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今週の一枚(2016/06/13)



Essay 778:「可愛げ」の研究

 自分の中にある「天然」を殺すことなかれ

 写真は、雨あがりのVaucluseのDiamond Bay。

 前回の続きというか、関連した話題を書きます。

 不本意なことをやってると心がだんだん死んでいく→みずみずしい感性がなくなっていく→だから周囲がよく見えなくなる。この世界が冷淡なものに感じるし、他人は冷たいと感じるようになる→ますます心が死んでいく。死んだ魚のような目になる→周囲の好意に対して十分な反応ができなくなる→「可愛げ」がなくなっていく→周囲の好意や助力が客観的にも減る→ますます成功率が下がる。

 という悪循環があると思います。最近の日本に多い気がする。

第一段階〜原点がダメ 

 どこがアカンかというと原点がダメだと思うのですよ。
 良いとかダメとかいうのも、単発でそういった現象があるというよりは、因果の連鎖がじゃらじゃらと長く伸びているのでしょう。右回転でいくか、左回転でいくかで、最初にプラスから始ってなんでも好循環になるか、それともマイナスから始まってなんでもネガの悪循環になるか。ぐるぐる巡る因果関係の一番最初から直さないと。ボタンの掛け違いは、掛け違ったところまで遡らないと本質的な解決にならない。

 この場合の因果の原点は、「つまんない」ってところから原点になってて、そこから物語が始まってる部分だと思います。なんでそんなところから始まってしまうのか?といえば、これは前回に書いた人生カレンダーやらなにやらで「追い込まれ」てしまってることなどが原因になってる場合が多いですが、それは前回やったから今回は割愛。その先を書きます。

 ともあれ、なんか知らんけど不本意なことをやらされる。一定期間ずっとやらされ続け〜、やらされ続けていくうちに、自分自身のナマの感性がだんだん摩耗していきます。「楽しい」と感じることが減ってくる。でもとりあえず目先に不快なことは押し寄せてくるから、その被害を最小限にするという方針になる。もう防戦一方になってしまい、この世には防戦しかありえないかのようになる。そういうフォーマットに心身ともに浸ってしまう。

 絶対そうなるとは限らないけど、そうなる度合が高いと思いますよ。そりゃそうでしょ?不愉快ベースでものごとが塗りつぶされていたら、できるだけ感じなくなるようにするのがせめても対抗策ですから。騒音が耐えられないようなところにずっといたら音に鋭敏になればなるほど苦痛が激しく、臭気がひどいところにいたら匂いの感覚が鋭敏であるほど不快度は増す。感性を鈍らせるのは、ある意味では生存本能のなせるわざでしょう。そして、不快度を軽減する副作用として快感の感度も減る。だから楽しいことも楽しいとは感じられず、楽しいことが減ってくる。

 まあ、全く楽しくないってことはないのだろうけど、それら楽しいものごとも陳腐で底が浅いものになりがちですよね。つまりは流行っているからとか、ネットの評判がいいからとか、その程度の通り一遍のものでしかなく、「魂が震える」「鳥肌が立つ」というガビーンという衝撃にはなりにくいでしょう。やっぱ感度が鈍っているからです。ちょうど風邪をひいて喉も口内ものザラザラしてるときに何を食べても味がしないのと似ています。それじゃ感動はしにくいだろうなーと。

第二段階=周囲が見えなくなる

 第二段階としては、感度がにぶるから、周囲がよく見えなくなることです。

対人的盲目状態

 これは対人、対物どちらもあります。対人でいえば、他人からかけられたちょっとした心遣いとか、優しさとか、好意がわからなくなる。感度が普通だったら「ああ、ありがたいな」「申し訳ないな」とそこは気づくはずなんだけど、感覚が馬鹿になってるから、「客にサービスするのは当然だ」「仕事だからやってるだけ」とか粗雑な処理をしてしまう。確かに仕事だからって側面は大いにあるだろうけど、でも、仕事だけだったら何もそこまでしてやる必要はない筈で、別にほったらかしでもいいはずなのに、でもそこをあれこれやってくれたというのは、やっぱり純粋に人間的な好意がそこにあるんだろう。儲かるから儲からないからとかいう基準だけで人は動いているわけじゃないという当たり前のことがわかるし、そこでかけてもらう情けのあたたかさも分かる。心がほこほこするし、気持ちよくなる。

 ほんのちょっとした差なんだけど、これも積み重なると恐ろしい落差になっていく。他人の厚意が分からないというのは、勿体ないとか、不都合だとかいうレベルを超えて、ある意味では犯罪的ですらあるもん。よくある世間知らずの中二病にありがちな症状は、他人になにかしてもらっても、なんでも「裏がある」と考える。そうした方がその人にとって得だからやってるだけで、好意でもなんでもないんだと。例えば、ここで顧客から好評価を得ると社内での査定でもよくなるとか、そういう接客態度を厳しくチェックされてるから仕方なしにやってるんだとか。それで全て分かったような気になり、好意を好意として純粋に受け取れなくなる。

 それが世間知らずだというのは、じゃあ、この業界のこのくらいの規模の会社のこのくらいの支店の、このくらいのポジションにいるこの人の給与がいくら位で、そこでの勤務評定のやり方がどういうやり方で行われていて、その評価の差は具体的に月給に換算するといくら位違って、それが将来の昇給などの具体的にどのくらいの影響があるのか?ということが全然分かってない。抽象的な「裏がある」という概念だけで分かって気になって、それ以上具体的に何もしらない。これだけ何も知らなかったら、要するに何も知らないのと同じなんだけど、それでも「裏があるんだ」と鬼の首でも取ったみたいに分かった気になるところがコドモだということですな。「無知な奴ほど分かった気になりやすい」の法則です。

 いっぽう自分で働いたことある人、自分で店舗経営をしたり、人を雇ったりしたことがある人の場合、そのあたりはある程度わかる。どのくらいの条件でどういう仕事をしているかも分かる。このくらいの給与と労働条件でやってたら、普通この程度くらいは期待してもいいけど、ここまでやってくれることはないよなーというのも大体のアタリがつく。そもそも実際に働いた経験がある程度ある人だったら、リアルに働いている瞬間瞬間において、こうすれば得だとか、ああすれば儲かるとか、そんな四六時中、金金思ってるわけではないというのも分かる。そもそも雇われ身分でそこまで明確な対応関係なんかないしね。だから世間がわかればわかるほど、意外と人々というのは好意的であり、規模は小さいし細かいことかもしれないけど、無償の善意というものを思った以上に与えあってるんだというのが分かるようになる。周囲がよく見えてくる。

 これはちゃんと年をとってるかどうかの試金石になると思うけど、年を取るほどに「け!」とスサんでくるか、逆に年をとるほどに「ありがたいな」と思えるようになるかです。前者は経験年数に比して経験量も学習量も足りないばかりか、足りないことが慢性疾患のようになって、年をとるほどにどんどん馬鹿になっていくパターンです。それがある意味「犯罪的」というのは、周囲に不快感を撒き散らすからです。そういう人が増えたら世の中がスサむ。また今回のテーマの原点でもある「不快な環境」は諸悪の根源であるところ、自分から不快要素を出しているのは、病原体を撒き散らしているのに等しい。そしてそういう人に限って、自分は犠牲者で被害者だと思って他人のせいにしたりするから救いがない。お前は被害者じゃなくて加害者なんだよってのがわからない。だから犯罪的だと。他者に対して、いわれのない不快感情をあたえるのは、刑法典に記載されている構成要件には当たらないから犯罪ではないが、犯罪「的」ではある。

対物的盲目状態

 対物的なことでいえば、感性がすくすくと鋭敏になってくると、昔わからなかった良さが、だんだん分かるようになる。例えば絵の世界でも、風景画とか見ても、子供の頃は、こんな田舎の風景描いて何が楽しいんだ?写真撮ればいいじゃん、とか全然理解できないんだけど、鑑識眼が鋭くなってくると、「ああ、この陽射しの柔らかい気持ちよさが凄くよく描けているな、この絵を見るたびにすっと心が落ち着く感じがする」「行ったことも見たこともない風景なのに、なんでこんなに故郷みたいな親しみを感じさせてくれるんだろう?”郷愁”というとらえどころのない抽象的で淡い感覚を、よくぞここまで具象的な風景で描ききったものだ、すげえな、これ」とか分かるようになる。感動が増える。

 食べ物なんかもそうですよね。子供の頃には単に苦い物体でしかなかったお酒も、苦味こそが味の奥行きや陰影がよくわかってそこが良くなる。スィーツも甘ければそれで良かった頃から、甘さにもいろいろあることが分かるようになり、ベタベタした甘さ、控えめな甘さ、涼し気な甘さなどバリエーションがわかるようになる。僕もそこまで知らないけど、たしかに和三盆の清涼感はわかります。落雁の甘さですね。子供の頃は好きじゃなかったけど、大人になったら分かるようになった。鮎解禁の初夏の渓流にすっと過ぎていった風のような。押し付けがましくなく、ただそこに佇んでいるような、でもしっかり存在感はある、まるで日本の四季の風情のような甘さ。

 こういうのが分かると他人の働きぶりも分かるようになる。うわあ、これは手が込んでいるな、なかなかこうは出来ないよなー、よっぽど好きなんだなあ、いい仕事してるよなあ。これを◯円で出してたら儲けなんか殆どないでしょ?もっと取ってもいいけど、そうすると売れないんだろうなあ、つらいところだよな、頑張って欲しいよなあ、とかね。見知らぬ他人であっても、いきいきと一生懸命仕事してられると嬉しくなりますよね。世の中捨てたもんじゃないよな、頑張ってるなー、くそお、俺も負けてらんないよな、もっといいもん作らなきゃなーとか思うよな。

 これが専門領域を持つようになるともっと深く分かるようになる。オーストラリアで知り合ったバリバリ理系の才人は、まだ日本の家電が輝いていた頃の製品のキャビネットをあけて、中の電子回路をひと目みた瞬間、"Beatuful!"と溜息をついた。彼は自分で回路設計ができるから、その回路の意味、なぜここに抵抗があって、ここにコンデンサーがあるのかは全てわかるんだけど、だからこそその回路設計の巧みさと凄さがわかる。僕のような法律畑だったら、他人が書いた法案とか契約書とかみたら、ははあ、ここは苦心の跡があるな、ああ、なるほどここはこう誤魔化しますか、うまいやりかただなーとか、ある程度はわかります。

 人せよ、モノにせよ、周囲がよく見えるようになればなるほど、通常期待できるのはこのくらいで、ここから先は特別な好意だなっていうのが分かる。大体において、よく見えるほど、他人に対する要求水準は下がります。自分で苦労して金稼いで、自分のちからだけで生計を立てて、家賃やローン払ったり、家族や部下の面倒をみたりしていくと、大体どの程度できるか?というのはおおよそアタリがつく。また年齢的に、このくらいの年だったら月に何回かは頭が割れるように痛くなったり、生理痛が重くてふらふらになったりとか、そのあたりも平均的におおよそわかる。それを考慮に入れていくから、そんなに多くは求められないよなーというのも分かる。それが分かるだけに、そこを敢えてやっていただいたありがたみというのは、本当にありがたいな、人の好意が温かいなーというのも、もう生理的に身体がぽかぽかしてくるように見えてくる。

 弁護士やっててよかったな〜と思うのは、いわゆる中二病の人達が思う「裏」を専門に見るからです。もともと人間というのがどれだけ醜悪なのか、どこまで薄汚い生き物なのか、それを見たかったという怖いもの見たさもありましたが、実際につぶさに見ていくと、思っていたよりも醜悪でもなければ、汚くもなかった。それどころか、人間っていいなーとか真逆の印象を受けてしまった。一知半解で「裏がある」とか思うくらいなら、とことん見たらええねん。裏どころか、そんなもん表も表普通に常識であって、それを踏まえてさらにもっともっと奥があるんだから。オーストラリアの教育課程には(NZ、イギリス、アイルランドも)高校1年か2年になると、ワークエクスペリエンスというのがあって、生徒は自分で働き先を探して労働経験を積むことが求められます。それはそれでいろいろ実行上の問題もあるんだけど、いい制度だとは思いますよ。もうちょい広げて、バイトでは出来ないような職域の仕事を多少でも経験させてあげると視野の狭さは改善されるでしょう。法律事務所に2週間いるとかでも、多少は違うでしょうねー。



第三段階=周囲との反応が鈍くなる

 ところがそのあたりが見えないと、他人の好意も見えない。世界は自分の脳内世界の投射スクリーンだというのは前回書いたけど、自分がそうなると、他人もそのように見える。つまり、世間の人々は単に義務的に、つまらなそうに生きているだけで、自分がそうしているように、仕事だから義務だからイヤイヤ自分に接してるだけだみたいな見え方をする。

 そうなると他者とコミュニケーション取るのも下手クソになってくる。それはそうだと思うのですよ。そんな義務の応酬みたいな乾燥砂漠で他者とのコミュニケートに何を期待すれば良いというのか?ご褒美がない、リターンがない、何をやっても意味がなさげだったら、そりゃあやる気もなくなるでしょう。

 そうなると、ますます「手順通り」のような応対になってしまう。「あざす」「お先、失礼しまっす」という言葉にも魂も温度もこもらない。AIの方がまだマシくらいの、「ポテトはおつけしますか?」「お弁当温めますか」的なコミュニケーションになるでしょう。

 そうなるとね、何があかんかというと、まず第一にクソつまらないことです。そんなやりとりだけだったら、刑務所で刑務作業やってる方がまだしも人間味があるわい。ひとりでせっせと雑草でもむしってる方がまだ達成感もやりがいもあるわ。

 第二に、他人の好意をミスること。好意ばかりか、当然の応対すらをも欠くようになってくる。
 以前、スマイル100円というエッセイだったかに書いた記憶があるけど、他人にお礼をいうとか、笑顔を見せるとかいうのは、実は途方もないヴァリューがあって、煎じ詰めれば人はそのために生きてるようなところもある。

 キレイ事でもなんでもなく、人間というのは、他人に喜んでもらえると、それ以上に自分が嬉しくなるという習性がある。どうもそうとしか思えない。だからこそ社会というのを作ることが出来るんだろうけど。あなたが、誰かにささいな好意を与える。それはお饅頭一個あげるというようなことでも良い。それを貰った他者が、「うわあ!おいしそうですね、ありがとうございます!」とパッと笑顔を浮かべてくれたら、あげた甲斐もあったというものだし、また相好を崩して「これ、めっちゃくちゃうわいですね」とか言われたら、「もう一個いる?」とか言いたくもなる。ところが、ぶすっと仏頂面したまま、「あ、ども」とボソボソ言って、いかにも義務的に食べてられたら、もう二度とやるかと思う。

 このあたりの機微を、顕微鏡で、あるいは解剖台で解剖するようによーく考えてみるといいです。そもそもなんで他人にお饅頭をあげようと思うのか?それはあげないとケチだと思われるからか?いやいや別にそんなスチュばっかじゃないでしょう。じゃあ、軽い賄賂みたいなもので、それで御機嫌や歓心を買っている?って、あなたは自分をナニサマだと思ってるの?あなたに賄賂送ってなんかイイコトあるの?新米のバイトみたいに、どこの馬の骨だか分からんような奴に、みるからに権力も財力もなさそうな奴に、明日になったら居なくなるかもしれない奴に、なんで物を送って歓心を買わねばならんのだ。その経済的政治的リターンは何か?40字以内に書いてみろと。無いだろう。だから純粋に好意なんだわ。ではなんでそこで純粋な好意が出てくるのか?このおばちゃんは、全人類を等しく愛するキリストの生まれ変わりのような聖者であるのか?んなことないよね。他人の噂話ってか悪口が大好きで、結構陰険なところもあるこの人が、そこまで普遍の愛を振りまくとも思えない。じゃあなんでなのか?その好意のモチベーションはなんなのか?ここがわからなかったら人間関係なんかわかりっこないでしょ?

幸福シェアの魔法

 おそらくは、幸福とかいい気分とかいうのは、他人とシェアすると倍々ゲームで増える性質を持っているからだと思います。一人で美味幸福を味わってるのに比べて、これを他人にもあげて、その他人が「あ、おいしい!」と反応してくれると嬉しくなってしまう。もう他愛無いといえば、このくらい他愛ないものもないんだけど、でもそうなる。「ね?おいしいでしょ、これ!」「いや、マジに美味しいですよ、これどこで買ったんですか?」とか続いていく。だからだと思う。他人においしい饅頭を上げてしまったら、自分個人の幸福機会は確実に一つ減るのだ。でもそこで減ってもなおもお釣りが来るくらいに感じるからこそ、他人にあげるのだ。つまり幸福的な勘定計算でいえば、自分で2個食べるよりも、他人とシェアした方がそれ以上(2倍以上)の幸福感を得られるわけで、シェアには「2倍以上」増えるという魔法の効力がある。

 ただし、この魔法は、一緒になって幸福をシェアして初めて成り立つ。そうそう簡単には成立しません。恋人に自分の好きなアーチストの作品を編集したカセットなんかを昔よく作って「これを聴け」みたいに押し付けたりするのも、それと同じ幸福シェアをしたいからでしょう。だけど、なかなか一致はしないけどねー(笑)。それだけに一致するとうれしい。非常にマニアックなアーチストや作品、100人に一人も知らんだろうというニッチすぎるものを共有できた時の喜びはことのほか凄まじいです。

 饅頭はそこまでニッチじゃないから、一般受けします。成功率も高い。だから気軽にくれたりもする。そのときに、感性が死んだ魚状態になっててて、「ポテトは〜」的マニュアル自動対応になってると、「あ、ども、あ、あ、、」と想定外の事象に出くわして、ろくすっぽ対応できない。ときとして、ブッキラボーで、つっけんどんな対応になってしまうかもしれない。そうなると、相手は幸福シェアに失敗するわけですね。ああ、この人とシェアするのは無理だなーと思う。

 これがどういう意味を持つか。そしてこの先死ぬまでの人生でどういうメカニズムで自分の人生を破壊侵食していくか?考えるだに、身の毛がよだつくらいに恐ろしい(笑)。

 だってさー、あなたに好意の手をさしのべても徒労である、意味がないってことになっちゃったら、誰もそうしてくれないですよー。

 そこで思うのだよね。いいや、構わん。俺は誰も力も借りん!俺は俺の力だけで生き抜いて見せる!と孤高を気取るわけです。これはもう定番中の定番ともいうべきパターンで、いまこの瞬間にも何百万人がそう思っているか(笑)。それ、でも「孤高」じゃないです。孤高と言いたかったらテッペン獲ってからの話ね。通常は孤高ではなく、孤”低”ね。自分だけ、ゴルフのホールのように地中の井戸みたいなところにいて、そこで蛙になって喜んでいるというよくある構図。Yes, I know, Cos I've been there too.To tell the truth, Everyone has.

 しかし、自分一人の力なんか限られてます。なにかコトを起こし、コトを成就させるためには必ずや他人の助力は必要です。いや、コトを起こすなどと大きな話でなくても、普通に日常生活を送るうえでも、他者のヘルプや好意は必要になる。その供給が先細ってしまうと、なにをするにも著しく支障をきたす。あまりにも支障をきたしすぎて、終いには何もする気が起きなくなるくらい。

ニッパチの法則

 人間社会の法則というか、宇宙の掟というか(笑)、いわゆる「ニッパチの法則」とか「7:3の割合」とかいうのがあって、明確にシロクロがわかるのは2割か3割。会社でも集団でも、2割の人間が7割の仕事をこなすとか、3割のトレンドがあとの7割を決定づけるとか、本当に意味が明瞭な要素というのは実は少数に過ぎない。圧倒的大多数は、「グレーマター」みたいな存在で、早い話がどっちゃでいいし、いるんだかいないんだかみたいな存在に過ぎない。

 同じように、あなたのことを、あなたの商品、主張、存在を、YES!と支持してくれるだろう人も、NO!と拒否る人も、合わせて2割か3割くらいでしょう。これは現実にいるというよりも、全ての人に知れ渡ったとして、まあ大体そんなくらいの割合だろうなーってことです。そんな10割支持とか拒否とか別れるものではない。大多数の7割は8割はどっちゃでもいいし、興味ないし、YESでもいいし、NOでもいいってくらいの感じ。政党の支持率みたいなもので、なんとなくの気分で動くのが大多数。

 これは経験的にもそう思いますよ。それは人間なんかいい加減な〜という意味ではなく、大体の平均人が平均的に知ってる森羅万象の世界の出来事のうち、その全てをフォローして、理解して、明確に意見を述べることなど不可能でしょう?あなただって、現在の政治状況については意見があるかもしれないけど、日本のアイスホッケー界の動向についての意見はないんじゃないかな?日本の介護の現状についての知見はあるかしらんけど、日本の林業やら、日本の手漉き和紙についての意見はないでしょう。そんなに全てを知ることはできない。いいとこ2−3割じゃない?人によっては6−7割くらいフォローしている博覧強記の人もいるし、1割も物を知らない人もいるだろうし、個人差はあろうけど、均してみたら2−3割じゃないかなーという。だから何かのトピックについて、ぼんやり程度でもいいからYESかNOの意見を言えるのは、全体のいいとこ2−3割くらいで、あとの大多数はYESもNOもないよ、よく知らんわ、興味もないわって感じじゃないかと。

 で、このニッパチ原則を、僕らの日常に当てはめてみた場合、職場やお客さん、クラスルームなどにおいて、普通よりもあなたのことをいいなと思ってくれる人が大体1割、なんか嫌いだと思う人が1割だとして、あとの8割はどうでもいいと思っていると。そして、商売にせよ、仕事にせよ、なんにせよ戦略というのが出てくるのだけど、まずはこの好意的な1割はちゃんとゲットしたい。死んだ魚になってる場合じゃなくて、ちゃんと明確に「生体反応」をして、別に媚を得る必要もなく、普通にしていれば、普通に1割程度には好感持たれるだろうから、あなたらしくちゃんと反応し、相手の存在を認知し、感謝し、つながると。




8割のグレーマターの空気抵抗

 これだけで結構やっていけるんだけど(インフォーマルな人間関係=友達とか=はそれでいい)、社会生活を送ろうと思ったら、1割だけだと心許ないので、大票田である8割のグレーマターをどう制するかが問題になる。この層は、もともとそんなに強い好悪があるわけじゃないから、ヤジロベエみたいなバランスでいるので、ごく軽い力で済む。逆にいえば、ごく軽い印象で逆になったりもする。そして、そこでごく普通にナイスな反応、誰でも普通に好感を持つ程度、ニッコリ笑って軽く会釈をするとか、その程度のことで足りるんだけど、それを面倒臭がらずにやるだけで、8割の大部分は持ってこれるわけですよ。おいしいじゃんと。

 かといって、別にそんなに戦略カマして計算高く生きよって言ってるわけじゃないですよ。ここで言いたいのは、感性摩滅して、どよよんになって、死んだ魚になってると、1割の基礎票のゲットも怪しいし、8割の票田もミスるから、世の中本当に敵ばっかというか、味方なしみたいな感じになって辛いよと。これが何かをする場合、明確な障害にはならないけど、不明確な障害になる。でもって不明確だけど致命的な障害になりがち。あたかも「空気抵抗」みたいな感じですね。それだけ見てたらただの空気で抵抗なんか無いような気もするんだけど、自分が動こうとすると見えないバリアのようなやり辛さを感じ、進めば進むほど抵抗が激しくなって、ついには無理になる。

 何かやるにしても、ほんのちょっと好意的に対応してくれるのか、非好意的(悪意というほどでもない)にされるのかでやってる側の印象は全然違ってくる。たいていの長所と欠点は表裏一体だから、好意的に見るか、そうでないかで結論が真逆になる。ほんのちょっとの見方の差です。何をやるにもスローペースな場合、好意的に見れば大物感があったり、マイペースだとか、自由だとか、ゆとりがあるよなあって感じなるが、非好意的だと、グズだとかノロマだとか使えない印象になってしまう。職場やクラスルームにおいて、この微妙な差って、事実上の勝訴判決か敗訴かくらいの差があるでしょ?例えば今度の連休に有給合わせて長期で取りたいというときでも、好意的に接してくれたらやりやすい。「休むときはしっかり休まないとだめだよ」とか言ってくれたりすると、ほっとするよね。でも非好意的に「えー!?」「何考えてるの?」とか言われると、針の筵になるでしょうが。空気抵抗ってのはそういうことです。別に官憲に逮捕されるとか、法律で制限されるとかいうわけではないんだけど、すげーやりにくいという。

 繰り返しになるけど、それで人生要領が一番大事とか、そんなこと言ってるんじゃないのですよ。主戦場でもないところで、無駄な空気抵抗を増やすのはバカバカしいだろ?と言ってるだけです。有給休暇を取る場合の本当の主戦場は、休みの間に誰と何処で何をするか?でしょう。それは趣味に費やしてもいいし、好きな人と素敵な時を刻んでもいいし、家族と尊いひとときを過ごしてもいい。それこそが主戦場。休暇はそれを遂行するための環境整備事業に過ぎない。ユーティリティに過ぎない。だからいかに有給をスムースに取るかは主目的でもなんでもない。しかし、ここがズッコケると、そもそも環境が十分に整わないから実現しないとか、一応休みは取れたとしても職場の険悪なムードを考えると連休明けが恐ろしくて、それを思うと休暇も全然楽しくならない、心からリラックスできない、だから好きな人といても気もそぞろで、結局主目的も果たされないってことも起きうる。

 こんなのめっちゃくちゃ馬鹿くさいじゃないですか。主目的でコケるならまだいいですよ。些細な事から恋人と口論になって結局全然楽しめませんでしたとか、楽しいはずのドライブが事故を起こしてもうさっぱワヤや〜ということもあるでしょう。でも、それは主戦場でのあれこれですから、何が起きてもそれなりに意味深くはあります。過ぎてみればいい思い出になったり、ほろ苦い記憶になってみたりもする。しかし、有給がどうのなんか、人生レベルでいえばどーでもいいんですわ。価値的にはゼロに等しい。そんな愚劣なことで足を取られて、やりたいことができない、気持よくなれない、幸福になれないのでは死んでも死にきれんだろうと。それを言っているのです。おわかりか。

「可愛げ」の研究

 よく「人を動かす力は?」とか本がたくさん出てますけど、私見によれば、ズバリ「可愛げ」でしょう。

戦略的優秀さ

 恐怖や権力や暴力や利益誘導、なんでも人を動かしますけど、一番簡単で、費用も安く、安定的にリターンが良い、つまりはコストパーフォーマンスが最高なのが「可愛げ」だと思います。それ以外の利益誘導とか暴力とかでも人を従わせられますけど、コストかかりますよ。そんな他人の面を札束でピタピタとなぶるために、まず札束をゲットしなくてはならない、それが大変じゃないですか。暴力だって、まず強くならなきゃいけないし、そのためにはどれだけの犠牲をはらってトレーニングをしなきゃいけないのか。それでも相手の方が強いかもしれない。そして自分が確実に強くても、それをやったら強要罪、脅迫罪、恐喝罪などいくらでも罪状がついてしまう。それをクリアするためには警察権力すら手中におさめないとならず、そのためにはまず東大法学部を首席で卒業して、夜も寝ないで勉強して、且つ山に籠もって総合格闘技かなんかの修行をしなくてはならない。めちゃくちゃコスト(時間×労力×費用)がかかるじゃないですか。そしてやれば絶対成功するってもんではなく、むしろ真逆に成功率は極端に低いでしょ。

 誰からも温かくされてないなー、好かれてないなー、世間なんか冷たいもんよねー、いいよ、別に知ってるよ(だからそれが見えてないんだって!)とか思って、よし俺は強く生きるんだ(その意気やよし、だが)、そうだ力だ、力さえあればこの世はうまくいくんだ(あれば、ね)、、、ってパターンにはまったとき、途方も無くコストパフォーマンスの悪い方向へ向かう。戦略的にいえば、かなり下策を選んでしまう。その方向にいって、まず思い知らされるのは、世の中そんなに甘くないのね、そんなに簡単に強くなれないのよねであり、それでも頑張って強くなって次に思うのは、上には上があるのよね、である。それも無理やり突破して、最強になれたとしても、その頃には何のために強くなるのか初期の目的を忘れていますよ。多分、強さのための強さみたいな、強くなるのが趣味であり、生きがいみたいになっちゃうでしょう。ハイスコア競うみたいな感じになる。それはそれで新しい生きがいが見つかって良かったとも言えるんだけど、はて、そんなことしたかったのか?

 その目的が、どっかの他人Aさんにクビを縦に振ってもらうことだとしたら、AさんがOKしてくれるのは理論的に2つの場合、(1)自発的にOKしてくれる、(2)Aさんの意思をねじ伏せて強制的にOKさせる、だけど、(1)ができたら(2)はやらなくてもいい。では、自発的にどうしたらOKしてくれるか?ですが、それが可愛げだと。


可愛げの本質

 ここでいう「可愛げ」とは、眉宇秀麗で美形で可愛いって意味でもなく、セクシャルな媚を売るということでもなく(それらはいずれも力強い方策ではあろうが)、ぶりっこしてゴロにゃんとやることでもなく、普通に地をだして一生懸命やってればいいです。「いやあ、本当はダメなんだけど、ああも一生懸命やってられると、ちょっと情にほだされるというか、頑張れよって言いたくなりますよね」って思ってもらったらいいわけですよ。

 可愛げというのは、素顔とか、地のリアルな部分だと思います。
 ここも人間心理の面白いところで、ひとりの人間が真剣になにかをやってると、それなりのインパクトがあるのですよね。これは上手いとか下手とかではなく、頭が良い悪いでもない。そういう質や能力とは関係がない。ポイントはピュアかどうかです。あまりにも狂信的とか、偏執的だと逆に引かれてしまうかもしれないけど、普通やろうと思ってもそこまで出来ませんから(本当に狂信的でない限り)、「やあ、ご精が出ますね」「頑張ってるなあ」って他人から言われる程度で別にいいです。それって古典的な日本人からしたらスタンダードなレベルであって、格別難しいわけでもないでしょ?

 やや極端な例を出すと、ジミー大西さんって方がいますよね。あの人、一種の天才だと思うのだけど、日常生活においては奇人変人というか天然すぎちゃって難儀することが多い。それが周囲の(人の才能を見ぬくことに)優秀な人達に見出され、多くの機会を与えてもらってます。だけど、その過程をみていくと、画才などけっこう後になってからわかってるわけで、最初の頃はそんな部分もなかった。なんか変わってるけど、面白いなーくらいの感じだったのでしょう。いや、何かやらせても全然うまいことできないから、ブチ切れられても不思議ではないし、実際高校まではいじめられっ子だったし、成績悪過ぎで就職もできなかった(だから最後に吉本にいった)。その後明石家さんまの驚異的ともいうべき辛抱強さで育てられていくわけですが、なんでそんなに周囲にかまってもらえるのか?です。

 まあ現場見てないのでなんとも言えないし、僕もチラとTVで見た程度なので印象でしかないのだけど、才能や芸の有無以前に、あの人「まっすぐ」ですよね。人がある程度はもっている、いやらしい小賢しさが少ない。計算とか嘘を感じない。よく「天然」だとか言われるけど、天然の人って(程度にもよるが)、だいたい周囲の人に好意的に接してもらえる。なんでか?です。逆にいえば「天然」を例外視するのは、マジョリティは天然ではない、非天然=人為的=アーティフィシャルな作為があるってことでしょう?言ってみれば「虚偽」があるのですよね。どっかしら自分の人格やら存在やらをお化粧して嘘を付いている。でも天然は嘘ついてない。付いたとしても、思考回路が違うから周囲のモロバレで嘘として成立してない。

 人が見栄とか恐怖とか利害打算で自分を偽るのは普通のことで、別に目くじらたてるほどのこともないのだけど、それだけにそういうことにちょっと食傷気味というか、うんざりしてる部分はあると思います。そこを天然の直球を投げられると、虚飾慣れしている僕らはちょっとたじろいでしまう。少なくとも目立つ。そして嘘がないことは基本いいことですから、自分には出来ないことをやってる人ということで、ほんのちょっとだけど尊敬すらしてしまう。でも、多くの場合、そういう人は日常事務をやるにはなかなかに無能だから、「あー、困ったなあ」という感じで、上から目線で見がちなんだけど、でも「でも、えらいよな、こいつ」という気分もあるから悪感情は持たない。多分そんなあたりじゃないかと。

 なお本職の天然君はいくらでもいます。例えば動物。例えば子供です。子供も物心ついてからだんだん虚飾にまみれていやらしくなってくるから、まだ「かわいい盛り」くらいまでね。動物も子供も嘘はつかない。嘘をつく能力がないと言い換えてもいいけど、全部が直球。そういう存在を、なぜだか知らないけど、僕らはついつい尊く思ってしまう感情があるようです。それは自然の本能なのかもしれないし、DNAのどこに埋蔵されているのか分からんけど、よりピュアに自然に近い存在に対しては魅力を感じてしまう。多分そうしていた方が、より本質的に気持ちよく、そしてより本質的に安全だという本能があるんだと思うのだけど、ともあれ、なんかしら惹きつけられる。ちなみに生き物ではない天然、すなわち自然そのものですけど、大地震とか大津波とか火山とかになってくると、人はもうひれ伏すしかなくなる。自然に勝てるわけがない。だから自然には敵対するのではなく、お近づきになって寄り添っていた方がより生存確率は高まるし、安全でもある。

 僕がここでいっている「可愛げ」というのは、このよりナチュラルでピュアな成分のことです。
 あなたが職場を部下や後輩を持ったとき、どういう人に好感をもつかというと、素直で一生懸命な人でしょう。ひねくれている人よりは、自然成分が多い人に好感を抱くでしょう。あれこれ教えてあげたくなるし、いろいろと便宜をはかってあげたくもなる。

具体的な処方箋

 かといって、今日からみんなで天然になろうとか、力まかせの無茶を言うつもりはありませんよ。そんなの無理だし。

 天然は、人為的なあれこれの駆け引きにもろいから、思いっきり騙されたり、いじめられたりもするでしょう。それでもめげないのが天然の天然たるゆえんであって、それはもう生来的なものです。多くはそれで懲りて、なにかを学んで、ウソを付くことを覚えて、それが大人になることだったり、社会にでていくことだったり、クラスルームに馴染むことだったりします。まあ、それをするなとは言えないし、無理だし。

 ただ、自分がもってる天然の部分を殺し過ぎるな、というのは言えると思うし、可能だと思いますよ。

 そして気づいて欲しいのですが、この結論は出発点でもあります。スタートラインがすなわちゴールでもある。もともと何の話をしてたかといえば、不愉快すぎる日常を送りすぎると心が麻痺してきて、それが感性を鈍らせて、半分ココロ的にはゾンビ状態になって、周囲も見えなくなり、成功機会をミスるよという話でした。出発点は自分の感性が摩耗することです。それはイコール、天然部分を殺しすぎてしまったということであるでしょ。

 同じことを言ってるわけです。前段部分は、周囲に合わせるために自分の天然を殺して、感性を摩耗していったあとの「末路」を延々と書いてるだけです。こーなればあーなるという地獄の因果関係です。何がいけないの?といえば、最初に感性をすりつぶし過ぎた部分にある。行き着くところは、他者の助力を得られない、マジョリティから「ほのかな好感」すら得られなくなるから、大きなチャンスもつかめないし、何をするにも空気抵抗を受けてトホホになると。だから、ある程度の好意は受けやすくしておいた方がいいよと。

 じゃあ、どうしたらいいのかといえば、だから可愛げであり、可愛げというのは天然成分であって、要は自分を殺し過ぎてるからいけないんでしょって話になる。つながるでしょう?同じことです。だってそこが問題の出発点なんだから、そこをなんとかしない以上、どうにもならないという話です。

補論

 長くなったけど、もうちょい補論でいうと、天然成分の特性から推論すると、「いい人選別機能」という副次的な特典がある点です。

 さっきのニッパチでいうと、1割は自分にビッグチャンスをくれるコアな層であり、8割は自分の日常を生きやすくしてくれる空気抵抗層です。そして、あなたの天然部分を認めてくれる1割というのは、一般に優秀で力を持ってる人が多くなるはずです。なぜかといえば、天然部分ってのはちょっとドン臭いから、ある程度のゆとりのある人、長い目で物事を見れる人でないと評価しにくいからです。そういう人は多くの場合、優秀で有能(だからこそゆとりもある)。自分のことで切羽詰まってる小物にはわからん。いわゆるいじめっ子というのは、基本無能な人が多いから、こいつらに好かれなくてもいいし、好かれても面倒なだけです。だから、天然というのは、ある種の「大物食い」でもある。小物には嫌われるが、大物には好かれるという面白い特性がある。ここに選別機能が働く。

 では8割はどうかといえば、彼らの場合は日常のささやかな幸福シェアが出来るかどうかです。幸福をシェアしたいと思う人は、ある程度は自分でも幸福な人です。でなきゃシェアなんか出来ないし。で!天然の可愛げというのは、自然成分が高いから、シェアがやりやすいのですね。なんで天然成分が高いと幸福シェアがやりやすいか?って、これはなんとなく分かるでしょう?説明要る?いらんでしょ。

 あのー、考えてみてほしいのですが、なんで人はペットを飼うのか?です。特に実用性がなくても飼う。多分、自然を自分の身近においておいて、ともすれば滅んでしまいがちの自分の天然成分を維持したいという本能的なものじゃないかな。動物相手に嘘は通用せんからね。また、大金持ちになればなるほど、自宅を都心からちょっと離れた自然の豊かな風光明媚なところにするのは何故か?ヨーロッパの貴族なんか凄いところに住んでるしね。交通の便よりも自然の多さを重視するのはなぜかです。金持ちではない僕らでも、100%アーティフィシャルなカプセルホテルみたいな居場所よりも、どっかしら自然っぽいのがあった方がいいと思う。小さくてもいいから庭が欲しいとかさ、近くに公園があるとうれしいとかさ。大体、なんで大都会に公園とかあんの?NYのセントラルパークとかさ、無駄じゃん。造成してビル建てたらいいのに、頑強に死守!ってしてるのはなぜか?です。大都会になんで街路樹とかあんの?オフィスに観葉植物とかあんの?無駄といえばこれくらい無駄なものは無いはずなんだけど、でもある。あることに誰も疑いをいれないで支持されている。ということは無駄ではないんだわね。それどころかすごく有用なのでしょう。

 ということで、自分の中にある天然や自然を、周囲のウザさや不愉快さに負けて殺してしまうことなかれ、です。殺してしまったら、死んだ魚の眼になって、あとは崖を転落するような因果の連鎖が待ってますよという話でした。今回は以上。



 









 文責:田村




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