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今週の一枚(2014/10/20)



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Essay 693:「他人の視線」の分別処理(環境変数とPI管理技法)

〜はよ自然価値に気付けってば

 写真は、かなり前に撮ったものですが、信号待ちしてるカップルのバイクがカッコ良かったので。

 何がカッコいいって、ナンバープレートが「WA」なんですよね。ウェスタンオーストラリア州から約4000キロ(パース=シドニー間は九州からタイのバンコクくらいある)ブッ飛ばしてきたのかあ〜!って思って。
 まあ、違うかもしれないし、単に中古のWAナンバーを買ってるだけとか、近所のバイト先まで乗せてってあげる途中なのかもしれないし、そもそも荷物的に無理でしょって気もするが、でも、革のコートとかブーツとか"らしい"し。勝手に想像する分には罪ないだろ。地平線から地平線まで〜二人で風のようにすっ飛ばしてくるのって気持ちよさそう(リアルには地獄的に大変だろうけど)。

 場所は、どうでもいいだろうけど、通りの向こうがLeichhart。
 しかし、もっとどうでもいいけど、向こう正面に見える看板、「カリスマ開発(株)」ってなによ。すげー社名。


禅問答メール

 今週は平均寿命や自殺率の推移の話を半分書いたんですけど、自分で書いてて詰まらないのでビリビリと破き(って紙に書いているわけではないから比喩ね)、昨日読者の方からもらったメールの返事を公開で書きます。なんか禅問答みたいで面白いし、ご本人もネタとして取り上げることに異存なさそうだったし。

 メールの問いかけ部分の骨子は以下のとおり。

 偶然、先ほど観ていたBSの番組でオックスフォード大学の哲学の教授が学生と公開授業をするという番組を見ていました。「マイケルジャクソンの美と醜」というテーマで人間の持つ美と醜さについて考える授業です。
 その中で、サルトルの”地獄とは他人のことだ。"という言葉が出てきます。自分とは離れた他者から見られる自分。そこには必ず何かが欠如している自分があり、そういう意味では私たちは誰しもが醜である。だから、地獄とは他人のことなのだ。そのようなテーマをマイケルを軸に哲学的に考えてみる授業でした。

 また、Mark Manson マーク・マンソンという人は、「Boundaries 自分と他人との間にある境界線をはっきり持つこと」、これこそが(エゴイスティックになるという低いレベルではなく)恋愛でも仕事でも非常に大事なことであるという考えを述べています。

 この境界線を誤ると、田村さんが節々に書いているように「誰のために生きているのか分からない人生」に陥ったり、マンソン氏が述べているように「貧相な個人的境界線しかない人は2つの傾向に陥りやすい。他人の行動や感情にあまりにも気を取られてしまうか、または、その他人にあまりにも自分の感情や行動を気にして貰うことを期待してしまう。これが他人との個人的境界線が曖昧で貧相な人である。」となってしまうかと思います。

 ただし、サルトルが言うほどに昔からあらゆる人にとっては”地獄とは他人のことだ。”という言葉もあるのだなと、人にとって根深いテーマであるとも感じています。

 田村さんの、「自分と他人との間にある境界線」について教えて頂けますか?また、「自分から観る自分の視点」についても教えて頂けたら幸いです。


 というメールを頂きました。
 えーとね、なんて答えましょうかね〜。あなたならどう返しますか?What do you say?

回答〜大前提

 改めてしばらく考えてみたんだけど、僕個人のことで言うならば、その自他の境界線ですか?それって滅茶苦茶クッキリあるような、あるいは全然無いような、あんま悩んだことないです。少なくとも今は悩まないですねえ。

 要は他人の思惑や他人の視線に気を取られすぎるが余り、自分が振り回されたり、自分が無くなっちゃったりってことを言っておられるのだと思います。ちょっと前に書いたように「僕らはみんな雑魚キャラだあ」というテーマに近いお話ですね。

 一行でシンプル回答すれば、「B型だから他人のことは気にならない」ってことでしょう。
 しかし、「B型だから」で全ての説明をするあたりが乱暴過ぎるし、どんな科学的根拠があるのかも定かではないし、なにがどう気にならないのかって説明も全然ないし、もしかして皆と同じくらい気にしているんだけど、気にしているということに自分では気づかないだけなのかも、、とか、いろいろありますよね。

 だもんで、僕の中で、自分と他人(の視線)はどう処理されているかって話を書きます。これで多分回答になると思うので。

他人のことなど絶対わからん

 これは僕が変わってるのか誰でも同じなのかはわかりませんけど、かーなり機能別・局面別に「処理」しているような気がします。

 まずその大前提として、「他人が何を考えているかなんて絶対分からない」と思ってます。その他人がどういう傾向をもつ人か、今どういうことを望んでいるかとか、そういうことはある程度わかるでしょう。「こいつけっこー自己中だな」とか、「意外にこういうことは大胆だな」とか、「煮詰まってるみたいね」とか、そのあたりは誰だってある程度はわかるでしょう。

 しかし、一定限度を超えたら分からんです。「こういう人」という人格・性格だって、煎じ詰めれば自然現象でしょう?台風がいつ発生して、どういう進路をとるかみたいな。なぜなら人が何を思いどう決定しどう行動するか=意思決定のプロセスってのは、大脳各所の安置されている膨大な過去の記憶パターンやら、その時々の生理的欲求やら、数十数百千ある変数因子が瞬間ごとに演算されて出てくるわけでしょ。そして人格・性格ってのは長い目でみたその無数にある個別意思決定の長期的なパターンでしょう?そんなもんわかるかいっ!です。秋には台風が多いとか、今台風が発生しましたとか、そのくらいは分かっても、リアルタイムに次にこうなるとか、なんでそうなるかとかは分からん。自分のことだって分からんもん。キッチンまでやってきてから、「あれ?俺、何しに来たんだっけ?」と。

 ましてや、その人が自分をどう思うか?というのは、他人の思考の中の一トピックの詳細内容でしかないわけです。その人が「ピノキオについてどう思ってるか?」と同じような話で、そんなテーマは無限にある。わかるわけないじゃんって。

 だから、絶対分からない!というのが大前提です。

 これは理論的にそうだというだけではなく、過去の体験もあります。「え?怒ってたんじゃないの?」とかさ、どひゃ〜というカンチガイは数え切れないくらいあるし。もう徹底的に思い知らされますよね、他人の考えなんかわからないよなって。

他人も自分を絶対わからん 

 これだけ自分が他人を分かってないんだから、他人もまた自分をわかってない。他人の視線とか思惑とかいうけど、それが合ってる保障はどこにもない。てか、大体において間違ってると思ってたらいい。

 これも実例が山ほどあります。他人に思いっきりカンチガイされてたり。前職の時も、依頼者から「あの時、先生、涙ぐんでらっしゃったでしょう?だから私〜」とか言われて、「はあ?!」とか。いえ、あのときは「やべーな、次の法廷に間に合わないぞ」って焦ってただけなんですけど。ほかにもあんなこと、こんなこと、山ほどあります。

 他人は見てるようで見てないね、見てるかもしれないけど理解してないね、理解してるかもしれないけど間違ってるね。そういう場合が多いね。もちろんキチンと見てる場合も多いけど、それは分かりやすい場合ね。他人が見てわかるくらいのことだったら、まずもって自分でもわかってるだろうし、そのくらい自分で気づけ、です。

気にしてもしゃーない 

 これだけ誤謬率が高いものごとを真剣に考えるだけ時間の無駄です。だってさー、他人の自分への観察そのものがまず間違ってて、その他人への自分の観察がまた間違ってるんだよ?もともと間違ってるものを、さらに間違って思い悩むくらい馬鹿馬鹿しいことはないでしょう?

 よって、他人の視線を気にするのは時間の無駄。実益無し、リスク値多し、有害性高し、無駄無駄無駄無駄あ〜!ってJoJo的な。
 だいたい、大して頭も良くない自分が、そんなことに乏しいCPUを使ったら燃費悪悪でしょうが。他にも考えなきゃいけないことは山ほどあるのだ。

死後の世界論に似てる

 この「他人の思惑」論って「死後の世界」論に似てますね。気になるけど絶対に分かるわけがないという。絶対にわからないんだけど、いや絶対に分からないからこそ気になる。分からないからあれこれ勝手に想像するのは自由で、想像して組み立てていくと妙に面白くなっていっちゃうところも似ている。「ラッキョの皮むき」ですな。幾ら剥いても終わりがないという比喩だけど、無駄で単調な繰り返しって、やってるうちにクラブ音楽のトランス状態になっていって、不思議にハイになっていくんですよね。

 ある程度の有用性もないわけではない。他人を視線を気にするから身だしなみに気をつけるとか、死後の世界(地獄に落ちるとか)を考えるからビビって悪いことをしないとか、そういう有用性はある。その有用性だけちゃっかり戴いて再構築したのがいわゆる宗教なんだろうけど。でもね、良い悪いの是非弁別なんてそんな大掛かりな天国地獄まで持ち出さないと分からんもんでもないでしょう?そんな死後なんてすっげー先を考えるヒマがあったら、卒業後の世界とか、ワーホリ後の世界とかを考えた方がより有益ではないかい?

回答〜ケース分別処理

 じゃあ、お前は他人の視線を一切気にしないのか?新宿駅の雑踏を全裸で歩いても気にしないのか?といえば、気にしますよ。だけど、それは「気にする理由」がハッキリしてるからです。

環境変数と対処技術

 軽犯罪法に「みだりに裸を〜」ってのがあるし、昔の女優さんのヌードシーンのセリフのように「必然性があったら脱ぎます」です。そのへんの横断歩道では全裸にならないけど、銭湯や温泉に入るときは全裸になるよ。これは、「郷に入れば郷に従え」であり、どうでもいいことで波風立てるのはエネルギーのロスだから、摩擦抵抗を最小限にしておいた方が得だから。

 かーなり合理的な実利計算でやります。だから「空気を読む」のも、実はメチャクチャ得意です。会議とか集団運営とかでも、「結論の持っていき方」「とりあえずガス抜きをして」「ガラリと空気を変える」とかありますから。それは住民訴訟やマンション問題、あるいは労組問題などの集団系の事件をやってたらイヤでも身につく。また、日本において空気が読めないと政治が出来ない。言うまでもなく夫婦関係だって「政治」ですからね。人が二人集まったらそこには政治がある。どこの夫婦にもカップルにも「尖閣諸島」みたいな問題があり、なかったことにしたり、改めて気づいたふりをしてドンパチおっぱじめたり。

 でも、こんなの全部「技術」ですわ。これだけの効果Aが欲しいから、それなりの努力Bをする、ただそれだけの話です。その意味で他人を視線を気にしますが、これは周到に計算し尽くしてやる。てか「気にする(気に病む)」ようでは技術的に未熟で下手くそだから不合格!でしょ。

 また、そこで他人の視線=社会の環境工学みたいなもの=については、それはそれだけの話で、それと自己評価は全くリンクしません。空が曇ってきたから、俺はもう無価値なんだとかは思わないよ、と。当たり前の話です。

 ちなみに日本ではこの点が非常にキツかったりするけど(同調圧力とか)、そこで思い悩むのは技術力が足りないか、割り切りが足りないんだと思います。こんなの全部「環境変数」じゃんかよ。湿度が上がったとか気圧が下がったとか、その種のことでしかない。そんなものと自己評価とリンクさせてるのがおかしい。そこで考えるべきは、気圧が下がってきた→また偏頭痛起こすかもしれない→早めに薬飲んでおこうって、そういうことでしょ。つまりは環境変化と対処技術。

 で、これは禅問答質問の「境界線」の話にニアリーになるのでしょうが、僕の場合、境界線はクッキリあると思います。てか、あまりにもクッキリしすぎて「湿度と私」みたいな世界で、いちいち「境界」とか考えないです。そもそも隣接しているとすら思わない。

 これは、例えばイスラム教国にいって、うっかり酒飲んで戒律違反だ犯罪だとか言われて罰金食らって「前科者」になるような感覚に近いです。そこで”犯罪者”としての烙印を押されて、自己評価変わりますか?ああ、俺はなんてダメで悪い人間なんだって思いますか?ありていにいって「うっせーな」「面倒臭え国だな」でしょう?環境変数と自己評価がリンクしないってのはそういうことです。僕にとっては祖国日本の社会でもそれと同じくらいに思ってるよ。「小うるせえ島だなあ」くらいに。だから単なる技術の問題。もっとちゃんと調べておけばよかったとか、見つかるように酒飲んだのが間違いだったという技術的な過失に過ぎない。そこで反省するにしても「今度は見つからないように飲もう」くらいでしょ。要するに「技術的な向上」でしかなく、人格問題ではない。

 あとで述べるつもりだけど、忘れるかもしれないから今のうちに書いておくけど、僕の発想法の一つのパターンは「技術の問題に還元できるものは極力そうする」ということです。技術が優れていれば、知識があれば、金があれば解決するような物事はそうやって解決しておけばいい、と。いずれも「頑張る」という量的方法論で解決可能なんで、気に病むには値しない。やりゃいいんだ、やりゃあ!やってりゃ馬鹿でも上手くならあ!の世界で、それだけのこと。いっそ低次元な問題とも言える。

 逆に言えば「ココロの問題」は出来るだけ削ぎ落として純化させておきたいのですよ。感性一発で、天から何かが降ってくるのをキャッチしないといけない、ビンビンに感度尖らせておかなきゃならない。すげー難しいんですよ。だから技術ごときで何とかなるような低次元なことは入れたくない、そんな雑音入れたくないのですよ。

マーケティングとパブリック・イメージ管理

 これは、どう思われるかをビジネス的に見た場合です。
 ホームページを作るときも、こういう表現を使うのはどうかとか、このデザインはどうかとか、出来るだけ分かりやすくなっているか。顧客からどう見えるかを徹底的に考えましょうって話です。ビジネス的には当たり前な。

 そういう意味での「他人の目」はメチャクチャ気にしますし、気にしなくてはいけない。

 弁護士業だって同じで、僕の場合は最初の2年間、バッジピカピカ新入生オーラのある頃は、安い量販店(洋服の青山的な)スーツにしてました。が、3年目以降になって、ある程度わかってきてオーラが落ち着いてきたら、ちゃんとした最低でも10万円以上するスーツを着ました。なぜか?というと、どっちの方が顧客に安心感を与えるかです。駆け出しのころは、文字通り「駆け出し」だから走ってなんぼ、パシリってなんぼ、フットワークとエネルギッシュな若さの方が売りだから、澄まし込んで高いスーツ着てても七五三みたいで滑稽なんですよね。そういう元気だけが取り柄みたいな時期は安物の方がむしろ似合うし、活発で躍動感のある安心感を与えるだろう。真実小物なんだから大物ぶってもアホみたいじゃん。しかしある程度いったら、多少なりとも重厚感がある方がいいと。

 あと、これは前にも書いたかな、先輩からのアドバイスで、事務所を構えて金かけるならデスクに金かけろと。百万以上のデスクにしろと。その方が顧客に安心感と高級感を与えると。安くもないお金の授受をするんだから、そこらへんの中古の事務机で30万円払うのと、ズシッとした北欧マホガニーのデスクで払うのとでは、払う方の納得感が違うと。しょほくて格調低いセッティングで金払うとすご〜く高い感じ、損した感じがする。

 そういえばどっかの中小企業のおっちゃんのインタビューを読んだけど、それほど凄いわけではないんだけど、社長の車としてロールスロイスを乗り回している。曰くは、不動産とかそのあたりに設備投資しても数千万とかすぐいくし、その割には営業効果が薄い。ロールスなんて買って3000万かそこらだけど、話題性はあるし、高級感はあるし、一目置かれる。その方が費用対効果は高い。成金と言われようがなんだろうが、「ああ、儲かってるんだな」「取引しても大丈夫そうだな」って思ってもらう効果のほうが遥かに高いと。

 さらにまた思い出したけど、元X-JAPANの故hideが、まだインディーズで横須賀サーベルタイガーやってたとき、メンバーにもライブ以外でも、バス乗ってても何してても、常にサーベルタイガーらしいカッコしろって徹底してたらしいです。ジャージなんか着て外歩いてたらそれだけでクビ!だと。すごいパブリック・イメージというのを大事にしていたと。

 ちなみに今のAplacはどうかというと、これは高級感とは真逆のコンセプトですよね。コンセプトって、言うならば「誰であれ、あるがままの自分でオーストラリア(海外)に通用する」ってことで、それが一番知ってほしい部分、主張になる部分なので、普通の住宅街の普通の家でやってて、一切の飾り気なしにして、いかにローカルのオージー社会と地続きでつながってるか、外の世界との連動性や通気性みたいなものを大事にしたかったのですね。「閉ざされた特殊な日本人社会」って感じを出来るだけ減らしたかった。日本人しかいないんだけど、そんな気がしないって感じ。常にオージー社会とイケイケで接している感じ。なのでわりとスッカスカで外への開放感のある今の家を見つけた時は、これだ!と思いましたね〜。

 だもんで、いやしくもそれがビジネスである以上、あなたが一円でも貰ってるプロである以上、パブリック・イメージ管理には細心の注意を払うべきだと思います。これは雇用されている人だってプロの労働者なんだから同じことです。ひと様からお金を頂くのは、そんな甘いもんやおへんえ(ここだけ京都弁)。

 で、ここが、禅問答に出てくる、マイケル・ジャクソンやら、サルトルの「他人は地獄」論につながっていくんだと思いますが、それはマイケル・ジャクソンはパブリック・イメージの権化だったと思うけど、彼も子供の頃から根っからのプロだったから、そこらへんの管理はちゃんと出来てたと思うのですね。

 で、サルトル先生は、他人の視線や思惑が地獄への一里塚になりうるとおっしゃるんだけど、そりゃ先生が哲学家だからでしょう?他人からみたら絶対欠如があるとか、そりゃあるだろうけど、その欠如を逆手に取って、それを個性にしたり、売りにしたりする程度のプロのしたたかさが欲しい。独眼竜政宗も海賊のフックも身障者っていえばそうなんだけど、むしろその「欠損」こそが男らしい強さをイメージさせている。欠如を逆手に取れ、問題はその方法論や技術体系でしょう。

 サルトル先生は哲学家だけど、僕は実務家です。プラクティショナーだし、プラクティショナーでありたい。あれこれ書いてるけど、別に評論家とか文筆の徒だとは思ってない。やってなんぼ、動いてなんぼ、結果出してなんぼのリアリズムの世界に惹かれるのです。これは趣味であり、これは好み。プラクティショナーからしたら、パブリック・イメージというのは、徹底的にプロフェッショナルに管理してなんぼだし、そこに自己評価とのリンクがあるとすれば、「どう他人に伝えられたか」という技術的巧拙があるだけです。上手か下手かただそれだけです。あんま地獄っぽい感じじゃないですけどね〜。

思いやりと自己実現

 簡単に例を上げてしまえば、お腹が空いたという人がいるから手料理を振る舞いました。はいっと皿を出して、食べてくれてます。そのときに思う感情です。「おいしい?」って。

 こういう局面においては「他人がどう思うか」はすげー気になります。なぜか?といえば、自分はその他人に対してちゃんとプラスになることをしたのか、自分のやった行為は価値があったのかなかったのか、それを知りたいからです。

 これは他者への思いやりでもあるし、自己実現でもあります。
 ミュージシャンがライブをやって、本当にお客さんが楽しんでくれたかな?って気にするし、教師は生徒になんらかのプラスの感銘を与えられたのかどうか気になるし、

 それはそれは幸福で豊かな人生の一コマで、これは自己評価にナチュラルに連結します。
 これは多くを語る必要はないんじゃないかな。

 なおこのレベルで自分の目論見と相手の思いがズレることがあります。美味しかれと思って作ったけど、それほど美味しいと思ってくれなかったとか。でも、それはそれでいいでしょ。もっと好みに合ったものを作ればいいんだから。基本問題ないですよ。なぜならば、ここでは自分の利益(自己実現)と相手の利益(幸福)が一致しているんだから。真実相手を良くすれば、それだけ自分も良くなるという、他人=自分という関係なんだから。

 さらに客観的に相手にとってはプラスでも、相手の主観ではプラスになってないってことがあります。これは相手の評価能力がボンクラだってことですが、よくあります。教育系や子育ては大体これでしょ?親の心子知らずだもんね。その人(子)にとってプラスになることを親がやっていても(躾とか)、子供は素直にそれを感謝できない。出来ないどころか、「うるせークソババア」って悪態ついたり、逆恨みしたりする。だんだん大人になれば分かってくるけど、その時点では客観的なプラスであっても、相手の主観からはマイナスだという場合があります。

 この場合はどうするかといえば、結局、相手にプラスをするのが自己実現なんだから、そんなダメダメな評価能力しかない相手がどう思ってるかなんか、この際どーでもいいでしょ、馬鹿なんだからさ(笑)。馬鹿に媚びるのは政治家だけでええやん。結局本人のためにならんし。

 ただし、それだけに本当に本人のプラスになるかどうかが鋭く問われると思います。子育てや教育で常に悩むんじゃないかと思われるのはここです。ちょっと厳しすぎるのかな?いやこのくらいでいいのかな?間違った考えを押し付けているんじゃないかな?この子の言い分にも一理あるんじゃないか?とか。それを親子で一緒に考えていくって話になるでしょう。教えるということは教えられるということでもある、という教育の相互性ね。しかし、いずれにせよ、ここでは「相手がどう思うか」はそれ自体が正解やゴールではなく、客観的にプラスかどうかの一材料でしかないです。

可愛い自己顕示欲

 これも簡単で、女の子の前にカッコつけてみせるというよくあるアレです。
 女の子が、お化粧やファッションやあれこれ健気な努力をするというアレです。

 パブリック・イメージ管理に近いんだけど、そこまでプロフェッショナルじゃなくて、単なる「よく思われたい」「キャーキャー言われたい」「チヤホヤされたい」というスケベ根性で、これも誰でもある。

 これはもう純粋にどんどんやればいいと思いますよ。
 子供がヒーローもののコスチュームをつけて、「じゃーん!」と自分で言いながら登場するようなもので、純粋にやればやるほど可愛いし、憎めないし。

 誰だってカッコよくなりたんだよね〜、誰でもそうだよ、本音を言えば。それは別に悪いことじゃない。むしろイイコトだと思う。「ぬるい風呂には入(へえ)れねえ!」って江戸っ子のやせ我慢でもいいし、それも突き詰めたら武士道くらいになったりするし。

 カッコつけてる以上、その効果が知りたい。答え合わせのように知りたい。だから他人の視線が気になる。これは分かります。大体において、予想点よりも遥かに下回るんだけど、それもまた人生の一興。そのほろ苦さがいいんだよね〜。これ年食ったらわかると思うよ、「珍味」系だから。

 こんなの他愛ない感情なんだから、他愛なくやってりゃいいんだよって思います。無理して見栄張っていいよん。女房質に入れても初鰹を食うのが江戸っ子この心意気だって、それでハッピーになれるんだったらお安いもんですわ。イケイケドンドンですわ。大胆でセクシーなビキニだって、いったらんかい〜!ですわ。だって、楽しいじゃん。罪ないじゃん。

 ケラケラ笑ってればいいんだと思います。ただしケラケラ罪もなく笑うのが大人の作法で、そこでいやらしく嘲笑したり、皮肉っぽく笑ったり、卑屈な照れ笑いを浮かべたりするのはコドモです。助平な人間さまが、助平なことやってるだけで、もともとさー、そんなさー、大したことやってないんだからさー。リビドーにオーバードライブされた猿が「Hey, Hey〜♪」ってやってるだけなんだから可愛いじゃん。そこに過大な意味付けをするのは愚の骨頂だし、野暮ってもんだよ。

点検チェック機能

 これは身だしなみをチェックする鏡のような機能で「他人の目」を意識するという局面です。

 「はたから見たらアホやな」と自分自身の振る舞いをチェックするくらいの感じ。でも、まあなんのためにチェックするのっていえば、上述の環境適応技術やら、パブリック・イメージ管理やらに還元されていくので、独立して語るほどのこともないでしょう。

 まあ、親や配偶者から「叱られる」ような局面でしょうかね。「貧乏ゆすりするな」「音立てて味噌汁啜るな」とか、その種のお行儀系とか。これだって環境技術とパブリック・イメージなんだろうけど、ま、そこまで大袈裟ではなく、ナチュラルな佇まいとして、意味なくみっともない部分は矯正しましょうくらいの感じ。

 でも、これって口臭みたいに自分では気づかなかったりするので、そもそも他人の目を「気にする」って局面にはならないかもね。「言われてはじめて気づく」ような感じでしょう。その場合は、社会の窓が空いてますよ的なアドバイスとして、御礼申し上げておけばよろしいかと。また、そのアドバイスが違うじゃないかなと思うのであれば、「なるほど他人からはそう見えているのか」という環境適応&パブリック・イメージ管理における貴重な参考資料を無償で提供していただいたわけで、これも御礼申し上げておけばよろしいかと。

邪道系

 最後に邪道系があると思います。これが多いんだろうけど。

 話は簡単で、本当の意味で自分に自信が持てない、てか自分では密かに自分にきつ〜いダメ出しをしている人が、それでは寂しいので、他人に好評価をしてもらって、ちょっとでも浮かび上がろうという、いじこいというか、悲しいというか、そういう場合です。「ね、ね、俺、イケてる?イケてるって言ってくれ〜」みたいな。

 でも、これを「邪道」の一言で無慈悲に切って捨てちゃうのは何故かといえば、いくら他人から褒められようがなんだろうが、根本的な部分で自分自身にダメ出ししてるから、本質的な救済になってないし、だから意味もない。賽の河原の石積みみたいなもので、幾ら積んでもガラガラと崩れる。いくら他人に思い通り褒めてもらったとしても、肝心の本人が信じてないんだから、嘘に聞こえる。しょせんお世辞だろ、口先ばっかで、しょせん他人なんかってなる。めんどくせー奴になる。

 思うに「自信」というのは二段階の成長過程を経るのではないか。芋虫→サナギ→羽化みたいに。

 第一段階は「有用自信(交換価値、利用価値)」、第二段階は「存在自信(自然価値)」。
 まず、第一段階ですけど、自信のもとになるのは経験であり、経験の絶対量の足りない思春期は麻疹のようにコレになります。何も出来ない無力な自分がイヤになるから、なんでもいいから「○○が出来る自分」「イケてる自分」という証拠事実(経験)に、溺れるものが藁をすがるようにすがりつく。

 で、取り敢えず一つなんか出来たら(証明は一回でよろし)、さっさと第二段階に行くと。しかし、いつまで経っても第一段階で止まってる場合も多い。イケてると思ったらイケてなかったとか、ここではイケてるけど、ここではイケてないからとかウジウジやり始める。それがこじらせると「プライドは高いが自信はない」という風疹みたいになりますね。「韓信の股くぐり」の故事をひくまでもなく、自信があればプライドなんか別にいらんもんね。やたらプライドにこだわってる奴は、総じて自信がないよ。

 処方箋は、ひとつにはとにかく滅茶苦茶いろんな体験をしろですね。プライドを壊すにはボコボコにされるといいです。大概中途半端に頭が良いとか、そのくらいに生じがちですが、だから思いっきり上の世界に行って、バケモン達の百鬼夜行の世界に行けばいいです。圧倒的な実力差を思い知らされれば、クソみたいなプライドなんか消し飛びますわ。

 で、学べと。○○ができるから俺はスゴイみたいな、いつまでもガキみてーなこと言ってんじゃないよって。そんなもん相対的なものでしかないのであって、「相対に真理なし」ですわ。そんなもん何の自信の拠り所にもなりゃしないんだ、そこにこだわっていても無駄なんだって、いい加減気づけよ、早よ次いけ、次って。

 で、第二段階になるんだけど、ここでは何にも出来ないけど、すごくないけど、でも俺は価値がある、交換価値も利用価値もないけど自然価値があることを悟るステージですね。

「価値」っていうと大袈裟かしらんけど、「あ、私、別に居てもいいんだ」って。そのへんの裏庭に近所の猫がひたひた歩いてて、別にその猫は誰の承認を受けてこの世に存在しているわけでもないけど、でも当たり前のように存在している。その猫が白い猫だろうが黒い猫だろうがネズミを取ろうが取るまいが、そこに猫がいるというだけでもう凄い、もう尊い。このエントロピーだらけのクソ宇宙に、こんな秩序だった生命体がおって、黒曜石のような瞳をして、くわ〜っとアクビしてて、毛がつやつやで、もう存在自体が奇跡だろ。つまりは「存在=価値」なのだ。本当の本気で人やペットを好きになったら、そしてその人やペットに死なれてみたら、メチャクチャ悲しいでしょう。この世で一番大事なものが失われた気がするでしょう。何が失われたの?金?利用価値?違うでしょう、「存在」が失われたんだって。存在こそが価値なのだと、涙滂沱の中でイヤというほど分かるはず。

 あなたの親は(もしマトモな人だったら)最初っからそこしか見てないはず。また人が人を好きになるというのは、結局は自然価値の相互承認なのだと。こんなの幼稚園の砂場で履修済みだろ?ワケもなく親しくなった友達は、あれが出来なくてもこれが出来なくても、そこに居てくれることだけで好ましい。そんなの三歳児でも分かるぜ。それを年取ってから思い出して、「あ、そか」と再確認するのが大人になる通過儀礼だと思うよ。

 その自然価値によるナチュラルな自己承認が出来るか出来ないかがキモになります。普通ストンと出来ると思うけどね。自分だって同じことじゃん。その「自分はこの世に居てもいい」「存在するだけで価値がある」って感覚を本質的な意味で自然価値といい、それを腑に落ちるのが「自信」というのだと僕は思います。

 それ以外の自信って、多くは本質的ではなく、単純にメカとしての自分の機能承認くらいの意味でしかないんじゃない?この程度なら英語喋れますとか、メカニカルでしょ?自然価値の圧倒的なものすごさに比べてみたら、出来る/出来ないの価値なんざ、「夜光塗料塗ってます」「単三電池でも稼働します」程度のちょっとした機能差でしかなく、取るに足らん些事に過ぎない。ましてやそれを他人が認知するかどうかなんかどーでもいい。

 てことで、その自然承認が出来ないんだったら、そこが問題なんだから、カウンセリングでもなんでも受けたらいい。どっかに原因があるはずだから。見つかるとは限らないけど、でも探さなければ分からんわね。

結語

 以上がお答えになってるのか分かりませんが、「他人の視線」とかはプラクティカルに処理したいと思ってるので、あんまり問題にはなりません。技術的に問題になることはあっても(どういうデザインが受けるかとか)、その程度です。

 なお技術の問題や、単なるスケベ根性の問題はそれはそれとして分別処理して、聖域として残しておいた「ココロの領域」=感性一発の「いい/悪い」ですが、ここに他者が入り込む余地はないです。あるとしたら、恋愛においてその他人のことを本当に好きかどうかって事例だけで、それ以外は他人は関係ない。その味噌ラーメンが美味いかどうかは純粋に自分の味覚快感の問題で、誰が美味いと言ったとか言わないとかは出来るだけ除去すべきっしょ。それに惑わされたらピュアな快感が濁るじゃん。勿体ないじゃん。

 そして、ココロの領域における天から降ってくる御託宣=「あ、これ、いい!」って瞬発的な宝石感情は、他人はおろか「自分」すら入り込めないんじゃないかな?自分の存在や自意識すら無くなるんじゃないすか?めちゃくちゃ美味いラーメンを夢中になって食べているときって、「今ここでラーメンを食べている私」なんて意識しないんじゃないかなあ?ただただ味覚と、口と食道と胃袋だけの存在になっているという。本当に気持ちいいときってそんなもんだと思います。

 だから一番肝心な聖域やら神殿においては、他人はもとより、自分すらも入り込めないので(入ったら消えちゃう)、自分と他人の境界線なんて問題も自ずと生じようがないです。だって無いものと無いものの境界なんか意味ないでしょ?

 あと「自分から観る自分の視点」は、上記の趣旨と同じになると思います。局面別にチェックポイントが違うので、機能別に処理してます、と。





文責:田村