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今週の一枚(2015/07/13)



Essay 731:「自己満足」ってなに?

 撮影場所は、Crows Nest。枯れ木に青空、すっかり冬景色。日本は暑いようですが、こっちは寒いぞ。これを書いてる夜明け付近の体感温度は4度だって。お〜さぶ。


 「自己満足」という言葉があります。一般に、ネガティブな意味に使われる場合が多いです。自分一人だけが満足していて、他者はそこまで満足してないぞ、水準に達してないぞってダメ出し感のある言葉です。

 ただこの言葉、使用法が疑問になるときもあります。「それは、別に自己満足でいいんじゃないの?」「この場合に、自分が満足すること以外の意味ってあるの?」「他者に対して”自己満足にすぎない”という判断を何故あなたが下せるの?その基準は何なの?なぜそんな一方的裁断が許されるの?」とか。

 考えていくと面白いテーマを含みます。
 この社会における「自分」の置き場論です。どのあたりの自分のポジションを設定すればいいのか?自分と他人の境界線はどこにあるの?自分と他人が両方存在する入会地・共有ドメインみたいなエリアはどこなの?とか。まあ、言葉の遊びなんかもしれないけど、ちょちょっと整理すると、詰まらないところで悩まないで済んだりするんじゃないかな?って気もします。

 完全自分エリアだったら、誰がなんと言おうが自分さえ満足すればそれで良いです。逆に完全他人エリアだったら、その他者が満足するかどうかが全てでしょう。問題は自他の共有シェアエリアで、このあたりで利害が一致したり対立したりしてビミョーな話になるんでしょう。いくつかの場合に分けて考えてみましょう。

完全エリア

完全自己エリア〜最初から外部を予想していない場合

 日記、自分一人で食べるだけの自炊、自分で使う歯ブラシの選定とか、これらのものには最初から外部が予想されてないです。他者の満足を目指してなされているわけではない。自分以外に満足すべき人間なんかいないんだから、自分が満足すればそれで良い。そういう物事に「自己満足だ!」という批判はあたらないでしょう。

 把手のところに血まみれ髑髏のオブジェが施された気色悪い歯ブラシを使ってようが(そんなもんがあるのかどうか分からんが、でもありそうだが)、本人がそれでご満悦ならばそれで良い。「すげえ趣味してんな?」と言われることはあっても、「自己満足に過ぎない」という批判は当たらない。

 ファッションなんかは基本はこれなんだけど、でも微妙に他人のリアクションを求めたりする部分もあるから、徐々に「完全自己エリア」ではなくなっていき、複雑な問題をはらんでいく。なかには「完全他人のためのファッション」の場合もあって(葬式や結婚式など)、そこで完全自己趣味を爆裂させて吉原花魁のようなド派手な衣装で、KISSのステージみたいに式中に勝手に火を吹いたりされると、これはもう自己満足を通り超えて「迷惑」ですらあります。

完全他人エリア〜特に自己が出てこない場合

 とあるラーメン屋で調理者は自分では最高傑作だと思えるラーメンを出していても、お客がそれに満足しなかったら(期待していた水準に達していなかったら)「自己満足にすぎない」といわれるでしょう。しかし普通の醤油ラーメンを普通に出されて、それが客の味覚に合わないだけだったら「自己満足」とかいちいち考えないでしょう?「この店、マズイな」「ああ、ダメだな」で終わりだと思います。

 ここで、その店のスペシャルな一品、例えば「トロピカル・マンゴー・ラーメン」とかユニークなラーメンを「どうだあ!」で出されて、「いや、それはちょっと、、」と客が引いたりしたときに、店主が出てきて「なんでこの革命的な味覚がわからんのだあ」とか詰め寄られても、それはあんたの自己満足じゃないの?って気になる。さて、醤油ラーメンとどこが違うのだろう?

 一方、日常の多くの仕事は、行為者本人も満足してるわけではないし、満足しようとすら思ってなかったりする。工場における単純作業にせよ、データー入力にせよ、コンビニのレジ業務にせよ、勧誘営業にせよ、或いは医師や建築士のような専門職でさえ、一定水準のルーチンワークとしてやってるだけで、必ずしも常に「これが俺じゃあ!」「私の作品!」という気合ブチかましてやってるわけではない。だからといって手を抜いているわけでもないのだが、そこまで「自我」が入ってはいない。中には、行為者本人がそれをするのがイヤでイヤで堪らないって場合もある。自己満足どころか、この世で誰よりも満足してないのは他ならぬ行為者本人だというケースも多々ある。てか、一般の仕事なんかそんなもんちゃう?

 上の醤油ラーメンとマンゴーラーメンの差、そしてイヤイヤ仕事を通じてどのような法則性が考えられるか?

完全他者エリア=自我無視

 まず、多くの商取引やビジネスと言われる領域では、提供される財物・サービスが対価に見合った水準であることを要求され、それが満たされるかどうかだけが問題であり、一方当事者がどんな思いでそれに取り組んできたかということは本質的に問題とはされない。

 本式のビジネス局面において、「一生懸命」「頑張ります」というのは、ある意味では禁句でもあります。ビジネスやプロフェッショナルな世界においては、結果が全てであり、過程は基本問われないし、当事者の思い入れも関係ない。どんなに必死でやろうが、自分の全人生を傾けて取り組もうが、水準に達してなかったら、納品拒否、返品、契約打ち切り、損害賠償ですわね。それがビジネスの恐いところで、言い訳は一切通用しない。どんなに難しい手術でどんなに精魂込めて十数時間やろうとも患者が死んだら、遺族からは「人殺し!」と面罵されることもありうるわけで、医師は黙ってそれに耐えるしかない。どんな自分が苦しんで猛特訓つもうが、試合で結果出せなからったらスタンドからブーイングの嵐です。それがプロってもんであり、それが「お金を稼ぐ」ってことでしょ。

 ビジネス=契約=約束というのは、約束された時点に約束された品質の財貨・サービスを提供することで完成し、それ以外の要素は一切斟酌されない。ま、当たり前の話です。そこに「頑張る」とかいうメランコリックな要素は入らない。新入りの営業マンとか、やる気を見せるためについつい言いがちなんですけど、逆効果の場合の方が多いっすよ。それって「一生懸命頑張ります」→「だから、万一ダメだったとしても、こんなに頑張ったんだから許して下さいね」という、ゆとり教育みたいな微妙な甘えがにじみ出てきて、取引先を不愉快にさせることがあります。「あー?ボクちゃん、何いってんの?」って。そういうときは「承知しました」だけ、あるいは「必ずやご満足いただけるものを」で良い。これは自分の言い訳を禁止するもので、精神的には退路や逃げ道を断つもので非常に辛いんだけど、でもそれが出来てナンボっしょ。それはゴルゴ13が「一生懸命頑張りますから」って言ってるシーンを想像したらその滑稽さがわかると思います。

 逆に言えば、水準のものを提出できれば別に頑張らなくても良いとも言えます。ヘラヘラした態度で、いー加減なやり方で、手を抜きまくってたとしても、それが期待される完成度に達してたら文句は言われない。完全結果主義だったらそうなる筈です。もっとも日本の場合、行為主義(=一生懸命やることに自体に価値がある)を結果主義に混入させたりする曖昧さがあるような気がしますね。ま、これは別の話。

 このように、完全他者エリアの世界においては、自己満足とか「自我」を出すこと自体ルール違反とも言えます。
 というか、普通はそんなに自我が出ません。多くの仕事は、自己の満足どころか、自我を殺したり我慢したりすることで成り立ってる部分もあります(イヤイヤ仕事)。自営業者やフリーの場合は、多少なりとも自我表現の自由度を持ちますけど、それとて程度の問題でしょう。仮に自己を実現できたと思える仕事ができたとしても、今度はそれを表現する機会もない。醤油ラーメンだろうが味噌ラーメンだろうが予算との関係で店主がベストと思われるものを出している、そこに自我が混入しないわけはないんだけど、それを表現するってことは普通ないです。「俺の醤油ラーメン!」とかは普通書かないでしょう。せいぜい「特製」「味自慢」とか飾り文句くらいじゃないかな。だから不味かったとしても、不味いねで終わりで、敢えて「自己満足」云々という言われ方はしない。

 しかし例外的に、それが自己実現のためのスペシャルなもの=行為者の自我が突出して認められるような場合があり、そのときだけ「自己満足」という言葉が使われるような気がします。上記のようなマンゴーラーメンの場合ですね。「なんか思うところがあって出してるんだろうな〜」という店主の「自我」が否応なく感じられるという。ルール違反の自我過剰というか。それで美味しかったらOKですけど、ダメだったらやっぱ「自己満足」って言われちゃうでしょうねえ。

 以上を整理すれば、一般ビジネス局面では、基本的に完全他者エリアであって、自己満足もなにもそもそも自己は問題とされないし、表現することすら見かけない、だから自己満足がどうしたって話にはなりにくいです。例外的にすご〜くユニークな商品、野心的な試みをするような場合だけでしょうね。

共有エリア〜アートの場合

 さて、問題は、自分と他者という存在が入り交じっている、共有シェアエリアです。ここがかなり微妙です。本人の満足と他人の満足のどちらがどれだけ優越するか、そのレシピーはどうなってるのか。まず最も自我部分が多いと思われるのがアート系でしょう。

素人趣味の場合〜実現欲求と承認欲求

 アート作品の製作というのは、表現欲求の満足という自己要素が非常に強いです。というか「自己満足(表現欲求とその充足)なくしてアートなし」でしょう。自己満足はアートにおいては第一義的な正義かもしれない。自分一人でシコシコと絵を描いたり、音を鳴らしたりしてそれで満足しているって場合は多いです。子供の落書きにせよ楽器の練習にせよ、他人が近くにいると気が散るとか、恥ずかしいとか、自分の世界だけで完結したい、外部に提出なんておよそ考えない。そんなところから物事が始まったりもします。

 が、やってりゃ誰でも上手になるもので、外部に出しても恥ずかしくないくらいのレベルにもなります。そうなると他人に見せたくもなってきますよね。このあたりから自他が入り乱れてきます。展覧会に出品するとか、投稿・応募するとか、自分のサイトに展示しておくとか。こういう場合にも、まず第一順位には自分の表現欲求の満足がくるでしょう。とりあえずは自分が納得できるような作品を作ること、それが世間で受けようが受けまいが、自己の満足を追求する。そのうえで「あわよくば」他人に喜んでもらえたり、他人からの評価を受けたいと思う。それが趣味的なものであればあるほど、そうでしょう。

 ただし、このあたりは結構玉虫色なんですよね。自己実現欲求の他に、(他人から)承認(されたい)欲求というもの同じくらい強烈にありますから。自分の作りたいものを作るのは楽しいことですが、他人からきゃーきゃー言われるのも勝るとも劣らないくらい楽しい(笑)。

 製作者の心情というのは、大体においてこの二点がまぜこぜになります。特にギャグやお笑い系というのは、他人に笑ってもらって完結しますから、自分が満足するためには他者の存在というのはある意味では絶対必要だったりしますし。

 これで他人からも賞賛されたら言うことないですけど、自分は良かれと思って作ったけど思ったほど他人から受けなかったということも往々にしてあるでしょう。つまり「自己満足はあるけど他者満足はない」「自己実現欲求は満たされたけど承認欲求は満たされなかった」という残念な事態ですね。

 でも、これはそんなに難しくないと思いますよ。多くの素人趣味レベルでは、他者承認が得られるかどうかは、素人離れして技量が高いかどうかってレベルでほとんど決まっちゃいますから。そこそこ上手だったら「おお」って他人は言ってくれるし、言ってくれないとき(承認を受けられない時)は、「自己満足にすぎない」という批判の仕方ではなく、単純に「ヘタクソ」と言われるだけでしょう。そんな「自己満足の悩み」って話でもないように思います。

プロの場合〜人類普遍という第三の視点

 しかしプロやセミプロのレベルになると複雑になっていくように思います。明確に「クライアント」という存在が出てきますから。

 例えば中世貴族が自画像を画家に書かせるとか、お抱えの宮廷作曲家に作曲を依頼するような場合、クライアントの意向が非常に重要になります。なんぼ本人が満足しようが、後世から傑作と絶賛されようが、この貴族が芸術音痴でダメ出しをしたら、それで終わり。これって注文住宅や服の仕立てのように単なる請負契約や委任契約じゃないの?という気もしますね。普通のプロの仕事、完全他者のプロのビジネス領域のようにも見える。

 しかし、古今東西多くの芸術が、王族貴族やメディチ家のような富豪パトロンによって製作資金や表現の場を得て、それで成り立ってきているから話はややこしい。モーツアルトがなんたら伯爵から依頼を受けて◯◯を作曲しました、今では人類の至宝のような名曲として絶賛されていますって場合、そこではなんたら伯爵(依頼者)の意向なんか塵ほどにも斟酌されない。もしかしたら「こんなんダメ!」って激怒して駄目出ししたかもしれないけど、今となってはそんなの単なるエピソード、トリビアであり、どーでもいい。ここがいわゆる芸術と、個人の仕立服や注文住宅と違うところです。

 つまり、個人レベルで完結する普通のビジネスと違い、アートや芸術は時を超えて存続し、鑑賞されうる。偉大な作品における外部/他者とは単なる依頼者である貴族にとどまらず「後世の全人類」でもある。いくらビジネス倫理が厳しかろうがプロの掟が凄かろうが、あんなもん所詮吹けば飛ぶような一私人の金儲けのあれこれでしかない。人類史に残る遺産の巨大スケールに比べたら何ほどのこともない。

 ここで芸術的完成度 VS 商業的成功という古典的なショービジネスの矛盾も絡むのですが、「自己満足」との関係はどうなるかというと、後世の全人類を相手にする以上、あれこれ忖度してウケ狙いに走るなんて事は出来っこないです。存命中はおろか、向こう百年単位で駄作、ガラクタ呼ばわりされながらも、それ以降になって急に持て囃されるかもしれない。江戸時代の浮世絵なんか、リアルタイムの庶民からすれば現代の雑誌やエロ本(春画が多いし)みたいなもので芸術的価値なんかほとんどゼロに近かったでしょう。当時の「お芸術」は狩野派の襖絵とかでしたからね。それが今では大英博物館に飾られている。わからんのですよ。

 だとしたら製作者としてはどうしたらいいかといえば、自分が思う最高の完成度のものを作るしかない。つまりは自己満足を極めるしかなく、自己満足こそが唯一絶対の正義だったりもするわけです。それが報われるかどうかは運(笑)。作品発表時、たまたま「外部」のレベルや波長が合致してれば賞賛され、合致しなければゴミ呼ばわりされるだけ。且つその基準は時とともに移り変わるのだけど、その時点で依頼者や世間のお気に召さなかったら「自己満足に過ぎない」と激しく罵倒されるかもしれない。でも、それで作品の最終評価が下されているわけでもない。後世からみれば、その当時「自己満足〜」って酷評した評論家が見る目のない馬鹿扱いされるかもしれない。

「外部」の二面性

 これをどう考えればいいのか?
 アートの世界では、製作者は常に二つの局面で外部と接している。第一局面は商業的契約者やその背後の消費者であり、第二局面は「未来の人類全員」という時空間を超えた途方もなく普遍的な関係性です。そんな不思議な二重構造があるんでしょう。

 第二局面は、あまりにも途方もないのでリアリティがないのですが、でも何らかのアートを志す人であれば、例え高校の部活レベルであろうとも、それは意識すると思いますよ。過去から未来に連綿と続く作品の系譜に自分も参加したいって思うんじゃないかな。少なくとも製作過程においては、過去の名作に影響されたり対抗意識を燃やしたり、時空間を超越したアート空間みたいなところでものを考えると思います。この第二局面においては、製作者は自分の信じる最高レベルを制作する(自己満足に徹する)のが勤めであり、人類は感性をビンビンに研ぎ澄ませて鑑賞するのが努めであるという、お伽話のようなピュアな世界です。

 が、問題は、そんなファンタジックな第二局面は、まずもって即効性がないし、商業的成功を約束するものでもないことです。実際、第二局面レベルで成功といってもいい水準に達してたとしても、世に出すのがあまりにも早過ぎたり、あまりにも画期的過ぎるがゆえに全然商業的に報われない人も沢山います。プロの連中はさすがにその真価を知っているから、多大な影響を受けました、もう神ですよと絶賛しまくるんだけど、でも一般人的にはようわからんし、結局は売れないまんまってのがよくあります。だから報酬は「よく分かっている人からの賛辞」です。しかし、クリエーターとしてはこれに勝る栄誉はないでしょう。

 とはいっても、後世の歴史を変えるくらいの傑作なんかそうそう生まれるわけはなく、多くはプロとして認められる水準(それだけでも大したものだが)を商業的成功を目指して、あるいは契約どおりに作るしかないです。辛いよね。この場合売れなかったら「自己満足だといって批判される」わけですが、しかし、多くの場合は「自己満足することすら許されない」状況にあるでしょう。売るために不本意な曲を書いたり、メンバーの親友の首を切ったり、大した必然性もないのに色っぽいシーンを入れたり、売れてるだけの大根役者を登場させたり、「だー!もー!」と椅子を蹴っ飛ばしたり、深夜のバーで酔いつぶれたりするもんでしょう。辛いよね。そこまで第一局面で身を削るように努力をしても、それでも売れるかどうかはわからない。売れなかったら印税が少ないとか、連載打ち切りになるとか辛いリアクションを被る。で、ますます深酒にはまってアル中になる。

 逆に、第一局面は成功しても、第二局面は全然ダメという真逆の場合もあります。商業的には大成功なんだけど、耳や目の肥えた連中からは取るに足らない使い捨ての大衆迎合商品、ゴミ扱いされ、おそらくは歴史にも刻まれないという。でも、本人だっていやしくもプロの技量は身につけてるんだから第二局面で評価されてないことは凄く悔しいでしょう。なまじ売れてることが色眼鏡になって過小評価されることすらある。これも辛いよなあ。ビートルズみたいに第一、第二両方で評価されればいいんだけど、そんなの滅多にないですよ。第一○第二×が良いか、第一×第二○が良いか、究極の選択です。

 さて、何が言いたいのかというと、えーと、僕自身よくわからないんだけど(笑)、少なくともアートの世界では、それが真剣に自己表現としてやられているならば(単にお金稼ぎの技術の切り売りではなく)、「自己満足」というのは批判の内容にはならないのではないかと思うのです。

 アートなんか、ひとりよがりで、独善的であっていい。まさにワン&オンリーの感性の発露、顕現化として作品が出来るのだから(誰がやっても似たようなもんを作っても意味ないんだから)、自己満足こそがメインの尺度になると思います。だからアーチストに対しては、自己満足に徹してくださいって言うしかないですよ。本人が最高だと思えるものを発表してくれと。そりゃ第一局面の直接の当事者(出版社の担当者とか、画商とか)は、「自己満足に過ぎない」「売れなきゃ意味が無いんだ」とか色々言うだろうけど、それは売れて儲けようとする人が言うだけの話でしょ。僕ら背後の消費者・一般鑑賞者においては、作品が面白いかどうかが全てです。その意味で限りなく第二局面に近い立ち位置にいるのであり、そこで求めるのは、製作者がサイコーだと思うものを出してくれよってことです。変に売れ線狙ったり、媚びたりしないでさ。その結果、つまんねーなと思ったとしても、それはただ「自分には合わない」というだけの話であって、それを「自己満足に過ぎない」という形では批判したくないです。むしろ「自己満足が足りない(売れ線に走るんじゃないよ的な)」はあっても。

 もっと言えば、「製作者の自己満足以上のものを求める」ってなんなのよ?です。それは自己満足を犠牲にしろということ、つまり製作者的には完成度を落とせということでもあるわけで、それでいいのか?って気もします。それを言えるのは、上に書いたように、それで儲けようという人、その製作に投資したり切実な利害関係を持ってる人くらいのもので、そこまでの利害関係を持ってない一般鑑賞者が、なにやら業界ズレした物言いで「自己満足〜」とかいうのには違和感があります。

共有エリアその2〜ボランティア

 最も問題になるのがボランティアなどの、自分のためにやってるのか他人のためにやってるのかの立ち位置が難しい領域だと思います。

迷惑でなければ良い

 だんだん長くなってきたから、簡単に結論だけ先に述べておきますが、ボランティアに関して僕が思うのは、それが「迷惑」にならない限り自己満足であっても良い、という立場です。これはボランティアの定義や位置づけに関わる難しい問題なんですけど、「世のため人のため」って大義が突出し過ぎると、なにやら偽善的な香りも出てきてしまって、妙な胡散臭さや、それゆえの反発もあって妙な話にもなりかねない。それらを一律に言うのは難しいのですが、敢えていえば、「自分のため」「他人のため」が50:50でイーブンくらいじゃないかなあって思います。「世のため人のため、そして自分のため」くらいの感覚。

 「他人のために自分を犠牲にして〜」みたいな構図にしてしまうと、他者への現実的利益が少なかったり、その行為に何らかの充足感を感じようとすると「自己満足」云々の批判がでてきたりして、なんか変だな?と思うのです。なんの義務もなく、自発的に(ボランタリーに)やるというのは、やりたいからやっている、好きでやっているというのが原点であり、それはやることで自分が満足したいってモチベーションを不可避的に含みます。だから自己満足はボランティアの本質ですらあると思う。それはアートと同じことです。人間、自分の意思で好きにやってることは、大なり小なり自己が満足したいからやってるわけでしょ?それを批判してたら、何にもできなくなっちゃうじゃん。楽しくないよ、それ。

 ただ批判されるとしたら、自己満足に”留まってる”という部分だと思います。良かれと思ってあれこれやってるんだけど、どうにもこうにもトンチンカンの空回りで、対象となる人達からしたら、むしろ有難迷惑であるような場合です。でも、客観的な効用として全くゼロであっても良いとは思います。マイナスでなければ。この中には「やってやってる」という偉そげな態度で不愉快にさせるという面も含みます。トータルでみて、マイナスが多ければ、それは単なる「迷惑行為」であって批判されてもしょうがないし、批判もすべきでしょう。その迷惑である部分、救済ではなく加害行為であるという部分を指して、あんた方は良かれと思ってやってるんだろうけど、そんなの自己満足に過ぎないよっていい方は、これはアリだと思います。より正確に「加害行為です」「迷惑です」ってハッキリ言ったほうが分かりやすいんですけど(笑)。

 でも、マイナスでないなら、プラス部分が微々たるものであろうとも、やった甲斐はあったんだし、それでいいじゃん。それを第三者が自己満足に過ぎないと非難するのは、ちょっと違うんじゃねーかって気がします。これは2点あって、なんで第三者がそんな批判を出来るのか?です。皆の税金使って効率悪いことをしてたら納税者としては批判できますよ。自分らのお金を浪費してるんだから。でも、利害関係もない他人のお金を他人が使って何をしようがそんなの自由じゃん。そのへんの川原で誰かがバーベキューやってるのと何が違う?

 もう一点は、それを自己満足だという表現で批判する点です。今言ったように好きでやってることは自己満足が当然のベースになる。それを非難される言われはない。あるとするなら、その行為が目的に照らして効果がなく、却って迷惑をかけているという加害性にのみある筈でしょう。だからやってる本人が満足してるかどうかではなく、行為の客観的加害性を主張立証すべきちゃうのん?そんな行為者の人格特性(ええカッコしいの偽善者であるかのような)に話をすり替えてはあかんよって思うのです。そんなん言われたら、アホらしくてボランティアなんか誰もせーへんちゃうの?で、誰が困るの?その分国や地方自体がキッチリ&手厚く&漏れ無くやってくれるとでも思ってるいるのか?

 そもそもなんで税金収めてそれを種々の救済や福祉に使うのか?といえば、その本質は助け合いであり、相互扶助こそが社会の本質でしょう。互助なき社会は、すなわち弱肉強食で、それで良いなら社会なんか作る必要などない。古今東西どんな社会にも互助性はある。幼児や老人は部族で守り、食糧を分け与える。仲間であろうが老齢疾病その他で働けなくなってお荷物になった途端、「お前いらね」で速攻でグサグサ殺している社会なんかない。戦闘機能だけで成り立ってる軍隊ですら、味方が窮地に陥れば救援にいくし、傷病兵は後方に回され手当を受ける。この社会の本質たる相互扶助機能を、税金&公権力というやり方で実現するのも一法なら、自分らができる事をどんどんやっていくという方法もまた一法です。どっちか一つしか許されないなんて理由はどこにもない。てか税金&公権力だって「自分らでできること」のうちの一形態でしょ。

自己満足だからこそ結果を出す

 オーストラリアは投票率ほぼ100%で、公権力によるあれこれは非常に緻密にやってるけど、同時にボランティア率もまためちゃくちゃ高い(リアルタイムで全国民の40%はなんかやってる)。特に教会その他の自発団体が数えきれないくらいある。もう思いつたらすぐやる、すぐ動く。お金も出すけど、手も足も出す。それでも足りない、まだまだ足りないって言っている。

 で、ここまでクソ当たり前の行為になってると、ボランティア自体がそんなに人間愛にあふれた素晴らしいものでもなくなってくるのですね。そんな「こそばゆい」ものではなく、普通に税金納めるくらいの当たり前の話で、世のために人のためって部分よりも、自分のためって要素が強く言われるのですね。曰くコミュニティ感覚っていいよね、曰く色んな人と友達になれるよ、曰く適度に身体を動かすのは健康にいいよね。そして一番よく言われるのは"Make a diffrence"です。よく使われる英語表現で、「違いを作る」=何かいいものを創りあげる、達成するという意味です。

 例えば、Seek Volunteerというサイトで、なんでボランティアをやるの(Why)という項目にこう書かれていました。”There is a great deal of satisfaction that comes from making a difference to people in your local community. Volunteering offers many other rewards too. You can learn new skills and gain valuable experience in a wide range of areas that may or may not be related to your paid work. It's also a great way to meet new people who share your interests.”あなたの住んでるローカルコミュニティに”違いを作る(住みやすいものにする)”ことによる大きな満足感があります。ボランティアは他にも沢山のご褒美があります。幅広いレンジから新しいスキルを学べるし価値ある経験も得られます。それはあなたの仕事に関係あるかもしれないし、ないかもしれない(あればあったで仕事の役にたつし、なければ新しい世界を知ることが出来る)。あなたの興味のある分野において新しい友だちを得る機会でもあります。

 要するにボランティアの「自分のため」性であり、自己満足性です。ただし、それだけに逆説的に結果や効果に関してはシビアで、オージーって仕事はいい加減なくせに、ボランティアになるとめちゃくちゃ有能だったりして、キビキビ動くのですね。もうスポーツ感覚みたいなもので、金もらって仕事してる方が楽だという話も(笑)。

 ボランティアは自分のためでいいと思います。自己満足でいい。ただし、そこに論理のツイストがあって、そこまで自分で好きにやってる以上、やっぱそれなりにキッチリ結果は出さなきゃね、とつながる。面白いでしょ。自己満足だからこそ最高の結果を出せなきゃ嘘だろ?だって好きでやってんだろ?という感覚です。イヤイヤやらされてるなら結果出せなくてもしょうがないけど、好きでやってるんだったら結果だそうじゃんって。僕はこの感覚の方が、突き抜けてて、陽性で、生産的で好きですけどね。

最後まで満足しないのが自分

 自己満足についてあれこれ書きましたが、最後にこれだけは書きたいことは、世界で一番気難しくて、最もダメ出しを多くする人は、他ならぬ自分であるということです。

 どんなにうまく出来た、サイコーだぜとか思っても、しばらくしたら、いやもうちょっとイケたんじゃないか、よく考えたらあそこがダメだ、ここが足りないとかブツブツ言い出すのも自分です。世界中の全員が満足してても、最後まで満足しないのは、多分自分ですよ。料理とか作っててもそうですよね。皆のためにご馳走を作るんだけど、皆が「おいしーい!」と喜んでても、製作者がただ一人憮然とした表情で不機嫌だったりする。彼の頭のなかには、「こういうものを作ろう」という理想の完成図があったんだけど、現実のものは必ずやどっかしら足りない。ダシがちゃんと出てないとか、クド過ぎる、薄すぎる、煮崩れたとか、盛り付けがダサいとか、批判点は山ほど出てくる。だから一人で「ダメだ、こんなもん!」とかムカついているという。

 だから、自己満足とかおっしゃいますけど、自分を満足させるのが一番難しいと思います。



 

文責:田村



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