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今週の一枚(2014/10/06)



写真をクリックすると大画面(1680)になります



Essay 691:ネガティブな自惚れ   c/w Sailors BayとBushcare

あなたも私もみんな雑魚キャラ
 写真は、Sailors Bay。本文にまとめて解説してます。


Middle Cove 〜Sailors Bay


 画像の解説やってたら長くなったので本文に書きます。シドニー、ピクニックガイド。

202/208番のバス停
 先日、よく晴れた日に、久しぶりにミドル・コウブのセイラーズ・ベイまで行ってきました。シドニー在住日本人には有名な東京マートのあるショッピングセンターから、車で5分でいけます。

 自家用車を持ってなくても、バスがあります。このあたりは普通に通勤エリアだからなんぼでもある。
 GoogleMapで示すとココがバス停。ドンピシャで来るには202番と208番。どちらもCityのWinyard始発で、202番はココ(Northbridge Clive Park)が終着駅。208番はこのあとEast Lindfieldまでいきます。そこそこ本数は出てます。夜の23時まである。ま、ショッピングセンターまで歩けないことはなく(2キロくらい)、そこまでいけばもっとあります。

 所要時間は、時刻表によるとシティから27分。

 バスから降りたあたりが、トップの写真になります。

 そこからアスファルトの道をトコトコと2-3分下って行くと海に出ます。ボートハウスなんかがあり、大きなデッキ広場があって気分いいです。釣りやってる人とか、家族連れもいます。でも、人口密度低し。
 
Sailors Bay02
左:なんか箱根みたいな。  右:画面右側のマリーナあたりがSpit Bridge
左:水がめちゃキレイです。  右:桜のような木が。

 まあ、シドニーにはこんなところ腐るほどあります。永住権取った当初、仕事もせんと、Street Dirctoryという分厚い地図帳とにらめっこして、シドニー中あちこち行ってました。自然的にも、カルチャー的にも奥が深すぎて、1000年住んでも味わいきれないだろうなあって。僕がよく言うフレーズだけど、大袈裟じゃなくてそう思う。

 よく留学先や移住先の選定で、「シドニーは都会過ぎて〜」とか思ってしまう方いらっしゃるでしょうが、コレを見てからモノ考えてねって言いたいっす。摩天楼があるシティ(サバーブ名が"Sydney"、郵便番号2000番)のエリアは、たかだか1平方キロ程度でしかないです。よくて2平方キロ。だって2キロ×500メートルくらいしかないもんね。いわゆる「シドニー全体」(greater Sydneyと呼ばれる一帯)の面積は1万2140平方キロ。あんな部分、面積比率でいえば1万分の1程度でしかないです。100×100の方眼紙の一マスくらい。


 さて、以前来た時にはもっと林が生い茂っていて、バス停あたりから海が遠望出来るなんてことはなかった。だから当てずっぽうで降りて行って、海をみつけてガビーンという感じだったんだけど、今はスカスカになっている。このあたりの林の手入れはどうなっているのか?と、ふと興味が湧きました。

 ご存知の方も多いでしょうが、オーストラリアは山火事が多く、それゆえ植物相も山火事を織り込んで出来ている。山火事で燃えることで播種するというサイクルになり、それが生態系になっている。だから定期的に山火事がおきないと彼ら(植物)はむしろ困る。でも、やたらめったら山火事が起きたら人間が困る。そこで、生態系保護と人間保護の折衷で、ときどき人工的に燃やしたりするようです。時々立て看板で書かれていることがあります。例えば右の写真。これはBalls Headにあった看板です。

 ここもそういう感じなんかなあって、調べてみたら、まずこのあたり一帯を仕切るWilloughby Councilのページの中にClive Parkの解説がありました。

 さらにその文中のリンクをたどると、Bushcareのグループがありました。地元の山林や生態系を守る、自然保護のボランティアワークですね。

 でもって、ウィロビー・カウンシル(アバウト東京の一つの区くらいの広さ)のなかに、「39 Bushcare groups, 6 Parkcare groups, 3 Streetcare groups, 1 Lanecare group, 1 Creekcare group, and 1 Plant Propagation group」があるそうです。むちゃくちゃありますね〜。もう仕事やらせたらダメダメなくせに、ボランティアやらせたらこの国は凄まじいですから。

 で、カウンシルは何をするかというと、「サポート」です。"Council provides free direction, training, technical advice, tools, plants, newsletters, celebrations and other support."ということで、メインは民間活力ですね。三々五々、皆勝手に公共のために良かれと思うことをやり、行政はそのサポートをするという。

ブッシュボランティアカレンダー

 右にダウンロードしてきたイベント&セミナーカレンダーの今月分を掲示しておきますね。これがまた年がら年中なんかやってます。今月だけでも8つくらいやってますね。これは各グループの作業日程ではなく、カウンシルレベルの啓蒙活動というか、生涯学習というか、なんなんだろ、ともあれ環境に関する身近なセミナーやら遠足やらです。この水曜日にはgarigal national park(Narabeenの方)まで行き、木曜日はMt Annanの植物園まで行くのか(Cambeltownの近く)。時間も長くて3-4時間程度のもので、気軽に参加できます。

 この種のイベントって、探せば無限といっていいくらい出てきます。日常に変化をつけるとか、英語の実戦勉強としても最適だと思われます。

 以下、YouTubeにあった、このミドルコウブで頑張ってる North Arm Bushcare Group の活動ぶりビデオを入れておきます。



 ほんと地元の普通のオージーの普通の英語って感じで、面白いです。キャプションもついてます。もっとも、聞いてたらこのキャプション、結構間違ってますけど。多分あんまり聞き取れないだろうけど、気にしないでいいです。僕も分からんもん。植物の名前とか固有名詞が入るし。

 途中で説明がありましたが、木を切っているのは山火事による生態系保護というよりは、近くまで家を建ててしまっているので、その資産保護のためにやってるみたいですね。

ネガティブなうぬぼれ

 さて、話は変わります。
 世の中にはいろいろな考え方がありますが、最近ふと思ったのは「ネガティブなうぬぼれ」です。

 普通、自惚れ(うぬぼれ)ってのはポジティブにやるものですが(〜私みたいなイイ女が、とか)、それをネガティブにやる。

 どーゆーことかというと-------。
 例えば僕が日常やってる現地でのシェア探し作業でも、アポの時間に行ったら誰もいませんでした、電話しても出ません、すっぽかされましたって事態は、まあ、普通にあります。そのとき、「僕の英語がメロメロだから、こいつと会っても意味ないと思ってシカトされたんだ」とか思ってはいけない。ましてや「アジア人だから差別されたんだ」とか、日本人だから嫌われてるんだとか、、、、果てしなく続きますが、多くの場合、まあ歩合99%で思い過ごしです。

 事実は、おそらく、単にオージーがいい加減だった、ということだ思います。
 もうねー、ほーんといい加減だから。でもそれも無理ないのよね。これは前にも書いたし、よく口頭でも言うけど、ずっと前にウチのシェアメイトが車売りますの広告出しました。本人は旅行行っちゃって留守中僕が電話を受ける羽目になったのですが、70本くらいかかってきました。そして、テスト・ドライブするアポを取るのだけど、まあ、来ない。ざっと半数は来ない。来たと思ったら1時のアポのくせに平気で4時位にきて、でも"Sorry"もなにもなく、大きく手を振りながら、抜けるような快晴の笑みを浮かべて「ハロー!」って無邪気にやってくる。もう悪気ゼロ。怒る気力もなくなる。

 そんな現場の状況では、こっちもクソ真面目に待ってても仕方ないから、もう銀行でも買い物でも行きます。で、たまに向こうが時間通り来てて待たせたら、こっちが「ハロー」って快晴の笑みをプレゼントするという。それで世の中廻っているんだわね。

 だから、いちいち英語下手だからとか、日本人だからとか、そんなことで差別とかクソ面倒臭いことなんかしません。もしそれが本当に問題なら、アポとる時点でちゃんと言ってくれます。どこの誰とも知らない人にそんなセコい意地悪して何がどうなるものでもあるまいって。

 しかしそうは思えず、「これはきっと僕は差別されているんだ」「皆に嫌われているんだ」って思い込むのは、一言でいえば自意識過剰です。
 そして、もっと言えば自惚れです。


 そんなねー、英語もろくに分からん、右も左も分からん、金も持ってない、絶世の美形でもない、川に群れているメダカのような、しらす干しのような、”ひと山なんぼ”の存在に対して、いちいち意地悪も差別もしませんわ。てか、そもそも個体認識してくれているかどうかすら怪しい。つまりは意地悪されるほど大物ではない、ということです。

 だもんで、うぬぼれてはあかんよ、アンタ、そんな大物ちゃうで〜。
 つまりは「ネガティブな自惚れ」であると。

青春期のうぬぼれ

 でも、これ考えてみたら良くあるんですよね。特に自意識が屈折しがちな青少年期は。

 誰でも大体そうだけど、この年代はコンプレックスの塊です。よく考えたら大したことでもないのに、「もう死ぬしかない」「俺の人生は終わった」的に思う。そんなさー、死ぬの生きるの気張らんでもええやん?放っといても時間が経ったらいつかは死ぬんだからさ。いわゆる「時が解決する」ってやつで、「時」に任せておきゃあいいんだよ。「お時間で〜す」と言われるまでは、安心してのさばってなさいな。

 通学のバスに乗ってても、ちょっと離れたところにいる女の子の2−3人連れにチラチラ見られている気がしたり、くすくす笑われている気がしたり、ときどき「ぶーっ!」って吹き出されたりして居たたまれない思いをするとか。あなたも多分そうだろう。大丈夫だ、マイ・フレンド、俺もそうだった。

 ちょっと年を取ってみたら、そんな幻想醒めます。
 大人になって仕事しはじめてバス乗ってる時、ふと、そういう状況らしき現場に出くわすわけだけど、笑ってる方は全然別の理由で笑ってたりするのがよくわかる。

 よっぽどヘンテコなカッコ(ウルトラマンの着ぐるみとか)や全裸で乗車するとかしない限り、そんな興味関心の対象にはならない。人というのは、興味関心を惹かない他人など路傍の石ころのようなものであり、いないも同然。それはこっちも仕事中で、未済案件やらヤバイ案件やらで顔も頭も蒼白になってるときなど、バスで乗り合わせた中学坊主やら小娘やらは視界から消えます。山を遠望した時の樹木の一本一本程度の存在。風景の一つ、なんたらピクセルの画像のドット一つでしかない。いや、「くわ〜!やっべえ〜、どうしよう?」とか深刻になってる時は風景ですらない。

 他人の意識なんかそんなもんだし、自分の意識もまたそんなもん。
 嘘だと思うなら、今日乗った電車バスで見かけた他の人の顔を全部思い出してください。何人思い出せますか?よほどなんかないと一人も思い出せないんじゃないですか。飛行機で10時間隣の席に座ってた人だって、しばらくたって顔を思い出そうとしたら思い出せないでしょう。「くそお、領空侵犯だぞ」と一晩中ムカついていても、機体から降りたらもう忘れている。


 まあ、なんかの拍子で、ふとそのときの印象が強烈で何年たっても思い出せるという場合もあります。だけどそれは国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」という作品の世界で、なんで覚えているのか全然理由がわからないんだけど、なぜか覚えている風景っていう話です。不思議だねえって、まるでユングのシンクロニシティみたいな世界での話です。

 あとはその後、仲良くなったり腐れ縁になったり「それが○○との最初の出会いであった」とナレーションが入りそうな場合。だけど、そんなこと滅多にないよな。そんなに毎日誰かに出会って終生の友になってたら、1年で365人、10年で3650人、50年で1万8250人。年賀状出すのも大変だわ。

 だから99.9%が行きずり。流れ去っていく回転寿司みたいなものです。気にするだけカロリーの無駄。

ワタシは雑魚キャラ

 ということで、ここでハッキリ&クッキリ認識すべきだと思います。

 自分は他の人間にとっては、取るに足らない雑魚キャラなのだと。
 いや、雑魚キャラですらない、単なる背景画像でしかないのだと。

 自分の人生にとって自分は大事です。もう「地球よりも重い」どころか、全宇宙よりも重い。自分が死ぬのも、全宇宙が消滅するのも主観的には同じことですからね。だから自分にとっては超メインキャラ。スーパーヒーローが自分。でも他人からみたらそうではない。彼我の認識の違いは、優に宇宙一個分くらい違う。

 なぜなら、他人だって同じように”自分”が全てみたいに思ってて、それで視界の95%くらいは占めているんだもん。

 だいたい赤の他人にかけるエネルギーは、いいとこ5%くらいでしょ?それでも多いかな。金銭に換算すれば、年収300万円のあなたが、5%だから年間15万円ですね、これだけの金額を他人のために遣ってますか?募金とか寄付してますか?お金貸したり、おごったりしてますか?3万円もやってないんじゃない?ほら、1%もいかないじゃん。その程度の存在なのだ。

 そりゃその場その場では、論評したり、賞賛したり、嘲笑したり、罵声を投げたりするかもしれないよ。でも、いつまでも根に持って、、ってことは少ない。順行健忘という人間の記憶メカニズムからいって、よっぽど何かないと記憶に定着しない。短時間記憶にはプールされるけど、長時間記憶のプールには移行しない。そんなに何もかも簡単に覚えられたら、英単語だってもっと楽勝に覚えられるでしょうに。

 思春期事例でも、仮にバスの女子高生達が、自分の風体がおかしい(寝グセの髪がおもしろいとか)で笑うことはあっても、まあそれだけの話です。「箸が転げ落ちてもおかしい」って年頃なんだから、なんも可笑しくなくても笑えるんだし。だけど、その場でキャハハと笑っただけの話で、あとはもう忘れているよね。それだけのことですわ。

恥の文化の履き違え

 日本は恥の文化とかいいますが、一般に用いられているのは、本来の意味とは違うんじゃないかって気もします。

 もともとは武士道とか石田心学とか、「人の道に反するな」という点にあったはず。仁義礼智に反するな。そして、誰に対して恥ずかしいかといえば、それは「天」でしょう。「天道」であり、「お天道さま」でしょう。そして主観的には、その天道を認識する自分です。「お前は今、人として恥ずべき振る舞いに出ているのではないか?」と自問自答することでしょう。

 それがいつしか、「天」が「他人の目」「世間」にすり替わった。これは決定的な歪曲だと思いますね、マジに言えば。

 「天」(神様でもいいけど)は絶対誤魔化せない。何もかもお見通しなのが天/神であり、そして最後にレジで精算をするように登場するのが閻魔大王であり、こんなのどう考えても誤魔化せるような気がしない。だからもう真面目にやる以外に方法はない。

 それが「他人の目」にすり替わったら、どうか。これは誤魔化せる。実物以上に良く見せる余地もテクニックもある。そうなると本当はダメダメなんだけど、イケてるかのように表面だけ粉飾するというセコい作業が常態化してくる。誤魔化しとは見栄であり、虚栄であり、それは嘘や偽装に連なっていく。

 もう全然違うよね。天に対して恥ずかしいと思うならマジにちゃんと生きようとしますが、他人の目を誤魔化せばいいんだってことになれば、要するに嘘が上手になればいいわけだし、嘘に嘘を塗り固めるようになってどんどんズレていく。天国に昇るか、地獄に落ちるかくらいの真逆ベクトルなんだけど、それを味噌糞いっしょに「恥」という言葉で一緒くたにしているように思います。

自意識=虚栄

 この虚栄に微妙にリンクしてくるのが自意識だと思います。
 「恥」のベクトルと同じように自意識ベクトルが「天」あたりに向かっていれば問題は少ないでしょう。神様と一対一のタイマン張るような構造になるから、ほんとの自分しか持ち出せない。

 しかし、恥=対世間になってしまうと、自意識も「世間からみた自分」になってしまう。世間的な尺度でスペックが揃ってるかとか、クラス内のヒエラルキーがどうのとか、もうサラリーマンの課長代理と課長補佐と課長心得とどっちが偉いかみたいなイジこい話になりがちです。

 これってある意味では神様よりも厳しい。天/神様というのは人間の本質的なことを裁断するわけで、正直に生きてないとか、思いやりが足りないとか、本質的で抽象的で、ある意味文学的で、ともすれば大雑把でもある。ところが対世間の場合、髪型からファッションから学歴から職歴から、頭の天辺からつま先まで、ネイルアートの爪先まで細々とスキャンされちゃったりするから気が抜けない。

 そこで戦々恐々としていっそう「研鑽」に励んで隙のない自分(外面)を構築する。そこでありのままの自分で常に勝負ってやればいいんだろうけど、世間は誤魔化せるから、ついつい安易なお化粧をしがち。かくして身も蓋も無く言えば「せっせと偽装に励む」という話になりかねない。さらにそれが自意識にリンクされるから、自意識すらも偽装の影響を被る。つまり「他人に笑われない自分」をいかにキープし、メンテするかが自意識の内容になったりする。

 そういう構造においては、バス車内でどっかの女の子に失笑されるというのは、単純に恥ずかしいという感情レベルを超えて、偽装バリアを突破され、自意識の中核まで被弾することなり、ちょっとした自我崩壊にも波及し、ほとんど死刑宣告みたいに受け止められ、もう死ぬしかない状態になる。恥=世間に認められない=自我否定という。すごいバイパス回路になる。

世間=自意識のアホらしさ

 結局何がアカンのかといえば、自分の評価基準を世間に預けちゃってる部分でしょう。世間から賞賛されれば自分はOKだと思い、世間から非難されれば自分はダメだと思う。世間=最高裁みたいな。そして、自意識=世間に受け入れられている/いない自分という形にしちゃうと、さらに困った話になると思います。

 一つは自意識が世間の大きさまで肥大化するということであり、もう一つは、世間が自意識の大きさに矮小化されるということです。だって両者をイコールで結んでしまったらそうなるよ。

 結果として世間のこともちゃんと見えなくなるし(自意識に引っ張られる)、自分のこともちゃんと見えなくなる(世間視点に引っ張られる)。

 ここにネガティブなうぬぼれが生じる原点があると思うのですね。
 自意識と世間がリンクしているから、実際以上に自分が世間から注目されているかのように錯覚する。誰も気にしてないのに、自分だけが「もう終わりだ」と落ち込んでいるという。

 はい、ここで、再度確認しましょう。
 世間(他人)からみたら、自分なんか取るに足らない雑魚キャラなのですよ。雑魚キャラ以下の背景画像でありドットの一つに過ぎない。ふつーにクールな客観でいえば、世間はあなた(自分)のことなんか気にしてないです。タラコの粒々の一つみたいなもん。「世間に対して恥ずかしい」もなにも、世間はあなたなんか評価の対象にもしてないし、そもそも見えてません。それが現実。それがわからなくなっているという時点で、世の中がちゃんと見えてない。自意識という主観に引っ張られて客観認識ができてない。

 わかりにくいかもしれないので、もっかい言うと、あまりにも世間を気にして、世間に合わせて自分を作ってると、世間と自分がごっちゃになってくるということですね。そうなると、自分が世間を気にしているくらい、世間も自分を気にしているという妙な錯覚が生じる。その錯覚が(ポジティブな)自惚れを生じさせ、表裏一体にネガティブな自惚れをも生じさせる。「思うほど見てくれもせぬ踊りかな」という川柳があったと思いますが、自分でカッコつけてやってても、自分が思うほど世間は注目してくれていない。このポジティブな自惚れは気づきやすい。しかし、世間に恥をかいた、もうダメだと思っても、実は自分が落ち込むほど世間は気にしてないというネガティブな自惚れは気づきにくいんじゃないかってことです。

 朝、遅刻しそうになって慌てて、右に黒の靴下、左に濃紺の靴下を履いてしまっていたというありがちなミスをします。途中で気づいて、もう恥ずかしくて世間に顔向けが出来ない〜、皆に笑われている〜とか思うんだけど、誰も気づかないって。自分だって、地下鉄の他の乗客の靴下の色の違いなんか気にしてますか?ましてや黒と濃紺なんか見分けつかないわ。仮に気づいたところで何とも思わんよ。それなのに「もう、顔から火が出るくらい恥ずかしくて〜」とか言う。Who do you think you are? 何様のつもり?

実戦と応用

 以上を踏まえて実戦・応用編です。

 てかそんな大したことではないですけど、例えば僕の場合はどうやってネガティブ自惚れに気をつけているか。

 APLACのHPってもう17年くらいやってるのかな。最初から実名、実住所で全部やってます。こんだけ毎週好き勝手書いて、自宅の住所も何もかも明らかにしてたら、炎上とかイタズラメールが山ほど来て、自宅に火をつけられ、路地を折れたら待ちぶせされてボコられ、、、なんてことは全然心配してません。

 なぜなら、別に誰も読んでないもん、こんなの。それは有難いことに一定数の読者の方がいたり、時折ありがたいメールを頂いたりもしますが、まあ、いいとこ数百人レベルっしょ。それでも自分にとっては過大な数字ですけど、しかし世間一般に危惧するほどの存在ではない。リスクがどうのってレベルにすら到達してない。それを気にするのは、少なくとも僕ごときが気にするのは、うぬぼれでしょ。身の程を知れ、ですわ。

 犯罪系のリスクも同じで、犯罪というのは刑務所リスクを犯してまでも行う、非常にハイリスク・ハイリターンなビジネスなだけに、やる方も真剣です。少なくとも窃盗強盗の利得犯と呼ばれる類型はそう。ではそこまで超真剣な人達が、僕のような貧乏人を襲ってなんか得するのか?ペイするのか?というとNOです。そりゃ出会い頭でってことはあるかもしれないけど、少なくとも「つけ狙われて」ってことは無い。誘拐するにしても、もっと金持ちを狙うでしょう。

 一方怨恨系はどうか?B型丸出しの言動が他人を傷つけ、怨恨を生じさせ、いつか復讐されるリスクはあるか?無いと思いますね。それほどの影響を他人に与えられるほどの存在じゃないですから。でもそんな怨恨とか個人リスクの問題としてではなく、「お天道さま」的に、人としてどうなの?ってレベルで傷つけないようにはします。でも、ある程度はしょうがないという割り切りもあります。慮るあまり事実を歪曲してはならないって思うし、キツかろうが言ったほうが良いという場合は言うし、そのあたりは利益衡量です。でも、リスクの問題として処理することはしません。

 あとは思春期で激しく思ってた見てくれとか他人に笑われる云々ですが、こんなの30歳過ぎたらどうでもよくなります。なんでかといえば、30年もあれば、普通に自信もつくし、普通に世間も見えてくるし、世間と自意識の分離ができてくるからでしょ。カッコよくはありたいと思うけど、何をもって良いとするかの判断権を他人に渡すつもりはないです。そこは傲慢ですね。このレベルでの「うぬぼれ」とは自己と世間の評価のズレではなく、自己評価と自己評価のズレです。昔はこういう部分がカッコいいと思ってたけど、よく考えたら全然カッコ良くないわ、アホか俺はって感じで自惚れが生じ、それを訂正するという感じ。

居ても居なくてもよい存在


 何度も言うけど、自分は他人にとってどうでもいい存在である。
 どうでも良くないと思ってくれるのは、非常に親しい、家族とか良き友とかそのくらいであって、そういう人達は遠慮無くボロカス言ってくれるし、自惚れなんか生じる余地がない。そんなもんが生じる余地があるなら、それは良い関係ではないとすら言える。

 よって、地球上の99.9999....%の人間にとって、自分はどうでもよい存在である。
 居てもいいし居なくてもいい、どっちでもいいような存在。

 そこで「居なくても良い存在」って部分に着目して「自分なんか無価値なんだ」と落ち込む必要は毫も無い。
 「居なくても良い」ってのは、そいつのために何かしてやらきゃならない義務もないってことなんだから、楽でいいじゃん。I'm free!ですよね。

 さらに「居ても良い存在」って部分に着目すれば、「あ、居てもいいんだ」って思って、安心して、猫の昼寝のように長々と寝そべって、猫のように背骨をミシミシいわせて大欠伸をしてればいいのさ。

 そして「どっちでもいい」んだから、良い方を選べばいいだけじゃん。
 どっち選んでも悪い話じゃないし。

 ということで、「お時間でーす」が来るまで、のさばらせて貰うぜ。
 カラオケBOXの室内電話が鳴るまで、好きな歌を歌ってりゃあいいのだ。



文責:田村