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今週の一枚(2015/06/22)




Essay 728:子供でも分かるぶっとい理屈

 撮影場所は、Lindfield。Upper Northの静かな高級住宅街。
 これは駅から、駅裏の商店街を撮ったもの。何の店なのかな〜って見ていると面白い。左端からお惣菜屋さん&ケイタリングのお店、次はこれはエステかな?そして不動産屋。次はギフト系というか、気の利いたアイテムを売ってる店。隣は「オランダの隠れ家」という店名だけど、これもギフト系かしら。ここでパーティ用のプレゼントを直前調達して家を訪問する、、のかな?どうなんだろ?

壮麗なる理論の宮殿

 
 複雑で精巧な理論体系はある種の魅力を放つ。
 それは偏執的なまでに詳細に描きこまれた曼荼羅やアラベスクが、その緻密さがゆえに魅力を醸しだすように。

 理論も極めればそうなる。
 まるでガウディの建造物のように壮麗な理の宮殿を構築し、訪れた者を見上げさせ、感嘆させる。

 しかし、それは趣味なのだ。あるいはアートなのだ。
 ある種の魅力を持つし美しくもあるのだが、それが正しいのか?役に立つのか?といえば、それは別次元の問題である。



 法学部に入ると刑法総論をやるが、これが壮麗な理の体系である。
 形而上学思考の典型というか、抽象的・概念操作能力を極限まで酷使する。大げさなようだが、ついこないだまで高校生だった当時の自分にはそう思えた。子供の頃から理屈っぽくて、屁理屈・小理屈には多少の自信アリだった自分が、実は虫ケラに過ぎないことを教えてくれた。大人の本物の理屈に比べればしょせんはガキのお遊びだったのねと。

 「違法性阻却事由の錯誤」という定番論点がある。「違法性阻却事由(正当防衛など)」がないにも関わらずあると誤信して殺してしまったような場合。暗闇から誰か出てきていきなり内ポケットに手をやったので(じつはタバコを取るだけだったのに)ピストルで撃たれると誤解して、先手必勝とばかりに殴りかかって撲殺してしまったという場合、これは正当防衛になるのか、それとも単なるカンチガイで普通の殺人罪なのか。

 断片的な事例で直感的に自分はこう思うとぽっと言うのは簡単である。しかし「ならばこれは?」と少しづつ事例を変形されてどこまでOKでどこからNGになるのかを問われていくと曖昧になってきてボロを出す。その統一的な基準は何なのか、なぜそれが正しいのか論証せよと言われる。さらに、他に数多ある刑法総論の各論点における自説と、いかに論理的整合性を保つかとなると話はマトリクス的&飛躍的に難しくなる。例えば、共犯論の本質について共犯従属性説に立つのならば、違法性阻却事由の錯誤についてこの見解をとるのは論理矛盾であるとかないとか。殺人ひとつとってもその形態は数百数千というパターンがあり、それら全てについて論理矛盾を犯すことなく自説を展開するのは容易なことではない。てか普通の人には不可能。多少「理屈っぽい」程度のレベルでも話にならない。

 ちなみに、僕の当時の司法試験の最後の口頭試問(口述試験)では、これをやられる。閻魔大王の前に引き出された亡者のように、我が国最高レベルの学者・実務家のタッグチームの前に引き出された受験生は、猫にいたぶられるネズミのように「じゃあ、この場合は?」と矢継ぎ早に聞かれ、進退窮まって弁慶のように立ったまま往生する。失敗したら死刑同然(これまでの苦節10年の努力も水の泡)という心理状態で30分間ねっちりとやられ、その間に何度も死ぬ。「人生最悪の時間」とよく言われるが、それをほぼ10日にわたって7科目もやる。もう始まる直前は「くそったりゃ〜!死んだりゃ〜!」と出入り時のヤクザのように腹を据えて突撃し、ズタボロに斬られるから、もうメンタル鍛えられる。僕の場合はあろうことか一回これで落ちているから、2年連続で14回もやっている。鍛えられる鍛えられる。もう二度とやりたくないね。

 ただし、どんなに心血注いで絢爛たる理の王宮を構築しようとも、だからといってこの世の犯罪が減るわけでもない。とある犯罪者が心から悔い改めてくれるというものでもない。現実的な効用としては無に等しい(もっとも、まるで無駄ということはなく、これはこれで、他人の人生に重大な影響を及ぼす犯罪になるか・ならないかを明確に規定する大事な議論ではあるのだが、しかし)、理論体系が壮麗であることと、現実にどれだけのインパクトを与えるかという問題は別個の次元に属する。

 虚しさを覚えながらも必死に勉強しながら、徐々に悟っていった。
緻密な理論構成は、これは官僚的な実務処理においては非常に有用ではあるが、大きな戦略論や、現実を動かす場合には特に必要ではないなと。

 では、現実を動かし、現実世界に動く場合に何が必要かといえば、「子供でもわかるぶっとい理屈」であると思う。誰が考えても「そりゃそうだ」という巨木なような理屈だけで良いのではないか。巨木すぎて理屈や法則というよりも、単なる事実にしか思えないくらいのもの。それだけ良いのではないか。逆に気をつけるべきは、細かな枝葉に気を取られて、そこに巨木があることを忘れてしまうことである。

 その巨木なような理屈とは、「人はいつか必ず死ぬ」という理屈(事実)であったり、「いつ死ぬかは事前にはわからない」ことであったり。以下、思いつくまま述べる。


駅前大通り=Pacific HWY沿いの店。ペルシャ料理屋とインド料理屋が並んでます。

自分はいつか死ぬし、その死に方について事前に予測はできない

 言うまでもないことである。
 誰もが知ってることではあるが、誰もが実感できないことでもある。なぜならまだ誰も死んだことがないからだ。死者の世界があるならば、そこでは全員が経験者であろうが、この生者の世界では誰もが未経験者で、いわば童貞の集団のようなもの。いわゆる死生観というのものを如何に厳粛な面持ちで語ろうとも、それは未経験の生者の死生観である。童貞達が厳粛な面持ちで女体のあれこれを語っているようなもので、いささか滑稽と言えなくもない。

 わからないから考えにくい。「いつか」というのは「永遠の先に」くらいの非現実性しか持たず、この身がそれを体験するということが中々腑に落ちない。腑に落ちた時には死んでいる。厄介な問題である。

 死後の世界があるかどうかはともかく、少なくとも現在の生活環境や自我環境について激変を余儀なくされるのは確実である。死んでいく自分の主観視点だけでみれば、全宇宙が消滅するのにほぼ等しいくらいの衝撃であろう。これに比べたらハルマゲドンなどどってことないし、大地震も噴火も些細な出来事に過ぎない。なんせ全宇宙が消滅するのだ。これほどまでに巨大なことが、そう遠くない将来に絶対に自分は体験するのだ。

 それをとことん理解しようとすればするほど、あらゆる物事の意味が変わり、悩みの意味も変わる。全ての悩みは「時が全てを解決する」のだ。解決というか悩みそれ自体が消滅する。なぜなら時間がきたら巨大な地すべりに押し流されるように一切合切無くなってしまうのだから。ここで、ある宗教に帰依し死後の王国を確信している人は多少異なるだろう。死後の王国でいかに有利な地位を占めるか、そのために今何を努力すべきかが漠然とでも整合する。しかし死後の世界とその構造を確信できない人に、何をどう努力せよというのか。それは例えば、存在自体が疑わしい大学の入試のために受験勉強せよというようなものである。

 話を生前に局限しても何が明らかになるというものでもない。
 「老後を制するものは天下を制する」的な日本のメンタリティについてかつて書いたことがあるが、老後とはいつのことなのだ。退職してからの十数年ばかりの期間のことをいうのか。そこでミジメな思いをしないために、今からしっかり貯蓄に励みましょう、年金を払いましょうといった類のことだろうが、「ミジメな思い」って具体的になんなのか。お金がなくて路上で凍死することか、うらびれたアパートの一室で誰一人身寄りも友達もないまま孤独に打ちのめされながら過ごすことなのだろうか。しかしそれがどんなに苦痛に満ちようと、どんなゴージャスなハーレム部屋にいようとも、時間が来たらどうせ世界は消滅するのだ。その十数年かそこらの期間、全体からすれば10-20%あるかないかという期間、そのための残余の80-90%を犠牲にせよというのはやや間尺に合わない。それに、対策といっても経済的安定性だけのことだろう。話し相手のいない孤独な寂寥感は、うらびれた一室でそれを感じるよりも、ゴージャスな一室でそうなる方がより一層辛いともいえる。要は、死刑囚の待合室が豪華か質素かの違いでしかない。

 あるいはこれがゲームだとしたら終了時に持ち点を計算して多いほうが勝ち、というゲームではないといえる。終了した時点でプレーヤーも何もかも消滅するのだから、勝ちもクソもない。言うならばどこかの遊園地にいって、午後5時の閉園時間までにどう過ごすかという問題に近い。だとすれば午後3時以降(老後)にクライマックスを持ってこなければならない理由もない。その頃には疲れきっていてジェットコースターに乗る元気もなくなっているかもしれない。そもそも5時に閉園になる事自体が確実ではない。もしかしたらお昼前の11時くらいに閉まってしまうかもしれないし、延々と夜の10時くらいまでやってるかもしれない。

 だとすれば、人生設計とは、どれだけあるのか分からない不確定な時間を、どう使えば自分がいちばん納得できるかということなのだろう。最後のクライマックスを持ってきたい人もいるだろうし、体力も感性も鋭敏な初期に、できるだけ多くの感動をゲットしておきたいという人もいるだろう。そこは人それぞれ。


 自分の場合は、前にも書いたように、高校の時に「40歳で死ぬ」と一応仮ぎめした。なぜかといえば、17歳かそこらで40歳過ぎた自分などおよそ想像の埒外で、もう考えるのは「無理!」と思ったからだ。あまりにも長くて、あまりにも不確定要素が多すぎて、計画の立てようがない。手頃なサイズにちょん切って、このくらいなら不慮の出来事で死ぬ確率も低かろうというあたり。とりあえず20年ちょいの間に、「俺はこれだけはやったぞ」と言えるような、ちょっと誇らしげになれるくらいの、ちょっと自己満足に浸れるくらいの、でもって普通に考えたら絶対無理って思えて、それが逆に馬鹿パワーを出してくれるくらいの「冒険」をやろうと。そうだそうだそうしようと決めた。自分でもナイスなアイディアだと思うし、実は今でもそう思っている。

 なぜなら、仮にダメでも目標が無謀なくらいに高かったら諦めもつくというものだし、途中で不慮の死を迎えたとしたも「志半ばにして〜」ってカッコいいじゃんって。また「苦い挫折」を味わうのもカッコよさげだし、挑戦しなければ挫折すらできないわけだし。これが妙に手頃に成功しやすい中途半端な目標だったら、失敗したときは挫折というよりも、単にドン臭いだけっぽく思えてダサいじゃないかと。要は自分にとって一番カッコよさげだったらそれで良いわけで、当時の僕にはそれ以上の価値体系を持ち得なかった。でも40歳で死ぬと決めたら、いわゆる老後のことなど一切考えなくて良いから気が楽であった。

 ところで今は予定終了時間から遥かに過ぎてしまって、これが風俗なら延長タイムを重ねているような状況である。「お客さん、いい加減にしてくださいよ」って言われそうなくらいである。初期の設定によれば、自分は既に「老後」である。というよりも、はっきり言って「死後」である。I am 幽霊である。さてどうしたもんかね?という。そこでの「魅惑の延長プラン」のあれこれは過去にいろいろ書いたので、今回は割愛する。

 例によってやくたいもないことを書き綴って皆様の貴重なお時間を無駄にしているわけだが、ここで言いたいのは、そう遠くない将来に、絶対に全宇宙が消滅する(主観的には)のが確実だという、子供でもわかるぶっとい理屈(事実)を、とことん真剣に考えると、自ずと見えてくるものがあるのではないかということである。繰り返しになるが、全宇宙の消滅が、数十年以内に、絶対に!生じるのである。途方も無いことである。驚天動地どころではない。これに比べれば大地震など、ははは、しょせんは地球のどっかが数分間だけちょびっと揺れるだけじゃないですか。



綺麗な秋晴れ

日本の立ち位置=風魔一族

 言うまでもなく日本は世界のハズレにある。ド田舎といっていい。別にどこを中心にするかは人それぞれの趣味ではあるが、巨大なユーラシア大陸の端っこの、そのまた切れっ端のような島であり、ここを中心だと思うのは無理がある。もし、自分が宇宙人で、地球という惑星に移住してきたとしても、住むとしたらどっか大陸のど真ん中あたりだろうし、間違っても今の日本の位置には着陸しないのではないか。またリアルな政治経済など地政学的な意味でも、端っこであろう。それが証拠に「極東」と言われている。「極」である。南極の極、極道の極である。それが立ち位置。

 人数的には1億ちょっとで世界70億の70分の1。実際の国別比較をすれば意外と大きな国なのであるが(ベスト10にはいるかどうかってくらい)なのだが、人数的にマジョリティを誇るわけにはいかない。また、政治経済文化のあらゆる面においても、世界のトレンドを引っ張っていくというリーダーシップは薄い。つまりは、70人くらい入る大きな教室の、隅っこの方の席で、ちょっと変わった趣味をもっている「おたく」みたいな立ち位置が日本であろう。「ふーん、変わってるね」と皆に思われてそうで、それが劣等感でもあり優越感でもあるという、屈折した自意識過剰になりがちなポジション。まあ、わかるね。

 どこの地で一生を過ごすかは個々人の趣味ではあるが、自分の場合、地球全体を子供のように眺めた場合、ここで一生を終えるというのは、「えらく偏ってるな〜」とは感じた。ガラパゴスや北朝鮮で一生を終えるみたいな。独特のシキタリがやかましく、独自の価値観をもつ濃厚な一族なのであるが、なんかそれって、人里はなれた山奥に棲む「風魔一族の掟」みたいで、なんだかな〜とは思っていた。村の長老達は、風魔の掟が唯一絶対の価値であると押し付けてはくるのであるが、まあ「郷に入れば郷に従え」的に納得できる部分もあるのだが、そんな辺境地帯で、そんな偏った価値観に盲目的に染まって生きて死んでいくのが、バランスのとれた感じには中々思えなかった。

 まあ、そういうことは地球の何処に行ってもあるのであって、別に日本だけの話ではないが、だからこそあれこれやって中和させて無効化させたいという気分もあった。とりあえず他人に指図されるのが大嫌いな性分なので。広島にはいけばカープが正義、名古屋にいけばドラゴンズが正義というローカル正義はどこにでもあるが、しかし一歩離れたらまるで無力であり、全体からすれば何の根拠もない。何の根拠もないような物事を、金科玉条のように崇め奉って一生を終えるのは、うーん、そこまで人生達観できてないよなとは思った。崇め奉るべき物事は、自分の配偶者や家族くらいで手一杯であり、それ以上はこの肥大したエゴを持ってる自分には難しいよな、と。

 今でもそうで、「日本では○○で」と、日本で○○であることがあたかも本来の正義であるかのようには自分は考えない。「日本では〜」というのと「風魔では〜」というのがほぼ等価。ま、風魔ではそうなんだろうな〜、自分だって風魔一族だから知ってるよ、いやあ懐かしいなってノスタルジックに思う程度。参考にしようとすら思わん。ま、ビジネス的には多少知っておかなくちゃね〜って株価の動向をチェックするくらいには見るけど。

 さてそこまで日本を相対的に見れてしまうと、日本のあれこれも子供が考えるようにぶっとく思えるだった。

借金1000兆円 

 何をどう壮麗な経済学の論理の宮殿をおったてようとも、どう言い繕うとも、1000兆円も借金があったらダメでしょ。もうこの一点だけで、風魔の里にいたらヤバくない?って思う。

 これは返せるかどうかとか、国債価格の上昇が金融機関の崩壊を招くという普通の話だけではない。そんなに借金浸りになっている生活態度そのものが狂ってるだろって思う点にある。仮に今、魔法のように1000兆円が完済できたとしても、生活態度というか社会のシステムそのものを変えないとどうしようもないと思う。帳尻合わせる能力なさすぎ。

 月収20万なのに毎月40万使っている人は浪費家であり、借金まみれになり、破産する。借金に借金を重ねれば、破綻は先送りに出来るのであるが、しかし、それは問題の解決ではない。自分もこういう人とは結婚したくないな。

 景気対策とか公共投資とか、今も東京オリンピックのためにやっているけど、経済的に言えばオーガニックな需要ではなく、偽装された需要、嘘っこの需要である。借金が1000兆円あるというのは(その全てが景気対策ではないにせよ)、1000兆円需要と景気を偽装してきたということでもある。儲ってもいない店で、バイト代払ってサクラのお客さんをこさせて、一見流行っているかのように見せると。それで客が客を呼んで本当に流行って儲かるなら、法人税収入も増えて、景気対策分の元も取れるはずなんだけど、借金が積み上がってるということは、それにも失敗しているということだろう。まあ、まるで無駄とは言わないまでも、素晴らしい成果とは到底言えない。そしてバイト代の支払いに追われている。

 数字というのは残酷で頑固なもの。いくら人間レベルで「それは言わない約束」とか、なかったふりをしていても、あるものはある。どうしようもなく破綻するべくして破綻する。ある日手形が落とせなくなったときに、全ては暗転する。それはもう、破産案件をいくつもやってきて「なるほどね〜」と思った。幾ら社長がベンツ乗って、高級ホテルで派手にパーティやってたとしても、その翌日に破綻する。1+1は2なのだ。幾らバラ色の幻想を夢見ようが、声涙下る演説をかまして全員が涙滂沱で拍手感動しようが、ダメなものはダメ。いっそ清々しいくらいに残酷。根性で数字は変わらん。主観で客観は変わらん。客観を変えられるのは唯一客観のみ。

 もっと言えば破綻するかどうかよりも、日々の収支勘定の適正化こそが大事だと思う。その月の支出分をその月に稼げていたなら「健康」だが、支出分稼げない場合は、支出額を減らすか稼ぐ量を増やすしかない。当たり前の話。でもって、その人なり組織なりの運営が健康かどうかは、当たり前のことが当たり前に出来ているかどうかを見ればおおよその所は分かる。当たり前のことができていなかったらそれは不健康でありヤバい。ましてや不健康であるものをそうとは認識できず健康だと思っていたらもっとヤバく、更にときの政権の維持のためにアクセントをつけてメディアが報道するようになったら、かなりヤバい。20万の収入でしかないのに虎の子の預金を引き出して40万分豪遊して見栄を張る人は危ない。それを問題だと思ってなかったらさらに危ない。そこで残高を誤魔化したり、「今に一発当てるから」とかその場しのぎのことを言い始めたらもうどうしようもないってこと。子供でも分かる。



駅構内

原発やら何やら

 この点については議論百出だし、詳しく知るものではないのだけど、こういう「何が何だか〜」状態にある場合、裁判における事実認定のメソッドが役に立つ。つまり、原告被告双方に争いのない事実、どの立場からも承認されている鉄板の事実だけを拾い上げて、マッピングしてつないでみると、大体の所は分かると思う。

状況認識

 まず、何がどうなっているのか、適切な対応はできているのかという状況認識レベルの問題がある。
 自分としてはあれだけのことがあったので最初の1年は不手際続きでもしょうがないよなとは思ってた。全体像は分かりにくいわ、こうすれば良いというプロシージャーもないわ、だからダメっぽくてもしゃあないだろう、要はその1年で何を学んで、次につなげていくかでしょって。

 ところが時を追うごとに何やってんだかわからなくなり、いつ頃を目処にどうなるのかもよう分からん。それほど詳しく調べたわけでもないのだけど、一番の問題は肝心の部分がどうなっているのか誰も知らないことだろう。やれ◯号機のメルトダウンした燃料がまだ留まっているのか地面にめりこんでいるのか、何がどれだけどうなって、これからどうなるのか、なにしろ放射線量が高過ぎるから近寄れず、結局のところ「多分こうなってる”筈”」という推測の応酬になっているようだ。個々の推測内容の妥当性は分からないが、「推測」でしかない(明瞭に事実確認出来ていない)という点はどの立場からも共通して認められると思う。

 現状がどうなっているのか正確に分からなかったら、どういう対策をいつまでにどうするということが分かるわけがない。故に、この点は変数エックスというしかない。これが台風ならば、どのくらい大きな台風がどのあたりにいるのかさっぱり分からんという状況で台風対策を立てるようなものである。かなり難しい。

 普通そういう場合、「最悪の事態に備えて」「厳戒体制」「予断を許さない」という言葉が並んで、それなりの緊迫感をもつのだけど、今は逆にパニック防止の方がメインに来てるから、何がどうあろうとも結論は「安全」「大丈夫」にしなきゃいけないみたいな妙な話になっている傾向も無きにしもあらず。和歌でいえば下の句だけ先にできていて、上の句をそれに合わせて作るという感じか。そこから逆算して情報をどの時期にどれだけ小出しにしてインパクトを緩めるかという感じ。「そろそろこのくらいなら言ってもいいかな」「実は◯◯でした〜」みたいな。普通に考えたら、もうこの時点で嘘臭い。というか、現行の体制をある程度維持しようと思ったら、そうする以外にないというか、だから話を聞いてもあんまり意味がないとすら思える。

 また実際にも石棺化に成功したとかいう画期的な進捗話もないし、永久凍土壁も今どうなってるのかよう分からん。現場の方々は頑張っておられるのであろうが、何かがどーんと開けたという感じではなさげ。

実害か風評か

 一方、実害か風評被害かについては、これも個人的には全然分からんというのが正直なところ。というか誰にもわからないんじゃないの?

 放射線の何が悪いかといえば、自分の稚拙な理解によるとフリーラジカルを発生させるという点らしい(これはどの立場でもほぼ認められているんじゃないかな)。原子や分子には電子が通常二個二個づつカップルで存在する(対電子)。ところが彼/彼女にフラれた独り身の電子も存在し、これが相手が居ないので寂しいのかグレる。自由に飛び回って他の原子分子の電子を寝取ろうとする。これがフリーラジカル。奥様や旦那様を誘惑して幸福な家庭を破壊する「危険な男/女」みたいなものか。物質から電子が一個なくなると「酸化」したといい、フリーラジカルがよその電子を奪って寝取ると酸化が進み、鉄の錆のような、荒廃した家庭のような状態になる。放射線は様々の種類があるが、なんらかの物体やエネルギーを放射することで(β線は高速の電子など)、他の原子分子の電子を弾き飛ばしたりして、グレ独身のフリーラジカルを作ったり、生体細胞そのものを傷つけたりする。結果として、生体内の細胞がどんどん壊れてきて、DNA欠損を生じさせたりもする。

 フリーラジカルは別に放射線被曝によってだけでなく、なんでも生じる。普通に呼吸してても生じるし、ご飯食べても水飲んでも大気に晒されても生じる。またグレたフリーラジカルを良い子に矯正する酵素もあるし、まっとうにしてくれるいい友だち(栄養素)もあるらしい。

 ところで、生体内に50兆個もあるといわれる各細胞の新陳代謝や遺伝子コピーにおいては、常に100%成功するというものではなく、一定の比率で失敗する。コピーミスもあろうし、コピーする以前にどっかの化学結合がゆるんでダメになってしまう細胞もある。長い時間をかけていくと、ダメダメ細胞が増えてきて、身体の一定の機能が果たされなくなる。これを「老化」というし、ダメ状態がある部位や機能に集中したら「病気」と呼ばれる生理現象になる。遺伝子コピーもテロメアというコピー回数制限があり、一定数を超えるとコピーに失敗しはじめる。常に完璧コピーで細胞再生ができるのであれば、それは夢の不老不死だが、そんなことはありえず、どうしてもミスが蓄積し、またミス率もあがり、あっちこっちがぶっ壊れてきて、最後には脳細胞があかんようになってボケたり、遂にはまともに呼吸ができなくなったり、心臓が動かなくなって死ぬ。

 放射能(放射線を射出できる物質の状態)は、もとからある「身体がぶっ壊れて死んでいくプロセス」を増強させる。早い話が、老けやすくなり(エイジング)、また免疫力低下などで病気になりやすくなる。食べ物などで摂取する内部被曝で、しかも体内に残留し続ける「居座り」系の質の悪い放射性物質の場合、ずーっと体内でフリーラジカルを作るなど悪さをしつづける。周囲をダメにしていく物質という意味では、悪性の癌細胞みたいなものなのかもしれない。

 ただし放射線といってもさまざまであり、放射線を発生させる物質も種々。また、その被曝の態様も千差万別であり、その人の身体のどの細胞にどの程度影響を与えるかもケースバイケース。体内細胞はむちゃくちゃ沢山あるから、ちょっとやそっとぶっ壊れても、直ちに目に見えた影響はないのが普通。それだけにわかりにくい。もともと健康というのは、虫歯がそうであるように、ある状態の長い年月をかけての蓄積である。放射能がなくても、時間がたてばあちこちぶっ壊れて死んでいくその人の生体内の状況において、放射線が致命的な部分にたまたま集中的に作用してしまうと、意外と早い期間で致命的な結果がでることもあるし、かなり影響を受けてぶっ壊れたところで、だからといって生死や健康に目に見えた影響を与えないかもしれない。

つまり運

 以上のことを考えてみると、どこがどれだけ破損してどのような影響をうけるかは、結局のところ「運」だろう。

 長年の生活習慣で身体のどっかがヤバくなっていて、あと2ステップで発病になる段階まできているところで(一向聴)、そこにフリーラジカルなどの集中攻撃を受け続けて1ステップ加速し(聴牌)、たまたま連日の出張で疲労がピークに達して免疫力が落ちている段階できついインフルエンザに感染してしまい、さらに1ステップ距離を詰めて、ロン!メンタンピンドラ1満貫!ってこともあるだろう。あるいは、影響をきっちり受けて老化が進んでいたとしても、顔の皺がクッキリ刻まれる度合が数年レベルで早くなるだけとか、禿げるのが3年早くなっただけという残念だけど命に別状はない場合もあるだろう。人によっては、フリーラジカルの除去システムが強い体質も人もいようし、弱い人もいるし、その時の体調によっても違うだろう。酒酔いと同じようなものなのだろう。強い人も弱い人もいるし、すぐに酔いが回る日もある。

 そしてこれらの変化や因果関係については、まず絶対といっていいくらい分からないだろう。対象になる細胞数が50兆もあり、それらを一個一個リアルタイムに観察出来るわけがないので(そんなことが出来たら完璧な健康チェックが出来る)、被曝によって何がどうなったかのは永遠のミステリーである。ゆえにこれも変数であり、変数Yになる。ただし、同じ状況だったとしても、幼い子供、あるいは胎児において影響は深刻になるだろうなと推測できる。特に胎児は、最初は受精卵というシンプルな細胞が減数分裂を繰り返して猛烈な勢いで倍々に増えていくプロセスにあるのだから、その途中でなんらかの攻撃を受けてどっかが破損したら、破損した型紙で倍々に増えていくか、あるいはその部位の健全な細胞分裂が損なわれてしまうかもしれない。結果として機能欠損を被ったまま新生児になるかもしれず、僕のような延長タイムのオヤジとは話が違うだろうな〜というのは何となく想像できる。

 かくして、発信元になる原発の収束状況が変数Xであり、それがどういう体内変化を生じさせているかが変数Yになるのであるから、Xも不明、Yも不明だったら、結局のところ何もわからないに等しい。

つまり趣味

 さてこういう何もかもが不鮮明なリスクをいかにして管理するかは、その人の趣味である。趣味性が強くなるというよりも趣味性しかないのかもしれない。客観的実体が確認しがたく、あとはどれだけ「気になる」かどうかの問題だという意味では、宗教的なものに類似するかとも思う。例えば格安マンション物件があり、それはワケアリで、前の入居者が首吊り自殺をして幽霊が出るからだとなっていた場合、そんなことぜーんぜん気にしない人もいれば、気味悪がって手を出さない人もいる。それは趣味だろう。放射能は幽霊よりも確実にリスキーだとも言えるし、いや幽霊の方がリスキーだとも言えるかもしれない。客観的個別的に計測しにくい以上、あとは、その人の世界観にどういうストーリーがどう符合するかの問題に過ぎない。また幽霊を一笑に付する人でも、じゃあお前が住んでみろと言われたら二の足を踏むかもしれない。信じてはいないけど気味が悪いとか怖いという矛盾した心理は確かにある。つまり心理や趣味という解析不能な変数Zがあるといってもいい。ますます分けわからなくなる。

 ここで子供でもわかるようなぶっとい理屈で言うならば、被曝リスクというのは、終局的には計測不能ではあるが、致死的な場合も含んで何らかの健康被害をもたらすことはほぼ確実で、ただそれが事実上無影響のまま死んで逃げきれるか、あるか、当たりをひいてしまうかは日頃の行いと運次第、ということだろう。

 このリスクってどのくらいに換算したら良いのだろうか?すぐ死ぬってことは確率的に滅多になく、ただその確率が場合によって微妙に上下するようなもの、、、うーん、飛行機かな。飛行機が墜落して自分が死ぬ確率は自動車のそれよりも遥かに低いとされているから、実際上ほとんど気にしなくても良い。が、だからといってゼロであるわけではない。死ぬときは死ぬ。そして、統計上あるいはイメージ上、A航空とB航空とではA航空の方が何となく事故が多いように思われるが、A航空の方が1万円安い場合、さあ、どっちに乗るか?はその人次第ってあたりだろうか。

リターンの多寡

 どのリスクをどれだけ重視するかは人それぞれの趣味であるが、その前に、これも子供でもわかるような大きな法則を当てはめる必要がある。それは、そのリスクを選んだ場合、どれだけのリターンがあるのか?である。どれだけコスパが良いか、投下資本回収率があるか、危険負担利益率があるか。ハイリスクでもハイリターンだったらいっちょ勝負に出るという選択肢はあろうし、ローリターンでもローリスクだったらやってみようという考え方はある。しかしハイリスクでローリターンだったらリスク損だし、ましてやローリスクでもノーリターンだったらリスクを冒す意味がない。

 だもんで、この問題はどのくらいにリスクを見積もるかという問題でもあると同時に、どのくらいリターンを得るかという問題でもある。それはその人の生計方式やら、現状に対する愛着やら、単に勇気や行動力があるかないかでもあろう。客観的統一的に論じても、あまり意味のあることではないとも思う。

 これが結論になるのかどうかわからないが、被曝懸念を問うことは、一見客観問題を問うているようで、実はその人の主観世界=人生観や世界観を問うているのだろう。だから一義明白な解答があるわけではない。

期待できなくても仕方がない

 ところで、この問題について政府や財界、メディアに適切な対応を期待するのも無理だと思う。もし客観的真実として超ヤバくて、彼らが十分に知っていたとしても、それへの対策が東日本住人の強制移住という現実的には実行不可能なものだとするなら、シカトするしかないからである。英雄的決断&英雄的実行力があるならともかく、凡庸な為政者の場合、対処不能な問題は存在しないことにするのがベストである。最悪の事態になっても対処できる自信があることは、例えばエボラであるとか、鳥インフルくらいであれば大々的に対処してアピールするだろうが、出来ない問題は無かったことにするしかない。また真実、何ら問題がなかったとしても、回答は同じである。つまり、白であろうが黒であろうが、白と答える蓋然性が高い人間に聞く意味は無い。

 また財界の頂点が電力会社であるという経済的な権力構造、都内の不動産のふくみ資産で成り立ってる日本経済の構造。さらに減点方式でミソをつけた人間から死んでいくというサバイバルゲームである官僚世界の本質からすれば、非を認めることは自殺行為でもあるから、この点からも多くは期待できない。かといって別にそんなに邪悪な人々だとは思わない。僕らと同じ平均程度の倫理観と自己保身願望をもっていたとして、その”合理的行動”は何か?と考えたら、やはり期待できないし、期待できなくても不思議だとは思わない。

 最近の風魔の里は、なんだか知らないけどいちいち男気を出してたら出世できない社会構造になっているようで、そこで出世している人達に男気を期待しても無駄だとは思う。

 彼らが死ぬまで非を認めない可能性が高いということは、それで実損を被ったところで、なんらの補償や慰謝の措置は施されないだろうということでもある。血液製剤訴訟や過去の行政裁判のなりゆきを見れば容易に予想がつく。戦略的にはそこに期待するのは無益である。自分でなんとかするしかない。

延長タイムの自分

 さて、自分の場合はどうかというと、先に書いたように風俗延長タイムの身の上であるので、今更余命延長にそれほど強い執着があるわけでもない。ただし、QLOは高めておきたい。先日に、歯痛×腰痛×偏頭痛のトリプル攻撃を受けた身としては、あんな毎日が続くくらいだったら死んだほうがマシである。肉体的苦痛や制限が少ないまま短く死ぬのと、苦痛多めで長く生きるのとでは前者の方を好む。「太く短くプランで、お願いします」って感じ。ゆえに、リスクとはQOLの低下リスクと再定義できる。

 もっともだからといって何か具体的な行動方針が出てくるわけでもないのだが、40代の体調絶不調時代の蓄積でいささかのノウハウもないわけでもない。が、それが万能であるわけでもなく、絶対どっか舐めているんだろうな、いざ事が生じた時に死ぬほど後悔するだろうなというのも覚悟はしている(してるのか?)。自分に苦痛が降りかかってこない限り、真剣に対処しようとしない愚劣さは多分濃厚にあるだろうから、痛い思いをして改善していくしかなく、そして喉元過ぎれば熱さを忘れるという馬鹿丸出し人生がこれからも続くだろうという予測はつく。ただ、その前に一歩でも二歩でも先んじて対処できたら御の字である。それとて出来るかどうかわからないまでも、少なくとも考えることだけはやめないようにしようと思う。

 ちなみに日本に戻る可能性は、リターン次第である。帰って良いこと(新しいプロジェクトとか温泉とか)があれば帰ると。ただ日本で老いる場合、先の借金国富減少問題とリンクしてくる。

 その国でどれだけの水準の医療サービスを受けられるかは、その国がどれだけ富裕かということにダイレクトに比例する。それが先行き暗い場合、なるべくなら老化や要加療状態になるのは避けたい。今以上にアンチエイジングに真剣にならざるを得ない。加えてラジカルちゃん達が暴れて老化が促進されやすいとしたら、その点からもアンチエイジングに気をつけなければならないことになり、ダブルでアンチである。でもって世上言われている「○○が効果がある」というのも、放射能と同じくらいの計測不能性を持つので、それでは足りないと思う。アンチエイジング面だけで言うなら、日本に帰らないのが今のところ最良だろう。オーストラリアにも紫外線はあるし、山火事はあるしだが、これはリスクが定量計測化しうるし、対策も手慣れたものだし、リスクヘッジ面において一日の長はあるだろう。

 逆に言えば、それだけのリスクを負うに足りるだけのでっかいリターンが見込めるなら、いっちょ勝負に出てやるかって気にもなるだろう。要はリターン次第である。虎子を得たいなら虎穴に入るのもアリであるが、何の目的もなく虎穴に入るのはリスク損であるというだけの話。虎穴虎子は大げさに思えるなら、安いけど事故りそうな航空券を買うか問題といってもいい。






 

文責:田村



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