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今週の一枚(2015/03/23)



Essay 715:メディアは自分で作れ〜「週刊自分」のススメ

問題意識を他人に作ってもらうってどうなの?
 写真の解説は最後にまとめて書きます。
 これといったドンピシャな写真がなく、ドングリ状態なので、今週は枯れ木も山の賑わい方式で。



 Essay713回で箇条書きした点を潰してます。あと2つ。
 ・視点設定を他人に作ってもらってる時点でダメ
 ・動いた分だけ魅力的になる

 これは帰省時の日本 "を" (about)考えたものではなく、たまたま日本帰省時 "に" (at)考えただけのことで、別に帰省記というタイトルをつけることもないので、もう載せません。でも写真は帰省時の日本の写真を。

「ニュース」不可知論

 これは今回書かなくてもいいかとも思ったけど、口の端に載せたから一応。
 ニュースやメディアや雑誌やブログ、、、それで「今の問題はこれだ」みたいに問題設定を誰かにやってもらってたらアカンだろうな、って話です。

 一つは世論誘導とかムード作りなど、どっかの誰かに都合がいいような方向に意図的に「話を逸らされて」しまうリスクがあるからです。これは最近とみにヤバめなので。でも、誰もが言ってることでもあるので今回はパス。

 より本質的には、世論誘導とかそんなのと関係なしに、自分の世界観は自分が創るもんでしょ?という、ごくごく当たり前の話です。

NEWS=差分

 「ニュースで今の社会が分かる」というのは、いくらマスメディアが理想的に優秀だったとしても、それはやっぱり嘘だと思います。「嘘」というのが言い過ぎだったら「過剰な期待」とでも言い変えましょうか。

 なぜなら、第一に「ニュース」というのは文字通り「NEW」=「新規発生事象」=「昨日と今日との差分」であり、そんな微細な差分よりも、昔から大して変わっていないけどもっと知らなければならないことは山ほどあるという点。第二に、「問題設定」についても、前回述べたようにあまりにも慣れきって or 改善の見込みが立たないので問題視すらされないことが多く、そっちの方がよほど問題だという点です。

 こういう大事な点は「ニュース」という形で拾うのは難しい。じっくり取材を重ねて慎重な考察を加えた質の高い調査報道や、ドキュメンタリー、書籍、マーケティングリポート、統計調査、社会学その他の学術論文、各エリアにいる人々からの一次情報、、、これらを総合していかねばならないでしょう。

 しかし、それ以上にもっと本質的なことは、およそ人間がなしうる最善の努力を積み重ね、(ありえないけど)その全てを読破しきったとしても、それでも「今何が起きているか?」は神のみぞ知るというか、神ですら分からないんじゃないかと思われるからです。

 その理由は2つ。一つは対象が圧倒的に巨大すぎること。もう一つは深度×長さが必要とされる解析の難しさです。

日本の人口30人

 比較的小さな島国で均一度の高い、つまり比較的わかりやすい筈の日本にだって1億人以上に人がいます。ずっと前に「ゴジラ的縮尺」ってところで書いたけど、1億人が何を考えて何を行動しているかなんか、分かるわけないです。人多過ぎだもん。1億人って一口にいうけど、本来一口に言えるようなボリュームじゃないですよ。1万人の集団が1万個あるわけよ。サークルのメンバー十数人だって何考えてるのか把握しかねるし、ランダムに乗り合わせた地下鉄の車両の乗客数百人なんかもう分からん。大体目の前の一人だって分からん。それが1万人。もう無理。さらにその無理が一万個、絶対無理。

 僕も昔は、日本人口一億人を、せいぜい30人くらいに思ってた時期もあります。それで世の中の動向がわかったような気になっていたという、なんてお笑いな。

 人間の脳内の「実感」「距離感」というのは、全然数学的に比例してないそうですね。1から10くらいまでは、まあまあ等間隔にイメージできるし、10が1の10倍だというのも図形的にイメージできる。しかし11から20くらいになるとその距離は一気にいい加減に短くなり、せいぜい1から3程度の距離でイメージされ、さらに、、ということで、わずか数十レベルで「あとは数え切れないくらい沢山」という超いい加減なイメージになってしまうという。

 これをちゃんとイメージできるには、それに相応しい実体験が必要でしょう。つまりあなたがマラソンランナーならば、10キロ地点と15キロ地点の差とか距離感は普通の人よりも正確にイメージできるでしょう。あるいはあなたが大きなレストランの厨房を預かっているなら、今日は予約が150人分入ってるというとき、150人分の材料とか仕事量/時間を大体正確に理解できるでしょう。あるいは日本とオーストラリアの直行便9時間くらいという時間の長さは、やってみたら大体わかる。しかし、それを遥かに超えたらもう想像できない。(分割でもいいから)970キロ走れととか、15万食作れとか、2390時間乗り物に乗れとか言われたら想像の埒外で、「すげーんだろうなー」くらいでしょ。

 だから1億人というのは、もう笑っちゃうくらい途方も無い数字であって、そんなもん分かるわけ無いだろ!と僕は思う。でもって、「昨今の日本はこうだから」とか思ってた頃(日本在住時代)は、今から考えるとその脳内スクリーンにイメージされていた人数というのは、せいぜい30人くらいじゃなかったかと。頑張ればなんとか把握可能というか、1クラスの人数前後というか、その程度に思ってたキライがある。

松竹梅理論

 それをわかった気になれるのは、生育&生活環境や教育などが大体同じだから、多分同じようなこと考えて同じようなことをやるんだろうな〜という「推測」です。例えば日本人を、松竹梅みたいに金持ち=普通=貧乏に三分割して、松はこう考え、竹は〜みたいな発想。まあ、それで大体合ってたりするんだけど、いよいよ本当のところになると分からない。松を松1〜松18くらいにビタミンみたいに細分化して、合計54パターンくらいにしたところでダメでしょ。というか、そんな54通りの推測パターンなんか普通にイメージ出来ないですもん。

 そんな血液型の「B型っぽいよね〜」みたいな推測分類で何とかなるくらいだったら、マーケティング理論や業界なんてが存在するわけがないでしょう。

 僕の昔の友人にリサーチ会社をやってた人がいますが、どの消費者がどの商品を選ぶかというのは、本当に深層心理学の世界でメッチャクチャ難しいらしい。巨大な暗黒部分である無意識に支配される人間が、個々具体的にどう意思決定するかなんか、マリアナ海溝の深度を測るためにロープを垂らすような世界で、もう断片的にしか分からない。それをあれこれやるために詳細なアンケートやインタビューを実施し、しかも質問の文章を変え、順番を変え、数学的に有意な相関関係があるかどうかを見る。そこまでやる。もう1000万円くらいかけて調査をする。実際に冊子のようになってる詳細なアンケート調査用紙を見せてもらい、独特の数式やアルゴリズムをつかった解析グラフや統計を見せてもらったけど、ほとんど「謎の暗号」でありました。よくこんなもんで分かるな〜って感心したもんです。

 しかし、専門家の彼曰くは、最終的には「カン」だと。「こんなもん、わかるわきゃねーだろうがあ!」と吠えてたけどそれを言っちゃあおしまいよ、飯の食い上げだよって。だから口が裂けても言わないけど、僕の前では口が裂けてくれた。ありがたし。

 いや、ほんとニュースなんか読んでるヒマがあったら、各エリアの住人にポジショントーク無しの(←ここ重要)のお話を聞かせてもらう方が、ずっとずっと有益だと思う。自分の人生なんだから、人任せにしないで、自分で「取材」しろ、と。

 だもんで松竹梅理論(似たようなもんだから分かるよね理論)は、最終的にはアテにならないね。最終的にアテにならないんだったら、最"初"的にもアテにならないね。要は全然アテにならないね。それでもアテになるような気がするのは、わかった気になって束の間の心の平穏を得ただけじゃないかしらん?

解析=深度×長さ

 もう一つの解析=深度×長さですけど、2回前のエッセイで述べたように、明治維新とはなにか?を人類史的に位置づけて解析理解するという作業をリアルタイムの日本人が出来たのか?というと難しいんじゃないか。

 あるいは日本史ネタでもう一つ例をあげれば、もともとガチガチの中央(天皇)集権支配だったのが、ほどなくして有力公家(藤原氏)に権力を簒奪されたわけだけど、公家のパワーの根源になった「荘園」となにか?それがなぜ廃れて武士階級が勃興したのか?というと、よう分からんのですね。あんまり日本史の授業でも教えてないし。

 大人になってから(エッセイ書きながら)調べて、「なるほどねっ」と腑に落ちたのですが、例えば荘園の発達を下支えしたのは農民階級の「脱税」であるとか。荘園の発達について、Wikiなどでは「小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し」とか書かれて意味がイマイチよくわからなかったのですが、さらに検索していて発見したのが坂口安吾の小論「地方文化の確立について」でした。それが合ってるかどうかは検証してないけど、彼曰くは、当時、貴族や寺院の領内は中央権力が及ばず納税義務を免れた。だから、農民としては形だけ自分の農地を貴族らに寄付してその名義にすれば税金を免れる。貴族は丸儲けだし農民も脱税分だけ儲かる。かくしてそれまでの国家権力の中枢だった天皇家は徐々に資金源を奪われ先細りする一方、貴族や寺院などの中世権力構造が徐々に形成されていったとか。坂口安吾って新宿や蒲田あたりの安酒場でプラトニック・ラブを語り、堕落論を語ってる酔いどれロマンチストってイメージ(安直な)だったけど、さすが明治生まれのインテリさんは学があるよね。

 でも、この「脱税日本史」って面白いです。租庸調の過酷な律令支配でも末端では結構虚偽申告してたらしいし。そういえば、京都の家屋が長細い「ウナギの寝床」になるのも、家の間口の長さで住民税(当時は別の呼び名だろうが)が決まったから、せっせと間口を狭くして、その代わり途方もなく奥行きを広げるという対抗手段になったからだと。現在の遺産分割など不動産案件になるとよくモメるのですが、もう登記簿記載の面積や公図と実測とが全然違う!これも遡れば太閤検地の頃の「縄延び」と呼ばれる虚偽(過小)申告がもとで、以後代々「嘘」が継承され、検地帳→村絵図(江戸時代)→明治の地租改正の字限図(あざきりず)・字絵図(あざえず)になり、さらに現代の公図になる(法務局にいけば閲覧できる)。でもそれらが全然大嘘だったりするから揉める。土地取引が活発だったバブル期には、この面倒臭さを一気に解決するためにそこら一帯の底地を全部買い取る作業が必要で、そこで地上げ屋が出没し、当時の僕の好敵手になってたわけですな。日本の歴史というのは、庶民とお上の税金をめぐる脱税闘争の歴史と言い換えてもいいわけだし、そしてそれは近未来においても富裕層に対する相続税その他の締め付けでさらに顕在化するでしょう。いつの時代もやるこた同じ。でも優に千年以上も常にお上に対して大嘘つき続けてきてるわけだから、日本の庶民も”太い”よね〜。国家権力的には、そういう歴史は絶対教えたくないかもしらんけど(笑)。

 さて話を戻して、その荘園貴族がなぜ没落して武士階級が出てきたかは、前にも何度か書いたし、Wikiにも出てますが、遠因となったのは製鉄技術の進展でしょう。上代は製鉄が大変で鉄が高価だった。貴族は鉄を独占し、鉄を使った優秀な農機具を独占しこれを貸与することで農民の生活基盤を握っていた。しかし、11世紀頃から鉄の生産量が増え、安価になるにつれ、貴族の支配を離れて開墾できるようになった。そして開墾百姓達の独立自尊とマッチョなダイナミズムが武家の気風を生み出し、まず中央支配の及ばぬ坂東(関東)で勢力をつけ(坂東武者)、平将門をうみ、やがて保元・平治の乱で平氏政権、さらに鎌倉時代以降、完全に武家が公家の権力を簒奪するようになる。鎌倉時代のモットーは「一所懸命」であって「一"生"懸命」ではない。「一所」=俺の土地、俺の田んぼ!という開墾農地の所有権の確認が世の秩序の根本になり、その土地所有権の公的認可権こそが権力の本質であったと。

 あるいは中世ヨーロッパがなぜ十字軍を生み、ルネサンスを生んだかも、遡れば農業技術がハイテク化したこと=三圃制農業の開発によるという。生産量が上がり平和になって人口増大&軍事技術者の就職難を生み〜って関係。このあたりの諸要因は昔勉強した世界史シリーズ ESSAY 335:キリスト教について(その9) 〜十字軍の背景〜歴史の連続性について参照。


 長々書いているのは、今から思えば「なるほどね」という時代の動きや因果関係も、リアルタイムに当時の人達が「今私達はこのへんにいます」「だからこうなってます」と正確に理解できたか?というと、無理だと思うのですよ。それを理解するためには、かなりの深さで社会構造を知らないとならないし、また相当のロングスパンで見ていかないと分からない。つまり深度×長さがないと解析ができないだろうということです。

 ということで、これほどまでに膨大な人の群れの動きを正確に把握するのはまず不可能だろうし、ディープな構造理解と途方も無いロングスパンで解析するのも同時代には不可能事でしょう。つまりは「本当のところはわからんよ」ということです。

要は自分でしょ?

パーソナルに必要な情報

 では、僕らは不可知論を胸に抱え、ひたすら無力感に打ちひしがれているべきか?というと、そんなことはないです。だって人間一人が幸せな一生をまっとうするにあたって、そんなに何もかも知る必要はないですから。実際、この世の事象のうち99%は関係ないっちゃ関係無いでしょ。今、南米のボリビアのヒットチャートでどんな曲が流行っているかとか、キルギスタンの高級官僚の奥さんが実は不倫をしているとかいうことは、まあ余程の神のイタズラでもないかぎり、僕の一生に関係しないでしょう。別に知らなくても一向に差し支えない。同じように、この先一生会うこともないだろう芸能人が結婚しましたとか離婚しましたとかどーでもいい。

 むしろ問題は、僕の、そしてあなたの今後の人生行路において、何を知らねばならないのか?です。

 例えば、今週の土曜日に会社の仲間達と三浦半島に釣りに行く予定のあなたは、週末の天気がどうなるかが重要な情報だし、車で行く場合には他にイベントがあってメチャクチャ道路が混んでるようなことはないか、工事や事故渋滞はないか、現地に車を停める場所はあるか、餌は現地調達できるのか、そのあたりが「知るべき情報」でしょう。そして、火曜日あたりに台風が近づいてきて、木曜あたりでまだ足摺岬にいる場合、台風がどうなるかはとても大事な「ニュース」になるでしょう。また、前日の深夜、ルートになっている国道でタンクローリーが横転して全面通行止めになっているという「緊急ニュース」があるでしょう。さらに、なんで釣りに行くのか?というと、実はひそかに想いを寄せているAさんとこの機会に一気に親睦を深めたいという下心があって、しかしAさんは木曜日くらいに風邪で会社を休んでたりして、「Aさんの体調」という、メディアやネットをいくら検索しても絶対に出てこないような(通院している病院のデーターベースをハッキングしてカルテを見るとかしない限り)事柄が、あなたにとって最重要な「ニュース」になるでしょう。そして「独自の取材活動」をするわけだけど、Aさんと親しい同僚に「Aさん、風邪治った?」とか露骨に聞くのもはばかられるから、「最近また風邪はやってるみたいね」と世間話を装ってさりげに探索するなど涙ぐましいことをするわけですな。ああ、人間というのは、なんでこんなに可愛いのでしょう(^^)。

 これらはショートスパンの近未来だから話もわかりやすい。でも「死ぬまでの全行程」という超ロングスパンになると、おそらく将来の自分が関係するような出来事は全部対象になるから「ニュース」の範囲もべらぼーに広がる。その場合、どこに注目して、何を調べて、どう取材して、どう解説するか、全部自分次第です。

タイムラグと構造理解

 死ぬまで日本に居るとして、今あなたが20歳で、平均的にあと70年後くらい(90歳)に死んでいると予想するなら、この先60年分がニュースの対象になるでしょう。しかも、10年後に30歳、30年後に50歳になるのは確定してますから、直近10年は20代の若者を取り巻く出来事が対象になり、20-30年後は中高年の再就職あたりが対象になるはずです。つまり現状の中高年再就職状況を取材するだけでは足りず、それらが20年後にどうなっているか?こそがピンポイントに大事であると。同じく、60年後に年金受給年齢になりそうなのですが、今の年金システムなんかある意味どうでもよく、大事なのはそれらが60年後にどうなっているか?論です。

 つまりリアルタイムの現状だけ見て、将来のことを考えていても、それだけでは足りない。釣りにいくのが1ヶ月後だったら、今週の天気予報なんかどーでもいい。今週雨だからといって1か月後も雨だというものではない。大事なのは一ヶ月後の天気であると。このようにニュースといっても、個人レベルでカスタマイズするにあたっては、それぞれにタイムラグがあるということですね。

 そしてスパンが長くなるにつれて、今年の春は雨が多くなりそうなのか、エル・ニーニョだからどうとか、将来予測の根拠となりそうな全体構造こそが大事になる。今日現地で雨が降ってますというリアルタイムの状況情報ではなく、「なんでそうなるの?」というメカニズムや構造こそが大事になる。つまり、先になるほど「ニュース」というよりは、全体構造理解という作業、単に「知る」だけではなく、「お勉強」「研究」のように息の長い積み重ね作業になっていくのでしょう。

自分で作れ「ニュース番組」〜「日刊自分新聞」「週刊自分」

自分のために作る

 半分冗談、半分マジですけど、もうニュース番組を受け身で見ている場合ではないんじゃないかと。
 むしろ自分で作るくらいでないといけないのではないか、と思っちゃったりして。

 まあ、放映する予定もないし、視聴者は自分だけなんだけど、

  今最も注目すべきは◯◯だ!>私
  今考えなくてはいけないのはこれだ>俺

くらいのノリで。

 ご自身でブログやメルマガ作っている人は、小なりと言えどもそれも立派な「メディア」ですから、なんとなく分かると思うのですが。ただし、ちょっと違うのは「自分に関するネタ」を掲載するのではないことです。「自分が読むための新聞を自分が作る」ということです。

 この先自分はどうやって生きていくのか?をマジに考えれば考えるほど程
  ↓
 何が問題になって、何を知るべきなのか? というのが出てくると思うのですね。

 だからといって、日常活動がそんなに変わってくるわけではないですよ。なんか事件があったら、勤務中だろうがすわっ!と席を立ち、引き止める上司を殴り倒して路上に出て、現場に駆けつけ、近隣の民家や通行人から片端から事情を聞いて廻り、、なんてことはしなくていいし、出来もしないでしょう。

 だから日常で何が変わるというものではないのだけど、ただ一つ、意識が変わりますよね。
 これまではニュースを見てて「ふーん」で終わりの「最終消費者」だったのが、ニュースを見るのは自分にとっては「日刊自分新聞」を編集するための「取材活動」に過ぎないって意識になるでしょう。「テレビではこんなこと言ってるけど」と吟味もしようかという気になるし、そもそも「こんなことをニュースにしようとする隠された意図はなにか」という批判的検証もするかもしれない。

 書店にいっても「こういうのが売れるのは何故か」とか、いい小説やCDに巡り合ったら「文化欄に書こう」とか、人の話を聞くにしたって、それもこれも全部「取材」って気になる(かもしれない)。

いいスよ〜(笑)

 これ、いいスよ〜、オススメっす。

 消極的には洗脳防止になるって機能もあろうが、そんなレベルにとどまらず他にもメリットが多いです。

 例えば情報摂取の有効性です。主体的に取材した情報というのは忘却しにくいですから。ニュースや世の中の出来事を知るためにテレビ見たり、雑誌読んだりって時間が年間100時間(1日20分)あったとして、数年後にどれだけ頭に残っているか?です。10%も残ってなかったら、めっちゃくちゃ無駄でしょ?情報というのは、カキ氷食べるみたいに「消費」しちゃダメで、お味噌やお酒みたいに蓄積されたり、次につながっていかなきゃ勿体ないじゃん。

 書いてて今更ながら思ったのですが、僕にとってはこのエッセイが一つのメディアであり、「週刊俺」みたいなものなんですよね。そのときどきで思ったことを結構ムキになって書いてるわけですが、蓄積するか?といったら蓄積しますよ。次につながるか?といったら、やあホントだ、ちゃんとつながってます。過去700回(雑記帳入れたら800回)分の膨大なデーターというのは、勿論全て暗唱できるわけではないのですけど、頭に残ってはいます。勿論すっかり忘れているのもあるんですけど、自分で苦労して書いてるだけに、自分で読み直したときの理解速度が普通の10倍くらい早い。超スラスラ読める。インスタントに記憶喚起できる。まあ、受験ノートみたいなものですから。

 また、「アレを書いたから、今これを書ける・考えられる」という蓄積や相乗効果はちゃんとあります。馬鹿みたいに2年かけて書いた世界史シリーズも、あの効果は凄まじく、以前は世界史系の話になったら「もうダメぽ」と尻尾がクルルッと丸まっていたんだけど、今なら逆に得意科目ですからね。どんな話がでてきても、直には知らないまでも、「ああ、あのへんね〜」ってすぐにピンとくる。だから怖くないし、死角も減るし、攻めてもいける。

書くこと〜階段登るか、飛び跳ねるか 

 つくづく思うのですが、頭のなかで考えてることって、意外と残らないんですよね。そのときはどれだけ真剣に考えていたとしても、時が経てばかなり綺麗さっぱり忘れたりします。これって長い一生スパンで考えると、鳥肌が立つくらいの無駄ではないか?

 ところが何でもいいから書いてみると、記憶の定着率は飛躍的に良くなる。パソコンでいえば、考えてるだけだったらただのRAMで、電源落としたら消えてしまう。でも書くと、それも人に見せるのを前提にするくらいの意識できっちり書くと、RAMからROMに記憶が移行し、ファイルで保存したような状態になる(気がする。少なくとも僕はそう)。

 これが長いスパンで大きな差になってくるような気がします。その場で考えることって、垂直跳びみたいにその場でぴょんと飛び上がってるだけで、すぐに落ちてしまう。一回目に1メートル飛んだからといって、2回目に1メートル1センチから始められるわけではなく、またゼロから飛ばないとならない。でも書いて、頭のなかに保存できると、二回目は前の1メートルを前提にして「続き」ができる。まあ、そうはいっても忘れたりもするから完全ではないけど、それでも積み上がっていく。例えていえば、垂直跳びに対する「階段登り」みたいなもので、2階までいってしまえば、続きは2階から出来ます。なんだかんだで積み重ねていけば、100階とか500階になって、その度にピョンピョン飛んでるのとは雲泥の差になるという。

 長いことブログとかやってる人なら頷いていただけるかもしれないけど、1年前に何を考えてたか?なんてぜーんぜん覚えてないけど、1年前に何を書いたか?というのは結構覚えてませんか?ソラでは言えないかもしれないけど、タイトル見るだけで「ああ、あれね」と思い出せる。ちょっと読み返すだけで、その時点での思考の到達点がすぐに再現できる。おいしいじゃん、と。

 だからニュースや情報も同じことで、いくら「自分にとって必要なこと」とフィルターかけて吟味してたとしても、それだけだったら「食い散らし」みたいになって残らないかもしれない。勿体ない。

エンターテイメントの効用

 自分が読むためのニュースなんだからどうでもいいんだけど、でも実際にブログとかやれば他人も読む。まあ、実は誰も読んでないかもしれないけど、それでも読まれることを前提にします。そうすると、サービス精神というか、エンターティメントとして成立させようとする心理も働く。

 それが悪い方向に転ぶ場合もあるけど(やたら迎合的になったり、ウケ狙いに走ったり)、良い面もある。ネタ探しでいろいろ見るから、結果的に視野が広くなることもあります。僕自身、そういう面はすごいあります。「ここらで一発毛色を変えて」とか思うから、日頃関心のないことでも見てみたり。

 あと、わかりやすく書かないといけないから、あれこれ説明方法に工夫を凝らします。そうやってるうちに、なんとなく考えているときよりも遥かに物事の本質が見えてくることが多いです。受験でも「理解したかったら、他人に教えろ」って技がありますが、他人に教えようとするならハンパな理解では許されないし、そもそも教えられないから、必然的に徹底的にやるのですね。それがいい。僕も昔受験が終わった後、後輩の指導とか採点とかやってたんですけど、教えながら「あ、そういうことだったのか!」という新発見の連続で、「くそお、これやってたら1年早く合格したかも」と思いましたもんね。

 同じようなことですが、嘘書いたら大恥ですから、いちいち調べるクセがつきます。今はネットがあるから本当に便利です。で、結構勘違いしてることって多いです。「え!そうだったの!」という。いずれにせよ手持ちの情報知識がカッチリ固まってくるのと同時に、大小いろいろな情報バグも発見できて、知識が高品位になっていくという効能もあります。

 いずれにせよ、常に探し、常に吟味し、常に説明に苦労しながら深い理解に進み、常にバグ修正をしているわけですから、よほどのことが無い限り、頭は良くなります。てか頭の使い方が上手になる(同じことだが)。毎日いろいろな客を乗せて、いろいろなところを運転してれば、運転も上手になるし、道も覚えるということで、極めて当リ前のことです。

 ただし、そこらへんの面白そうな記事をそのまま引っ張ってきてコピペ〜なんてド安直なことをしてたら、これらの効用は全く期待できないでしょう。むしろウケ狙いとか、弊害の方が大きくなるかもしれない。


 あ、あと、これって新聞記事をスクラップするとか、設定したトピックで勝手にニュースを検索/収集してきてくれるアプリとか、そういうのとは本質的に違います。あれって、結局「メディアの記事を読む」という行為に大した差異はないからです。フィルターかけて探す手間を省いているだけの話で。

 でも、自分で作るのは根本が違う。そのテの記事集めは、単なる取材活動や素材ゲットという前提行為に過ぎない。集めたものを全て一回自分の頭で咀嚼して、その上で自分の頭でゼロから「記事を書く」という行為をするわけです。通常、単に集めてきたものを並べたり合体させたりでは記事になりません。いざやってみると、記事と記事のベクトルが微妙に違ったり、相互に矛盾してたりするのに気づいて、「あれ、どゆこと?」と気づきがあるし、さらに深く調べたりもするでしょう。材料集めはとっかかりに過ぎず、そこから本格的に調理が始まるって感じ。ま、実際に書くかどうかは別としても、そういう気分でやっているのといないとのでは、自ずと違ってくると思います。

 ということで、自分が読むための「ニュース」は自分で編集しようという話でした。

なんで思ったのか

 帰省時は、ほぼ毎日実家で朝飯食べてたわけですが(それが目的のようなものだし)、例によって朝のテレビがつけっぱなしという日本の家庭の風景なわけです。

 ちなみに僕の場合、日本に居る頃から「朝にテレビを見る」という習慣はあんまりなかったですね。前職の間はまずしなかった。高校の時、そして受験中のバイトに行く日が最後くらいかな。考えてみれば、朝っぱらからイヤイヤ起きてる時に、賑やかしというか、景気付けというか、虚しさの埋め合わせというか、そのためにテレビつけてたような気がする。あ、オーストラリアに最初来て語学学校に通ってる時も朝テレビつけてたわ。こっちの朝番ってどうなの?って興味本位もあるけど、やっぱ朝起きるのがイヤだったもんな。あ〜、イヤイヤなんかやってるとテレビって見たくなるのかな?

 閑話休題、で、まあ毎朝NHKのニュースとかが流れているわけですけど、ちょうど少年が殺されたとかどうとかやってました。ほぼ毎日。真面目に聞いてなかったけど、「なんでこんなのがニュースになるの?」ってちょいムカついた。まだこんなことやってるのか?って。

 なぜって、そりゃ亡くなった本人やご遺族にはお気の毒ですし、厳粛に受け止めるべき出来事であることに異論はないです。でもニュースって葬式じゃないんだろ。日本で亡くなる人は毎日相当数いるはずです。縁もゆかりも無い人の訃報にいちいち頭を垂れていたら頭をあげるヒマもない。また、ご遺族の心情、あるいは天に旅立たれた本人の魂を考えれば、見も知らぬ大群衆に自分らのことをあれこれ言われたくもないでしょう。そっとしておいて差し上げるのが、人倫の示すところではなかろうか?騒いだ方が人として正しいの?僕にはどうしてもそうは思えないんだけどな。

 いや、我が国の教育制度や青少年の風紀や生活を考える上で貴重な参考になるので、少しでも現在の社会を皆で良くしていこうという営み(それがすなわち言葉の本来の意味における"政治"であるが)に有益だからニュースとして国民に届ける価値があり、国民もそれを知る権利があるのかもしれません。でも、そんなことは全ての事実関係や背後関係が、綿密な捜査と法廷での立証活動と判決によって、さらに優秀なジャーナリストや学者による再検証を経てからやれば良いでしょ。事実関係が曖昧なまま議論したって無駄だし、有害ですらある。警察が事情を聴取していますとかいう捜査状況なんか意味ないでしょ。警察の捜査能力の優秀性を検証するってのがテーマだったらそれもアリだけど、違うでしょ。要するにまだ全然なにもわかってないような段階で逐一報道する意味がどこにあるのか、謎です。

 皆で有益な議論をするというなら、サンプルケースとしてはほぼ事実関係が明らかになった過去の事件を取り上げれば良い。でもそれだと「ニュース」にならないんですよね。昔の話だから。てことは、そういう「国民の有益な議論に〜」という大義名分でいえば、この種の話をニュースで取り上げてはいけないことになるし、そもそも「ニュース」というものがそういう目的にどれだけ役に立つのか根本的に疑わしいってことでもあります。

 付記するならば、これは警察関係や司法関係でお仕事された人ならお分かりかと思うけど、マスコミで報道されるのは全事件のほんの一部でしかなく、その選択基準はかなり恣意的です。恣意的つか、いい加減つか、気分ひとつ。報道されてない事件のなかには、もっと重大で、陰惨で、猟奇的で、考えさせられる(考えるべき)点を含む事件は山ほどあります。ただ知らされてないだけ。なんでA事件が報道されてB事件が報道されないの?っていえば、もう偶然。クラスの中でたまたまその日先生に指されたのがなんでA君であってB君ではないのか?というくらいランダム。

 これらは別に今回思ったことではなく、昔から、遡れば子供の頃からそうで、それが漠然と大人世界に不信感募らせていた一因でもあるのですけど。「まだ、そんなことやってるのか?」というのは、僕にとっては実に30〜40年越しの思いでもあります。死ぬまでやってろって感じ。

 だが、それはいい。よかあないけど、今に始まったことでもないですから。だけどね〜、Googleで毎日のニュースを見てても、あまりの無内容さに読む気を無くして既に数年。iPhoneのニュースアプリを入れてみても、脱力するためにアプリを入れたようなもので、なんだこれ?と。こりゃ真剣に誰もが自分で新聞作るしか無いよな、てか、ある程度感度のいい人達の中ではとっくにそれが常識になってるだろうけど、相当感度の悪い人だって、今はもうそのくらいやんなきゃマズイんじゃないの?って気がしたわけです。

 大げさに書いてるように感じられるかもしれないけど、でもね、冷静に振り返って欲しいのですが、あなたが何歳か知りませんが、これまで生きていて自分の人生に少なからぬ影響を与えた「情報」って何でしたか?それっていわゆる「ニュース」でしたか?僕の場合は違います。何に影響を与えられたか?といえば、直接見聞した出来事です。それは仕事であったり、友達であったり、親であったり、バイトであったり、恋人であったり、旅であったり、そういう人々の態度や言葉であったり。かなりナマな情報です。第二に間接的な情報としては、小説であり、音楽であり、映画であり、マンガでありというカルチャー系です。さらに固い情報系でいえば、ドキュメンタリーや専門的解説であり、論稿でした。

 言うならば、まず直接体験(仕事をしたり恋をしたり旅をしたり)で自分の原型が作られ、カルチャー系の作品群でその世界を広げて貰い、それである程度「じゃあこう生きていこう」という方向性が固まって、その実践レベルで社会政治経済系の情報が出てきて、それも構造的に深く理解しないとほとんど使い物にならないから、カチッとやるという感じです。ニュースというのは、それらを前提にした上での本当に「差分」、それも微差分でしかないってのが正味の感覚なんです。あなたはそうではないですか?

 ああ、自分で「新聞」を作るって書いたけど、正確に言えばそんな差分作成ではなくて、もっとゴリッと意味あるようなフリースタイルのメディアですね。だから新聞というよりも「雑誌」みたいな感じかな〜。今の自分に必要なものを自分でまとめてみる、あるときはジャーナリスティックに鋭い切れ込みを入れたり、あるときはじっくり読ませる連載論文みたいにしたり、あるときは遊び気分でセンセーショナルに。あなたが今、ワーホリでこれからラウンドに出てパースに行こうと思うなら、「今、パースが熱い!パース特集!」とか勝手に自分で特集組んだりさ。金欠気味でヤバし!になったら「金融危機再燃か!?」とか。面白そうでしょ?笑ってる場合じゃないかもしれんけど(でも笑)。







↑これは奈良のどっかの近鉄線のホームから。昭和な感じの町並みがナイスで、なんか日本映画の始まりって感じ。健さんとか飲んでそうな。

↑大阪のオフィス街、堺筋本町の夕方。サラリーマンの皆さんがコーヒー飲みながらお仕事を。



↑竹やぶだあ!で興奮して撮ったもの。何を興奮してるかって?オーストラリアにないんだもん、こんな立派な竹藪は。



↑これも昭和の薫りが漂う町中の喫茶店。高校時代に授業フケてサテンでダベってたときにタイムスリップしたかのような。今どき珍しいって思ったんだけど、でもよくよく観察していると実は沢山残ってたりしますね。



↑京都の昔ながらの町並み。こういうのはもう永遠にタイプスリップしてて欲しいですね。



↑ 神戸三宮の駅前。これもタイムスリップ感が半端なくて、80年台の風景。三宮の駅前って地震でかなり倒壊したハズなんだけど、復興してもこうなるわけ?このあたりは地権が異様にややこしくて手がつけられないって話を聞いたこともあるが、ようわかりません。



↑大阪駅までやってたイベント。なんのこっちゃ?と思ったら宝くじの売り出し。唯一のイベントらしきイベントがこれで、なんかね〜、他に「夢」はないんかいな?とか思ったりして。



↑京都の錦市場の近くの昔ながらの八百屋さん。ふむ、立派な青首ですね〜。これでふろふき大根やね。でもって京えび芋の煮付けを作って、軽く炊き込みご飯も作って、熱燗かな。3〜4人分はいけそう。一人150円くらいでおさまるかしらね。酒粕で粕汁にしてもええな〜。お〜、腕が鳴る。裸電球がいい味してまんな。必要なのか?って気もするけど。


文責:田村