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今週の一枚(2016/02/29)



Essay 763:オフ考〜巨神像の集い

 写真は、小田原と真鶴の間くらいの海。JR車窓から撮りました。綺麗ですよねー。

 素朴に思うのだが、なんで風光明媚で気持ちのいい場所の人口が少なくて、気持ち悪い場所の人口が多いの?と。普通、逆でしょ?花見の場所取りでもなんでも。
 まあ人口が多すぎるから気持ち悪くなるという関係はあるにしても、だったらそれなりに調整するでしょ。花見の場所でもなんでも。
 それをしていない理由は百個くらいあるんだけど、どんな理由をもってきても、この根本的な疑問をクリアできるとは思えない。なんか途方もない大間違いをぶっこいてない?もしかして人類って馬鹿なの?とか思っちゃいましたねー。「頭のいい馬鹿は、頭の悪い馬鹿よりも、もっと馬鹿だ」という言葉があるけど、それ。

 だってさー、景色なんか基本タダですよ、無料。これも「資源」よ。これだけ優秀な資源がありながら、観光とか言う前に自分らが愉しめばいいじゃんよ。そんなに上手く行かないのは百も承知だけど、だから、そこをなんとかするのが文明であり、テクノロジーであり、人類の叡智じゃないのかよって、この海を見ながら(ほんの数秒だけだけど)、ちらと思いました。

一時帰国とオフ会


 ということで、先週バタバタと帰国して、毎日走り回って(飲み歩いて)います。

 ワタクシにとってこれは「仕事」なのでしょうか、「遊び」なのでしょうか。

 「仕事」の定義を、「心ならずもイヤなことを我慢して遂行する一連の行為(我慢する理由は通例生計維持のため)」であるとするなら、仕事じゃないですよね。そういう意味では、オーストラリア行ってから22年ほとんど仕事してないかも。無職歴22年、すげえ。

 でも、仕事の定義を、「最低一人(自分も含む)において意味や価値があると思われる生産的な行為」とすれば、もう24時間仕事人間です。ワーカホリックの極致です。

 どっちなんでしょうねー?つか、こんだけ南極・北極みたいに意味が分かれる概念自体に、意味あんのか?って気もしますねー。

 ということで仕事なんだか遊びなんだか、先週は品川で朝の7時から喫茶店で、70年代の不良高校生のように何時間もタムロしてくっちゃべり、夜は夜で真鶴半島の感じのいい民宿で、アジやらカニの刺し身と、お酒は全品持ち込みといいう楽しい時間を過ごさせていただきました。


 もともとANAオーストラリア線就航記念=オーストラリア日本往復800ドルという値段一発で決めて、予定も「そこしか空いてなかったから」というあなた任せの日程で決めたのが発端。いつもの関空と違って羽田だから、関東の連中にも会えるぞ、どうせ会うならゆっくり日本の温泉でも堪能したいな(←もうこのあたりで「仕事」ぽくなくなっている)、お値段リーズナブルな民宿かどっかでのんびり語るのもいいよねという、「いいよね」という思い込み一発で旗を振り始めてここまできました。参加者20名弱。

 雲をつかむような漠然とした話から始まって、よくぞって感じだけど、これも頑張ってくれた柴山大学生幹事のおかげ、そしてこれ以上望めないくらい大人の対応をしていただいた皆さんのおかげです。ここに公式にお礼を申し上げます。ってここ(エッセイ)が「公式」なのか?

最大公約数は

 集まるメンツはバラッバラで、すでにオーストラリアを体験した卒業生の同窓的な側面もあれば、これからワーホリ留学する人もいる。ここまでは予定の範囲なんだけど、それ以上に、一家で移住を考えているとか、ただのエッセイのファンであるとか、子供を留学させたいとか、すでに留学させているとか、なんとなく漠然と面白そうだからとか。最大公約数あるのか、因数分解してカッコで括り出せるのかというと、かなり微妙。まあ、「オーストラリアとかAPLACとかになんとなくひっかかってる人」ってくらいです。

 前回の伊勢サミットの時に共通属性を幾つかの要素に分解したけど、前回は全員卒業生で、それから先を考えるという共通項がまだあった。今回はそれすらなくなってるので、共通属性はさらにシンプルに、原理的なことになっていくと思います。

 それはなあに?と考えると、うーん、たぶんね、

(1)自分の人生はまだ素晴らしくなりうる=伸びしろがあるという漠然とした確信がある

(2)その追求は自分の力でやるもんだって自然に思っている。他人をアテにしてないし、むしろ他人に介入されたくない


 の二点に集約されると思います。

 これでもう私の人生は終わりよ、あとは長い下り坂をとぼとぼと降りていくだけなのよとは思ってない人。そして、良くなるにしても、誰かにやってもらったり、棚ボタを期待したりじゃなくて、自分で考えて自分で動いてやっていきたいと思ってる。

 こんなの人間だったら誰でもそうじゃんって思いそうだけど、意外とそうでもないのねー。
 良くなるだろうとは思っても、良くなったらいいなー程度の熱量だったり、良くなる手順にしても「宝くじがあたったら」くらいのあなた任せだったりする人も多いのかもしれないです。

ただの触媒

 APLACといいオーストラリアというのは「触媒」に過ぎないと思います。そういう気分に気づかせてくれる、そういう気持ちを励起させるという、何らかの化学反応を促すきっかけみたいな存在です。
 そしてまたフィルターの機能も果たします。結果的に気持ちのいい人だけが集まるという。本当かよ?って思うかしらんけど、本当です。少なくとも僕や、集まってくる人からみたら気持ちよく思える人達。

 これは理屈から演繹してそういう話になったのではなく、過去の経験(十数年×1000人前後)によって、「AになるときはBになるようだ」という経験則でそう思うようになった、つまり演繹ではなく帰納であると。実際、一括パックでも同じ週になった人、週が違う人が重なることはママあるんだけど、90%以上はすんなり溶け込めてるように思います。もちろん100%ではないですよ。また、すんなりと言っても、会えば全員無二の親友になるとか、そんな凄いことは言ってないですよ。ただ、あんまり構えずにナチュラルにつきあえるという。

 それに卒業生同志っていっても、週が違えば他人同然、学校が違えばまるで初対面だし、今回のように14年前に来た人から年次も学校もバラバラだから、もともと知り合いなんて少ないです。同期でしたなんてのはかなり稀です。だから同窓っつっても基本は全然他人ですよね。でも、なんか馴染めてしまうという。

 そして、今回のように、オーストラリア行ったこともない人、別に行きたくもないけどエッセイだけ読んでるという人、将来的に起業をとか、そのくらいの感じでも素直になれるってのはなんだろう?と。めちゃくちゃ意気投合するとか、熱い情熱を共有してとか、そんなんじゃなくて、ただ普通にしてて楽に喋れるって感じなのはなぜか?です。

 そうなるとこの二つの特徴になっていくのかなーと思うわけです。

過去は共有できないけど、未来は共有できる

 なぜなら、1の特性(自分の伸びしろ)を持ってる人は、未来しか見てないですから。過去ももちろん振り返るけど、振り返ってばっかではない。だから同窓生といっても、あのときはこうだった、ああだったって話は、聞いててびっくりするくらい少ないです。戦友会みたいな感じにならない。それよりもこれからどうするの、こんな感じでやりたいんだけどって前向きな話がほとんどでしょう。

 それが何か?といえば、過去は共有できないけど、未来は共有しうる、という点です。同じ未来をシェアすることはないにせよ、同じ課題は共有できる。中学三年、あるいは高校三年生同士みたいなもので、志望校も違えば進学や就職など進路は違うかもしれない。でも、選択の日は近づいているし、どうしたらいいのか悩んでるし、自分なりに決めているという状況は共有できる。課題や状況を共有できるということは、話題や視点も、ひいては発想や話題もシェア出来る。

 例えば、普通にいけば進学で、偏差値通りの学校を受験すればいいんだろうけど、そんなんでいいの?という根本的な疑問がある、とりあえずやりゃあいいんだって言ってもその質量が大変過ぎる、もっと具体的なモチベーションがないとやれないよとか、納得できねえとか、いや俺はそこはもう割り切ることにしたよとか、そういう話は出来る。立場が同じだから、視線が同じだからです。でも、親とか教師とかとはシェアしにくい。それがお前のためなんだとか、社会に出たら嫌でも思い知るようになるとか幾ら言われても、まあ理屈はわかるにせよ、この靴の中に小石が入ったような不快感は共有できない。

自分でやるから悩みも共通

 第二に、その解決手段です。結局自分がやらなきゃどうしようもないんだよって部分が共有されているかどうか。ここで、出来るだけ自分の負担を減らしたいとか、楽さえできたらそれでいいとか、なんでこんなに理不尽なんだよとか愚痴や不満を述べてるだけの人とは話が合わない。いかに玉の輿に乗るかとか、どこかに夢のようなうまい話はないかとか、もう何をやっても手遅れでどうしようもないんだとか、誰かに指示されないと動けないとか、どっかの誰かのいうことにだけ従ってればいいんだとか、そういう話ばっかされても困ってしまう。

 結局は自分次第だろ、自分がなんとかしなきゃ1ミリも動かないんだよってことがわかってる人とは共有できる。それが上手くいってるか、いってないかという進展の差異はあろうとも、人一人の力量や裁量の幅なんか知れているから、結局はどっかで壁にぶつかる。その壁の種類は多様で、そもそもどっちの方角にいけばいいのかわからないとか、やること多すぎてめげそうとか、仮に上手くいってたとしてもこんなラッキーいつまでも続くわけ無いから、いずれはまた壁にぶつかるとか、そのあたりの悩みは共通です。だから話が合いやすい。

 つまり視野(何を=未来を)と方法論(どのように=自分が)の共通性がある。このベースが共有できたら人は素直になれる。素の自分を出しやすい。

 もっと言えば、それしか共通性がない、という部分もあるでしょう。それ以外に共通項目はないし、あったところで純粋に偶然である(たまたま出身地が同じとか)。

視野がズレたら波長が合わない

 このことを裏から検証してみましょうか。つまり、どうなったら人は波長が合わなくなったり、素の自分を隠して構えるようになるか?です。

 まず1視野(何を)がズレたらどうなるか。視野(=一番の興味関心事)が「自分の伸びしろ・未来」ではない人とは何故話が合わないのかです。そんな人いるんか?自分が最大の興味の対象ではないって人が実在するのか?といえば、先ほど書いたように、結構いると思いますよ。心底興味がないわけではないだろうけど、意識的・無意識的にか興味ランキングのトップにくるのを避けているとかいうのはあるでしょう。考えてもどうにもならないとか、考えるほど鬱になりそうとか。あるいは自分と周囲のシステム(社会・会社・国家・みんな)が不可分に融合しちゃって、日本の将来=自分の将来になっちゃってる人とか。

 自分の将来なんて「辛気臭い」話をしてたって気が滅入るから、出来るだけ顔をそむけるようにして(そうは自覚してないだろうが)別のテーマを熱く語るだけとか。趣味の話とか、業界の話とか、子育ての話とか。いや、そういう話をしたらあかんってことではないですよ。全然アリですよ。また自分の将来が興味関心のトップにくるといって、実際にはそればっか喋ってるわけではないですよ。「宇宙船自分号」のコクピットに座って、ちゃんと操縦桿を握りながら、計器や航路をチェックしながら、「ほんでさー」と雑談に打ち興じるのは楽しいです。でも、コクピットに座ってない、操縦桿握ってない、握りたくない、コクピットの存在を忘れようとしている人が、忘れるために何かを熱く語られても心は萌えない。

テーマのすり替え

 もっとディープな話をしましょうか。テーマのすり替えってのもあると思います。一見自分の将来を語っているようで、そうではない。自分の未来を何かにすり替えている。

 例えば、社内でいかに出世するかとか、いかに大金をつかむかとか、いかに子育てに腐心するかとか。それって100%自分のことっぽく見えながら、本質は違うでしょう。出世して社長になって、それが貴方の人生にとってどういう意味があるの?それで何をしたいの?ってところまで考えているなら話は合います。自分がどれほどのものか試してみたい、どこまでハイスコアが伸びるか挑戦したい、そこで燃えてる感じが気持ち良いとか、話合いますよ。でも、そこが自分に結びついてなくて、やれ今度の人事異動では同期の誰それが札幌支店長になってとか、そればっかで、フィールドが閉じてて、自分につながってない人とは話が合わない。お金もそう。金貯めてどうしたいの?でしょう。大金掴んで広大な敷地の家を買って、桜千本植えて盛大な花見をしてみたいんだよーっていうなら盛り上がれる。でも金だけでフィールドが閉じてたら面白くない。子育てなんかものすごく微妙なんだけど、そういう子育てをしている自分はどうなの?という部分がテーマになるなら面白いんだけど、子育て論でフィールドが閉じているとちょっと違う。政治経済や天下国家についても同じです。

 ここが分離できる人、あくまで自分は自分であり、どんなに自分の周囲にいろいろな環境要素があろうと、それがどんなに満員電車のように密着していようとも、融合するってことはありえないって人。ここまでくると希少種でしょう。

朱に交われど赤くならない人

 それだけ我が強いです。朱に交われば赤くなるといいますが、赤くならない人、赤くなりかかっているかもしれないけど染まりきってない人、染まってることを不本意に思う人。例えば、エリート街道に乗ってたとしても、それは特急列車を使ったほうが便利だから乗ってるだけで、それが自分のアイデンティティにならない人。

 でも染まっちゃう人も多いし、染まってることが自慢アイデンティティになる人も多いです。それって自分は特急族なんだってある意味滑稽な意識だと僕は思うんだけど、世間には多い。てかそれが人間の可愛くも無邪気なところだとも思う。子供が背中に風呂敷マントを背負ってスーパーマンだ!とやってるのと変わらんのだよね。可愛いよね、無邪気だよね。マントの種類は多種多彩で、たとえば出身大学が○○だからどうとか、車のナンバーが品川だからどうとか、住んでるのが○○区だからどうとか、特急列車に乗ってる(マントをしている)俺というアイデンティティで燃え尽きている。特急列車の有利性をいかに活用して、そして何をしたいのかがまるっぽ抜けている。年収数億のハードエリートをやってる欧米の連中とかは、「手っ取り早く稼ぐため」にやってるだけって感じがしますよ。とっとと金貯めてリタイアして、ヨットで世界一周するんだとか、牧場買って経営するんだとかその次がある。手段としてのエリートをやってるだけという。その意味では風俗の方が稼げるからって女の子と同じなんですよね。自分のお店を持ちたいけど、OLやっててもラチが開かないからって。そこらへんパキン!と音がするくらい割り切れている。

ぬっと突っ立ってる巨神像

 そこが染まらない人というのが希少種だってのが、多少はおわかりになられたでしょうか。これって、いかに謙虚で腰が低く見えようとも、実は、尊大なまでに傲慢な自我があるよね(笑)。薄暗い意識と無意識の境目のような空間に、巨神像のようにぬっと立ってる自我があるよね。だって、他人や世間に媚びる気はねえ!ってことだもん。そりゃ、戦略戦術では媚びますよ。媚びたほうが万事有利にいくなら、靴でも平気で舐めるよ、褒められりゃ多少は嬉しいかもしれないよ、でもそこで終わってない。巨神像はゆらぎもしない。

 ということで、そこがズレていると話が合いにくいというのもわかる思います。

 あ、朝刊がきた(まだ新聞とってるのかよ、ウチは)、時間がなくなってきた、もう夜明けだ、とっとと〆よう。昨日もカウンセリングというか飲んで来たので、エッセイ書く時間がないのよね。半徹夜じゃ。ああ、もう間に合わないっ(笑)。

なぜ人は身構えるのか?

 もう一点は(でも書く)、それ(自分を&自分が)しか共通性がなく、他の点はモノの見事に何もないって点です。これはレアですよー。だって普通はその逆が圧倒的に多いもん。たまたま同じ会社でした、クラスが同じでした、同期でしたとかさ、そういう共通性は山程あるんだけど、巨神像的な共通性はまるでないか、未知数であると。

 今の日本で巨神像が何か(夢や人生を)語ったり、のっしのっしと歩き出したら周囲には引かれますからねー。ハブられリスキーですからねー。迂闊なことは言えません。だから「構える」。どっから攻撃されても大丈夫のように、前羽の構え、横半身の構えで迎え撃たねばならない。さりげにジャブをはなって距離を正確に測らねばならないし、その反応をみて次の手(話題や相槌の打ち方)を考えなければならない。

 だー、面倒くせえ!って僕なんかは思っちゃうタチです。子供の頃から、「なんでそんなこと」って思ってた。なんで足が痛いのに正座してなきゃいけないの?みたいなことを物心ついた頃から思ってたし、今も思ってる。早く大人になって「権力」握って、文句言われないようにして足崩したいよ、あぐらかきたいよ、出来りゃ寝そべってたいよと。だからもう巨神像「だけ」みたいな感じでこのHPもAPLACもやってるわけですけど、その巨神像に触発されたり、励起されたりして、各地から巨神像達がのっしのっしと歩いてくるのが「オフ」だと思います。

 「オーストラリア」というキーワードも同じであり、あそこも巨神像の国ですからねー(笑)。どんな夢物語を語っても、真面目に聞いてくれるし、すげえじゃん、頑張れよって言われるし。他の国の巨神像達のカッ飛び具合が笑っちゃうくらい凄まじくて気持ちいい。例えば、何かのコースを受講し始めてしばらくたったら、もう自分の教室の不動産物件を物色しはじめるとか。お茶はお花や英会話教室に通い始めて2−3ヶ月したら、もう自分の教室物件を探して、下見にいって、不動産屋と話をしているってくらいのカッ飛び方だから、笑えます。でもって、悩みも似てるんですよ。あれがやりたいけど、金がねえ!とか、行政がうるさくて免許取れないとか、不動産高すぎるぞ馬鹿野郎とか、英語わかんねーぞとか。でも、ま、やりたいことがあって、そこに向かって進んでいるんだから、人生100%OKじゃん!何が不満なのよ、他に何があるのよ?「やりたいことをやる」以上の行動原理がこの世にあるのかい?と。だから、僕は居心地がいいわけだし、こっちに来る日本人の中には、特にウチに来る人は気持よく感じる度合が高い。

で、どうなるのか?→子供になる 

 そのあたりが構えずに、素の巨神像でいれると人々はどうなるか?といえば、子供みたいになります。小学校の時の仲間みたいになる。あらゆる社会階層、バックグランドは、すべてエピソードになってしまって文字通り背景に引き下がり、素の自分で話が出来る。こんなにあれこれ気を使わないのって、もしかしたら小学生低学年以来かもって感じになる。

 これは30年前にパソコン通信で異業種交流やってるときもそうでしたね。あのときも、インターネットが日本の上陸するずっと前だったから、最先端すぎて、誰も知らない。そんなところにやってくる連中というのは、鵜の目鷹の目で何か面白いものはないかって探してる連中であり、そこまでして探したくなるモチベーションがあった。その内容は同じで、自分の人生もっと開けるんじゃないか、おいおいまさかこれで終わりじゃないだろうな?冗談じゃねえよ!って気分が飢えた虎のようにあった。僕だって、弁護士なりたて1年目にして「え、これで終わり?冗談じゃねえよ」と心底思ったもん。いやもっとイケるっしょー、それが何かはわからないけど、なんかもっと広大な、ぶわーっとしたのがあるでしょー、いや絶対あるよ、俺の鬼太郎の妖気髪の毛アンテナはそう言っているぞって強烈な思いがあったからですね。で、来るような連中は似たり寄ったり、だから子供のように遊べた。何をやっても楽しかった。

 てかね、人はもともと仲良くなれるDNAを持ってるんでしょ。もってないのは自然淘汰されてってるはずだから、誰でも素に仲良くなれる素質はある。それが活性化している人と、してない人、あるいは活性化されやすい場とされにくい場があるだけだと思います。

 ということで、先週の木曜日に帰ってきて、木金土日とオフ4連チャンですが、まだまだあります。桃源郷みたいな(笑)。その昔は17連チャンでやったことあるんで(しかも本業激務なのに)、まだ余裕です。

 でもねー、品川も真鶴も楽しかったですよー。皆でいそいそと動いて、ごはんよそって廻して、修学旅行のようにオイルサーデン寝をして。完全自由な連帯感みたいな。誰ひとり、何も拘束しないし、されないし、式次第やマニュアルがあるわけではないけど、いざやるとなったら一糸乱れず整然と動くという。

 ということでまだあと一週間日本に居ます。


不良高校生な人々


一糸乱れぬ人々


オイルサーデンな人々



最後に集合写真をとる人々




文責:田村



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