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今週の一枚(2015/01/26)



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Essay 707:「怒り」だけでは戦争は出来ない

〜感情ベースと利得ベース
〜怒ると知能指数が低下する法則
 撮影場所はCroydon Parkという地味なサバーブ。ここは北のCroydonと南のCampsieの中間にあるエリアで、東隣のAshbury(Ashifieldの南)とともに、シェア探しの対象から外してます。交通の便がイマイチなんですよね。パラレルに4本も電車が走ってるインナーウェストの中で、どの路線からも遠くてバスしかないので。もっとも413番バスでシティまで一本でいけます(ちなみにこの系統、Campsie〜Croydon Park〜Ashbury〜Summer Hill〜Lewisham〜以後Parramatta Rdでシティという玄人好みの超渋いサバーブばっかり通る)。

 この写真の通りはBrighton Aveといって、約1キロにわたって延々と坂が続きますが、特筆すべきはしつこく出てくるラウンドアバウトと、この南洋風の植物(椰子の木か)です。よくキャムシーにシェア移動で送っていくので、この通りは定期的に通るのですが、どーんと視界が開けて、なんか巨大な自動車教習所みたいな感じで楽しいです。

 ちなみにこの木、カンタベリーカウンシルのページをみると、Heritage List(世界遺産のライトなローカル版みたいな)に「Brighton Avenue Palm Trees」登録されています(City of Canterbury/Heritage List)

 オーストラリアに来てやたら見るのがこの"Heritage"(遺産)という単語で、2000年近い歴史をもつ日本からみると、たかだか226年(そういえば今日が到着記念日=Australian Dayか)の歴史しかないオーストラリアは、国全体が「新興住宅地」みたいなもので、「なにが”遺産”だい」ってちょっと馬鹿にしてたところもあったのです。しかし、だんだん見方が変わってきて、若い国なのに、いや若い国だからこそ歴史遺産というのを大事にしてるな、学ぶべきものあるなと。このカンタベリー自治体でも、大した広い行政区画でもないのに(32平方キロ人口15万で、東京23区でいえば面積で板橋区、人口で中央(14万弱)と台東区(18.5万)の間くらい)、この遺産リストに200箇所もノミネートされてます。

 ノミネートされた個人所有の建物、商業物件、あるいはこの椰子の木にせよ、保存のために所有者には20%の減税措置がほどこされ、増改築その他に一般規定に加えて多少のヴァリエーション(改変)があるという。日本的には遺産というと京都の清水寺みたいな感じに思いますが、こんな三丁目の夕陽的な、昔ながらの地元民に親しまれている町並み、ランドマークこそがヘリテージなんだってのは意外でもあり、同時に「それって正しいかも」って思います。

 政治というのは、大上段で天下国家を論じることよりも、本来こういうことなんだろう。皆が楽しいな、ちょっといいなって思えるように、小さなところからあれこれ努力して変えていくこと、あるいは変えずに守ること。この種のヘリテッジを保存することをコンサベーション(conservation)といいますが、これって日本語の「保守」の元ネタになった”コンサバ”です。保守って本来そういう意味で、「変えなきゃいい」なんて頭の悪い話ではない。「いい」ものをちゃんと評価して楽しもう(同時に良くないものはガンガン変えるべき)というコンセプトであり、御神木切り倒して国道作ったり、故郷の山を切り崩してゴルフ場作るのはアンチ保守でしょう。その場合、「いい」とはなにか?と住民市民の価値観が鋭く問われるわけだけど、このエリアの人々は、この椰子の木が「いい」と思っているということであり、その住民の素朴な価値観がそのまま政治に反映されている、ってことでしょう。


感情ベースと利得ベース


 だんだん世の中の仕組みを知るにつれて、戦争というのはめっちゃくちゃ儲かる商法なんだって感心しております。もうネズミ講やマルチなんか目じゃないね、原価と末端価格とギャップ(利幅)1万倍と言われる麻薬商法なんかも問題にならないくらい美味しい商法。

 子供の頃は、国家間の戦争というのを、暴走族や昔なつかし番長グループの抗争のようなものだと思ってました。まずガン飛ばした(関西では"メンチ切った")とか、肩が触れたとか、しょーもない理由でイザコザが始まる。要するに最初からお互いが目障りでムカつく存在だというベースがあり、そのムカつき感情が高まっていって、一部で局地的に暴発して小競り合いが起き、「ウチのもんが世話になったようだな」とかいって報復して、再報復があって、あとは雪だるま式に広まって、「出入りじゃあ〜!」と本宮ひろ志的に全面戦争になる、と。

 人類の戦争も似たようなものだと。かねてから心良く思ってない隣人や隣村や隣国があり、普段は平和的なふりをしてやってるんだけど、なにかコトがあると(隣家の落ち葉がこっちにくるとか、ピアノがうるさいとか、貿易やっててズルい条件ばっか押し付けてくるとか、勝手に列に割り込んだとか)、それを注意したら逆ギレされ、言い争いになり、取っ組み合いの喧嘩になるというトラブル拡大パターンです。このようにして、人類は喧嘩(戦争)をしてきたのだと、子供の頃は思っていた。

 そんなわけ、ないじゃん!

 これらのパターンは、(ムカつき)感情を基盤とし、感情をガソリンとして成長していくという、感情パターンの戦争といっていいでしょう。しかし、利益をあげることをモチベーションとし、利潤追求をメインエンジンとして稼動する利得パターンの戦争もあります。

 これは犯罪の粗暴犯、利得犯のカテゴライズに似てます。犯罪というのは、「カッとなって」「むしゃくしゃして」暴発するという粗暴犯(傷害、殺人)と、お金が欲しくてあの手この手をつかう利得犯(窃盗、詐欺)があります。戦争というのは究極の破壊だから、粗暴犯系に思いがちなんだけど、全然違う。

 国家間の武力闘争においては、ほぼ例外ないくらい利得型でしょう。
 すなわち、全〜然怒ってなくてもやる。ニコニコ笑いながらガシガシと人を殺す。というか、怒ったり感情を波立たせているようではプロ失格のアマチュアで、戦争というのは大人が真剣にやるシリアス・ビジネスなんだから、感情ごときに振り回されていたら話にならんわ、もっと真面目にやれ!ってな感じなのでしょう。

 ということで、一部の人にとって戦争というのはいかに儲かるか、そして僕がその立場で邪悪だったらいかに「有効活用」できるのかってのを考えてみました。「へえ、こりゃいいわ、使い勝手いいわ」と感心しながら書いてたら、えらく長くなってしまったので、今週は前半部分だけ。「民衆の怒りが爆発して戦争になりました」ってストーリーが、どう考えても「ありえない」んじゃないか?という話をします。

 なお、先週「恥かしい」という感情を書きましたが、今週は「怒り」という感情について書くという意味もあります。

怒りという感情

 なぜ怒りによって戦争が起きることがないのか?

 それは感情というのが本質的にパーソナルなものだからです。
 「夫婦喧嘩は犬も喰わない」と言われているように、真っ赤になって激怒しているのは当事者だけで、周囲は基本どっちらけている。「どーでもいいじゃん、そんなこと」「好きにしてくれよ」って感じ。女の子同士の社交辞令として「ひどーい!」等の「共感の辞」が喫茶店で述べられたとしても、まあそれだけの話で、「あ、そろそろ子供迎えにいくから」と時間が来たらスィッチが切り替わる。そこまで「一緒に戦おう!」と感情が伝染するというものではない。

怒りの伝播〜拡大罵倒

 これが伝染する場合もありますよ。
 離婚でバトルしているうちに、当事者だけではなく父親とか出てきて(大体話がこじれる元凶は父親が多い)めちゃくちゃになる。当事者間だけの罵倒だったらいいんだけど、そのうち「あんな家」「ああいう階層、業界、地域は〜」と寄せばいいのに余計な拡大罵倒を相手がすることで、自分のことを馬鹿にされたと思ってムカつく当事者が増える。一族郎党参加して家VS家のバトルになる。もうね〜、馬鹿丸出し。

 人間って面白い生き物だなあって思いますよ。だって、罵られると皆コドモになっちゃうんだから。
 これを僕は「罵倒されると(怒ると)知能指数が低下する法則」と名づけたいですね。だから高度な交渉術では、相手をわざと怒らせてミスを誘う。相手に勇み足的な余計な一言を言わせて、「言ったね?」と言質取ってから、「たった今、そうおっしゃったじゃないですか?」とこっちの有利な条件を相手に押し付ける。

 居酒屋で飲んでて、自分のグループの誰かと、隣のテーブルの誰かとが言い争いになったりすると、双方止めに入りますよね。「まあまあ」「すいませんね、こいつ酔ってて」とか。でも、余計な拡大罵倒があると事情は変わる。当事者だけが罵倒されてるだけなら周囲は冷静でいられるんだけど、「こんなダセーやつ”ら”」「この社畜"ども"がよお」と複数形で言われると、自分らも入るから、そこで知能指数が一気に劣化する。「あんだと、もう一遍言ってみろ」となって、全面バトルになる。

 このように罵倒の伝播によって戦線が拡大するってのはありますけど、でもね、広がれば広がるほど怒りにリアリティがなくなってくるんですよね。それに又聞きくらいでは腹もそんなに立たない。面と向かって憎々しげに言われるからこそムカつくのであって、抽象的な罵倒くらいではムカつかない。

 例えば、東京VS大阪で、「これだから東京モンは好かんわ」「これだから大阪人って嫌いなんだよな」とか、今日も日本全国でおそらくは数万回規模で繰り返されるであろう”罵倒”があるわけですけど、だからといって「おーし、てめえ言ったな、首洗って待ってろ!」と台所にいって出刃包丁ひっつかんで、表通りを全力疾走する人は居ない、と思うよ、居るの?ちょっとカチンと来るけど、その程度でしょ。

 というわけでムカつき感情の伝播というのは、田植えのような手作業で、異様に手間暇がかかり、せいぜいが数十人、数百人もいったら奇跡レベルです。ましてや国レベルの億単位なんか絶対無理だわ。

 暴走族の抗争でも、仲間をやられてピュアな怒りに燃えているのは、構成員10名内外程度の中小規模であって、これが数十、数百の大所帯になってくると、「あ、ヤベ、集合かかってるから、俺いくわ」って感じで、ほとんど「仕事」みたいなノリになる。彼が喧嘩に参加するのは、厳密に言えば「怒ってるから」ではない。集合がかかってるから=仲間内の人間関係力学で動いているだけでしょ。

怒りは持続性がない

 もうひとつの理由として、怒りというのは瞬発性はあるけど持続性はないです。これはもう人間生理学上そうだと思う。詳しく知るわけではないけど、「怒り」というのは、生理的にはアドレナリンの分泌と自律神経系シフトでしょ。原始時代、これからケモノに襲われるとか、狩るとか闘争状態。瞳孔は開き、心臓や肺の心肺機能を増強し、筋肉の収縮を最大限促すために豊富な血液が供給される。

 ほんでもってここでも思うんですけど、人間の感情なんか馬鹿なもので、最初は感情主導でことが始まるんだけど、それに伴って生理状態が変わってくると、今度は感情が生理に引きずられる。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言われますけど、怒りによってアドレナリンが増量されていつでもGO!状態になるんだけど、今度はアドレナリンに感情が支配されてくる。そのときはもう「運動したい、暴れたい!」という生理欲求に支配される。排泄欲求にかられて必死にトイレを探しているのと同じね。でも、暴れられないから鬱屈して、トイレ我慢しているような感覚になり、これを日常用語でいえば「むしゃくしゃして」という状況になる。「悔しくて夜も眠れない」というけど、そりゃアドレナリン全開だったらそうですよ。寝ようとするからいけないのであって、そういうときはクッタクタになるまで運動したらいいです。100メートルダッシュ10本とか、ぶっ倒れるまで。

 でも、こんなアドレナリン全開なんか人間生理上、続くわけがない。無限に続いたら死ぬって。
 ということで、友人や恋人・夫婦間のドンパチ喧嘩なんか、ほっときゃ自然におさまる。ぜってー口なんかきいてやるかって思ってるんだけど、だんだん何のために怒ってるのかわからなくなってきて、ほとんど意地だけで怒ってたり、しまいには単なる「我慢比べ大会」になっていって、そしてフラット化する。「ところでさー」と普通に話しかけられたら「なあに?」と普通の対応してたりして。

怒りのグリコーゲン

 ただね、一過性のアドレナリンや怒りが、終生のものに変質していく場合はあります。ここから先は精神医学とか哲学とかそのあたりの話になるんだろうけど、ちょうど食べ過ぎて太るみたいな感じなんだろうな。食べたものは分解され、糖分になって当座のエネルギーになるらしいですけど、使いきれない場合は脂肪やらグリコーゲン(だっけ)に変わって貯蔵される。それが貯まると「太る」になる。メンタルでも同じことで、グリコーゲン化したメンタルが徐々に蓄積されていって、メンタル的に太る。

 その場合、思うにプラスとマイナス両方の場面があるのでしょう。プラス面は、それが信念とか哲学になって、その人の人格のバックボーンになっていく場合です。力あるものに理不尽に踏み潰された怒りが原動力になって、社会正義やら人権活動をいそしむようになったり、自分が強くなってもそういうことだけはするまいという自分の信条になったり。マイナス方向のグリコーゲンは「恨み」でしょう。貧乏だから馬鹿にされた、女の子に笑われたという屈辱感がバネになって、おし!見返してやるぞって方向にならずに、金持ち=悪人=皆殺しじゃあになったり、リア充=敵になったり、異性に対する復讐心が人生のテーマになったりする痛いパターンです。

 プラマイどっちもありうるし、しかも途中までは二人三脚だったりする。だから、メンタル管理は難しい。
 自分の最大のモチベーションが、自分の成長を押しとどめる足枷になったりするので。ある程度までいったら原始モチベーションが自然に変容したり、消えたりするのが望ましいんでしょうね。「いつまでも、こだわってんじゃねーよ」と。第一段ロケットはどっかで切り捨てないといけない、身軽になれない。

 でも、ま、これは別の話です。今の戦争話にひっつけて言えば、怒りエネルギーが原動力になったとしてもそれは一過性だし、持続性の信条や恨みになったとしても、それはすぐれてパーソナルなもので、あんまり他者と共有できるようなものではない、ってことです。いずれにせよ戦争を基礎づけるパワーには成りえない。

利得は暴力を優越するの法則

 しかし、利得性というのは、これはクールに出来ますし、持続性はあるし、利益を分配できる分だけ伝播性もある。全然強い。

 先に述べた粗暴犯・利得犯の区分でいえば、暴力組織など恒常的に維持運営されている集団において行われているのは、圧倒的に利得系です。もちろん暴力団というくらいだから暴力要素もありますが、それはあくまで強盗や恐喝のように利得のための手段としてやる。傷つけることが最終目的ではない。暴力をクレバーに”活用”しているだけです。暴力団というのは、「暴力を悪賢く使うことで生計を立てている利益集団」であって、単に「暴れたい人達の集まり」ではないです。

 それをやってるのはアマチュアのチンピラ不良グループくらいでしょう。しかし、それとて暴力団の下部組織に組み込まれて、末端のドラッグ売人やらオレオレ詐欺で一番危険な受け子をやらされたりするわけで、そっちがメインになっていく。組織の資金源になるし、なんつってもお金が入る魅力には勝てないです。利得は暴力に優越するの法則。

 暴力を組織のメインテーマにしている暴力団ですらそうなんだから、一般の民間社団(会社とかNGOとか)、さらには地方自治体や国家が、粗暴な感情パターンだけで、戦争という超ビッグプロジェクトをするということは、これは断言してもいいけどありえないと思います。人間が人間であるかぎり、そんなことは不可能だと。

 ゆえに絶対にどっかに利得要素が入るのであり、利得要素があるからこそせっせと動きまわる人達が生じ、粛々と運営することが出来る。その場限りの喧嘩とは本質的に内容が違う。

 これでも納得出来ないなら、もういくつか傍証をあげましょう。

滅多なことでは人は殺せない

 人間ってどんなに腹がたっても、人を殺すところまでは中々いけないです。よほどのことですよ。友達や夫婦間で喧嘩は普通にあるけど、でも手が出るという暴力沙汰になるとグンと数が減る。ましてや2−3発どつきあいではなく、本気で殺すというところまでは滅多なことではいかないです。

 実際の殺人事例でも確定故意は少ないし、大体が未必の故意だし、それですら年間日本で1000件とかそのくらい。年間自殺者の30分の1程度の実数でしかない。あなたが殺人にコミットする(被・加害者として)確率は、あなたが自殺にコミットする確率の30倍ありえないから、現実問題ほとんど無視しうるくらいです。口を開けば「ぶっ殺す」とか「死んだ」とか気軽にいってるけど、真剣にそういうレベルに達するにはヒマラヤみたいに高い心理ハードルがあります。

 最も感情が激する筈の個々人のレベルですらその程度なんだから、集団レベルになるとさらに弱くなる。例えば、ある集団におって、他にやたらムカつく集団があったとします。スポーツのチームでも、ボロ負けして相手チームから思いっきり馬鹿にされる。めちゃくちゃ悔しい。だけどだからといって後でお礼参りで報復襲撃することはない。試合の途中でジャッジを巡って両軍取っ組み合いというのは、一種の戦術としてあったりするけど、事後にやることはない。ゼロかといえば、多少はあるかもしれないけど、それは単なる犯罪として処理されるだけで、一般化は出来ない。

 企業ビジネスになると試合以上にもっと熾烈になります。
 生きるか死ぬかのビジネスで、(政治家動かしたり)汚い手段で潰されたり、資本の力で虫けらのように踏み潰されたり。「晴れの日に傘を押し付け、雨が振ったら傘を取り上げる」と言われる銀行業務。さんざん貸しつけておいて、いざとなったら貸し剥がし。慇懃無礼に「企業努力が足りないんじゃないんですかあ?」と銀行の若造に言われた日には「殺してやる」くらいに思っても不思議ではないですよ。普通に殺意が芽生えても不思議ではないくらいの「ひどい話」はビジネスでは珍しくない。実際それをめぐって殺人事件が起きたりもしますから。

 それでも全員が殺し合いやってるわけではない。製造関係のイチ中小企業で、あんまりムカつくから「野郎ども、戦争じゃあ!」と社長が獅子吼して、社員が「おう!」を気勢をあげ、ダンプの荷台に獲物を持って乗り込み、カチコミじゃあってことは、普通の企業活動の場合まずありえない。某中小企業の社長で、元請けの企業の本社に灯油ポリタンク持って乗り込み、談判して決裂したら、玄関前で灯油かぶって焼身自殺をしようとした(未遂でおわったけど)人は、昔の事務所の依頼者でいたけど、まあそのくらいでしょう。社員全員で殺し合いってことは、普通無いでしょう。一番それに近いのが、倒産直後の倉庫で、納入商品を引き上げに来た取引先と、破産資産の保存をする側とで対決ムードになりますが、あれが一番緊張するかな。大型トラックで正門突き破ってくるぞとか、建築現場からブルとユンボ持ってかれたとか。

 その他、家族間の嫁姑に確執にせよ、興味本意にあることないことメチャクチャ書かれた犯罪の被害者や冤罪者にせよ、「殺せるものなら殺してやりたい」という想いを抱える人はいる。でも滅多なことではやらないです。「ムカついた」という瞬発的な怒りの感情だけで人を殺すところまでいくには、よっぽど諸事情が偶然満たされていたレアケースだけです。それが恨みになったとしても同様。なかなかそこまではいかない。

 メディアその他で某国が日本の悪口を言ってる、あいつらムカつく〜って心理はわかる。
 でも新聞雑誌に大嘘書かれて、たったひとりの可愛い妹が自殺しちゃいましたって場合のお兄ちゃんの怒りの度合いに比べたら、屁みたいなレベルでしょうが。

 本気で腹立ったら、一人一殺、道連れにして殺すくらいに腹立つだろうけど、そこまで怒ってるのか?全人生放棄してもいい、今の職も、将来も、マイホームも、家族も、預貯金も全て投げて捨てて構わない。あいつら一人殺せるだったら俺も喜んで死んでやるってレベルまで怒ってるの?

 なんかさ、怒りの等級目盛りが大雑把すぎない?いっぺん民事裁判の現場にでも連れて行って差し上げたいです。和の国日本で、イチ市民が裁判まで決意するというのはハンパな根性じゃないですよ。本当に「刺し違えても!」くらいの腹は括ったりしますよ。twitterあたりでピーチクパーチク雀のように囀ってるなら、「現場」おいでよ、楽しいぞ。当事者の怒りのオーラが、オーラとかいうよりも、もう火炎バーナーで顔を炙られてるような感じするから。大の大人が心底怒るってそういうことなんだって、その種の経験値が足りないんじゃないのか。

 そして、それですら殺し合いはやらないわ。そこまではせんわ。
 でも、戦争って実際にそれをやるわけでしょ。
 ちょっとばかり「ムカつく〜!」くらいでは、全然エネルギーが足りないんじゃないのか?

自衛と拳銃携帯

 もう一点、そんなこといっても相手が攻めてきたらどうするんだ、平和ボケだって意見があるけど、これも為にする議論だと思います。自衛という観点で、個人レベルで考えるなら、いつなんどき誰に襲われて、誰に危害を加えられるかわかったもんじゃないんだから、日本でもアメリカのように拳銃所持(軍備)を認めよって議論にはなってもおかしくないんだけど、そうはならない。日本は銃砲刀剣の規制が厳しいから比較的平和であり、銃の開放なんかとんでもないって意見が大勢でしょう。僕もそう思う。軍備だって同じことじゃないのか?

 いや個人と国レベルは違うってことなんだけろうけど、さて具体的にどこがどう違うの?
 個人レベルでは上部組織である国が一括して銃規制をしているけど、世界はそうではない、現に軍備を持ってる国があるんだからって議論だったら、あまり理由にならないぞ。なぜなら、日本で銃規制やってても、持ってる人は持ってるもん。暴力団の発砲事件の例をひくまでもなく、あるところにはある。「プロ」に限らず、そのへんのチンピラだろうが、裏ルートをちゃんと使えばそこらへんの主婦だってゲットすることは出来る。

 これ、危なくないですか?だったら対抗上、一般市民にも武装の権利を認めるべきだってなっても良さそうでしょ。自分の身を守るのは第一に自己責任だというなら、自己責任を果たせるだけの環境(武器の常備)は認めなきゃ嘘でしょう。その意味で、軍備をバリバリ持ってるアメリカが、国民に自衛の武器携帯を認めているというのは、ある意味ではスジは通っていると思いますよ。「力あってこその平和」だというコンセプトなんだから。

 それに国家間で「攻めてくる」っていっても、こっちが何もしてないのに一方的に攻められたのは日本2000年の歴史のなかでたった一回。元寇だけ。話を戦争一般に広げても一世紀に1-2回あるかどうか。でも数は少ないけど、殺人は年間1000件もあるし、やられるときは自分が直にやられる。リスクで言えばこっちの方が遥かに高い。今日にでも起きるかもしれんのだで。さらに若い女性など、ストーカーや性犯罪、拉致されて監禁なんて恐ろしい話が現実に起きているわけだから、非力な女性に限って小型拳銃の携帯を認めてもいいんじゃない?スタンガンなんか身を接触しないと使えないから、先の先という不意打ち攻撃に向いていて、後の先という防御には向いてないでしょ。拳銃だったら距離あっても威嚇できるから防御に向いている。小型拳銃だったら普通一発では死にはしないし。

 そういう議論にならないのは、結局、武器が広まると、弱い人が自衛に正しく使うという場合よりも、強くて悪い人がより悪いことをするために使われる場合が多いっていうのを、経験的か本能的かしらんけど、世間の人はわかってるからでしょう。「アメリカみたいになりたいくない」ってことで。

 そりゃそうなんだわ。武器に興味を示して、金銭的支出を厭わない人というのは、基本、強くて悪い人の方が多いんだから。もともと人を傷つける道具なんだから、そういうことが好きでないとあんまり興味は持たないのだ。だから善良&か弱い持つべき人は持たず、持ってはいけない人ばかりが持つことになって逆効果になる。

 そして、それは世界レベルでも同じことで、武器や軍備というのは、自衛のために使われる場合よりも、攻撃侵略に使われる場合の方が遥かに高い。てか殆ど全部それ。だから自衛だ侵略だゴタク並べてないで、軍備そのものを減らそうという「軍縮」が20世紀後半の人類の到達点だった筈ですよ。さんざんやって「持ってるとろくなことにはならない」ということを学んだ。

 日本社会が銃砲が少なく平和で良いと思うならば、世界レベルでそれをすればいい。そら現実問題なかなか難しいけど、でも目指すべき方向性はそれで、それに至る過程で便宜上、、っていうなら話はまだわかる。というか、それが米ソ冷戦が煮詰まりまくった頃に出てきた議論だったんだもん。キューバ危機やベルリン壁崩壊時にそういう認識にまで到達してた筈なんだけど、その後もなんだかんだ「緊張」が演出されている。ま、この点は次回述べます。


 以上、長々と書いたのは、自然状態では「怒り」とか「ムカつき」という感情要素だけで戦争が起きたり続行したりというのは、およそ不可能だということです。

 でも、起きているのは何故かといえば、イチにもニにも利得でしょう。儲かるからやっている。それしか考えられない。
 あと強いて言えば「趣味」。アメリカの勲章ピカピカの軍幹部あたりに、プロレスおたくみたいな戦争マニアはいそうですな。殺し合いのドンパチがあって、そこでヒーローとしてさんぜんと輝く俺、おお血沸き肉踊るぜ、これぞ男の本懐っていう阿呆。いそうだよな。でも、阿呆に商売は出来ないから、もっと賢い人達はいるでしょうね。

 ただ、戦争やってる最中、怒りみたいなエネルギーで国民が燃えているかのように見えるんだけど、これもピュアな怒りではないよね。鯉に餌を与えるように、適当にムカつく情報が定期的に与えられて、そこそこ「怒らされてる」だけでしょう。つまりは、国民が支持しているかのような体裁を整えるための感情コントロールであって、つまりは表面塗装技術じゃん。

 とりあえず今回は、

 A:「ちょっとムカつく」という感情
   ↓
 B:「ブチ殺してやりたい」という本格的な殺意や憎悪
   ↓
 C :リアルに自分の全人生と引き換えに人殺しを実行する

 このABCの間には、それぞれシルクロードを行って帰ってくるくらい途方も無い距離があるってことを言いたいだけです。普通に考えて、AからいきなりCにワープするわけないだろ?という、ごくごく当たり前の話です。

 ということで、次に戦争の利得性、いかにネズミ講以上に儲けるか、どう悪用できるかの”有効活用法”を考えます。



文責:田村