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今週の一枚(2016/06/27)



Essay 780:オーストラリアの総選挙2016

 
 

 写真は、前回と同じくSummee Hill

どこも同じ〜フリーハンドの余地が少ない件

 今度の土曜日(2016年7月2日)にオーストラリアでは選挙が行われます。ダブル・デゾリューションと呼ばれるダブル選挙で、日本の衆議院に該当するLower house(House of Representatives)と、参議院にあたる上院、Upper house(通常セナトー、 Senatoと呼ばれる)の半数が改選されます。

 こちらの選挙のシステムはやたら複雑で、上院にいたっては最終的に確定するまで1ヶ月くらいかかるんじゃなかったかなー。かなり初期のエッセイ(シドニー雑記帳)でそのあたりは詳しく調べて書いてます。もう大分忘れちゃったけど。

 そういった制度的な基礎知識は置いておいて、今回の選挙では何がポイントになっているのか?というと、実はよくわかりません。最近、そんなに興味もないしねー。じゃあ書くなよって感じですけど、だから書くことで多少はキャッチアップしようかと。でもって、多少ちらちらとメディアを見てみたんですけど、やっぱりよくわからなかった。というのは、オーストラリアに限らず、今の先進諸国においては、これといった争点が無いというよりも、「ありえない」からだと思うのです。

 二大政党制をとっている国、二大政党制でなくてもメインの与党と野党があるところは大体そうだと思うのですが、両サイドの言ってることにそう大きな違いがないからです。一般に、国家経済優先派(保守とかライトとか言われる)のと、市民福祉優先派(革新とか労働系とかレフトとか言われる)2つの価値観の対立として分解できる筈なんですけど、イマドキそんな極端に分かりやすい政策なんかありえないでしょう。経済優先派だって「福祉を手厚く」とか言うし、福祉優先派だって経済が栄えなければ財源もないわけだから「経済をより発展させます」って言いますわ。冷戦時代や日本の55年体制の頃は、良きにつけ悪しきにつけまだしも旗幟鮮明なところもありましたが、それ以後になったら、結局バランスを取ってやっていくしか無く、そのバランスをどうするかという非常に微細なレベルでの差異になるわけで、結局どこも同じような主張になってしまう。たまーに極端な主張をする政党もありますが(ネオナチみたいな)、それがマジョリティを取るということはない。

 さらに言えば、◯◯だあ!と大主張して政権を取ったところで、実際に政治を動かしていくと、そう簡単に突っ張れるもんでもない。だから現政権のA政策の批判が高まり、アンチAが政権を取ったのだけど、そのあと前政権以上に熱心にA政策を進めたりもする。そんな馬鹿なと思うけど、明治維新なんかまさにそれで、あれだけ尊皇攘夷だ、幕府は弱腰だとか大批判して薩長が政権を取ったら、今度は幕府以上に徹底的に開国するわけですからね。近年では、戦時中あれだけ鬼畜米英とか言ってた連中が、戦後になったら180度手のひら返して媚米ポリシーになるし。そんな例は世界史をみたら山ほどあります。最近でも消費税であれTPPであれ、政権取る前は反対といい、政権取ったら推進する。

 なんでそうなるのか?といえば、僕がぽんと思うのは、今の先進諸国にそんなにフリーハンドで政策を描く余地が少なくなっているからじゃないか。先進諸国というのは、だいたい何処も少子高齢化でとにかく滅茶苦茶お金がかかる時期に来ています。と同時に、経済を発展させようにもその余地が乏しく、逆に新興国の追い上げを食らって時を追うごとにジリ貧になります。まず大きな絵として下り坂であると。そうなると誰が政権を取ろうと絶対にこれはやらなきゃならないという部分に殆どのエネルギーや資金を取られてしまって、自由に国を動かしていく裁量の余地が少ない。とにかく増え続ける福祉厚生行政をやらなきゃいけないし、一方ではその原資を稼ぐためにあの手この手で経済を活性化させなければならない(これが至難の業なのだが)。そんなときに金融系だけデリバティブでイケイケでやって大火傷をしてその面倒をみなきゃいけない。こんな状態で誰が政治の舵取りをしてもフリーハンドの余地は少ない。

 それは中高年世代の家計みたいなもので、子供の教育費がかさむわ、大学の授業料も払わなならんわ、親が最近ヤバくなってきたのでそのケアも金かかるわというところで、肝心の自分は昇給どころから残業減らされて実入りは減るわ、それどころかちらほらとリストラ噂も出てくるわという状態。可処分所得が減ってくるとフリーハンドで描ける範囲が少なくなる。可処分所得が多少なりともあるなら、頭金貯めてマンション買おうとか、新車にしようとか、とりあえず田舎に引っ越してのんびり暮らそうとか「政策」もありえるけど、もう今月の家賃に追われ、毎月どっちゃり天引きされ、そんなときに限って冷蔵庫が寿命になって買い換えないと、だー!とかになってくると、そんな「方向性」とか言ってる余裕はなくなる。そういうことです。

オーストラリアの選挙についての報道

 一般論はまた書くとして、さて、オーストラリアの今度の選挙の状況です。
 ちらと読んだのがAustralian election: Labor pulls further ahead of Coalition in new poll とか、'Expect madness': the 2016 Australian election ? the Guardian briefing などの記事です。あとでリンクが切れてしまうかもしれないので、魚拓とって貼っておきますね。

正鵠を射ている風刺漫画

面白かったのがEverything you need to know about the Australian election brought to you by Snitty the Cassowaryという風刺漫画で、辛辣なんだけど、でもそうだよなー、みたいな。

 軽く訳しておくと、英語マンガのコマの読み進め方がよう分からんのだけど(特にこれは)、
 まず最上段左は、「まず最初に気をつけるべきは、選挙には近寄らないことだ。オーストラリアは良き人々の集う美しい国なんだけど、あなたを死に至らしめる危険な植物相や動物相が山盛りあるのだ。それは我々の民主的なプロセスにおいても例外ではなく、こういう危険な生物(政治家とか)に触ってはいけないし、目を合わせてもいけない」
 右上(最上段右)は、オーストラリアは3年に一度の選挙があるよという一般的な説明。

 二段目左は、「現在の政府は血も涙もない保守的なろくでなしの連立政権で、大体が商業銀行あがりだったりする。彼らは、自由(リベラル)国民連立政府と呼ばれている(だからといって本当にリベラルなわけでは全く無い)。この恐ろしい連中に現在の国は滅ばされつつあるわけだ」
 二段目右、「その野党であり他の選択肢は、労働党である。この党は、誰も名前を覚えられない誰かによって率いられているのであるが、ビフ・ティトマスとかいう名前だったかな(本当はビル・ショーテン)。彼らは一応左翼的とされているのだが、実際問題、彼らはいわゆる保守党と同じくらい保守的であったりする。彼らも恐ろしく、この国を滅ぼすだろう」

 三段目左、「そして三番目に大きなグリーンという党があり、少なからぬ数のインディペンデント(無所属)の議員がいる。彼らは自身で政府を作ることは出来ないので、ハング・パーラメント(政府与党が過半数を取れていない場合)のときや上院での議決の帰趨を握るときに興味をもたれる存在である。そうなると人々は俄然彼らの政策を注目するのだが、大抵の場合、思ってたのと違う方向にいってしまい、そして国を滅ぼすことになる」

 三段目右、「現在のマルコルム・ターンブル首相は早期選挙に踏み切ったわけだが、それについて彼はいろいろな理由を上げてはいるものの、実のところ支持率が下がってきたので、完全に落ちるまでに早くやってしまえということだ」

 最下段左、「マルコルム・ターンブルは、前任であるトニー・アボット、彼のことを覚えているかな?あのタマネギをむしゃむしゃ喰い、ゴブリン悪魔のような顔をしたキモい前首相を蹴落とした時点ではターンブル非常に人気があった。しかし、今、誰の目にも、彼が電子レンジに置かれている靴下くらいにしか使えないことが明らかになったので、こうして選挙をやることになったのだ」

 最下段右、「面白い事実。オーストラリアでは投票は義務である。あなたの投票は、あなたがペニスの絵を投票用紙に描いたとしてもそれでもカウントされる。巨大で飛べない鳥(エミューとか)は議員として立候補することも、投票することも出来ない。なんと情けないことだ。大きな2つの政党いずれも、オーストラリアをトロピカルな監獄島(亡命審査のための収容所のこと)として維持したいと思っており、これからも亡命希望者を苦しめ続けるだろう」


 ということでムチャクチャなマンガなんですけど、でも面白いわ。でもって正しいわ(笑)。掲載誌はガーディアンで、イギリスの一流紙の一つと言って良いのかな(そのオーストラリア版)、イエローペーパーではないです。それがこんなクソミソに書くわけで、日本の去勢メディアに慣れた目には、そこが面白くもあります。

もうちょい真面目に

 さて、もうちょい真面目に見てみると、今オーストラリアの政治はどうなってるの?ですが、うーん、どうなんでしょうかねー。過去の軌跡を見てると、ポール・キーティングの急進的な改革が行われ(オーストラリアを西欧諸国の一族というよりは、アジア諸国として位置づける)、その改革疲れもあって地味で手堅いジョン・ハワードの超長期政権が続き、あまりにも長く続いたので清新な感じのするケビン・ラッドの圧勝によって政権が交代し、環境問題とかアボリジニ問題とかオーストラリア(の支配経済層)があまり触れたくない問題を取り組んだものの、ジュリア・ギラードの下克上がありーの、炭素税導入で電気代が上がるとかいうことで、次の選挙でまた政権交代。今度は真逆のトニー・アボットが、アメリカのイケイケ軍国派と歩調を合わせるような政策になり、テロリストが危ない、イスラム国がどうのとか、その種の危機を訴える政策でした。「周回遅れのブッシュ政権」みたいな感じね。移民局の名前がボーダー・プロテクション(国境警備隊)という軍国っぽい名称に変わったのもこの影響でしょう。日本の安倍首相もこの系譜でしょう。ところが期待したほど電気代は下がらない(てか全然下がらない)ので有権者は詐欺っぽい肩すかしを食らった感じだし、何かといえばイスラムだテロだという賞味期限が過ぎた話題に偏りがちで、徐々に人気は下降。8ヶ月前に現在のターンブルの下克上で首相の席を追われることになった。

 でもって、ターンブル首相ですが、それまでのアボット首相がちょっと偏ってただけに最初は人気ありました。てかアボットがひどすぎたというか、なんでもアメリカ追随だし、財界パシリっぽくて、グレートバリアリーフの環境破壊系のこともガンガンやってそこは評判悪かったのですね、特に女性からは嫌われていたようです。マッチョであればいいと思ってる単細胞ぶりがキライなんでしょう。それに比べればターンブルは温厚な紳士っぽくて、安心して任せられそうではあった。やっとマトモな人が、、、てな感じ。ところが、就任8ヶ月、これといった政策的特徴もないまま推移し、失策もないが得点もないという感じで、徐々に下降していると。

 こうしてみると、カウンター微調整をやってきてるなーって思います。大まかにいえば、労働党は理想主義的な政策をいう傾向があるんだけど、それも時代の波に乗ってるときは最初は支持されるけど、徐々に改革疲れが出てくるから、保守的な方向に揺れ戻しが起きる。かといってそれも長過ぎる(ハワード政権)と替えどきかなと思うし、また何かしらバランスを欠いているような思われるとき(アボット政権)は振り子の針を戻すという感じです。そういうバランス感覚と微調整ですね。

 そういった大きな流れが縦軸だとしたら、今度はその時々の話題やトレンドが横軸になります。例えば911直後はテロ問題が主流になりました。さらにオーストラリアの場合、温暖化や環境問題のときは、対立するものとして対中国への鉄鉱石輸出による経済成長がありました。ギラード VS アボットの政争の時代ですね。同じく環境問題はアボリジニの聖地保護問題とリンクするし、それと対立するものとして鉱山やら開発主義がある。

経済ってなによ?

「経済」のもつ2つの顔

 では現在では何があるのか?というと、静かに広がっているのは、やっぱり格差問題だと思います。これは貧困層が可哀想とかいうレベルにとどまらず、全体の経済モデルとしてどうよ?という視点でしょう。ここに来て労働党のビルショーテンの支持率が上がって、場合によっては逆転しているというのは、彼がスゴイというよりも、彼がその問題をメインに据えてきているからだとも言われています。

 「経済」という言葉には大きな2つの意味があると思います。
 一つは、一般庶民の暮らし向きを良くするという意味での経済です。失業の不安に怯えず、消費が増えて商売が成り立って、それぞれに安定した暮らしが出来るようになるという点からみた「経済」。「景気」と言い換えてもいい。これは働いて→お金をゲットして→生計を立てるという資本主義の基本モデルにおいては、誰にとっても最重要な関心事でしょう。

 もう一つの「経済」は、財界の都合を優先するという経済重視です。富裕層や支配層、既得権益層の利益増大という意味での経済です。ココが問題になっている。

 その昔は牧歌的なトリクル・ダウンで、会社が儲かれば給料も上がり人々の暮らしも良くなるという幸福な一体感があった。ところがバブルの頃あたりから、財テクとかデリバティブとか金融経済が伸びてきてから、だんだんこの一体感が損なわれてきたように思います。昔は、景気(実体経済)が良いから会社が儲かり、株価が上がり、投資家が儲かるという流れだったんだけど、業績や実体経済とは関係なく投資家(投機家)の思惑で株価が左右されるようになった。株に限らず不動産価格もあらゆる投資先がそうなっていった。そうなるとアベノミクスや日銀のインフレターゲットの虚構性のように、景気が良い→株価・物価が上がるのではなく、株価や物価が上がったから→だから景気がよくなったのだと強弁する逆転論理になっていく。

 でも実際には株価の動向とは関係なく、非正規雇用が増え、国からむしられる保険料やら税金やらは増える一方で全然暮らし向きが良くなった気がしない。そのくせ大企業は史上空前の利益とかいってる。株価もガンガン上がっている。そして、その儲けをたっぷり得た層が、パナマ文書のように合法的とはいえ釈然としない租税回避をやっている。大企業もガンガン租税回避をやっている。

 なんだこれは?って感じだと思うのですよ、大多数の人々にとっては。
 日本もそうだが、オーストラリアもそうです。オーストラリアはアベノミクスみたいアホなことは言ってないけど、不動産価格が上がりすぎて生活しにくくなってる。海外富裕層が資本逃避先や投資先として買い漁ってることもあるのでしょう。オーストラリアの持ち家率は高いので、みんなそれで儲かっていい筈なんだけど、もうそんなレベルでもなくなってきている。例えば、意欲的なレストランやカフェが人気を集めても、法外なテナント料の増額で閉店を余儀なくされている。あるいは、親世代にしてみれば、自分の持ち家の値段はあがったとしても、自分らの子供が独り立ちするにあたっては、もう高すぎて手が届かなくなってきてしまっている。だからいつまでもパラサイト状態になっているという。このようにマネーゲームが実体経済を損ない、さらには伝統的なライフスタイルすら毀損しはじめてきている。

 そこで誰もが思う疑問は、一部の人だけが儲かって全体が潤わないような「経済」って意味あんのか?ということです。そういうことをやりたいがための「経済重視」という政策ってどうよ?と。結局、富の分配が偏っていたら、大多数の人の暮らし向きが立ちにくくなり、結局は経済全体に害をなす。だから修正がいる。

 そのあたりの事情を、紹介した記事では「Labor also won support for some of its proposed budget policies with voters favouring tightening capital gains tax exemptions (52% in favour to 19% opposed) and limiting negative gearing (48% to 24%).(野党労働党は、キャピタルゲイン課税の例外を締め付けたりネガティブギアリングに制限をつける政策(いずれも富裕層に対する課税強化)について52対19、48対24の支持を得ている)」

 「Revenue raising measures that the Coalition adopted after Labor proposed them were also popular, with reducing superannuation tax concessions for high earners winning 60% support with 22% opposed and increasing cigarette taxes favoured by 67% to 21%.(労働党が唱え与党が追随した高額所得者への年金控除の減少についても60対22%の支持を集めている)。」

 「Corporate tax cuts were unpopular, with only 22% in favour and 57% opposed, but voters would still like to see their own personal income taxes cut, 63% to 19%. Increases to health and education funding were very popular, with 80% or more in favour(法人税の減税は不評であり、22%の賛成に対して57%が反対している、しかし人々は所得税の減税については63対19で支持している。医療や教育への政府支出を増やすことにについては非常に人気があり、80%の人が賛成している)」

 一言でいうと、多数の生活を守るための経済は大事だけど、一部のものを優遇するための経済だったら要らないということだと思います。けだし当然ではあるのだが。

 そうはいっても、ビル・ショーテンンって誰?という知名度の低さ、ターンブルの長いキャリアと安定感とを比べると、ショーテンにしてしまうのはリスキーな気がするが、しかし安定感とかいっても何もやらないで現状追認だけでは不満であるという、そのあたりで揺れているって感じでしょうかねー。

企業の社会的使命論

 オーストラリアも、日本も、そして先進諸国も、あるいは全地球規模でぶち当たってる悩みというのは、経済と最大幸福の関係性だと思います。

 その昔の経済発展→皆ハッピーという幸福な一体感は既にない。皆の暮らしを良くするために、稼ぎ頭である巨大企業の経営環境を良くしてあげましょう、法人税も下げましょう、為替介入で貿易利益がでるようにしましょう、あれこれ便宜を図りましょうってやっていっても、当の企業が儲かったところで、それで雇用や給料がドカンと増えるわけでもなく、内部留保に回したり、財テクやってスったりしている。

 いわゆるトリクルダウンの破綻ですけど、この点をどう考えるかは論者によってさまざまでしょう。

 ある人は、企業のモラルハザードの問題として捉えるでしょう。企業というのは私益追求マシンであるけど、同時に社会的に影響ある存在なのだから、その振る舞いには社会的責任が伴い、利潤以外にも「あるべき姿」が求められるという立場です。これは建前ではありつつも現在にも堅持されてはいる。例えば、こちらの企業のHPやブローシャー(パンフ)には必ず”Mission”(社会的使命)という欄があり、麗々しく理想を説くわけです。曰く「国民の健康に奉仕する」とか、「豊かなライフスタイルに貢献」とか、「皆のためにええことしてまっせ〜」と言うわけです。日本の企業もそうだよね。絶対その種の建前は言うよね。でも、もともと私益追求マシンなんだから「ミッション」=利潤追求でしょうが。だから「我社の理念」=「金儲けじゃあ!他になにがあるんじゃあ!」と言えば良さそうなんだけど、そうは言わない。絶対言わない。

 単に綺麗事だけではなく、実際にもボランティア的になんかの事業にお金を出してスポンサーになってみたりしますよね。あれも「企業イメージの向上」という広告・マーケ戦略なんだから、結局はカネカネ主義に変わりはないという見方もアリですけど、まあやっている。バブルの頃は、死語になってしまった「企業メセナ」なんて言葉が流行りましたな。カンムリ(冠)イベントとかね。実際に多いですよ。春の甲子園は毎日新聞だし、夏の甲子園は朝日新聞の「青少年健全育成」というボランティアでありつつ、同時に新聞拡販マーケでもある。

 その是非や胡散臭さや有効性はともかく、企業というのは金さえ儲ければ他人の生き血をすすってもいいんじゃ、銭ゲバ道をひたすら走ってこそ本望だという見解は、あまり一般的ではないです。地域社会や国家や人々に貢献してなんぼって意識はありますし、そういう実態もあります。実際途方も無い金がそれで動いてますから。

 そういう古き良き企業のあり方、商人道みたいな観点でいえば、地域社会から金を収奪して商売しておきながら、税金払わず、還元もしないという租税回避は批判されてしかるべきでしょう。また古いモデルの日本企業がもっていた、新入社員を一人前の社会人として鍛えるという教育的な機能、あるいは冠婚葬祭から老後の面倒までみるという国家の福利厚生を一部代行するような機能はたしかにありましたし、時代とともに退潮していってます。このように資本主義なんだけど、資本主義にプラスアルファしたファジーな「いいこと」をやっているという企業キャラが段々すり減ってきて、利潤追求が第一、株主や投資家を儲けさせるのが第一義という具合になって、今日の「経済」の惨状をもたらしたという見方ですね。

資本主義そもそも餓狼論

 こういった見解にも一理あります。が、一理はあるけど一理しか無い。
 というのは、もともと資本主義というのは資本家が金を儲けるためのメソッドであり、それが社会を発展させるエネルギーにもなりうるという部分に着目されて「有効利用」しているだけの話であるからです。

 資本主義勃興期の産業革命などが典型的ですが、資本主義というのは、どんどん新しい発明をして技術革新を行い、生産性を増大させ、ひろく社会に多くの物資と富を生み出すということで「使い勝手のあるシステム」だったわけですよね。人間というのは、悲しいかな「良いことをする」というモチベーションよりも、「自分が儲かる(いい思いをする)」というモチベーションの方が強力である。そこまで皆は聖人君子ではない。だから皆で頑張って発明をして豊かになりましょうとか言ってるよりも、先に開発した奴は億万長者だあ!って煽ったほうが目の色変えて皆さん頑張る。だからよりスピーディーに社会が発展すると。そこを共産主義的に「みんなで〜」とかやってても限界あるのであって、個々人の利己心をくすぐるシステムの方が有効だと。

 そういう資本主義は、火薬やガソリンみたいなもので、それ自体強烈なエネルギーや爆発力はあるけど、同時に両刃の剣でもあり、社会を推進もするが破壊もする。パワーはあるけどモラルはない。なぜなら最初から「みんなのためにイイコトをする」というDNAは資本主義には組み込まれていないからです。「儲かりゃいいんじゃ、俺さえ絶頂に達すればそれでいいんじゃ」という我利我利亡者性こそがその中核にあるわけです。身も蓋もないギラギラした私欲をくすぐるからこそ強烈な推進力がある。

 それを「使命」「会社の社会的責任」とかいって期待してみても自ずと限界はあるだろう。もともとそういうものではないのだから。そして、資本主義のプレイヤーは本来資本家であり、投資家であり、株式会社法における「社員」の定義は株主であって、従業員ではない(あれは会社の取引先=雇用契約=の一つでしかない)。企業が契約において有利な交渉を図るように、下請けをいじめ、従業員をいじめるのはむしろ合理的な経済活動ですらある。資本主義社会で、給与所得者になるという選択は、原則的に、被収奪者、奴隷的立場に自らを置くという意味でもあり、他に食っていく術がない人が最後にとる手段でもある。それが本来の姿であると。だからこそ、資本主義の毒性を薄めるために、カウンターパワーとして労働者の権利を保護し、あるいは市場においては独禁法その他の規制をかける。本来が猛獣のように毒性の強い生き物であるから、十分に縛りをかけないとならない。

 ゆえに、資本主義社会において企業に「よいこと」を求めたり期待するというのは、狼に羊のケアをせよといっているくらいナンセンスなことであって、そんなものを期待するほうが間違っている。猛獣を律するのは、強烈な銃であり、ムチであり、檻であると。

 いわゆるトリクルダウンも、社員の給料を上げてモラールをあげれば、より良い生産性を得られるというソロバン勘定が合えばやるけど、そうでなければやらない。いくらでも非正規やら外国人で雇える、ロボットやAIに代用させることが出来るならば、社員を大事にしてやる必要なんかないし、純粋に損得勘定からみて無駄に給料を払ってると思われる社員はガンガン首にすればよい。

 だから経済優先=企業優先という政策になったら、一般国民は冷や飯を食わされるのは、当然なのだ、何を驚くことがある?という立場もあるでしょう。

成長余地が乏しい論

 んでも、これも一理はあるけど一理しかないような気がするなー。
 なぜって、もし餓狼論どおりだとするなら、直近過去10−20年でそうなったという変化の理由がないからです。昔は羊の皮をかぶっていただけのことで、最近になって狼の本性が出てきただけだとしても、じゃあなぜ昔は羊の皮をかぶっていて、それを外すようになったのか、その変化の理由は何なのか?最初から餓狼だったら、もう徹頭徹尾餓狼であっても良さそうなものでしょう。もう地も涙もない冷血資本家企業 VS 団結する労働者がガチでぶつかり合い、その昔の春闘とかゼネストとか、終日電車が動かないのもザラだという状態が続いてなければならない。でもそうなってない。なぜか?

 それは巧みな洗脳によって去勢されてしまったのかもしれない。高偏差値→イケてる人生というのも、しょせんは高級奴隷になるだけの話なんだが、それをさも素晴らしいことであるかのように教えこまれてしまったからだという説もあります。てか、今や官僚も社長も奴隷出身だから、もう全体にそういうもんだってなって、全員で大ボケかましている不思議の国のアリスみたいになっているからだと。そうかもしれないね。

 でも、戦後の10−20年、あれだけ激しく労働争議をやったのが徐々に退潮し、いわゆる労使協調路線になり、会社家族主義が広まったのはなぜか、洗脳に成功したらそんな甘い汁は吸わせてやることないではないか。そして、甘い汁を吸わせて労働者をあやせるなら、ずっとあやし続ければいいものを、ここ10-20年はほとんどタコ殴りのようにボコボコにしている、特に直近になるにつれてビンタがグーになり、蹴りも入るようになっているのはなぜか?

 それは、常々書いている私見でなのですが、企業は企業で必死だからだと思います。もうそんなええカッコしてる余裕はない、なりふり構ってられなくなっている。あれだけ内部留保を積み上げて何が不安だという気がするけど、それでも不安でたまらない。なぜか?先が見えないからだと思う。

 それは経営環境が不透明とか生ぬるいレベルではない。そんなことは過去もそうだったし、過去の方が遥かにマグニチュードはデカかった。でも諦めずに先に進めたのは、まだまだ成長余地があったからだと思います。頑張ればまだ高度があがっていった。しかし、最近になるほどにそういう余地がなくなってきている。どの業界も飽和状態で、なにか画期的な新商品が生まれているわけでもないし、壁を叩き壊してバコーンとだだっ広い地平線が一気に見渡せるようになったわけでもない。

 細かいところでは技術的なブレイクスルーはどこの業界にもある。建材や工法も、医療技術も、なんにおいてもそうでしょう。ただし時代を動かせるほど巨大なものがない。人々のライフスタイルがワンランク上がるような、その昔、個人でも自家用車が買えるようになったとか、街頭テレビではなく一家に一台テレビが買えるとか、2階建てアパートから高層マンションが出てきたとか、パソコンというものが登場したとか、そういう変化はない。

 商品というのは先行者利益とブランドが一番おいしいと思う。先にバーンとやって注目されてしまえば、多少高くても人々は買う。iPhoneがそうです。もう一つはブランドで、機能は確かに良いけど、その機能に比して数倍割高な価格をつけてもそこにステイタスや見栄やらの主観的付加価値で売れるというブランドです。

 一方、新興国はまだまだやることがたくさんあるから成長余力があります。テレビも車も少ない。だから作れば売れる。でも先進国はもう一通りいきわたってしまい、全ての商品がコモディティ化(普及品化)してしまう。スマホも、タブレットも、ここまで広がったらあとは機能はそこそこで価格競争になる。iPhoneの10分の1の値段でそこそこ使えるものもたくさん出てきている。誰もが持ってるともうブランド価値も薄れていく。だから何か新しいサムシングが要るんだけど、もうそういう感じではない。むしろ、墓穴を掘る用な商品、労働者を不要化するロボットやAI系とか、資源価格の低下を招くような掘削技術や低廉なエネルギー系。先が見えないというのはそういうことです。

 そして本質的に、別にこれ以上何かを求める必要はないのではないかという意識があります。酔いが冷めてシラフになったかのように、これ以上なにかモノや商品によって自分の生活やスタイルを向上させる余地はない。今が最高であるわけでは勿論ないのだけど、それ以上前に進ませようと思ったら、「自分の時間」「自分らしい生き方」などの商品になりにくいものしか残ってないです。だから、領土をバーンと広げて皆で分配という景気のいい話にならず、パイの大きさは変わらず(てか縮小)しながら、仲間内で壮絶な奪い合いとか押し付け合いが始まっているという感じ。

私見とまとめ

 ところで、今、多分いちばんヒットするだろうものは、自給自足やオフグリッドのライフスタイルの「分譲人生」だと思います。どっかの田舎で土地を借りて自分で耕して、、というのをワンセットにして分譲するのです。最初に教習コースがあって受講してもらい、オフグリッド一式キットがあって購入し、指導付きで実施すると。でもって、時期限定で3年だけやって、あとはもとに戻るという。その一定期間の間、持ち家やマンションは責任持って賃貸して運用し、固定資産税やローンの支払い分くらいは捻出するように面倒みますよと。それを三井不動産あたりが商品化して、売りに出すと。

 一生に3年くらいは、ちょっと変わった暮らしをしてみませんか?ということですね。ライフスタイルを変えるくらいの商品企画力です。あるいは、就職斡旋でも、一箇所を斡旋するのではなく、年のうち半年はココ、半年はあそこというノマドライフをセットで斡旋するというやり方もあるでしょう。1年のうち桜の綺麗なころは日本の静岡県あたりで富士山をみながら仕事をし、夏は沖縄のリゾートで働き、秋は京都あたりで働き、冬は寒いからオーストラリアで働くという、そういう組み合わせにしてセットで斡旋する。社宅も家具付きで用意しておいて、ローテーションで貸せば借りる方は引っ越しいらずで楽ですしねー。ちなみに、そういうことを商売ではなく、仲間内の互助システムで出来ないかなーと思ってます。てか、いつか実現させたろって思いますね。

 経済がダメとかいっても工夫次第で幾らでも発展の余地があると思います。が、しかし、それをやろうと思うと、従来の経済や社会の枠組みをいじくらないといけない。新しい最適化をしなければならず、その際に、古いシステムは退場願うことになるのだが、それは同時に多くの人々の失業や生活破壊を一時的に招く。だから恐い、動けない、保守化するという点もあるでしょう。体力や元気があるときは、今の僕の家みたいに、「おっしゃ!」で気合一発でズルズルとクソ重い家具をあっちに持って行ったり、こっちに配置したりもできるけど、ゲホゲホ咳込んでるような状態になるとそれもうざったくなる。しまいには床から離れられなくなり、さらには背中に褥瘡(床ずれ)が出来、、、という。今の日本はわりとそれっぽい。

 さて選挙の話に戻りますが、オーストラリアの場合、そこまでひどくなくて、どんどん新陳代謝で新しい企業も起きてきています。前にも書いたが1年に全就労人口の20%が転職をするというくらい、個人レベルでの人生構築の柔軟性は非常に高い。高齢者でも大学に行くし、進んで人生を切り開いていくというカルチャーは日本よりも期待が持てます。が、それでも閉塞感はある。なんか今のシステムではどんどん悪くなっていくような気がする。特に資本の再配分がうまくいってないし、それが全体の「血の巡り」を悪くして慢性化しそうな恐れもある。かといって、現在のシステムの全てがダメなわけではなく、それどころか基本OKでいいのだけど、だけど何もしないで良いということはない。

 これまでのように経済重視=財界重視、福祉重視=国庫カラの財政破綻みたいな二者択一ではなく、微妙なところで修正をカマしていけばよさそうだ。さて、そうなった場合、就任8ヶ月で何かやりそうで、でも何もやらなそうなターンブルか、それとも人物未知数でリスキーなんだけど何かやりそうなショーテンにやらせてみるかってあたりの悩みでしょう。さらに言えば、ターンブル首相にしても、前任者のアボット派閥が閣僚とか党内に多くいるので、大鉈ふるってあれこれやることも出来ない。だから総選挙カマして自由に動かせる権力が欲しいという点もあろうから、一回フリーハンドでやらせてみるかって人もいるでしょう。拮抗するのもむべなるかな、って気がします。


















 文責:田村




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