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今週の一枚(2015/03/16)



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Essay 714:日本帰省記(3) ツッコミどころが見えない

「風景」に馴染んで眠る思考
 写真は、近鉄十条駅のホームから、京都駅方面を望遠で撮影したもの。

 背景の山は京都の北山方面になるはずですが、山あいに低く降りている雲がカッコ良かったので。
 これがオーストラリアの写真だったら、迷うこと無く「山火事だあ」って思うんだろうけどね。



 えと、前回挙げた、
 ・二度寝
 ・中枢部では戦時中モード、でもそこだけ
 ・モザイクパーツ社会〜ヤンキー庶民的世界観
 ・要は人々の善性のスレ方
 ・突っ込みどころがあるのか無いのか
 ・視点設定を他人に作ってもらってる時点でダメ
 ・動いた分だけ魅力的になる
 :

 のうちの最初の4つは前回書いたから、今回はそれ以降。

ツッコミどころ

 日本の街を歩いていると、つるんとしていて、あんまツッコミどころがないな〜とかふと思いました。

 いや、大きな話(政治やら経済やらなにやら)でいえばツッコミどころは満載で、もう積載量オーバーで、「ツッコミどころしかない」って感じなんだけど、一転して街の風景は逆にツッコミどころが無い。

 ここで僕が言っている「ツッコミどころ」というのは、もちろん漫才のアレではなく、なんつのかな創意工夫を促すポイントというか、モノを考えさせるように仕向けるキッカケというか。

 海外に来ると、見慣れてないせいか、ツッコミどころだらけです。「え?なんでそうなってんの?」という疑問やら、理解不能やら、場合によっては驚天動地の物事がそこら中に散らばってます。だからもう考えさせられる、いやでも考えてしまう。僕がオーストラリアに最初に来た時なんかもう知恵熱出るくらいに考えさせられた。

 例えば、電車にのれば「改札が無い!」という凄い駅が結構(今も)あるわけです。最初は「?!」となります。え、なんで無いの?って。今では少ないけど、当時はエレベーターに「閉」ボタンが普通になかったり。古いスーパーだったりしたら、身長2メートルあったとしてもキングコングのようによじ登っていかないと取れないようなクソ高い棚があって、そこに商品を陳列してたり。ハーバーブリッジの通行料金もシティに入るインバウンドは有料だけど、シティから出るアウトバウンドは無料だったり。

 なんでそうなの?ということを考えると、段々その社会の基本コンセプトとかが見えてくるわけですね。切符システムでも性悪説ではなく性善説をベースにして補正をかけるとか、そもそもセコいズルをしない人が多いのではないかとか、もう考ているうちに頭のなかが耕されていきます。このエッセイの前身である「シドニー雑記帳」なんかも、あまりも考えてることが溜まりすぎて、とにかく吐き出さないと気が狂いそうになるから書いてたようなものです。

 そして、それは今でもそうです。22年住んでいてさえ「え、なんで?」ってのはあるもん。でも同時に慣れてもいるからすぐに原理がわかって「なるほどねえ、よく考えたね」と。いちいち思考を刺激されるのですね。これが面白い。刺激されっぱなしだから、もう万年モノを考え続けている状態になって、それがゆえにこのエッセイもあまりネタ切れにならずに延々書き続けてられるのでしょう。

 ところが日本ではこの種のことが少ない。
 なんかすぐに「当たり前の風景」になってしまって、思考力が励起されないというか。

 そりゃもう半分外人みたいなもんで、「外人の目」ソフトを立ち上げれば、いくらでもツッコミどころは見つかりますよ。例えば、いったいいつまでATMの曜日・時間制限をするんだ?あんなの自動販売機の一種なんだから24時間で普通だろうに、なんでせんのか?とか。

 そういえば、軽トラなどの「チャラリ〜ン♪左に曲がります、ご注意ください」っての、今回「なに、あれ?」って気になったんですけど、法律で強制されてるのか?夜中に交差点近くに住んでる人だったらうるさくて叶わんだろうし、あんなもんで実際に効果あるのか?オンオフの自由設定ができるのか疑問だったりもします。これについては調べてみて、ココの、左折警報設備を製造しているデンソーの回答文の中に「昭和57年9月3日に国土交通省(旧 運輸省)から、大型貨物自動車の左折警報装置についての通達が出されたことを受け」「国土交通省からの通達において、夜間走行時においても周辺環境に配慮しつつ安全を確保するという観点から、昼間等ヘッドランプが消灯している時には75〜95デシベル、夜間でヘッドランプが点灯している時には65〜85デシベルという基準が示されており」となってました。法律ではなく通達なのね。ただこれも毎日のことだと徐々に気にならなくなったり、麻痺していくんじゃないかしらん。

 総じていうと、オーストラリアの場合は思考を促進するけど、日本の場合は思考を眠らせるような気がする。なんなんだろうな〜、農薬みたいに上から思考麻痺剤でも撒いてるのかしらん?と(^^)。

 これは単なる気のせいではないと思う。いくらオーストラリアが外国で珍しいとはいえ、同じ都市に22年も住めばいい加減珍しさも無くなって、思考が麻痺しても不思議ではないでしょう。でも違いはある。あなたには無いかもしれないけど、僕の中にはある。なんだろ?どうしてだろ?って。

意味のないシステム→考えるモチベーションを奪う

 考えた上での仮説。
 日本はあまり意味のないシステムが多く、「考えてもしょうがない」という無力感を誘発されるから考えなくなるのではないか?

 ここでいう「あまり意味のないシステム」というのは、よくよく考えると合理性が乏しく、本当なら即刻抜本的に対処すべきであるのだが、面倒臭いとか既得権が絡んでるとか諸々の理由で先送りにされ、あるいは無かったことにされ、そのうちに風景に馴染んで誰も疑問とも思わなくなるような物事、、、、です。ま、こんな定義なんかどうでもよく、具体例を挙げます。

不思議な賭博罪

 例えば、賭博。
 日本の刑法には賭博罪があります。刑法185条-187条「賭博及び富くじに関する罪」です。内容は「賭博をした者は50万円以下の罰金又は科料に処せられる(刑法185条本文)。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは不処罰(刑法185条但書)」。後段の「一時の娯楽」というのは、トランプなどの優勝者には缶ジュースを贈呈という、要するに罪の無いレクレーションであり、「子供の遊び」「可愛いもの」です。それ以外の賭博は、それが賭博であれば原則禁止。常習者や、賭博場を開帳した者はさらに罪が重い。

 これが現行日本国の法律システムですが、これに真っ向から矛盾するのが公営ギャンブルです。競馬、競輪、競艇です。これらは賭博罪の例外とされてます。他にも金融取引、株取引、保険なども偶然という不確定要素と利害が直結するから明らかにバクチ性を帯びるんだけど、でも賭博の例外とされます。あと「富くじ罪」ってのもあって、これも宝くじや年賀はがき、スポーツ振興くじなどは例外とされます。


 では、なんで競馬や競輪が賭博罪の「例外」になるのか?
 私見では全く合理的根拠はないです。論理的に破綻してるし、メチャクチャですわ。国で定めた法律を率先して破っているのは国だと言ってもいい。

 そもそもなぜ賭博は罪なのか?
 それは「賭博を放置すると国民の勤労意欲が失われ、さらに賭金の獲得や借金の返済のために窃盗や強盗など他の犯罪が誘発されることになるから(風俗ないしは経済倫理・秩序に対する罪)」というのが通説的見解であり、現在の判例も同じ立場でしょう。

 だとするなら、競馬や競輪の場合は、幾ら激しくバクチに金を注ぎ込もうが何をしようが、絶対に勤労意欲は失われないとでも言うのか?また、幾ら負けが込もうが借金苦や犯罪、家庭問題などが絶対起こりえないのか?んなワケないでしょう。そうならないという魔法の理論は僕は思いつかないし、誰も思いついていない。

 「お上がやってるからいいんだ」って主張もあろうが、じゃあ何故お上がやるとこれらの諸問題が生じないのか?という理由もメカニズムも明らかにされてない。それどころか、競馬や競輪で負けて、お金に困って、、というのは、古典的な犯罪のバックグランドになってるし、離婚や家庭問題の原因になっている。もう明白に現実に災いが生じている。でも、今日も平然と競馬は行われている。おかしいじゃないか?変じゃないか?気でも狂っているのか?

 さらに公営ギャンブルではないけど、パチンコもある。日本全国どこでも駅前にあり、国道沿いにあり、津々浦々にある。さらに今はカジノ法案だとかいってるけど、話題になってるのは経済効果だけで、賭博罪に違反するかどうかって話は少ない。なんでそうなの?

 逆に、なぜ公営ギャンブルが許されているかですが、これは簡単、要するに「金」でしょ。ギャンブルは儲かるもんね。誰が儲かるかといえば胴元(主催者)が儲かる。だからヤクザの資金源になる。地方自治体の財政をまかなうためです。それに加えて、天下りなどの利権の温床。例えばJRC(中央競馬会)は「畜産振興」の大義名分で数十億円を毎年関連公益法人に交付してますが、その交付を受けた諸団体の99%以上が農林水産省のOBの天下りを受けていたりします(馬券で支える 中央競馬会の畜産交付金99%超天下り法人へ)。競輪も似たようなもんです。

お上はヤクザか

 結局、ギャンブルは儲かる、だからやるってことでしょ。賭博罪?知らねーよそんなもんって。
 つまりは「お金が欲しいから刑法を破る(例外を作る)」わけで、
 それって「お金が欲しいから刑法を破る(ex 窃盗をする)」のとどこが違うのか?

 「違法賭博」という意味不明な概念があります。賭博はもともと違法なんでしょ?「違法殺人」なんて言葉が存在しないのと同じく、違法賭博なんてナンセンスの極みなんだけど、でもそういう言葉がある。つまりは、野球賭博やサッカー賭博、トトカルチョやノミ行為という主として暴力団の資金源になっているものです。

 でもさ、お上がやったら良くて、どうして民間(暴力団でもどこでも)がやったらアカンのか?というとこれも明確な理由はないんだわ。「暴力団の資金源になるから」というのは本末転倒だから理由になってない。もし暴力団を壊滅したかったら他にも手はあろうし(総会屋や商業右翼の規制とか)、賭博系での資金源を細くしたかったら、一般民間企業の参加を促したらいい。禁止するから非合法ビジネスになり、彼らの天下になるのであって、普通のビジネスにしてしまえば妙味がないから彼らもやらないでしょ。禁酒法があるからアル・カポネが出てきたわけだし、禁止されてない商売に暴力団はそんなに精を出さない(八百屋さんをやってる暴力団があったら教えてくれ)。

 にもかかわらず「違法賭博」として「民間」の活動を規制摘発するのは、要するに「お上がやるのはいいけど、庶民がやるのはけしからん」という時代錯誤的な封建主義なのか、お上の儲けが減るから独占しておきたいのか。また、ヤクザがやると胴元丸儲けとか不正が行われるかどうかってのも、あまりにも儲からないと客が離れるから規制するまでもないし、そもそも日本の公営競馬くらい胴元がふんだくってる(分配率が低い)ところは無いともいう。なんだかんだいって、結局は、国家自体がヤクザみたいなもので「てめえ、誰に断ってバイ(商売)やってんだ?」という、「ショバ荒らし」として規制しているだけじゃん。

 という具合に根本的にド矛盾しているのであって、理性を正常に保っておきたかったら即刻対処がなされるべきである。事実1970年台には賭博罪そのものが無意味にすぎるということで、刑法から削除しよう、デ・クリミナイゼーション(非犯罪化)といわれる議論もあったそうです。でも、今は殆ど誰も言わない。もう完全に「ほったらかし」です。多分、福島もそうなるかも。

 で、いつしか風景に完璧に馴染んでしまって、今更誰も疑問に思わなくなるという。これが「あまり意味のないシステム」です。疑問を眠らせる、思考を麻痺させる。考えてもしょうがないしね〜って。

オーストラリアの場合

 ちなみにオーストラリアの場合は、「GAMBLING REGULATION ACT」など州や規制委員会によってギチギチに規制しています。基本賭博は犯罪じゃないですから。しかし生活態度を持ち崩したり、犯罪組織や違法収入の温床になったりする可能性はあるので、実質審査をしてラインセンスを交付し、ラインセンス料を徴収し(高い)、運営についてもアレコレうるさく言う。特に、ギャンブル中毒になった顧客に対する立ち直りのためのカウンセリングを行うとか。

 つまり賭博そのものを罪にして、でも大した理由もなくお上は例外ってするのではなく、賭博そのものは合法だけど、それを業としてやる場合は、運転免許のようにライセンス制度にして、あれこれ審査し、そのライセンスフィーでお上が潤い、また税金を吸い上げてお上が潤い、一方ではそれに伴う一般国民の弊害を除去するためにあれこれ手を打つ。これらのライセンス要件やフィーを巡って、ギャンブル業界(パブやRSAなどポーカーマシン(スロットマシン)を置いていあるところ)と政府が大バトルを展開したり、ロビー活動をやったりして、それがメディアに報道されてます。

 以上はうろ覚えの知識のままバーっと書いただけですので、鵜呑みしたらあかんですよ。興味のある人は本格的に調べてください。オーストラリアの規制一般については、国会のサイトの「Gambling Policy and Regulation」にリンク集があります。

 もちろんオーストラリアだって理想的になにもかもが上手くいってるはずも無いとは思うのだけど、何がどうしてどうなってるの?という筋道は、オーストラリアの方がはるかに追いやすい。メカニズムが見えやすいし、法律やシステムの合理性も理解しやすい。それだけに「これ、意味ないじゃん」って不備(ツッコミどころ)があったら、すぐに目立つし、皆も議論するし、比較的早く政治に反映されて改廃される(なんせ投票率が限りなく100%だし)。例えばギャンブル中毒者へのカウンセリングとかいっても、それってヤバい人ほど受けようとしないだろうから意味ないじゃんとか、中毒レベルが一定に達すると強制的に受けさせられるのか、そんなのどうやって判定してどう強制するのか、それに幾ら掛かるのか、それだけ費やして効果はあるのか、、など、ツッコミどころが幾らでも出てくる。思考が励起される。

小心翼々たる過剰規制と思考停止

騒音のご都合主義的な問題意識

 さきの左折車の警報についても同じです。僕は「意味あんのか?」とすぐに思った。ネットでもそのあたりを書いている人もいるけど、少ないですね。あれ、皆さん良いと思ってるんだろうか?

 「うるさい」「騒音」ということの環境被害をあまり気にしないのだろうか。でもさ、電車の中で携帯電話で話すのは「廻りのお客様のご迷惑になりますので」って禁止してるんだよね。他人が会話していて何が”迷惑”なのか分からんが、おそらくは騒音だと思われるんだけど、会話が騒音迷惑だったら普通の会話も一切禁止したらええやん。携帯は片方の声しか聞こえないのに、通常会話は両方の声が聞こえるから二倍うるさいじゃん。あるいは通常会話のように当事者が目に見える場合はいいけど、一人で携帯で話してケラケラ笑ってるという状態が不気味だから「迷惑」なわけ?じゃあ本読んでて一人でクスクス笑ってるのも禁止ってことか。要は周囲の耳目をイヤでも集めるくらい、常識はずれに大声を出したり、騒いだりするのを禁止すればいいだけだと思うんだけど。

 てか、こんなのうるさいと思ったら周囲の人間が注意すればいいだけじゃん。でもそうすると逆ギレされて怖いから、一般的に禁止するわけか。「先生に言って注意してもらう」「ママに言いつけて怒ってもらう」って。まずこの時点でヘタレじゃん。赤の他人にものを頼むとか咎めるという行為が出来ない、苦手だという時点で、イチ社会人としてどうなの?って思う。角が立たないようにものを言うのは一種の社会的な技術だし、そこでトラブった時にどう対処するかも技術でしょう。そんなんでよく地球上で人間やってられますね?って感じなんだけど、まあ、それは良いです。「他者免疫欠乏症(そのうち修学旅行も全員個室が当たり前になったりするかもね)」の一種だと思われるのですが、今回のテーマから外れるので。

 いずれにせよ騒音が問題なら、電車内だけではなく居酒屋でも、スタバでも携帯禁止でもいいはずなんだけど、そうではない。そして騒音が問題なら、この左折警報こそがかなりのボリュームで鳴らしているんだから騒音じゃないのか。ところで右翼の街宣カーはなんで取り締まらないのか。車内のヘッドフォンのシャカシャカは非常識な!っつって怒るなら、右翼の街宣カーにも同じように怒ったらどう?ついでにいえば選挙のクソうるさい名前連呼も禁止すべき。車内携帯よりもよっぽどうるさくて無意味だもん。名前を連呼して覚えてもらえば得票数が上がるというのは、心理学的にもマーケティング的にも正しいかしらんけど、そういうことで政治を決めていいのか?って根本が腐ってんじゃん。

左折警報の解析

 さて、左折警報の風景に至るまでの過程を考えてみたんだけど、多分、こういうことなんだろう。
 まず、左折による巻き込み事故が多いので、それを防ぐために当局(国土交通省かな)もあれこれ考えた。

 オーストラリアのNSW州の場合、歩行者と左折車との関係を調整するために、信号が青になっても数秒間は左折禁止の「赤矢印信号」がでます。歩行者の死角になる左折車の侵入を信号的に禁止する。そして道路の半分を渡り終わった頃に、左折禁止を解除する。その場合渡っている人は向こうから歩いてくる人だから死角にならない。ちなみにその変わり目のときに、歩行者用信号は青から赤点滅になります(赤点滅時間がすごい長いけど)。こっちの歩行者用信号が「すぐに赤になる」とかよく言われるのはそういうロジックあってのことです。

 でも、日本の当局はそうはしなかった。まあ、そこは政策判断だからいいです。赤矢印信号を全国に設置しようと思ったらかなりの予算もいるでしょうし、長年親しんだ交通法規をコロコロ変えるのもドライバーの混乱を招くという配慮もあったのかもしれません。ということで、「左に曲がります」という音声警報をつけようという話になったのかもしれません。まあ、「通達」レベルで法律ではないので、国会審議の議事録もないだろうから(どっかで話が出てるかもしれないが探してない)、わかりません。まあ、それはいいです。

 で、大型車両を使用する運送会社や一般企業、ドライバーの皆さんがその左折警報装置を取り付ける。これ、取り付けないとどういう罰則があるのかは分かりませんが、まあ、かなり費用もかさむかもしれないけど、お上の言うことに敢えて異を唱えることもないので取り付ける。次に実際に稼働するときにオン・オフは出来るような感じだけど、あきらかに誰もいないような交差点でも鳴りっぱなしって場合がそこそこあった。切り忘れているのか、面倒臭いからなのか。

 こっから先は僕の推測ですけど、多分、これを鳴らしている理由は、万が一事故があったときの自己防衛策って側面が強いのではないかと。事故った時に鳴らしてなかったら、なんで鳴らさかなったんだ?って過失を問われそうな気がする。仮に鳴らしてたとしても事故は避けられなかったとしても、それが明白に立証されない限り(例えば被害者が聾唖者だったとか)何か言われそうだ。例えば、刑事的には業務上過失致死傷の情状を悪化させたり、民事的には賠償額が心持ちあがったり、あるいは損保会社の扱いが変わったり、つまりは漠然としたリスクが多そうだと。だったら、リスクを犯してまで、「夜中だから近所で寝ている人にうるさいよな」「誰も居ないし意味ないよな」とかいう合理的な判断を優先させることはないか、とりあえず鳴らしておきゃいいだろうって事じゃないすかね。

「言い訳」のようにカタチだけ整える

 こういう「過剰防衛」みたいな部分が日本には多い。
 「言い訳」のように、とりあえず「やってま〜す」「努力してま〜す」ってカタチを整えるような。法律レベル、特に行政法規でそれが多い。もうそればっかといってもいい。

 不動産屋に宅建主任、薬局に薬剤師っていってもカタチだけ。法的安全や消費者保護を確保するためにそういう専門家を置けということだけど、形骸化しまくってる。名前だけ貸している薬剤師さんなんか山ほどいるでしょ。一人で何件も貸しているとか。今幾らすんの?一件一月5000円くらいかな?

 住民票だって実際に住んでなくても取れるしさ、戸籍の「本籍」なんか意味わからんし(そもそも戸籍すら世界的には無いのが普通なのに)、車庫証明だって結局はカタチだけだしさ。そんなんばっかじゃないか。

 以前、神戸のケースワーカー(福祉事務所職員)が仕事に疲れて鬱になって殺人を犯してしまったって事件を弁護したことがあり、業界界隈の実情をいろいろな人からお聞きしたんだけど、適性無視して職場配置しているという労務管理のおかしさがまずあり、職務環境のハードを改善する処方の乏しさがあり、加えて国からは金がないから生活保護打ち切りを推奨されるという圧力があり(メディアを使った不正受給キャンペーンとそれにコロっと乗ってしまう一般国民の知能低下問題があり)って何層にも問題構造がある。でも、当局がその事件を契機にやった改善案というのは、これからは二人一組になってやるとかいう脱力ものの対策でした。クソ忙しいのに二人組なんか出来るわけないだろう、そーゆー問題じゃないだろうって思うんだけど、とりあえず当局もなんかしら「やりました」「考えました」ってことをアピールしなきゃいけないから、適当にやるんだわ。

 言い訳のようにカタチだけ整えること。こんなの日本全国いたるところでそうだし、ほとんど全部そうだといっても過言ではないと思う。いや決して言い過ぎではないと思うぞ。

リスク管理になってない

 かくして単に家を借りるだけでも、やれ住民票と運転免許証と戸籍抄本と連帯保証人を二人以上とか、うるさいうるさい。トラブル対策に腰が引けてるから、とにかく安全をノーリスクをってな感じで、意味のないガチガチの過剰防衛をする。僕らの頃は校内暴力とかさかんだったから、校則も阿呆としかいいようがないようなものが多かったです。今はどうなってるのか知らんけど、当時長野と愛知は「教育県」として有名だったから(悪名でもある)、変な校則も多かったそうです。学校が異なる3人以上が同時に会ってはイケナイとかさ。中学の同窓会なんてどうするんだ。全国的にやってたのは、16歳になったらバイクの免許取れるんだけど、バイクを買わせない、乗らせない、免許取らせない「3ない運動」なんてのをやったりさ。

 あのね、そのあたりのトラブル・喧嘩専門家だった経験で言わせてもらえば、そんなの大した役にたたないよ。実効性ゼロに近いと言い切ってもいい。だってさ、暴走族やろうって奴がそんな校則守るわけないじゃん。そもそも校則なんか読まないよ。生活保護の不正受給でも、ほんまもんの悪党にそんな小手先のテクでなんとかなるわけないだろ。戸籍だって売買できる世の中なんだからさ。あいつら書類なんか幾らでも揃えられるんだわ。そのためのシステムもちゃんとあるんだから。校則だって理不尽な規則を押し付けるから反発もするし、反発すれば不良のレッテル貼るし、それがアイデンティティにもなるしで、意図的に犯罪者予備軍を作ってるとしか思えない。自分の学校だけ奴隷のように盲従させたらそれでいいのだという過剰防衛なり(防衛になってないんだけど)、過剰な保身意識がくだらない規則を増やす。結果として本来保護されるべき人々を窮地に追い込む。

 家を貸すなら運転免許証のコピー一枚でいいです。あそこに本籍と本名があるし、顔の一致もできるから、裁判かけられる。怖いのはどこの誰ともわからないのが占拠していることで、裁判かけたくても被告が特定できないことです(それでもかける方法はあるけど)。連帯保証人だって、家賃不払いで連帯保証人に請求するような実例はほとんどマレだから(後述)、意味無いんだよな。こっちのレフリーのように、人柄保証とかそういう人間がいるかどうか、どのレベルの人間と知り合いになってるかって方がよっぽど意味がある。連帯保証人をつけさせるなら、会社名とか職責を明記してもらって、会社に電話かけて話が通じるかどうかをチェックした方がよっぽど意味がある。もっと言えば、かねがねエッセイで書いてるように、こっちの人のように、真正面からその人を見るという「人を見る目」を養うのが一番実効性がある。これ無くしてどんな防衛策をとっても無意味だといってもいいくらい。

 因みにマンションの賃借における連帯保証人(or相続人)の問題ですけど、家賃滞納などについては、確かに法的には保証人に支払い義務が発生するし、それだけの解説で終わってる中途半端な文献が多いけど、「請求できる」のと「実際に払ってもらえる」のとでは天地の差があるのよね。「知りませんよ、そんなこと!」って電話ガチャ切りされたら、さてどうするの?実際に裁判かけるときの訴訟費用を考えたら、賃貸マンション程度だったらまず費用倒れに終わるだろうから実例が少ないです。また、あまりにも形式的な保証人になってるし、実際には偽名に三文判でもいけちゃったりするくらいだし、そのくらい安直にやられているだけに、正味のところ本当に保証人に支払い義務を負わせていいのか、それが社会常識に合致するのか?というと微妙なんですよね、裁判所もそこは考えますよ。だから請求するにしてもスジが悪いんです。僕が現役だった頃にこういう事件が来ても受けないでしょうね。裁判所に「こんなスジ悪事件を受ける弁護士なのか」って思われるのも将来的にヤバそうだし。とりあえず債務名義だけとっておきたいなら支払命令出して貰うくらいかな。訴訟にするにしても、せいぜい和解で分割払いにしてもらうくらいかな〜。それも3回くらい払ってあとはフェイドアウト〜とか?

 昨今では孤独死とか自殺で腐乱死体になって発見された場合にどうなるか?ってケースの方がはるかに意味があるんじゃないでしょうかね。でもって責任といっても、滞納家賃問題じゃないです(そのための敷金なんだし)。原状回復義務ってやつです。発見された時点にもよるけど、畳とか腐っちゃったり、匂いが篭ったり、そりゃ大家さんとしては泣きたいような気持ちでしょう。また遺留品を勝手に捨てていいのかどうか。そのあたりがビビットな問題でしょう。ちなみに自然死の場合は賃借人に債務不履行責任を認めず(脳溢血でぽっくりいくことに”過失”があるとは言えないとして)、自殺の場合とは違うとした判例がいくつかあるようです。このあたりについて調べていたら、この行政書士さんのサイトが非常に詳しく解説されていました。


 でもそういう実質的なことは考えないんだわね〜。もちろん第一線の現場でバリバリやってる連中は考えているけど、カタチだけ処理しているような職場もまた多い。「そういう規則ですから」ってことで、茶道のお点前の手順を墨守するような感じですよね。上司もその合理性に疑問を持たないし、裁量で上下させることもしない。これってビジネス的にいえば無能極まりないんだけど。もう思考停止してるとしか思えない。小心翼々たる愚劣な「気休め」が横行しすぎ。

 このあたりは自分自身ガキの頃から理不尽に思ってたので恨み骨髄というか(笑)、そういう頭の悪いことを押し付けられるのがメチャクチャ腹立ったから、相手が国だろうが大企業だろうが思う存分喧嘩三昧やれる弁護士になったわけだし、もう三日三晩語れと言われたら語れます。

 ま、僕ごときの心情はどうでもいいですが、ともあれ「本音と建前」みたいな二重構造があって、本当に役に立ってるかどうかの真剣な検証もせず、むしろ全然意味ないことを百も承知しつつ、それでも建前を言ってないと許されないとか、余計な不安は背負い込みたくないという心情が優先し、「あまり意味のないシステム」が日本中に横行する。そして、それを子供の頃からずっと見てたら日常風景になってしまって、問題意識が芽生えなくなるし、芽生えたところで「弾圧」されるし、なんだかんだで思考も励起されない。

つるつるな表面

 でもね〜、こんなのは昔っからそうだったから今更驚きもしないけど、今回帰って特に思ったのは、表面上の肌触りがツルツルになってきて、ますますとっかかりが無くなってきたな〜ってことです。

 なんつか「かりそめの繁栄」と言いますか、これだけ経済が悪化してるんだから、そこら中ホームレスの皆さんが佇んでいたり、いろいろな問題が目に見えるカタチで出てきても不思議ではないんだけど、そうなってない。地方のシャッター街なんか、目に見える形なんだろうけど、あれも「シャッター街」というネーミングを付して、10回くらいマスコミで見聞きしたら「風景」になってしまう。よく(てか普通に)考えたら、これまでの生活や人生の方法論が日本全国規模で崩壊してるわけでしょ?どえらいことが起きているわけなんだけど、その種の緊迫感もあんまないし、現実がつるつるでケバ立ってないから思考も励起されない。

健康な人はダメ部分にこそ注目する

 おそらくは意図的に問題を隠そうという部分もあるのでしょう。ホームレスの意図的な追い立てとか、暴力団の囲い込みビジネスとかもあるんだろうけど、福島の現状なんかもそう。僕の感覚では、今の日本で一番憂うべき問題でしょうに。僕自身そこまで健康にセンシティブな人間ではないんだけど(タバコ吸いまくってるしさ)、あのほったらかしは不味いでしょう。

 国債とか借金とか世界的金融崩壊秒読みとか幾らでもあるけど、あんなのは所詮ゼニカネの問題ですわ。前に「40歳になる前に一回破産しとき〜」とか書いたけど、あれも半分本気で、ゼニカネ問題って意外と底が浅いので、それを体感しておくと人生楽になりますから。だってさ、借金が1000億円あっても万歳グリコで破産したらゼロ回復だもん。現実世界に「マイナス」ってないのよね、あれは妄想、幻想、お約束。嘘だと思ったら「マイナス百円玉」を僕に手渡してくださいな。現実世界ではゼロが最悪なんだわ。あとは義理人情とかしがらみとかカッコ悪いとかメンタル要素でしかない。一回破産したらそのことがわかるから。分かりすぎてもダメですよ(笑)。クセになって何度も破産する人がいるから。ゼニカネの問題というのは、冷静に分析していくと、その問題の90%は心理的な恐怖心だということです。ましてや国全体がせーのでコケて、今日から日本中の全会社が倒産して、全員が失業して、全員が破産したら、要するに何もなかったのと同じなんだわね。ちょうど敗戦がそうであったように。大したこたあねーよ。んなもん、前回書いたようにぶっ太い庶民パワーでGO!だろうが。

 でも放射能その他の環境破壊はそうではない。場合によっては億年レベルで祟るわけで笑い事ではない。僕が首相だったら、アンダーなんたらとか寝言ぶっこいてないで、特別に1チャンネル設けて、朝から晩まで現場のライブ実況中継流すけどな。対策についての現場や官僚の会議も全部実況中継にして、もう激論の余りつかみ合いの喧嘩やってるところまで流すけどな。それが奏功するかどうかは分からんけど、もうお祭りみたいにして、総力戦で取り組んでるって実質&イメージも作り上げるけどな〜。

 なぜって、健康な人は不健康な部分にまず心がいくからです。健康なあなたは、不健康な部分、つまり胃がしくしく痛いとか、歯が痛いとか、足が曲がらないとか、そういう部分に興味関心が集中する。一番ダメな部分に注意力がいく。車乗っていても、変な音がし出したらとっても気になるし、使ってるパソコンが急に変な動きをしたらメチャクチャ気になる。自分の子供がある日を境に毎日顔面に青アザ作って帰宅するようになったら気になるでしょうが。ダメな部分には緊急の対策が必要とされるだろうし、問題を分析し、最適解を探し、実行するでしょう?それが健康な人のやることです。

 それを、「もう、俺のことはほっといてくれよ」とか言い出して、浴びるように酒を飲んだり、明らかにドラッグ漬けになったり、後先考えずに借金しまくってたりしてたら、幾ら本人が「大丈夫だから」「気にすんなよ」とか言っても納得出来ないでしょうが。それで納得してたら阿呆ですわ。また、自分自身が「大丈夫だから」とか言い出したら、ヤバイでしょうに。それと同じことです。

 つまり問題点に全力で立ち向かっている限り、ベストを尽くしているわけだし、ゆえに最大成果も望めるわけだし、状況としては問題はないのですよね。それ以上のことは出来ないわけなんだから。また、そうしている限り、人間ってのは不思議なもので心も安定する。そりゃ一気に安らぎ〜ってことはないけど、地に足は着くよ。なにかしらの心の安定は得られる。 それは原因不明で痩せ衰えていた家族が、やっと医者に見てもらって、やれ緊急手術だ入院だって言われてビビるんだけど、それでも状況を明確に説明してもらえて、将来の展望もわかって、生活はかなり制限されるけどそれでも回復の希望があるんだってわかるような感じです。ここから先は上がっていくだけだって気分になれるもん。でも、問題点から目を背けたり、なかったことにしたり、無理やり不安を押し殺しているときは、人の心は安定しないよ。底なし沼にハマったような不安定な感じ。体重を預けている片足がズルっと地の底に沈むイヤ〜な失墜感を絶えず覚えてたら、次第に精神が逼迫してくるよね。

あまりにも嘘臭く完成されている点

 もう一点。20年前に比べてあまりにも風景が変わってないのですね。そりゃビルは建つし、なんだかんだのハコモノは増えるしって変化はあるかしらんけど、そういうことじゃなくて、佇(たたず)まいや空気感が変わらないというか、その変わらない部分でどんどん細かいところに手が入っていって、細密に完成されているって妙な気持ち悪さがありました。

 これ分かりにくいから、分からないのを覚悟で一応書いておきます。
 僕が20年前に日本を出る時点でタイムマシンに乗せてやるって言われて、「はい、20年後の世界です」って言われて現在に来ても、嘘つくんじゃないよって言いたくなりそうな。全然浦島効果がないじゃんって。

 それまでの日本や、それ以降のシドニーは変わってましたよ。「変わってる」というよりも「動いてる」といった方が語感チューニング合うかな?「都市の鼓動」というとどっかの三文コピーみたいだけど、ドクッドクッという生きてる感じ、動いてる感じ、寝転んでいる大きな犬の横にいて、その腹が定期的に上下して健康な生命反応を感じるような。

 動きながら変わってるから、細かいところまで手が入れられずに、あっちこっちに綻びがあって、それがツッコミどころになったり、愛嬌になったり、ダイナミズムを感じさせてくれる。ちょうど寝ている犬が、時折クシャミをしたり、あくびをしたりして笑いを誘うように。だから、今の20代までの人って「社会が動く」ってことを生理体感として知らないんじゃないかな〜。

 その代わり動いてないから、細かいところはどんどん完成されていく。便利にはなるし、お手頃な商品も山盛りだし、これだけ見てたらこれで十分って気になるだろうな〜って。これじゃあツッコミどころも、思考の励起もクソもないだろうなって。

 ほんでも通奏低音のコントラバスのような「不安」は鳴ってるでしょ?だって、そんな細かいところで幾ら完成度を高めても、抜本的な解決になってないんだもん。手術の待合室をいくらロココ調家具で埋め尽くしてゴージャスなものにしたところで、多少の気晴らしにはなるかしらんけど、手術の帰趨そのものは変わらないんだから、家族の不安は和らがないよ。

 なんつかな、動かないマネキンの上に丁寧に化粧を塗り重ねていくような、細密な曼荼羅絵がより細密に書き込まれていくような、妙な居心地の悪さがありました。ん〜、そんでいいの?みたいな。




文責:田村