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今週の一枚(2016/01/18)



Essay 757:「プライド」なんかもう要らないし

要は好きか・嫌いかでしょ?

 写真は、ボローニャ・パーク(Bornia Park)。この、おむすび山!みたいなのが視界にばーんと写って、おおって思って撮ったんだけど。あんまり感じ出てないなー。大した丘ではないのだけど、えらく急峻で、足がすべったらそのまま落ちていきそうな。このあたりでもう息が切れます。

プライドって何?

 「プライド」というコトバは多義的であり、よくも悪くも使われます。見栄や虚栄心を単に言い換えているだけの「似非プライド」もたくさんあるし、逆にそれは心の支えや成長モチベーションにもなる「誇り」「自尊心」もあります。

 ただあまりにもプラス・マイナス混合して使われていて、コトバとしての機能を半ば失っていることや、「悪用」の問題、さらに弊害も多々あるなーと思うようになってきました。

 そういうこともあって、自分のなかでは「プライド」って言葉も、またそれに類する概念も、あんまり使わないようにしてきました。他者と話の文脈を合わせるために使わざるを得ない場合もあるから100%は無理だけど、自分から進んで使わないようにと。まあ、そう明確に思ったわけではないのですが、どことなく抵抗がありました。なんだかね〜?って。

 実際「プライド」という言葉を他の言葉に置き換えたほうが話がくっきり見えやすくなるケースが多いです。「○○さんはプライドがお高いから」って皮肉めかしていう言い方がありますが、そんなの「虚栄心が強い」「ええカッコしい」って言い換えたほうがわかりやすいでしょ?面と向かってそう言うのはカドが立ちますが、別にカドなんか立ってもいいじゃん、それでゼッコー(絶交、懐かしいな〜この言葉)になったとしても、そんなもんが惜しいか?という気もしますね。惜しいとすれば、商談が壊れるとか、ボッチになっちゃうとか商業・社会戦略上のロスなだけで、そんなもんは最初から本当の「人間関係」とは呼ばない、つか単なる「利害関係」でしょ?と。

 そんなことを思いつつ、最近ではさらに進んで、プライドとかさー、誇りとかさー、結局ただの「好き嫌い」じゃんって思うようになってます。もう「好き嫌い」の一本に統一しちゃった方がスッキリするな、話は見えやすくなるなと。つまり「プライド」とか自尊心とか誇り高きとか、そんなもん要らんわ、自分の人生には必要ないから断捨離しちゃいましたって気分にまでなってます。このあたりかなりユニークだと思うので、ちょい書きます。

プライドの弊害

誤魔化しと言い訳

 「プライド」という言葉の使用例のかなりの部分は、ただの虚栄心だと思います。「このワタシが、今更○○なんか出来るか、プライドが許さない」とか言いますが、要するに「カッコ悪いのはイヤだ」と言ってるだけでしょう。他人に馬鹿にされるのが恐いと。だったらそう言えばいいのに、そこをプライドなんて言葉使って誤魔化そうとするのが、一番カッコ悪いじゃん。そんなの見えてる人には見えてるし。そして「見えている人」というのは、まあ周囲にいる「ほとんど全員」だと思うから、誤魔化してるようでいて全然誤魔化しになっていない。その意味では対世間戦略上も愚策でしょうね。

 じゃあ誰を誤魔化してるの?というと自分でしょう。単にカッコ悪いのイヤだよ〜、逃げたいよ〜と泣きが入っているんだけど、そんなことでいちいち泣いている俺という自我像に直面したくないから、プライドとかいって自分を誤魔化してるわけでしょ。

別に悪いわけじゃないよ

 ここで誤解してほしくないのは、僕はカッコつけたい心情や、誤魔化したい心情について非難してるわけではないのですよ。「あー、わかるわー」とかなりシンパシーを感じてます。僕だってそうだもんなーと。カッコは、常につけたいよね(笑)。だから、その種のイジコい心情は、抱きしめてやりたいくらいにわかります。

 人間だって生物だから当然ながら本能的で原始的な欲求はあります。食べたい、寝たい、セックスしたい。性欲だって、食欲とならんで立派な本能ですから、自然的な意味では正義も正義、種族維持という錦の御旗を掲げる大正義でしょう。しかし、その欲求が原始的であればあるほど、卑俗で下品なものだと思われがちです。食欲が旺盛だと「意地汚い」と言われ、睡眠欲が旺盛だと「寝穢い(いぎたない、と読む)」と呼ばれ、性欲に至っては「野卑」だの「劣情」だのスケベだの、まあ可哀想なくらい無茶苦茶に言われます。しかし、下品だろうがなんだろうがそういう欲望はある。そして、チヤホヤされたいとか、すげーっと言われたい願望というのも、それらに類する原始的なレベルで存在するでしょう。だから虚栄心があったところで、性欲と同じく下品ぽく受け取られはするだろうが、別に恥ずべきことではない。

 ただそれに振り回されたらアカンとも思います。まず、カッコつける以上は、それが野卑で下衆な根性から発しているんだってことだけはリビドーと同じく自分でわきまえておいた方がいいと。そーんな御大層で高尚なものではないぞよと、他人から一目置かれたいという願望は、魅力的な異性をみて「劣情を催す」程度のレベルの感情・欲求であって、それ以上でもそれ以下でもないよと。それを下種の欲望というか、自然の法則というかの表現は趣味によって様々だけど、実体はそんなもんだろと。


これは中腹くらいで撮ったもの。

過剰な意味付け

 にも関わらず、それ「過剰な意味付け」をするからは話はややこしくなる。

 よく中学生の悩み相談室かなんかに(今時こんなのがあるのかどうか知らんが)、中一男子あたりから、「僕は毎日オナニーをしてしまいます、僕はヘンなのでしょうか?罪悪感を感じてしまうんですが」という相談があって、「健康な男子だったら当たり前のことです、でもやり過ぎには注意しましょうね」的な回答があったりしますが、それと同じことだと。性欲を虚栄心に置き換えてみたらいい。「私はいつも他人の前でカッコつけてしまうのですが、これってヘンですか、人格的に腐っているのでしょうか?」「健康な○○〜(以下同文)」だと。

 そこを、オナニー中坊が「僕は生きてる価値が無いんだ」とか思い込むのが、「過剰な意味付け」だというのです。そんなに卑下するようなことではない。カッコつけたがりの助平根性があるからといって、人間的に堕落しまくってるわけでもない。誰ってそうだよと。マイナスに過剰な意味付けをする必要もないでしょう。

 と同時に、毎日オナニーしてるから僕は偉いんだ!って自慢になることはないように、カッコつけはしょせんカッコつけですから、別にエライことでもない。プラスに過剰に意味付けする必要もないでしょう。

 でも、「プライド」とか言っちゃうと、オナニーがあたかも立派なことであるかのように、詐欺的な概念すり替えが行われたりする。そうなると、過剰プラスの暴走がはじまる。正味のところは、カッコ悪いのイヤ、他人に馬鹿にされると傷ついちゃう弱っちーボクちゃんなのに、あたかも「この俺サマがこんなこと出来るか!」とか言い放って正当化し、その正当化に自分が騙されてしまう。そうなると風船のように天高くあがっていって、大ボケ天国にまっしぐらです。

自我錯誤

 大ボケ天国にいってしまうと、自我の扱いに苦しみます。一度でも嘘を付くと死ぬまで嘘をつきつづけないとならないの法則で、辻褄が合わなくなってくるから、自画像やアンデンティティが無茶苦茶になってきますよね。(本当はヘタレだからやりたくないだけなんだけど)「こんなことが出来るか!」と言ってしまう→「俺はエライんだ」という自己規定を自他共宣言してしまう→それに一番騙されるのは自分(世間は「はいはい」ってニコニコ聴いてるだけだよね)→「エラい俺」から出発するから、発想も行動もどんどん制約されてしまい、選択肢も乏しくなり、人生尻すぼみの奥の細道になったり、人間的チャームを失ってしまって得られるヘルプも得られなくなる。これって処世術としてみても、あらゆる意味で愚劣な戦略でしょう。

 のみならず自分自身がいちいち苦しみます。軽く誇大妄想狂になって、自分は大殿様みたいに思ってるから、他人の普通の言動がいちいちカンに触る。道端に突っ立って往来の邪魔をしてるのは自分でも、「ちょっとどいてください」「どけよ、邪魔だよ」って言われるだけで、「こ、こ、この俺に向かってなんたる、な〜んたる!」とムーミンのスノークのように(わからんよね)怒るわけです。普通の人に普通に振る舞われるだけで、中天高く舞い上がったエゴは傷つく。もともとの実像は、「ツライのイヤ」というヘタレでしかないのだから、客観的にみれば「ヘタレがそこにいる」だけの話であり、正しくヘタレ並の扱いしか受けないわけですわね。でも、それでいちいち傷ついたり怒ったりするのだから、もう身がもたないですよ。挙句、言った人を逆恨みして常軌を逸した報復をしようとする。

 「この俺を誰だと思ってるんだ?」みたいなセリフを吐いてしまったら自我ボケ病に感染してると思いますね。特殊な組織内や閉鎖社会だったらそれで通るけど、それで通用する時空間はリアルタイムの地球上で0.001%くらいのシェアしかないよ。一歩外出れば、「知らねーよ」「ただの汚ねージジーだろ?」と言われるのがオチでしょ。でも閉鎖空間にいるとそのパースペクティブがボケてくる。そんな紙切れみたいな権威、自分の家族にすら通用しないし、電車に乗っても誰にも注目されないんだからわかりそうなもんなんだけど、意外とわからない。

プライドとはコンプレックスや欲求不満の別形態

 僕自身、東大京大の首席クラスが普通にゴロゴロいるような極北の集落みたいなところでちんまり座ってたこともあるから、なんとなく分かるんだけど、子供の頃から勉強に関しては無敵って奴が多い。それは暴力団では、喧嘩で負けなしって連中が巣食うのと同じことで、プロ集団ってそういうもんです。でね、ガリ勉系には、根深いコンプレックスもあって、まずそんなにクラスの人気者にもなれないし、番長でもないし、異性にもモテなくてセックスも奥手、イケてないっちゃイケてないわけですよね。でも、そこで自我を成り立たせるために、「あいつら愚民と俺らは違うんだ」「エリートなんだ」って、コンプレックスを逆に差別化に利用して、そのギャップを自分に有利のようにするよね。自分が偉くて、廻りは馬鹿だと。自分が支配者であいつらは家畜だと。もうこの時点で超カッコ悪いですけど、自我ボケ病ってそういうことです。でもって、そのあたり微妙にコンプレックスが残っているのか、微妙にワルぶったり豪傑ぶったり、糸井重里の古典的名言「日本のお父さんは、昔みんなワルだった」というのがありますが、「俺は違うんだ」みたいな「語るに落ちる」みたいな痛いことをやってみたりするのでしょう。

 ちなみに突き抜けて極北村まできたら、逆にそういう傾向は薄くなります。実際周囲にそんな寒い人はいなかったしなー。皆尊敬できる人達で。たぶん、そうなるのはちょっと寒い1.5流とか、1.2流くらいの位置にいるときじゃないかな。だから人間的にどうのというよりも、自分の進行位置による部分が大きいのでしょう。ある程度峠を超えると薄らいでくるような気がする。

 なんでもそうだけど、やり始めの最初の1年くらいがツライですからね。僕自身、昨日まで自分自身がチャラチャラやってたくせに、ある日を境に図書館にこもってクソ勉強やり始めると、周囲の幸福そうなキャンパスが憎らしくて、ねたましくて、「けしからん!」「嘆かわしい!」とか投書欄のジジーみたいなこと思ってたもんなー。これ、誰でもそうなるよ。語学学校いって、周囲にちょっと遊んでる学生がいたら「不真面目な人がいて迷惑だ」とかブータレるんだけど、おいおい君の中高時代はどうだったのよ?と。自分がちょっとツライことやってる時は、周囲の楽してる奴を見ると滅茶苦茶腹が立つの法則ですね。誰が、というよりも、誰でもそうだと思う。不愉快なことをやってるときは、愉快な人が妬ましいだけ。

 でも何年も不愉快なままってことはなく、段々落ち着いてきます。自分が進んでいけばいくほど、そういうクソみたいな妬み(エリート意識)は薄らぎます。なぜって、やってりゃそのうち面白くなってきますから。僕の場合も不快なのは最初の数ヶ月くらいで、あとは仲間も出来るし、毎週土曜日の午後にある答練(模擬試験)に出陣しちゃ「死んでしまえ」的な点数食らって、玉砕し続け、同じく死人状態の仲間といっしょに晩飯食って「ちくしょー、相手にとって不足はないぜ」「おう、このくらいでないと本気だせねーよな」とか箸ぴゅんぴゅん振り回してカラ元気で強がりいって、ユニゾンで「は〜」とため息ついて、きゃははと笑って、楽しかったよなあ。そうなると不思議なもので周囲も妬ましくなくなるし、倒錯した差別意識もなくなる。要するに不愉快だから八つ当たりしているだけ、幼児がダダこねてるだけですから。

 さらに進んで峠を越えれば視界も広がり、世間もよく見えてきます。するとどんな試験に通ろうが何だろうが、大したこたあねーなってのがわかって、普通に真面目に生きてる人達の方がずっとモノを知ってたり、深いところまで考えてたり、及びもつかない技術を持ってたり、よっぽどの馬鹿じゃないかぎり、そんなもん分かりますよ。昔の多くの仲間達は、そういう健康なレスペクトは持ってたと思う。まあ受かるまでに10年とか辛酸なめ尽くしてくるから、大人にもなるよ。たまーに「愚民どもは〜」みたいな発想をする人がいて、はー、そうなんだーとか思いますけど、概ねそんな人は少ない。類友かもしれないけど、僕の周囲にはそういう人は少なかったですよ。

 でも、たまーに、そういうプライドをこじらせてしまう人がいるのでしょう。よっぽどセックスしたいのに出来なかったのか、友達できなかったのか、楽しい思いが少なかったんでしょうね。ルサンチマン溜まりまくりで、峠を超えているのに関わらずまだ病気が治ってなくて、ついには不治の病になってしまうという。てか、まだ上が沢山いるから常時コンプレックス抱えてるんですかね。中途半端なところにずっと放置プレイだから可哀想といえばそうなんだけど。

 それにありあまる才能に恵まれた人って、もうそれを吐き出したり、創作するのに大忙しで、人と比べてどうのとか思わんし、頭もある程度良くなると、もう考えたり、調べたり、新しいことを思いついたりするのが面白くって面白くって、それはもう子供が無心にボールと戯れているのと変わらんです。だから人格的には逆に素直というか、スレてない。大体楽しいことやってる人間って人格歪まないから、劣等感があったとても、単なる「劣等であるという客観認識」で留めて吐き出しちゃうから毒素がたまらない。いやーモテる人はいいなー、羨ましいな、僕もモテたいなーっ、ちくしょーがんばろっとみたいな処理をしちゃうんですよね。また、実際に天は二物も三物も与える的に、モテまくってた奴も多かったです。シドニーで会うような移民連中にはこのタイプが結構多く、突き抜けるように頭はいいんだけど、人柄的にはめちゃ明るいとか、正直だったりしますよ。

 「プライド」という概念は、コンプレックスの絆創膏みたいなファーストエイドとして重宝するんだけど、でもそれに頼ってると麻薬のようになってしまって、人格こじらせちゃって、お池にはまってさあ大変ってなります。そして、それを救うのは、ありがたくも高潔な倫理ではなく、単純な楽しさだと思います。要は不愉快だから病気になるのであって、愉快になってしまえば病気にかかりませんって、アホみたいな理屈だけど、でもほんとそうだと思います。

お子ちゃま自我〜プライドの他者依存

 自分がそこそこ偉い存在であること、自我の高みを支えているものが「自分以外のなにか」である人は、言っちゃ悪いですけど、まだお子様だな〜と思います。そんなの20代から30代にかけて油抜いてこいよって。

 若いころは未熟でひ弱だから、自分を守るためにあれこれ鎧や兜で武装します。それは分かる。いわく県大会で優勝したとか、レギュラーだったとか、バレンタインチョコを何個もらったとか、カラオケ大会で優勝しましたとか、さらに○○大学出身だとか、○○社の正社員だとか、部下が何人いるとか、紺綬褒章もらったとか、ノーベル賞取ったとか、「自分以外のなにか」で自己証明をしようとします。それは前に述べたように、可愛らしくも微笑ましい自慢でシンパシーも感じますし、別に悪感情も持ちません。でも、いつまでもそれ言ってるのもな〜って。面白い話のネタ、貴重な情報のシェアとして言うならいいけど。

 ○○資格とか、○○受賞とかいっても、自分以外のどっかの他人に評価されました、煎じ詰めれば「人に褒めてもらいました」ってことでしょ?褒められていい気になるのは人情として全然アリだけど、でもそれが自分のアイデンティティになってていいの?という気はします。そんなもんが「プライド」とやらの根拠になってる時点でも、もうダセーなっつか、結局自分が成り立つためには他人がいないとダメじゃん、まだ一人で立つこと出来ないんだ、オムツがとれてないのかなと。

 そりゃ就職の際のレジュメ(履歴書)にあれこれキャリアや特技資格を列挙するのはいいですよ。あれはそういう「商品カタログ」なんだから、めいっぱい消費者に訴求しなきゃいけない。「世界に先駆けて○○エンジン搭載!」とか嬉しそうに大々的に書くのがゲームのルールです。でも、それはそれだけの話。「自分はなんなの?」という根本的なものとはレベルが違うでしょう。

自立するにつれプライドは要らない

 でね、年食ってきたら、自分が自分であるためには、もう他人の助力なんか要らないでしょ?俺は俺だし、私は私、それだけ。だって、実際それだけなんだし、それがもっとも客観的事実に近いわけだし。

 自我や自意識って、物心つくかつかないかくらいの頃が一番ピュアだと思います。誰かと比べるわけでもないし、原っぱでせっせと一人で遊んでて、それで自然充足していたし。虫も、太陽も、みんな友達だった頃。自分が自分であるだけで100%リチャージできなきゃ本当は嘘じゃねーの?って意識はすごいあります。そこまでいってしまえば、他人と比べてどうとか、他人にどう言われたからどうとか、あんまり思わなくなるよ。そりゃ褒められれば嬉しいし、ケナされたらムカつくけど、表面上に波風立つだけで、地殻変動まで生じさせるわけではない。それだけの話。

 とまあ達観できればストレスもないんでしょうね。しかし、これって周囲の環境がすごく影響すると思います。そういう人達の中にいると楽なんですよね。だから海外ひとりぼっちって楽なんでしょう。でも、やたら背景事情や付帯情報で、クソ狭い世界でなんでもかんでも格付けしたがる人達の中におったら、アホらしくなるでしょう。気にしなきゃいいんだといっても、その「気にしない」ためには膨大なエネルギー要りますもんね。疲れちゃうよ。いわば藪蚊の集団に襲われながら寝ているようなもので、うざったいったらありゃしない。

 僕自身もともとB型で気にしないタチだから、日本に居るころもほどよく浮いてて、あんま比較のされようもなかったけど、そういうこと気にする人って僕から見ると「へー、こんなマンガみたいな人って本当に実在するんだ」って「珍獣」レベルで面白かったです。でも、話をしてて面白いか?って言われると、詰まんないしねー。確かに、尾崎豊の歌詞のように「自分がどれだけ強いか知りたかった」「友達にさえ強がってみせた」という時期はありますけど、それこそ歌詞のように高校生くらいまででいいんですよね。いいとこ社会に出て2−3年、そのくらいまで生きれば世の中もっともっと楽しいことがなんぼでもあるってのが分かりますから。趣味で夢中になるならともかく、一般的な勝った負けた、褒められたどうのって、そんなに思ってたほど楽しくも嬉しくもないもん。

 そういうのが好きな人は好きでやってればいいです。競馬の予想のように、○○が同期で出世頭だからって、雨で重馬場だから○○が抜けて出てくるとかいう競馬の予想を熱く語るのと同じく、趣味のありようは千差万別。そいつがそれで面白かったらそれで別にいい。でも、それが面白くないなら、そりゃあ居場所を間違ってると思います。居場所って結構大事で、人生のありようの七割方は決めちゃいませんか?野生動物には「テライン」という縄張りがあるらしく、あなたにはあなたの「テライン」があるのだ思います。水辺に棲んでないとダメとか、森の樹上にいると良いとか、断崖の中腹に巣を作るのが好きとか、やっぱあると思いますよね。


 これまでの話をまとめると、これってマラソンに似てると思います。脚が速くてキャーキャー言われてヒーローになりたいってところから始めるにせよ、やってるうちに毎日少しづつタイムがあがったり、ちょっと前までヒーハーいって死んでた坂を軽々と走れるようになってくると、面白くなってきます。そして大会になったらペースの組み立てとか緻密な頭脳処理が必要で、さらに難しく、さらに楽しくなります。その頃には、沿道でみんな旗振ってキャーキャー言ってくれてても、つまり初志からすれば「大願成就」になってるんだけど、もうそんなことはどうでも良くなってる。もっと面白いものをみつけてしまうんですよね。面白かったら、俺は脚が速いんだとかいうプライドも別に要らなくなる。意識すらしなくなるし、他人に言われても、いやあ道楽ですよって感じになる。

 ニセのプライド=虚栄心というのは、劣等感の裏返しであり、虚栄心が強い人ほど劣等感も強い。山高ければ谷深し。劣等意識が強いからこそ、強烈な虚栄を必要とするのでしょう。でも、そこが埋まっていったら、自然と劣等意識もフラットになり虚栄もなくなり、クソみたいなプライドは自然と昇華、成仏していく。なにかやりたいことをやって、それも持てる力を振り絞って一心不乱に夢中になっていたら、そこには強烈なエクスタシーが待っていて、それを堪能したら、もう他人にキャーキャー言われる必要なんかない。登山家も命がけで高峰を目指し、頂上で証拠写真とか取って記録するけど、しかし世界最後の人類になって自慢する相手がいなくなったとしても、それでも登ると思う。圧倒的快楽の前には、劣等も優越もクソもなく、虚栄も自己顕示も必要ない。てか、考えもしない。もしそれが必要なら、まだ圧倒的快楽までいってないのでしょう。

 なんというか出発点とゴールは同じところにあるような気もします。子供の頃、絵が好きで、あるいは音楽が好きで、暇さえあれば落書き描いて、歌うたってた子供が、やがてアーティストとなって売りだして、売れた、儲かった、売れなくなった、才能が〜、マネージメントが〜、移籍だ、とりあえずベスト盤出してしのいでとかストラッグルして、いよいよ完全に売れなくなって意気消沈して死んでしまうかというと、案外また一人でなんか描いたり歌ったりしてるんじゃないんですかね。要は好きだからやってるのであり、それだけだ、という。なーんだ、一番最初のときに、子供の頃の僕はもうゴールに立ってたんだねって。廻り道とはよく言ったもんさ、うふふって、何時間も何時間も、目キラキラさせて、歌い続け、描き続ける。しあわせってそういうことじゃないのかな。63歳の生涯で推定12万体の野原仏を彫ったとされる円空。現存するのはその10%にも満たずあとは野に埋もれ朽ちていったのでしょうが、そんなことはどうでもいいんでしょうね。函館の急峻な山道で寒風に吹かれながら、岐阜の山奥で春化粧に包まれながら、汗ばんだ背中を丸めてせっせと彫ってた円空さん、楽しかったんだろうな。なんか話を読んだだけで、彼の楽しさが時空を超えて伝わってくるような気がするよ。ふーうとノミを投げ出して、「ま、こんなもんか」と言ってる声が聞こえる。


これはまた隣くらいで、一見ゴルフ場みたいだけど、ただの公園、運動場です。

本物のプライドの源泉も結局は「好き嫌い」であること

踏んだり蹴ったりの本物プライド

 良い意味でのプライドもあります。「渇しても盗泉の水を飲まず」っていいますけど、どんなに困窮しても他人のものは盗まない、そのくらいだったら餓死したほうがマシだという矜持は、人として自分としての「プライド」と呼んで差し支え無いでしょう。ずっと前にも書いたけど、本物のプライドって持てば持つほど世俗的には損をするもんです。見苦しいことはしない、卑怯な振る舞いはやらないって自分を律していけば、貧乏くじもひくハメになるし、馬鹿正直に損をすることも多々あるでしょう。でも損してもいい、死んでもいい、でもそれだけは出来ない、そこまで落ちたくないよってのが、プライドのプライドたるゆえんでしょう。

 武士のプライド、男のプライド、女のプライド、人としてのプライド、、、それは一種の「規範」ですね。法律のようなルールであり戒律として機能します。それは、一般的に立派なことと賞賛されつつも、リアルには愚直な行為でもあるわけですから、褒められるとは限らない。むしろ「馬鹿だな」「カッコつけやがって」とディスられる場合の方が多いかもしれない。踏んだり蹴ったりですね(笑)。

 ところで、良いことをしている人への非難というのは、おおむね嫉妬ややっかみからくるものだと思います。つまり自分では到底そういう行為が出来ない倫理的(&現実的)な弱者の自己正当化。実際、そういうこという人って個人としてのパワー無いしね。それはもう弁護士になったとき思いました。剛腕で力量あふれる大先輩ほど素朴で青臭い正義感を振り回すので驚いたものです。若手で未熟なうちは「まあ、無理でしょ」「それが世間というものでしょ」と若年寄みたいなことを言うんだけど、怪物クラスに実力持ってると「じゃあ世間が間違っとる」「俺が直したる」「だって可哀想じゃん」とかいって本当に直しちゃったりするわけですよ。公害にせよ、サラ金問題にせよ、薬害エイズにせよ、冤罪にせよ、スーパー腕力と不屈の闘志で数十年がかりでやり遂げてしまう。至近距離数メートルで見てると「はー、そうやるんか」と思ったもんです。一つの喧嘩を30年間やり続けること=30年持続する精神パワーがまず必要、それが出来て一人前とか、大体のカンドコロがわかっていい勉強になりました。そういえば世界史を見ても、大物ほど言うことが子供みたいにシンプルで、小物ほど「現実はキビシイよ」といいますもんね。

 話が逸れましたが、自分の良心や美意識に忠実に動いているのに、全然報われず、それどころか馬鹿にされるという、まるでキリスト教の殉教者のような本物系のプライドがあります。「義を見てせざるは勇なきなり」「ここで立たなきゃ男がすたるよ」「士は己を知る者の為に死す」など、それはプライドであると同時に、強烈な行動規範や美学にもなる。プライド=倫理感といってもいい。職業においても、職業倫理がありますが、それが職業的プライドになっているように。

気持ちいいから

 それはわかるとして、ではなぜプライドやら規範なんてものがあるの?なんで倫理は倫理なの?なんで法は法なの?なんで守らなきゃならないの?なんで守りたいの?という法哲学のAでありZである議論があるんですけど、僕なりの答えは、「気持ちいいから」「好きだから」です。結局それしかないじゃんって。

 それが人の道として「正しい」からとかいうけど、じゃあなんでそれが正しいの?なぜ正しく感じるの?と突き詰めていけば、その方が心にしっくりくるから、収まりがいいから、自然な感じがするから、ほっとするから、、、、要するに気持ちいいんだろ?と。勧善懲悪が一番すっとするというか、ケッタくそ悪い憎々しげな野郎が勝ったままだと、どうにも救われない気分になるけど、最後に正義の味方がコテンパンにやっつけちゃうと嬉しい、ザマー見ろ、スカッとする、要するに「気持ちいい」んですよね。

 じゃあなんで正義的なものが気持ちいいのか、正義にも衡平的正義と均分的正義があるって話を昔書いたことあるけど、そこまで哲学的に言い出すともう迷宮になりますから、そこで止めておきます。ここでは、とりあえず「気持ちいい」と。気持ちの良さ、好き嫌いを素朴に追求していくと正義とか倫理とかプライドと呼ばれる結晶になっていくってことです。

 だったら!プライドとか倫理規範とか面倒臭いこと言ってないで、自分の中から自然に湧いてくる好き嫌いの感情に忠実でいればいいんじゃないの?それが原点なんだから。それは山奥の岩清水みたいに自然にちょろちょろ湧いてるだけだけど、一番ピュアだし、変な歪曲もないし、誤魔化しも出来ない。

偉業も楽しいからやってただけ

 同じように過去に何らかの偉業を達成しましたとか、こういう業績を積みましたとかいっても、それって結局は面白いからやってただけって場合が多いです。最初は強制でイヤイヤやってても、段々ノッてきて、最後にはムキになってという。そこでは偉いから、正しいから、自慢したいからやってるわけではない。もちろん他愛のない自慢(てか自慢なんか基本的に他愛ないものなんだけど)、「どうだあ!」って言う意識もあるだろうけど、その程度のものにすぎない。行き掛けの駄賃。

 子供がめいっぱい遊んできて、今日は何して遊んだの?今日はねー皆でかくれんぼやってたんだよ、僕ねーすごいいい場所発見してそこで隠れてたら誰も見つけられなくて(ここ自慢)、楽しかったよーってことです。ノーベル賞取っても同じことで、めちゃくちゃ面白いテーマがあって、これにハマっちゃって、ちくしょー上手くいかねーぞとかムキになってやってたら、忘れた頃にノーベル賞とか貰っちゃって有名になっちゃって(ここ自慢)、でも、面白かったなーあの頃は、実験結果がキター!!ってなったら、ラボの全員が白衣ひらひら振り乱して踊り狂って、いやあ、楽しかったなーってな感じでしょ。それが幸せだと思います。

 面白くも楽しくもないこと延々とやり続けて、最後までクソだな思い続けて何らかの業績をあげたとしても、詰まらんことをやり続けていること自体が、自慢以上になんだかなって気もしますね。そりゃやってる最中はクソ詰まらない事務作業の連続だし、頭下げたり屈辱耐えたり大変だけど、でもやってたら、ちくしょーここまできたら絶対成功させたる!とかムキになって面白くなったりするものでしょ?てか、面白くなかったらそこまで出来ないでしょうが。

 で、職業倫理やら、それだけはやっちゃイケナイというのは、例えばゴルフでラフに入ったボールをこっそり手で動かしたりとか、それをしないのはなぜかというと、倫理的に高潔だというよりは、それをやったら面白さが激減するからでしょう?難しい試験に合格して「やったぜ、どうだあ!」は楽しいし、気持ちいいけど、じゃあ結果だけってことで、裏から手を廻して買収したり脅したりして無理やり合格にして、「どうだあ!」が楽しいか?っていったら楽しくないでしょう。普通に幸せに生まれ育ってきたひと、人間的にめちゃくちゃ歪んでしまった人でなければ、そんなのイヤですよ。するかしないかは別としても、それが楽しく感じるか?といえば、あんまり楽しくないと思うけどなー。あなたはどうですか?

 ということで、プライドとか面倒なことを言わずに、自然の楽しさ、ナチュラルな気持ち良さに対する感度を上げていくこと、より純粋に、よりピュアに研ぎ澄ませていけばいいじゃないの?という気がします。

補足

目の前の自分がすべて〜解説は不要

 先にも書きましたが「俺を誰だと思ってんるんだ?」的な「解説」をしなきゃいけない時点で、ダメだと思います。その意味で水戸黄門もまだまだだというか、「この御方を誰と心得る?」で皆が「ははー」となるのだけど、ダメでしょ、そんな解説しなきゃいけないとか、権威に頼ったりしてたら。まあ、あれは最初から作り話だから別にいいんだけど、でも、それなりのことをやってきたら、それなりのオーラはまとうと思いますよ。「威に打たれる」って言葉があるけど、人によって雰囲気や空気感は異なるし、それは過去の生きてきたすべてが出てくると思う。

 自慢も、プライドも、キャリアも、実績も、いちいち解説しなきゃいけないようではまだ未熟であり、なんの先入観もなく1対1で話して、それでどういう印象を与えるか、それが大事で、それが全てじゃないですかね。動物でも、小さな子供でも、この人は信頼できるとか、この人は騙せないとか、本能的にわかりますけど、本能的にわからせるところまでいって一人前でしょ。

 で、その結果が、汚ねージジーであろうが、冴えないおっさんであろうが、ただのチンピラであろうが、それは甘受すべき。なぜならそれが正真正銘の自分であり、自分なんかそんなもんであり、それが一番客観的には正しいからです。過去にどうしたっていっても、タイムマシンがなかったらただのお話ですしね。そこで何を得て、今何を持っていて、そして将来どういうことが出来るかでしょう?でも、そんな実績や力、ドンピシャと役に立つ事例なんか社会生活上千に一つも無いですわ。世界的に有名な天才脳外科医であろうとも、目の前の自分が脳外科手術を必要としてないなら、とりあえず何の意味もないですよ。問題になるのは、そういう色々な体験や人生を通して、そこから何を学んで、どうエッセンスを抽出して、人間力として消化させているか、でしょ。洞察力があるとか、発想がぶっ飛んでるとか、他者に対して海のように優しい包容力があるとか、そういうことが求められるのであって、それだけでしょう。

 人というのは会ったら結構わかりますし、どんなデジタル時代になっても、会うとその情報量は段違いだから、それはなくならないでしょう。僕が最初にシェア探しで伝えたい一つもそれで、あれって民族国籍バラバラで、なんのバックラグンドもわからない素の状態で誰かと会うわけで、それを集中的にやると、なんとなく身体でわかってくる。「あ、いいなこの人」「いい人なんだけど、ちょっと違うな」という体験、そしてその印象が案外と間違ってないこと、結局それだけわかっていれば社会生活的には十分だということ。つまりはバックグランドの解説なんか無用だよ、あんなのエピソードだよってことです。

自分要らないし

 好き嫌いや楽しい感性を磨けばいいって軽く書きましたけど、これ実は、滅茶苦茶大変です。たぶん人間が習得しうる技術のうちで最高難度ではないかと思われるくらいです。実際にそこで迷うのは、楽しさと苦しさの選択ではなく、楽しさと楽しさの間の選択です。マラソンでもここで歩いてしまえば楽なんだけどな、もうやめちゃおうかと思う。そこではやめる、歩くことの「楽しさ、快楽」が一方の秤に乗ります。他方の皿には、それでも我慢してやり遂げてフィニッシュしたときの達成感という「楽しさ、快楽」が乗ります。つまり、快楽 vs 快楽で、どっちの方がより快感度が高いか?の見極め。

 逆にここで我慢して仕事を続けていれば、とりあえず定期収入はあるし安定するしという「快楽」が乗り、他方では自分の好きなように切り回していける充実感という「快楽」が乗る。さあ、どっちを取る?というわけで、難しいですよー。

 プライドや倫理は、それをわかりやすくガイドラインにしたものだと思います。十戒みたいに、○○するなかれとカタログ化していくこと。多種多様の人間集団で共通のルールを作ろうと思ったら、阿吽の呼吸なんか期待できないから、成文化する必要はあるでしょうが、こと自分一人のことであるなら、それも要らない。感性一発でやるのがいい。が、そこが不慣れな人のために、こうするといいよというガイド本やマニュアルが求められ、あれこれと出てくるのでしょう。が、僕に言わせれば、そんなもんは所詮はアンチョコであり、本来なら一つ一つ自分の判断でやるのがスジだとは思います。

 でもって、自分自身はどうなのよ?うまくいってるのか?って言われたら、まだまだ全然ダメですねー。なんかね、もっともっと自分が自分であることで楽しくなれそうな気がする。あー、まだ構えてるな、まだビビってるな、まだ無駄な力入ってるなーとか、ここがダメとかあそこが無駄とか見えてます。直すのは難しいけどね。でも、それを少しづつ直していくと、確かに楽になるし、力も抜けるし、単にほけーっとしてるだけで充実はしてきますよ。な〜んもしてへんけど、気ン持ちい〜いって。

 ここから先は仏教の講話みたいな話になってきて、「放下(ほうげ)」っていうんですけど、究極に気持よくなるためには、自分というアイデンティティすらも邪魔だなーとか。自分なんか要らないんじゃない?って気もします。いや、うっすらと、漠然とそんな気がする。「俺が〜」の「俺」が邪魔なのよね。こいつがいるから、快楽を純粋に楽しめないなとか、俺、要らないかもと(笑)。

 前に誰かに書いた記憶があるけど、めちゃくちゃ美味いラーメンを食べてる時は、舌で、喉で、歯で、味と食感を楽しむわけですが、極上に美味かったらもう、自分=味覚・触覚になってて、自分が消えるでしょ?最高に気持いいときは、自分が消えるわけで、ただただ「気持ちいい〜」という快感だけの存在になる。自分と快感が一体化し、ああ、それが無我の境地ね、梵我一如ということなのね、それで自分もう要らないよね?肉体要らないよね?ってなるのが死ぬことで、それがすなわち成仏ってことで、そんなことは何千年も前から皆さんが口を酸っぱくして教えてくれてるような気がする。

 でもまだまだ超未熟なもんで、うっすら分かるような気する、、、のかな?あれ?くらいですね。先は長いぜ。んでも、プライドとやらは、なんか昔にそんなこと言ってたよなーってな感じにはなりました。小学校の頃やってたドッジボールのルールくらいな、あれ、顔面ってセーフだったっけ?アウトだったかな?くらいの。


 

普通の住宅街にあります






文責:田村



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