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今週の一枚(2015/02/23)



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Essay 711:A僑と伊勢サミットのこと(仮タイトル)Ver1.1

 写真は、京都から伊勢(二見浦)まで近鉄列車6回乗り継ぎという経路をたどっていったときに撮った一枚。

 地元の人には普通の風景なんだろうけど、海外在住日本人には癒やし風景のオンパレードで、「おお〜」とアホみたいに写真撮ってたら、案の定、車内にiPadを置き忘れてしまったとさ。次の乗換駅で駅舎に伝えたところ、すぐに見つかり、翌日無事に回収しました。いやあ、乗り換えが複雑だからしっかり記録してあったので電車が特定できたこと、乗客が少ないこと、すぐに対処して頂いたことが良かったです。これが都会だったら無理だろうな〜。

 


今週だけの新趣向

 今週はちょっと趣向を変えます。
 なんせ、さっきA僑の伊勢の集会から戻ってきてヘロヘロなので、普通に一本エッセイ書く余裕がありません。
まあ、日本に帰省中でもあるし、「一回休み」にするのでもいいのですけど、新趣向を思いついたらとにかくやってみてくなったのでやってみる、ということで。これができるのが自営起業の良さで、すなわち「上司の決裁」が要らない。てか上司なんか居ない。Above me only sky. この環境で躊躇っていたらやっている意味がない!ということで。どうなることやら、ですけど。

 ということで、今週に限り、完成系のエッセイをポンと上げるのではなく、未完成稿をUPし、毎日書き足していきます。新聞の連載小説や分割払いのようなものと思われるかもしれないけど、ちょっと違います。あれは確定稿を小出しにしていくだけですが、本件の場合、書き足すだけではなく、書き直しもします。今日載せた文章を明日になったらばさーっと削除して、明後日になったら又復活して、さらに順番を入れ替えて、、ってという滅茶苦茶な。

 本来なら完成原稿を人様にお出しすべきなのでしょうし、普段はそうしていますが、今回はそれやってる時間がないし、時間が無くてもピチピチの新鮮ネタを書きたいからです。なんせ今日の今日の話であり、且つ背景を説明するとかなり長くなるという。

 まあ、こういうのが嫌いな人、生煮えのものを客に出すな、出来てから出せっていう人は、次回までには確定稿に仕上げますので、週末辺りにまとめて読んで貰えばいいです。でも、毎日、増えて&変わって&推敲が進んゆく過程をリアルに見るのが面白いと思う人はどうぞ楽しんでください。

概要

 書きたいことは今回のA僑集会(「伊勢サミット」と内輪では冗談めかして呼んでますが(笑))についてですが、何なのそれ?てかA僑って何?なんでそんなことすんの?なに考えてるの?どうなりたいの?目論見は?あたりのざっくりとした話です。

 まずA僑とはなにか?ですが、あなたが知らなくて当然、僕の造語ですから。もとは華僑や印僑をもじったものです。「和僑」という概念は20年前の漫画の「サンクチュアリ」(リアルタイムに読んでたときは最高に面白かった)に出てきますし、そういう言葉や概念は他の現実の経済雑誌の記事などでも見かけました。ま、あって当然ですけど。それともう一つ、AERAの記事に載ってた「リ僑」ですね。リクルート社出身者の起業ネットワークが作るともなく出来ているレポート記事です。その概念もヒントにして、僕がやってる現地特訓の一括パック受講者/卒業生によるゆるいネットワーク作りをやってみよかと、名前はなにがいいかな、APLACの僑だからA僑(あきょう)でいいやって。軽い感じで。

 このあたりの詳しいことは別途そのページがあり、僕が又長いゴタクを述べてますのでご参照ください。

 まあ、卒業生の同窓会、親睦会、、っていってしまえばそうなのかもしれないけど、それに込めた野望(笑)というか思いは、意外と巨大です。世の中これからこうなると思う、だから今のうちからこうしておくってことで、30年スパンくらいで考えます。30年というとまた法螺みたいに聞こえるかもしれないけど、僕にとっては手頃なサイズで、APLACだってそろそろ創立20周年だし、このエッセイだってもう20年近く書いてるんですよ。20年なんて「このくらい」って手の平サイズですよね。

 僕が思うに、要点は二つあります。
 ★一つは起業という視点にこだわること
 ★もう一つは、構成メンバーの共通属性です

 なんで起業なの?というと、野心的な試みって感じではなく、これからの世の中で普通にマトモに暮らそうと思ったら、特に中高年になってもマトモに普通に暮らそうとしたら、当然出てくるオプションだと思うからです。このエッセイでもかねがね言ってますけど。

 いきなり視点をロングパンしてデカい話をすれば、どうも科学技術の進歩と資本主義って噛み合わせが悪いみたいって話です。科学技術の進歩は人間の幸福のためのものでした。1000人必死に働いて生活資産を生産していたのを、マシンが1000人分働いてくれれば、一人がそのマシンを操って、あとの999人は寝て暮らせばいい。1000日に1日だけ働いて、つまり3年に1日くらい働いて、あとの999日は寝て暮らせるという人類の夢でした。んでも、そこに資本主義がカマされると、999人は寝て暮らせる天国ではなく、失業者として苦しんでしまうという。なんか変じゃない?こ、こんな筈では、、ですよね?だからこの二つは相性が良さげで実は悪いんじゃないか。スイカと天ぷら(だっけ)みたいに「食べ合わせ」が悪いと。

 じゃあどうすんの?といえば、目先のことでいえば仕事が猛烈に減っていくなら、自分で作ればいい。首になったらそれで終わりではなく、無限にあれこれトライできるフリーハンドの生産手段を個々人が持つべきでしょう。それを今現在の言葉のなかから選べば「起業」ってことになるだろうと。でも、「起業」って概念だけでは実は過不足あって、起業がもつ野心的自己実現って側面もあるんだけど、同時に必要にせまられた生活防衛的な側面も大いにある。てか、起業をしたいのではなく、「これだけ頑張ったら→これだけ幸せになる」ってクソ当たり前の等式を成り立たせる環境こそが欲しいし、それが無いなら自分で作れってことで、脱資本主義的なニュアンスも濃厚に含む起業です。だもんでいくら儲ったから成功ってレベルの話ではないのですね、ほんとは。

 でも、いよいよ切羽詰まってから「さて、やりますか」で始めても、この種のことって本当に経験量がモノを言うし、人脈がなければ絵に描いた餅なので、皆が老境に差し掛かる30年前から準備しなはれと。失敗しても笑えるレベルから徐々にトライして、うだうだ言ってないで動いて、動いて、「ほう、あれがこんな形に化けるのか?」という世にも不思議な社会の化学反応を実験して覚えて、やっていったらええやんってことで、A僑を作ったと。「作った」といっても、呼びかけただけて「場」らしきものを設定しただけのことですけど。



 もう一点、共通属性です。単に集まればいいってもんじゃなくて、メンバー間に重要なファクターを共有するという共通属性があるかないかが致命的に大事だと思ってます。

 いろんな切り口があってもいいんですけど、とりあえず一括パック経験者であるという点を挙げたのは実はかなり深い意味があります。や、考えぬいてそうしたというよりも、直感的にポンと浮かんだ感じ、もっと正確にいえば目の前に物凄い埋蔵量のある鉱脈があるのをなんとなく感じたので、これを皆でシェアすればいい、教えてあげたいって思ったのがきっかけです。教えてあげるというのはエラそげな物言いですけど、でも、これは僕しか見えないです。全員知ってるのは僕だけで、それこそ空港でピックアップして、数日寝食共にして、、って。その知識経験があるのは世界で僕だけ。いわば風呂屋の番台みたいな視点がある。でもみなは同期周辺は学校やラウンド先で友達になって時期がずれたらもう知り合えないわけで、勿体無いじゃんって。

 一括パック出身者による共通属性というのは、一言で言えば「話が通じる」「波長が合う」ということで、さらに分解すればいくつかあります。

 (1)学歴/職歴に対するこだわりがゼロに近い
 (2)年齢に関するこだわりもゼロも近い
 (3)日本の人生保証的なシステムに懐疑を抱くのみか、自分で積み上げたものを自分で捨てている
 (4)それだけの犠牲を払っても得たいものが、金とかステイタスとかではなく、もっと漠然とした「もっと夢をもって」「自分らしく」とか、ともすればお花畑的に揶揄されがちなものであること。ただしそれが桃源郷的な理想ではなく、より普通でより当たり前でより生理感覚にフィットするもの、今回僕が楽しんだ「裸足に畳の快感」のような、当たり前に普通に幸せになりたいという、地に足の着いたものであること。その実現のために実際に行動=オーストラリアまで来ている。
 (5)そこで厳しい現実に直面するわけだけど、心が折れずに、逃げもせずに貫けている。特に最初のシェア探しは英語の出来る出来ないにかかわりなく怖いもので、真っ暗な細い道を一人でトボトボ進むような時期が来るのですが、それを通り抜けている。「天神様の細道」を全員が通り抜けている。これは大事な点で、いくら海外だなんだいっても、全部用意されているのではなく、何の保証もなく、孤立無援で、100%アウェイ環境で、それでもやれたかどうかです。
 (6)当然だけど、全員英語が喋れる。上手いか下手かはともかくとして、英語で生きていくということについては慣れている。
 (7)「海外」についてのイメージが「怖い」「不可解」というネガなものではなく、楽しい、自由、むしろイージー、具体的には超ハードなんだけど「呼吸するのが楽」「生きるのが楽」って意味でイージーであるということを、全員が知っている。それも頭でっかちの知識ではなく、経験体感として持っている。

 以上、要するに「非日本人的」な属性とも言えますな。結局本質は(4)(曖昧で漠然とした価値をとても大事にする)に尽きると思います。ここが強烈であるからこそ、その他の属性は自然に出てくるだけでしょう。圧倒的に「いいもの」を知ってるかどうかで、それを知ってたら、やれ学歴が〜年収が〜とかいうクソみたいな基準は心底どうでもええわって思えるのでしょうね。でも、こんなの普通じゃないの?なんで普通だと非日本人的なんだろうね。


 さらにこれに加えて
 (8)まだエネルギーが残っている、やり尽くしてない感がハンパない

 別に正規の基準でもないし守られているわけでもないけど、体験談を書くことというのがあったりします。別に書かなくてもいいんだけど、でも実際のA僑で動いている面々はあの体験談を書いてる連中だったりします。史記の○○列伝みたいな。かなり内容の濃いものが多く、渡豪する前に読むと見上げるような神々の物語のような気がするのですが、あの連中と一緒にやると思うと、ハンパな実績では居心地が悪いってのはあると思います。

 体験談を書くというのは、あれと同格くらいの実績を積んだということだし、そういう自負があるということでもある。まあ、本人ひとりひとりに聞けば「めっそうもない」って感じなんだろうけど、でも全然見劣りするようなものであったとしても、それでも「これが私です」と不特定多数の前に出ていけるだけの気持ちはある。ここが大事ね。内心で思ってても意味なくて、「世にでる」という「その一歩」を踏み出せるかどうかですね。

 また、最後までやりきったと思えるからこそ書くんだけど、逆に言えば最後までやりきれたということでもある。シェア探しのハードな日々が終わってまったりして、その後失速していって、、、って感じではない。なんつのかな、「逃げなかった」ってことかな。なんせ、全員が全員あれやってきてる集団ですからね、「おまえ、ここで逃げただろ?」ってのは手に取るように見えるんですよね。同じようなところでビビったり、悩んだりしてきたわけですから。日本では適当に美化して誤魔化せても、ここでは通用しないよ。一瞬で見透かされる。

 そして日本に戻って、ああ面白かった、遠足終わり、また日常だ、俺の青春は終わった、Party is overって感じになれない。冗談じゃねえよ、これからだろう?と。せっかく自力で、それも血を吐くような思いでガッシと掴んだ、すげー「いいもん」があるのに、それをこの先生かさないで、結実させないで、妥協×諦めの日々に埋もれていくなんて絶対ヤダ!って気持ちがある。

 でもそういう想いを語る相手、ぶつける相手に事欠く。「まだそんな夢みたいなこと言ってんの?」「大人になれよ」的な、のびた素麺のような、ひやっこくて、ぬるい反応だったりするわけですよね、帰国してからの周囲は。歯ごたえなし、てかニチャニチャ噛んでて気持ち悪いしって。

 そういう人らにとって、同じ資質をもつ人は滅多に出会えない得難い仲間でしょう。いみじくも中島さんが卒業生用掲示板で書いてたけど、MOPという活動をする相棒になる石渡さんに出会った時に、「なんだ、お前、ここにいたのかよ!」という感じ。これまで生きてて、あれこれやって、世界一周までやって、それでもなかなか出会えなかった同志が目の前にぽんと居るという。そういう人が居るというだけで、そして語り合うだけで、もうメチャクチャ楽しいんですよね。

 で、その「メチャクチャ楽しい」のが、今回の「伊勢サミット(笑)」で、とある案件をもとに、興味アリ宣言をした連中(僕を入れて7名)が、東京から広島から伊勢に集まってブイブイやっていたという。とりあえず次はカンボジアかタイの視察ということで、って話になって、でも本当は次はどこに集まるか、やっぱ島根とかいいよね、今回伊勢神宮だったので、次は出雲でしょうとか、真面目なんだかふざけてんのかという。

 ま、そのあたりの話は、おいおい書きましょう。
 とりあえずは共通属性の切り口としてはこんな感じであるとか。

 無論、別の切り口もありますよ。例えば、(もしそんな奇特な人々が居るとしたら、ですが)このエッセイの愛読者という切り口もあるわけです。真部分集合みたいにA僑と重なる部分もあろうが、でも重ならない部分も広い。でもって僕に意味があるんじゃなくて、ここで書かれている内容、そのテイストやら指向性やらが何となく波長合うなって人は、同じくそう感じる人と一緒に飲んだりしたら結構気分のいい酒席になるかもしれないし、それが巡り巡ってってこともあるかもしれない。ま、でも、大抵他人に薦めても「長いからヤダ」でというリアクションを受けたりするんじゃないかなって思われる所、世の中広いので、長いけどいいってレア人がいたりしてね。話が合うんじゃないの?と。特殊な一点で話が合う人というのは、他の部分でも結構合ったりするし。人間的に「そういう人」だからだと思うけど。

 ま、自分でやるのはなんかこっ恥ずかしいからやらないけど、勝手に誰かがやるのは全然構わないです。てかね、これに限らずもっと色々動けばいいのになって思います。漫画の○○が好きとか、ファンクラブとかあるけど、もっとニッチでゆるくて組織立ってないもん。ニッチにするのは共通属性が際立ってくるからハズレが少ないかもねって意味です。ビートルズが好きって人は世界に何億人もいるから意味なくて、ビートルズのなかでも「A Day in the Life」こそが最高であるという人の集まりとかさ。超マイナーな趣味とか。まあタコツボっちゃタコツボなんだけど、でも会社だって国家だってタコツボっちゃそうでしょ。問題はタコツボをいくつ持ってるかじゃないの?こいつらと話してるとメッチャ楽しいって場をいくつ持ってるか、作れるか?でしょう。意見や思想とかいっても、突き詰めれば好き嫌いだもんね。だからその好き嫌いをもっと大事にして、積極的に基軸にすればいいのに、と。

 そんなことしてると異なる意見の人を排斥するイントレランスを助長するという危惧もあるでしょう。それは分かる。でも、やり方一つじゃないかな。ウヨとかサヨとか既成概念化してるのはちょっとねって気もするけど、「へ?」というくらいヘンテコでユニークでしかし本質的な切り口だと、妙な所で串をさしてるから、構成メンツはおもいっきりバラバラになって、そこで交流していると思わぬ視界が開けたりするんじゃないかな。あとゆるいのがいいとか、組織立たないのがいいというのは、「皆で一丸となって」とか暑苦しいノリになるとしんどいし、何よりも意外な発展性が阻害されるのが勿体無い。最初はビートルズつながりだったのが、ひょんなところから田舎に共有別荘を持とうぜみたいな話になって、あれこれやってるうちに陶芸マニアの会になって、会は数回で自然消滅するんだけど、それがもとで個別にカップルができたりとか、本業関係で意外なつながりが出来たりとか。

 人のつながりの面白さってそういうことだと思います。僕が昔やってた異業種交流でも、単純に飲んでてメチャクチャ楽しいって波長合いまくりのメンツが集まったってのが大きいです。すごい勉強になったけど、それは結果論で、別に勉強のためにやってたわけでは全然ない。でもって、それが縁で結婚しましたってのは、えーと幾つあるかな、結構あります。僕だってそうだし。で、それがもとで本業関係のビジネス的リターンというのも、これも狙ってたわけでもないけど、「信頼できるから」で自然とくるわけだし、僕だって当時の本業関係でいえば、詳しく計上はできないけど百万くらいは軽く稼がせてもらったような気がする(もちろん逆に手弁当的に手伝ったことはもっとあるけど)。

 切り口なんかなんでもいいんですよね。でも何でもいいって言いながらも、面白くて、ユニークなやつがいいです。「入道雲鑑賞会」でもいいし、「出張情報交換会(ここに行ったらこの店にいけ的な)」でもいいし、どういう昼寝が一番気持ちいいかを熱く語り合う昼寝同好会でもいいし、ひきこもりのノウハウを情報交換する「閑居庵」とか。何をやっても続かない「三日坊主クラブ」でランキングを作って、三日坊主キャリアを100以上持ってる人は大僧正とか大慈空阿闍梨にして、和尚、寺男、10個未満は一休さん小坊主とか。何の生産性があるのかわからんけど、くだらないことでキャッキャやるのって一番楽しいじゃん。でもそれが実は人生を開いていったりするんだわね。

 大きな時代な流れでは、これまでの折に触れ書いているように、国家とかそういう巨大な箱物がリアリティを失ってって自然と融解していって、その代わりに、なんだかよう分からん部族社会みたいになっていって、そこを渡り歩いていくってライフスタイルになっていくんじゃないかなと。所属してる会社がコケたらもう終わりです、友達いません、一人ぼっちです、どうしていいのかわかりません、では困るでしょう?かといって既存の集団だと、やっぱ既存なだけにもうしっかり秩序世界があって、長老がおってとか、あんまり会社と変わらんかったりしてさ。だから変なの、自分らしいのを自分で作っちゃえよ、と。自分らしさを突き詰めれば絶対「変」になるからさ。


 ということで一回目Ver1.0はここまで。推敲も何も全くしないでゴロンと出しておきます。
 



 

文責:田村