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今週の一枚(2015/05/25)




Essay 724:「なにもの」にもなれない僕らの「生存戦略」

〜「仕事がなくなる」オックスフォード論文と「輪(まわ)るピングドラム」

 撮影場所はノースのCammeray(キャムレイ)。

 20年以上住んでいても未だに行ったことないストリートとか結構あるので、気分転換のドライブ方々走り回っていたら、「お、こんなところに階段が!」で撮ったもの。いや、半端ない階段で、気分は部活の夏合宿。あるいは小学校時代住んでた多摩丘陵を思い出しました。

 坂のある町というのは、住むとなると地獄風味なんだろうけど、風景的には眺望が開けていいですよね。東京なども坂が多いし、研修所に通ってた湯島界隈の裏手の住宅街とかいい味出てます。大阪は、夕陽丘とか四天王寺あたりの下町風情も好きです。上町台地ですね。

仕事がなくなる


 あと20年で消滅する仕事、などという記事が最近多いです。
 今、ちゃらっと検索かけただけで、出るわ出るわ。
 オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」702業種を徹底調査してわかった
 アナタの仕事は大丈夫?2020年までになくなる職業
 働きたくても場がなくなる‥今後消えゆく職種とは?
 グーグルCEO「20年後、あなたが望もうが、望むまいが現在の仕事のほとんどが機械によって代行される。」
 未来に必ず無くなる!?37の仕事【アナタの会社は生き残れるか?】
などなど。

 元ネタはオックスフォード大学の論文=”THE FUTURE OF EMPLOYMENT: HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION? Carl Benedikt Frey and Michael A. Osborne   September 17, 2013”(72頁もあるPDFファイルなので大変だよ)であると思われますが、これが世界的に反響を呼んで、各界(とくに経済界)の著名人がこれにコメントをして、それがまたニュースになって、、ってことだと思います。

 要旨はコンピュータライゼーションによって人々の仕事が機械に取って代わられるから仕事が減るよということで、別に目新しい話でもなく、むしろお馴染みな話でしょう。いつものアレですよアレって感じ。

 機械によって取って代わられる仕事は何か?という話ですけど、はっきり言って大抵のものは代替可能じゃないでしょうか。「あと20年で」とか「消える」とかいう条件を緩めて、「遅かれ早かれ」「ジリ貧になる」くらいにしたら、まあ大体はそうではないかと。なぜなら、本来プラグラミング技術やロボット開発というのは、そーゆーこと目指しているわけですから。もっといえば人類は営々とそれを目指してきた。シコシコ手作業でやるよりも、もっと効率的な生産手段を模索し、道具を発明していったわけです。その流れがだいぶ終点に近づいてきたってことでしょうか。

  いつものと同じことを言いますが、千人かかってやっていた仕事を機械を使うことで一人で出来るようになった。例えば書類一枚複製するために、チマチマと写経みたいにやっていたのが、コピー機ができる。せーので1000枚複写しようと思ったらせーので1000人カリカリやってたのが1人でコピー機の前に立って、ガチャコン・ゴーてやってるのを見ていれば済む。超楽ですね。そうなりたくて機械を発明していったんだからそうなって当然。1000人が一人でいいなら、あとの999人は遊んでいればよい、公平に持ち回りで働くとして、ざっと3年に一回働いて、あとは寝て暮らせば良い。楽チンするために頑張って開発したんですからね。Viva!人類だよね。

 ところがぎっちょん、実際には、楽チンどころか999人は失業して苦しむことになっている。どっかで道が逸れてしまっているのですが、それは最初は「みんなで楽をするため」に道具の開発をやっていたのが、途中で「誰かが儲けるため」になってしまったからでしょう。マルクス主義的にいえば、労働と所有の分離とか、生産手段の私的所有とかなんちゃらですね。皆のために皆が働くのではなく、一部(資本家=生産手段の所有者)が儲けるために皆が働くというシステムになってしまった。だから、一人で1000個のリンゴを実らせても、1000人が一個づつ食べられるわけではなく、働いた一人は1個をもらい、999個はオーナーが親の総取りのように根こそぎもっていって、これを売りさばいて巨万の富を築くと。残りの999人はリンゴは貰えず飢餓状態になる。途中からそういう話になってしまった。

 かくして、機械によって人間は労働から解放されるんだ、きゃほ〜!という話にはならず、999人は、まあ文字通り999人とは言わないまでも、500人とか800人とか、ヘタすりゃそれ以上の規模で人々は今の仕事を失ってしまうだろうねってことです。

 この理屈自体は、大筋では合ってると思います。合ってなければ、何のために人々が頑張って「便利な」機械を発明しているんだ?機械ができても人手が変わらないなら、最初からやる意味ないし。ということで「人類楽チン化計画」は、着々と完成に向けて進んでいるのでありました。途中で小石一個ポンと置かれて微妙にレールが分岐して、「人類(ほぼ)全員失業化計画」になってしまったのだが。こう考えると、ほんまアホやねんな〜、人間って。

何が無くなるの?

 で、ここで、どんな職種がどうなって〜という話になるんだけど、それは皆が書いてるのでここでは簡単に触れるだけにします。要はプログラミング可能で、機械によって実行可能であればいい。まあ、プラグラミング技術というよりも、大事なのはその仕事のノウハウを解析していかに正確で応用性に富んだアルゴリズム(演算法則=こーなったらあーするという基本ルールづくり)を構築するか?でしょう。人間の脳がやってる判断と同じことができたらそれでいい。でもって、これ、そんなに難しくないと思います。いやいや難しいんだろうし、実際人間の脳を完コピするのはまず無理かもしれないけど、でも、僕らの「仕事」ってそんなに大したことしてないもんね。そんな脳力MAX100%〜!って仕事ばっかじゃないでしょう?

 単純労働はバンバン置き換わっていくだろうけど、安泰と言われている専門家も全然安泰じゃないですよ。医者の診断だって検査やって数値解析してってだけだったら、要するに検査ロボがあれば足りるじゃん。手術だって、マイクロチップで1ミリの1万分の1の精密さで動かせる工業ロボが現実に存在する以上、人間がやるよりもロボがやった方が早くて正確ってこともあるでしょう。だからアルゴリズム化(作業手順化)できるの医療は全部代替可能ともいえる。そもそも人間の脳もアルゴリズムで動いていることに変わりはない(ただし非論理的な連想ひらめきという飛び道具があるのが違いであり、誤謬のもとであり、創造性のもとであるけど)。

 運輸運送システムだって、自動運行システムが整備され、官邸ドローンでおなじみの自動操縦が普及したら、運輸業は激変するでしょう。運輸といえば郵便集配なんかも変わる。オーストラリアン・ポストから先日レターをもらったけど、郵便量が激減してて、普通のレターの97%はビジネス書類(請求書とか)で、皆はメールで済ませてる。だから大量解雇と経営難になって、再就職斡旋と郵便料金の値上げにご理解をって書いてた。まあ、そうだろうな。

 弁護士だって、交通事故、離婚、破産、窃盗や覚醒剤などの一般犯罪くらいだったら、YES/NOのフローチャート作ってやってもらえば仕事の80%は仕分け完成しますわ。銀行だってそう。こっちの銀行の場合、もう20年前からカウンター(テラー)の行員数が激減してるのが丸わかりで、カウンターが5つあってもやってるのは一人か2人。支店そのものをリニューアルしたところは最初から席が少ないからよくわからんだろうけど。国際金融のディーリングだって、もうコンピューターの自動高速取引がメインだから、なんで高給払って人を雇っているのか不思議なくらいで。アルゴリズム作成にかかる一握りの天才レベルと、あとは機械のメンテ要員がいればいいじゃん。

超二極化

 結局残るのは、高度に熟練を要する(つまりはアルゴリズムが異常に複雑な)仕事であり、あるいは農作業のピッキングや工場の組み立てのように、簡単なんだけどロボット化するコストのほうが高く付く場合でしょう。超専門職か、超単純労働かです。でも前者は、チェスや将棋の人工知能が名人クラスに拮抗しているくらいだから、このまま淡々と解析していけばかなりのレベルまで行けるはず。行くところまでいけば、社長も総理も官僚も要らないんじゃないの?また、単純作業のピッキング系だってロボット製造のコストが安くなって出回ってきたらそれでアウトでしょ。

 とりあえずこれからは(てか既に)高い給料もらってる正社員に矛先が向かっていくだろうから、組織改革やリストラで絶滅危惧種のホワイトカラーはどんどん減っていくでしょうし、残業ゼロ法案とか正社員イジメはきつくなるだろう。そうなると玉突き衝突の原理で、バリバリ正社員でやっていた連中が、それまでの非正規レベルやフリータークラスの仕事をやるようになって、そうなるとそこで仕事してた連中が干されて、さらに、、という。聞いた話だけど、今は中高年の再就職の方が良いとか。使えないオヤジも沢山いるけど、使えるオヤジはめちゃくちゃ使えますしね、メンタルもタフだしね。それが上からどんどん落っこちてくるから、現場もどんどんハイレベルになってしまうという。

 高齢化で医療関係は安泰だとか言われているけど、上に見たように必ずしも安心できない。それにすぐ後で書くけど、ニーズがあっても金がなかったら意味ないんですわね。医療というのは基本国のお金で成り立ってる部分が大きいんだけど、国自体が貧乏なって、いよいよ無い袖は振れない破綻丸出しになったら、もう給料も保険も払えなくなるから経済的に潰れる。それはニーズはめちゃくちゃあるし、人手不足なんけど、労働条件が良くないから大変過ぎると言われている介護業界をみればわかる。ニーズがあればいいってもんじゃないのよ。製薬業界だって、国がいよいよアカンようになって、薬価激減させたらやっていけんでしょ。

寡黙にならざるを得ない共食いの時代

 じゃあどうしたらいいんだあ?って部分です。ここになると、一転して皆寡黙になるね。「大変な時代になるぞ」「やっぱクリエイティブな仕事がいいよ」「一つのキャリアやスキルで満足してちゃダメだ」とか、いろいろ言われているわけですけど、これだという決定版がない。

 そりゃあそうだよ、無理なんだもん。そこに「生き延びる余地」があるなら、それはオートメ化をすすめる側からしたら「改善の余地」があるということであり、そこに標的を据えて火が出るように猛攻をしかけてくるから、遅かれ早かれ克服(こっちは絶滅)でしょう。漫画的に言えば人類が超本気で共食いやってるようなもんで、あ、一方は食うだけ一方は食われるだけだから「共食い」ではないか、でも、そういう立場の差が歴然とあるなら、結局のところ時間の問題じゃん。

 「クリエイティブな仕事」っつったって、それがどんだけ難しいか?漫画家になりたくて挫折して(小学生)、ミュージシャンになりたくて挫折して(学生、いずれも秒殺レベルで才能ナシが判明)、「仕方がないから」弁護士やってた私に言わせてもらえば、クリエィティブでメシ食うのはめっちゃんこ大変です。普通の1%の勝ち組になる方が全然楽だと思うぞ。

 プラス、これが今日のテーマなんだけど、それって大事な前提を忘れているような気がするという点です。それをこれから書きます。

全体崩壊


 忘れられている(ような気がする)大事な前提というのは、例えばこの世の50%の人が失業したら、あとの50%も無傷で済むはずがない、それどころか全体として崩壊レベルの重大な変化が生じるかもしれないという点です。

 なぜって?考えてみたらわかると思うのですが〜そのために話を極端にしますが、1%の勝ち組と99%の負け組といういつもの構図、さらに極端に99%が破産して無一文、ほとんど餓死寸前になると仮定します。そうすると1%は貴族階級でこの世の栄耀栄華を歌うのか?本当にそうなのか?です。そうならないんじゃないか?

 だってさー、99%がホームレスで無一文だったら、この世から「消費者」なんかほぼ消えてしまうってことで、1%が頑張って千個のリンゴを作ったところで、誰が買うの?という点です。ここが素朴に疑問なのだ。

 事実上も理論上も、一切の消費が出来ない消費者、全く仕事を得る希望がない労働者も、この資本主義社会では存在しないのも同然でしょう。単に治安や風景を乱す害獣害虫のような扱いになってしまう(それか愛玩動物的な)。

 ならば、その1%の人々の間だけで経済が回るということなるが、それって宇宙人の襲来で人口が100分の1になったのと変わらないじゃん。100分の1に経済がスケールダウンするだけの話だけど、そうなったら1%が1%である根拠も怪しくなるでしょ。99%の消費者が消えてしまうなら、1%がやってる「ビジネス」だって成り立たないではないか。莫大な資本投下をしてオートメ工場を使って、誰も買わない商品を生産し、誰も住まない住宅を建築してたら大赤字で即倒産でしょうに。

過渡期理論

 OK、職はないけど消費者ではありうる(無一文ではない)という段階はあるよね、確かに。今日失業したからといって今日すぐにホームレスになるわけではない。まだ預貯金はあるし、車やカメラを叩き売ったり、親類縁者にヘルプを乞うことも出来る。でも、その種の蓄えやリソースだって、遅かれ早かれ無くなるでしょ?増える予定がなく減るだけなら時間の問題ですわ。

 ここで、いや国が生活保護をするから、ボランティアのサポートがあるからといっても、そもそも国家なんか成り立つの?ボランティアなんかやってる余裕あるの?99%が無収入で税金払わないなら、歳入ほぼゼロで、それで99%に生活保護与えてたら、成り立つはずがない。過渡期(今〜直近未来がそうだが)固定資産税やら相続税でギリギリ絞り上げるにせよ、これだって結局「リソース」を個人が取るか政府が横取りするかの差に過ぎず、いずれにせよ時間の問題であることに変わりはないでしょ。

 これらは「過渡期」だと言ってるに過ぎない。確かに過渡期は長いから、過渡期だけで僕らの人生は終わってしまうかしらんし、その可能性も高いです。新興の海外市場を目指すとかいうのも、過渡期の処置っていえばそうです。永遠に「新興」であり続けられるわけがないし、いずれはどっかで頭打ちで同じことですわ。今は展開スピードが急に早くなってるから、先進国が100年かけて凋落するのが20年くらいで凋落するかしらん。どっちにせよ、過渡期というのは所詮は過渡期、テンポラリーなものに過ぎない。

 確かに過渡期をサバイブするためには、過渡期戦略というのがあるし、多分これやってる間に寿命が尽きて死んじゃうんだろうなって気がするからメイン課題なんだろうけど、その過渡期戦略を立てるにせよ、全体にどっちの方向に流れているの?が分からないとダメでしょう。その意味で、こういう議論は尚もやる価値はある。太陽はどっちから昇ってどっちに沈むか。今満潮なのか干潮なのか。


 上から降りると、けっこう恐い。こんなん足踏みはずしたら死ぬ〜って感じ。

勝ち組=納税奴隷

 で、根本的に思うのですけど、そんな状態で今の国家社会を維持できるのか?
 「過去の栄光遺産」「未来の先取り(借金)」も段々底が見えてきた昨今、それらがゼロと仮定すれば(それが健全なのだが)、勝ち組1%が99%分税金も肩代わりして払って国家社会を運営し、その上で99%にバラまくという図式になる。それって、結局、1%が99%分頑張って働いてくれているということで、1%は貴族というよりも、むしろ奴隷みたいな貧乏クジになりゃせんか。それって本当に「勝ち組」なの?

 確かに儲けの99%を吐き出して、それを99%の人に分配すれば、帳尻は合う。先ほどのリンゴの事例で言えば、999個ぶんどったオーナーが990個くらい税金で払って、それを999人に分ければ、計算は合いますよね(だったら最初から1000人で手分けして作るか、無条件で分配して999人は寝て暮らせばいいじゃんって気がするのだが)。

 まあ、せめて一般大衆よりは優位に立ちたいから課税上限を95%くらいにして、手元に5%くらい残して、一般人の5倍レベル(まあ政府が中間でピンはねするから2−3倍か)の金持ちになりたいと思うかもしれないね。そうであったとしても、100儲っても95もっていかれて、全然働いてない連中にあげるのは彼らにしたってケッタクソ悪いだろう。だいたい金持ちって、税金払うのを極度に嫌がる属性を持ってるから、まとも払うとは思えん。

 そこへもってきて、前に述べたように「儲かるのか?」という問題がある。1%が自分の取り分を多くすれば(税率下げたり脱税したり)、庶民は食うや食わずになって、消費者の購買力が落ちて、1%のビジネスがしょぼくなる。では購買力を上げようとすれば、1%は儲けのほぼ全部を税金で持っていかれることになって、1%も仲良く貧民の仲間入り〜。「そして誰もいなくなった」ではないけど、税金払う奴がついにいなくなって、政府も自然消滅と。あれ?

国家、資本主義、貨幣経済が無理筋になる


 あれ?ですよね〜。なんか変だよね。
 そもそもこういう状態になってまだ資本主義とか貨幣経済をやろうというのが無理筋なのであって、それをやるから妙ちきりんな話になるのでしょう。社会体制というのは全員が参加できるからこそ社会体制なのだ。今の社会体制が資本主義であるならば、全員がそれに参加できること、つまりほぼ全員分の仕事はあるとしなければ成り立たない。その仕事の中でペイが良いとかステイタスとか格差が生じるけど、それでも選ばなければ全員がなんらかの仕事があるというのが大前提でしょう。でもって、仕事の総量そのものが機械化で失われてしまうならば、どうなの?成り立たないんじゃないの?

 この場合、封建時代の昔のように、農奴や小作人という奴隷制度が復活して、士農工商になるんだって説もあるけど、僕はそれには懐疑的です。まあ、そういうフレイバーにはなるだろうけど、メカニズムの中核となる実体がないからです。なぜって、その昔は「仕事」は山ほどあったわけですよ。なんでも手作業だから、人手はいくらあっても良かった。奴隷として人間を所有する経済的な意味はあった。でも、これからは機械がやるんでしょ?人手要らないじゃん。封建領主の富や権力を増大させるための膨大な「仕事」(開墾とか農耕とか軍事)があって、その仕事をさせるために人は多いほど良かったんだけど、今ではその仕事そのものがない。農業ロボ、医療ロボ、軍事ロボなどを購入メンテするためには資金が必要だけど、儲けるぞとかいっても、こんどは消費者がいないんだもん、儲からないよ。

 別の観点でいうと、1%が99%を支配するためには(少数支配)、政治学的に結構難しいですよ。単に「力による支配」っつってもオートメ化の世界では、機械の操作支配権がキーポイントになるでしょう。完全戦闘防犯システムのようなものを構築して、パスワードがないと動かないとかしておいて、支配すると。でも1対99だったら、囲んで袋叩きにして、拷問してパスワード自白させればいいもんね。だから武力だけではダメっしょ。

 政治学における「支配」は単に暴力的支配だけでは不十分であり、そこに「正当性の契機」がなければダメだと言われます。強いから支配するのではなく、「正しいから支配するのだ」と思ってもらわないといけない。つまり民衆に「良い世の中だ」って思ってもらうために、その種のイデオロギー支配とか洗脳をやらないとならない。ほんでもさー、そんな状態で洗脳できんの?って疑問です。そのためには、人々に生きている充実感を味わってもらうために、適当にオートメ化をやめて、手作業で農業やったりして、要するに昔に戻ってですね、「仕事」を作って、、って話です。しかし意図的にダウングレードするのは難しいよ〜、加減が。

 そもそもですね、領主様にせよ戦国大名みたいな存在にせよ、居てもなんの役にも立たない膨大な人民を、大金払ってシステム構築してまで監視する意味ってあるのか?卵も産まない、食肉にもならないニワトリを膨大に飼ってるようなもので、無駄じゃないかと。

 つまり、国家、社会、経済システムというのは、全員が参加できないと意味がないと思います。それがどんなに村八分であろうが、下層階級であろうが、捕虜であろうが、奴隷であろうが、何らかの形で全員が参加して、全体の経済体制の一部分に組み込まれてこその社会なんだからさ。でも、その参加を「金」(仕事、給料、納税)という資本主義&貨幣経済システムでやってる限り、仕事そのものが無くなった時点で、参加の手段が断ち切られてしまうわけです。もうこの時点で「詰み」ですわ。何をどうやっても、崩壊は免れないよ。


 だから、そこまでいかずに、その手前の適当なところで停めておいて、、、って話になるのでしょう。「生かさず殺さず」でかつかつ食える程度に仕事の総量は残しておいて、美味しいところだけチューチュー吸ってって形に持って行きたいんだろうな。でも、これも言うは易しで、かなり難しい話だと思いますよ。合成の誤謬つか、目の前でみすみす儲かるチャンス(機械化してコストカットして利潤を増やす)がありながら、「いやいや、ここは我慢だ」ってやるかなあ?その頃には1%どころか0.001%くらいになってるかもしれないけど、猛烈な強欲バトルを勝ち抜いてきた連中が、我慢とかするかあ?なんか結局やりすぎて自滅って気もするんだけどね。

過渡期戦略

  で、しばらくは、混沌の過渡期なんでしょうけど、鳴門の渦潮のように、いくつかの海流ベクトルがごちゃまぜになるんでしょう。

 一つは、これまでのような全員参加の資本主義と、それをベースにした国家社会体制のベクトルですね。ただその中でもさらに流派があって、何がなんでも旧体制や既得システム維持で頑張る流れと、先進国も今のままじゃジリ貧だから、せっせと新興国市場に出稼ぎにいこうという環境適合派。個人でも同じで、旧体制的勝ち組を狙いつつ、視野を広げてチャンスをうかがい、機会があれば打って出る派と。ただ、これ対立だけではなく両立もするでしょう。既得権といっても単にしがみついてるだけではなく、既得権益をより確実にするべく新しい流れに乗っていこうとはするでしょうしね。二者択一ではない。

 もう一つは、その対極にあるように、もうオートメ化を進めるなら進めるで徹底して、リンゴ1000人の例によれば、999人は寝て暮らす方向を目指す流れ。この場合、資本主義とは又違った社会原理になるとは思います。じゃあ共産主義かというと、共”産”ってほど必死に生産するわけでもないし、あれも全員に仕事があることを前提にしてるからやっぱ違うんだろうな。共産主義というよりも生協みたいな共同消費主義つか、共同配分主義、共生主義というか、言葉がないよね。寝て暮らそうって趣旨だから「共同昼寝主義」とでも言うべきか(いいな、それ(笑))。でも「そんなに働かなくても食えちゃう」というのは人類始まって以来の椿事だろうから、それに見合ったなにかの形になっていくんでしょうねえ。

 この大きな二つの流れが、国により、地方により、業種により、職種により、また世代や年代やキャリア差により、レシピー具合が違ってくるのでしょう。

生き残るためには何でもやる

 ただ大雑把に99%の直近〜中未来像を考えると、仕事なくなるわ、あってもキツいわ詰まんないわで、しかしそれも段々なくなっていくならどうなるか?大多数が失業して路頭に迷っても、それでも皆生きていかなきゃいけないから、どうなっていくの?です。

 なんせお金ないんで資本主義だけじゃしんどいもんね。あれはお金あってなんぼシステムですから。お金なくても動くような、事実上のシステム(互助的なものとか、物材サービスの現物交換とか)みたいなのが、広がるんじゃないかな。無給で働くけど、宿とメシと豊かな自然と温かい家族環境は提供するとかさ。WWOOFみたいな感じね。まだ資本主義的なゲームに参戦余地はある(生産流通ルートはある)けど零細すぎて、労働者を雇う余裕はないってくらいの層が無産層とコラボするという。WWOOFの町工場版とか、地方の民宿版とか、コミュニティ・サービスをやる(草むしりとか不寝番とか)とメシ食わせてもらえるとか、そんなミックス形態みたいなのが流行るというか、そうならざるをえないんじゃないかな。

 だって、失業です、お金ありませんつっても、おとなしく餓死しましょうってことにはならんでしょ?生きるためには何でもやる、たとえ犯罪でもやるって話もあるのだけど(高齢者の困窮による犯罪率増加とか既になってるけど)、そればっかもしんどいし(犯罪やりつづけるのも大変だよ)。猛烈な奪い合いになるのか、助け合いになるかだけど、多分後者。これは麗しいヒューマニズムの観点からではなく、単純に実行&持続可能性の問題です。とことんヤバくなったら喧嘩なんかしないでしょ。無人島に漂着したみたいなもので、闘争してるヒマがあったら、力を合わせて生産したほうが生き残る目は高い。大体奪うにしても誰もそんなに持ってないんだから意味ないし。

 個人的にどう思うかというと、そりゃ戦略的には「全部に唾つけ」でしょう。どう転んでもバランスが取れるように、どの流れに対しても(旧来メカニズムにも、新興海外にも、共同昼寝主義も全部)打つべき手は打っておくと。まあ手を打つといってもか弱い個人に何が出来るわけでもないのだが、少なくとも見通しよく、センスを良くしておくこと。換言すれば、どんなことでも「俺には関係ないもんね」とは思わないこと、でしょうか。

 過渡期の渦潮ってたまたまのめぐり合わせだから、何がどう関係してくるかわからないのですね。超未来的な空間になったかと思えば、いきなり時代劇みたいな旧体制になったり、周囲も動くし、自分も動く。そんな中で、「これでバッチリさ」なんてありえない。少なくとも30年〜50年スパンでは無理でしょう。一流企業のビジネスマンっつても、来年の今頃には職安通いしてるかもしれんし、どっかの民宿で住み込みで働いてるかもしれないし、心機一転で世界一周してるかもしれないし。かくして、高望み〜くらいの就活もやる反面、業種を問わずあらゆる方面にリサーチかけたり、全部ダメ将来もダメだったときに備えて自分で稼げる起業方法も探っておき、出来れば無理のない程度で練習しておき、さらに海外に出るとしてもビザが緩くて働きやすい国はどこかも、さりげにリサーチしたり下見に行ったりもする。一方では自給自足的な共同コミュ系の流れにも注意して、自分がそれにアジャストするとしたらどういう形になるか、何が必要で何が不要かを予め仕分けしておくとか、、、という感じでしょうかね。もうやること沢山あって大変なんだけど。

 しかし、百姓の子は一生百姓って時代じゃないし、ましてや過渡期では百人一首の坊主めくりみたいに次に何がでてくるかわからんから、麻雀でいえば四面待ちくらいに待ちを広げると。生存のためには何でもやりまっせ〜くらいの感じ。はやく流れが共同昼寝主義に行き着いてくれたらいいのにな〜、なんでそうならないかな〜。

 

輪るピングドラム

住宅街のブティックのような

 さて、ここで一気に話はワープします(てか本質的にはしてないんだけど〜それは読み進んでのお楽しみ)。

 最近ちょいヒマができたので、こういうときは日頃やらないことをせっせとやろうとあちこち行ったり、見たことない作品(漫画とかアニメとか)に手を伸ばしてますが、いやあ、マンガもアニメも、昔のようなドメジャーなものは構造的に出てきにくい反面、住宅街のブティックみたいな、小さいけど個性的で質の高いものがいっぱいあるので、「ほお、そんなことになってるのね」とうれしく思いました。やってるやってる〜って。

 10年以上前に久しぶりにジャンプ読んで、あまりのつまらなさに唖然とした覚えがあるのだけど、あれはマンガそのものがダメになったというか、メジャー的大量生産消費的な方法論が辛くなってきたってことだったんでしょうね〜。今では漫画雑誌も死ぬほど種類があって、到底覚えきれないというか、「え、そんなんでやってけんの?」という感じね。やってけるんだろうな。その意味でハードル低くなってるんだろう。もうニッチでいい、もう途中でポシャってもいいって感じでやってて、損益分岐もぐーっと下げてやりやすくしてるんじゃないのかな。よう知らんで、印象だけで書いてるから真に受けないでね。

 で、アニメも全然知らんので何を見るべき?ってネットでみてたら、これがあるわあるわ、どえりゃ〜沢山あって。こんなに名作があるんだ〜って感心した。ファンの人は大変だわ(大変とは思わないのだろうけど)。で、「名作」という評判があった「輪(まわ)るピングドラム」というのを見たのですが、なかなか面白かったです。なるほどね、名作って言われるのもわかるわって。

 でも、どのアニメだって今は結構質高いのですね。そして、びっくりしたのがどれも深夜枠、23時とか26時とか放映してて、そんなことになってましたか〜って、今更ながら。このくらいになると儲かりはしないけど、でも自由度は高くなるよね。だから自由にその世界を広げててくれて、それは良かったです。プロのレベルでインディーズ風味だから、作画も力入ってるし、でも細かい所で凝ってるので見応えあります。

ピンドラ

 「ピングドラム」だけど、この意味不明なタイトルは何じゃ?と思ってみたのですが、ぞっとするくらい奥の深いテーマとかは後になって出てくるのだけど、最初はまず作画と凝りと音楽というカルチャー的なところでひっぱっていきます。無理筋なストーリー展開とか、くどい作画演出とかあるんだけど、わかっててやってる感があるから寒くなくて、そのうち段々ハマっていくという。ストーリーテリングも、わかりにくいんだけど(最終回から逆に語り起こしたらすっと理解しやすいだろうな)、あれは分かりやすくやったら面白くならないんだろう。だから一回一回ツイストがあって、「え、これってそーゆー話なの?」って感じで、いちいちいい意味で裏切られて、ほんと展開が予想できない。

 さて、いきなり何の話かというと、ここで前段のテーマとつながるのですが、これ99%の負け組の話なんでしょうね〜。事実上僕ら全員の話。印象的な言葉を何度も何度も繰り返すんだけど、それが「きっと何者にもなれないだろうお前たち」「生存戦略しましょうか」です。

 昔のような意味での立身出世とか、一人前に世帯を持ってとか、そういう「なにものかになる(輝ける未来の可能性)」はだいぶ減ってきてしまっているよ。だから、きっとしょぼい人生で終わるのは確定だよねって、身も蓋もないドライな視点がある。それどころか生き抜いいていくだけでも大変だよって。だからこそ「生存戦略」なのだと。

 この物語は、錯綜するテーマがいろいろ走ってて、ちょっと統合感がないんだけど、あえて統合しないで混沌のままゴロンと転がしてる感じはしますね。よく考えると辻褄が合ってないところもあるんだけど、でも「そんなのどうでもいいでしょ」みたいな部分もあって、あまり気にならない。

 テーマというのは、「運命は変えられるか、変えられないのか」という二つの対抗勢力の闘争ということもあり、「現実と妄想の境はあるのか?その世界観は正しいのか」というテーマがあり、その妄想世界を共有する人には見えて、共有しない人には見えないというメタファー(ペンギンとか潰れたラーメン屋とか)があり、「愛する人のために自己犠牲を払うこと」であり、そのメタファーとしてのリンゴであり、育児放棄や捨てられた子供の「子供ブロイラー」で粉砕されて「透明な存在」になること、「人は自己の存在を、他人から求められるという形で確かめる」というテーマやら。95という数字がやたら出てきて何の意味?と思うと、これは1995年のオウムサリン事件で、それに類する事件が全ての発端であり、それは「何者もなれな」くした社会の誤りを糺すための革命としてなされたという設定があり。

 とにかく、まあ、テーマが多くて錯綜してます。でも、スッキリ質の高い作画よるギャグが満載されており(宝塚の紙芝居風は笑った)、また子どもたちの胸が温まる真情の交換が美しくもあり、スッカスカの不思議な空間を奏でるプログレみたいなやくしまるえつこの音楽があり(歌詞は難解だが)。そんでもって全編通じて、ペンギン達の動きが笑えて(大体はすげー可愛いんだけど、平気で本筋に全然関係ないことをやるし、ゴキを殺虫剤でシューするし、辛子食って真っ赤になるし、結構悪いこともするし〜エロ本に血眼になったり、スカートの下を覗いたり、そこまでするか的な)。

 あと、ちょっと村上春樹風味もあります。「こどもブロイラー」のお伽噺的な残虐性とか、似てるなと。また「カエルくん東京を救う」ってのがモロに出てくるし。あ、でもこの図書館の地下室の膨大な空間=人間の無意識の世界の膨大な記憶群のメタファーだけど、よく出来てます。ああ、なるほど、こうなってるのねってなんか思っちゃう。

 このテーマの深さ、特に「なにものにもなれない」「生存戦略」部分は結構ツボのテーマっぽくて、「ピングドラムって何よ?」という謎とあいまって、「ピングドラム考察」でググると、皆さん真面目に書かれてらっしゃいます。エヴァほど伏線の迷宮ってわけでもないけど、その代わり問いかけがディープ。

山田・笠井ツイッター討論

 僕の好きなSF作家(推理小説も書くが)の山田正紀氏がTwitterでムキになって書き始めて、それを同じ作家の笠井潔氏が受けて立ってド真剣に書いてるのを発見して、うわ、ここまで考えるか?という。


 どなたかが山田正紀氏と笠井潔氏による「輪るピングドラム」考察としてまとめておられるので興味深いです(労作、感謝します)。

 以下部分的に抜粋、要約すると、、、

   まずこれは「銀河鉄道の夜」か「カラマーゾフの兄弟」なのか?から始まり、

 「ピングドラム」では「夢」と「幻想」と「消されてしまった運命軸」と「トラウマでゆがめられた偽りの記憶」とそして「現実」とが混然と一体になってる。

 ペンギンは群れをなして輪る。水に入ることか水から出ることかどちらかが「現実」を象徴しているのだろう。

 そう考えれば冠葉と晶馬が「サンシャイン水族館のペンギンのかぶり物」をかぶった陽鞠から「捜せ」と命じられた「ピングドラム」が何であるか容易に推察できるだろう。それは「愛」などではない。「現実」なのだ。エンディング・テーマの「少年よ我に返れ」とは現実に目覚めよ、という意味なのだ
 
 「妄想、トラウマ、執念、恨みと憎しみ、ストーカー的愛・・・そうした倒錯した観念にとり憑かれた人たちがいかにして「現実」をとり戻すかという話」とする。さらに、笠井氏の著作「テロルの現象学」に分析される理想の観念にひきずられて結果的には真逆に残虐なことを行ってしまう人類の習性、「倒錯した観念の暴走からいかに目覚めるかこそがテーマ」であり、作品に出てくる運命軸は、観念妄想によって歪められた現実認識であり、それをいかにして現実に戻すかである。

 だからこそ「少年よ我にかえれ」という二期オープニング曲もある。エヴァンゲリオンの「神話」ではなく我に帰れ、「人類を補完する」のではなく「生存戦略」して「現実」に目覚めろということで、90年代の作品がもっていた世界に区切りをつけようとしているエヴァのオープニングの「少年よ神話になれ」との対比であるとか。

 という山田氏のツッコミを受けて、笠井氏はこうつなげる。
 オウムのテロリストたちは、「何者かになろう」として大量殺戮に走った。「なれる」と信じていたわけだ。しかし「僕はいらない子なんだ」と思う碇シンジから、そのような確信は失われている

 オタクカルチャーという点で80年代まで、あるいは千年王国主義的「革命」という点で60年代まで遡りうる精神の決算がオウム事件だとしたら、「いらない子」の「何者にもなれない私」を描いた「エヴァ」は、その後の20年を予告していた。この点で「少年よ、神話になれ」は旧時代の精神に属する。

 すでに「なれる」条件が決定的に失われたから、この歌詞は当時の視聴者の心を捉えたのかもしれない。
ともあれ、以降20年近く「何者にもなれない/いらない子」の時代が続いてきた。セカイ系を「戦闘美少女と戦えない少年の物語」と狭義に解釈すれば、セカイ系の時代が。もちろん一本調子で、この20年ほどが過ぎてきたわけではない。世界政治的には9・11で大きな転機が訪れていた。

 日本でも2000年代の半ば以降は、格差化/貧困化が政府もマスコミも無視できないまでに悪化した。リーマンショックがそれを加速する。ともあれ、なにごとにも鮮明な区切りが見えにくいこの国では、「何者にもなれない/いらない子」の時代は、その後もだらだらと続いてきた一面がある。

 ミステリの場面では、セカイ系と時代的気分を共有する脱格系や「ファウスト」系は、2000年代の後半まで尖端的だった。「微細な悪意」が瀰漫する環境を描く作品も、数多く書かれてきた。しかし「微細な悪意」の時代は、ようやく終わろうとしている。
 いたるところで、その徴候は観察できる。たとえば、乗客のクレームは機内では受け付けないと宣言した格安航空会社があった。感情労働論が提起されたとき、看護労働と並んで代表例のひとつがCAだった。どんな悪質クレーマーの無理難題にもにっこり笑って応対するのは、苛酷な労働である。

 理想も敵も喪失し、正体不明の欲求不満だけが鬱積する社会では、微細な悪意が瀰漫する。微細な悪意の典型例のひとつが悪質クレーマの激増だ。「そんな給料もらってないよ」といって、CAが悪質クレーマーをひっぱたいたのと同じか、それに通底するものとして、格安航空によるあの宣言はある。
 匿名の微細な悪意は、主体のある歴然たる悪意に変貌するだろう。敵を見いだしたとき、幾重にも鬱屈した悪意は浄化され、闘いの意欲となる。「何者にもなれない/いらない子」の時代は終わり、21世紀的な闘争の時代が開幕するはずだ。

 「エヴァ」の時代の終わりを暗示する「ピンドラ」には、こうした21世紀的な意識性がある。この点で「コードギアス」や「東のエデン」を引き継ぎ、徹底化したものとして「ピンドラ」というアニメが製作されたように思う
 同じオープニングでも「残酷な天使のテーゼ」と違って「少年よ、我に帰れ」には、「逃走/闘争」のパルチザン戦争の発想がある。「後ろ指さされ」ても「一目散に逃げればいい」だから。逃げちゃったボクは最低だと、くよくよ思い悩むシンジとは違う。
 「生存戦略」や「緊急待避」というキイワードもまた、例外状態(カール・シュミット)を構造化した21世紀社会に対応していると思う。グズグズしている自分に韜晦できた時代は、すでに終わった。とにかく生き延びるために、あがきまわるしかない。

 笠井潔氏のピンドラ論は「生き残るためにはなりふりかまっていられない」いう一語に尽きるかもしれない

「なにもの」なんてならなくていいわい

 長々引用したのは、とっても示唆的だったからです。なるほどね〜って。
 確かに、とは思います。「なにもの(立派でステイタスのある大人)」に誰でもなれるんだという前提に立った世界観では、とりあえず皆と一緒にやって、皆よりもちょっと努力すれば良かった。そういう方法論で良かった。
 ところが長期低落になってきて、そんなに簡単に「なにもの」なんかになれないよ、無理だよってところを前提にして、その心象から始まる時代がある。そこでは超越的に神話になっちゃうか、あるいはイジケて拗ねて、ひきこもったり、他人に意地悪して憂さ晴らしというしょーもない時期になる。「微細な悪意の瀰漫」って言われているけど、ネットなんかでもそんな面もあるよね。

 しかし、ことココに至ったら、そんないじけてる場合じゃねーぞ、拗ねてたって、我慢してたって意味ないぞ、へたすりゃ死ぬぞみたいな感じになって、もう世間体もクソもあるかいって、ちょっと吹っ切れつつあるような。「生存戦略」のためには何でもやりまっせ〜って、ああ、同じこと言ってるわけだなって思ったのです。

 さらに、僕なりにもうちょっと継ぎ足して言えば、「なにもの」にもなれないんだったら、逆に「なにもの」にもなる必要もないってことだろう?だったら好きにやらせてもらうぜ、「なにもの」にもなれないかもしれないけど、「自分」にはなれるぜ、そのまんまでいいんだからさって開き直りによる自由の獲得はあると思います。

 これは牽強付会かもしれないけど、今のマンガやアニメの状況がそのさきがけになってるような気もします。なんとなく感じるのは、もう「あしたのジョー」「ドラゴンボール」というお化け作品、歴史に残るようなドメジャーな名作を作ろうとは、あんまり思ってないんじゃないか。そういう「なにもの」にはもうなれない、構造的になれるわけがないって前提で、開き直って、じゃあ好きに作るぜ、見たくない奴は見ないでいいぞ、わからない奴はわからんでええわって空気を感じるのです。思い過ごしかもしれないけど。

 推測でしか無いのだけど、こういう創造行為のモチーフというのは、まず製作者が個人的に日頃思ってることでないとしんどいんじゃなかろか。だから「なにものにもなれない俺」ってのは、子どもたちよりも製作者が思ってるんじゃなかろか。でもって、なにものかなんて、ならんでええわいって言いたいのかな。

 それにこの作品も、妄想から現実に戻るってテーマもあるけど、一方では現実そのものが妄想の産物であり、現実と妄想の境なんかあるのか?現実をある視点で構築的に捉えること、それは世界観なんだけど、それが既に妄想じゃないかと。現実=世界観=妄想だという。おーし、じゃあ、自分の好きな妄想を選べばいいんだなという、妄想の自己決定権みたいなことも言ってるような気がする。運命軸の選択だって、どっちが正しいかわからんままだし。三兄弟が実は擬似家族で共同妄想だとしても、そこで交わされた愛情に嘘偽りはないわけだし。妄想に取り込まれてイキ過ぎちゃったらダメだけど、その手前で踏みとどまって、いっそのこと、したたかに「妄想を使いこなす」くらいまでやってもいいんじゃないかと。

音楽〜やくしまるえつこ

 最後に、このアニメの主題歌(のひとつ)を。
 このホワワンとした雰囲気。やくしまるえつこさんって、ぜーんぜん知らなかったんだけど、かなりご活躍なご様子。

 この曲も一聴すると、小学生が歌ってるんじゃないかって頼りなさで、声量なさげだわ、音程微妙にヤバイわ、他の曲でもパクリとはいわないまでもかぶってるな〜ってのもあるんだけど、でも、「そんな事はどうでもいい」って気にさせてくれます。アルバムやら作品とかも聴いたら、別の主題歌(ノルニル )でも全部通して聴くと7分くらいあるんだが、これがプレグレで、途中キング・クリムゾン風味もちょいありで(5分あたりから、旋律の叙情性が「ケイデンスとカスケイド」「風に語りて」みたいな)、面白いです。

 この主題歌も、最初の聴いてるときは、ほわわ〜って過ぎてしまうんだけど、繰り返し聴かされるとメロディーが耳に焼きつく。声質が「メタリック・ハスキーな幼声」って感じで独特なんだけど、それとメロディーがよく合ってて。


 



 で、思ったのは、ああ、この人も「なにもの」かになろうとはあんまり思ってないな〜。「いいこ」になろうと思ってないな、全力で自分であろうとしてるなって。だって、「ノルニル」の全体の構成とか、売れ線考えたらアウトでしょう。途中の気まぐれに思いついたような西欧民謡風のスキャットとか、普通入れないでしょ。それを平然と入れてるところが気持ちいいです。「作品」というのはそうでなくちゃ、と。

 で、この主題歌も歌詞が面白い。少年よ我に帰れ(歌詞)にありますが、出だしと最後の部分ですが、「少年少女輪になって 伸ばした手は空を切って落ちる」だもんね。普通の子供たちが輪になったら手をつなぐもので、そこはお約束なんだけど、そんなの無視。伸ばした手は、「空を切って」「落ちる」。

 このアニメのテーマにもかかわるところだからそうなるんだけど(原曲の本筋は恋の歌でもあり、”我に帰れ”は”私のところに戻ってきて”という意味でもあるんだろうけど)、でも、この乾いた認識。やっぱそういう風に世界が見えてるんだろう。

 だけど全然落ち込んでなくて、「後ろ指さされてもいいよ」「緊急回避かましてもいいよ」「集中砲火やっちゃっていいね」だもん、やっぱすごい戦闘的。「切って落」とされたのは「伸ばした手」だけではなく、「戦いの幕」もまたそうだと。なんでそこまで戦闘的なのかといえば、「どうにもならない事があっても、幸福な君を守ってあげ」たいからなんでしょう。

 しかし、初期OPの「ノルニル」の歌詞になると、戦闘的を通り越えてさらに過激に革命的で、「限界点突破してるんだ、限界なら既に去って、絶対的支配だって崩壊」「とりあえず耳を貸してみたの、もうすぐ消えるはずの世界に」「超展開期待してるんだ 生存率ゼロを割って、絶体絶命がそっと到来」「宿命論なんかきっと妄想でしかないんだ 一か八か破壊しようか世界の仕組みを今すぐ」「少年少女の黙示録 生命歓喜のラグナロク 最終決戦ハルマギト」「最終電車がまいります 手荷物忘れず方舟へ」ですもんね。もう、バリバリっすよ。




文責:田村



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