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今週の一枚(2014/11/03)





Essay 695:世界観Aと世界観B



 写真は、North Rydeの道端に咲き乱れていたラベンダー。

 シドニーでは同じ薄紫色、つまりラベンダー色のジャカランダが盛りになり始めていますが、ラベンダーも地味に咲いてます。写真のものは、ふつーの道端、住宅街の交差点の角になにげに普通に、しかし「文句あっか」とばかりにガンガン咲き乱れていて、「ほお?」と思って撮ったものです。現場のリアルな風景は右の写真参照。Google Map上のドンピシャの場所はココ

 North Rydeもいいところですよね。幹線道路や高速に囲まれているくせに、一本折れるとのぺ〜っと平和な住宅街が広がって。そういえば、来たばかりのころ"Ryde”(らいど)の発音がよう分からず、なにこれ"りで"?とか思ったり、土地勘不案内で"Rydalemere(らいだるみあ)”とごっちゃになったり。Rydeエリアは範囲が広く、North Rydeの他、なんもつかないただの"Ryde"があり、高台の商業地(シドニーの商業地や幹線道路は大体そのあたりで一番標高の高いエリアにある傾向がある〜谷道ではなく尾根道繁栄の法則)である通称"Top Ryde"があり、その西にWest Rydeがあります。West Rydeには、いつも利用する個人商店のパソコン屋があります。大体、その昔IBMあたりでバリバリやってたチャイニーズが永住権取って店やってるケースが多く、スペック指定で組み立ててもらうのですが、いい仕入れルートもってるのか安いし、漢字読めるから修理なんかも楽です。その店に行くとき、ぶらぶらテキトーにライドエリアを突っ切ってドライブするのですが、なごみますねえ。

 田舎にいくと、ときどきラベンダーファームがどわ〜っと広がってて「おお!」と思ったりもします。いいすよ。


世界観A1 マクロ版

 「世界観」という言葉、僕は好んでよく使います。
 「結局コレでしょう、コレ!」って感じ。
 でもこれ、わかったようなわからないような概念でもあります。

 「この世界はこうなってるんだ〜」っていう漠然とした認識なんだけど、メチャクチャ重要なくせに、面白いようにコロコロ変わります。ほ〜んと空のお天気のように、風が吹いたら雲が流れて雲が去って、日が昇ったり暮れたりして、年がら年中180度どんでん返し〜っ!てくらい変わる。こんな超重要なものが、こんなに簡単に変わっていいのか?ってくらい変わる。

 今週は、その重要なくせに不思議と不安定で、軽やかで、ときとして無節操な世界観についてちょっと。

世界観の上に人生観が乗っかる

 「人生観」や「死生観」という概念もあります。こんな具合に生きていくんだろうなとか、自分にとって死ぬってことは多分こんな位置づけで〜ってことで、これも生きていく上での基本OS、憲法みたいなものです。超重要。だけど、これだって世界観の上に乗っかってるんですよね。

 例えば、「人間というのは大体100年しないうちに寿命が来て死ぬもんだ」という認識だって、世界観の一つを構成してます。あまりにも当たり前過ぎていちいち意識しないかもしれないけど、これが違ってきたら人生観や死生観も変わるでしょう。例えば、画期的な医学の進展があって、平均500歳まで生きるって時代になったら、人生観も組み替え直しでしょう?最初の100年は「未成年者」扱いになったり。

 このあたり発想の柔軟体操みたいな部分は、SFなどを読んでいると鍛えられます。「この星では太陽が4個あって月が17個ある」とか「公転周期が100年と異常に長く、しかもハレー彗星のように超楕円軌道なので、やたら暑い時期とやたら寒い時期の差が極端→それがこの星の生命体の世界観や宗教に影響を与えている」とかね。前提となる世界認識によって、そこに存在する自分の認識も規定され、その「意味」の考え方=宗教や人生観も変わってくるだろうな、というのは容易に予想ができます。

 これは地球上でもそうです。自転軸の傾きの関係で夏冬の寒暖の差が激しい高緯度地帯では、万物は変動流転する、それも1年という比較的短い期間に変動するのがこの世界のありようであり、変化のなかにこそ真理を見出そうとするでしょう。ところが赤道付近の低緯度地域では一年を通じてほとんど気候の差がなく、さらに砂漠と空しかないようなエリアでは、絶対普遍の真理がドーン!とあるという具合に考えがちだとか。また一生を通じて毎日の生活環境がほぼ変わらず、唯一変化があるのが満天の星々の動きだけだとしたら、その星の動きに過剰なまでに意味性を見出そうとしても不思議ではない。複雑な星々の運行パターンに則して、高度に抽象的で壮麗な意味体系を作ろうとするかもしれない。片や、ほっといても季節の変化があり、しかもそのパターンが比較的見えやすい場合は、その変化パターンを体得するだけで何となく分かった気になって、それ以上に思弁的な意味体系を作ろうとまでは思わないかもしれない。

 日本の場合、海という気温のクッション材を周囲に敷き詰めた海洋性気候ですから、四季の変化は鮮烈だけど、マイナス60度とか炎天下50度という苛烈なものではなく、それぞれがクリア出来る程度にマイルドで、しかも変化による快感(四季の風情)やドラマ性(パッと散る桜)が十分にある。季節の移り変わりを体感&鑑賞していくだけで何となく満たされてしまって、それ以上に思弁的・哲学的な神や真理はあまり求められなかったのではないかもしれない。宗教といっても、ユーティリティ(実用性)からの素朴な豊作祈願程度(原始神道)、アミニズム(森の神様や妖怪みたいな)やシャーマニズム(卑弥呼みたいな)という自然崇拝に毛が生えた程度にとどまり、ベーシックに無神論(ないしナチュラルな汎神論)に傾きがちではないか。そういう日本人にとって、高度に思弁的なウパニシャッドのインド哲学や、死ぬほど複雑なユダヤの数秘術、アラー神の絶対性などは生理的にピンとこないのかもしれません。

インドのカースト

 過去の世界シリーズでインドをやってて、クソ不平等で面倒なカースト(というのは西洋人が勝手に呼んでるだけで地元的にはヴァルナとジャーティ)制度はなぜ残っているのか?というところで、前提になる世界観を知って「なるほどね」と思いました。ヒンドゥ教や原始仏教のベースになったバラモン教(これも西欧人が勝手にそう呼んでるだけ)の輪廻転生+解脱+梵我一如思想という世界観がある。何度も生まれ変わって修行を積んで、やがてゴール(解脱)という世界観のものとでは、個々人の人生観もそれに規定される。現世のカーストは前世の行いの結果であるとすれば、前大会で優勝したチームが今年シード校(上位カースト)になるのは合理的であり、不平等ではない。またカーストから離脱する方法(改宗その他)もあるのだけど、そうなると解脱するチャンスも失う。大会に参加しなければ優勝できない、と。このような世界観では、"差別"する事こそが正義です。最高記録を叩きだした人が金メダルで、次点が銀メダルと歴然と区分けし、”差別”するのは正義であると。言葉の問題だけど、それは「差別」ではないと。

 一方、全てが過剰で混沌としているインド、細かく数え上げれば860言語もあるというインド亜大陸では、参加者11億人のバトルロイヤルやってるようなものだから、生き抜いていくためには、身近なところでグループを作り相互扶助をするようになる(これは中国なんかもそうだと思う)。それが生活の安定基盤にもなるし、ギルドや講のような職業的な利権保護にもなる。それがカーストだと。ここではベースとなる世界哲学や宗教観があり、その上に生活の必要性・経済的合理性がかみ合わさって、一つの現実となる。「そーゆー現実」のもとで個々人が生きていくのであるから、その人生観も大きく規定される。そしてその現実が時代の変化で揺らげば、経済性も変わるし、世界観もまた変わる。

いろいろな世界観〜超マクロ

 いつ何で読んだのか忘れてしまったのですが、「おお、すげえ」と思った世界観がありました。これまで生まれてきた全人類の人生というのは、実は一人の人間(神)のものに過ぎないという世界観です。もう何億何兆何京人という人類がこの地球に生まれてきているわけですが、超膨大な輪廻転生をすることで、一人ひとり全ての人生を味わっているという。そこでは時間も空間も超越しているので、一人の人生が終わったら、また時間をさかのぼって別の人の人生を最後までやり、さらにまた、、と。どんだけ時間がかかるのか気が遠くなるようなことをやってる奴がいる。だから僕も、あなたも基本的には全部同じ人間がやってる。なぜそんなことをするのかといえば、そいつは神であり、神は全ての生き物の人生のデテールを知り、味わうために全部生きてみるのだと。あらゆる人の苦しみ、悲しみ、喜びを我が事ととして理解するための修行としてやってるのだと。

 そうなると人間だけか、犬猫やイルカやバッタはどうか?全宇宙の生命体がそうなのか?というと、どっかに線引はあるんだろうけど、そこらは忘れました。でもって、その全てを生き終えて、修行終了コンプリートしたらどうなるかというと、この宇宙が消滅し、新たな神が出現し、その神の表現として新しい宇宙が誕生する。全てを味わい全てを理解したからこそ、そいつは神になれるのだし、その全てを味わった神だからこそ新たな宇宙を創造できる。要するに、この世界は、その神を誕生させるための修行道場のようなものであり、そのために宇宙という存在があるのだ、、、、という世界観です。「すげー」と思っちゃった。

 もっとも幾つかのアイデアが僕の頭の中にミックスされたり(「宇宙は神の卵である」という発想は小松左京の作品にある)、自分で創作したりしている部分もあろうかと思うのですが、中々面白い発想です。だってどんなに憎らしい奴がいたとしても、そいつも自分なんですよね。てか全員自分。歴史上の人物も自分。そもそも「え、俺って神だったのか!」というすごいサプライズもある。でもどんな修行も大変なんだけど、さすが神様になる修行というのはハンパないですね。よくやるよな、こんなの、、って、今自分がやってるわけなんだけど。そしてこれは大いなる救済思想にもなります。だって、今自分が感じてるどんな悲しみや怒りも、全ていつか訪れる新しい宇宙の基礎資料になるわけだから、全てに意味があるのだ、無駄なことなど何一つないのだと。

 しかし、こんな途方もない世界観を持ってしまうと(持っているわけではないが)、人生観も変わるよね。死ぬことすら「はい、じゃ次〜」という些細な事務の転換点でしかないわけですもん。てか、もう宇宙とはすなわち俺のことだ(ごく一部だけど)という、アイデンティティ=全宇宙になってしまったら、おおお、これぞ梵我一如、もう大抵なことはOKですよね。やれ就職に失敗しました、フラれました、試験不合格でしたとかいっても、「微笑ましい修行の一コマ」でしかないという。部活の夏合宿でみんなでスイカ食べました的な。なんつっても宇宙作らないとならないんだもんね、イロイロあって当然すよ、宇宙甘くないスよ、頑張らなくっちゃ。

 なんでこんな早起きしなきゃいけないんだ→全宇宙のため、なんでこんなしんどい思いをするんだ→よりよい宇宙を創造するため、、、という具合に、あらゆる人生の苦悩に明快な解答が与えられるという。こういう宗教ってないのかしらね?あんまり金儲かりそうにないからダメなんかな。

世界観A2 ミクロ版

ピザ10回

 超マクロに行ったあと、一転してミクロ世界観にいきます。せま〜い内輪の世界観。
 これは日常的に常にありますよね。クラスメートが全員大学進学するから、普通に進学するもんだと思い込んだり、仲間が全員ヤンキーだったらヤンキーやらないといけないんだと思い込んだり。

 僕らがなんとなく思ってる世界観なんて、極論すれば半径3メートルで決まってしまいますからね〜。半径3メートルにいる人間がA型属性をもってたら世の中Aなんだと思い、B型属性だったらBだと思い、そのAなりBなりを長い間やってると、それが揺るぎない確信になっていって、「世間とはこういうもの」と後進を教え導くようになるという。

 ガキンチョの頃はまさにそれで、友達が全員自転車に乗ってると、自転車持ってないの僕だけだよ〜!とお母さんに陳情する。別に自転車なんか乗らんでも死にやしないんだし、そのうちそんなこと忘れてしまい、次に乗るときは多分十数年後のメタボ対策だったりするんだけど、そこまで長期的なパースペクティブ(見通し)はガキにはない。自転車をゲットするか、しからずんば死か?!くらい思いつめる。そういう世界観になってるから。ずっと日本にいたら日本的な世界観になるし、アラスカにいたらアラスカ的になる。それだけのこと。

 大昔に「10回ゲーム(クイズ)」というのが流行って、「ピザピザピザって10回言って」と言わせてみて、その直後、膝を指さして「これは?」と聴くと、ヒザではなく「ピザ」と答えてしまうというしょーもない遊びです。でも、これと似たり寄ったりなんだと思うのですよ。「終身雇用・終身雇用って10回言ってみて」とか、「老後の安心って10回言って」というのと変わらん。言わせたあとで、じゃあどんな仕事に就きたいの?どういうライフスタイルがいいの?と聴くと、「老後の安心」と答えるという。

 これをカッコつけていえば、「同一の傾向をもつ事象が一定以上の頻度をもって出現すると、その後も同じ傾向が続くだろうという合理的推論」なんでしょう。帰納法的推論ですな。ほんでも、常にそうなるとは限らない。ピザはピザ、膝は膝です。ピザを10枚食ったからといって、自分の膝がピザに化けるわけではない。

 そもそも「同じような事象が一定の頻度以上に生じる」という時点で、健全な生存能力を持っている生命体だったら、「あれ?」と思わないと嘘ですわ。赤ん坊のようなナマの(それだけに正確な)原世界観からしたら、この世界は何でもアリであり、工場のベルトコンベアのように同じようなものばっか出てきたら、なにかがすーごく不自然だと思わなきゃ。そんなレベルで他愛なく思ってたら生き残ることなど出来やせんでしょ。今回上手くいったからといって次回も上手くいくとは限らない、これまでは上手くいってきたけど、いやだからこそ、そろそろ何かの転換点が来るかもしれないって常にヒリヒリ緊張感をもって臨まないと、パクっと食われちゃうぞ。生きるか死ぬかの武将が「勝って兜の緒を締めよ」と言ったのはカッコつけでも建前でもないと思う。生きる知恵でしょ。

 このように思考や発想が狭い範囲でパターン化されるのはヤバイのですけど、だからといって無茶苦茶な脳内妄想を炸裂させれば良いってもんでもない。大事なのは違うパターンを知ることでしょ。一般に「視野を広げる」というのはそのメリットがあるわけで、「え、こんなやり方があるの?」「こんなんアリ?」という驚天動地のパターンがこの世にあるのを目の当たりにすると、発想の幅が広がる。

パターン認識の危険性とその回避

 なんで広がると良いかといえば、これも過去に書いたけど、人間の脳味噌というのはパターン処理に非常に長けていて、全てをパターン化してバッチ処理を施すことで脳内処理効率を高めているらしいです。さもないと、日常生活でもなんでもいちいち考えこんだり、驚いたりして話が先に進まないから。しかし、パターン処理をしすぎるがあまり、大事な差異を見落とすという致命的なミスを犯す。いつもこの信号は誰も通ってないからという体験が千回以上あると、ろくすっぽ減速せずに運転して、いつの日かドーンと人を跳ねたりもする。事故とはそういうことでしょう。また、そのパターンの裏をかかれて、騙されたりもする。手品のトリックは基本、これでしょう。

 生き物が生き残るためには、周囲の生存環境の査定をキッチリやらないとならない。美味しい草があるからといって、今までここで襲われたことがないからといって、夢中になって食べていて、周囲の臭気の異変に気づかないと、捕食動物に食われて死ぬことになる。パターン処理は楽ちんだからそれに任せていると、生存環境の査定がおろそかになる。「これまでそうだったから」「みんなやってるから」程度のしょぼい生存能力だったら、小学校の先生の説教のように「ほんなら、皆が死んだら、お前も死ぬんか?」と言われてしまう。

 視野を広げることは、このパターン処理を打破する効果があり、より正確に今自分の置かれている状況を査定することができる。それが苦境であれば、どういう打開手段があるか、打開策Aから、B、C、、、Zとはいわず、FかGくらいは思いつけるし、実行できるようになる。大体どんな状況でも、最低でも4種類は方策があると思いますよ。それが一つしか思いつかないんだったら修行が足りん、ですよね。

自分辞書の編纂

 もっとも、これらは生きる技術であって「世界観」というほどのこともないのではないか?って気もしますね。世界観というのは、もっとこう雄大で、「この大地は亀の上に乗っている」とか、そういうスケールの話じゃないかと。でも、そうじゃないと思います。世界観というのは、つまるところ、こういう個々の断片記憶の集積だと思います。「あそこのラーメンは不味い」とか、「日本酒というのはこういう味がするもの」とか、「東京はビルばっかりで緑が少ない」とか、「○○さんは意地悪でイヤミなやつだ」とか、、、そういった自分だけの辞書みたいなものをもっていて、その総体が世界観だと思います。

 その辞書が優秀で正確で膨大であるほど、成功確率も高くなるし、自分のワガママを通してハッピーになる確率も高くなる。以前、寿司食ってワサビでどっか〜ん!となって七転八倒した外人さんが、ワサビを指さして「グリーン・デビル!」と言ってたりするけど、それで寿司食うのやめちゃったら、この人は人生の喜びを幾分かは失ってしまうことになる。彼の辞書には「寿司=悪魔」という解説が書き込まれたのだろうけど、それはその辞書がヘッポコなのであって、成功(美味しいものを食べてハッピ〜)を逸している。

 僕もこっちにきて、「え、そういうことだったの?」という体験を山ほど重ねて、それは今でも日々続いていて、楽しい思いをさせて頂いているわけですが、発見して辞書を改訂する度に、「おー、やべ、知らずに死ぬところだったわ」と胸を撫で下ろしたり、ぞっとしたり。

世界観B

図鑑の楽しみ

 子供の頃、植物図鑑とか昆虫図鑑などを食い入るように読んでました。もう「韋編三絶」の故事のように、ぼろぼろになるまで読んでいた。てか、見てた。

 オーストラリアに来て20年以上ものほほん生活をしているからか、それとも放物線のように人生曲線が徐々に終期にむかっているからか分かりませんが、フラッシュバックのように子供の頃の感覚が蘇ります。こちらにきて最初の数ヶ月にそれは激しく、以後頻度は減ったものの、それでも連綿と続いています。

 先週はこの「図鑑の楽しみ」を思い出しました。「あ〜、そうだった、そうだった」って。買い物帰りに、空を見上げて(こっちの空はほんときれいです)、思い出した。

 何を思い出したかというと、植物図鑑のとあるページのイラストです。漠然とした画像でしかないんだけど、「春の植物」とか「秋の植物」とか概観するために、どっかに海岸とか、山の見える原っぱとか、まあ銭湯の風景画みたいな適当に写実的で、適当に絵画的な絵。そこに、実際には(植生態系的に)ありえないくらい、あれこれの植物が生えていて、名前が書かれているんです。これはセイタカアワダチソウとか、これはヒメジヨン、これはレンゲとか、、、

 余談ですが、手描きイラスト系の図鑑はやがて消滅して、カラー写真の図鑑が主流になってからはこの興趣が激減しちゃいました。この世のどこでもない風景だからいいんですよね。イマジネーションがビンビン刺激されて楽しい。でも写真だけだとイメージが限定されちゃうので、広がらない。

 写真も好きだけど、絵も好きです。全然違うよね。図鑑以外には子供の頃の絵本って影響デカいです。情操教育って世界観教育だわって今にして思う。幼稚園に入る前くらいに、チャイルドブックという絵本を買ってもらってて、これも食い入るように見てた。なんか暗くて寂しい絵柄があったりもして、それがまた想像力をかき立てた。週刊新潮って内容的にはよう知らんのですが、あの表紙のイラストはいいですよね。谷内六郎さんという人が描いてたらしいけど。絵ってほんと凄いと思います。

夕焼けは親友

 身長が1メートルそこそこだったあの頃は、野原を駆け回ってて、飽きるということがなかった。別に「お、これは〇〇だな」っていちいちファーブル昆虫記のように思ったわけでもないのだけど、そこらへんに生えている草に全部名前があって、全部個性があることを知っていた。一人ぼっちで何時間でも遊べた。ひとりぼっちだったけど、別にそれが寂しいとか孤独だとかいうことは一ミリも思わなかった。

 なぜって、一人じゃなかったからです。あの幼少の頃、「ともだち」という概念をどれだけ分かっていたのか怪しいのだけど、それに近しい親愛なる感覚は、別に人に対してだけではなく、レンゲの花畑にも、いつも登った木にも、あそこの空き地にも、昆虫達にも、そして空にも抱いた。もう夕焼け空なんか「親友」と呼んでもいいくらいだった。いつも同じようなんだけど、いつも微妙にどっか違ってて、期待に応えてくれたりくれなかったり。対話とか会話って感じではないけど、夕日が落ちて〜、落ちて〜、オレンジ色のただの光点になって、やがてぷっつり消えていったあとは、気のおけない友人と話をしたのと同じくらいの精神的な充足感があった。

 別に友達って人間に限ることないんじゃない?
 というのは、そう言葉で思ったわけではないのだけど、思うまでもなく、言葉にするまでもなく理解していたと思う。「自分と、自分以外のサムシングとのなんらかの現実的な関係性(単に見てるだけ、そこに居るだけでも)で、なにかしら心が満たされること」をもって、友情や人間関係の本質的部分だとするなら、それは別に対人間に限定すべき理由はない。理論的にも経験的にも。

 あの頃、図鑑のイラストの絵を見てた。飽くこともなく、ひたすら見続けていた。そこに「世界」があったからだと思う。そよ風に吹かれて音もなく揺れる草達。真っ青な空。刷毛で一筋スッと描いたような秋の絹雲。お母さんに抱かれているような柔らかい春の日差し、その好ましい眩しさ、その温度。それらを言語的に表現することは到底できなかったけど、言葉を知らない分だけ純粋にその存在をありありと再現できた。

 だからでしょ、古今東西、あらゆる画家・絵師が風景画を描いたのは。人間中心だったらポートレートだけで良さそうなものなんだけど、人ひとりいない風景を何十時間もかけて描く。そこにはものすごい情報量が詰まっているのでしょう。そしてその「情報」はこういう地形で等高線がどうでって情報ではなく、まったく別種類の感動情報ですよね。

存在することの根源的な恐怖と歓喜

 最も幼少の記憶で、この世界に自分が存在してしまうことの根源的な恐怖がありました。「存在する恐怖」です。それはずっと昔に書き綴って、シドニー雑記帳時代の「Stand Alone」に、「世界がまだ肌慣れぬ幼児の頃、 俺はまだ3歳になったばかり  なぜか親の姿はなく  暗い部屋にポツンと残されていた。  −−−−−−−−−−と四囲から押しつぶすような現実の圧力に  かぼそい声で俺は泣いた。」と書きましたが、これは本当にそういう記憶があります。

 この小品では、生まれてからずっと近くに立ってくれている「君」がモチーフになってますが、これも創作ではなく、なんか直感的にほんとにそう思うのですね。いつもは全然気が付かないけど、小さかった頃から、なんかしらんけど、もうひとり誰か(何か)がずっと横に居てくれているような気がする。100%自分しかいないとは、どうにも思えない。割り切れない。なんか居るような気がする。あなたはそんな気がしませんか?それが何なのかはわからないけど、それは自分にとっては快い存在で、夢の中や自問自答しているときとか、実は自問自答ではなくてそいつと会話してるんじゃないかって。ちょっとユング的なんですけど。あ、ユングのアニマ(男性の中にある女性性格)はアニマでわかるんですけど、それはそれで別に「かわいそうって言われたくない?」で表現したけど、それとは別に。

 その存在する根源的な恐怖とともに、それと表裏一体になるんだろうけど、存在する根源的喜びというのもあるのだと思います。それがちょっと前に書いた「存在価値」なんだけど、自分自身に存在価値があるように、全てのものに存在価値があり、要するに世界はただ存在するというだけで価値がある。世界の中で宝探しをする必要もなく、世界そのものが宝なのだと。価値あるものに触れてうれしくないわけがない。存在と存在が交感しあい、交歓しあえば、そこにはうっすらと、でも雄弁な幸福感がある。

 そうだ、俺は子供の頃にそれを知ってたんだ!と、先週、いまさらながら思い出したのでした。
 だからあんなに「春の植物」というイラストを何時間も見続けて、まったく飽きなかったのだ。だから、何もない原っぱに行っても、全く飽きずに遊んでいられたのだ。

なんでココにいるの?

 「弁護士なんかやってる場合じゃないわ、オーストラリアに行こう」と思ったキッカケ話の一つに、沖縄の海があります。これも何度か書いたけど、出張で沖縄本島にいって、登記簿調べたり役所訪ねたりして、その合間に綺麗な断崖絶壁に立ち寄った。後日、他の女の子と話したとき、偶然同じ場所に行ったらしく、「キレイだったでしょう?あんまりキレイなので、わたし、涙でてきちゃった」とのたまうのだ。「はえ?」と馬鹿な僕は思った。風景が綺麗なだけで涙がでるんだ、そこまで感動するんだ?できるんだ?俺はどうだったか?というと、そのときキレイだなとは思いつつも、頭の片方では「このあたりは坪幾らかな?」とか考えていた。それで愕然となった。もう「死んでしまえ〜!>俺」ですよね。なんちゅー幸福燃費の悪い生き方をしてるんだ。馬鹿か俺は?と痛切に思った。そして、子供の頃を思い出した。あの頃カブト虫とか取れたらどんだけうれしかったか!あれと純粋に同じだけの飛距離のある喜びを得ようと思ったら、今はどのくらいのことが必要か?と思ったら、どうもフェラーリくらい買わないとそこまではいかない、いやそれでもヤバイかも。3000万円かけてそれかよ!と。

 だからこんなことしている場合じゃねえ!ってことで、あの小品で書いたモチーフのように「早くもとに姿に戻れるといいね」と思って(もともとはその頃に書いた)、こっち来ました。戻れたかったって?戻りつつあると思いますよ。だから、今回も図鑑の喜びをリアルに思い出したんだし、「景色が良かったら、空がキレイだったら、それで人生OKなんじゃね?」と薄々思ってたことが、ますます強くなりました。

 風景画に膨大な感動情報があるって書きましたが、いわゆるリラクゼーション系もそうですよね。あれも要するに何の変哲もない、そこらの海辺や、林に雨がしとしと降ってますってだけを延々流すだけなんですけど、不思議と満たされる。あんなクソ退屈なものがなんで気持ちいいのか一瞬不思議なんだけど、だからそれは「もとに戻る」快感であり、世界と存在の快感なんだと思います。

 ただリラクゼーションというと、リラックス=弛緩って語感が強すぎて、ちょっと違うような気がします。乾燥ワカメを水に漬けて「戻して」いく感覚だと思う。「弛緩」とはちょっと違うんじゃないかな。そこには「摂取」がある。生理食塩水のように、一定比率、一定のレシピーでサムシングが必要で、それが狂うと生き物はヤバくなるんじゃないかな。それを補充してもとに戻るという。そのサムシングが判れば苦労しないんだけど、でも、なんかあるんだよね。

世界観Bと事務処理

 これは、これまで述べてきた「世界観」とはまた違った種類での世界観で、いわば世界観Bなんだけど、BがあったらAなんか要らないかもしれないよ。子供の頃にはいらなかったもん。世界観Aは、いわば理屈の話、技術の話で、本質的な価値観体系では、低階層の事務処理システムであり、システムは優秀の方がいいよねって話にすぎないです。パソコンのOSやCPUみたいなもの。

 それだけ優秀に事務処理を済ませて、さてどうするか?といえば、そこで「ハッピーになる」というメインディッシュがくるんだけど、肝心のそこの味覚がダメダメだったら全ての意味がなくなるじゃないか!何のためにこんな苦労をしてるのよ?という。苦労するために苦労しているって、カミュの「シーシュポスの神話」じゃないんだからさ。

 また、メインディッシュは事務処理を済ませないと出てこないものではなく、いつでもどこでも目の前にある。世界は常に存在している。落ち込んだ日にも、クビになった帰り道でも、ふと上を見たらそこには壮麗な夕焼け空がある。だもんで、「事務処理(金稼ぎとか)」って一体何のためにやってるのよ?といえば、結局のところこの鑑賞快感を「いかに邪魔されないか」(金稼ぎのために忙殺されないか)論でしかないと思います。

 んでも、事務処理だってこの世界の中でやってることに変わりはなく、要は年がら年中、お宝(世界)には接してるんですよね。ただマインドセットが世界観A、それも内輪のちんまい世界観A2に毒されているから、世界観Bに接して「気持ちいい栄養」を摂取することが出来ない点、いわばそこに機能障害があるのが問題なんだと思います。

 でね、面白いのは、世界観Aで失敗したり、弾かれたりするときが、世界観Bバランスを回復するチャンスだったりすることです。クラスルームでハブかれて、一人さみしく校庭や屋上で空を見上げているときとか、実は意外と寂しくなかったりして、A的には寂しいかもしれないんだけど、B的には逆に充実したりして。清志郎の「トランジスタ・ラジオ」の世界がそこにはあったり。「♪〜授業をサボッて 陽のあたる場所に いたんだよ 寝ころんでたのさ 屋上で」って。いいよね、授業フケるの(^^)。

 失恋したので傷心旅行に出かけますって、なんで旅行すんの?っていえば、本能が求めるんじゃないかなあ。全てを失って流浪の旅に出て、そこでなんかしらパワーアップ充電をするという。Bを摂取するんだろうなあ。修行僧の雲水の旅だって、あんなん寂しいだろうし、孤独だろうし、みんな発狂したって良さそうなんだけど、不思議と続いているのはなぜかといえば、結構気持ちいいからだと思いますよ。満たされるんでしょうね、どっかでなにかが。

 かつての僕がそうであったように、ワーホリや留学、永住でもなんでも海外に出るとか、あるいは国内で転居するとかいうのも、世界観Aだけじゃなくて「Bが足りねえ!」って本能的に思うからじゃないかしらん。その意味でいえば、「グローバル時代におけるグローバル人材の育成」というのも、いかにもA的ですよね。「そーゆーことじゃないんだけど」って内心思ってるんだけど、その方がAの世界では通りがいいから「そういうことにしておけ」ってなもんでしょう。



文責:田村