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今週の一枚(2014/12/15)



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Essay 701:How to Make 「マイ国家」

 写真は、ノースのBeery Islandから。意外と知られてないけど、ちょっとした散策にいいですよ。アボリジニの遺跡もあるし。

 カモメが二羽並んでて、なんか面白かったら撮った一枚。雲の感じが洋絵画みたいでいいし。


国家=スケールメリット=大きいことは良いことだった


 今これを書いているのは総選挙の当日で、書き終わる頃に結果が出るという残念なタイミング。なので選挙の話は無視します。まあ、長い目でみればどーでもいい話ですので。

 ということで、ここでは2050年あたりの中長期未来を漠然とイメージし、スパンの長い、それだけに与太っぽい話をします。

 このエッセイでもかねがね今の国家システムって要らないんじゃない?って話をしてますが、それが超極端少数説なのではなく、気がついたら似たようなことを言ってる人が増えているように思います。てか、普通に考えたらそうでしょう?と。

 その理由を書き出すとまた一本くらいのボリュームになるので、それはさておき、これまでのシステムに代わるものとしてどうなっていくか?という話をもうちょい書きます。

 とはいっても、これを考えるためには、かなりの想像力を必要とします。なんせ、生存に必要な社会インフラや、個々人の人生や生計、さらにそれを円滑に進めていく経済システム(貨幣システム)という、いままでの根本原理から疑っていくわけですから。四則計算で+とか−とかいう記号の意味を変えてしまうくらいの話なので、想像しにくいだろうなと。

軍事力と社会分業

 乱暴に言ってしまうと、現在までの人類の到達点は、煎じ詰めれば「規模の経済」だと思います。スケールを大きくすることで、より豊かになりましょうという、「大きいことはいいことだ」という発想ですね。

 なんで大きいと良いのか?というと、
 (1)喧嘩が強い(軍事力) 大軍が弱小部族を踏みにじり支配して甘い果実を得るというローマ帝国的な発想。
 (2)社会的分業 社会のスケールがデカい方が細かな社会分業ができる。各エリアでの進展も早い。

 という2点のメリットがあり、巨大になった社会の内部であれこれの交換をするには貨幣が整備されていると都合が良く、貨幣経済になり、さらには純粋に金融だけを扱う金融経済になる。


 しかしながら(1)の軍事力ですけど、遡れば1960年代のキューバ危機の米ソ一触即発(人類絶滅危機)の段階で終わったと僕は思います。だって行き着くところまでいってしまっただもん。これ以上頑張っても地球がぶっ壊れるだけ。だからそれ以降ベトナム戦争だろうがアフガンだろうが、喧嘩をすると損をするというパターンになっている。その後の戦争は全て国内の内乱だとか国境紛争とか、要するにムカついているからやっているという「ゼニカネの問題じゃねえ!」という純粋の喧嘩ばっか。それ以外には、軍需産業とか資源企業がボロ儲けをするために、マッチポンプ戦争を仕掛けるというパターンがあります。しかし、この種のイベント詐欺みたいなやり方も911ならまだ通用したけど、だんだん舞台裏がわかってきて、世界もどっチラけてきて、ウクライナでもイスラム国でもいまいち盛り上がっていない。ま、いずれにせよ隣国を攻めて植民地支配〜って時代ではない。もっともっと効率のよい儲け方がいくらでもある。だから(1)の観点でいえば、大組織を作る意味性は薄れている。

 (2)の社会的分業の観点ですが、確かに手分けしてやったほうが効率的に進む。でも、それって取引を自由活発にすればそれで良いのであって、何から何まで同一集団内部でやる必要もないんじゃないの?という至極当然の疑問が出てくる。てか、それを徹底するならゴリゴリの社会主義をやるべきだし、全ての工程を自社内部に行うという70年台くらいまでの企業巨大化の流れでもあります(垂直統合とかあったよね)。でもって、それらは80年台以降瓦解している。だって無駄なんだもん。企業でもアウトソーシングすればいいじゃんってことになるし、社会主義も今の日本みたいな非効率な官僚統制になるだけで効率悪悪。もともと効率のためにやってたのに、効率悪くなった時点で無意味化する。

 ちなみに商業性を突き詰めれば、取引が安全で円滑に進めばそれで良いのであって、シルクロードみたいに自由交流があればそれで良い。資本主義の「し」の字もなかった紀元前の頃から世界は普通にグローバリズムだったともいえる。商業主義の鬼っ子である資本主義でも話は同じで、要は右から左に商品を動かして利益をゲットすれば良いという原理に何の変わりもない。ただ、歴史の一段階で国家(軍事)と商業がコラボした時期があったというだけでしょう。大航海時代で取引可能なグローバルエリアが飛躍的に増えた→東インド会社みたいに香辛料、綿花、さらには石油資源の「つかみどりセール」→軍事支配ということで、商業と植民地支配(軍事、国益)が手を握った時期があった。

 でも、商業というのは商品の性質に厳しく規定されます。大冒険をしなきゃゲットできないレアアイテム(胡椒とか)は、それを扱うと莫大な利益が得られた。しかし、航海技術や交通の発達によってレアじゃなくなったら価値が激減した。次に革命的な新素材のコットン(綿花)を発見、インドで作ってイギリスで売るという東インド会社が盛り上がったけど、欧州の既得権業界(毛織物)から反発を食らうわ、産業革命でイギリスで作れるようになったら単なる原材料供給地に落ちるわ、本国イギリスの資本家から自由貿易・独占否定されるわ、アメリカ南部で黒人奴隷を使って綿花作ったほうが安いわで東インド会社は没落。しまいには救済策で当時の植民地であったアメリカでの紅茶の販売独占権を認めてもらったら、今度はアメリカが激怒してボストンティーパーティー事件になってアメリカも独立。そうこうしているうちに綿織物なんかやっても儲からなくなって、、、という流れです。でもって今度は産業革命や喧嘩の軍事力のための石油資源の獲得競争になって、、さらに世界の流通網がどんどん整備され、一個師団ひきつれて現地に行かなくても、オンライン通販ポチ買いで済むようになったり、、、

 要するに商業というのは儲かればそれでいいわけです。その意味ではピュアな行為で、そのために必要で有効なものだったら何でも利用する。国家や軍事が必要だったら利用する。必要なくなったら利用しないだけの話です。つまり商業(経済)と組織の大小はあんまり関係ないし、国家との関係も付かず離れずで必要だったら利用する程度でしょう。。

インフラ整備

 最後に出てくるのは(3)の社会インフラ整備です。儲からないけど必要だから力を合わせて整備しましょうという、治安とか、治山治水とか、教育とかそのあたりのことです。これは皆がお金を出し合ってやるので、一定限度組織が大きくないと整備できない。原発なんか最たるもので、膨大な研究開発費、建設費、管理理、資源購入・運輸・保管・廃棄物処理、、という巨大プロジェクトは、人口数万人では賄いきれない。だからデカイ方がいい。ほんでも、これも科学技術の進展によって、そこまで大掛かりにやらなくたって生活に必要な電力くらい地産地消で間に合うんじゃないの?省エネ製品も増えてきたしねって話です。

 逆に、規模がでかくなるからこそ、そのデカさにあれこれとシロアリ達が巣食って、膨大な甘い蜜や利権をちゅーちゅー啜っているという構図もあるし、その利権を手放したくないから画期的な新システムがあってもなかなかやりたがらない、無駄になっても利権のためにやり続けるという。干拓、河口堰、そしてリニア。要するに、効率が良いから組織を大きくする筈だったのに、組織が大きいがゆえに逆に効率が悪くなっている場合が多い。プラス面よりもマイナス面の方が大きくないか?と。

 以上をつらつらと考えると、国って一体何のためにあるの?無駄じゃないの?という素朴な疑問が出てくる。自分らだけの集団で、基本的な部分は自給自足的にやっていけるんじゃないか?って話でもあります。

どうなるかではなく、どうしたいか?

 じゃあ、その方向としてどうなっていくのか?ですが、これは不確定要素があまりにも多くてわかりません。めちゃくちゃ画期的で万人が理解できるやり方が出てきたとしても、それを「万人」が理解するのに時間がかかる。人によっては優に数十年から一生分くらいのタイムラグがあるでしょう。また理解できたとしても、感情的にイヤだって人もいるだろうし。さらに、国家そのものが、国家を否定するような動きをサポートするとは思いがたい(面倒臭い案件を民間に押し付ける=介護を家庭に押し付けるように=はあっても)。本当はそれが出来るくらい優秀でフットワークの軽い国家を作るべきなんだろうけど、そんなのいつ出来るか分からんし。

 だから、どうなっていくか?(皆はどうするのか?)という問題の建て方ではなく、「自分はどうしたいのか?」という話にした方が早いと思います。「俺なら、こうするけどな〜」という。

 で、どうしたいの?というと、もう国家とか社会とかに任せておいてもラチあかないから、気のあった仲間と一緒に自分らでやっちゃいましょってことです。「マイ国家」を建国しちゃおう〜!という。もっとも、これには多々注釈をつけるべきなので、以下書きます。

別に「国家」である必要はない

 これまでの国家概念がしょぼくなってきてるんだから、わざわざそれに歩調を合わせて、国家として独立宣言をして多くの国から承認をもとめて、、、ってダンドリを踏む必要はないと思ってます。国家の3大要素は領土+国民+統治機構であり、形式的に揃えようと思ったら別に出来るんだけど、そのあたりが3大要素になっているという時点でもう古いよねって。

 確かに独立国になっちゃえば、他の国や政府からの強制支配から離脱できるので(税金やら徴兵その他の義務)、スッキリはするんだけど、そんなの「やり方一つ」って気もしますね。国家の統制とかいっても、意外と目が荒くて、住民票抜いて、不動産名義をわからなくして、銀行など金融機関の取引をしなかったら、もう事実上補足不可能でしょ。幸いなことに、近未来のSFのように生まれたらマイクロチップを身体に埋め込まれてGPSで全部監視されって時代にはまだなっていないので、基本的な数点をかわしたら、国家から見たら存在しないのと同じになるし、だから強制力も行使のしようがない。ま、別にそこまで極端に縁を切る必要もないとは思うので、必要最小限度でかわしていけばいいだけだと思いますけどね。

 それに、仲間を募ってとかいっても、別に一緒に同じエリアに住む必要すらないと思います。知恵と力と資産を出し合って、相乗効果が発揮できたらそれでいいわけですから。

納得のいく人生環境システム

 じゃあ結局、そこでいう「マイ国家」というのは何なのよ?といえば、根本コンセプトになると思うのだけど、生まれてから死ぬまでのあれこれ、生存可能な食料カロリーの補給、安全な棲家、必要なエネルギーや医療、教育、福祉のダンドリがあって、それぞれが自分にとって納得できるシステムになっていることです。

 例えば、老後にしたって、自分の周囲に気持ちのいい連中があって、日々馬鹿話をしてケラケラ笑って、適当になんかやることがあって、必要な限度でダメになった身体のヘルプも受けて、、、というのが、全体として保障されていればいいわけですね。若い時からピンハネのように年金取られて、いざとなったらなんだかんだ難癖つけられてもらえない、貰えたとしても全然足りない、介護はてめーでなんとかしろと突き放され、結局なんにもできないから野垂れ死に、、というのは、「納得出来ない」わけですよ。あなたは納得するかもしれないけど、僕は納得出来ないね。ざけんじゃねえ!ってレベルで。

 老後に関しても、そんなに難しく深刻なもんなの?って根本的な疑問があります。
 昔から人類はどうやってたの?といえば、そりゃ楢山節考みたいな悲惨な話もあるけど、多くはご隠居になったり長老になったり、山に芝刈りにいったりしてテキトーにやってたられたと思うのですね。もちろん今よりはずっと早く死んでたし、今はなかなか死なないけど、死ななきゃいいってもんでもないでしょう。要はQOL(Quality of life)×生存年数のマックス値でしょう。

 もちろんQOLに関しても人それぞれ価値観はあるんだけど、例えばものすーごく不愉快な思いをしながら、ものすごーく費用のかかることをしてまで長生きしたくはないわいって人たちもいると思うのですよね。そういう「仲間」があつまって、無駄な延命治療はしないとか、厳格な要件(3回連続して申請したらとか)安楽死させてもらえるとか、そういう自分らだけのオキテを作っちゃえばいいじゃんと。大体どう死にたいかなんかすぐれてパーソナルな問題で、それを遠く離れたどっかのお役人あたりに決めてほしくはないね。そもそも一律に決めなきゃいけないことなの?勝手にやらせてくれよと、僕は思うね。大体さ、楢山節考だって国家が年貢を取らなかったらあそこまで追い詰められなかったでしょうに。

基本コンセプト〜共通属性〜趣味・考え方が同じ

 ポイントは、国家の成立要件である「国民」も「国土」も所与の前提とはしない、ってことだと思います。ある一定の二次元的エリア(領土)にたまたま生まれたら自動的に国民になるなんて、原始的で大雑把な方法論からはサヨナラする。

 そのやり方をすると、本来が資質も価値観もてんでバラバラな人々を無理やり一つの意思に統一しなけりゃいけないという滅茶苦茶面倒くさい問題が出てくる。たまたま同じエリアで生まれたからといって、あるいはDNA的・民族文化的に一定の方向のベクトルがあるとはいって、それでも人の個性は千差万別。数千〜数万人くらいの任意のサンプルエリアがあったら、およそ全人類の人間個性のパターンのほとんど全てを網羅すると思っていいのではないか。ストイックなことに快感を感じる人もいれば快楽主義に走りたい奴もいる、ヒリヒリするようなスリリングな人生を全うしたい奴もいれば、とにかく変化は最小限にとどめて昨日と明日の誤差を最小にすることが幸福だと考える人もいる。それらをひっくるめて無理やり意思決定をして、何万とある行政をやろうというのがそもそも無理ではないか。

 それが証拠に、例えば安楽死問題なんか、こんなの趣味の問題(死生観)なんだから幾ら議論したところで、誰もが納得する着地点なんかまず無いでしょう。だったら安楽死を認めるエリア(部族)と、認めないエリアとを最初から作っておいて、それぞれの好みによってそこに行って国民になればいいじゃないかってことです。子供の学校選びで、非常に躾の厳しい私立を選ぶか、普通性や開放性のある公立を選ぶかみたいなもので、最初からテーマごとにあれこれ選択肢を作っておいて、あとはテーマごとに勝手に選べば良いではないかってことです。

 安楽死や教育は一つのサンプルに過ぎませんが、考え方は、SNSのように、趣味の集団のように、最初から共通属性をもつ集団なりエリアなりを作って(てか自然発生にまかせて)、その上で、各自が好き勝手に選べるようにした方がいいんじゃない?なにもかも共通統一のスタンダードを作って、無理やり従わせるというやり方ってどうよ?と。

 このメリットは、民主主義に関わる意思決定のおそろしいまでの非効率をカットできることです。もちろんそれぞれの場では民主的なメソッドで運営はなされるでしょうけど、最初から発想や価値観が共通していたら、そのあたりの手間はかなり省略できる。結局、民主主義といっても、今まで語られてきたのは、人がたまたま生まれた時空間に絶対的に束縛されるという大前提あっての話でしょう。その大前提でやれば、どういう選挙区でどういう選挙をやろうが、大量に死票が出るし、自分の趣味嗜好のとおりに世の中進んでくれずにフラストレーションがたまるという人が出てくる。これはどうやっても出てくるけど、母集団が巨大であればあるほど、そしてそのメンツのバラエティが広ければ広いほど、それは激しくなるのが道理です。しかし、そもそもそんなに「たまたまの時空間」にそこまで限定されなければいけないもんなのかい?と。

 まだまだいろいろあるけど、ここでは、はじめに領土ありき、国民ありきというそもそもも発想をひっくり返してもいいんじゃないか?ってことです。束縛されなければならない実質的理由ってあんの?と。昔は物理的・技術的にそうだったけど、今はどうなの?と。


実際にはもう生じていること

 こう言うと、何を荒唐無稽な与太話を、、って思うかもしれないけど、もう世界にはそういう実例が山ほどでているではないか。

 例えば国際的な企業、特に巨大企業、あるいは金融機関です。彼らはもう国家なんかに束縛されていないし、世界のどこにでもいるけど、どこにもいない(課税主体をミニマム化してしまうとか)。陰謀論によく出てくる、偽ユダヤ系の金融、やれロスチャイルドやらロックフェラーやらにしても、まんま陰謀論のとおりとは思わないけど、でも彼らの力や所在はとある特定の国家のあり方に限定されていない。それどころか、陰謀論によれば、寄生虫かウィルスのように一国(とりわけアメリカ)の頭脳中枢に忍び込んでその意思決定を思うがままに操り、間接的に日本も操るとかいわれる。

 ま、陰謀論はともかく、国際金融機関の投機取引は、リーマンショックで世界を震撼させたものの、そのツケを先進国に負わせて、自分らは今日も元気に取引をやっている。ツケを回された先進諸国は、生命維持装置のような緊急輸血の金融緩和措置を続け、QE1だ、2だ、3だでガンガンやらされている。アメリカがやっと3で打ち止めといかいっても、日本はまだ黒田くんが単独で4をやる。それで彼らは儲けているんだけど、ツケは全部国家(つまりは国民)に来ている。結局、現在の先進国家というのは、彼らの奴隷みたいな存在でしかない。バブル時代の女の子で、送迎運転手用彼氏のアッシー君とか、ゴハンをおごってもらう専門のメッシー君とかいたけど、ほんとそんな感じで、今の国家は彼らにとってはただの「ATM君」というか、「おう、これ払っとけや」と勘定書きを回されるイジメられっ子みたいな存在でしかない。

 為替や株価などの世界の金融経済を動かしているのは、今は国家ではなく、モンスタラスな存在になってしまった彼ら国際金融資本なんだけど、しかし、彼らが◯◯帝国って国家仕立てにしているわけでもない。彼らは彼らで、世界中の資産家から資金を調達し、彼らなりの分析手法で投資(投機)をやってるだけであるし、彼ら同志に横の連帯があるわけでもないでしょう。さらに同一組織内においても一枚岩的、軍団的に動いてるわけでもないでしょう。もうこうなると、組織とか団体とかいうよりも、単なる「現象」といってもいいくらいかもしれない。ゴールドラッシュやトイレットペーパーの買い占めが別に組織的に行われたわけではないのと同じく。

 国家が国家として存立するための基盤パワーの源泉レベルで、既にこれらのグローバル展開している企業群(ないし私的グループ)に負けている。とある集団組織が究極的にそのエリアの人々について最終決定を出来ること、統治権や主権を持つためには、暴力的(軍事的)&経済的に最強でなければ意味無いです。力づくでも言うことをきかせられるからこそ国家は強大な権力を持ちうる。さもなくば単なる看板だけで形骸化する。室町幕府の末期(戦国時代)のように、将軍様なんか誰もしらない、鼻も引っ掛けないという。その意味で、国家以上に強力でしたたかな存在がボンボコ出てきちゃっている時点でもう終わってるといってもいい。

 ちなみに、こういったグローバル金融機関の暴れ方は人類にとってプラスよりもマイナスが大きい、へたをすれば人類社会のがん細胞みたいなものだから、適宜国際的に規制しましょうという話が国連にありました。報道でいえば、「ハゲタカファンド」初の非難決議=影響を実態調査へ−国連人権理なんですけど、これによれば「47理事国のうち、日本、米国、英国、ドイツ、チェコの5カ国が「(ハゲタカファンド問題は)人権理での議論の対象外」(米国)などと反対。フランスなど9カ国は棄権し、アルゼンチンや中国、ロシアを含む33カ国が賛成」ということです。なんだかな〜、ですな。子分(アメリカ)は親分(金融機関)に逆らえないってか。今は、アメリカ(さらに子分の子分の日本)が、世界全体の潮流からしたら頑迷な抵抗勢力に成り下がっているって図です。

 もう一点付け加えると、機能別・局面別に国(エリア)を選ぶというやり方は、例えば同性婚が許されない国から許される国にいって結婚式をあげるとか。オーストラリアでも安楽死を認めていたNT准州に行くとかいう話がかつてありました(連邦法で上書き否定してしまったんじゃないかな)。

 このようにある機能を求めてとある国なり自治体に移動する(そこで行う)という話は、昔からあります。今典型的なのは、タックス・ヘイブンで儲かってる企業が本社を形だけ法人税の安いアイルランドに持って行くとか。昔から船の本籍(船籍)はリベリアになってるとか。

 ということで、「用途別に国を選ぶ」という発想は、荒唐無稽な夢物語どころか、別にそんなに珍しい話ではないです。日本国内だって、各自治体によって行政の内容が違いますから、住民税や健康保険料が安いエリアに移動するとか、保育園やら託児所が充実している自治体に動くとか、調べてみればびっくりするくらい落差があるので、真剣に考えている人は普通に(出来る範囲で)実践しているでしょう。

具体的にどうするの 

 今回はラフスケッチくらいの軽い感じで書きます。

自給自足村

 もうしばらくしたら日本列島のかなりの部分が過疎化を通りすぎて無人化するらしいので、適当に良さげな場所を探して、勝手に住んで(って適法な措置は当然しますけど)、自分らだけの自給自足村でも作るべ〜ってのが一つ。実は、今、この種の動きはかなり活発になってるかのように聞いてます。

 大マスコミはこういう話題をそんなにピックアップしないし、そういう流れになってもらったら自分らが困る(寄生虫みたいな存在に成り下がってるから宿主国家が弱体化するのを本能的に嫌がるだろうし、いわゆるエリートさんはそういうゲリラ的な動きに関しては情弱だし、本人もやる気がない)から、あんまり表には出てこないだろうけど。漏れ伝え聞く話からは、「へえ、皆、似たようなこと考えているんだな〜」って思うことは一再ならずあります。もっとも、表にでてあれこれ規制されたり邪魔されたりしたら面倒くさいから、話題にならない方がいいですよね。別に秘密にするわけではないけど、大々的に宣伝するわけでもないって感じでしょうね。

テーマ・エリア別

 それはそれで一つですけど、そこまで思い切らなくても、個別的な人生のテーマごとに、協力し合える仲間を探し、部分的に実現していくってやり方の方がやりやすいし、フレキシブルでいいなと思います。

 例えば、以前に紹介したオランダの認知症の画期的な施設があります。いかに自由を束縛するかではなく、いかに自由にやらせるかに主眼をおいて、認知症患者の共同生活をやっている方法論。これ、とりあえずお金かかるけど、でも、自分らだけで運営してしまえば、もっと安く実現するんじゃないかと。本当は国家がこれを前向きにやってくれたらいいんだけど、シロアリだらけでいつのことやら待つ気にもなれないから、自分らでやっちゃえばいいと。そこそこ広い敷地と施設があって、コンセプトを十分に理解している人手があればいい。「人手」の中には医療専門家も必要だけど、日常的にあれこれ世話をするマンパワーもいる。でも、その人手は、ある程度は認知症患者にも出来るだろうし(出来る限りやってもらった方が本人のためにもいい)、あとは親を預ける個々人が年間○日みたいな感じでボランティアワークをやるとか、あるいは自分の畑でとれた野菜や農産物を現物給付するとか、皆が持っている少しづつのものを集めることで出来やしないかと。

 これはターミニナルケア(終末期医療)やホスピスにも、そしてお葬式やお墓などの人生の終末期の予算にも関連していきます。今はとにかくこれらの出費が死ぬほど高いね。老人ホームに入るだけでも数千万とか言われたら、今の若い世代のどれだけが利用できるというのだ。未確認だけど、先日、金融資産(預金とか)をもってない日本人が何%?3-40%?とかえらい勢いで増えているらしいという話をどっかで聞きましたが(一応確認とったらありました〜金融資産1億円超、100万世帯に ゼロは3割)、これで年取ったら、もうどうしようもないです。老後破産だ、そのまま野垂れ死にだって。それが怖いから世相も暗くなる。

 しかしね、そもそもなんでそんなに金がかかるの?という疑問がある。何のために皆は税金払っているのか。

 もうね〜、今のシステムを前提に「改革」とか眠たいこと言ってる場合じゃなくて(それはそれで大事だし批判もサポートもするけどさ)、まずはゼロから発想する。自分がいよいよぶっ壊れてきて、そろそろ死にますよって状態になったら、どういう感じで暮らして死んでいきたいのか、どういうのがベストなのかをまず理想として考える。雄大な牧場みたいなところで死にたいとか、一人離れて山里の庵みたいなところで最後を迎えたいとか、海のそばがいいなとか、皆と騒ぎながらふと気がついたら微笑みながら事切れていたみたいなのがいいなとか、とにかく自分にとって何がベストかを考える。主体的に考える。そしてそれは実現できるのか?を考える。何をどう実現すればいいのか、やり方を考え、その質をキープしつつ、もっとも参加者に負担が少なく、しかも参加して面白いというやり方を考える。

貨幣経済の方が非効率になる局面もある

 これは別に一章立てて書いてもいいんだけど、世の中には貨幣経済にしないほうが上手く廻る物事も多いです。もしかしたらそっちの方が多いかも。貨幣は便利だし、名前もしらない赤の他人と取引するならすごく便利です。でも継続的にメンツが半ば決まってるような状況では、金を媒介にするほうが面倒臭くなるし、効率悪くなるのではないか。例えば、ピクニックのバーベキューとか、引っ越しの手伝いとか、文化祭の出し物とか、バンド活動をいちいちメンバーあたり時給いくらでとかやってたら計算しているだけで気が狂うし、それをやったからといって効率が高まるものでもない。むしろ低くなる。

 そして、この種の終末期互助会のような集団作業というのは、基本無給にした方がうまくいくんじゃないかな。現物支給というか、年間○日以上作業に参加したら親族一人を預ける資格を得るとか、そこで働いている限り、宿とご飯はついてくるとか、物々交換的にしてしまった方がはるかに早いし、公平でもある。とある目的があり、それに他人の助力が必要だったら、それを得るのも自分の労働力や貢献度によって贖わせた方が話が早い。アバウト公平だったら、まあいいかくらいのゆるい方が上手くいく。前にも書いたけど、人間というのは不思議な習性があって、金銭の譲渡にはナーバスになるくせに、物やサービスの譲渡については寛容なところがある。何にも貢献してない人に給料を渡すのは抵抗があるけど、皆でメシ食ってるときに、「君もおいでよ」「一緒に食べようよ」ってタダ飯食わせるのはあんまり抵抗がない。

 これは大袈裟にいえば国家システムの否定であるし、貨幣経済の否定になるんだけど、でもそんな大げさなものではなく、国家も貨幣も便利だから後から考えられたに過ぎない。これをやるよりも簡単で効率よかったら、国家でも貨幣でもどんどん使えばいい。別にこだわらない。要は、最小費用で最大効率をあげるにはどうしたらいいかというコスパの問題でしかない。本当は今の国家が正常に機能してくれたたらそれでいいはずなんだけど、人口構成が逆転しちゃったらもう根本的に無理だし、しかも借金の山だし、仮にシロアリを一人残らずブチ殺したところで、やっぱ無理っぽい。だったら、それ以外の方法でやるっきゃなかんべ、ってことですよ。

 これって、前に書いたシェアリング経済と全く同じ発想です。皆が遊休資産やらエネルギーを持ち寄って、上手いこと組みあせていけば、おっそろしいほど低廉に、簡単に物事が進むんじゃないの?と。特に今の日本のように、国際金融賭博集団の奴隷に成り下がったアメリカ、その奴隷に成り下がった日本、そのまた奴隷に成り下がった国民という「奴隷の三乗」みたいな状況であーうー呻吟してるくらいだったら、とっとと自分らでやることやっちゃった方が早いぞと。てか、早い・遅いというスピードの問題ではなく、ゼロか実現するか、無か有かくらいの差があるんじゃないの?

対象は無限にある

 今は老後の話だけですけど、失業しましたホームレスですって状態を皆でなんとか力を合わせてやるというエリアもあるでしょう。今は良心的なNPOと、そしてヤクザが囲い込み屋という生活保護費エンクロージャーみたいなことやってるけど、でもヤクザが出来るなら普通の人でも出来るんだよね。別に暴力とか拳銃が必要なわけでもないし。

 あと子供の教育なんかもあるでしょう。教育といっても、林間学校や修学旅行のように世界に触れさせて何事かを学ばせるという教程も必要だし、とある専門領域のエリアにいってその面白さを身体で知ってくるという教程もあるでしょうし、集団行動の必要性もあるでしょう。それぞれに必要と興味に応じて多種多様なチャンネルがあるのが本当は理想的ですよね。たとえば、高校くらいの年齢になったら、自分で適当に選んで、いろいろな職場でインターンをやるってやりかたもいい。法律事務所に一週間いるとか、雑誌の編集部にいるとか、農作業を手伝うとか、整備工場にいくとか。どーせ今のままでも勉強なんかしないし、お受験とか盛り上がってる割には学力はえらく下がって、同じ大卒でも世界レベルではお話にならないくらい無知無能になってるんだから、もっと実のあることやらせて人生考えさせた方がいいよ。

 これまでのようにエスカレーター式にいい大学いい会社ってのは、事実上終わってるでしょ。エスカレーターがある程度のところでブチッと断絶している。まあ、分かりやすく全てのエスカレーターがブチ切れてはいないけど、一見良さげでいながら、破産寸前の遊園地の整備不良のジェットコースターのように、走ってる最中に線路から外れたり、支柱が崩壊したり、危なかっしくてたまらんもん。

 てかね、そもそも論をいえば、シコシコとガリ勉やったら社会の支配層になれるとか、いい人生が過ごせるという発想がそもそも甘くないスかね。人生舐めてない?リアルな現実社会が、そんなアホなわけないじゃん。またガリ勉やってる奴って、おおむねクラスの人気者って感じではないじゃん。もちろん例外はあるし完全反比例ではないけど、少なくとも完全正比例でもない。僕自身もガリ勉やってた時期あるけど、ガリ勉やると人望が集まるとか、人間的魅力が増すってもんでもないよね。じゃあ、必ずしも人望的に優れてもいない人間がなんで支配層になるのよ?変じゃないの?ハッキリ言ってクソちゃう?根本的に間違ってないか?

 このように、どんなエリアだろうが、そしてどんな人だろうが、語らせたらそれなりに皆さん語ると思うのですよ。それぞれに自分の意見があろうし、それはそれで大事です。でも、それを議論して一つにまとめる必要が本当にあるわけ?義務教育の理念は、日本全国どこで学ぼうとも一定レベルの知力学力を身につけることで、それはそれでいいかもしれないけど、実際は違うでしょ。だって、誰もが100点取れるわけでなないってか、普通取れないし。

 だもんで、このエリアはバリバリ勉強をやります、競争社会上等です、上にいきたいんだって人達の教育システムがあって、ここではそんなことよりももっと自由や創造性をとか、ここでは人として生きる力をとか、、、それぞれのところにいって教育を受けさせればいいかと。今は私立がそれをやるわけだけど、それとてそこまで大きなカリキュラムの差はないし、そもそも高い。もっと自由で低廉なやりかたが部分的にもあるんじゃないのか?

共通属性

 いずれにせよ、大事なのはコンセプトとか、共通属性だと思います。
 このエリアに関しては、こういう感じでやっていきたいって人らが集まってそれなりのシステムを構築するわけですね。

 やり方はケースバイケースで、一箇所に集まって起臥寝食を共にする場合もあろうし、年に何日か輪番制みたいに交代でやる場合もあろうし、一箇所に集まるという方法論をとらずに、世界各地にネットワークを広げて適宜いい人やいい場所を紹介しあうってやり方もあるでしょう。それはもう何でもアリ。

 ただ何をやるにせよ、基礎となる価値観が同じ、趣味が同じってのは大事なことだと思います。ココが違うと、結局長く不毛な話し合いをするしかないし、そんなの根本価値観が違ってたらそうそう合致点も見つからないし 誰もが憤懣やるかたなしって憮然としている妥協をするしかない。また、その過程で対立が起きたり、派閥ができたり、足の引っ張り合いにあったりする。ろくなことにならない。

 思うに、人間の集団で主義主張の違いというのは当然あるにせよ、多くの場合は、学者さんのように純粋に理論や価値観の対立ではなく、子供のような人間的な好き嫌い(あいつ、大っ嫌い!という)ですわね。煎じ詰めればそうだと思う。そうなると、いかに共通の目的を達成するかではなく、憎いあの野郎をいかにギャフンと言わすかがメインにすり替わってきて、この一点に全てのエネルギーを傾けるという、猿のようにアホになるのが人間の悲しいサガだと思います。

 集団運営とかある程度やったことありますけど、ほんとーに、このあたりが不毛なんですよね。もうそれで本来の精力の50%以上、ヘタすれば正味100%使ってしまうかもしれないってくらい、何やってんだか?の世界です。それでも最後は乗り越えられたらいいんだけど、多くはそのまま対立がエスカレートして空中分解したりもする。人間は感情の動物だって、つくづく思いますね。

 だから共通属性です。属性というか、もうぶっちゃけ、好き嫌いですよね。人間的に波長が合う奴同士の、いわゆる「仲良しグループ」でいいと思うのですよ。そのあたりが噛みあってる人間集団は、物凄いパワーを出しますからね〜。全員が全員、男気100%でひと肌脱いでる集団というのは、おっそろしく強い。喧嘩しても笑って終わったり、対立しても尚も尊敬はするという。

 その分、タコツボ化して世間が狭くなるけど、でも最初から世間が狭かったらそのタコツボを発見できないようにするとか、そのあたりは幾らでも調整きくと思いますね。

探すのではなく、来させる

 そういう仲間をどう集めるかですが、こっちから探すというよりも、向こうに見つけてもらった方が話が早いです。もう100倍早い。

 最初に、自分の理想、それも万人受けするのではなく、「え?」というくらい奇妙奇天烈で、偏りまくった、しかし自分的にはこの上なく気持ちよくて正しいコンセプトや趣味、匂いのするものをバーンとぶちあげる。もうちょっと異常なくらいの方がいい。100人中99人は「げ!」と思ってドン引きするだけど、そのくらい癖の強いものは、100人のうちの1人、千人に一人には強烈に受けますから。

 新興宗教、それもどっから見てもカルトでしかないようなものって、普通の感覚ではドン引きしますけど、それでも入信するという人達の集団、いわば少数精鋭(?)の集団というのは、実戦力は凄まじいものがあります。それと同じことです。

 別にカルトになれってことではないんだけど、誰であれ、自分の好みや趣味を、正確に、細大漏らさずビシッと表現したら、普通の人にはとっつきにくいものになると思います。我こそは自他共に認める「普通人」だあっ!って自負するアナタだって、細かな部分を丁寧に述べていったら、最終的には誰もシンパがいなくなりますよ。そのくらい人というのは個性がある。皆さんどっかしら「異常」ですわ。本人だけが「普通」って思ってるだけで。そんなことは結婚すれば嫌というほどわかるでしょう。「おかしい、変!」「そっちこそおかしい!」と水平迫撃の連射応酬をやったりするわけで。どんな話でも、最初は概ね賛成であっても、話が進んでいくにつれて、「いや、それは言い過ぎだろ」「ついていけん」ってなるもんですわ。

 それでもごく稀に「よくぞ言ってくれた!」と感動してくれる人がいるわけで、そういう人らを探せ、そしてつるむ。でもって、それって探すよりも、向うからこさせた方が早い。チョウチンアンコウになって、チョウチンに火を灯せってことですね。ただし、そこで妙にカッコつけたり、万人受けを狙ったりすると、それだけ来る人の質がブレて、あとで面倒くさいことになりますよ。鳴かず飛ばずで孤塁を守るくらいの寂しさがあってもいいから、自分をバンと出したほうがいいと思います。


 「国家」とかいっても、別に一人一国籍でなければならない必然性も合理性もないです。今でさえ2〜3の国籍をもってる人は普通にいるのに。

 人生のそれぞれのテーマみたいなものを幾つも幾つも考えて、つるめる仲間を探して(来させて)、必要なときに、適当なところにポンと行っちゃうくらいのフットワークが軽いくらいがいいでしょうね。自分の子供が難しい年頃だから、ちょっとポルトガルのリスボンにでもいって、タラの塩漬け加工工場で働かせてみるわ、”仲間”がそこにいて、メシと場所は世話してくれるっていうから、ちょっくら2−3年行ってくるわって。

 ま、そんなこと万人が出来るわけない!って言うかもしれないけど、別に万人を救済するために言ってるんじゃないのよね。とりあえずは自分を救済するために言ってるわけです。自分ひとり救済できずに、もてあましている奴が他人とか万人とかおこがましいでしょ?

 でもって、そういう仲間が数人でもできたら、それだけで人生楽しくなりますわ。本音で物を言える他人がいるってのは、何よりの福音ですから。でもって10人超えたら現実的なサムシングに結実するレベルになっていくでしょうし、数十人から100名超えたら、僕らが日常的に実感している国家サービスの大部分は出来てしまうんじゃないかな〜って、漠然とした予感です。

 「そんなこと出来るわけがない」って人を別に説得しようなんて思ってないです。多分、そこでそう思うような人とは、これから死ぬまでの間、そんなに会ったり話したりする機会もないでしょうしね。欲しいのは、普通の人が「出来るわけがない」と思うことをやってのけられる人ですわ。「これ、やり方によってはイケるんじゃない?」って言って、その瞬間から猛烈に頭を回転させて「あー、これはダメだな、あれ、もしかして?」ってありとあらゆる可能性を模索して、「ちょっと、、、」といきなり靴穿いてどっか行っちゃうくらい行動力のある奴。そのくらいのヤツでないとつるむ意味が無いし。「皆どうしてるんですか?」なんて聞いてくるような人は要らないです。「出来るわけがない」ということをやろうとする人は、多分これまでの人生でそういうことをやってきた人だろうし、僕自身そうだったし、そのノウハウもあるでしょう。そこがポイントですよね。


 

文責:田村