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今週の一枚(2014/09/22)



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Essay 689:「面白さ」と「しんどさ」の境界線

 写真は、先日Berowra Ferryにいったときに撮ったものだけど、こんなのオーストラリアで一番ありふれた風景でしょう。オーストラリアはコレが基本。そこに人なんぞが写ってたら心霊写真のように非常に珍しい!という。それがオーストラリアの真実というか、単なる”事実”。そのあたりは、面積的に圧倒的大部分を占めるアウトバックを旅してみたら、嫌というほどわかると思います。



 今週はしょーもな漫談トークみたいな感じでいきます。
 落語みたいに「しかし、ナンでございますねえ」で話がポンポン進んでいくやつ。

ITは農業だ


 最近ちょいヒマができたので、せっせとホームページの見た目リニューアルをやってるのですけど、今更ながらJQueryを使って背景画像をいじってみたり、とか。このページに施してみると、こんな感じになるやつ。

 で、あれこれ悪戦苦闘しながら思ったのは、「ITというのは農業なんだなあ」ってことです。

 もうね〜、田植えのような、雑草取りのような。ひたすら地味、地味、地味な作業。「コレとコレをタグで挟んで」「タグで挟んで」「挟んで」「挟んで」、、って、クソ地味な単純作業の連続。でもって、どっか間違ったら動かなかったり、「.」ひとつ削除し忘れたらレイアウトがグシャッ!って崩れて、「あーもー!」で、どこが間違ってるのかまたひたすら検証するという。これが辛い。

 ITとかコンピューターとか、最新鋭のテクノロジーとかいうと、カッチョよさげでスマートなイメージなんだけど、実際にやったら、これがまた長靴はいて膝まで水につかって、、という泥臭い世界なんだなあって。だからIT業界とかいうけど、要するにあれって「お百姓さんの集まり」なんだなあって。ほんとかどうかわからんけど、ここ数日間の些細な経験範囲で思ったのは、それです。

 いやあ、そんなことないですよ、プラットフォームの基準争いとか、それはそれは高度に政治的で経済的なステラテジー(戦略)とタクティクス(戦術)があって、、、とか言われるかもしれないけど、そんなもんお百姓さんの世界にもあります。

 やれ農協の方針がどうとか、組織内の派閥がどうとか、やれ都市計画法やら住宅整備やら、いわゆる「ノーテン(農地転用)」に関する農地法4&5条許可申請とか、そこに農業委員会の許可がいるから地元の顔役が出てきて、東電の送電鉄塔と山林の借地権やら地役権やらでまた地元の顔役が出てきて、そこで補償金やらが跳ね上がって、原発誘致するとなったら地元の(以下同文)、農薬メーカーと農水省と農協がどうしたとか、バブル崩壊後のノンバンクと同じく常に破綻寸前と言われている農林中金がどうしたとか、そこに自民党の集票基盤があって、でも最近はTPPとアメリカ絶対服従で自民が農協を切り捨てようとしてるとか、、、、それはそれは「高度に政治的で経済的なステラテジー(戦略)とタクティクス(戦術)」があるわけです。

 なんつっても奈良時代の律令国家の形成期から、やれ三世一身の法やら墾田永世私財法やらあって、平安貴族の荘園があって、武家の勃興になった新田開発と一所懸命・本領安堵の経済論理があって、、、と、土地と人間のうんざりするほど緊密で面倒臭いつながりというのは優に1000年以上の歴史とシガラミを持つ。昨日今日ポッと出のITごときの比ではないという気もするわけですね。

 しかし、まあ、そんな天空をよぎる雲のような上層部の動きとは無関係に、日々の生活風景としては大地に向かって黙々と鍬を振りつづけるだけ。それはディスプレイに向かって黙々とタグを打ち込み続ける生活風景に似てるなあ〜って、それだけの話でした。だもんで、ITやっておられる方が転職されるのであれば、農業関係なんぞが意外と適性あるのかも?という、無責任きわまりないことも思うのでした。本気にしちゃダメだよ。

クリエイティブ?


 しかし、なんでございますね、考えてみたら仕事なんざ、大体このパターンなんですよね。地味に黙々と単純作業をするという。餃子を作ってるみたいな、具を入れて〜、指で水つけて〜、周囲ウネウネやって〜、その繰り返し。

 よく「クリエイティブな仕事」とか言いますけど、あれもどうなんでしょう。
 中学だったかの美術の時間に、スラーという画家さんで有名な「点描画」というのを描かされまして、要するに画面全体に小さな点々を筆で描き込んでいって遠くから見たら絵に見えるという、マスゲームや人文字を人力でやるような作業なんですけど、これが超がつくくらい地味。途中で「だー!」ってちゃぶ台返しをしたくなるくらい。点描画に限らず「おおっ!」と驚くようなアートの大作でも、その製作過程を想像すると、おそらくはひたすら地味な単純作業の繰り返しだったんだろうなって思われるものが多いです。ピラミッドだってそうですよね。クリエイティブなのは、ああいう建造物を作ろうと思った着想&設計部分だけで、あとはひたすら石運び。99・9%は地味作業の集積でしょう。

 「クリエイティブ」というのはちょっと違うかもしれないけど、テレビや映画で派手なイメージのある刑事さんの仕事だって、あちこち走り回ったり、カツ丼を食わせながらしんみり落としにかかるとかもあるんでしょうけど、実際に事件にかかわってみると、その業務の7−8割は書類作成でしょう。もうなんつってもお役所ですから。供述調書くらいだったらまだドラマチックですけど、ちょっとした交通事故の実況見分調書なんか、もう夏休みの宿題ですよ〜。デカい方眼紙切り貼りして、縮尺に合わせて車の位置を図示して。大変な作業量なんだけど、これが綺麗にキッチリできている。相当なレベルの書類作成能力ですよ。ほかにも死ぬほど書類がありまして、ベンロク(弁解録取書)があり、証拠だって勝手に持ってっちゃ国民の財産権の侵害ですから任意提出書とか領置関係書類(領置票や領置票整理簿とか)、、、もう山ほど書類がある。それを机に向かってカリカリやる。昔は全部手書きで、今はパソコンだろうけど、手書きがキー入力に変わっただけでしんどさは変わらんでしょう(ペラ一の書面だったら手書きの方がずっと楽だと思うけど)。

 趣味のバンドでも、今度この曲やろうってなったら、人数分の譜面コピーしたり、ダビングしたりという事務作業だし。いざ演奏するといっても、一曲の中でそんな派手にグワ〜っと出てくる局面はちょっとしかなく(ソロ4小節だけとか)、あとはチャカポコとバッキングの単純作業。絶対比率でいえば、ほとんどが同じことの繰り返しで、田植えみたいな作業が大部分を占めるといってもいい。ほ〜んと、クリエリティブって何よ?です。

 まあ、だからこそのITなんでしょうけどね。つまらない単純作業から人間を開放して、知的・創造的業務に専念!って。
 でもね〜、まずそのプログラミング自体が上に述べたように超田植えだし、仮にそれが整備されて「ボタン一発でOK!」となったとしても、今度はそのボタンを単調に押し続けるだけだったりするんですよね。ボタンというかクリックですね。クリック、クリック、またクリックって羊の毛刈りの童謡か(♪調子を合わせてクリクリクリッ〜ってあったよね)。

 そりゃ作業効率は格段に上昇するけど、やってることはよりシンプルにより詰まらなくなったりして。チャップリンのモダンタイムズの世界ですね。コンピューターで完全管理!になったら、人間がやるのは異常チェックだけで、ひたすらじっと計器を見つめ続けるだけとか。もう「単調」を通り越して、バラモン教の行者の「行」みたいな。便利になっても、進歩しても、結局どこまでいっても田植えじゃんという。大体、作業効率って何のために良くするのか?といえば資本家や金儲けをしたい人のためであって、現場の人が「スリリングに山あり谷ありで面白くなるため」ではないのですからね。

 そういえばずっと昔に桂枝雀さんが高座で話してて爆笑したんですけど、今は新幹線のATCっちゅーんですか?なんでも中央本部で列車の運行が全部コントロール出来ちゃう。本当は運転手さんなんか要らないんですね。じゃあ運転手さんがハンドルとか握って操作しているのは何なんだ?というと、ここだけの話ですけど、あのハンドル実は下とつながってないらしいんですよ。全然意味ない。でも、それを運転手さんに言っちゃダメですよ、寂しくなって皆辞めちゃいますから。本当は無人でもいいんですけど、まあ、無人の新幹線ってなんか気持ち悪いでしょう?だれか運転手さんらしき人が居てくれた方が安心できる。本当はお猿さんでもいいんですけど、お猿さんの運転する列車に1万円以上金を出すか?というと、それも釈然としませんよね〜、とかいう話なんですけど(冗談だから本気にしたらダメですよ、そんな人居ないだろうけど)。

 だからねー、ほんと科学や技術が進んでどんどん便利になると、どんどんクリエイティブじゃなくなって、面白くなくなるのですね〜。 

 だったら本物の田植えの方がもっと「クリエイティブ」な気もしますね。なんつっても自然の植物ですから、デジタルに同じものなんか一つもないし、田んぼといっても微妙に地面に起伏もあろうし、場所によって水のハケ具合も違うだろうし、日照も違うかもしれない。苗の大きさとか地面の状況をみながら、その都度植え込みの間隔やら深さを調整するじゃないかな〜って思われるわけです。PCなんかデジタルだから完璧同じですもんね。

人間をカマすと詰まらなくなる

 しかし、なんですね、こうやって考えていきますってえと、人間をカマすと物事つまんなくなっていくような気もしますねえ。なんででしょうねえ?

 大体ですね、人間の脳ミソなんざ大したことないですからね。一度に処理できる情報量や論理計算がすごーく制限されている。「あーなって、こーなって、そうなる」くらいの3段階くらいだったら理解できても、これが300段階になったらもう覚えきれないし、理解も出来ない。理解できないからこそ、そのギリギリを楽しむ知的パズル、将棋や麻雀があるのであって、あれが全部理解できたらそもそもゲームにならないです。

 でも実際の自然現象というのは300段階どころか数万とか数億単位でインプット情報や演算処理があると思うのですよ。例えば雨が降るにしたって、太陽に熱せられて大地の水分が蒸発して雲になって雨になります、くらいまでは理解できる。だったら毎日太陽が出てるんだから、毎日雨が降るのかというと降らない。なんで昨日は降って、今日は降らないのか?といえば、これだけの理屈では説明できないじゃないですか。

 そこでさらに深い理屈がいる。蒸発して上にあがると氷になるやつ(氷晶)とならない奴(水粒)がおって、くっついたりして、重くなって落ちてきて、、って話になるけど、じゃあどういう場合にくっついて落ちるかになると、その上空の気温やら風向きによって違う。そうなると地球全体レベルの気圧配置やら気流の状況やらを考えないとならない。さらになんで気流なんかあるの?といえば、地球の自転やら偏西風、貿易風など気象力学みたいな原理が出てくる。また、雨が「降る=落下する」というのは重力があるからなんですけど、じゃあ重力って何なの?あれって常に等分布なのかというと、月の影響〜起潮力によって重力変化が起きたりという微妙な理論があったりするらしいんですね。もう複雑なんですけど、一応ここまでは理屈で説明されてます。

 しかしですね、今リアルタイムに自分の上空に浮遊している氷晶やら水粒やら、おそらくは何兆や何京、そんなもんじゃきかないか、次はなんだ?「垓」か?、、という規模であるであろう、それらツブツブの一つ一つがどういう地球上の物理・化学的な影響を受けていて、、、という話になったら、あまりにも複雑な情報体系になってしまって、人間ごときの手に負えなくなるわけですな。だから、「天気予報が当たらない」という日常的な話になっていくわけでしょう。同じように地震予知も出来ないし、風邪の特効薬も未だにない。人間の処理能力を超えて現実は複雑だからでしょう。これを追いかけていくと複雑系科学とかカオス理論とかそっちに行っちゃうんだけど、生来的に脳ミソの小さい人間が果敢に挑んでいくという、ミミズが微分積分を理解しようとするような。

わかりやすくて便利なことは詰まらない

 だとしたらですね〜、システムにせよなんにせよ、「人間が理解できる」「便利に使えるように」する時点で、現実の微妙な陰影をガン無視した、ものすご〜い単純化が起きるのでしょう。超大雑把に捉えて、そーゆーことにしておけ!という。均一化、単純化をカマすことによって、大量処理を可能にしようと。

 しかしこの時点で致命的に「詰まらなく」なりますわね。田植え化する。てか、田植えよりも詰まらなくなる。
 比喩でいえば、男と女の複雑なムニャムニャがあるのを、フォークダンスみたいに、はい男子はこっちの列、女子はこっちで、はい交代〜みたいなことやるようなものでしょう。確かにそうすれば、わかりやすいし、全員均等にできるし、破綻もないし、”効率的”かしらんけど、オクラホマ・ミキサーみたいな行為が「男女関係の全て」ってわけでは絶対ない。

 でも、現代社会の多くの人間の営み、特に仕事系って、オクラホマ・ミキサー的に処理されてたりするわけでしょう。そう「わかりやすく(詰まらなく)」処理されているからこそ、求人(=他人でも出来る)という話になるわけですね。ある程度の能力があれば、誰がやっても同じ結果が出るというレベルにまで水で薄めて単純化させるからこそ、雇用という現象が生じる。これが絶対そいつでないと出来ない!って仕事、例えば異能のサイキックによる未来予知とか、世界チャンピオンの防衛戦とか、絶対そいつしか出来ないわけで、誰でも出来たら意味がないわけで。

 結局、シンプルで何もかもがわかってしまう物事って、単純作業の繰り返しみたいになって詰まらないのですね。というか、それを「詰まらない」と感じるように人間というのは出来ている。なぜだか知らないけど、そういう具合に人間というのは作られている。逆に、複雑で予想が出来ないくらいの方が意外性があって面白い。それを面白いと感じるように、なぜか人間は出来ている。

 で、この世で一番複雑なものは何かといえば「自然」そのものでしょう。明日雨が降るかどうかも究極的にはわからない。台風の進路もドンピシャとはわからない。というか、それが本来の標準で、人間が足りない脳ミソで理解して作ったシステムというのは、それ以下に単純化させているから面白さでは劣る。12色クレヨンで描いた絵みたいに、本物とは全然違う。

 となると「自然」を対象にする物事が一番面白いということになる。予想が付きそうでつきませんから。農業もそう、狩猟や漁業もそう。でも、一番身近にある「自然」でいえば、人間そのものでしょう。

 ここ、ややこしいんだけど、人間が作ったシステムなんかはつまらないんだけど、人間という実在そのものは面白い。人間って人間が企画設計して作ったわけじゃないですからね。進化やら造物主やら、人間の手の届かないところで企画設計されている。だから人間を対象にするものごと、恋愛や親子関係などの人間関係一般や、接客やらなんやらが、人により場合により千変万化するから面白い。難しいけど面白い。

矛盾と塩梅

 このあたり考えていくと面白いですね。

 結局矛盾するんですよね。予想がつかないものを相手に取り組むのは面白い反面、大変で、疲れます。あまりにも予想が付かなさすぎたらイノチに関わる。今年は豊作だけど来年は飢饉で餓死するかもしれないとか、異常気象になって、ある日突然潮の流れが変わって漁や猟ができなくなる。急に池の水や地下水が枯渇して、、、なんてのが多すぎると、それはそれで「スリリングで面白い」のかもしれないけど、大変すぎる。「面白すぎる」わけです。かといって、何もかもが蛇口をひねれば〜ってすると面白くなくなる。死に物狂いで食物ゲット!という達成感も、空腹を満たす喜びも乏しい。

 以上を簡単に公式化すると、

複雑・予想不可能=楽しい・面白い=しんどい・辛い

簡単・予測可能=詰まらない=便利・楽チン

 つまり「楽しい=しんどい」「面白い=ツライ」なんですね。やってることは同じなんだけど、それをどう感じるか?ですな。いつも書いてるようなことで目新しい話ではないけど。

 いわば程度問題で、あまりにも面白すぎると、もう面白いとは感じられなくなって、辛くなってくる。ジェットコースターだって、適当に恐いから面白いと思う。そこでは面白さ>辛さです。これだって人によって感じ方の差はあるわけで、絶対ヤダって人もいるわけですし、同じ人でも体調によって感じ方は違うでしょう。大の絶叫マシンマニアの人だって、ジェットコースターが延々1時間も続いたら、乗り物酔いして吐きまくってただの地獄でしょう。お化け屋敷だって、適当に恐いからいいのであって、マジに本物が混じってて、何人かに一人は地縛霊に取り憑かれて自殺しますとかいわれて、本物の死体がそこらへんに転がってたらイヤでしょう。

 これは人間の「楽しさ」という感覚がいかに微妙かって言い方も出来ますな。
 お寿司のワザビ、おでんの辛子と同じで「適量」がいいのであって、度が過ぎたらひたすらしんどくなる。いわゆる「シャレになってない」状況になる。その絶妙なレシピーはどこか?です。

 あれこれ経験を積んでくると、そのへんの調整ができるようになってくるのでしょう。クーラーみたいに、ちょっと冷えすぎだなと思ったら緩めるように、ちょっと面白すぎてツライなって思ったら、予測不可能性を減じてみる。しかし、恐いわ、不安だわでなにもかも予測可能にしてしまうと、こんどは面白くなくなって、ドキドキ・ワクワク感のない日常になって、なんともやるせない気分になる。

 個別具体的な局面において、どこにツマミがあって、何をどう調整すれば自分にジャストフィットするのか?それこそが複雑系の極致みたいなもので、生半可な修行では免許皆伝にならない。もう「オノレを虚しくして、死中に活を見出すべし」みたいな”極意”の意味不明さに似てる。

見えてないお馬鹿な自分

 しかし、こうも言えると思うんですよ。
 それが単純な繰り返しで、あー詰まらないぞって思ってる場合って、その程度にしか大雑把に捉えていないってことです。目の前の現実の細かな陰影が分からず、シンプルに大雑把に把握してるから、そう感じられているだけだと。早い話が、お前が馬鹿だから、詰まらなく思えているだけだろ?ってことですわね。

 いや、実際そうで、「同じことの繰り返し」っていうけど、絶対「同じこと」なんてないですから。極論すれば、工場のラインの組み立てだって、何百個に一個は不良品が混じってたりするかもしれないし、ちょっと気を抜いたら作業が滞るし、常にバイオリズム的に変化している生身の人間を常に同じペースに保つというのは、途方もないメンタル技術が必要です。これハンパなことじゃないですよ。

 バンドのドラムスでも、同じペースで叩き続けるってのは人間技的には不可能です。つい盛り上がるとテンポが早くなって、いわゆる「走る」ってことになるし、疲れてくるとモタってくる。かといってシーケンサーのように機械的に単調にやるといわゆる「グルーヴ」が生じない。リズムキープを正確にしつつ、徐々にグルーヴ感を出せるのが良いドラマーなんだけど、これって死ぬほど難しいです。絶対同じことの繰り返しではない。でもそのあたりがわからない人は「タンタン叩いているだけ〜」と超要約をするから、詰まらなくなる。

 つまり、それが面白いか or ツライかは、程度問題もありながらも、どれだけ「見えてるか」って要素もあるんだろうな〜って思うわけですよ。教職だって、毎年同じことを子供達に言うだけ〜って要約もできるかしらんけど、子供という名前の子供は一人もおらんぞ、一人づつ全部個性があって違うし、それらが毎日少しづつ成長しているから、同じことを教えるにしても、そのタイミング、語句の選び方、繰り返しの回数、表情、オーラの出し方、その全てにおいて最適化すべきであって、途方もなく複雑な作業なんだって思える人もいるでしょう。

 そのあたり、よく見えている人が、腕のいい職人さんや仕事人であり、人生の達人になっていくのでしょう。それが技術ってもんだし、それが感性ってもんでしょう。ど田舎のしょーもない古い池に蛙が飛び込みました、柿食ってたら法隆寺の鐘が鳴りましたって、詰まらないといえばクソ詰まらない現場に遭遇して、それを天地が切り裂けたような新鮮な感動をもって受け取り、それを創作モチーフにし、これまで数十年研鑽を積み上げた言語技術をフルに駆使してその感動を表現する、それがアートなんでしょう。

 でも、これが多分僕だったら、「なんでこんなド田舎ほっつき歩いてんだよ」「法隆寺も観光俗化しちゃったねえ」とかいう感想しかないんでしょうね。馬鹿野郎ですね。

 そこで、話はきれいに冒頭に戻るんでございますね。
 タグを挟んで〜、挟んで〜、同じことの繰り返しだあ、農業だあとか喚いている人がいますよね。馬鹿ですよね〜。笑っちゃいますよね。この人何にもわかってませんねえ。

 いやあ噺家や芸人っつうのは、面白い芸を披露して他人様を「笑わせる」なんて御大層なことを考えたらいけませんやね。お馬鹿な自分を晒して、他人様に笑っていただくのが本分でございますから。そして、日々精進を重ねていらっしゃる芸人さんですらそれですから、いわんや僕がごときド素人をや、ですよね。ご笑覧賜りましたならば、幸甚に存じます。





文責:田村