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今週の一枚(2014/10/13)



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Essay 692:20年後

「Gゼロ後の世界」〜明日死ぬかもしれないし

 写真は、つい数日前に撮ったGordonでの夕焼け。

 右は望遠で撮ったもので、ブレてますけど、なんかアフリカみたいな。鳥も飛んでるし。


10年後はわかっても、20年後は見当もつかない

 最近、APLAC卒業生用の掲示板、その中でもA僑掲示板などに書き込むことが多く、一般公開のこのエッセイとの区分けが自分の頭の中でちょい戸惑うこともあります。「あっちで書いたし、もういいか」「同じネタを二度書くのもね〜」みたいな感じ。まあ、向うはスレの流れに応じた意見であって「読み物」としては書いてないから、ネタの切り口は違うんだけど。

 その中で最近、「直近10年はどうでもよく、フォーカスすべきは20−30年後の中長期の未来だけ」って話を書きました。なんでそうなの?具体的にどゆこと?とか書き出すと、スレの趣旨から外れるし、ボリューム出てくるしで、こっちに書きます。

 「直近10年以内はどうでもいい」って理由は簡単で、どんなに世の中の進展が早かろうが、10年くらいは現在のシステムが曲りなりも通用していると思われるからです。例えば学歴社会であるとか、会社に入って給料もらって人生設計という大きな方法論とか、今現在でもだいぶヤバくなって、徐々に空洞化形骸化しつつあるんだけど、それでも、まあ、あと10年くらいはなんとか保つだろうよと。だから直近10年程度の話だったら、そんなに頭使わなくても良い。本気で考えるべきは20年後から先だと。

東大定員割れ

 「既にヤバイ」というのは、例えば、去年からの話ですが、東京大学法学部で定員割れをするという前代未聞の出来事が起きている。なんと東大法学部が初の定員割れ 法曹志望、公務員志望減少が影響か ( 週刊ダイヤモンド 2012年11月7日)、ビジネスマンが本音で評価 「使える」「使えない」大学(同誌  2014年10月10日 )なんてのがあります。学内進学で法学部を選ぶ人が減ったのは、司法試験受かっても、公務員になっても昔ほど良くないからでしょう。まあ当然の選択だと思いますよね。これが1年前。今年で二度目の定員割れを起こしていますが、今度はもっと傷口が広がってるようで入試レベルで東大人気が落ちている。一つは別にわざわざ東大までいかんでも地元の旧帝大系で十分という層と、東大ごときでは使いものにならないといってハーバードなどの海外名門大学に向かう層が増えてきたと。これもまあ当然の選択でしょう。

 これは東大主義の崩壊の兆候とも言えるし、もっと広く「大学行く意味あんの?」という学歴主義への懐疑の深まりとも言えようし、さらに広げれば司法試験や高級官僚など難しい試験を突破してあとの人生は安楽な〜という「難→安」「先憂後楽」的(本来の意味は違うから)発想の空洞化とも言える。かつて高難度の資格に守られていた象牙の塔も、地震が起きたり地面が液状化してきたら意味ないじゃんってことです。資格やキャリアの頂点においてすらこうなのですから、あとは推して知るべしです。「アテにならないよね〜」と。

 とはいっても、なんだかんだいっても、あと10年くらいは現在のシステムが辛うじて動いているでしょう。10年後でも目指せ東大とか言ってる人達は結構いると思うし、企業でも学歴で選ぶところは相当数残っているでしょう。ほんでも、本来でいえばトップ層だった連中が若いうちからボンボン海外にでていき、あっちで世界中の俊英達に揉まれ、20代でも億単位で稼げる職場や、目をランランと輝かせて理想を語るグローバル規模での営みを目の当たりにして、日本に帰ってくるか?です。いや、実際帰ってきたいという人は多いんだけど、今度は日本側に受け皿が無い。そういう人材を”日本的な”首脳陣は嫌う(まあ、そうだろうな)。

 まあ、この種のブレイン・ドレイン(頭脳流出)は、昨日今日始まった話ではなく何十年も前からある話です。でもノーベル賞クラスの人材ではなくても、普通の入試レベルまで裾野が広がってきたので、だんだん目に見えるようになってきた。一方でキャピタル・フライト(資産逃避)も密かに絶賛進行中だろうから、国を構成する二大要素(知能&資産)が逃げてゆく。毎日ちょっとづつ頭が悪くなって、お金が減ってるようなもので、あと10年くらいは勢いでなんとかなっても、20年になるとどうかな?という。

何がどうなるかわからん

 これはほんの一例に過ぎず、数十数百ある局面においても同じことが言えるでしょう。僕の親父はもともとは電気系の人で真空管のエンジニアだったんだけど、トラジスタの出現とともにパー。そこで「なるほど!」と悟って、以後細かく数えれば数十回以上の転職・転業を繰り返してサバイブしてきた。子供の頃、社会科の授業などで「お父さんの職業」というテーマになるといつも困ったもんです。「えーと、ウチ、今、何やってんの?」みたいな。

 「何がどうなるか分からん」のでどんな予想でも立てられるのですけど、例えばエネルギーとか資源問題。今、再生エネルギーで九電が買い取り拒否とかトラブってて、あれこれ報道されてますが、僕が思うに一番注目すべきは一部の民間が太陽光パネルをつけたら電力間に合っちゃったってことです。もう原発要らないどころか、火力も水力も要らないんじゃないの?。そりゃ実用化への諸問題はあるけど、多分このあたりは技術的・制度的に解決可能なんじゃない?てか、発電はOKだということなれば、あとは送電と蓄電で、特に蓄電(バッテリー)が高技術化していったらほとんど送電要らないから結構なんとかなるかもと。

 そうなると電力会社要らないんじゃない?になって日本経済の基幹構造の背骨がへし折れるようになるとか(そんなの絶対認めたくないだろうが)。あるいは資源問題をテコにして動いている国際ドンパチ情勢(中東とか中央アジアとか)もただのド田舎に戻ったり。でもって、クルマも電池で動くようになると(その他圧縮空気で動くクルマは既にタタやトヨタで出てるのはご承知のとおり)、いわゆる内燃機関というのが要らなくなって、自動車業界でもエンジン部門系はパーになるとか。でも操舵(ステアリング)や懸架(サスペンション)はやっぱり必要なので残るだろうとか、いや、タイヤそのものが無くなるかもとか。

 まあ、考えていけばなんぼでもあるのですよ。経済とは違うけど、これだけ非婚化と少子化が進んでいるなら、夫婦別姓以前に結婚制度自体がどうなの?同性婚のひろがり以上に、「性別」という区分け自体、セックス的にもジェンダー的にも意味が変わり、ライフスタイルや遊戯の一種みたいになっていってるんじゃない?日本でも男の娘ブームとかあるけど、あれって実は世界的な傾向で、”Emasculation and Feminization ”といい、白人だけではなく黒人にも広がってきています。気分一つで男やったり女やったりって感じね。

「Gゼロ後の世界」と「南から学べ」

 しかし、どんな予想も立てられるなら、どんな予想を立てても意味がないとも言えます。なんせどうなるか分からんのですからね。ただ、大体潮の流れはこんな感じかな〜という予想のレンジは立てられます。合ってる保障はどこにもないけど。

 最近「G-Zero world」というフレーズを良く目にします。もともとはIan Bremmerという政治学者が唱えたもので、その要旨はWelcome to the New World Disorderで読めます(googleのキャッシュアドレスだからいつまであるか分からんけど〜本ちゃんいくとログインしないと読めないので)。興味のある人は日本語訳の書物も出てます 「「Gゼロ」後の世界―主導国なき時代の勝者はだれか」です。

 要旨を簡単に言っちゃうと(簡単に言いにくいんだが)、これまでいわゆる先進国=自由主義&資本主義の国々が世界を大きく仕切ってた(G7)でも、だんだん力が衰えてきてロシアを入れてG8にして、それでもダメだからもっとメンツを増やしてG20にした。ところが「船頭多くして船山に登る」の例えの通り、メンツを増やすとそれぞれが自国の利益を主張するので議論がまとまらず、何も決められなくなる。共同声明でも「みんなでがんばろ〜!」って掛け声かけるだけみたい、ドリフの最後の「宿題やれよ」「歯磨けよ」みたいな。一方ではBRICKS系がIMFに相当するBRICKS銀行立ち上げて、ウチら勝手に自分らでやりますわって感じで抜けてG15になるとか。でももう決められなくなってる時点で「Gなんたら」ってシステムは崩壊しているじゃないの?だから「Gゼロ」だと。そして、その後の予想ですが、大きく言えばG2だろうと(アメリカと中国)。この両国が協力関係に立つのか、あるいは敵対関係に立つのかが一つの軸。もう一つの軸はその他の国々の力が強くなるか弱くなるかでもう一つの軸。この二つの軸で区分された4つの未来パターン(米中指導型、冷戦2.0型、全員参加型、勝手にそれぞれやる地域社会型)を論じているという。個人的には最後のパターンがやや優勢なんだけど。

 一方、Ram Charan(ラム・チャラン)という人が書いた「これからの経営は「南」から学べ 新興国の爆発的成長が生んだ新常識」も注目されています。これまでの議論というのは、しょせんはOECD先進国の前提常識に立ったものなんだけど、こういった前提に立ってない新興国(南)から新しいやり方が芽生え、それがこれからの世界を決定していく大きな要因になるだろうって話です。

 ここで、「南(新興国)っていっても、俺らの通ってきた道を通るだけだろ?」と先輩目線で見てると大間違いであると。前(Essay679)で紹介したケニアのm-Pesaなどは銀行が要らない決済システムというのを作ってしまい、それが世界中にどんどん広がっている。先進国的な大常識(=国やインフラを整備して→産業を振興というダンドリ)を無視して、インフラが整ってないからこそ、現場の自由の発想でガンガン未来を先取りできるという。

 そのあたりを「“フラット化する世界”から“傾いた世界”へ--Gゼロ後ともう一つの傾き」という記事で、電通国際情報サービスの飯田哲夫氏が平易に書いてくれてます。基本ポイントは、BRICKS銀行や、南の逆説的な先進性、そしてシェアリング経済で、そのあたりは既にこのエッセイでも紹介しましたよね。ま、世界はこんな感じで進むんじゃないの?と。

 しかしね、だからといって「おーし、そうかあ!」と何か具体的なことが分かるわけではないのですよ。「潮の流れはこっちだろうな」という極めて大雑把な話であり、また大雑把にしかなりようがないです。なんせ変数がむちゃくちゃ沢山あるので、どうにでもなるという。

じゃあ、どうすんの? 

 で、いつものパターンですが「対策」です。状況認識とか論評だけ言っててもあんまり意味はなく、そういった認識を前提にして、では、いつ何をすればいいのか?という具体的な行動メニューを考えなければ、自分の人生は前に進まない。

 でも、何でもアリみたいな漠然とした状況で、何をどう対策立てるっていうの?分からないなら無理じゃんって声もあるとは思います。んでも、意外とそんなことないよ。

「現状維持」の可能性はほぼ無い

 まず「どうなるか分からん」という認識の徹底です。今だって将来について「こうなっている筈」と無意識に決めてかかっている部分は多々あるでしょう。そいつを取っ外すという作業があります。

 先に述べたように10年後くらいならなんとか持続してても20年以降になるともう分からない。例えば年金が支給されるかどうかが危ぶまれてますが、年金だってオン/オフってアバウトな話ではなく、一応残っているけど額が激減されていたり(月額1000円とか)、額は変わらないけどそこから種々の特典が無くなったり、支出が増えたりして実質的に激減しているかもしれない。今70歳で年金貰って勝ち逃げだと思ったら、90歳になったときには事情がガラリと変わって「はい、打ち止め〜」ってパチンコ台みたいに終了しているかもしれない。

 20年後には、今勤務している会社が無いかもしれない、それどころか業界まるごと消滅しているかもしれない、そこまでいかなくても激しく様変わりしているかもしれない。業界も会社も存続しているけど自分が退職しているかもしれない。

オーストラリアの賃金
 そもそも日本経済がどうなっているかなんか誰も予想できないでしょう?何度も書いているけど、戦後から1990年まで日本のサラリーマンの初任給は大体「20年で3倍」になってきた。これ無茶苦茶な数字のように見えて、それが経済成長というものでしょう。

 実際、オーストラリアはそれを地でいっている。右に掲げたのはQLD州政府の統計ですが、オーストラリア全体で1981年に週289ドルだったのが、91年には556ドル、2001年に851ドル、2011年に1311ドル、最新の2013年には1445ドルということで、大体20年でほぼ3倍弱のペースでしょう?リーマン・ショックがあってもこのくらいは賃金が上がっている。でも、日本の場合はほとんど変わらない、てか実質賃金でいえば減っている。

 1990年時点(バブルの頃)の感覚で言えば、20年後(2010年)の初任給は60万円くらいになっているというのが、その時点での統計数値をもとにした非常に正確で信頼のおける未来予想だったわけですね。それがそれまでの「日本の常識」であり、それに基づいて全ての計算や政策(年金や保険、インフラ整備(公共投資)で景気刺激とか)をやってたわけですよ。インフラ増やしたらメンテ費用も嵩むから将来的に財政負担が増えるんだけど、その頃にはもっと金持ちになるから大丈夫さって発想。それが今でも国政レベルでは基本的にそんなに変わってないってところが凄いんだけど(^^)。

 だとしたら今から20年後の2034年頃にはまた同じようなことが起きてるかもしれない。「同じような」というのは3通りの意味があって、一つは直近20年過去と同じく全然変わらない(or漸減)という予想、もうひとつは先祖還りして急に元気になって20年後には初任給が3倍の60万円になっているという予想。最後は過去20年と同じくらいのギャップが生じるということで、「予想の3分の1になっている」という予想で、2034年の初任給は今の3分の1の7万円くらいになって、さらにその20年後には2万円くらいになって、、という話。ま、インフレその他で額面は変わるだろうし、物価も下がるから一概にいえないけど、そういう予想もないわけではない。まあそのどれでもない可能性もあるので(それが一番高いかも)、なんとも言えません。

 でも、何となく「今のまんま」20年後も続くように思いがちではないですか?将来もっと苦しくなるだろうなと漠然とは予想するかもしれないけど、イヤな想像だからこんなに詰めて考えない。考えたくない。で、なんとなく「このまんま〜」的にアバウト想定するということは多々あると思う。

 でも、それらを全部取り外す。そんな現状維持の保障はどこにもないよ、と。サラリーマンは絶滅危惧種と言われて久しいけど、本当に絶滅しているかもしれない。あるいは正社員なんか天然記念物みたいな存在になって、20年後の新入社員に「正社員って何ですか?」と、「検事と検事正は何が違うんですか?」的に聞かれたりしてね。

 それに、想定外の天変地異とか大事故もあるかもしれないしね。

 今とりあえず「20年」と言ってるけど、別に20年後に死ぬと決まったわけでもないから、その後も大事。今25歳の人が平均85歳まで生きるとしたら20年が60年になります。でも60年スパンになったら、もうぜーんぜん分からんよね。むしろ現在のものでその頃に残存しているのがどれだけあるか?です。味噌汁と温泉は当確だと思うけど、それ以外はどうかな〜?国家体制だって、今とは似ても似つかないものになってる可能性はある。江戸時代の人に日露戦争の話をしてもSFだと思うだろうし、そのくらいの飛距離があるかもしれない。

 ということで、何どうなるか分からないということは、同時に「現状維持ってことはまずないだろうな」ってことでもあります。少なくとも何もかも現状のまんまってことはまず無い。
 つまり今の制度や状況を前提にした人生設計とか老後計画なんてのは、その通りいったらめっけもん、僥倖レベルの幸運であって、全然違ってしまうことも十分にありうると。

現状アプローチとゼロからアプローチ

 こんな状況で何を立案するかというと、ばっと思い浮かぶのは二つのアプローチ。一つは現状前提アプローチで、現状を点検していって、最も変化しやすいものは何かを順次チェックしていく方法。例えば人口減や過疎化が進んでいったとして、今地方の〇〇市に住んで○○業を営んでいた場合、○○市の人口減少が予想通りいくと14年後には限界集落くらいになって、もう顧客の絶対数が足りなくなるから無理だと。実際にはその見込が見えてから急に減り始めるから、倍の安全係数をとれば今から7年後には破綻するから、あと7年で何をどうすればいいかを考えるとか。

 もう一つはゼロからアプローチで、現状は一切シカトする。今自分はどこに住んでどんなスキルがあってどんな仕事をして、、、ってのを全部チャラにする。で、何もかも失うと仮定する。そして、自分が最低限生きていくためには何と何が必要かを吟味していく。例えば、ホームレスになって餓死凍死だけは避けたいとするなら、とりあえず最低限の居場所&食料&治安であると。20年後以降においても、これらをより確実にゲットできる方法論は何か?です。

 例えばどっかの過疎の村の廃屋と耕地を早めに買い取って、自給自足体制が出来るようにトライヤルしてって方法もあるでしょう。並行して自家発電の設備やら、雨水を浄化する方式やら、暴徒が襲ってきたら困るから今のうちにちゃんと登録して猟銃でも買っておこうかとか。また適宜現金収入は必要だし、日本が期待できないなら、前に紹介したShapewayにようにネット一発で海外で生産して海外の顧客に販売するという、日本いながら日本スルーの方法論を開拓するとか。でも、その真逆に、自給自足っつっても素人農業に限界あるし天候一発で不安だから、むしろ勝機は人や物資の多い都会にあると見定め、且つライフラインがズタズタになったときに備え、食料の備蓄もスペースの関係で可能な限りサプリ系を集めたり、、、、

 なんか殆どSFの世界ですけど、ゼロから試算していくのも面白いです。それにただ生きてるだけじゃ詰まらないので、それなりに生きがいがないとならないんだけど、現状前提でやるよりも、ゼロから前提でやった方が面白いっちゃ面白いですよね。だからそれを20年以上かけて営々と積み重ねていくこと自体が生きがいになったりとか。

ありあわせが一番強い

 ま、いきなりゼロからサバイバルというのも極論ですけど、しかし、それが出来るようになっておいたら結構心強いですよね。

 それをもう少し薄めた、というか弾力的にしたヴァージョンでは、時代がどうなってもこの商売だけは無くならない、これが出来たら食いっぱぐれがないというものはどれか?とか。

 あるいはそれも流動するなら、てかこれが最強だと思うけど、いつでもどこでも置かれた状況を前提にして、「ありあわせ」でビジネスを立ち上げて食っていける才覚。なんで最強かというと、田舎ベースの自給自足プランでもアテが外れる可能性はあるのですよ。土砂崩れで埋まってしまいましたとか、昔の野武士のような暴徒に占拠されちゃいましたとか。都会サプリ系だって、サプリもろとも地震で埋まってしまいましたってことはある。でも、何がどうなっても、その場の「ありあわせの状況」を適当に食っていける力ってのは破綻が少ない。融通無碍。

 では、その能力はいかなる知識と技術によって構成されるかを考え、一つひとつ習得していくこと。僕がよくラウンドして所持金無くなってドボンしたらいいよ〜、いい経験になるよって焚き付けているのは、これです。無一文になってもサバイブできたというのは、おそらく人生最強のコツであり、最強の成功体験になるからです。これが出来たら世界で恐いものが減る。てか意外と簡単に出来てしまうんだけど、この「意外と簡単」ってことを肌身で体験すると人生の恐怖が減りますからね。

 これは具体的な物資の準備というよりも、ものの考え方のトレーングです。「何がどうなっても絶対しぶとく生き残れる」ためにはどうしたら良いのか、です。それを常日頃から考えておくと、例えば次の転職先の業界が見えてきたりもすることもあるでしょう。おし、ここで3年ばかり○○方面について学んでおこうとか。あるいは今の仕事だって、単につまんねー事やって涙金貰ってるだけではなく、ここが学べる,あそこがパクれるって要素はあると思うので、それをシタタカにゲットする。

 A僑とか唱えているのも起業の練習であって、向う10年は現状維持が続くんだから、あと10年は失敗し放題なんですよね。いよいよとなってもそこそこ就職口はまだあるから。で、スキルというのは失敗しないと身につかないから、あと10年でどれだけ失敗できるか、リハーサルをどれだけ充実させられるか、そこで「なるほど〜」という悟りを増やして、いよいよ20年後以降の本番に向かう、と。あ、11−19年までは過渡期くらいの感じね。

 それに起業というのは、立ち上げも相当難しいけど、継続させるのはその3倍以上に難しい。直近10年でなんか成功したとしても、それが20年後30年後残ってる可能性は、かなりゼロに近いと思います。もともとがニッチ狙いで、状況可変係数みたいなのが高い。いわば釣りみたいなもので、今日ここで釣れたから明日もここで釣れるとは限らない。だから直近10年は成功しなくてもいい、むしろ成功しないほうがいい。ただし、あまりにもダメダメだとメンタル的にメゲるから、メンタル維持程度に適当に成功するくらいが望ましい。

 でもメンタル太かったらそれも要らない。いつか紹介した(Essay 675:女神の席は空けておけ)、15年間で連続5127連敗(試作品)したジェームス・ダイソン氏のように、5000連敗しても平気で5001回目にチャレンジできるくらいメンタルぶっ太くないとね。

強制と自発の差は天国と地獄

 結局、先行きメチャクチャ不透明で、視界ゼロみたいな世界においては、単に生き残るだけでも結構な努力を要するし、それをやっていくことって、ある意味では面白いから、それが生きがいや幸福感の源泉になったりもするのですね。単に生きてるだけでもうハッピーだと。

 しかし、流れに押されてイヤイヤやってたら単なる地獄でしかないです。流れに押されるのではなく、自ら進んで流れていき、場合によっては抜き手を切って流れに乗りながら先に進むことが大事だと思います。こういうのって、後になればなるほど「もう、これしかない」と選択肢が乏しくなりがちだから、そうなる前に自分から一つでも多くの選択肢を思いつき、自ら選ぶという形でやっていけば良いかと。

 面白いか/苦痛かなんか、前にも書いたけど、感じ方一つです。無理やりマラソンやらされて地獄感バリバリのときもあれば、趣味で自分から走ってる場合もあるわけで、やってることは同じでも感じ方は全然違う。その分水嶺は、強制されるか自発的にやるかの差だと思います。だとしたら、同じことをやるにしても、自ら進んでやっていった方が苦痛は少ない。むしろ楽しくすらある。このあたりがコツになろうかと。

 ま、別に今すぐ直ちに動かなくても、「こうなるとああなる」と頭でいろいろ考えてるだけでも面白いでしょう。

明日死ぬかもしれないし

一番やりたいこと

 以上で今回は一応終わり。ここから先は個人的な死生観みたいなもので、これまでとは話が微妙にズレます。話の流れで、ことのついでに書いておきます。

 僕が思うに、融通無碍のありあわせとか、10年失敗とか、自発の楽しさなどよりも、もっと重要なことがあります。それは何かといえば、「これをやらずには死ねない」という、人生で一番やりたいことを最優先することです。

 なぜならば、20年後なら20年後として、その時点でも自分が生きてる保障はどこにもないからですよ。
 現在の年齢によって統計的に生存確率は出てきますし、20年後に死んでる確率はそれほど高くはないだろうけど、でもわからないのですよ。若いうちのガンの進行はやたら早いし、自分が事故るかもしれないし、貰い事故もあるでしょう。ぼさっとしている間に徴兵されて、ワケのわからん外地に飛ばされて、ワケのわからん間に死ぬかもしれない。あるいは、死にはしなくても、重大な後遺症を負うかもしれない。全盲になってしまったら、美しい風景も、好きな人の顔も見ることが出来なくなる。目が見えているうちが花です。また、そうでなくても20年後は今よりも確実に老化は進む。物事には年取ったほうが楽しくなる系と、年取ったら楽しくなくなる系があり(関係ない系もあるが)、若いうちに楽しんでおかないともう楽しめないって物事もあります。腹いっぱい食べる満腹幸福なんて胃腸が丈夫の間だし、それこそ糖尿病なんぞになったらキツいでっせ。食べたいもの食べられない。

 これは僕個人としては、この種の後悔だけは避けたいって意識は強いです。「あああ、やっときゃ良かったあああ」という後悔。もう手遅れ、絶対無理、宇宙の終わりまで待っても無駄ってこと。死ぬ間際に「畜生!」って思うのはヤダなあって。

 だから、先にやっておく。借金してでもやっておく(^^)。
 例えば、「孝行をしたいときには親はなし」っていうけど、やれるうちにやっておけです。「家族と一緒に過ごす時間」なんかもそうかもしれない。「こんなことなら、もっと、、、」って失われた後に思うのは本当に辛いんですよね。あるいは、友達でも恋人でも、妙に意地張ってギスギスしてる間に何かあったりしたら、「ごめんなさい」を言いそびれたとかいうのも一生心に残る。お通夜の席や仏壇で手を合わせるときに、それだけは思いたくない。

 何が恐いかって、僕はこれが一番恐いです。背筋がゾワワってするくらい恐い。この怖さに比べたら、生活破綻してホームレスになる方がなんぼかマシです。あんなん、まだやりようがあるもんね。破産して夜逃げして、捲土重来で立て直したって話はよくある。古今の英雄豪傑もそう。劉備も曹操も、信長も、暗い山中をただ一騎で逃げまくっている瞬間はある。

 したがって、もう明日死ぬくらいに思って、後悔のないようにやりたいことはやっておけと。

当たり前だけど身体が資本

 同時に、千変万化する将来において、もっとも変わらないのは自分の存在、フィジカルには自分の肉体でしょう。ウィルスみたいに他の個体を宿主に出来るんだったら話は別だけど、20年後もこの身体を使っている、という事実は変わらない。ここが壊れたら致命的に厳しいので、体調は万全に整えておくべしです。

 実際、経験でいっても30歳過ぎたら、スキル・キャリア獲得と健康獲得はほぼ等価以上の意味を持つと思います。だって身体が思うように動かなくなったら(老化によって絶対そうなるし)、本来の力が100あっても70や50に減ってしまう。ということは、本来年収1000万稼げる力があっても700万や500万に減るということでもあり、健康度30%アップは、年収30%アップにほぼ等しいだろうと。ま、こんな計数的にビシッと揃うもんではないけど、考え方でいえば、ね。もちろんこの健康には精神健康も含みます。上で述べたように、メンタル強かったら成功率や生存率が上がるから。

 だってさホームレスになりました、天災や戦争で焼け出されましたってときに、避難所までの20キロの道のりを踏破できなかったら、そこで死んじゃうわけだしね。まあ、これはわかりやすい極論だけど、ココ一番の勝負どころでは無理に無理を重ねる時期もあろうし、そこで集中力が途切れたら終わりってことはよくあります。これは受験と同じで、どんなに1年努力をしても、試験当日熱を出したとか、腹の調子が悪いとかいう些細なことでパーですもんね。泣いても泣ききれないよ。

40歳で死ぬと決めて

 なんでそこを強く思うかといえば、ずっと前に書いたように(Essay483)、17-8歳の頃に「俺は40歳で死ぬ」と一応決めてたのですね。別に死にたいとか思ってたわけではないけど、あんまり先が長いと一介の高校生には手が余るので、とりあえず40歳を一区切りにした。23年後くらいです。キリがいいし。まあ手頃なサイズだし。残された時間はそれだけだと刻限を切って、で、じゃあどうする?と。

 せっかく生まれてきてこれだけはやりたい、てか、こんな感じで生きたいってのは何?って考えて。それがたまたま見つけた司法試験だったんだけど、何よりも超難関だというのが気に入ったのですね。話半分の都市伝説で、当時の日本の司法試験は世界史上歴代三位に難しいとか(一位は中国の科挙、二位がいつぞやオランダのなんたらとかいう国家試験=要するによく知らん)。おー、すげー。燃える〜って。登るなら一番高い山でしょう。2番じゃダメなんですか?って、ダメに決まってんじゃん!2番じゃ燃えないじゃん!燃えるかどうか、それがポイントであって実利なんかどーでもいいんだわ。

 で、当時のクソ難しい状況で、平均合格年齢が28歳(大学十回生相当)、合格率1.6%かそこら、それも東大京大をはじめとしたドえりゃ〜お兄さん達の中の1-2%だから、凡庸を絵に描いたような都立高校生の自分に彼らの平均なんぞ出来るわけはない。だから平均28歳なら、自分は35歳くらいかなと思った。それだけの期間をかけて最難関のエベレストに登るぞ〜と。登ってから5年間実務経験して、そんで終わりと。いいじゃん、美しいじゃん、よし、そうしよ!決めた決めた〜!って。そう決めたらすごく心が楽になったのですね。やることが出来たから。

 ところがぎっちょん、25歳くらいで受かってしまったもんだから、時間が余ってしまった。こりゃあもう一発花火をぶち上げないと間が持たないなと思ったので、徒手空拳でオーストラリアまでやってきて、永住権取って、自分で起業してメシを食うというシリーズになって、それもできちゃったのが37-8歳。もうそっからは「余生」って感じです。そういう「チャレンジシリーズ」は終わりで、そっからはフェイズが変わる。

やりたいことをやる快楽と、やらないで終わる恐怖

 で、今も思うのですけど、明日死ぬことになったとしても、基本文句はないです。ま、文句はあるし、見苦しくジタバタしまくるとは思うのだけど、でも、一番恐れていた「畜生」はないなと。「無謀な挑戦」をやりきったことの満足感ってのはすごいすごい大きい。結果的に成功云々よりも自分の全てを出し切った快感ってのが、もう圧倒的なのね。なので、この先どんなにみじめったらしく野垂れ死にしようとも損したという感覚はない。まあ、しょうがないよねって納得感はある。十分生きたという感覚はあります。これ以上望んだらバチが当たるわってくらい。

 そうやってると、面白いもので、他の行動も同じようになっていくのですね。別に試験とかチャレンジとか関係ない局面でも、似たような発想になっていく。例えば、(昔の話ですけど)恋愛沙汰でも、告白するのにあんまりタメライはない。本気で好きになって言い出せなくて、見逃し三振ってのは、多分一度も無いんじゃないかな。振られるかもしれないって恐怖もあるけど、言わずに死ぬ恐怖に比べたらどってことないぜよ。ジジーになって死の床について「ああ、告白しておけばよかった」なんて思うのは真っ平だもん。だったら玉砕した方がなんぼかマシ。

 これが一時が万事で、基本「待たない」「我慢しない」と。いや実際には待ったり、我慢したりすることも多いですけど、意味のない引き延ばしみたいなことはしない。また行動もクッキリしてきて、鰻丼で松竹梅があったら、竹は絶対頼まない。松でいくか、梅で行くかどっちかしかない。この種のことで「穏便に済ます」と後悔すること多いですから。もちろん振りかかる火の粉のようなトラブルの場合、この「穏便」手法は「被害の最小化」という意味でアリですよ。でも、自分のやりたいことを「穏便」にしてどうするんだ?という。

 形を整えるとか、体裁気にするとか、他人からどう言われるとかも、どうでもいい。だって明日死ぬんだもん(笑)。どうでもいいじゃんか、そんなの。それよりも「これをやりたい」ってことをやったときの快感でしょう。その快感がいかに鮮烈で、いかに味わい深いか、それこそがポイントだろうと思います。

単に所要時間の問題

 こういうと「今さえ良ければいいのさ」という刹那的な快楽と思う人いるだろうけど、全然違うよ!そんな刹那的な快楽なんか、快感世界のヒエラルキーでいえば幕内にも入れない雑魚レベルでしょ?刹那系で魂が震えるほど感動したとか、滅多に無いもん。もしあれば、それは刹那でも価値あります。

 結局、「今でしょう?」的に直情断行することと、20年がかりで遠大に立案実行していくことが矛盾してるように見えるのかもしれないけど、これ全然矛盾してないです。「所要時間」が即時か20年かで違うだけで、「やりたいことをやる」「暴挙であってもやる」「暴挙の方が気持ちいい」って基本は同じです。

 人生つーのは、恐怖と快楽の二本柱があって、こういう恐怖は避けたく、こういう快感を得たいという両極がわりとハッキリ見えてるから、わかりやすいだけだと思います。でもって、「もっと気持よくなりたいな〜」という欲望を推し進めていくと、自然とそうなると。食材によって料理法が違うように、この快楽を得るには○年かかり、あの快楽を得るには今すぐ直ちにやらないとダメだという。酒だって10年20年熟成させないと美味しくならないものもあるでしょ。いきなり飲んじゃうヌーボーもいいけど、気が遠くなるほど寝かせるべき場合もあると。その判断基準は何かといえば、「より美味しいものを」「より気持ちいいものを」ということで、そこにブレはないじゃん。

大望快楽

 なお、20年がかりでやっていって、その途上で死んでしまったら意味ないじゃん?というと意味大アリです。そんな達成した瞬間だけが楽しいわけじゃないんだもん。やってる全過程に快感あるんだもん。むしろ最後の一歩、ゴールインの瞬間って意外と楽しくない。なんか残務整理みたいになってたりしてね。

 それにほんとにやりたかったら、他人から見たら超人的な努力をしているように見えて、自分では別に辛くない。楽しいし。そりゃ表面的には辛いけど、じゃあ辞めるかといったら辞めない。逆にいえば、本当に苦痛しかないんだったら、それって本当にやりたいことなの?って気もします。例えば友達と起業してなんかやります。その過程で、大嫌い奴に頭下げなきゃいけない局面があったら、頭下げますよね。そのこと自体は死にも匹敵する苦痛なんだけど、でもトータルではやりたいことやってるから耐えられるし、トータルでは楽しい。絶対この国に住んでやる、永住権取ってやるでやってて、でも英語の勉強が死ぬほど嫌いだとしても、でも家族のためならエンヤコラでしょう。死ぬほど嫌なことをやる快楽というか、別にM的な意味じゃなくて、ドーンと巨大な大望みたいなものさえあれば、それに包まれている幸福ってのはあると思います。

 ということで、やりたいこと、つか燃えられるものを見つけたら、もう勝ったも同然。どんな苦痛をも快楽に転嫁させる魔法をゲットしたんだもんね。



文責:田村