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今週の一枚(2014/07/21)



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Essay 680:趣味は「生きること」、仕事も「生きること」

 写真は、Glebeにある(昔はBalmainだった)、チェコ料理店のLa Bohemで食べたPork Knuckle。チェコ風のトンソク(豚足)ですね。いや〜マンガで出てくる記号的な「肉」(はじめ人間ギャートルズにでてくるような)ってビジュアルで、「本当にあるのね、こういう物体」って感じ。

 見た目グロテスクなんですけど、すげー美味しい。しっかりローストされて皮なんかがっちりパリパリだし(北京ダック以上)、脂肪は脂分がいい感じで抜け落ちてふわふわで河豚の白子みたいな食感。臭味ゼロで、豚肉ってこういう味だったのかって。やっぱこの種の欧州料理食べると、千年以上肉食ってる奴らは食べ方よく知ってるわって思いますねえ。

 でもって、量がすごい。日本のファミレスのステーキ4枚分くらい優にあるし、女の子だったら4人でシェアしてもいいくらい。下の写真は、4分3くらい食べ終わった時点で、最後に肉を全部バラした状態ですが(皮は硬いが肉は箸でほぐれるくらい柔らかい)、それでもこのくらいあるもん。

 週末だけやってるランチのスペシャルメニューで、これにストラッデルなどのドーン!というデザートがついて29ドル。お値打ちだと思います。カミさんと二人でもう一品別の頼んで、結局食べきれず。お持ち帰りのTakeaway。しかし、その晩はまったくお腹が空かず晩飯イラズ。

   




 趣味:"生きる"こと
 仕事:"生きる"こと

 てな感じがいいよねって思う今日このごろ。

 ヤブカラボーに何を血迷っているんだとお思いでしょう。
 まあ、おかげさまで、今日も元気に血迷っているのですけどね、でもね、奇をてらってるわけでもなく「結局、そーゆーことじゃん」って思うのですよ、心底。

too busy to work

 ずっと前、オーストラリアに来たばかりの頃に書いてた「シドニー雑記帳」の最初の方(1996年)の"Too busy to work"でも述べたのですが、「忙しすぎて働いているヒマなんかありませんよ」ってな感じだったんです。

 何にそんなに忙しいのか?っていえば、不慣れな海外で何をどうすればいいのか分からず、日々の生活を普通に切り回すだけでヒーコラいうくらい大変だったからです。で、ムキになってやっていたら、それが新しい発見の連続で毎日がやたら楽しく、こりゃあ面白いわ、働いているヒマなんかないわなって、素直にそう思えた。

 日本にいるときに貯めてた弁護士開業資金も「この際、全部使っちゃえ〜!」で、金稼ぎもしないで興味の赴くままあちこちいったり(全サバーブに行く!とか)、新しい料理や味を試したり、なんだかんだやってました。APLACの基礎はこの時期出来たと言ってもいいです。初期の「無ければ作れ日本食材」とか「オーストラリア人の肖像(翻訳)」などのコンテンツが出来たのもこの時代。そもそも触ったことがないパソコン(ワープロはやってたけど)を初めてこっちで買って四苦八苦して動かして、自分でメモリー換えたり、ジャンパーコードが分からなくて困ったり、まだ世に出たばかりのインターネットでHTML文法を独習してってのもこの時期。

 そして、家のどこが壊れたとか、車が故障したとか、普通に生きてればでてくる生活業務があります。これを全く日本で履修してこなかったなとか感じて、いちいちやってました。タイヤ交換もしたことなかったので、この機会に自分でオイル交換してみたり、オイルフィルター換えてみたり、オイルフィルターを交換するためだけの特殊なレンチを買ったり。そういえば工具一式のサイズも欧州車のインチサイズと日本車のセンチサイズの二種類があるのを後から知って又泣きながら買い替えたり、ファンベルト交換してみたり。水道の蛇口をバラして、ホームセンターに買いに行って、サイズがうろ覚えだからまた戻って確かめて、また店に戻ったらそれでも何種類もあって、えいやで買ったらやっぱり間違ってて、また買いに行ったり、蛇口の芯棒につけるOリングとかテーピングとか知らない部品をミスって全然ダメで全身びしょ濡れになって、でシクシク泣きながら着替えてまた買いに行ったり、、、。

 なんせネットがろくすっぽ整備されてないから、何を調べるにも一苦労。友達や親に頼んで日本から本を送ってもらったり。「日本料理の基礎」なんて昭和40年代くらいの本を送ってもらって、それが実に渋くてナイスで、それを見ながら「カレイを五枚におろす」なんてのを独習してみたり。

 もう、ね、「生きていく基本が全然出来とらんやん!」「根性叩き直さなあかんな」って自分で思って。とにかく自分が生きていくうえで必要なことは全部自分で出来ないとあかん!くらいの感じ。裁縫も見よう見まねでやって、ミシン買って、ボビン交換?なにそれ?ってやって、、、、まあ到底全部は出来ないんだけど、それでも可能な限り学ぼうと。もう子供みたいなもので、壊れたら→バラす。壊れた時計バラして、壊れた洗濯機もバラして。でもってこっちはDIY大国だから、型番さえわかれば部品売ってる店があるからそこまでいって買って、とか。

 僕は34歳でこっち来たのでワーホリやってませんが(当時は25歳までだったし)、今から思うと最初の数年はワーホリ時代であり、ラウンド時代だったんだと思います。「ひとりで生きる」ってことを学んでいたという感じ。ホームページのHTMLもJava ScriptもCGIも画像処理もSEOも全部独習したし、クソ面倒くさいタックスリターン(確定申告)も、ATO(国税局)から資料ダウンロードして減価償却の耐用年数比率を読みふけって、自分でやってます。

 このあたりの「知らない分野に体当たり〜!」ってのは、弁護士時代に医療過誤とかやってたので慣れてるし、それが役に立ちました。てか、何がどうっていうよりも、役に立たなかった経験なんか一つもない。何をやっても全部役に立つよ。「お金」と「経験」だったら迷わず経験を取るべき。言うまでもない。だってお金は使えば無くなっちゃうけど、経験は使っても減らない。むしろ使えば使うほど増える。どっちが得か?「言うまでもない」ってのはそういうこと。だからこの時期ぜーんぜん働いてなくて(てかオーストラリアに来て21年間「給料」というものをただの一度も貰ったことがない)、この時期は有り金全部叩き込んで「経験」に交換していたのでしょう。一種の「投資」です。

 で、そういう日々が大変だったかというと、そりゃあ大変だけど、でも、面白さの方が勝っていた。大変なだけだったら止めてますよね。大変であるほどそれを克服すると「おお〜!」だし、達成感とともに飲むビールが美味いし。もうハマっちゃいます。子供の頃に原っぱで基地作ってた感じと同じ。

 そして、今日現在、まだそれやってます。今でもスーパー行くのが楽しくて、「なにこれ?」と知らない物が沢山あるし。いつも言ってるけど、もうあと1000年くらいかかりそうな感じ。学ぶべきこと山ほどあって、もう全〜然だよね。それがうれしいし、それが楽しい。ケーキ大好きなあなたが、見たこともないような、そして美味しそうなケーキを1万種類売っているケーキ屋を発見してしまった、みたいな感じ。

 だから、仕事(生きていく上でのメイン業務)は何?って言われたら「生きること(生活すること)」であり、趣味(サブ業務)も生きてることです。正味の話、そうとしか言えない。

 「仕事もせんと、ふらふら遊んでて〜」みたいには殆ど思わなかったな〜。なんか、直感的に「人間として正しい方向をいってる」感はあったのですよ。仕事?なにそれ?って感じ。あのチャカチャカ動いて、会いたくない奴に会って、下げたくない頭下げて、やりたくないことやって、幾分かの小金をくすね取ってくるアクティビティを「仕事」って言うの?ふーん、俺はそうは思わねーけどね。毎日手を抜かずにちゃんと生きることが人間の「仕事」なんじゃないの?って。

 まあ、そう自然に思えたのは、日本にいるときに平均的な日本人よりは遥かに働いて、平均よりは稼いでたから、その種の仕事コンプレックスが殆どなかったからでしょう。思うに就活したり、ガンガン働いたり、ステイタスやらを得たりすることのメリットはたった一つ、その種のくだらないコンプレックスから自由になれるというただそれだけだと思う。「それだけ」って言っても、人によっては結構大事なことかもしれないので、願わくば人生の早い時期にそれやって、「早いとこ潰しておきなはれ」「こじらせると厄介だて」って気もします。

Big Picture

 そりゃAPLACで学校紹介でコミッション貰ってという収益部門はあるけど、全体からしたらごく一部でしかない。そもそもなんでコレやってるのかといえば、海外生活=基地を作る快感=が面白いから、ついつい言いふらしたくなっているというのが原点です。原点というよりも全部かもしれない。

 「こんなん面白いで〜」とか、遊び方やら、攻略方法やら何やら。その一環として、英語は出来たほうがいいっていうか、出来ないとかなりキツイよ、いろいろやってみたけど最初に固めて学校行っちゃうのが結局一番速いぞ、長い目でみれば効率で10倍は違ってくるぞって真実そう思ってるからやってるだけです。でもビザ取り学校の斡旋とかになると、「そんなもん自分で出来るやろ?」で、あんまりヘルプも要らんだろうということで業務対象にあまりなってない。

 もちろんお金勘定は大事なんだけど、それも全体の大きなものの一部であり、全体を壊さないようにそのピースを上手いことハメこんで、機動させてってところがパズル的に面白いです。自分でなにか大きなマシンを発明しているみたいなもので、全部手作り。エンジン部分とか、排気部分も自分で作って、それをはめ込んで、さあ動くか?みたいな。

 その「大きなもの」って何なの?というと、適切な呼び名がないんですよね、日本語にも英語にも。"live my life"としか言いようがない、「生きること」としか形容できない。仮に”Big Picture"とここでは呼ぶけど。で、それが面白かったら、ここからが仕事でここからが趣味ですよってボーダーが無くなってしまう。一枚の大きな絵の部分部分でしかない。それは単にボーダーが曖昧になるだけではなく、本質的には「大きな絵を構成している」という意味では同じことになっていく。

昔からある

 なんか抽象的でヘンテコな事を言ってるようだけど、でもそんなの昔っからいくらでもあります。
 バガボンド的に武者修行するのは、あれは仕事なのか趣味なのか?どっかに仕官の口を見つけるということに力点をおけば就活なんだろうけど、でもそればっかではない。「剣を極める」とかいうのは、あれは仕事なのかい?趣味も仕事も超越したライフスタイルであり、ライフそのものではないのか。昔の武士がサムライやってるのも、金のために仕方なしに仕事としてやってたのか?ライフスタイルをさらに超えたアイデンティティそのものなんじゃないか。発明家とか、錬金術師とか、登山家とか、アーティストとかもそうでしょう。仕事なんだか趣味なんだか人生そのものなんだかアンデンティティなんだか区別できない。全部がドーンとひと塊になっている。起業家もそうですよね。トータルに面白いからやってるだけで、そりゃお金儲けを目指すけど、それってゲームでハイスコアを目指しているようなものでしょう。

 思うに、仕事/趣味の二元論、あるいはライフ・ワーク・バランスという二元論は、アーティストのように人生全部ブチ込めるトータル・アクティビティがまだ見つかってない人が、テキトーに時間を切り売りして換金して生計をたてて、その剰余時間で遊ぶというライフスタイルがベースにあるのでしょう。別にそれが悪いわけでもないし、それで納得してたら全然OKです。ただ、そういったパターンが全てでもないし、それが人類のスタンダードってわけでもないでしょう。全面没入のトータル・アクティビティが出てきたら、そういう「授業時間と課外活動」みたいな区分けは意味を持たなくなるでしょう。自然とね。

普通の9 to 5でも十分

 そして、今回言いたいのは、そんな錬金術師とか音楽家とかすごく特殊なことをやらなくても、そこまで全人生没入〜って凄いことがなくても、普通に生きてるだけでも十分に同じことなのではないか?ってことです。

 9時〜5時で働いて、ちょっと副業やって、週末は子供と釣りにいって〜というライフスタイルでも、ここまでが仕事でここからが趣味でって、そんな「一時限目は現国で、二時限目は英語」みたいに考えなくても、トータルに「生きてる」ってまとめて考えたらいいんじゃないのかなあって。

 そーゆー「ライフ」を「やってます」って感じ。「生きる」ということをやってますと。
 その中に、収益部門がありーの、生産性向上企画部(もっと割のいい職を探す)があり、釣り&自然体験事業部があり、子育て家族部門があり、ちょっとロマンスやらエロ部門があり、、、、って感じで、トータルで一個の企業体っつーか、プロジェクトというか、マシンというか、その「大きなもの」をトータルにマネージしているのが自分であり、それを楽しんだり苦しんだりしてながらやってます、という具合に考えられないのかな。

一部門に過ぎない

 何が違うの、その効用はなんなの?っていえば、うーん、多分精神健康かな。まあ、自分としては単純にそう考えた方が「面白いから」ですけど。

 なぜって、そう考えると、給料が安いとか、上司に怒られたとか、就職が決まらんとか、失業したとか、金が足りないとか、それだけで青ざめたり、胃が痛くなりそうなことも、ぜーんぶ相対化出来るからです。「うーん、○○部門が最近パッとしないねえ」程度。別に全てがダメになったわけでもない。

 ついつい日本のような皆が生真面目な社会環境にいると、生計とか金銭収支という経理部門が突出して巨大になりがちだけど、あんなもん忘年会や文化祭の「会計係」でしかないという本質が突き放して見られる。何処でやるか、何を食べるか、日程はどうするか、何をやるか、、、つまりは「どうやって楽しむか」がメイン事業部であり、それを遂行するために、会費は幾らにしましょうとか、会場での徴収係を誰にしようとか、領収書は出すのかとか、あとで集計して会計報告をするとか、そういう付随業務が出てくるわけで、それだけでしょう。

 参加者がお金がなかったら、オーストラリアでよくやるポット・ラック・パーティ(皆が自分のゴハンや飲み物を持ち寄って、皆でシェアする)にすればいいし、会場なんかそこらへんのビーチでも、誰かの家でもいい。どうせ一人でいようが皆でいようがメシを食うのは一緒なんだから、これなら事実上支出増はゼロに近い。やり方なんかいくらでもある。大事なのは「面白いことをする」ことであり、楽しい時間を過ごすこと、"Have a good time"であり、それが出来れば何でもいい。だから金勘定なんか全体の一部にすぎない。逆にいえば、幾ら金があっても、稼げても、面白くなかったら意味がない。いくら会費2万円でゴージャスな会席料理を食べても、イヤな奴ばっかり集まって、一触即発のツンケン険悪ムードだったら、"have a good time"になってないから意味がない。

 でも経営=経理というしょーもない勘違いをしがちですよね。財務諸表をみれば経営が分かるって、それは分かるかもしれないけど、財務分析をしたって経営はできない。それは健康診断の数値をみればその人の健康状態はわかるけど、そんなガンマGTP値がどうかとやっていても人生そのものは分からない。肝機能が低下しているから離婚しましょうとか、関係ない。だから人生と経理・金勘定は全然別のレベルです。初デートで張り切って、散財して、あとで電卓叩いて青ざめている程度の関係性で、カネがかかるから人を愛するのは止めようなんて思わないでしょうに。それと同じことです。

何も失われていない

 なんというのか、人生というのは生きてる全部の時間×空間のことだから、絶対になくなったり壊れたりはしない。死なない限りね。キャンバスそのものはある。上に描かれた絵がどうであろうが。

 億万長者になろうが破産してホームレスになろうが、それらはテレビの画面の出来事であり、テレビのサイズが縮まったりテレビが壊れたりすることはない。麻雀で振り込んでハコテンになろうが麻雀卓は消えてなくなるわけでもないし、パチンコで負けようがパチコン台も寸分違わずそこにある。何も変わってない。ただその上で展開されるあれこれの局面や場面がちょっと変わっただけのことです。

 ここ、ちょっと分かりにくいからもっとネチっこく書くね。
 例えば今の日本経済はダメだとか、金融システムが破綻してほぼ全員破産状態になったとかいっても、だからといって日本列島が海に沈むわけではないし、富士山の高さがすり減ってチビになるわけでもない。日本人の背丈が半分になるとか、人が煙のようにかき消えるわけでもないし、樹木も枯れない、魚もいなくならない。今この瞬間に日本人の所得がゼロになろうが、日本列島の上に乗ってるあれもこれも何も失われない。相変わらず太陽は昇ってくるし、朧月夜もあるし、春になれば桜も咲くよ。皆の時間が短くなるわけでもない。景気が悪いと1日が23時間になるとか、酸素の含有量が減るとかいうこともない。また人的資源も失われない。国がデフォルトになったからといって、皆の知識や技術が消滅するわけではない。会社が倒産しても運転の仕方や鍋料理の手順を忘れてしまうわけでもない。だから、物理的、現実的には何も変わらないのだ。

 このことをもっと徹底的に肝に銘じるくらい理解すべきだと思うのですよ。
 それは個人の人生でも同じことで、何がどうなろうが自分が自分であることに変わりはない。給料によって背丈が伸びたり、目玉が一個増えたりすることもないし、失業したら腕が一本なくなることもないし、身につけたスキルを忘れるわけでもない。そして、神様だか偶然だか知らないけど、たまたま貰ったこの「生きていく時間と空間」のサイズも長さも変わらない。

 何が違うといえば、単にマネージメントのやり方が変わったとか、外部環境が順風か逆風かとか、その程度のことでしかない。自転車乗ってて、上り坂になったのにまだ重いギアで走ってるから、スピードが落ちて、やがて止まってしまった程度のこと。自転車そのものも、乗り手も別に失われてはいない。

 だもんで、まずもって、自分自身は変わらないし、与えられたキャンバスもまた全然変わらない、ってことを理解すべきだろうと。

全部趣味

 だったら生まれてから死ぬまでの全ての時間を統括するでっかいキャンバス、Big Pictureを前提に考えていけばいいじゃないかと思うのです。

 そして、生きること全体を一つのプロジェクト、ひとつの趣味だと思ってしまえばいいんじゃないか。「生きることが趣味であり仕事だ」と。

 だってさ〜、誰だって「好きで」生きてるんじゃないのか?誰かに頼まれてイヤイヤ生きているわけでもないでしょう?生きて味わえる楽しさや面白さを求めているのでしょう。「死にたい」とか自殺願望のある人だって、人生が面白くないから死にたいのでしょう。ということは、もし面白かったら死にたくならないわけで、要するに「面白くなりたい」って基本は一緒じゃないか。それが上手くいかないから、スッてばっかりのパチンコ、振り込んでばっかりの麻雀、ボロ負けしている将棋みたいだから、「もうやだ」って気分になってるだけじゃないのか。たまたま上手くいってるかいってないかだけ、場面場面の局所感情の振幅でしかなく、「楽しく遊ぶゲーム」という大きなフォーマットは同じではないか。

 いずれにせよ、好きで生きてることに変わりはあるまい。好きで生きてるんだったら、一切合切ひっくるめて全部「趣味」って置いてしまえばいい。それを「仕事」と呼んでもいいし、そんなのはただのコトバの問題でしかない。「限られた時間をあれこれ使って、あれこれ楽しく面白くなりましょうゲーム・プロジェクトをやっている」と。

 趣味だから不真面目になるってもんじゃないよ。ハマった趣味だったら仕事の何倍も真剣にやるもんね。それに趣味だからといって快楽一色で塗りつぶされているわけじゃないよ。むしろ仕事以上に不愉快なことも多いのだ。釣りに行けばボーズだわ濡れるわ、山に行けば寒いわ暑いわ疲れるわ、皆でスポーツやればエラーして屈辱だわ、食べ歩き趣味で大枚はたいてしょーもない店に入ったら、やるせなさ炸裂だわで、いいことばっかではない。てか、冷静にみると悪いことの方が多いくらいです。個別に見ていけば、仕事以上に踏んだり蹴ったりの目に遭っているにも関わらず、いやそれ以上にお金は一銭も儲からず、どっかんどっかん出て行くだけなのに、それでもやるのは何故なのか?それでなんで楽しめるのか?

 それは全体の視点設定だと思う。やらなきゃならない義理も義務も一切ないのに、誰に頼まれたわけでもないのに、自分で好き勝手にやっているという、ただその一点でしょう。そしてなんでやるのかといえば、「面白いから」「楽しみたいから」でしょう。つまり「面白く楽しむため」というという揺るぎない大命題というか、基本視点の設定というか、パースペクティブがそこにはある。どーんとある。これがある以上、どんな嫌なことでも耐えられるし、だから止めようとは思わない。

自分の影で覆ってしまえ〜生き甲斐〜自己実現とはなにか

 そもそも「面白い」とは何か?自己実現や生き甲斐とはなにか?です。
 話が膨らみすぎるので簡潔に書くけど、自我が客観的に投影されている状態、だと思います。山頂に立ったり、高いところに居て太陽を背にすると、遠くの方に自分の影が投影されたりして面白いですよね。イメージとしてはそんな感じ。

 汚れた壁をキュッキュと清掃してピカピカになりました。このピカピカになった落差は、自分の力でやったものであり、そこに自分が投影される。大袈裟にいえば自分が何かを成し遂げた、「生きた証」みたいなものが客観的に生じる、それを確認してちょっといい気分になる。生き甲斐や自己実現ってそういうことだと思うのです。そして、その落差を生じさせる営み、それが少しづつ進展していく状態が「面白い」んだと思う。

 事故で搬送されてきて瀕死の患者を必死に手術して一命を取り留めることで医療関係者はそこに自我の客観投影を感じ、充実感や面白さを感じる。「おいしい」ってほころんだ顔を見て料理人はうれしいし、何十年もの市民運動がなんらかの規制や法案に結実すれば達成感をいだくし、草むしりをしてクッキリと綺麗になった敷地部分をみて自我投影を確認する。そういうことでしょう。要はそこに自我が投影されるか、そこで納得なり達成感なりを得られるかどうかが問題であり、それを趣味と呼ぶか仕事と呼ぶかなんか、本質的な問題ではないと思います。

 いわゆる「仕事」が詰まらないとか苦痛に感じるのは、第一になすべき対象・行動を自分で選べないで押し付けられたとき、第二にこの自我投影がよくわからないとき、ないしはマイナスに感じられるときでしょう。なんだか分からない大きな機械のほんの一部だけを、ちょこちょこいじってるだけの仕事の場合、なんでこんなことするのか分からないし、上手くやろうとかそういう工夫の余地もないし、上手にできたかどうかも確認しようもない。だから詰まらない。「客の顔が見えない仕事は詰まらない」とか言いますけど、そんな感じ。あるいは、本来やりたくないこと、やってはいけないとすら思うようなこと、お年寄りを騙してその善意につけこんで金をふんだくるような、やればやるほどマイナスに感じられるようなことは、やってて面白くない。

 でもそれは仕事一般が面白く無いのではなく、そういう楽しい自我投影が感じられない行為が詰まらんだけだと思います。もし仕事=苦痛でしか感じられないなら、それは仕事、ないしお金の稼ぎ方をかなり狭く限定しているし、そういう詰まらん仕事しかしてないのでしょう。

 長くなったので余談なんか書いてる余裕はないのですけど、思いついちゃったから。
 これは経済文明論になるのかもしれないけど、経済の進化や発展というのは、単に係数上のボリュームがどうしたという原始的なレベルに留まるべきではなく、雇用創出にせよ、その仕事の内容が面白いか面白く無いかがひとつの指標になるべきだと思います。だって詰まらん仕事が増えて経済量も増えたとしても、トータルでは皆の詰まらん時間が増えるだけの話で、全体の幸福に寄与するのか?と。経営でも労務管理でも、いかに面白い仕事を創出するかであり、いかに裁量の幅と自己投影のチャンスを増やすかだと思う。それを鑑みずに、単に労働者の使い捨てやら、絞れるだけ絞るみたいな経営は、経営の方法論としては劣等だと思うし、そういう経営モデルが主流になるのであれば、それは人類の経済が退化していると思う。

 これは理想論やキレイ事で言ってるのではなく、ここがダメだと、結局鬱が増えたり、景気が悪くなったり、少子化になったりという社会コストの増大というマイナス面の方が強くなり、トータルで大損こいてるわけで、だからスカタンでしょうと。ま、これは余談ですが。

 ここでは、自分の裁量、自分の一存で物事が決められれば、それだけ自我が投影される局面が増えるから、面白く楽しく感じるよという話であり、それならばどーんと投網をかけるように、人生まるまる一つのプロジェクトして捉え、その全部を自我の影で覆ってしまえばいいじゃんかよーって話です。

 そう考えれば、詰まらん仕事をしてしまったとしても局所的な事態に過ぎないことが分かる。そして全体のバランスや大局観からして、今はそれでいいと思うか、いや時間の無駄だからこうしようとか、いろいろと考えも出てくるでしょう。将棋でいえば、うっかり変な手を指してしまったがゆえにちょっと困ったことになっている、ちょっと戦局全体を立て直さねばという、自我マネジメントの問題に引き寄せられる、また面白さが蘇ってくるんじゃないかってことです。

実はやっている馴染みの話

 いまあれこれ書いていることって、馴染みの薄い発想ですか?そんなことないと思うぞ。僕らは子供の頃から、これやってるぞ。むしろ馴染み深い発想だと思います。

 人生まるごとというスケールだから分かりにくく感じるだけで、スケールダウンすれば幾らでも類例はある。例えば大学のキャンパスライフとか、学校生活とか、青春時代であるとか、もっとスパンを短くすれば「今度の夏休み」です。夏休みだ、長いぞ、いろいろ遊べるぞ、何をしようかなって思う。でも、宿題もてんこ盛りにあったりするし、小学生だとラジオ体操もあり、全校登校日なんてのもある。一方いろいろ遊ぶ計画を立てたりするんだけど、今度は資金がないから夏休みの前半はバイトに励み、後半○○にいってナンパ天国だぜ、畜生やってやるぜとか思う。いろんな部門があるわけですよ。一人で盛り上がってたら、案に相違してバイトが見つからない、見つかっても給料低いので金が貯まらない、宿題も後回しにしてるのがだんだんココロの負担になってくる、そうかと思えば、いきなり家族で帰省してお墓参りとかいわれて予定が狂う。

 高校時代でも、部活やって、勉強もやって、予備校も通って、バイトやって、友達つるんで、予想外に恋愛沙汰があって、そろそろ受験だから、でも部活も今度の県大会まではやりたいし、、、とか、いろいろとマネージメントするでしょうが。義務的な苦痛(仕事みたいな)ものもやらなきゃいけないし、本来の遊びもやりたいけど、この段取りと資金づくりが難しいとか、バンドやるんだとか言いながら人数集めに苦労したり、空中分解したり。大学でもサークルやったり、まじめに卒論やったり、下宿変えたり、貧乏旅行してみたり、バイトしたり、でも友達とくだらないバカ話やってるのが一番楽しかったり、そろそろ就活だよねとか。

 つまり限られた時間で、様々の事業部門があるなか、何をどのくらい割り振ってどうトータルマネジメントしようかってことです。それが予想外にあれこれあって上手く行かなかったり、でも結局なんとかなったり、泣いたり笑ったり怒ったり、、で、そういう日々が流れていく。過ぎてみれば、「ああ、夏休み終わっちゃった」「学生時代もこれで終りね」ってな感じになる。人生だって同じことだと思うぞ。「あ〜あ、終わっちゃった」って。

全部自分でひっかぶるから面白くなる

 なんだかんだありながらも、結局は全部自分が決めているわけだし、全部自分が好きでやってることに変わりはあるまい。いや、義理やしがらみでガンジガラメで、自分で決められることなんかほとんど無いぞって人もいるかもしれないけど、その義理やシガラミをどの程度重視するか、それともブッチするかは自分の決断でしょうが。村八分にされようが、後ろ指さされようが、それでも意思を貫く人は貫くわけで、それをしないという決断をしただけのこと。

 「だってしょうがないじゃん」と、あたかも外在的な理由で仕方なしにやらされている、選択の余地がないみたいな感じで言う人がいます。気持ちは分からないではない。そうやって受け身で被害者的な立場に自分を置いておくのは確かに楽かもしれないし、言い訳にもなるかもしれない。でも、それやってると致命的なしっぺ返しがきます。「面白くない」ということです。

 やっぱ全部根こそぎ自分でひっかぶって、全部自分で操縦桿を握ってるからこそ、その全てに自我の影を落とすことができるのであり、「面白い」という報酬を受け取ることができる。操縦席から逃げてたら、面白さからも逃げることになる。ほんと世の中良く出来てるわ。

 そういう意味で、「生きる」こと全部が自分の仕事であり、自分の趣味であり、自分のパズルであり、プロジェクトであり、ゲームであり、自分の「作品」であると思ってしまえばいいんじゃない?って。

 いや、趣味といえば、実際こっちにきてから趣味らしい趣味がないんですよね。ギターとか読書はするけど、そんなに昔ほどシャカリキにはやらない。何か新しい趣味を〜って気にもならない。でも退屈しないし、それどころか時間が全然足りない〜って感じ。なんか普通に生きてるだけでお腹いっぱいに満たされちゃう、同じようなことの繰り返しのようで、でも全然飽きない。それは多分、24時間全ての行動について自分の影を落としているからだと思います。

 こうなってくると、ほんと、趣味と仕事を分離するのは不可能です。第一、今書いてるこのエッセイだって、これが仕事なのか趣味なのか自分でもわからないし。てか分かるわけがない、そんなの不可能って。それは例えば、「でんぷん」と「炭水化物」を分けろって言ってるようなもので、同じものを視点を変えて表現しているだけにすぎない。

心の準備

 なんでこんな抽象的でわかりにくいテーマをムキになって書いているか?
 それは言うまでもなく、来るべき時代に備えてのココロの準備です。仕事や経済突出主義、あるいはそれをベースとする趣味仕事、ワーク・ライフ・バランス二元論だけだと、経済が沈滞すると人生の質そのものも激しく劣化しかねないからです。共倒れになってしまう。本来がイチ会計部門でしかないようなものに、全体がスポイルされるくらいバカバカしいことはない。楽しい筈のパーティで、予算が足りないとか、会費払ってない奴がいるとか、結局赤字だもうダメだと大声で連呼してパーティを台無しにするようなものです。くだらないったらありゃしない。

 そうはいっても先立つモノは入りますよ、地獄の沙汰も金次第かもしれませんよ、お金を舐めてはいけませんよ、でも、だからこそですわ。ちょっと前の回で述べた「拡大損害」を出来るだけ防がないとならない。お金がないとか、仕事がないというデメリットは、ただそれだけのデメリットに抑制されるべきで、それ以外の領域に延焼させてはならない。お金がないから欲しいものが買えないのは仕方がないにせよ、だからといって一人前の人間ではないとか、人間性に重大な欠陥があるとか思い煩うことはない。お金が無くても相変わらず夕焼けはハッと息を呑むほど美しく、海も山も綺麗で、人の情の温かさに何の変わりもあるまいよ。でも下向いてたそがれてるから、それら宝石群を見過ごす。あ〜あ、勿体ない。

 また無いのは今だけの話で、これが死ぬまで続くという話ではない。そんなことはないぞ、今がダメならもう一生ダメだ、そうに決まってるんだ、もう確定事項なんだ!と激しく主張するあなたには、わかりました、そういうことにしましょう。その代わり一筆書いてください。今後将来自分の名義で得られる一切の給与、報酬、宝くじの配当金、その他名義の如何を問わず、その一切を放棄し、日本赤十字社に寄付しますと。そのために財産管理人を選任し、給与の代理受領権その他一切の財産管理権を付与しますと。だって一生金に縁がないのでしょう。確定事項なんでしょう。それしたって何の損もないでしょう。

 冗談はさておき、言いたいのは部分に全体を侵食させてはならないってことです。虫歯は確かに痛い。耐え難い痛みを伴うし軽視すべきではない。しかし、だからといってそれで自殺することはない。痛いなら治療すればよいだけのこと。お金がないならないなりにやりくりすればいい。部分的欠損は全体のやりくりでフォローすればいい。やりようなんか考えれば幾らでもある。

 いずれにせよある部分が衰弱したら、他の部分を増強させて帳尻を合わせていくべきで、そのトータルマネージメントをするのが生きるという仕事であり、趣味の醍醐味でしょう。ところが一部が衰弱するとつられるように他の部分も衰弱することがよくあります。これは良くないです。無駄&無意味に辛いだけだし。例えばお金がないなら、いつもの数倍頭を使ってフォローすべきであり、頭がダメなら手を使い足を使ってフォローする。ところが「貧すれば鈍する」で、頭まで廻らなくなり、手も足も止まるから、あとはサンドバック状態で打たれ放題、子守唄かわりにテンカウントを聞くという。

 でも、それって思いっきり馬鹿馬鹿しいから、今のうちから準備だ、と。全体と部分の関係性を確認して、適正な距離をおいて、いざというときはその部分を切り離し、江戸時代の火消し人足のように延焼を防ぐといいと思うわけです。




文責:田村



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