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今週の一枚(2015/01/05)



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Essay 704:ボトム40%こそが大事

〜世界的に否定されてきた「トリクルダウン」理論
 ウチの近所のLane Coveの商店街、年末の風景。年末感なし。
 どってことない写真なんだけど、人物配置と全体のバランスが気に入ったので。

 もっとも、見る人が見れば”発見”は沢山あります。正面の普通の家みたいなのが不動産屋なのですが、普通の民家を改装して商店にしているケースが多い。てか殆どそう。昔ながらのエリアで高級立地ほどそう。ビジネスビルなんか建てているのは新興エリアか再開発でしょう。この物件だって買ったら1億円以上はするでしょうね。

 で、なにげにポルシェがとまってたり(最近ポルシェをやたら見かける)、景気よさげ。
 お年寄りが多くて、総じて元気。イギリス系の昔ながらの住人の多いエリアほど、英国式伝統なのかお年寄りがきちんとした服装をする傾向がある。ボタンを一番上までとめて、ピカピカの革靴履いて。おばあちゃんとかめっちゃ気合入ってるし、「お」というカッコいいオバ(あ)ちゃんが結構います。「年のとり方」の一つの見本ですね。

 でもってお年寄りが元気で、頑張って歩いてます。真正面の緑のエコバッグを持ってるおじいちゃんですが、拡大してみると優に80歳、どうかすると90前後くらいですが、歩いてます。でも、この坂、一括パックやった人は知ってると思うけど(多分初日に通る)、死ぬほどきつくて、20代の子でも上りつめた頃には息を切らせます(僕も)。90前後でよう歩くな、こんな坂。これを20代の人に換算すれば、自分の体重と同じくらいの人を背負って、1階から4階まで階段上るくらいの運動量あると思うよ。 そして、ゆっくり歩いても誰も邪魔臭がらない。また足の不自由な方のためにゴルフのカートみたいなスクーターがあるんですけど、それもよく見かけます。ブっ飛ばしている人とかいて楽しそう。



 新年早々固い話をします。格差問題です。

 最近、世界的に流行っている(日本でもそうらしいが)トーマス・ピケティ氏の「21世紀の資本」がありますが、OECDが去年の暮に発表した「所得格差は経済発展にとって有害」というレポートが、世界中のメディアやネットに流れています。

 早い話が、ここのところ日本でも話題になってるトリクル・ダウン(=trickle down =ポタポタと"滴(したた)り落ちる")について、「ねーよ、そんなもん」とブッタ斬ってるものです。

 それをどっかの誰かがブログで言ってるのではなく、世界的にもそこそこ権威がある(てか総本山みたいな)OECDが言っているというのがミソです。80年代のレーガノミックスや新自由主義などの流れに対する「オフィシャルな否定宣言」みたいなもので(受け止め方は論者によるが)、「え、そこまで言う?」というインパクトあります。今はもう国際的に「そこまで言っちゃう時代」であり、それが通説になりつつあると。

 それだけっちゃそれだけの話です。一応、常識的にそのくらいは勉強しておこうと。これで終わってもいいんだけど、それじゃあんまりだから、もうちょい書きます。

OECDレポート

 このOECDレポートですが、よく引用されている英国のガーディアン紙の記事を取り上げます。

Revealed: how the wealth gap holds back economic growth (2014年12月9日)

 大した長さではないので、ばーっと訳しておきます。

→拙訳

 原文はURLを参照すれば読めますが、後日削除された場合に備えて、以下にコピペしておきます。

→英語原文

オーストラリア、Ross Gittins氏の論考

 さらに、オーストラリアで僕がときどき読む(エッセイでも紹介している)Ross Gittins氏も、これについてわかりやすく触れてます。

 こっちの方がコラムなので、読んでてわかりやすいし、面白いです。


Widening income gap slows economic growth (2014年12月13日)

→拙訳


→英語原文

所感

 なかなか興味深い論考で、蛇足ながらちょっと考えてみます。

社会正義=感情論としての所得格差

 所得格差の問題について、まず僕が思うのは、経済論よりも先に社会正義 or 感情論で語られる場合が多いという点です。平たくいえば「納得出来ない」「ズルい」という不満を持つ人が多いかどうか。

 あ、先に言っておくと、「正義」の定義は無数にあるけど、ここでは「ムカつくかどうか」というカジュアルな話をします。正義というのは理論的に導き出されるのではなく、まず直感的に「おかしい」「変だ」感じるものであり、その感情結論の後付けに理屈をくっつけるってのが実際でしょう(ただし感情だけに任せておくと余りにも不安定だから理屈の型をはめて行き過ぎないように矯正する)。

 で、格差に関するムカつきですが、これは「(格差は)あってはならない」と「ある程度はしょうがない(あった方がいい)」の間のどのあたりに線を引くか、という問題だと思います。確かに、頑張った人はそれなりにご褒美がないと誰も頑張ろうという気にならないかもしれない。地道な努力とリスクテイクの末に成功したら億万長者だあ!というのは、アメリカンドリームのように人々を発奮させるし、社会を前に進ませる。逆に「やってもやらなくても結果(報酬)は同じ」だったら、頑張るだけ損だってことにもなるし、それこそが共産主義が沈滞する理由でもある。その意味で、結果としてある程度の所得格差(貧乏人と金持ち)が生じるのはしょうがないことだとも言える。

 しかしそれも程度問題で、日本全国でたった一人勝ち抜いた人だけが年収1000兆円稼げて、残りの全員は年収10万円で餓死同然だったら明らかにやりすぎでしょう。どのあたりに線を引くか?です。

 この線引は、経済云々ではなく、人としての一般感覚でしょう。
 「頑張った」「すごいことをした」こととご褒美とが、「まあ、こんなもんでしょ」とおおまかに納得出来る対応関係にあるか/ないかです。農作業で、他人の2倍草むしりをした人は賃金二倍貰えるとかわかりやすい例なら納得しやすい。しかし、似たようなことをやっていながら、年収で2〜3倍の差がついてくると「なんでじゃあ!」と腹が立つ。特に、時給1000円レベルのカジュアル労働者を大量に酷使しておきながら、CEOは赤字になっても年収3億円+ストックオプションとか言われると、ムっとする。

 余談ながら思うのですけど、人の能力や頑張りの差というのは、特殊な事例を除けばせいぜい2〜3倍なんじゃないかしらん。4倍差だったら、4倍の成果を出して4倍過酷な労働をしているってことになるけど、そこまでの差ってないんじゃない?仕事の中には、そんな目に見えて「成果」がわかるものばかりではないし。

 昔経済学の講義でチラ聴きしただけの曖昧な記憶ですが、熟練労働(ベテラン職人)と非熟練労働(ド素人)の労働生産性や付加価値の差は、平均でならしてしまえば、1.2倍とかそんなもんだったような。例えば弁護士と素人の差はとてつもなく巨大であるように見えながら、全ての業務を精査していけば、「誰がやっても同じ」って部分が結構あるのですよ。郵送するために封筒書きやら切手貼りやら、法廷にいくまで電車乗ったり歩いたりって時間も結構ある。僕が新人イソ弁の頃、「俺、全然使えないかも、生産性ないかも」と落ち込んだもんです。書類整理もコピー取りも事務員さんの方が遥かに優秀だし、本業の方は未経験過ぎて危なかっしいし、労働生産性でいえば1以下の0.7くらいじゃないか?とか。そりゃここぞというとき一発長距離ホームラン的な熟練技能は出てきますよ。でも全部の時間をべったと均したら、そう大したもんじゃないなと。

 だから7.5倍が9.5倍で拡大だっていうけど、そもそも7.5倍という時点でおかしくない?って気がしますね。そこまで役に立ってる奴なんか滅多にいないよって。

 思うに、所得格差の問題って、皆が問題だと思ったり、ムカついたりした時点で既に「問題」なのでしょう。一生懸命努力した奴がそれ相応の結果を出し、それ相応のご褒美を貰うことについては、人はそんなにムカつかない。懸命に走ったランナーが表彰台に上るのを拍手で称えるように、彼が皆よりもより多くのものを得て、そこで格差が生じたとしても、それは納得できる。納得できる格差は「格差」(問題)としてはあまり認識されない。

 じゃあどういう場合に納得出来ないかといえば、どこぞの阿呆ボンのように馬鹿で無能なくせに、単に金持ちの家に生まれたというだけでエラソーにして裕福な暮らしをしているような場合。あるいは、同じ仕事をして同じような成果を出しているのに、なぜかそいつだけ給料が飛び抜けて多い場合。女性だというだけで、あるいは◯◯だというだけで、なにやら割を食って損をしている気がする場合。逆に、全然働く気もないにも関わらず手当やら給付を貰ってる人がいると、これも不公平だぞとムカつく。つまりは、格差はあってもいいけど、その格差のメカニズムが不透明だったり、対応関係がおかしかったりする場合にムカつく。

 何を言いたいかというと、所得格差論を、弱者救済やら社会正義論の側面から切り込んでいくと、ともすれば単なる感情論になってしまいがちだということです。なぜなら、一面においては、正義とはすなわち感情のことだから。

 しかし感情論はアカンです。間違ってます。例えば生活保護がズルいという感情、あるいは社長は飲み歩いているばっかで働いてないのに給料高くてズルいって感情があるとしても、今度は「その感情は正しいのか?」という問題が出てくるのですよね。その感情を生み出した前提となる事実認識がスカタンである可能性はある。てか大体の場合、そんなに世間を手に取るように知ってる人なんかいないから、ほぼ100%といっていいくらい誰もがどっかで間違っているでしょう。単なる偏見って場合もある。社長はいいよなって思うけど、実際に自分がやったら、こんなに大変なものだとは知らなかった、ヒラの方がよっぽど楽って話はよく聞くでしょ。嘘だと思うならやってみ、やれるもんならやってみ。子供の頃は大人はいいなズルいなって思うけど、自分が大人になったら子供はいいよなって思う。それが愛すべき人間のサガでしょ。

 だから感情論になってしまったら、それぞれの感情の根拠が結構間違ってるがゆえに、ほぼ全員が間違った感情を持ってたりして、それでケンケン議論をしているという、ちょっと離れてクールにみたら馬鹿丸出しみたいな不毛な状況に陥りがちです。良くないんじゃないの?

実利としての格差是正

 このOECDリポートが興味深い点は、そういう感情正義的な格差論から自由である点です。つまり、いい/悪いの問題にしておらず、「格差があると経済成長が進まないから」「結局損だよ」と言っている。

 ところでレポートの本当の学術的価値は(これはピケティ氏の著作もそうだと思うが)、膨大な統計データーを収集し、それを解析していく知的ダイナミズムにあるんじゃないかと推察します。各国のデーターといっても、そんな綺麗にフォーマットが揃ってるわけはないし、単位もバラバラだし、信用性も色々あろうし、同じ国の同じ役所のデーターでありながら、年度が違うだけでもう対象が微妙にズレているとか。僕もエッセイ書くのにときどき調べるけど、もう悪夢のようにメチャクチャ。なんでこのデーターがないんだ、なんでこの年だけ基準が違うのだとか。それをピケティ氏は過去300年の世界中のデーターを精査しているわけで、気が遠くなるくらい膨大な知的労作だと思うわけです。結論よりも、それを導き出すまでのプロセスに意味があるというか。学術的論証というのはそういうものだし。

 しかし、そんな玄人的な凄さは一般市民には分からない。ピケティ著作も、英文で700ページもある膨大な検証作業と、その知的にスリリングな部分が一番美味しいところだと思うけど、そこまで読み込める人は少ない。今チラと日本のネットを見てみたけど、そのデーター抽出推論過程を具体的に論じているものは見当たらなかった。大体が「今ブームである」という「現象」を述べているにとどまっている。「今これが流行ってる」系の単なる「世間話」ですな。バブルの頃にやたら流行った浅田彰氏の「構造と力」という難しい哲学本を思い出した。皆知ってるけど誰も理解してない、てか読んでないという(^^)。

 で、その一番美味しい部分は読解能力がないからパスするにしても、それでも尚も果実はあります。
 このOECDレポートは、膨大な論証作業をしつつ、最後に「所得格差が広がると、経済成長が阻害される」という結論を導いている。これは大きな意味があると思う。

 なぜなら「貧乏人は死ねというのか!」という話ではなく、所得格差が広がると社会全体が損をするし、富裕層ですら損するかもよって皆の話になるからです。確かに貧富格差が拡大すれば、金持ちはより金持ちになって、その限りでは金持ちウハウハかもしれないけど、もしかしたら格差が拡大しない方が全体のパイが増えるから、金持ちの個人の取り分ももっと増えていたのかもしれない。例えば、富裕層は資産として不動産やら株やら投資物件として持ってたりしますが、全体の景気が底上げされて世の中金回りがよくなったら、持っている不動産や投資対象も上がる。所有している会社の営業もよくなるし、収益も高くなる。

 このレポートの面白いのは、いい/悪いの価値判断ではなく、誰かを救済するとか懲らしめるとかいう部分的な話でもなく、「みんなの実利」面で説いている点です。

ボトム40%こそが勝負

 第二に、何度も強調されているけど、下から10%の貧困層を救い上げるだけではなく(貧困対策ではなく)、下から40%の「中の下」以下の階層、大雑把にいえば下半分をいかに充実させていくかが問題だと指摘している点です。トップ10%とボトム10%の差だけを考えるのではなく、トップ60%とボトム40%の差を少なくする方が実体的には意味があるという点です。

 今の日本は非正規労働者が40%前後といわれますから、まさにこれに照応するのですが、下半分と上半分の差を縮めていくって部分が大事だというのは、感覚的にわかる気がします。ボトム10%の救済は、これは人道的な配慮、ないし治安経済的配慮から当然に必要ですけど、こと経済でいえば、ボトム40%をどう暮らしやすくしていくか?です。これは本当にそうだと思う。

 レポートでも特に「可処分所得(ディスポーザブル・インカム)」の所得再配分とも言っているし、40%が今よりも多少でもリッチな気分になり、あまりケチらないで欲しい物を買ったりすれば、その全体の経済効果は凄いものがあるでしょう。だもんで対策としては、金持ちへの増税というよりは、低所得者への減税(その他の負担軽減)の方が大事で、その財源の一つとして金持ち課税があるに過ぎないってことじゃないかな。

 大体格差拡大(≒弱肉強食)でいいんだったら、雁首揃えて国なんか作る必要はない。自然状態でそうなるんだから。国が存在する意義はまさに「自然状態の矯正」にあるのであり、それは合理的な理由を超えて広がってしまう格差の是正であり、それが出来ないなら国の存在意義(状況改善システム)なんか無いと思います。ましてや、それを助長するのであれば、状況悪化装置であり、存在自体が有害ということになるでしょう。その視点だけで見るならば、です。

 でもって、40%という大きなボリュームをもった集団の是正だったら、単に給付金をあげてとかいう個別的な方法ではなく、大きくシステムを変えていく方が効率的でしょう。それも減税だけではなく、「生活しやすくなるための全て」が対象になるでしょう。かなり低廉な託児所を多く作ったり、低廉な公的な宿泊施設(ネカフェよりもちょいマシくらいな)を沢山作ったり、奨学金の申請や返済条件を緩和したり、皆が困ってる部分をちょっとづつでも直すだけでボトム40%はそれだけ救われる。

 また高額所得者への課税でも、要はお金を使って貰えばいいんだから、税率を高くする反面、経費控除をダダ漏れで認めるのもアリだと思います。税率◯%以上の最高税率になったら、とにかく国内で金を使ったこと全部が経費になるという具合にすれば、税金で持っていかれるくらいだったら、地元の商店街でも、高額商品でも、リゾートでもなんでも使っちゃえになるだろう。へたに税金経由(政府経由)にする方が途中でピンハネされるからかえって無駄とも言える。やり方なんか幾らでもあるように思います。

日本における歪み

   長くなるから思いついたメモ書き程度に。
 格差の悪化問題は、日本も全く同じ状況だと思うし、今の政府は思いっきり真逆のことをやってるのだけど、それはさておき、根本的に思うのは、妙な部分が妙に結合しちゃってるから話がややこしくなってるんだろうなって日本の特殊事情です。

 一つは一般に真面目で勤勉と言われている(本当かどうかは僕は疑問だが)日本人の「美質」が裏返しになってる点です。頑張る→良い結果というそれはそれで大雑把には正しいんだけど、それを過大なドグマにしている。「働かざるもの食うべからず」というフレーズが示すように、「努力をしたら絶対食えるはずだ」という社会に対する無邪気な信仰があるよね。これをもっと掘り下げれば、社会・人間プラスチック論というか、どこまでも均質なものだと思ってるきらいがある。人や状況による凹凸認識が甘い。局面におけるダイバーシティ認識が貧弱。

 つまり「俺にもできたんだから、お前にも出来るはずだ」と思いがち。しかし、いくら努力をしてもダメという泣きたいくらいな局面てのは実際あるんだけど、その点で世間知らず。第二に「俺に出来ないんだったらお前にも出来ない筈だ」「(それが出来たのなら)何か悪いことでもやってんだろう」という金持ち=悪人説にも傾く。日本は世界で唯一成功した共産主義と揶揄されるのですが、その根底にあるのはこの人間・社会の均一プラスチック論なのではないか。

 次にくるのが「蔑視」です。低所得者であるのは、努力をしなかったからだ、要領が悪いからだ、劣っているからだということで、貧乏人に対する蔑視につながる。これは自分が貧乏だった場合の卑下にもつながる。お金が無いということで、何やら人間的に後ろめたい気持ちにならざるを得ないという歪んだ感覚。これが歪んでいるのは、金持ちや政治家は全員悪党だという矛盾した(もし結果と努力が常に比例するなら金持ちほど人間的に優れていなければ嘘でしょ)感覚とカップリングしており、要は自分がつねに中心点にいて、そこから外れたやつは軽蔑すべき人間であるという、恐るべき幼児性につながっている点です。

 さらに面倒くさいのは、受験勉強の弊害と言ってしまえばそれまでだけど、お勉強が出来るエリートさんの中にある劣等感と優越感のゴッタ煮感情です。ときどき異様に偉そうにしている自称エリートがいるけど、あれって多分根深い劣等感の裏返しだと思います。なんでそう言うかというと、僕個人の体験として、小学生低学年の頃はドがつくくらいの劣等生で、勉強ができない悲哀を存分に堪能しました(^^)が、司法試験に受かる頃は超がつく優等生でもあり、個人の体験として垂直的に縦覧してきたからです。経験的にも、他人を見てても、お勉強が出来る奴って自意識過剰になりがちなのよね。また、大体そんなにクラスで人気者にならないし、モテないし、性体験もオクテで、そこらへんの勉強の出来ないヤンキーちゃんの方がよっぽど進んでる。そこに劣等感がある。だけど自分の方が上だという優越感もある、というか優越感にすがりついてないとやってられないって部分もある。それがね、官僚サマなどの中には残ってる人も居て(そうじゃない円満な人も沢山いるけど)、貧しい国民に対して、必要以上に侮蔑的になるんじゃないかなって思ったりもします。よく居るでしょ、「あいつらは〜」みたいな物言いする人。

 そして、そういった複雑な感情が、さらに勝ち組さんたちの深層心理に「高所恐怖症」みたいな心理を生むだと思います。この座にいれば安泰だけど、失脚して庶民の海に転落したらもう死ぬしか無いみたいな恐怖感。ずっと前「司法戦争」という小説を読んだのですが、そこの登場人物でバリバリのエリート判事補が出てきます。東大も司法試験もトップクラスの一握りの人間だけが、最高裁の所付判事補になるんだけど、何かのトラブルに巻き込まれる。これでエリートコースから転落したらあとは街の弁護士をやるしかない、そんなこと出来ないし、もう死ぬしか無いみたいに恐怖感情にかられるという。読んでて「馬鹿か、お前」って思ったんだけど、何自惚れてるんだ、転落するほど高い所にいねーよ、それが「高い」と思ってるのはお前だけだろって。だから、転落して庶民の海にドボンとはいったらもう生きていけないって不思議な恐怖感。だから高所恐怖症ね。

 それが地位に対する異様なまでのしがみつきと保身を生む。なんでそこまで?って唖然とするほど保身にかられて今の日本のエライさんはやってますよね、もう恥も外聞もないのか?ってくらいだけど、だから彼らにとっては生きるか死ぬかなんでしょう。転落して庶民になったら死ぬくらいに思ってるんだろうなって。エスカレーターにしがみつくのは、自力で登ってくる自信がないからでしょ?自力でなんぼでも登れるという本当に自信のある人だったら、そのあたりのこだわりはないでしょう。

 でもそこで保身にかられちゃう人々が多いから、なんでもかんでも不都合なことは握りつぶしたりする。んでも、嘘ばっか言われてもね〜、こっちも困るんですけどね。とりあえず良い方向に進んでいかなくなっちゃうし。

 とまあ、こういう部分があるからボトム40%の改善といっても、なっかなか進まないんじゃないかなって思います。じゃあどうするか?ですが、もういい加減やめます。長くなってごめん。

 

文責:田村