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今週の一枚(2015/09/28)



Essay 741:優等生こじらせパターン と 劣等生こじらせパターン

〜憑き物落としとハッピー・チャネル

 写真は、Newtownのとある雑貨屋で売っていた日本のコケシ。
 新入荷商品として一番目立つところに置いてあったのですが、これが結構いいお値段で。もっとも日本の中の古道具やガラクタ持ってきて売ってるわけでもなく、ちゃんと銘のあるものでした。クオリティ考えてもぼったくってるってほどでもないです。売れるのかな〜。しみじみ見ると結構可愛くて、さすがに1万円前後出して買おうとは思わないけど、今度帰省したら見てみようかな〜とか思ったりして。

こじらせパターン

 ほぼ毎週のように色々な方のお世話をして、ほぼ毎日のようにあれこれお悩みメール相談をしてって生活を10〜20年近く続けていると、いろいろと「ほお?」と思うこともあります。それがエッセイのネタになったりして、「浜の真砂は尽きるとも、世にお悩みのネタは尽きまじ」てな感じです。

 そんな中で最近思ったのは、大きく分類して「優等生(をこじらせた)パターンと劣等生(こじらせ)パターンがあるな」ということです。これが今週のお話です。


 優等生(こじらせ)パターンというのは、子供の頃からわりとお勉強も出来て、親御さんからの期待も大きくて、、って成長過程を経て、それがなんかしらんけど人生や人格の基本コンセプトになっちゃってて、それが諸悪の根源みたいに問題を引き起こすパターンです。

 劣等生パターンというのは、その逆で、お勉強もなにもソコソコ以下くらいで、「何をやらせてもハンパな私」ってのが人生や自分の基本的な問題コンセプトになっちゃってるパターンです。

 あ、最初に断り書きをしておかなきゃ。3点。
 一つは、誰も彼がこの2つに分類されるわけではない点です。他にもいろんなパターンがあります。例えば「一点豪華主義」系とも呼ぶべきものは、一つだけ突出して出来る領域があってそれが自分の支えになるんだけど、同時にそれが足枷にもなって成長を阻害するパターン。あるいは「器用貧乏」パターンなんてのもあって、なんでもソツなく平均点か合格点は取れるるし、それで普通の世渡りはいけるだけど、それだけに「これだ」という強烈なフックに乏しく、結果的に「えいや!」という人生の踏み切りが出来ないで困ってるパターンです。これは優等生パターンに似てるし、実際かぶったりもするのだけど、「出来る」という部分に力点があるか、「ムラ(個性)がない」って部分に力点があるかによって微妙に違います。一点豪華 VS 器用貧乏は、「ムラありすぎ VS ムラなさすぎ」とも言えるでしょう。まー、ほんと、人それぞれなんですけど。

 二つ目は、いわゆる優等生的ポジションできた人は誰でも優等生パターンになるとか、勉強トホホだったら皆が劣等生パターンになるってもんじゃないです。そうならない人もいる、てかならない人の方が多いでしょう。でも、なる人もいる。過去の体験などによって、たまたま思考回路がある種の個性をもってしまうだけのことです。職業病と同じで、とある仕事についたら全員がその職業病にかかるってものでもない。でも、なる人はなる。こじらせる人はこじらせる。そのくらいの意味です。

 最後に、どっちが良いとか悪いとかいうものではないです。どちらのパターンにもそれぞれに長所短所、凸凹があって、それをいかに気付いて活用すればいいかがポイントでしょう。夏には夏のしんどさがあり、良さがあり、冬には冬の辛さがあり、楽しみがあると。夏は暑くてうだって死にそうなんだけど、そのかわり冷やしたビールが美味いぜとか、夏休みにバーっといこうぜとかあるわけです。冬は冬で寒くて切なくて死にそうなんだけど、そのかわり食い物(特にお鍋)の美味しい季節でもあり、人の温もりがことのほか暖かく感じられる季節でもあります。ダメなところだけ注目してたら何をやっても地獄になるけど、それってアホでしょ、無駄でしょ、生産性ないでしょってことですよね。またダメといっても、夏は暑いから気をつけてね、冬は寒いから気をつけてねってなもんで「気をつける」程度のことで予防できますし。

優等生パターンの処方箋〜憑き物落とし

雑魚キャラ自覚

 優等生パターンの場合のしんどさは、セルフエスティームが高くて低くて矛盾して、そこでこじらせちゃうことですね。
 ある程度なんでもできるから、セルフエスティームは低くはない。しかし、人間100出来たら120を目指すし、周囲は140くらいを期待したりもする(ような気がする)。だから主観的には「常に欠落してる」感じになる。「あそこまでいけるはずだ」というポジティブな自信であるべきものが、「あそこまでいかねば」という強烈なプレッシャーになって、ナチュラルに無理目な高望みをする。ということは、常にハードルまでいけないから、常に「あそこまでいけないダメな自分」という、オセロのように優越感がいとも簡単に劣等感に転化するという。ぶっ壊れたエレベーターみたいに自分の評価が上がっちゃ下がっちゃ定まるところがない。

 こういうパターンの処方箋は、とにかく自分の限界のさらに上のステージにいって、徹底的にボコられることでしょうね〜。「上には上がいる」とトコトン思い知らされることです。そして、前に「雑魚キャラ天国」で書いたけど、自分がいかに優等生では「ない」か、自分がいかに吹けば飛ぶような雑魚キャラなのかというのを、しっかりクッキリ理解することだと思います。「合格」とかさ「出世」とかさ、そのためにやるようなものです。上に登ると何がいいものがあるかというと、実はたいして麗しいものは転がってないのだけど(殺風景な修羅場がそこにはあるだけ)、それ(自分の雑魚性)だけは理解できますから。カジュアルな「悟り」は開けますよね。「あ、そうなの?」って。あ、自分って雑魚キャラだったんだって。「憑き物」落としてこい、と。

 だいたいですね、「優等生」とかいってもねー、そんなさー、世界のクソ田舎の極東の小島でなんだかんだ言ってるだけでしょ。ガラパゴス島のイグアナのボス争いみたいな、いやイグアナにもメジャー度では負けてるかもってレベルっしょ?典型的な井の中の蛙でしょう。

 それにガラパー日本国内でおいてすら、どの世界でも覇権を競うトップレベルの連中って、だいたいがバケモノみたいな奴らですよ。もう「何食ったらこんな人間が出来上がるのだ?」という遺伝子レベルで全然違うというか、そんな感じでしょう。そういう連中って、もう規格外過ぎちゃって、性格は破綻してるわ、社会生活不適合だったりするわで、生まれ育ってくる過程でも優等生というよりは、超がつくくらいの劣等生パターンから来てたりするわけですよ。というかそのくらい規格外のバケモノが天下とってるくらいでないと、その業界、その社会は健康じゃないと思います。

 もっとも、頂点付近のバケモノ達も”客商売”をしてるなら、ナイスなパブリックイメージを構築します(政治家みたいに)。だからいい人、普通の人っぽく見えるけど、普通の人があんな酸素の少ない居るだけで死んでしまうような超高地に棲息できるわけないですよ。素地でいえばやっぱどっかヘンです。「ヘン」という言い方がネガに響くなら「突き抜けている」といってもいいけど、普通の人が普通の想像の範囲で努力してってって感じじゃないです。努力はもちろんするんだけど、その努力の仕方自体が既に「鬼」というか、突き抜けてるし。だから「優等生」あたりにカテゴライズされてる時点でもう二流確定というか、雑魚確定だと思います。彼らはそういうリーグには居ませんから。

 それにですね、上昇指向とかアンビシャスとかいっても、歴史に残るような英雄豪傑クラスになると、ほとんど全員が「人殺し」です。そういう時代だったとか、昔は政治=軍事だから当たり前だとかいうけど、昔の人だって普通の庶民は人殺しなんかしないですよ。それを殺す。しかも家族でも殺す。織田信長でも自分の弟を殺してるし、そんな話は山程ある。戦乱や戦場でなく平時の宮廷や大奥であってさえ、年がら年中毒殺、暗殺をやってる。それも激情にかられて〜とかではなく、冷静&戦略的に。あなたは出世するために自分の親兄弟や友達を殺せますか?っていったら、普通殺せないですよ。でも殺せる奴がいるんだわ。そこまでやったら普通はトラウマになって人格おかしくなるんだけど、彼らは最初から超弩級におかしいからそのくらいではビクともしない。

 これは現代だって似たようなもんだと思いますよ。上にあがっていこうとする連中は、人格能力ともに円満に優れている人ももちろん沢山いるけど、あの手この手でさんざん汚いことをして這い上がってる人種も結構いる。ある標高よりも上にいこうとするなら、そのくらい人間的にヘンだったり、なんか一本ネジが外れてる連中の世界で戦っていかねばならない。別に自分がそこまで堕ちなくてもいいけど、普通に怪文書まかれたり、命狙われたり、罠にはめられたり、さんざんダーティトリックをしかけられる。頑張って勉強していい点とって世間に褒められたい、くらいの優等生の方法論ではおよそ太刀打ち出来ないし、する気もないでしょう?自分が上に行きたいからって、何の罪もない幸せな家庭を叩き壊したり、自分の恩人に対してすら罠にはめて自殺に追い込んだり、そこまでしてまで出世したいか?ですよ。普通イヤですよ、そこまではしたくないと思う。しかし、それを屁とも思わない奴らもまたいるわけで、そんなリーグです。

 ということで、はやく憑き物落として、自分は平々凡々たる雑魚キャラなんだって得心がいくといいです。でもって、本当に納得できた時は悔しくも悲しくもないから。ああ、雑魚キャラでよかった、なんて幸せなんだって思えるから。僕なんかもいけしゃあしゃあと雑魚やってますけど、雑魚でよかったよねって思うもん。むしろ雑魚であることが誇りというか、プライドというか、まあそんな偉そうなもんじゃないけど、雑魚であることに引け目はないよ。また逆説的なんだけど、はた目には社会的スタイタスがかなり高い人だって、自分のことを雑魚キャラだって思ってる人は結構多いです。それなりの自負はあるけど、でも突出はしてない、全然平凡な存在だって。

 なんつーか、業界にもよると思うけど、一定の標高を超えてきたら、植物相や動物相が変わるというか、空間が歪んでくるような感じ。最初からそれに耐性のある「生物」でないと無理という。だから雑魚キャラであること、しょせんは凡人であることは、ある意味では「まっとーな人間」であることでもあって、だから悔しいというよりは嬉しいです。ということで、憑き物落としたかったら、空間が歪んでくるあたりまで上にのぼったらいいです。「もうええわ」って気になるから。

 で、空間が歪み始めるところまで登れなかった場合はですね、そこすら行けないのだったら、もう最初から優等生でもなんでもないってことです。「昔はね〜、俺もね〜」って「微笑ましいエピソード」レベルですね。「駆けっこでは負けたことない」とか「よくオネショして叱られた」とか、そんな感じの。実際、千葉の海岸で取れたハマグリ行商してるおばちゃんだって、キオスクでガム売ってるおばちゃんだって、若い頃はモテまくりの○○小町だったり、常に全校一位の才女だったりするわけですよ。スーパーの駐車場で交通整理やってるじーちゃんだって、若い頃は女泣かせの○○だったり、いっときはフェラーリ乗り回してたりするもんよ。それほど近しくないけど、いっときは天才肌で年収5000万円稼ぎだしてた人が、つい最近まで交通整理のバイトやってたりして(でも全然枯れてなくてまた新しいのに挑戦するらしい)、世の中そんなもんですよ。そのへん普通に歩いている人が実は凄かったりするのよね。それが「見えてない」って時点で、もう井の中の蛙の中の井の中の蛙です。「優等生」なんかおこがましいぜ。

それがどうした? 

 もう一点は、広い実社会にでてみたら、それまで得意がっていた自分の特技や長所が、実は取るに足らないものなのだと得心することです。

 子供の頃はちょっと駆けっこが早いとか、喧嘩が出来るとか、モテるとかそんなことで得意満面になってたりするけど、だんだん年齢を重ねて世間が広くなるにつれ、「それがどうした?」ってことがよく分かるようになります。そんなの「余技」「隠し芸」に過ぎないんだって。小学校の運動会では花型リレー選手でヒーローになれたとしても、その程度の足の速さだったら、一芸入試でも駄目だし、ましてや就活の場で口にだすのもはばかられる。「特技:足が速い」とか書けないですよね。

 同じように、出身大学がどこで、どんな学位をもってるかとかいっても、実務の荒々しい現場、営業の出先で小突き回されたり、怒り狂っている消費者の前では、そんなもん屁のツッパリにもならない。喧嘩が強いとかいっても、黒社会に入るのでなければ、普通の実社会でそれが意味を持つようなことは、まあマレでしょう。マニアックな趣味の世界では帝王レベルに実力があったとしても、一般世間ではそんなことが話題になることすらないし、誰も知らない。そんなもんです。

 それが進んで、僕のように日本で弁護士先生でしたといっても、国境越えてこっちに来たら、英語がヘタクソでおどおどしているアジア人男性という、社会的競争価値としては殆どゼロのゴミ同然みたいな立場になるわけで「それがどうした?」ですよ。それはインド本国では高いカーストで尊敬を受けていても、他の国や宗教世界にいったら吹けば飛ぶような「低賃金の外国人労働者」でしかないのと一緒です。故郷の田舎では「神童」で通っていても、都会にでてみたらただの田舎者扱いされるのとと同じ。

 だもんで「優」等生=「優れている」とかいっても、一歩広い世界に出たら殆どなんの意味も持たないです。憑き物が落ちたら、それがむしろ心地よいです。あとでも書くけど、僕自身、自分でもまだまだゴミだよな〜って思ってたところで、こっちでそういう扱い(別にゴミ扱いされたわけではなく、それどころか温かく接してもらったんだけど、いずれにせよ意味をもたない)をされて、すごい気持ち良かったです。日本に居る頃は、なんか憑き物ばっかり身体に付着するような感じがしてイヤだったですもん。嘘臭いなあって。


 さて、このあたりで中間整理をすれば、優等生パターンが機能するのは、すごーく狭い世界での話だってことです。狭い世界にいるならば、しょーもない「微差」でも巨大化するからチヤホヤもされる。故にくだらない憑き物もつく。憑き物落としたかったら広い世界にいけばいいです。上にいってもいいし、横にいってもいいけど、ある程度から先にいったら、そんなの何の足しにもならない、話のネタにすらならないのがわかりますから。

 そして憑き物というのは、自分の本体ではない。優等生的フォーマットが身体に染み込んでるといっても、後天的に染みこんでるだけの話で本体そのものではない。だって、別に優等生やるために生まれてきたわけじゃないもんね。これが生まれながらに皇太子で幼少の頃から徹底的に帝王学を叩き込まれたというなら話は別だけど、それほどのものじゃないでしょ?

 自分は「自分」やってりゃいいんですよね。自分は自分をやるのが仕事。それが天命。自分は自分しか出来ませんからね。他の人に代わってもらうわけにはいかんでしょ?この世に一個しかないものに比較なんかありえないし、比較概念である「優」も「劣」もクソもないですよ。

活用方法

 この手の優等生タイプの活用方法ですが、破天荒にやるといいですよ。

 このタイプの人って、大抵なんでもそつなく出来るから、その種の実務能力や構築能力、帳尻合わせる力が優秀ですよね。いい意味での官僚的能力はある。しかし、官僚が仕切る国は大体潰れる(宦官帝国みたいになった清朝末期とか)から、優秀な「政治家」が必要です。ビジョン一発、感性一発で、どどーんと「巨大な絵を描く力」のある人。発想力とか、行動力とか、マトモな神経では出来ないようなことをする人。きわめて冷静に発狂できるような能力。

 優等生の実務能力というのは「ボスに命じられたことをやる能力」でしかないので、「ボスになる能力」そのものではないです。「なにかをする能力」はあるけど、「なにか(主題)を決める能力」はないです。出題された問題に解答する能力はあるけど、ゼロから一つの学問領域を樹立するような力はない。優秀な下っ端であり、ボスにはなれない。だから、ボスになる練習をすると(笑)。

 ボスはワガママで、移り気で、感情的で、でも度量が広くて、清濁合わせて呑めるし、多少の破綻なんか気にもしない。要するに図太い。そういう部分はあまり「練習」してこなかっただろうから、そこですよね。でも、これって、もともと人間誰しも持ってます。小さな子供の頃は皆そう。リトル・エンペラーみたいなもので、あれが絶対欲しい、これがやりたい、もう飽きた、つまらない、、とにかく感情が豊かでどんどんそれを外界にぶつけてくる。誰もが昔はそうだったので、それを思い出すと。

 そんなことしたら社会生活営めなくなるんじゃ、、、って思うかしらんけど、そこは優秀な実務能力があるから大丈夫。同じことやってもなるべく波風立てないように、より効率的に、ソツなく、無理なく帳尻合わせるのは得意なはずですから。つまり、優秀な実務能力があればあるほど、破天荒なことに挑めるわけで、それをしなきゃ嘘でしょう。それをしないで、優秀の完成度を97点から98点に上げたところで、そんなに現実的意味はないです。優秀であることをどう活用するか、です。

 自分のボスに自分がなって、自分に対して全幅の信頼をおいて、情け容赦なくこき使ってやればいいです。「俺はアメリカにいくぞ!」「で、どうするの?」「知らん!とにかく行くぞ!明日行くぞ!」みたいな、むちゃくちゃな。

劣等生パターンの処方箋

 これは真逆に劣等であること、何やらせても自分はハンパ者というネガティブな自画像がありますが、これも優等生の鏡像みたいなものでしょう。鏡像というよりは、最終的は劣等感、イケてないのが悩みって点では共通するから、同じと言ってもいいかな。ただハードルの高さが多少違うだけの話。いずれにせよ「出来る・出来ない」で価値序列が決まるという世界にいるという意味では同じ穴のムジナですよね。

 ということで、これも憑き物の一種ですから、早く落としたらいいです。世の中、そんな出来る・出来ないで動いているわけじゃないんだよという、きわめてクソ当たり前の事実にはよ気付きなさいなってことです。

 もっとも劣等生あがりで「こじらせる」人というのは、実は優等生よりも少ないような気がします。だって今の日本の教育システムだと過半数以上の人が劣等生的感覚を抱かざるを得ないのだけど、逆説的にそれゆえに救われている気がします。マジョリティだもん。だから「いや〜、勉強の方はサッパリでしたね〜、ははは」とカラッと言えちゃう。「いや〜、悪さばっかしてましたね」とむしろ誇らしげ(笑)。口では「恥ずかしながら」とかいうけど、恥ずかしいとは思ってないよね。

 だからあんまり劣等生系でこじらせる人は少ないのだけど、でも、こじらせる人はこじらせます。自分=ダメ人間みたいな烙印押されまくり感が強い。そんな親や先生のいうことなんか、「うっせーな」でスルーしときゃいいんだけど、根が真面目なのか、深刻に受け止めて、文字通り「深く刻まれて」しまうという。

 このパターンの場合の処方箋ですけど、思いつきで幾つか言うと、、、

セルフエスティームの上昇〜いじけない

 まず、セルフエスティームが低いから、まずは実務に耐える程度に上昇させるといいです。一番簡単なのは、ちゃんと褒めてくれる人を周囲に作りなさいなってことですね。「すごいじゃん!」って言ってくれる人です。正真正銘何も出来ない人って珍しいです。生きてりゃナチュラルに凸凹してくるからある程度はなんかできます。その凸部分の隆起をちゃんとほめてくれる人。

 そんな人いません!って言うかもしれないけど、いるって。言われてるって、実は。でもセルフエスティームが低い弊害として「いじける」「ひねくれる」が入るので、褒められても皮肉言われているとかミエミエのお世辞と受け取るとか、いちいち否定してかかったりする場合が多い。アホちゃうか?って思うけど、褒められたら無邪気に喜んでりゃいいんだよ。お世辞かも?っていうけど、あなたにお世辞言ってなんかいいことあるの?そんな権力持ってるの?他人にお世辞言うのって労力かかるよ、面倒くさいよ。そんな面倒な思いをしてまでお世辞言ってくれたら、まずそれを喜びなさいな。お世辞の方が嬉しいくらいに思えよ。「すいませんね、お手間かけさせて」って。セルフエスティーム低いくせに、そういうところだけナニサマ?ってくらい気位が高い。だから、他人も褒め甲斐がないからどっちらけて言わなくなる。アホかというのは、そういう意味です。キミは墓穴掘り人夫かい。

 豊臣秀吉がなんで天下取れたかといえば、「人蕩(たら)し」と言われるくらい人付き合いが抜群に上手だったから、つまりはコミュ力の勝利みたいなものなだけど、その要諦は「物悦びが激しい」という特性だと言われています。苦労人育ちだから、他人がなんかしてくれたら飛び上がって喜ぶ。顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。「この御恩は一生、、、」とかいって涙ボロポロ流したりする。多少演技もあろうけど、でもほとんど本心だったと思われます。苦労人ってのはそーゆーもんですから。他人の「情け」の意味と重みがきっちりわかる。それがわからん奴は「苦労が足りない」って言われちゃうわけですね、昔っから。

 セルフエスティーム回復したかったら、まず褒めてもらえってことだけど、実際にはもう結構褒められたりもしてるから、気づけよってことですか。もっといえば、いじけてんじゃねーよ、素直になれよってことですね。これが第一。

技術や努力を馬鹿にしない

 第二に、実務能力の向上です。後でも述べるように、別にダメダメだって構わないのですけど、あんまり毎日怒られたり叱られたりしてたらイヤになっちゃうから、日々愉快に過ごせる程度にテキトーに上手になるための能力向上。

 これは何回か前のエッセイで述べた「技術論」に尽きると思います。ごく一般的な世間的な能力なんか、やってりゃ誰でも身につくもので、そこには才能とか素質とか御大層なものは要らないです。日本に生まれ育てば誰でも箸くらい持てるようになるのと一緒で、才能とかそんな特殊な話ではない。でもって、箸が持てる程度の練習と技術の積み重ねで、だいたい一生飯が食っていけるくらいはなんとかなりますよ。

 でも、劣等生をこじらせてしまうと、技術を大事にしない、まじめに練習しなくなる人がいます。なにをやっても中途半端って自覚してたりするけど、問題はなんで中途半端になるか?です。モチベーションがとかいうけど、それ以前のレベルで、技術とか努力とか練習というものを舐めてますよね。自分には出来ない何かが上手な人を見ると「才能が違う」とか思うのだけど、WRONG!です。多くの場合(もう勢いで99%って言ってもいいとは思うけど)、才能が違うんじゃなくて、単純に練習量が違うだけ、相手の方が自分よりもたくさん練習してるだけ。

 さらに進んで、じゃあ何故その人はそんなに練習できるのか?といえば、やっぱ技術というものを舐めてないし、技術というものを信じているからでしょ。一つひとつの過程を丁寧に検証して、何が足りなくて、どうすればいいか考えて、やってみる。また検証してまたやってみる。その繰り返し。英語なんか典型的だけど、実力=練習量にきっちり比例します。語学ってそういうものでしょ。才能とか出てくるのは、作家になったりするような天上界での話で、普通に仕事が出来る程度の語学力だったら関係ないです。出来ない人というのは、その上達過程が大雑把すぎるし、ちょちょっとやったら出来るみたいなイリュージョンにかかってたりする。反復練習でも10回か100回で音を上げるんだけど、反復ってのは千回や万回が一単位だってことが分かってない。要するに舐めてる。

 モチベーションなんかもそうだけど、この種の人の「モチベーション」って単なる「初期衝動(思いつき)」だけだったりして、初期衝動だけだったらすぐに推力が枯渇して当たり前です。元旦になったら日記をつけはじめて、松が取れる前にもう挫折とか。典型的な三日坊主です。初期衝動なんか3日しか保たないってことです。初期衝動が衰亡したあと何で続けるのか?といえば、技術や練習というものへの真摯な気持ちでしょうね。今日一日激しく練習したとしても、目に見える効果なんか限りなくゼロです。だから100%徒労に思えるんだけど、それでもやるのは、技術上達というものへの信仰心のような確信でしょう。それが足りないんだろうし、それがなんで足りないのかといえば、上達して達成したという成功体験の乏しさでしょうね。

 あと、ニワトリのように三歩進んだら忘れてしまうという記憶保持の弱さもあるでしょう。感情や思考がブツ切りに断絶してしまって、それぞれに連関を保たず、体系化もせず、ゆえに積み上がっていかないという。このあたりは多分脳の器質変化も関係あるかもしれないけど、メンタル的に言えば、ダメ意識が強くて、なにを地道にやろうとしても、「こんなことしててもダメだ!」とか襲ってきてバシバシ回線を切っちゃうのかもしれません。でもね、箸が持てたり、自転車乗れるんだったら、技術上達に関する身体的なメカニズムに異常はないと思いますよ。

言い訳にしない、逃げない

 第三に、「あきらめ回路」「逃げ回路」ができてる場合が多いので、それを叩き壊す。ちょっとやってダメだったら(そんなの誰がやっても当たり前なのだが)、もううんざりして、俺には才能がないとか、やっぱ何をやってもダメなんだってメランコリックな気分に浸ってメロメロになろうとする。なんでそうなるの?っていえば、そう言っておけば、それ以上嫌なことをやらないで済みますからね。

 つまりセルフエスティームが低いといっても、それは「公称」みたいなもので、それを言い訳にしてる場合が多い。これって麻薬みたいなもので中々抜け出せないんだけど、でも麻薬に頼ってる限りは無理ですよね。泣き言、弱音、愚痴、なんでも言ったんさいって僕は思うけど、ただ一点、それを言い訳に「利用」しはじめた時点でピッと笛吹きます。

 それを断ち切るには、一つは心底からの恐怖でしょうかね。このままダメな俺ポーズでなんとかやっていこうとしても、いずれは限界がくるから、そうなったらマジに餓死するぞ、いよいよとなったら冗談抜きで死ぬぞという恐怖です。破滅する怖さ、死の怖さ、逃げていったその先にどんだけ暗い谷底が待ってるか、それがチラとでも見えたら、ダメとか言ってる場合じゃないよってのがわかるでしょう。

 もう一つそこまでいかなくても、とりあえず即効性があるのが、「他人はお見通し」ってのを思うといいです。そうやって言い訳いって逃げてるのって、はたから見てたら丸わかりですからね。なんとか上手いこといって同情や理解を得ているとか思ってるかもしれないけど、それは錯覚です。心の底の底まで見透かされてますよってことです。これ、けっこう恥ずかしいよ、カッコ悪いですよ。

 でもって、何やっても真実ダメダメであったとしても、たった一つ「逃げない」ってことだけやってたら、もうそれだけで他人は認めてくれます。そりゃ全員が認めるってことはないけど、そんなの天下取っても全員が認めることなんかありえないんだから同じこと。何人かはちゃんと見ててくれるし、認めてくれます。一人でもいたらそれでいいです。そんな難しいことじゃないですよ。

幸福チャネルの豊かさ

 第四に、劣等生系の方がハッピーになるのが上手です。これは優等生のガリ勉系と一般学生の差だと思ったらわかりやすいでしょうけど、一般ピープルは勉強はダメダメなんだけど、その代わり恋愛に部活に趣味におしゃべりにって楽しいことを見つけてます。勉強とか受験なんかただの「苦役」でしかなく、いわば「税金」みたいなもので、そんなところで自己実現してハッピーになろうとはおよそ考えない。それは税金払うことに自己実現しようと思う人がいないのと同じことです。男女差でいえば、「やらねば」感覚と優越意識が強い男の方が一般にハッピーになるのがヘタクソで、女性のほうが上手。ケーキが美味しい、猫が可愛いというだけで幸せになりやすい。つまり幸福チャネルが豊かにあると。

 そして、劣等こじらせパターンの場合、一般ピープルよりもさらにダメダメ感が強いから、逆にハッピー回路は増強されています。これは直近の官兵衛メソッドのところで書いたけど、劣等生パターンの人、ダメダメ期の人には、「些細なことに幸福を見出す」という能力が与えられます。村上春樹がよくいう小確幸ですね。「小さいけど、確かな幸せ」です。これねー、もう、すごい飛び道具のような武器ですよ。

 学校帰りにいつもの猫に出会えた!とか、とるに足らないようなことでも、ちゃんと喜びを感じる。夕焼けがキレイだといってはそれで感動しちゃう。毎週の連載マンガの続きを読むというだけでも生きる希望になる。それこそ獄中の官兵衛が藤の花を慰めにしたように。

 そんないじこい幸せ見つけても、なんかミジメなだけじゃないかって思われるかもしれないけど、これもWRONG!です。幸せってそんなもんよ。それがむしろ王道ですよ。

 石川啄木の有名な歌に「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」ってのがあります。友達が皆出世したとか、羽振りよくやってるけど、自分はしがない身の上で、ミジメだな〜ってしょぼんとしたときは、花を買ってきて奥さんと二人でしんみりするんだよって歌だけど、これが有名になってるってことは、誰もがそう感じるときがあるんだってことです。これ、「寂しさをまぎらわす」とか「妻の関心を買って自信を取り戻す」とかいう解釈もあるようですけど、僕は違いますね。心底そこで幸せを感じてるんだと思いますよ。偉くなることが人として正しいのか、幸福なのか、いやそうじゃないんじゃない?こうして連れ添ってくれる人がいて、抱きしめるようにその大切さを味わうのが本当じゃないの?って、価値観をもとに戻そうとか、そのあたりの心の揺れだと思います。

 ダメダメなときって、霧が晴れるように、物の本当の価値がよく見えます。見ようと思えば見える。逆にイケイケのときは、幸福味覚みたいなものが大雑把になってしまって、どわーっといって、うおおお!といって、どっぱーんじゃあ!みたいに荒っぽいハイテンションになってるから、あかんのよね。そういうハイテンション系の多幸感はあるかしらんけど、ベロベロに酔っ払ってて繊細な純米酒の良さがわからんみたいな、感覚が馬鹿になってることが多いです。無駄に高級外車買ってみたり、アホみたいな豪邸建ててみたり。バブルの頃に、純金製の便器作った人がいたけど、ほんとアホになっちゃうのね。ハッピーになる方法がわからなくなってしまうという。世の中良く出来てるわ。

 それが証拠に、、って証拠になるかどうかわからんけど、古来位階人臣を極めるくらいに出世すると、皆さん競って出家したがったりするじゃん。スモールライフ=スローライフ=ビューティフルライフってな感じで。派手なドンパチはもうええわって感じになって、狭苦しいタコ部屋みたいな二畳の茶室に籠ったりさ、庵を結んで花鳥風月を愛でたりさ。日本の場合は特にそれが強い。無常観もあるんだろうけど、文学なんかだいたいそれ。「あわれ」とかさ、小さくて、マイナーで、でも確かな美しさみたいなものを鋭い視力で見出す。「古池や蛙とびこむ〜」だって、「柿食ば鐘が鳴るなり〜」にしたって、「それがどうした?」って言えばそれだけのことで、そんなことに感動や喜びを見出してるわけです。価値観変えれば、駄作の極致みたいな歌を名作としてたたえているわけですよ。

 だからささいなことに幸福や喜びを感じる感性というのは、ド基本でもあり、これ以上ないくらい正統派でもあり、古今東西の聖人哲人が言ってることでもあります。全然ミジメなことでもなんでもないべよ。

 ということで、別にダメダメのまんまでもいいんだわ。あっち方面がダメっぽかっても、こっち方面ではちゃんとハッピーになれるわけですからね。だって、柿食ってる時に鐘がゴーンと鳴ればいいだけなんだから、簡単でしょ?要は気づくか気づかないかだけですわね。

 この第四点目の飛び道具(ハッピーチャネルの気付きと増強)さえしっかり出来てたら、第一〜第三の技術向上は別にダメでもいいです。なんせ「ダメでもいい」という、合気道みたいな凄まじい「返し技」を身につけているわけですから。ダメであればあるほど、今この瞬間の幸福を正確に味わうことができるのだから。

補足

自信と自慢は違うこと

 長くなったのでもう止めなきゃですけど、気付いたので一点。
 優等生も劣等生も共通するのは、自分へのダメ出しがおかしいって点で共通します。でもって、他人からは「もっと自信をもてばいいのに」ってよく言われると思います。そう言われても自信なんて持てない、自信なんかねーよって感じになりがち。

 でも思ったのは、もしかして「自信」の概念をカン違いしてない?って。なにをどうカン違いしてるかというと、「自信=自慢」だとなにげに思ってない?って。自信と自慢は全然違いますよ。ほんとの自信というのは、あまりにも当たり前すぎて、自信があることすら気づかないようなものです。今回の例でいえば「箸が持てる」ようなもので、箸を使う「自信」はあるでしょう?どうしよう、次の食事で箸が使えずにこぼすんじゃないか、うまく使えるかどうか不安で不安で、、てこたあないでしょう?つまりは「自信」があるわけです。「自信がある」ってのはそういう状態のことですよ。

 そんなの出来て当たり前だと思うこと。当たり前だから、別にうれしくもなんともないこと。箸が持てるとか、歯磨きが出来るとか、自宅から駅まで道を間違えずに歩けるとか、千円札と一万円札を常に正確に見分けることが出来るとか、それが出来たからといって別に全然自慢のネタにはなりっこないこと。

 それをどこでどう思考が混乱したのか、「自信なんかないです」=「他人に自慢できるようなことはないです」になっちゃってるという。あの、自慢するために生きてるわけ?人生の究極目的は自慢することなの?オーディエンスにキャーキャー言われることが目的なの?本当にそうなの?

 次に、もちろんそういうキャーキャー人生目的があってもいいですよ。そういう健康な自己顕示欲やスケベ根性みたいなものは、多くの場合巨大なモチベーションやエネルギーになりますからね。ガンガンいったらんかい〜!です。でもね、それは「自信」とは違うでしょ。

 いろんな切り口があるけど、キャーキャーは達成すべき目的ゴールだとします。それを目指して今日も練習じゃ!ってやるわけです。それはいい。じゃあ「自信」は何かといえば、ゴールに向かう長い道のりを歩くための基礎条件みたいなものじゃないですかね。頂上目指して崖よじ登るようなもので、無尽蔵の体力、脚力、握力そのあたりの基礎体力、さらにザイルやハーケンの使い方など基礎技能がなければ登れないです。でもって、細かい断片断片の局面で、「この程度なら登れるな」って思えるくらいの体力技能を身に着けていること、その自己認識が「自信」だと思います。だから自信がなかったらまず崖を登り始めることすら出来ない。基礎条件というのはそういうことです。

 で、キャーキャーは頂上にあるわけです。でもキャーキャー=自信にしちゃうから変な話になるのですよ。自信のある物事を増やしていって、一歩一歩高度を勝ち取っていって、最後にはキャキャー(自慢)に至るわけでしょ?自慢(頂上)が目的だとしたら、自信は手段(登攀技術)に過ぎない。そこがごちゃ混ぜになるとどういうことになるかというと、「まだ頂上に達してないので、登ることが出来ません」というワケのわからない話になります。だからその一歩が踏み出せないで悩むという。アホか?と。

 もし頂上にたどり着くのが自分にとっては簡単で、だから自信があるようなことだったら、それをキャーキャー言われても、あんまりうれしくないでしょう。それは単に自転車に乗れたというだけで、まだ乗れない人達からやんやの拍手喝采を受けているとか、箸の持てない外人さんに箸が持てるというだけで大絶賛されたりとか、そんな感じでしょうからね。そんなんでヒーロー扱いされたって嬉しくないでしょう?嬉しいですか?それで嬉しい人生大満足って人だったら、簡単ですよ。幼稚園児相手に力自慢とかしてればいいんだから。普通、馬鹿馬鹿しくなりますよね。

 このあたり語りだしたら長くなるし、またちょっとベクトルの違う話ですので別の機会にしますが、ここでは自慢という他者あって初めて成立する物事と、自信という自分査定=自分だけで完結するものととがごちゃ混ぜになってて、それがセルフエスティームを無駄に押し下げてるかも、というバカバカしさについて指摘するにとどめます。

自分の場合〜摩訶不思議な価値観

 ところで僕の場合はどうかというと、これも官兵衛メソッドのところで書いたように、僕の場合は超がつく劣等生と優等生と両方経験してますから、その点での「こじらせ」には免疫ができてるよな気がします。人間なにが幸いするかわからんのよね。自分が出来る・出来ないってのは、ある意味どーでも良い。なんでも出来ないとダメだって意識は人一倍強いかしらんけど、それは出来た方が何かと便利だから、ワガママ言えて昼寝も出来て何かと都合が良いからという、完全功利主義というか、ユーティリティの問題としてパキンと割りきれてます。だもんで、出来ないからイケてないとも思わないし、出来るからイケてるとも思わない。出来るようになったらなったで、それはうれしいけど、それと自己評価はこじらせ系の人達ほどリンクしてないです。家の近くに駅が新設されたから、便利になって良かったねというくらいの実用性本位の喜びが強いです。

 じゃあ、自己評価につながるイケてるイケてないはどういう基準かといえば、はるか昔の雑記帳に書いた「カッコいい」ですかね〜。見てくれがどうとかいうのではなしに、また他人がどう思うかどうかでもなく、ロックしてるか・してないかみたいな。「気分はいつもファック・ユー!(笑)」みたいな特殊な価値観にハマっていたので、つまりはそれ。他人の視線を気にするのは、その特殊な価値世界ではダサいことで、カッコ悪いのでボツとか。普通に就職なんかカッコ悪いとか、やたら金持ちになるのっていかにもセンス悪そうでダセーよなとか、か〜なり特殊な。

 そんな特殊なものにハマってるから、かなり人生間違っちゃったという評価もありうるだろうけど、でも自分の中ではけっこーゴキゲンだという。出来る・出来ないで言えば、出来たからカッコいいってもんでもないし、クールにさりげに凄いことをやるのがカッコよさげなんだけど、でもそれを意識してやってると超ダサいとか、その出来るまでの過程がカッコいいかどうかとか、むしろ出来ないからこそカッコいいとか、やってもやってもダメダメ続きのところがカッコいいとか、それはそれは摩訶不思議な評価基準があるのです。特殊すぎて参考にならんよな。






 こういう商品もありました。値札の部分を拡大して切り取って左下に貼り付けておきましたが、「ビンテージ・こけし」と書かれていて、作者がTAKAHASHI SETSUK...まで読めました。109ドル。「ほお?」と思って検索してみたら、タカハシではなく高梨じゃないかな?「遠刈田系こけし、高梨節子作」というのがありましたので。Kokeshi Wikiという「そんなサイトあるんか?」と初耳情報にいきあたり、この作者さんのお師匠さんが佐藤武雄さんだというところまでは調べられました。「遠刈田系」の「遠刈田」というのは、宮城県の蔵王あたりの地名みたいですね。「とおかりた」と読むかと思ったら「とおがった」と読むらしいです。おお!それで値札のところに「TOGATTA」と書かれているのか!最初は「尖った」?なにそれ?って思ってたけど、そうかこれはかなり正確な商品情報が書かれていたわけですね。いやあニュータウンの店先から日本の宮城のこけしまで話が広がるわけで、面白いです。



文責:田村



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