにか大事なものが得られるかのように思う。それは確かに燃焼快感や自己実現など大事なものは得られますけど、でもそのためにやってるんじゃないでしょう?

 車だってテレビだって、そこそこまともに使えたらそれでいいじゃんって思うけど、車会社や家電会社が山ほどあるので、熾烈なシェア争いをする。無駄と思えるほどの高機能をつけ、新しい(でも要らない)コンセプトを開発し、次から次へと開発競争をしてやっている。だからあんまり値が下がらない。値が下がってしまったら従業員全員を養えなくなるのだろうけど、だったらそこそこの廉価版を出して、給料もそこそこにしたらええやんか、あるいはその会社の社会的使命はほぼ達成したんだから解散したらええやんとか思うけど、そんな発想微塵もないよね。だからすべての商品が高止まりしてしまう。それはひいてはリビングコストの高止まりを意味し、激しく働き続けないと生きていけないという状況をいつまでも生じさせ続け、かくして皆でアップアップしているという。アホらしと思うのはそこです。


暴君化する大黒柱

 でも、社会全体がこの競争社会、生産や収益増大を良しとする原理Aで回ってるから、今更やめられない。でも、そんな無限に成長できるわけもないし、それが競争である以上、どうしたって勝ち負けは出てくる。そして、値段の勝負などになってくると、何をどうしても人件費その他のコストの安い新興国に勝てるわけがない。もう頭打ちなんですよね。画期的な新製品でも出てこない限り、ガラリと時代が変わるようなサムシングが無い限り、もう先は見えている。

 今ココだと思います。全体のパイをどんどん増やして皆で豊かに幸せになりましょうという方法論の破綻です。もうパイは増えないよと。そうなると何をするかとなると、変わらない、あるいは縮小していくパイの奪い合いになります。企業が収益を出すためには、従業員の賃金を圧縮し、下請けを叩き、消費者を騙すという、一種の「共喰い」状態になると思います。てか、そうなってるでしょ?以前書いたけど、新自由主義経済とかいっても、要するにセコくなってるだけじゃん。Windows10みたいに勝手にアップデートして個人情報窃盗みたいなものをやるという、これが商売かい?これが成長なのかよ?という。

 だからトリクルダウンも起きない。これまでのフォーマット、一家の大黒柱をおだてて、リスペクトして、働きやすくして、皆でご奉仕してたら、ごっちゃり稼いでくれて、それを皆に分配してくれたというドリームの破綻です。いくらおだてて、幾ら忠義を尽くして大黒柱が稼いでも、増えた給料を家に入れてくれなくなっちゃった。どっかで飲みあるいて、女囲って貢いで、博打やって、、、家では栄養失調になった家族が待っているけど、もう知らんもんねって世界です。これと同じでしょ。やれ法人税を下げますよ、企業に有利なように皆の税金や年金使ってでも為替を動かしますよ、労働法も変えて派遣OK、搾取OKにしますよって散々やって、企業が儲かっても内部留保、税金もろくすっぽ払わず、自分の分け前はパナマったりしてるわけですな。

 つまりは頼りにしていた大黒柱が暴君化しているといってもいい。これはもう世界的にそう。

パワーになりにくい原理B

 さて、これに対する原理Bですが、これが曖昧でよくわからないです。
 共通していえるのは、従来の固定的なフォーマットに対する懐疑の念であり、もう人類もこれだけ科学技術が進歩して、かなり楽に生存が維持できるようになってきてるんだから、競争とかしなくてもいいんじゃない?という原理なのでしょうね。量的拡大〜!とかいっても、もうリアリティないんだわ。量的にはもう十分にあるんだわ。住宅なんかも800万軒も余ってるし。陳腐な言葉でいえば、競争から共生でいいんじゃない?いかに全体に増やすかとかいっても、もう増えないんだから、ある中でベストに配分していって、安んじて暮らせるようにしたらいいんじゃない?お金が足りない部分は助けあいでもなんでもやって、何でもかんでも貨幣経済とか競争経済で解決しなくてもいいじゃないの?という潮流ですね。

 ただし、こういう発想というのは、ある意味リラックスした、肩の力を抜いた発想であり、世捨て人的なニュアンスもあるから、「勢力」としてまとまりにくいです。強烈な理念に指導されたファナティックな宗教原理団体にもなりにくいし、圧力団体にもなりにくいし、そもそも生々しい利害が絡みにくいだけに集団的な接着剤もない。それぞれ各自好きなように生きていけばいいじゃんって気合の入りにくい拡散ベクトルですから、ゲンコツ握ったような集約的なパワーはない。それが政治の世界においては、とっても不利だったりします。

 ということで世界の政治の風景ですけど、ここのところは暴君化した大黒柱が無茶やってるから、皆ムカついている、というのが実際のところだと僕は思います。

暴君化から階級化 

強者弱者と役割分担

 では何がどう暴君化しているか?ですが、これまでのシステムの枢要原理は「強者が弱者のケアをする」という点にあったのに、それが壊れてきている点だと思います。

 一家の大黒柱論も、最も世間から食い扶持を稼げる”強者”である大黒柱(壮健な成人男性)がフロントに立って社会競争を勝ち抜き、他のメンツ(相対的な弱者)はそのサポートに廻るというシステムだと言い換えることができるでしょう。

 ついバンドの比喩を使いたくなってしまうのですが(笑)、とあるバンドで最も商業的に勝率が高く、訴求力のあるメンバー、多くはルックスが良くてキャラが立っているボーカルなどですが、それを前面に押し立てる。ローリング・ストーンズでいえばミック・ジャガーをまず立て、ドリカムでは吉田美和をまずフロントに出し、目立たせ、スポークスマンも兼ねさせる。バンドの音作りとしては、むしろ後方のメンバーの方が才能的に実権を握っているとしても、最も勝ち抜き易いメンバーを前に立てる。でも、自分らの仲間内では、そんなのただの役割分担に過ぎず、本質は対等平等だったりします。

 企業写真や対外的なグループ写真でも、”華がある”女性社員を中央や前列にもってきて撮ったりしますが、別に彼女らが会社の実権を握っているわけではない。その場に応じて最も訴求力があり、見栄えがする絵を作るという合理性です。体外序列と内部序列は全然違う。これって一国の首相や大統領だって、そうかもしれないですよ。とりあえずルックスがそこそこで、打たれ強そうな奴を前に出してサンドバックにしておいて、実権は他の奴が握るというね。

 そこにあるのは単純に合理性と役割分担であった筈。だからこそ皆も納得できた。大黒柱だ主人だとかいっても、それは対外的合理性の話であって、家庭内の権力は母ちゃんが握っているという場合もあるわけです。強者が強者たりうるのは弱者のサポートあったればこそであり、それゆえに強者には弱者に恩返しをする義務があり、弱者の面倒を見通してこそ強者の誉れとされていた。

 ところがぎっちょん、強者が、本当は別に強くもないくせに強者であると勘違いし、他の人のサポートあってこその立場であることも忘れ、その強さを自分のためだけに使い出したらどうなるか。それが暴君化です。家庭内DVが社会的に生じることになる。一家の主の父ちゃんが、家に金を入れず、気分次第で嫁さんや子供を殴る蹴るして、ヘソクリを探してバクチにつぎ込み、奥さんを「風俗でもいって稼いでこい」とヤクザに売り渡し、子供には「車に飛び込め」といって当たり屋をさせるようになったら、何かが間違っている。

 本来は役割分担という共生思想に基づいていた大黒柱主義は、経済の、てか人間社会の二大原理(競争原理と共生原理)のミックス調和状態とも言えたのですが、それが崩壊してきて弱肉強食の競争原理一色になっていくとしたら、もう社会なんか作る必要ないですよね。

格差の拡大=強者による弱者ケアの劣化

 でも、今世界はそうなりつつある。貧富の格差が激しくなるということの原理的な意味ですが、それは強者がどんどん強者になっていって、弱者のケアをしなくなるというところに問題点があるのだと思います。国家であるとか、大企業であるとか、あれだけ大多数の弱者が「良くしてやっている」のに、その恩顧に報いることなく自分たちの利得だけを追い求める。あれだけサービス残業をして、あれだけ上からの煮え湯を飲まされ、これだけ税金やら年金やら公共料金やらでヤンキーにカツアゲされるようにむしられ続けていても、じっとガマンをしているのは、全体にそうやって成り立たせていったほうが、トータルでの共生、皆で幸福になることに役に立つからだと思ってこそです。

 でも、もうそうなってない。国家中枢は、競争と共生の配合レシピーを巧みに調節して新しい時代に即したシステムに移行させるという本来の責務を放棄し、てかその真逆に時代遅れの既得利権を強化し、そこでチューチュー甘い汁を吸っている。これって、バクチ夫が押入れからヘソクリを見つけて持っていく絵図に似てます。日本のGPISの年金基金を見栄張のためだけに株価操作に使い込み、今の日本の株式相場は外人相場ですから要するに国富の流出をしてるだけなんだけど、それを自慢気に話す。企業は企業で、経営ヤバいにもかかわらず経営首脳は数億レベルの報酬をぶんどり、税金は払わず、従業員や下請けや消費者に還元もせず。「やらずぼったくり」という言葉がありますが、まさに。

 もともとそこまで貧富の格差がなかったのに、それが広がってるということは、何かが変わってきているということは確かでしょう。かつて日本企業はヒラと社長の給料格差が6倍以内、創業社長でも年収3000万とかそのくらいが頭打ちで、その一体感が日本企業の強さとされたのだけど、今は数億だもんね。しかもかつて90%だった高額所得者の累進課税も減りに減ってきている。強者優遇主義、暴君主義、国家内ドメスティックバイオレンス状態だと言ってもいいと思う。少なくとも、その兆候はいたるところに出てきている。

 その昔、国家の歳入に占める消費税収の割合は微々たるものだったけど、今はかなりの割合を占めるようになってきた。「微々たる」「かなり」とか文学的な表現ではなく数字でいうなら、財務省資料:一般会計税収の推移によれば、消費税導入の平成元年の消費税割合はわずか3.3%、翌年でも4.6%です。それが平成8年くらいまでは6%以内だった。そのとき個人所得税は20%台、法人税は18-9%を占めていた。つまり、その昔の国家財政は、所得税と法人税で4割くらいまかない、消費税なんかたかだか数%であった。ところが、28年度になると消費税と所得税が17-8%でほぼおなじ、法人税は12.2%でドーンと下がっている(全部合わせて100にならないのは、半分は国債とか借金経営だということ)。

 これを家族の比喩でいえば、お父ちゃんと給料と母ちゃんのパート収入と子供のバイト収入があって、昔は両親の収入がメインだったけど、最近になると子供のバイト収入がメイン化しつつあると。さらに別の表現で言い換えれば、今の日本の国家財政は、逆進性が強い消費税に頼っており、強者ではなく弱者庶民が支えているという構図になっているということです。加えて、消費税導入の平成元年の頃から(リアルタイムで覚えてるんだけどね)、一貫して「消費税は福祉のために使います」って言い続けてきたんだよね。使った試しないんですけど。




競争&共生レシピーの良し悪し

 このままいくとどうなるか?といえば、悪しき身分社会、階級社会になるでしょう。

 さきほど競争VS共生という二大原理言いましたが、これは人類の業みたいなものだと思います。人はナチュラルに競いたくなるし、ナチュラルに助け合いたくなる。めちゃ矛盾してるんだけど、それが矛盾した存在としての人間の自然でしょう。例えば友達との関係でも、良きライバルでもあり、張り合ったりもするんだけど、相手がピンチなったら全力で助けるという。共生でもあるし、競争でもある。それが人間のあり方として一番気持ちがいいし、それが良いかみ合わせだと僕は思います。

 ところが悪しき噛みあわせになると、競争だけになってしまって、どんな卑怯な手を使ってでも相手を引きずり降ろそうとするようになる。自分が勝ったら、二度と復讐されないように徹底的に息の根をとめたり、絶対に逆らえないように人格破壊をさせ卑屈な奴隷として落としこむ。これが悪しきパターンです。

 暴君化が進み、強者や富者が永遠にそうありうるようなシステムの固定化を図ろうとするなら、それは階級社会の始まりであるし、そうなってしまったらそれを矯正するのは容易なことではない。それを直すにはもう暴力革命くらいしかないし、そんなの中々成功しないから、多くは内戦状態になったり、反政府ゲリラのテロが横行したりという、よくある第三世界の構図になる。

 その昔の階級社会でも、良いかみ合わせとか、正当化や合理化のための理想は一応あったとは思います。いわく、王族は生活に困ることはないために、その苦労を免れる埋め合わせのようにひたすら民のために心を砕き、善政を敷くべしと。貴族は同じく、困窮不安がない分、人としての理想を追求すべし、古典教養に通じ、エレガントでセンスが良く、一度戦場に出れば進んで前線に出て勇気ある振る舞いを求められる。武士や騎士階級は、民が賊や敵方に生活を脅かされないように身を犠牲にしてでも守りぬき、職人はその技を磨き、農民は大地から恵みを得て皆に分配する、、、というのが、一応の理想でありました。そこで分かるのは、階級社会でありながら、それは役割分担であり、皆で幸福になろうねというという共生思想です。それがある以上、人々はけっこうガマンも納得もした。愛されているという実感と実態があれば、人々は他愛なく殿様バンザイ、王様万歳、God save the Queenを歌い、あなたの権力が永遠につづくといいよね(君が代)と歌ったもんです。

選挙の意味とバランス 

 今年はあちこちで選挙があって、オーストラリアも日本もアメリカもありますが、オーストラリアの今回の結果、まだ確定してないけど、それだけ顕微鏡レベルでの微差拮抗になったというのは、これは皆の健全な復元力だと思います。

 こうすれば良い!という明確な方針はまだ模索中、今考え中なんだけど、少なくとも暴君化に突っ走ったらダメよ、こっちの言うことにも耳を傾けないとアカンよ、俺らの顔色うかがってくれないとクビにしちゃうぞ、わかってるよね、そこんとこ?という意思表示なんかもしれないです。そりゃ、最初から皆が示し合わせて拮抗させようとしたわけではないけど、皆の心理には白黒ハッキリつけられないな、与党を勝たせて二連勝にしちゃったら増長するかもしれないな、でも野党がいいとも思にくいしから、せいぜいヒヤヒヤしながら頑張ってくれいってって感じだと思います。つまり、どっちも勝たせてやんない、難しい局面だから真剣にやれよなって感じじゃないかな。それぞれに頭ひねって、うーん塩加減が多いかな、少ないかな、もうちょっと入れようかなってレシピーのバランス感覚だと思います。

 今回の日本の参院選、僕はもう在外投票を済ませましたが、投票方針は常に同じ。ヒヤヒヤさせることです。「気ぃ抜いたらクビだぞ」と感じてもらうためには、どこにどう投票したらいいか、それぞれの選挙区であれこれ考えるという。ちなみに選挙皆勤ですけど、これって「正しいから」「いいことだから」といういい子ちゃんぶってるんじゃないのですよ。真逆よ。もと喧嘩屋稼業の原理ですけど、舐められたら終わりだからです。意見なし、よくわからない、投票放棄というのが一番舐められますからね。これは競争原理一発で、だから競争原理に強い人は大体投票すると思う。それが具体的にどういう影響があるかどうかなんか考えずに、我が身を律するポリシーとしてやる。こういうのって一回サボったら、あとはもう崩れていくのでそれが恐い。そこに勝負があったらとりあえず勝負しておく、マイク渡されたらとりあえず何か喋る、パスはしない、絶対しない。そこにチャンスがあれば、どんなちっぽけなチャンスでもちゃんと取り組む。そのリズムが大事で、そのリズムがやがて大きなうねりと波動を産みますから。

 これは直感的なアレだけど、おそらく一生レベルでの投票回数と生涯年収は、比例するんじゃないかなー。勝負強い人は大体面倒臭がらないし、一見無駄に見えるような事でもやることはやるし、そういう人の方が金は稼ぎやすいのよね。短期的な因果関係なんかよりも、長期的なリズムをつけることが最大リターンにつながることを体験的に知ってるから。でも細かなところで「まあいいか」で手を抜く人って、大体あと一歩で何ごとも成就しないから、収穫前に果樹が枯れて稼げないパターンになりがち。キツイようだけど、でも、ほんとそう思うもんさ。












 文責:田村




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