1. Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の一枚(2014/08/04)



写真をクリックすると大画面(1682)になります



Essay 682:踊るか学ぶか〜ATM機能と学校機能

 仕事のもつ二つの極
 写真は、Mosman。
 今日は晴れなの?曇りなの?
 ま、世の中こんなもんでしょ?って感じの一枚。なんか心理テストに使えそうな。晴れなんだけど一部雲がかかってる部分もあると思うか、曇なんだけどところどころ青空がのぞいている部分もあると思うか。そして、これから晴れが広がっていくのか、それともどんどん曇っていくのか?その解釈であなたの心象が見えるという。

 しかし、誰がどう思おうがどう解釈しようが、リアルにはこんなもん。良いも悪いもなく、ただただこんなもん。つまり太陽があって、地球があって、雲がちょろちょろ行ったり来たりしてるだけ。



 今週のお題を簡単に。
 仕事というのは極論すれば、ATM機能(お金ゲット)と学校機能(学ぶ)の二つに極に集約され、現実においてはこの極を見定めると良いという話です。

ATM編

 これは日常で、こちらに来て「お金が〜」といっているワーホリ・留学生さんに良く言うのですが、カジュアルジョブの場合は「"仕事"だと思わず、ATMだと思え」と。

金は天下の回りもの

 過去に紹介したし、口頭でよく言うエピソードがあります。とある日本人ワーホリがファームに行きました。そこでタムロしているヨーロピアンワーホリの連中の言動に人生観が変わるくらいのショックを受けました。なにかというと、全然働かない。ほとんど無一文になっても最低限くらいしか働かない。でもめちゃくちゃハッピーそうだし、友達のバースデーのサプライズだとかいうと、バスで遠出して買い出しにいくくらい超熱心にやる。生活や人生を楽しむことに関しては本当に骨惜しみしないで一生懸命やるけど、こと金稼ぎに関しては不熱心。「嫌々やる」というのも愚かしいくらい。

 なんでお金がないのにそんなに悠然とケラケラ笑ってられるのか、日本で戦うビジネスマンをやってきた彼にはそこが不思議で、とあるフランス人(だったかな)に聞いてみたそうです。「お金あるの?」と。

 くだんのフランス人の返事がふるっていて、
 「お金?あるよ〜」
 「ただ、俺が持ってないだけ」

 「お金はね、世間に沢山あるんだよ。金は天下の回りものだからね、でも、俺は今そんなに持ってない。今、さしあたって必要ないからね〜」

 「いらないお金なんか持っておく必要ないだろ?だから、”世間に預けてある”んだ。」
 「無駄に持ってたって、盗られたり失くしたり、面倒臭いだろ?"預けて"おくのが一番だよ」

 「必要になったら?預けてあるお金を”おろしにいく”んだよ。」
 「おろすのにはちょっと面倒臭い手続き(仕事)がいるけど、ちゃんと手順を踏めばちゃんと返ってくる。それでいいじゃん」

 と、「何をしょーもないことを聞くんだ?」とばかりに返された日本人ワーホリの人は、「は〜」と思ったそうな。
 そんな馬鹿なと思うんだけど、しばらく一緒に住んでると、そんな(日本人の視点からは)滅茶苦茶なことをやっていながら、毎日ケラケラ楽しそう。ケ・セラ・セラで問題なさげに暮らしている。そんでもって彼だけが特異かといえば、そこのファームでは彼の方が多数派。圧倒的なマジョリティ。皆、そう。で、なんとなく廻っているという。

 もちろんお金がなくてレント滞納って人もいるけど、そこは何となく人間集団の機微で、待ってくれたり、仕事を融通しあったり、食事は原始共産制みたいに分かち合ったり。年中気合入れてパーティとかやってるから、それに参加してると自動的に食えてしまうという。

お金の恐怖を見切る

 まあ、この話は極端かもしれないけど、でも、ワーホリに来てラウンドするなら、早くドボン(予算破綻)して、「彼ら」の仲間に入るといいよと言ってます。なべて日本人は、「お金ってなんなの?」って、一回トコトン考える機会に触れたほうがいいと思うから。

 お金がなくなる恐怖というのは誰でもあるけど、ではその恐怖の実態はなんなのか?

 なんでもそうですが「見切り」が優れていれば優れているほど勝率は上がります。刀の軌道を1ミリで見切れれば、それだけ逃げるのに無駄な動きをしなくても良いし、反撃も迅速にできる。ところが3メートル先からビビってジタバタ動くという無駄な動きが多すぎると心身ともに疲れちゃうし、ましてや反撃なんかできるわきゃないから、防戦防戦また防戦、恐怖恐怖また恐怖の繰り返し。ほとんど半泣き状態のまま一生が終わる。

 したがってこのソリッドな見切りが出来れば出来るほど、その人の財産になります。
 この見切りというのは、「恐い」とか「恥ずかしい」とか「面倒くさい」とかの、いわば「精神の贅肉」みたいなものを削ぎ落としていく作業です。自分が自分として、自分の納得する人生を構築するにおいて、本当の本当に必要なのはなにか。それをトコトン煮詰めていく。

 この作業はどっかでやっておくと良いと思われます。特にこれからの数十年”嵐”が予想される〜「小心翼々たる中産階級」が淘汰されていく歴史的段階っぽい〜日本を含めた先進諸国では、大きな財産になるでしょう。

仕事=ATM論

 そこから、仕事=ATM論が出てくるわけです。
 仕事というのは、お金を引き出しにいくだけの作業だと。

 もっともATMのようにカードを差し込んでボタンを押すというほど簡単ではなく、一般の仕事はそこそこ面倒臭いけど、一つひとつの行為に分解してしまえば、まあ、似たり寄ったりの作業難易度じゃないですか?特にマックジョブのような「誰でもできる仕事」だったら文字通り誰でも出来るんだから。

 「誰にでも出来るというわけではない」仕事というのは、100メートルを10秒で走れとか、心臓のバチスタ手術をしろとか、売れる小説を書けとかそういうことで、それなりの生来的な資質と膨大な努力が要求されます。んでも、最初は不慣れでも数日ないし数週間もすれば大体コツはつかめるような仕事だったら、「誰にでも出来る」といっていいでしょ。

 そして、この世の仕事の大部分は「誰でも出来る仕事」だと思います。

 というか「誰にでもできる」ようにシステマティックに分解して再構成しているのが現代でしょう。
 例えば「マニュアル」です。その仕事がマニュアルとして記述可能になった時点で、もうそれは誰にでも出来る。少なくともそれほど人材を選びに選び、三顧の礼をもって迎え入れないとダメだってことはない。

 もちろん本当の仕事はそういうものではなく、長年の職業人としてのカンとかノウハウなど「記述不可能」な要素を豊かに含むのだけど、商品の完成度を落として価格を安くして売れるようにすれば、そこまでこだわる必要もない。自然水や自然塩のミネラル分を無視して、単なるH2Oや塩化ナトリウムを売るようなものですな。

 例えば料理人でもダシにこだわります。それこそ昆布ダシでも利尻昆布と羅臼昆布の違いにこだわり、「美味しんぼ」にも書かれていた「引き出し昆布」の技法を使ってダシを取り、、ってやってる料理人や飲食店もある。その一方で、「ほんだし」でいいんだよ、もっと業務用の液体だし、てか醤油もみりんも調合済の「つゆの素」をドバドバいれておきゃいいんだよ、え?食材?そんなのなんでもいいんだよ、安けりゃさあ、どうせ調理しちゃえばわかないんだし、そこまで舌が肥えてる客がウチに来るわけないんだからさあ、ってレベルまで落としていけば、芸術のような職人技術は無用のものとなり、マニュアル通りバイト君が作ればOKって「誰にでも出来る仕事」化していくという。

 そして、誰にでも出来るなら→賃金が安い方がいいだろ?で、仕事は海外にアウトソーシングされ、国内の雇用が減少し、失業率が上がるか、ないしは正社員→派遣・パートへのシフトが起きる。空洞化が起きる。

 さらに、アウトソーシング出来るくらいだったら、機械にやらせられるんじゃないの?と、レコードのアナログを全てCDのゼロイチ・デジタル信号に変換するのと同じように、全ての仕事のカンドコロをマニュアル記述することに成功すれば、人なんか雇う必要ないもんね〜って話になる。そしてデジタルコピーが可能になる。

 そして現にそうなっている。

 このようなトレンド=複雑で高額になる仕事よりも、フラット化されて誰でもできるようにして安価大量に提供できるようになっていく流れ=においては、仕事もまた、そうなる。誰にでもできる仕事が増えるというか、誰にでも出来るようなカタチににすることで、その種のマックジョブを増やしていると言ったほうがいいでしょう。

 そんな流れでは、仕事と言っても「ちょっと複雑な手順のATM」みたいなものになってきている。スマホを普通に使いこなせとか(誰も知らない裏技を開発しろとかじゃなくて)、手順を覚えて、応答文句を覚えて、あとは繰り返し〜でしょ。つまり、複雑かどうか、面倒くさいかどうか、体力的にハードかどうかというレベルであって、超絶技巧を要求される可能/不可能のレベルではない。


 ま、そういうトレンド背景を無視したとしても、つまり従来の仕事観を前提にしたとしても、そーんなに複雑極まる仕事ってあんまり無いです。大体が、「やってりゃそのうち覚える」系のもので、自動車の運転みたいなものだと言えます。

 新商品のセールストークだって、キメのフレーズや殺し文句が数種類あって、あとは客の様子を見ながら順番変えたり、力点変えたりしてればいいだけ。「良い物を長く着た方が結局は得ですからね〜、一生モノですからねえ」っていって、一生似合わないものを着続けるとか。顧客のクレーム処理だって、これも松竹梅みたいにランクがあるはずで、下っ端に平身低頭させておけばいいのか、店長クラスが出ていって頭を下げるのか、部長クラスが出向くのか、社長クラスが記者会見をするのか。いずれにせよ「ごめんなさい」ということは同じで、あとは腰の屈伸運動でペコペコしてればいいっちゃそれだけのことでしょう。

 このように仕事というのは誰にでも出来るパートに分解されうるし、それらを「やってりゃそのうち」式に覚えて、あとは毎日反復していればいい。

 これを抽象化していえば、「ある特定の現象を生じさせることを企図して、ある特定の身体・言語動作を行うこと」です。雨が降ってほしいから、特大の焚き火をおこして輪になって踊り狂うとか、天の岩戸を開けるためにアメノウズメノミコトがストリップダンスをするとか、魔法陣を作ってエロイムエッサイムと唱えるとか、九字を切って臨兵闘者皆陣烈在前と唱えるとか、「へいらっしゃい!&毎度あり〜!」っていうか、「いやお腹立ちはごもっともですが」っていうか、官僚答弁の「左様 しからば、ごもっとも、そうでござるか、シカと存ぜぬ」を言うか、いきなり”存じません””出来ません”を言わずに”お調べします”って言えとか、シャンシャン株主総会では一般席から間髪入れずに「異議なし!」「議事進行!」と応援団のように大声で言えとか。はたまた使った残りは綺麗にラップで包んで冷蔵庫の下から三番目の棚に置いておけとか、通常訴訟を提起する場合の予納郵券(切手)の組み合わせは各裁判所によってキチンと指定されており、〇〇地裁においては500円切手8枚、270円切手2枚、、、8種類50枚の切手となっているので、予め事務所にセットで用意しておけ、さもなくば大きな裁判所の地下の郵便局あたりでよく知ってるカウンターの人がセットで売ってくれるとか、、、

 要するに「ある特定の身体・言語動作」をやるわけです。

 これって、「ATMで引き出す」のと価値的に同じでしょう。ちょっとばかり手順が複雑なくらいの差で。
 

どーでもいいシキタリ

 ちなみに、その会社・店独特の手順や言葉遣いを覚えさせられたりもしますよね。

 ずっと前に、いわゆる「ビジネス英会話」というテーマで、興味深い意見を二つほど聞きました。一つは、英語学校のDOS(Director of Study=学務主任、教師の任免からクラス編成など統括管理する最高責任者)から直接聞いた話ですが、「ビジネス英語なんてないんだよ」と。

 「ビジネスという名前のビジネスはない」ということで、それが不動産業であるか観光業であるかによって、使われるボキャブラリーや表現は全然違う。言語以前に論理則すら違う(100に一つの成功で喜ぶか、100に一つの失敗でもう致命的かとか)。それに実際にビジネスの現場、会社であれ、取引先との商談であれ、リアルにやっているのは、そのほとんどが「単なる世間話」であるという。少なくとも一般英語技術を超えて何かがあるというものではない。だからゼネラル英語をしっかりやれば、ほとんどそれでいける。あとは、業界ごとの符丁や専門用語、特殊な言い回し、独特のイディオムや固有名詞があるんだけど、そんなものを網羅的に英語学校で教えるのは不可能だし、また意味もない(99.9%無駄だから)。

 もう一つは、オーストラリア現地の新聞の就職関係情報の記事です。これも同じ趣旨で「ビジネス英語なんかない」と。なぜかというと、一生懸命もっともらしいビジネスっぽい言い回しの例文を暗記し、準備してても、「ウチはこういう言い方はしない」と上司にビシバシ添削される。そして、「なにが悲しくてこんなケッタイな言い回しを」というような、その会社の独特の表現を使うように強制される。個々人にそれぞれ口癖があるように、会社にも口癖がある。普通に考えるとちょっとヘンなんだけど、なんだか知らないけどそういう言い方をする。大概の場合は、昔からの習わしとか、ワンマン社長の趣味だとか、その種のくだらないことが理由になっている。だからビジネス英語を必死に勉強しても、多くの場合はあまり意味がなく、そんなことするならもっと他にやることがある、と。

 どちらも非常に頷ける話でした。いや、これ、弁護士事務所もそうなんですよね。どこの事務所に入るか、どのボス(師匠)の下で修行するかで違ってくるという。例えば、内容証明郵便で受任通知をするにしても冒頭の書き出し&結びや時候の挨拶をいれるかどうかで事務所間の趣味の差がある。僕の場合は、「謹啓」「謹言」がセットになってましたが、これはボスの趣味。他の事務所では「拝啓」とか。また時候も「時下益々御清祥」というゼネラルのものにするか、いちいち季節ごとに変えていって「薫風の候」「秋冷の候」とか変えていくとか。あるいは全然書かないで「前略 ごめんください」って事務所もあったな。事件をやると相手方弁護士の通知書類も読むから、「へえ、こうやってるんだ」と面白いです。

 余談ついでに、これらは判決文でもあって、「○○部長らしいな〜」って個性があったりします。「俄かに措信しがたい」という紋切り表現ばっかりだと「新米だな」とか、「本件全記録を精査しても、右判断を覆すに足る証拠は遂には発見できなかった」と書いてあると「さすが○○さん。”遂には”を入れるところなんざ(弁護士業務の日常を)よくわかってらっしゃる」とか。「故あってのことではあろうが」と一言入れておくとか。部外者にはわかりにくいかもしれないし、判決なんか「問一、正解5」みたいな単なる答え合わせみたいな感じだと思ってるかもしれないけど、違います。自分で生きるか死ぬかの裁判やって負けてみたらわかります。裁判というのは、論理の仮面をかぶりながら内実、青白くゆらめく怨念と情念の闘いの場で、だから判決文というのは「鎮魂の辞」でなければならず、そこに言霊が宿ってるかどうかが結構大事なんです。明治時代以来の「死刑判決文集」ってのがあって(未だ売ってるのかな)、すごいよ、もう下手な文学よりも文学してます。鬼哭啾啾、悽愴たるって感じ。だって人ひとり殺すんだもん。

 さらに余談、そういえば、マンガの「陰陽師」に引用されていた学問の神様・菅原道真の友への誄(るい)歌(弔辞)は凄かったですね。あのクラスの言語の天才になると、言葉がアートしてる。「君 我が凶慝(きょうとく)を瞰(み)ませば 我を撃つこと 神鬼の如くあらまし 君 我が辜(つみ)無きを察(み)ませば 我がために冥理を 請ひてまし」なんて泣かせる。この先僕が生きていく中で、道を踏み外すようなことがあれば、遠慮なく神鬼のように僕を滅ぼしてくれ。そして謂れ無き罪に陥れられるようなことがあれば、僕のためにあの世で天に道理を求めてくれ。そしてその次が「冥理遂に 決すること無くはこれより長く 已むなむ」(その正義すら実現しなかったら、永遠に沈黙しよう)と、まるで自分の近未来を予言するかのような(もっとも、彼の場合は沈黙してないで祟りまくってるんだけどね)。でも「永遠に沈黙しよう」という静かな覚悟の凄さ。死靈とガチで魂レベルの会話をしようというのだから、すごいコミュ力。言語というのは、目指すだけなら(あくまで「だけ」だけど)、このレベルまで目指さねば。

栄養分乏し

 閑話休題。
 これら一般の「特定の行為」ですが、そこにはあんまり栄養価は含まれていません。
 「我が社ではこうする」とかいう超ローカルルール、シキタリを必死に覚えてマスターしても、他の会社、他の業界にいったらなんの役にも立たない。気難しい〇〇部長は、いきなり案件から入ると機嫌が悪いけど、孫の話から入ると相好を崩すので稟議が通りやすい、でも○○課長はは単刀直入に案件に入らないと不機嫌になるとか、そんな「個々人の性感帯」みたいなものを必死に覚えて実践しても、転職したらパーです。上司が左遷リストラされてもパー。

 日常の仕事業務におけるあれこれの手順、いわば雨乞い踊りの、いわばマイムマイムの三歩進んでスキップして足を交差っ!みたいな振付は、その現場においては滅茶苦茶重要だけど、しかし、ちょっと局面を離れると途端に無意味化する。

 また、そこに「人生の真実」が含まれている、、、ってことも少ない。それは例えば、ATMのカードの暗証番号の数字の並び、オンラインバンキングの乱数表の読み方に、人生の真実が含まれているわけではないのと同じことで、とっても栄養価は低いです。金を「おろす」というか、「稼ぐ」というか、単なる言葉の問題だけど、お金ゲットに、あまり意味のなさそうな「特殊な振り付けと呪文」をやるということですね。

 だから言われたとおり、振り付けのとおり、踊ってりゃいいんだよって。

学校編

 その一方で、とっても栄養価が高い仕事もあります。
 矛盾するようだけど、これもどんな仕事にもある。
 要はどれだけ学べるかという主体の問題なんだけど。

専門業界学校

 とりあえず分かりやすい事例では、とある業界の内情や仕事の進め方というのは、外から見ててもわかりづらい。肉屋さんや魚屋さんレストランとか、子供の頃から見慣れている何の変哲もないお仕事なんだけど、実際に「やってみ」「経営してみ」と言われたら、途方にくれます。仕入れるってどっから?いくらくらいで?どのくらい?値付けはどうするの?返品とか余ったらどうするの?収益性はどのくらいで、将来性はどうでってのは、実際にやってみるのが一番早いです。経産省の統計とか見てたってわからんもんね。

 特にIT産業のように日進月歩の分野は、流動性が高すぎて、なにがなんだかやってる本人達にもようわからんかもしれない。たまたま見つけた興味深いブログがあって、SEO業者はこうして倒産したというエントリーですが、「なるほどねえ」って思います。フィクションであり寓話という体裁なんだけど、リアルの匂いがふんぷんと漂ってますねえ。

 一般に業界事情というのは、これも3段階くらいあるんだと思います。第一段階の表層は、一般メディアや一般経済誌の記事くらいのレベルです。○○業界は最近どうだって話。あるいはソニーがヤバいとか、パナソニックが住設メーカーになろうとしているとか、富士フィルムが化粧品会社になろうとしているとか、その種の話ですね。第二層は、「一般には〇〇って言われているんだけど、実は〜」って、かなり掘り下げた業界事情で、これは専門の業界紙の特集や、専門書籍に書かれているレベルです。これはかなり詳しいし、第一層のイメージと往々にして矛盾してたりします。そしてさらに第三層というディープな層があって、これは現場の深部で毎日働いている人が皮膚感覚でわかるレベルであり、会社首脳部や企画部の中枢があれこれ画策しているレベルです。もうインサイダー情報に近い。だからこの種の情報は、メディアやネットという形で得られることはまず無い。人脈やネットワーク命です。

 とある業界に精通している、ちょっと詳しいよって言いたかったら第三層レベルまでの知見が欲しいところだけど、こればっかは外からはわかりません。だから中にはいって働いてみるしかない。

 これ、単純に面白いですよね。舞台裏を見るというか、円谷プロの怪獣特撮の撮影現場を見学させてもらえるくらい面白い。面白がってる余裕なんかないかもしれないけど(^^)。でも、「なるほどね、こうなってるのね」という。

 しかし、実際にその業界に参入するとかいっても、かなり深いところまでわかってないと、企画倒れで終わる。商品バッチリ、競争力バツグンで乗り込んでみても、わけのわからない「業界慣行」にはじき出され、それを必死にかいくぐってみたら、今度はお役所から横槍が入って足止めを食らう。畜生、だから天下りは無くならないのか、やられてみると滅茶苦茶腹立つぞ、これでいいのかニッポンとか思っても時既に遅し、とか。

 というわけで、とある業界のとある仕事をやってみると、ビジネス本百冊読むよりもその業界のことがよくわかる。しかもお金をもらいながらという専門業界学校としての機能があります。

一般ビジネス学校

 一般的な電話の受け答えが出来るとか、ビジネスレターのいろはくらいは分かるとか、まんまドンピシャにアジャストしないまでも(前述のように会社によって個性差がありすぎる)、ズブ素人ではないくらいには学べます。いろんな書類もありますからね。やれ稟議書、やれ企画書、そして始末書とか。

 人間関係イロハも学べますよね。お辞儀、お酌や接待、ご贈答のノウハウなど形式的なことにはじまって、顧客をひきつけるプレゼン技法やら、失敗した時のリスク管理、さらにはマスコミ対策、さらにはネット炎上対策などなど。

 これらは業界の専門知識というのとはちょっと違い、そこまで深くはないんだけど、そのかわりどんな業界にいってもある程度は役に立つ。自動車免許みたいな、日本語能力みたいな、別にドライバーや文筆業にならなくなって、ある程度できないと話にならないというか、出来ておいた方が良いです。

 これもシコシコ本やネットで調べるくらいだったら、自分がやらされた方が早い。100倍も1000倍も早いっていうか、活字じゃ分かるわけないです。それは専門書だけ読んで車の運転をマスターするようなものです。これらは知識と同時に体術でもあって、言わば鉄棒が出来るかどうかみたいな話でしょう。基本、語学と同じで身体で覚えないと現場で使えない。

 このあたりがもうちょい詳しくなれば、やばい取引先の見分け方とか。契約が取れたと喜んでいても、納品した途端に倒産されたら青ざめますもんね。責任問題だし。へたすりゃ数億円穴開けて責任すらも取りきれない。売っていいのか、いけないのか、その見極めはどこでするのか。上司や先輩が優しくも荒っぽく教えてくれるでしょう。同じようにお役所との付き合い方、部署(総務部とか)によってはヤクザさんとの付き合い方、マスコミさんとの付き合い方とか、いろいろありますよね。
 

人間力道場

 さらにゼネラルなのがこれで、業界を問わず、仕事かどうかすら問わず、この地球上で人間やってるんだったら知っておいた方がいいよ、何かと得だよって知識やスキルを得るという効能です。

 それはもう人間同士の信頼関係の築き方であるとか、その信頼が壊れるときはこう壊れるのねとか。インディアン同士が最初に「ハウッ」って片手を上げるように(本当にそんなことやってたのか知らんけど)、挨拶の仕方にはじまって、出処進退の作法であるとか、ケジメの付け方、スジの通し方。そして、場合によってはガツンと言わなきゃいけないときもあるけど、それもマイルドな喧嘩の仕方からガチのやり方までグラデーションがあるし。

 人間洞察力もありますよね。こいつは信頼できるのかとか、この手の人は口だけで終わる場合が多い、なぜならば〜とか。嘘を見分け方とか。そこまでいかなくても、ただ単純に、「はー、世の中、いろんな人がいるのね」ってことも目の当たりにすると視野も広がる。

 あと良くいうけど、この程度の難易度の物事を成就させるためには、この程度の努力と、この程度のラッキーと、この程度の不運に見舞われるだろうから、予めこのくらいの予算と時間を用意するべしという、一般的な目分量のつけかたとか。そして、上にも述べた、恐怖への見切りを正確にしていくこととか。

 それとは違った視点でいえば、達成感とか自信を得られるので、メンタル管理に役に立つという効用もあります。特に海外にやってきて自分でお金を稼ぐという経験は、たとえそれが1ドルであっても自信になるでしょう。幾ばくかの金銭を得るということ、それはこの社会における自分の行動を肯定的に評価してくれる人が少なくとも一人はいる、それもお世辞ではなく身銭を切って証明してくれているってことですから、自分の存在証明でもある。ちょっといい気持ちになれる。逆に言えば、だからこそリストラだ失業だということになると、自分はこの社会で無価値なんだってマイナス意識に苛まれたりもするのでしょう。まあ、ありていに言えば、上の写真のように雲がちょろちょろ行ったり来たりしてるだけの話にすぎないんだけどさ。

 もう山ほどあります。やっておいて損は無いどころか、是非やっておくべしって感じです。

 以上、仕事をするとお金以外に得るものがあります。場合によってはお金以上にこちらの方が大きかったりします。そして、その栄養価が高ければ高いほどその学校機能は強力で、安月給がどうのとかいう以前にこっちから授業料を払って当然くらいのものもあります。昔から「これだ」と思う分野や師匠がいたら、通いつめて弟子にしてもらったりするわけで、弟子には当然給料なんかない。月謝がないだけありがたいって感じですよね。

 ただし、これらは学ぶ、参考にする、パクる、さらに自分の中で咀嚼するという主体的な作業がないと機能しません。言うまでもないけど。そこがすっぽり欠けていると消化機能が全くない胃腸みたいなもので、右から左に流しているだけってなりがちです。ただただ割がいい仕事、楽な仕事という観点でだけ動き、それ以外は一切考えないというのは、得てして時間の無駄、人生の無駄になりがち。

補足

何にでもある

 以上、同じ仕事といっても、ATMのための踊りを踊るという振付呪文的な部分と、非常に栄養分豊かな部分があります。同じ仕事の中でもある。どーでもいいような部分もあるし(大体そうだけど)、しかし「おお〜」という発見や学びもある。

 そして、これも言うまでもないけど、この原理というのは、世間的に「仕事」呼ばれるジャンルに限った話ではないです。それが「遊び」と呼ばれるものであろうが、「恋愛」と呼ばれるものであろうが、「倦怠期の夫婦生活」と呼ばれるものであろうが、ボランティアでも暇つぶしでも、はたまた犯罪と呼ばれるジャンルであろうが、すべて共通すると思います。

 小さな子どもは「遊ぶのが仕事」っていうけど、あれは本当にそうですよね。「人生の真理は、全て幼稚園の砂場で覚えた」って本が昔あってちょっと売れてたけど、もうタイトルだけに言わんとすることがわかりますよね(本当にわかってるのかと言われたら自信ないけど)。

 でも、ほんとに。どんな食材にもビタミンやら鉄分やら何らかの栄養素が入っているように、どんな行為にもなにかしたら栄養分はある。サプリメント飲むよりは、自然に摂取していたほうが良いだろうし、それもバランスよく摂取することが良いのも同じ。○○ばっかやってると栄養のバランスがおかしくなってくるのでしょう。好き嫌いが激しすぎると、体調が悪くなったり、目が見えなくなったり、老化が早くなったりするのも同じ。そのまんま。

お金は天秤の分銅に過ぎない

 「振り付けどおり踊るパート」と「ミネラル栄養分を摂取するパート」の二極があり、どんな物事にもATM部門と学校部門があるわけですが、その優劣やアクセントの付け方が問題になります。

 学校部門を重視したいなら、金なんざどうでもいい。多いに越したことはないけど、優先順位は劣後する。薄給でもいい、無給でもいい、どうかしたらこっちから月謝払ってもいい。それが釣り合うかどうかは、自分の判断。

 その意味では「稼ぐ」も「使う」も一元的に見たらいいです。秤が釣り合うかどうか、吊り合わない方にお金を置いてバランスをとる。どちらの天秤がどれだけ傾くかは、それは個々人の価値観。大好きなアーティストのコンサートチケットのように幾ら出してもこの経験は得たいと思うか、お金でも貰わないことにはこんな不毛な経験はしたくないと思うか。

 結局、お金というのは、天秤のバランスを取るために必要な分銅みたいなものなんでしょう。場合によって右に置いたり、左に置いたり。分銅そのものに価値があるわけではなく、要はどういう秤を設定するか、どういう状態をしてバランスが釣り合うと思うかどうかです。分銅だけ持ってても、その見極めがアホだったら大した意味もないです。既に下がっている方のお皿にドカドカ分銅を積み込んで秤そのものをぶっ壊してしまったり。あるいは「趣味は分銅集めです」みたいになったり。

 場合によっては分銅なんか必要なくて、自然とバランスが取れていることもあります。つーか普通にしてたらそんなに要らない筈なんだけどね。小さな子供の頃に幼なじみと遊んでたときって、そんなにゼニカネ絡まなかったでしょうに。「金の切れ目が縁の切れ目ということで、ま、冷たいようだが、悪く思わないでくれよな」って言って友達に去っていかれた幼稚園時代の過去をもってる人っていますか?そりゃお小遣い貰ったらうれしかったけど、あれって駄菓子屋で10円だのセコい買い物をすることで、社会の経済に「参加」しているという大人びた高揚感とかさ、自分の裁量で物事をキメられるという主体性意識がうれしかっただけじゃないの?正しく、おもちゃのように分銅を扱っていた。初恋の人と学校帰り二人出歩いたりとか、あんまり金かからんかっただろうに。

 それがなんで分銅マニアになっていくかというと、多分に精神の贅肉がブクブクついてくるからでしょ。世間体が悪いとかさ、馬鹿にされたくないとかさ。昔のガキが、メンコやレアカードを沢山持ってると、すげーと言われて、なにやら人格的価値が上昇したかのようなカンチガイしているのと、本質において同じだと思います。はいはい、「すげー」と言われたいんですよね、わかります。だから分銅集めに精を出しておられるのですね。わかります。沢山集まるといいですね。頑張ってください。

ミクロとマクロの混在

 あと、ATM第一目的だとしても、だからといってATMばっか思って、心を無にして幽体離脱的にやりゃいいってもんでもないんでしょうね。それがATMに見えたという洞察力そのものがスカタンだったというケースも多々ある。実はすごい栄養価の高いものだったってことはあるのですね。やってみなわからんのよね。

 逆に学校だ、さあ学ぶぞと勢いこんでやってきたものの、実はATM要素が満載だったりもする。だから、そこはそれ割りきるしかないよね。そんなさ、朝から晩まで学びっぱなしだったら、大脳シナプスが過熱してヒューズがぶっ飛びますよ。

 この二分法は、マクロにもミクロにもあると思います。大雑把にこれは「金稼ぎアクティビティ」、これは学びの場とかマクロに分類するにしても、そのどちらにおいてもまたニ要素があるし、細かく微分していけば一分一秒ごとにある。ウェイトレスで水を運ぶにしても、単純作業の繰り返しって意味ではATMでも、なるほどお盆のココをこう持つと水がこぼれないのか、というコツがわかって、その瞬間には学びになってるという。

 ということで、極大から極小まで変幻自在の24mm-600mmの望遠ズームレンズ的な感覚があるといいじゃないですかね。なんによらず決め打ちする人って、頭がちょっと不自由というか、硬いというか、立位体前屈で指先が足につかないというか、人生トータルでいえば家一軒分くらい損するかも。

で、混同してしまう

 キリがないからこれで最後にしよう。ミックス形態ってのもあるでしょう。なにかといえば「ATMの使い方を学ぶ」って局面です。ちゃんと振り付けどおり踊れること、どこにその振付が書いてあるのか探せること、それを読解できること、当意即妙にアレンジできること、、、このあたりが下手くそだと、闇雲に暗証番号押しまくって、三回間違ってロックされちゃいました、再発行の申請をしてくださいって、3ストライクアウトみたいな、

 ATM的に働いているくせに、こんな仕事に何の意味があるんだと怒ってみたり(^^)。それって「俺は暗証番号なんか認めないぞー」と言ってるようなもので、ツベコベ言ってないで黙って押してりゃいいんだよって。

 しかし、それでも納得出来ないぞ、こんなん嫌だぞって思ったら、だったら最初からATM目的でやってるわけではないってことでしょう。もっとズッシリするものを求めている。本当は学校機能を求めているにも関わらず、ATMを探しているという根本的なミスマッチがある。

 このあたり、論理的に二つあるよって説明は誰でも分かると思うのだけど、いざ自分が現場に立たされると、ATMなんだか学校なんだかわからなくなってしまう。だからATMに過剰な意味付けをして、暗証番号を押し間違えたり、レシートは要りますかってボタンを間違えて押したりしただけで、俺はもう人間としてダメなんだとか必要以上に落ち込んだり。

 このあたり、肚が座ってないっていうか、ゼニカネ目的でやってんだったら第一にゼニカネが入るかどうかで、それ以外の部分はきちんとカットしないと。それをお金も入るし、学べもする、できるなら学ぶにしても怒られながらよりも、褒められながら優しく教えてもらいたいな〜、優しくしてくれなきゃスネちゃうぞ、ってなってて、あんた、何ゆーてんの?って話ですよね。何をしたいのか、何をするべきなのか、自分でもわかってないんじゃない?って。てか、要するに優しく甘やかされたいだけなの?あなたにとっての他人や世間は、自分をいい気分にさせてくれる舞台装置や道具に過ぎないの?

 それはそれでいいですよ。でも、だったら「俺は今、優しく甘やかされたいんだあ!」って、自分が何をやってるのかくらいの認識は持っておくべきっしょ。そこ、誤魔化したらあかんで。傍からみたら嘘モロバレやで。社会の窓開いてんで。ほんで自分だけが気づかないってトホホな話になるど。

 もう、スパーン!といい音がするくらい、割り切るときは割り切るべし。
 左肘を脇から離さない心構えで、やや内角を狙い、えぐり込むように、打つべし!って。

 でも、そうやって割り切りながらも、ほんのりした潤いは常にまといつつ、「お!」と思ったら、カメレオンのように0.1秒の早業で舌を延ばして、ピ!と学べるものは学んでおく。つまりは、ミクロからマクロまで、二つの要素を適宜織り交ぜながら、変幻自在、縦横無尽、緩急自在という四字熟語的にやれたらいいんでしょうね。そんな完璧でなくていいけど、でも少なくともゴッチャにして身動きとれなくなったり、ニカワで塗り固めて身動きとれなくなったら、ちょっと悲しいですよね。


 

文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る