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今週の一枚(2014/07/28)



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Essay 681:レイト・マジョリティ〜「衆愚」のマーケティング

 C/W 地方議会、お墓とデスケア
 写真は、Marrickville。枯れ木のシャドーがいい感じだったので。



 今週は多忙で時間がないので、最近「ほお」と思ったブログや記事を紹介します。一本にするほどのボリュームはないが、ボツにするのは惜しいくらいのネタを。

地方議員の件  セクハラヤジとか号泣とか

 ヤジがセクハラだとか、塩村都議の経歴がどうのとか、話があちこちにいってるんですけど、そういう問題なの?って疑問があります。

 まず、塩村あやか都議に対する最低な女性蔑視ヤジというブログのエントリーをご参照ください。全てを読んだわけではないけど、本件に関してはこの評論が一番得るものが多かった。というのは、そもそもこの都議はこの時どんな質問をしていたのか、どんな問題提起をしていたのか、です。

 内容としては、受動喫煙対策、生体販売ビジネス、動物愛護、そしてヤジの出た子育て支援です。で、特にペットショップの(一部の店なのだろうが)ものすごーく劣悪な環境、一応行政上の監督はあるんだけどあんまり機能してないんじゃないかという問題があるわけで、それを聞いている。ここでは、そういうあたりを活動テーマとしている議員さんなんだという点がまず一点押さえておきたいところです。まずこの時点で初耳って人も多いだろうし、僕もそう。

根性の問題なの?

 第二にセクハラヤジ云々っていうのだけど、個別の片言隻句の内容ではなく、それに応じて「どっと笑いが起きて」「ゲラゲラ笑い続けた」って部分の方が重要じゃないかなって思います。誰が?とかいう犯人探しはそれはそれとして、こういう内容のヤジを飛んで、それをたしなめるわけでもなく「皆で笑っている」という全体の質感、空気感ですね。これ、キツイよ。ヤジの一つや二つで泣くのは根性ないという意見もあるけど、一つや二つじゃないんだわ。そのくらいだったらはたき落とせるけど、多勢に無勢、孤立無援的な感じで笑われ続けるってのは、結構辛いぞ。じゃあ、お前、やってみ?って言いたいですね。債権者集会などの修羅場を仕切ったことはあるけど、その僕でもリアルにこの状況(女性一人でオヤジ連中から下品な嘲笑を浴びる)を想定したら泣くかも。というわけで、状況の正確な把握が第二点目。

 捕捉でいえば、泣いたからどうのって問題ではないと思います。言ってる内容が正しいか間違ってるか、それだけじゃないの?なんかすぐそういう根性系、バンカラ系に話をすり替えようとするのっておかしくない?すぐ「甘い」とかさ、そういう個人の資質論に問題をすり替えるでしょ。僕自身、柔道部だったからその種の体育会系ノリは嫌いではないし、その種の「うおりゃ」ってパワーはわかるよ。でもそれだけに根性の適正な使用場面というも分かる。下品にガハハとやってりゃ強いとか偉いってもんじゃねーだろ。それじゃ人格劣化した順に偉くなるようなもんじゃんよ。ま、実際そうだし、そういうクソ親父が権力もってるのが世の中だから、そんなのにひるんでたらダメだよってのはあるけど、でもそれはまず第一に馬鹿が権力持ってる状況が間違ってるのであって、人間として普通の感性を持ってたらひるんで当然。それを踏まえて、でも頑張ろうじゃんって背中から激励するという文脈で「ひるむな」というなら分かる。しかし、「甘い」の一言で全てをもみ消すかのようなレトリックには蹴りを入れたいですね。

仕事してるじゃん

 第三に、ここからさらに話はディープになるのだが、この件について塩村都議の質疑自体がお粗末であるという全く違った観点からの意見もありました。所論は、要するに質問が総花的で通り一遍すぎて、深い切り込みもないし、対案や条例の提案もない、しょーもない質問内容であり、野次られて当然とするものです。新しい視点で、なるほどと思わせられる部分もあります。

 しかしね、と思う。確かにツッコミは甘い。通り一遍の官僚答弁を聞いてそれで終わりって感じもする。意味あんのかって気もする。が、しかし、「そんなもんちゃうの?」って僕の実務感覚では思うのも事実。これは馬鹿にして言っているのではないです。だいたい新人議員の議会初デビュー質問というのは、一種の場慣れや儀式みたいな側面を含むんじゃないの?議員やったことないので、そのあたりの感覚はわからんけどさ、職業人のリアルな感覚としてはそう。実際そんなもんちゃうのん?

 そりゃ、「一分一秒も無駄にせず議員としての職責を」って意見もあろうが、それ、クソ建前だろうが。もうさー、建前言うのやめへん?意味ないし。だったら聞かれたことに答えないで関係ないことばっか繰り返しているどっかの安倍川餅はどうなるんだ、ソツがないけど無内容な官僚答弁はどうなるんだ。常に全会一致の取締役会、シャンシャンで終わる株主総会はどうなるんだ。たまに激しい反対意見が寄せられるパブコメや公開ヒアリングがあったとしても、立法過程ではガン無視という現状はどうなるんだ。そして、もともと都議会では儀式化せざるを得ない慣習があるのは後述。

 それを別にしても、そもそも質問時間11分でなんかやれってのが無理っしょ。議席に応じて配分されるからしょうがないんだけど、過去に何百回と法廷で証人尋問やってきた経験で言えば、11分やそこらで何が出来る?です。この種のプロの技術は確かにあって、相手の話しやすそうなことを聞き上手に聞いて、相槌うって、どんどん喋らせて勇み足を誘うとか、言質取るとか。ちなみに〜って関係ない質問をひょいと投げかけて言質とっておいて、伏線仕込んでおいて、それも関係なさそうなところに3つも4つも仕込んで逃げ道塞いでおいて、1時間後に全く想定外の視点からそれらの矛盾を突いて一つの方向に追い込んでいくとか。もう詰将棋と一緒。でも、11分でこのボリューム内容を聞くなら、法廷でプロがやったところで総花的にならざるを得ない。ほとんど儀式的になっちゃうよ。それに対案だの条例だのいうけどさ、確かにそれが出来やら理想だろうが、いきなり与党でもないみんなの党の新人議員が条例を発案しろとかいうのも無茶な話じゃないんですかね。質問時間もたっぷりあって、根回しも十分あって、勢力のある党から全党態勢でバックアップを受けてやる勝負質問だったら話は別だろうけどさ。

 だったら結局議会って何のためにやってんの?って話になるのだけど、それは例えば問題提起機能やら争点提示機能ってのがあります。イチ地方議会といえども、細かな行政問題は数え上げれば数百から千を超えるオーダーがあるし、その全てに精通している議員も官僚もいないと思いますよ。ほとんど無限にも思える問題の中から幾つかをピックアップして、選挙で選ばれ支持者もいる議員が議会で問いかけることは、ある特定の問題について行政現場に対するプレシャーにもなる。また世間に対して「え、そんな問題があるの」というパブリシティや広報機能があります。公害裁判や行政訴訟なんか、ほとんど広報効果のためにやるようなものですもん。そして、それはジャーナリズムとの連携が大事で、とある質疑が行われ、それが皆が知っても良いような問題を含むのであれば、記事やニュースという形でしらしめる、それがジャーナリズムの本来の姿だと思います。で、それはやってるのか?といえば、やってないじゃん。

 次に塩村都議は、総花的に通り一遍の活動しかしていないのかと、ご本人の公式WEBをみてみました。やってるじゃん。リンク貼った頁は、動物愛護管理審議会での「8週齢」規制に関する都行政現場での交渉の内容が書かれています。その他の活動をみても、素晴らしいと絶賛するかどうかは別として、やることはやっている。どっかの業者とゴルフやって、会食やって、旅行ばっかしている議員(あ、首相もか)と違って、まあやっている、少なくとも何もしてないってことはない。

 そして、平成25年度11月【事務事業質疑】待機児童&動物愛護行政というご本人のエントリーを読むと、「都議会は自由な質問というものはできないそうです。前日までに渡した内容以外のものは慣習でできないと聞いています。ですので、委員会でも原稿を読むスタイルになっています。つまり、回答骨子を前日までにすり合わせておかないと、おきまりの「これまでこんなことをしてきました。今後も続けてまいります」というワンパターンで終わってしまう」と書かれていました。え、そうなの?って。都議会って自由な質問が出来ないの?質問事項を予め渡して、それ以外のことは「慣習上」出来ないと。なに、その慣習?そりゃ、細かな数字や実態をいきなり聞いたって答えようがないかもしれないから、ある程度のテーマくらいは渡してもいいけど、シナリオ通りの質疑応答なんか、それこそ意味あんのか?です。

ウルトラマン的世界観

 第四に、今は号泣ノノちゃんがオモチャにされるのを皮切りに、議員バッシングが盛んだけど、そーゆー問題かよって言いたい。不正を正すのは大事なことでしょうよ。でも、巨悪レベルにシステマティックになってる不正を糺すのでなければ、大した意味はないと思いますわ。刑法だけで世の中良くなるわけがない。例えば、試験がありました。カンニングしている人がいて、それが発覚しました。厳重な処罰と再発防止に喧々諤々議論がなされています。でもね、大事なのは、ちゃんと学力がつけられる人的物的な学習環境が整っているのか、もっと改善の余地はないかじゃないですか?不正というのは、ある意味例外事例なのであって、そこばっか叩いても、本体をガン無視してたら意味ない。

 でもねー、世間やマスコミはこれをやるんだわ。こんなに悪い、こんなにひどいって事例を上げて、そればっか集中的にやる。それはそれで大事なんかもしれないけど、所詮はスキャンダル。面白いウワサ話であり、大した生産性もない。これが組織の根幹やら全体を覆っている問題だったらいいですよ。それを直したら全般に世の中の流れが良くなるから。でも、カンニング犯をいくら叩こうが、皆の学力が上昇するわけはないのだ。これ、子供の頃から不思議だったんだけど、なんで世間の大人は馬鹿なことばっかやってるのかってマジに不思議だったんだけど、一向に改善される兆しがない。本件でいうなら、システマティックに形骸化していきそうな都議会の質疑の慣習こそが議論されていいじゃないでしょうかね。

 これ、ウルトラマン的世界観とでも呼びましょうか。怪獣が現れました、大変です、危機です。そこにウルトラマンが現れて怪獣を倒しました、めでたしめでたしって。つまりどっかに悪党がおって、こいつがいるから全てが悪いんだって諸悪の根源構造をもっていて、その悪党をやっつけたら素晴らしい世界になります。小学生の世界観。善と悪のシンプル二元論。日本刀の刀鍛冶じゃあるまいし、叩けばいいと思ってる。

 夢を壊すようで悪いんだけどさ、もし仮にそんな悪党がおったとして、そいつを倒したとしても、賭けてもいいけど、こと貴方の人生に限っていえば別に良くなりはしないと思うよ。あんま変わらないんじゃないかな。裏口入学がバレて関係者が逮捕されても、だからといって不合格者が全員合格になるわけではないもんね。金持ちを貧乏にしても貧乏人が金持ちになるわけでないってのはサッチャー女史のセリフだったか、でも本当そうだよ。勿論不正は追求すべきですよ。自分に関してはなんにも変わらなくても、一種の公的な義務としてね。

地方議会の意味

 第五に、地方議会の意味なんですけど、僕はすごーい意味があると思ってます。
 これは政治とは何かって話なんだけど、別に戦争だ増税だって大きなことだけじゃないです。もっと身近で、自分達の目が届き、手が届くところから一つひとつ解決していくことでしょう。地味なんだけど、地味なことが一番意味あるし、一番皆の日常に跳ね返ってくる。日々の暮らしに直結するようなことでも変えられることは山ほどあるし、実際にあれこれ取り組んでいる自治体はたくさんあります。政治家というのは、大向こうを唸らせてヒーローにならんでいいです。クラスの図書委員と本質は同じだと思う。

 そしてその種の物事は、ある程度関心があって、多少勉強して現場を見れば、誰だって一応の水準にいきます。だから政治家ってのは素人がやればいいと思ってます。ある特定エリアに対する深い見識が必要だって思いがちだけど、要らんよ、そんなもん。そんなこといえば、業界で何十年もメシ食ってる連中の方が絶対によく知ってるし、行政サイドの官僚の方が知っている。知識や政策提案だけならロビイストもシンクタンクもある。政治家要らないじゃん。むしろ政治家の本質は、その素人的な視点にあると思います。知ってりゃエライ的な価値観だと、どうしたって業界の常識、世間の非常識みたいな、手前勝手で歪んだ世界観(世の中こんなもんですよ的な)が入ってきちゃうから、そこをズブ素人の素朴な視点「え?なんで?」って矯正していく部分が大事だと。専門家と大衆をつなぐ橋渡しでいい。陪審員みたいなもんでいい。

 前に国会議員抽選制で書いたけど、今の政治のプロって、結局は選挙のプロでしかないもん。どの支持団体とどういうコネを築き、どの党、どの派閥に属せばいいかって。でもそれは議員個々人の「就活」問題でしかない。しかし就活の段階にあちこちに義理ができちゃうから、利益団体の代弁者みたいになって、既得権益増強システムとして政治が機能するという馬鹿みたいな話になっている。もちろん、本物の政治のプロってのはありますよ。リンカーンにせよ、ホセ・リサールにせよ。また細かな地味な問題だけやってると、ワンラインパーティとか馬鹿にされるし、木を見て森を見ずって弊害もあるよ。そんなこんなも百も承知だけど、じゃあ今のが良いのか?今の日本の政治のプロが理想型なのか?というと疑問ですね。

 メジャーな話題になる政局とか政権とか、えらく重大っぽく報道されているけど、考えてみれば所詮はプレーヤーが交代するかどうかって話に過ぎないでしょ?単純に議員個々人の「就活」問題に過ぎない。本論は彼らが何をどう変えるかでしょう。

 思うに、今の政治も官界もマスコミも枕を並べて劣化している今日この頃においては、彼らメインストリームの改善更生を期待するのは「百年河清を待つ」(待つだけ無駄)って気もしてます。だとしたら、素人に毛が生えたような、てか素人そのものが、つまり僕やあなたが、「ここ、ヘンだから変えていいすか?」って直接手を突っ込んで変えてちゃった方がいい、そういう流れの方が希望が持てると思います。でもって、当局がウジウジいっててやらなかったら、「あ、じゃあ、自分らでやりますわ」でどんどんやってっちゃった方がいい。その意味では小泉、小沢チルドレンとか橋本チルドレンと言われた、ピヨピヨ若葉マークの新人達、次の選挙ではもう潮が変わって落選確実みたいな人達の中に、むしろマトモな人がいるんじゃないかと思ってます。もちろんしょーもないのもいるだろうけどね、でも、そんなんどんな業界だってそうだもんさ、驚くには値しないでしょ。何でもシニカルに否定すればカッコいいみたいなノリって、いかにも頭悪そうじゃん。

 というわけで昨今の議員さん不祥事の流行報道については、そんな不正がどうとかいうよりも、彼らがどんな仕事をどれだけまじめにやってきたのかってのを伝えて欲しいですね。そして基本、日頃から真面目にやってるなら、多少のお小遣いの誤魔化しくらいだったら、僕は許しますよ。僕らだって子供の頃から、それこそおやつは300円のところを500円買って隠し持って行ったり、出張経費をちょびっと水増ししたり(金券ショップで買って正規料金を請求したり)、ねえ、ええやん、そのくらい。それよりいい仕事してるかしてないか、じゃないですか?

 そして、その日常業務を、もうちょい僕らも関心をもったらいいんだろうなって思ったのでした。

お墓とデスケアの話

 これは“先祖代々の墓”はなくなってしまうのかというプレジデント誌2012年9月3日号の記事で、すでに2年以上前なんだけど、「ほお」と思ったので。

 内容はリンクをたどって読んでもらえればそれでいいんだけど、一応抜粋しておくと、まず「墓石」という存在は江戸中期以降に出てきたもので、火葬が普及したのは明治末期、全国的に普及したのはごく最近(1960年ころ)だそうです。だから、墓石に「先祖代々の墓」といっても、全然先祖は代々そこに居ない。せいぜい2−3世代。もっと歴史を遡れば、日本の庶民は火葬も土葬もせず、ほったらかしの風葬だったそうな。別にそれが罰当たりでもなんでもなく、魂をリアルに信じているがゆえに、器(肉体)にはそんなに敬虔な感情を持たなかったとか。甕棺とか屈葬とかあるから、いつの時代かわからないけど、でも庶民に話を限定すれば、確かにそんなに大仰なことをやってる余裕もなかったのかもしれません。

 墓石も個人墓から家墓になるのは江戸末期で、明治時代に庶民に苗字を認めて家制度がひろまってかららしい。そうだよな、家制度が我が国古来の美風とかいう人いるけど、そもそも庶民には苗字がないから家って意識も薄かったのかもしれないな。それが明治になって、それまで熊さん八っつぁんで終わりだったのが、お侍がやってた苗字を持てるようになって、ちょっとみんな気分はセレブになって、セレブっぽいことやりたくなって、それで○○家とかカッコつけて言い出したのかもしれない。なんとなく腑に落ちるわ、この展開。

 また個人墓→家墓になったのは、@火葬の普及、A土地の節約という二つの要素あっての話らしいです。でも墓って誰かが管理しないといけないけど(いけなくは無いが気分的に)、昔は親類縁者がひとつの在所に住んでたから管理者に事欠かなかった。でも、時代が下るにつれ、都会に働きに出たり、核家族化したり、そもそも家族化しなかったりで、誰も管理してない無縁墓が増えているそうです。長男だから墓の面倒を、、とかいうのは、明治時代のセレブ家意識で浮いていたときの発想で、戦後はそうではない。少なくとも民法上の祭祀継承は「慣習による」で終わり。正確には、第一に遺言による指定、第二に慣習、第三に家裁調停で、相続権と祭祀継承とは全然関係ないっす。もっとも祭祀財産(仏壇とか墳墓の所有権)は、財産として相続の対象になりますけど。

 さっきも議会の慣習がでてきたけど、この「慣習」って面白いです。法学では「慣習法」って領域があるんだけど、それも「法」と言ってみただけって感じで、実態はよく分からない。日本各地の風習を調べていけば、それはもう柳田国男や水木しげるの世界だったりして、法律なんだか民俗学なんだか。この墓の祭祀継承もそうで、皆が長男が継ぐもの(昔の家督相続の概念とパラレルである)と思っているから、長男が継ぐものという「慣習」が出来て、それが法源(法のベースになるもの)になる。でも、そう思っているのはなぜかといえば、実は法律がそうなってるからとカンチガイしてるだけだったらどうか?カンチガイでもそう思い込めば慣習になるのか?つまり法律であるというカンチガイやら思い込みで、新たに法が創造されてしまうというパラドックス。なんか変なの。って。

 だもんで血縁関係があろうがなかろうが、嫁に行こうが養子に行こうが、まったく赤の他人であろうが、祭祀継承者がそれでOKといえばその墓に埋葬できる。少なくとも民法上はそう。もっとも祭祀継承者を慣習で決めるところ、その慣習が「長男は〜」という価値観をベースにしてたら、事実上そういうことはあまり無いでしょうけどね。てか、慣習も何も、そもそも祭祀継承者が居なくなっている。居ない人達の間で慣習も何もあったもんじゃないよというのが現代の状況で、昔ながらのなんとなくの感覚でやっていくには、あまりにも生活環境が変わりすぎてしまった、さあ、どうしようってところでしょう。

 ちなみに、死亡(埋葬)についての法律上の規定は、たった二つ。役所に死亡届を出すこと、蘇生の可能性があるので死後24時間は火葬してはならないこと、ただそれだけです。それ以外に法律はノータッチ。埋葬しなきゃいけないという決まりはないです。だから、今は色んな方法が出てきて、散骨も、樹木葬(墓の代わりに樹木を植える)もあるし。記事によると、散骨を希望する人は、全体では20%以下だけど、40−64歳の層では4割に跳ね上がるそうです。

 まあ、面白いのは最初の「先祖代々は先祖代々じゃない」って部分ですが、お墓の問題は、他にもいろいろな論点を含みます。例えば、長年連れ添った夫婦でありながら、夫と同じ墓には入りたくないという女性側のメンタリティがあったりします。これはなんか最近NHKで番組があったらしく、ご存知の方も多いと思います。入りたくないって人が6割もいたという。これ、なんか分かる気がしますね。単にダンナが嫌いってのもあるのだろうけど、要は家関係が鬱陶しいんだろうな〜。ダンナの実家にせよ、妻の実家にせよ、相手の実家に行くというのはキンチョーが伴いますよね。夫の「先祖代々の墓」に入るというのは、死後にその実家に行きっぱなし状態で固定されるという感覚があるのかもしれません。

 他の論点としては、いわゆるお墓ビジネスがあります。まあお墓だけではなく葬儀から一式の産業でいえば、アメリカで言ってるらしい「デスケア産業」ですね。葬式産業、埋葬産業、そしてお墓(霊園)産業。日本の場合、昔はお寺のほぼ独占だったんですけど、最近はいろいろ出てきている。将来的にはもっと変わっていくでしょうねえ。葬儀にせよ、霊園ゲットにせよ、どうかしたら数百万規模の話になっていくから、そんなお金はない!って人も多いでしょう。バブルの頃は、不動産投資みたいなノリで霊園ツアーとかよくあったんだけど、今はどうなってるのかな。このあたり興味を持ち出すとキリがないのですが、変わりつつある葬儀の課題という、すごく良くまとまっているブログがありました。なんつーか卒論一本分くらいのボリュームを実によく整理して書いておられる。葬儀関係の出版社さんですが、ご興味があればって、僕が興味ある。この論稿もただならぬものを感じますが、それより雑誌「SOGI」というのを刊行されており、そういうニッチな雑誌って大好きなんですよね。「葬送の原点と将来を問い続ける雑誌」っていいじゃんって思ったら、隔月刊だから年間6回で購読料が22800円。2万円強かあ、、、6冊で。一冊3500円くらい?す、すごいな。これ、業界紙なんですかね。うむ、世間は広い。


「愚民」の構造〜レイト・マジョリティ

  打って変わってマーケティング理論のブログから。永江一石さんというITマーケティングの方のブログですが、最先端のイキのいいネタが、「もっともらしくない」口調で、つまりは自分の頭で考えて地声で発してくれる読み応えあるブログです。

 このなかにキャズム理論(溝理論)の紹介があって、ネットからマジョリティへの認知にはキャズム(溝)が深すぎるという講義新聞はどうして売れなくなったかをキャズム理論で説くとすぐわかるです。

 まず、情報や流行が社会全体に普及していく普及学というのがあって、まず一番最初にごく一握りのイノベーターがいます。先覚的な人々。次にアーリー・アダプターという、かなり初期にそのトレンドを受け入れる、一般的に進んでいる人達。次に世間に知れ渡る段階になるのだけど、その前期がアーリーマジョリティ、そして遅れてレイト・マジョリティになり、最後にかーなり遅れているラガードという層になる。これはエベレット・M・ロジャーズという人が1962年に確立した理論だそうですが、今なお基本的発想は有効。その後1991年にムーアという人が、各層の間に大きなギャップ(キャズム)があるとしたのがキャムズ理論。

 ロジャースさんが言い出した60年前には、イノベーターとアーリー・アダプターを併せて16%としているけど、今のネット環境おいてはそんなもんじゃないというのが永江さんの見解。彼個人の体感値ではせいぜい0.1%くらい、日本では10万人くらいしかいないだろうと。イノベーターに至っては数百人程度だろうと。これはご自身の体験、かなり読まれている月間200万PVのブロガーとしての皮膚感覚ですが、この種の現場の感覚ってのは僕はレスペクトします。現場にいる人が一番知ってるから。で、この方の感覚によると、ある程度情報感度のいい日本人というのはせいぜいが0.1%程度じゃないか、そことアーリーマジョリティの間に深い溝(キャズム)があり、アーリーマジョリティの数はいいとこ150万人程度。1.5%。つまり情報感度が全然良くないレイトマジョリティが98.5%もいるという。ネットがいくら浸透しようが、大多数はネットショッピングやSNSをやるくらい、あとはYAHOOを見る程度。情報収集なんかしない。これですらアーリー・マジョリティで、レイトマジョリティになるとLINEやって、たまにショッピングやって、モバゲーやって、芸能人のアメブロみてってくらいで終わり。ラガードになるとたまに天気予報をみるくらいで、ほとんどの情報源がテレビ。

 つまり世間的に有名になろう、世間的にビジネスしようといったらネットだけでは絶対無理で、レイト・マジョリティ(98%)に届かせよとしたら、テレビや雑誌という旧メディアが圧倒的に強い。だからネットでビジネスをやろうと思ったら、最初からアーリーダプターとアーリーマジョリティ、全体の1.5%くらいの層に受けるような商品づくりをしないと無理だと。

 なんとも切ない話なんですけど、たしかに1日100万アクセス!とかいっても、100万ぽっちなんですよね。日本人口の100人に一人も見てないわけですから。

 その意味で新聞は絶滅するけどテレビは生き残るだろうって仮説が出てくるのですね。なぜなら、新聞というのは知識人が読むものという古い感覚がまだあって、それは昔のアーリー・アダプター、いまで言えば定年退職した元サラリーマンのお爺ちゃん達です。彼らが政治欄とか経済欄とか読んで、世の中の一歩先を見る。でも他の家族はテレビ欄とマンガくらいしか読まないというレイト・マジョリティ。レイト・マジョリティは、自分から進んで情報収集しないから、受け身のテレビは見続けると。

 で、時代が変わって、今のアーリーアダプターは新聞なんか読まないでネットで情報収集するし、今のメディアが嘘ばっかというのも半ば常識化している。自分ではアーリーなつもりの人達が今も新聞を購読してくれているわけだけど、こんなの時間の問題でいずれは消えていく。でもって昔ながらのレイトマジョリティは、最初っから興味ないからわざわざ新聞なんか読まない。

 なるほどねえって思います。
 まあ、この数値的な感覚は、時と場合により、トピックにより、違ってくると思いますが、この「遅れている人は、ありえないくらい遅れている」という点、そして「その遅れている人が殆ど全員といっていいくらい居る」という点は銘記されてよいでしょう。

 確かに肯ける点はあるのですよ。こんだけメチャクチャやってて安倍政権の支持率が半分とか。ようやく最近支持と不支持が拮抗したとか、不思議でしたもんね。そもそも自民に政権取らせるあたりで「あちゃー」って感じだったけど、そういうことねと。世論調査も、平日の真っ昼間に家の電話にかけて、それで応答する人ってことで、もう既にレイト狙いなんだけど、でもそのレイトが山ほどいると。

 メディア抱き込んでくっさい芝居打ってたりして、それがアーリー系の人達から見たら、モロバレ以上に丸見えで、こんなんで騙される奴なんかおるんか?って思うんだけど、いる。それも殆ど全員っていっていくらいそうだという。だからそのあたりの意識差というか、キャズム(溝)ってのは、思ってたよりもかなり深いのだなあって。

 この現状が、アーリー系の人にとっては苛立たしいというか、もう地団駄踏むくらいもどかしい。世間は馬鹿ばっかしって衆愚世界観、いわゆる「愚民」意識になっていくという。それって、微妙に自分は進んでいるんだ、エリートなんだって意識をくすぐるから、ムカつくけど、でもちょっと気持ちいいって微妙なところで収まりがよくて、、、みたいな感じですかね。

 ここで僕がぼそっと感想を述べると、まず第一に、周囲を見渡しして皆と同じようにするという、日本人独特の処世術=マジョリティ従属的な方法論では、場合によっては自殺行為レベルにヤバいぞって点です。なんというか、間が悪いったらありゃしないというか、今は時代の進展が三倍速くらいに早くなっている一方、高齢化が進んでレイトが膨大に居るという最悪×最悪みたいなタイミングじゃないですか。ちょっと前に書いたアフリカのm-Pesaにように、世界はそこまで進んでいる。もうアーリー系ですらダメで、イノベーターレベルに感度ビンビンに尖んがらかしてないとついていけない。でも、一方ではワイドショーだけが情報源って人達がワンサといる。それも高齢化やら人口構成の逆ピラミッドやらでめちゃくちゃ多い。

 こんな状態で「周囲を見て」なんてやってたら絶対に間に合わないでしょ。津波にドドドと押し流されて、溺死寸前になっていても、それでもまだ気づかないみたいな話で、「皆と同じ」だったら、もうその時点でヤバいぞと。

 第二に、アーリーだレイトだとかいっても、トピックによって全然違うでしょう。政治経済とかそこらへんでアーリーのつもりで喜んでいても、他の分野、それこそ1000くらいあるじゃないかって領域では、旧態依然としたレイトだったりするわけですよ。最先端の林業はどうなっているのか知らない、最先端の海底ケーブルの技術がどうなってるかも知らない、恐山のイタコの最近の事情も知らないし、鳥取砂丘が最近どうなっているかも知らない、バイオリン奏法の世界のトレンドも知らない。つまり、自分の興味のある分野ではすごく知ってるかもしれないけど、それこそが全体でいえば0.1%くらいであって、圧倒的大部分の領域では、レイトマジョリティ、あるいはレガード。

 そのへんはキチンとわきまえるべきだと思うのですね。自分の得意科目だけを視座の中心に据えて、「世間なんか馬鹿ばっかし」ってうそぶいているのって、けっこーカッコ悪いです。こましゃくれた小学生が、クラスの流行について、「えー、おじさん、そんなことも知らないの〜?」「しょーがねーなー」ってエラそうに言ってるのと似てる。てか、同じでしょ。
 
 第三に、これは従来から書いてることだけど、「マス」で物考えるのは無理だなと。政治や社会でも、社会が全体的にこう変わって、こうなって、、、ってやってたら、うんざりするほど時間がかかるし、場合によっては手遅れになる。またビジネス的にも、マスでやるのは無理がある。旧来の方法論はレイト系に通用するけど、時間の流れでレイト系はいずれ消滅するから構造的にジリ貧にならざるを得ない。新聞がそう。レイト系は一気にドカンと変わることはないから、しばらくは旧来のシステムが通用するし、現にまだ通用しているけど、でも展望はない。櫛の歯が欠けるように、少しづつ、まるで関空のように毎年少しづつ地盤沈下していく。

 これは別の話になるんだけど、ちょっと前にアメリカの偉い学者さんだったかな、出典忘れちゃったけど、大企業は必然的に衰亡するって論文があったそうな。これもなるほどねと思ったんだけど、時代が変わり、商品トレンドやビジネスモデルが変わるんだけど、新しい潮流はほんの1-2%のボリュームだから、そっちに移りたくても移れない。なぜかといえば、大企業だから。多くの従業員や財務をキープしようとすれば、いくら将来有望だろうが、そこに重点置いたら全員養うことなんか出来っこない。それこそ98%くらいリストラしないとダメなんだけど、そうなったらそれはもう大企業ではない。じゃあ解散しますかっていうと、そんなことも出来るわけがない。

 つまり図体のデカさが仇になる。普遍化していえば、マスで物考えていてもダメだってことなんじゃないかな、と。

 これをビジネスとか起業に置き換えていえば、100人のうち99人が知らない or ネガティブな反応を示すようなことがむしろ有望であると。1%かそこらのアーリー系に焦点を絞るしかないんだけど、日本市場でいえば1%といっても100万人はいるんだからね。客数に不足はないでしょ。てか、月間数人程度の顧客でなんとかメシは食えるって感じのビジネスモデルの方がやりやすいと。

 おお、結構長くなっちゃった。まだまだ思いついちゃったけど、時間がないので今回はこのへんで。





文責:田村



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