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今週の一枚(2014/06/30)



Essay 677:自分の「弱さ」と付き合う法

 写真は、Balgowlah。ばるごうら、と読む。マンリーの手前。
 休日の朝のスナップですが、吸い込まれるような透明感のある空が気持ち良いです。じっちゃん達も心なしか気持ち良さげな。

 家具屋、アンティーク屋のさらに右隣端に写ってキャンディー屋さんかな?と思って、ちらと検索してみると、キャンディス・クロスビーさんのアートギャラリーでした。なかなか面白そうなので、今度行ってみようかな。テキトーに街のスナップ撮って、あとで店や公園などを検索してみると、新しい発見があって面白いですよ。



 先日、おしゃべりしてて、自分で言いながら「ああ、そうだよな」と自分で納得していたことがあります。このエッセイはその手の話が多いのですが、人と話すのはいいですよね。自分で言いながら、「あ、そうか」と自分で気づくということが良くあります。そのままにしておくと、僕はアホだからすぐに忘却の海に流されていきそうだから、ここに書いておきます。

 「弱さ」については、過去に散々書いてますんで多分に重複するかと思いますが、ご容赦を。そんな全巻読破の人って少ないと思うし、ましてや完全記憶してる人っていないと思うし。

 「弱さ」について、幾つかの概念関係図が書けます。
 まず第一に「弱さとは何か?」という概念定立レベル。これは二つあって、
 1−1:弱いと思っているけど、本当にそうなの?という事実認識のレベルでの問題。
 1−2:「真の弱さ(or強さ)とはなにか」という哲学的な問題。

 第二に、弱さにどう向き合うかという実践レベルの話ですが、これも幾つかに分かれます。
 2−1:弱さを克服する方向
 2−2:弱さと共存する方向

 この4つの章立てのうち1−1と2−1については過去に述べた気がします。簡単に書いておきます、

擬似弱点

思い込みを矯正するだけ

 1−1:弱さの事実認識の問題ですが、「〇〇が苦手〜」とか思ってるケースのうち、単に「思ってるだけ」って場合は90%以上あると思います。一回本腰いれてやってみたら、実は才能があった、少なくとも人よりも劣るということないぞって事が多いです。たまたま最初にやったときにアタリが悪くて、妙な苦手意識を抱えているだけだと。

 そして、これは2−1の弱さの克服にリンクします。要するに「気がつく」ということで、「あ、別に苦手でも下手でもないんだ」って気づけば、もう克服。簡単っしょ。

 受験も人生も勝つポイントは「苦手科目の攻略」で、これでガラリと変わります。でも人は逆のことををやりがち。やってて楽しい得意科目ばっかやりがち。しかし、投資対効果比が悪いです。90点を95点に上げるのは、これはかなり大変ですよ。ましてや98点を100点にするには死ぬほど大変。だって100点というのは何が出ても完璧ってわけで、実際の実力は300点くらいないとならない。「あ、いけね」というケアレス一つ、「え、これは知らんぞ」というトリビア一つでもう98点になるわけで、それでも常に100点キープというのはめっちゃ大変です。人間業じゃないぞってくらい。

 これに比べれば20点を50点にするのはそんなに難しくない。それも現状が限りなく零点に近い重症苦手になるほど楽。どんなに数学が苦手だといっても「1+1=2」くらいは理解できるでしょ。試験というのは、10点の人と20点の人の実力差を判別しないとならないし、同時に90点と95点の差も判別出来ないと試験として機能しないです。同じ一枚の出題用紙の中でも問題によってその難易度は天地の差がある。それがゼネラルな試験であればあるほどそうです。ゆえにゼロ〜30点くらいまでは、ちょっとやったら誰でも取れるような「点取らせ問題」が配置され、90点より上になるとチョモランマとK2とでどっちが高い?って最高峰レベルの問題が出される。ゼロに近いほど容易に点が取れるようになっているし、100点に近いほど中々点が稼げないように設計されている。

 ということは、1000時間かけて90点を95点にするならば、同じ1000時間の労力投資で20点を50点に出来るわけで、そっちの方が断然得じゃないですか。総合点で5点アップか30点アップの差になる。仮に英数国300点満点で、総合点が5点くらい嵩上げされても大差ないけど、30点も違ってきたら状況は変わる。志望校のランクとかも違う世界になる。だから苦手科目が一番美味しいし、心理的に嫌なことをやるのがもっとも効率がいい。攻めるならまずそこ。それが戦略ってもんだし、それが定石でしょ。

 考えてみれば、普通の人間で正真正銘の「苦手」ってのは珍しいです。「走るのが遅い」とかいっても相対的な微差に過ぎない。オリンピックレベルからすれば、ローカルの高校で校内一位の俊足といっても、そんなのドン亀同然でしょ。てか、100Mなどの短距離走の世界では日本一位だろうが決勝にも出れない。だから日本人全員亀レベルなわけで、亀同士で早い/遅いを言ってもしゃーないって話です。逆に、両足切断してるような人からすれば、普通に歩けるだけでもう凄いわけですよ。でもって、パラリンピックとか見てたら、片足くらい無くても義足で余裕で普通の人以上にガンガン走ってるわけで、それを考えたら五体満足でありながらフィジカルな分野での「苦手」なんかありえないでしょうって思います。知能だって同じ人間の器官なんだから話は同じです。何かの分野でちょっと鍛えたらすぐに人並みなんか超える。

 本当に大変なのは、むしろ得意科目でしょう。
 確かに人よりは出来る、それも群を抜いて上手であるけど、しかしそれではプロになれない、上には上がいるって大きな壁にブチあたるからです。もう上の世界にいったら鬼みたいな奴らがウジャウジャいる「鬼ヶ島」みたいな世界ですからね。ちょっと出来るくらいでは話にならない。学校で一番ケンカが強い、絵が上手とかいっても、プロからしたら雑魚キャラ以下でしかない。だから本当に苦しいのは得意科目の世界でしょう。やればやるほど「それがどうした?」地獄に入るし、メンタル的にも天狗の鼻をへし折られるから暗転しがち。どんどん盛り下がる。そして得意科目にしがみついてきた(心理的に楽をしてきた)ツケが一気にきて、「それしか取柄がないのに」「今更他のことは出来ない」と思い込み、人生の袋小路で途方に暮れるという可能性もある。得意科目、恐いっすよ。

 その熾烈な戦いに比べれば、苦手科目は「まだ収穫していない果実」みたいなもので、ちょっと手を伸ばしてパキンともいでくればいいだけ。めっちゃ楽です。

 でもって効果が凄い。駄目だ駄目だと思ってたものが、一転して得意になってごらんなさいな。世界の見え方が変わりますよ。性格も人生もメタモルフォーゼってくらい変わります。ファッションや髪型が「ダサい」「モテない」というのもそう。大体本気で改善しようと思ってないケースが殆どで、一度でいいから本腰いれて、センスのいい人から全部教えてもらって、自分の趣味嗜好(この趣味が間違っているケースが多い)はこの際全部封印して、頭から靴まで全部総取っ替えしたら見違えるようになるでしょう。普通はそうなりますよね。そうなると、「え?これが自分?」となるし、世間からもそう見られるようになるし、意識も変わる。

マイひっくり返し

 僕自身の経験で言えば、ティーンエイジャーからの10年間は、この「ひっくり返し」ばっかりでしたもん。喧嘩とか運動〜とかいうのは、高校で柔道部入ってなんだかんだやってたら、あんまり負ける気がしなくなってくるし。でも、柔道部ルック(=ダサい)になっちゃってたから、そこは大学に入ってから、まるで神様から投げられた蜘蛛の糸のように奇跡的に出来た(紹介してもらった)彼女やらバンド仲間からのピンポイントアドバイスを受け入れることで改善。俺なんかがモテるわけがないと思い込んでたら(バレンタインチョコなんかおよそ貰ったことなかったもんな)、気がついたらそうでもなくなってた。これは過去の栄光自慢になるから嘲笑しながら読んでくれていいけど、下級生の間でファンクラブが出来たというところまでいったらしい。「らしい」とアヤフヤなのは、それが現象として確認できたのは後にも先にも一回だけで、誕生日に「会員みんなの代表」と称する女の子がプレンゼント(お手製の人形やら何やら)を持ってくれたというだけ。でも、もうその頃は蜘蛛の糸彼女一途だったので、「あ、惜しい」とか思いいつもそれだけ。それきり。いや本気で「え?」てな感じで、およそ想定外の出来事だったんで「あうあう」言ってるだけで全然対応できんかった。そんなもんすよ。金とか社会的権力についても同じで、最初は地を這うダンゴ虫生活で、時給460円(だっけな)でせっせと働いてはじっと手を見ていたわけだけど、いつの間にやら先生扱いで、どっかの市役所あたりから講演を頼まれるくらいにはなるし、お金も入ってくるときは100万単位で入ってくるし、ほんと手のひら返しも極まれりっていうか、「なんだよ、それ」って感じ。馬鹿馬鹿しくなった。

 だから自己評価の苦手意識なんか全〜然アテにならない。大嘘八百八町ですわ。魯迅先生も言ってはるじゃないですか「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるに等しい」ってね。絶望も希望もどっちも嘘だよ〜んって。脳内で作ったビジョンはまず絶対間違ってるよと。ということで、苦手(絶望)も、ちょっとの間(まあ数年)、ちょっと気合入れて(殆ど死ぬ気で)やったら、世界の天地が逆転します。見てくれやルックスだけだったら丸一日あったらガラリと変わる。既に力の限り最善を尽くしてるんですけど、、って人は、だからそれは得意科目をやってるんだって。本気で苦手科目をやりはなれ。

 この時期、自分にとってはこの「学び」が一番巨大です。「この程度やるとこのくらい変わる」というカンドコロですね。これ、商売に似てて、損益分岐点がどこに来るかみたいな世界です。英語もそうだし、なんでも同じ。ちょっとやそっとやったくらいじゃあんまり変わらない。最初は徒労感ばっか。ところが、ある地点を超えると一気に隆起してくるのですね。でもって、波に乗ったらいつのまにか峠を越えてる。お湯を沸かしているような感じ。最初は全然〜って時間がけっこー続くんだよね。でもグラグラしだしたら、あとは早い。もしかしたら森羅万象で全部同じパターンじゃないか?f(x)関数で表現できるんじゃないか、放物線類似の変化曲線じゃないかって。

 ということで、1−1の弱さの(間違った)事実認識と、2−1の克服(誤謬の修正)はカップリングします。「弱い」と思ってる分野があったら、一回本腰いれてやってみたらいいです。けっこうな確率で人生変わりまっせ。ま、保証はできないけど、勝率は高いと思う。ということを過去何度も書いてました。このくらいにします。

正味の弱点

初期設定を受け入れる

 でも、ここでの本題はそうじゃなくて、正真正銘の弱点です。僕の場合は視力。これも何度も書いているけど、自分よりも目が悪い人に会ったことがないというくらい(全盲者、弱視者を除く)悪いです。0.001ですからね。もう、裸眼では1メートル先に立っている人が誰かがわからないくらい。ちょっと薄暗かったら、それが人なのかタンスなのかさえ判別できません、てな感じ。上の写真も裸眼で見たらこんな感じかな。もっとヤバイかな。空があって建物があってってくらい。

 これはもう、本当にどうしようもないです。ここまで悪いと視力回復なんたら(やってみたけど)では話にならない。分厚いメガネかコンタクトで矯正するしか無いわけです。でもって、小学生の低学年からそうだったから、あの頃はダサいメガネしかないし〜、視力が急激に進行(悪化)するからすぐに度が合わなくなって、球技なんか全滅系にダメダメで屈辱の嵐だし〜って感じ。ほとんど人生闇に閉ざされました〜って感覚でもありました。

 ほんでも、それが段々クリアされていって、「単に目が悪いだけ」ってそれ以上でもそれ以下でもないってところまで漕ぎ着けられた。レーシックが出てきた頃には、もう「別にいいか」って、そんなに視力回復自体を望まなくもなりました。別にそんな見えなくてもいいやん、って。

 かといって、なにか禅的な悟りを開いてそうなったわけではなく、ごく自然にそうなっていったんですけど。それを後付に整理してみたら、要するに受け入れて、共生しようとしたんでしょう。自分の姿形でこういうもので、こういう家族に生まれて、この時代に、日本に生まれて〜みたいに、一種の「初期設定」なんだから、それを前提にしていくっきゃないよね、ウダウダ言ってて反実仮想ドリーム(もし○○だったらな〜的な)に浸ってたって意味ねーよなって。

 「受け入れる」っていっても、そんなに「受け入れよう!」って敢えて思うって感じではなく、普通に生きていれば自然に対応してますから、それを改めて思うだけ。そして、過剰適応をバサバサ切り落としていくだけ。

 つまり目が悪くてここが困るのというデメリットもあるんだけど、同時に目が悪くても別に困らないよね〜って無関係なものも沢山ある。視力はある程度は矯正できるし、それでマンガもテレビも普通にみれるし、映画の字幕はキツイけど、まあそのくらいだし。音楽聴く分には全く関係ないし。メシ食うのも、湯気でメガネが曇る程度の弊害くらいで、味覚そのものは関係ないし。家族も友達もいるし。何が困るの?っていうと、別にそんなに困ってないじゃんって。意外とそんなにない。全盲だったらキツイものがあるけど、ある程度でも見えたらあとは大差ないでしょって。

 そこが弱点だと思ったら、その弱点を正確に査定して、それに対応すればいいだけであって、話はそれだけなんですよね。大した出来事でもない。

精密に査定

 ただ、「精密に査定」ってところがミソです。一つ弱点があると、それに気を取られるあまり二次災害三次災害が発生するという、それがアカンです。勝手に自分で増やしているだけですから。

 例えば目が悪いから球技がダメだ(当時の少年のデフォルトとして野球はやってけど)といっても、柔道なんか殆ど視覚に頼らないから(組んだ感覚=握り具合や体重移動、身体の捌き方=でほぼわかる)、あんまり関係ないです。だから運動神経が悪いとかスポーツ全滅とか別に思い込む必要はなくて、視覚が重要な役割を果たすスポーツだけがダメだというだけのことで、それ以外だったら別にいけるのですね。意外と目がそれほど重要ではないスポーツって多いんですよ。格闘技でも打撃系はダメだけグラップル系だったらOKだし、マラソンなどの陸上競技とか重量挙げとかは殆ど関係ないでしょ?だから球技がダメ→運動スポーツ全滅というのは典型的な自招拡大損害で、勝手に自分で被害を増やしているだけ。それに球技だって、矯正調整をしっかりやれば(それでも遠近感はイマイチだから本格的に大成するのは難しいけど)、世間平均にやるにはあんまり問題ないでしょう。それに考えてみれば遠近感〜といっても、独眼竜政宗にせよ片目のヒーローは沢山いるのだ。それを言うなら座頭市がいるくらいなんだから、目なんか全然見えなくても良いのだ。

 「視力が悪い」といっても、これもEssay597で書いたけど、別に緑内障とか目の機能障害があるわけではなく、目玉の縦横比率の個性が強すぎて屈折率のピントが合わないという軸性近視にすぎないです。そして目玉も年とともに変化するから、誰でも赤ん坊の頃は遠視で成長すると近視になるという。老眼は水晶体の弾力性の劣化による。だから固定的なものではなく、自然と推移していくものです。それに「視力」というと静止視力だけを論じがちだけど、ほかにも動体視力、深視力(立体把握力)、中心視力/中心外視力、視界の広さなど目のファンクションはいろいろあって、そのうちのわずか一つか二つが不完全に過ぎない。また近視(=静止視力のなかの遠視力の劣化)といっても、別に色彩識別能力は失われたわけではないから、色の楽しさは普通に楽しめる。

 モテるかどうかも同じ拡大損害です。ダサいグリグリ眼鏡して、汗臭い柔道部で男組やってたらそりゃモテませんわね。でも、それ以上に、自分がモテるわけがないという強烈な自己規定が一番のガンです。上に書いたように、たまたまつきあった彼女の勧めでコンタクトにするなり、アドバイスを受けるなり、ギター仲間とつるむことが多くて(あいつら基本モテる奴が多かったから)自然に物腰とかが伝染るし、「女の子慣れ」もするし(要するに変な意識をしなくなり、人として対等に接するというに尽きるのだけど)。

 つまり、ダメだと思い込んでるから、必要以上に被害を拡大しているだけなんですよね。目が悪くてモテてるやつなんか幾らでもいるし。てか、女の子って目が悪い子がモテたりもしますよね。目が悪い人の方が目が綺麗だと言いますし、本当かどうかはわからないけど、少なくとも視力が悪いと目が醜くなるってことはない。芸能人でも視力の悪い人は幾らでもいるし。。

非モテ先行の原則


 余談ですが、じゃあ上に書いた、線香花火みたいな一瞬の奇跡のモテ期はなんだったのか?というと、今にして思えば。その構造が分かるような気がします。自分では分からなかったけど、当時の僕の存在自体がユニークだったんでしょう。なぜって、法学部一学年700名の中でも司法試験をガチで狙う奴は上位数%しかおらず、その中でも首席クラスでした(これは自慢じゃなくて事実、同学年では一番早く受かったし)。しかしながら、風体はまんまロック兄ちゃんで、今の僕しか知らない人には信じられないだろうけど体重50キロ以下でスリムジーンズはいて、さらさらロングで、後ろ姿で間違えられてナンパされたことも一度ならずあります。

 大昔の話でテキトーにふかしコいてると思われるのもナンなので、証拠写真を一枚あげておこうって、意外とマトモで面白くないのですけど。もっとカゲキなものもあったんけど日本の実家にあるのかな、今度取ってきます(見たくないだろうけど)。


21歳の可愛い頃(笑) このときも男ばっかでハイキング(泣)

 まあ存在自体が異常というか、変わってたのですね。本人はあんまり自覚なかったけど「そこにパンダが居る」みたいに目立ってたのでしょう。Wrong person, wrong placeというミスマッチ感。で、あとで世間を知るにつれて段々わかってきたのですけど、モテる人というのは、(そーゆー世界のそーゆー人々による見てくれ一発のルックス&セックス系を除けば)総じて何らかのマイ・ワールドを持ってる人が多いです。よく「自分を持っている」とかいうあれですね。自分の世界を「もってる人」です。で、当時の僕は持っていた。ガチで受験とギターはやってましたから。

 特に勉強は、あの日、彼女が短大卒業して帰郷するというその引越し当日。その朝。京都は千本通り出世稲荷前停留所近くの、男子禁制の彼女の下宿の部屋に初めて入れてもらって「待ってるから」って言われたその日から、その朝から、「もう人間やめ」って思って、糞勉強してましたもん。何書いてあるかさっぱり分からん法律の専門書なんか、1分読むだけでも苦痛なんだけど、とりあえず体慣らしで1日絶対12時間はやると決めて、本当にストップウォッチで測って、トイレ行くとは止めてってやって、それを1ヶ月ぶっとーし。身体が慣れたらさらにアクセル踏んで、、ってやってたら、さすがにそこまでやってる馬鹿はキャンパスでもおらず、首席クラスになるのも当然。もっとも「上には上」で上級者の研究室に入ったら雑魚以下でしたけど。でもってギターとかロックは、怪我の功名というか、中高時代モテなかったからじっくり腰を据えて聴きこむ事ができた(笑)という。本とか読みまくってたのもその時期で、後日の実務の文章力の原型はそのとき培われた。

 要するに非モテ期に種が撒かれ、育っていったという。それがたまたまある時期に果実をなしたんだけど、本人は全然気づかず、後になって「惜しい〜」とか言ってるという。なんつーか「非モテ先行の原則」みたいなものがあるじゃなかろか。非モテ期にヒマだからなんかに没頭する。なんによらず没頭するというのはオタク的になるってことだから、浮世離れの世捨て人化して、それがゆえに”研究”は進むし、非モテ確信もまた進む。没頭という意味では好循環なんだけど、モテという意味では悪循環。でもそれがやがて育っていくと、知らないところで知らない人からモテているという。まあ撒種・育成期と収穫期があるって普通の話なんですけど。ただ、これは年取れば取るほどそうなりますよね。若年期は誰もが絶対的な蓄積に乏しいから、生来的な初期設定(ルックスや明朗さとか)に左右されやすいけど、年齢が重なるにつれ実質の個人差が激しくなってきますから。ハタチでパープーだったら可愛いけど、40歳になってまだパープーだったら、ちょっと許されないでしょ。高校の校内アイドルスターが一生その路線でいってるかというと、意外とそんなことないっしょ?

 で、トラジティ(悲劇)は、研究期の非モテ確信が強いが余り、果実がみのってても気づかないで「あうあう」になるということですね。大魚を逸する。まあ、僕の場合は彼女一途だったし(他に選択肢がある筈がないと思ってたし)、別にそれでよかったし今も後悔してないです。だから「惜しい」とかいっても冗談ですけど、でも冗談ではなく真剣に惜しい!と思われる人は、ある時期にマインドセットを変えておくことをオススメします。

非モテ拡大損害

 で、話はきれいに本道に回帰するのですが、要は「思い込み」というのがガンだということです。その意味では、「苦手でもないものを苦手だと思い込む」のと同じです。

 ここでは、真実苦手で弱点であったとしても、その弱点を精密に査定することなしに、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、Aが苦手だと思うと、BもCも全部苦手だと思い込むという拡大損害です。これが滅茶苦茶勿体無いです。死ぬほど苦手な上司に叱責されるのを恐れるがあまり、その会社の年上全員が怖くなり、ひいてはその会社が怖くなり、その業界全部が怖くなり、会社のある西方が鬼門になり、やがて働くことそれ自体が怖くなり、世間の全てが怖くなる。上司の名前が「山田」だったら名前に「山」のつく人に苦手意識を持ち、、、とキリがない。

 「○○が苦手」と思うと、それだけに限定にせずに「そっち方面」全般に広げる。拡大した領土を起点にしてまた広げるから、どんどん苦手領域は広がってしまい、この世界の自分の生息領域(居場所)が狭まっていく。強度の近視はしょうがないにせよ、だからといってスポーツ全般が苦手だというのは大嘘だし、近視を矯正するためのグリグリ眼鏡のせいでもうモテないと思い込むのは、ほんとーに滑稽過ぎるくらいの領土拡大です。しかし、そこで非モテという領土が確定してしまうと、こんどはそれが起点になって、昨今の就職は見た目が99%だから、もう就職出来ないんだ、もう負け組確定、はい人生終わりました〜、お客さん看板です、もう死んだ方が良くないっすか?ってのは、もうツッコミどころがありすぎて北斗百裂拳のようにあたたとやらなきゃならないじゃないか。

 でも本当にこんなことで落ち込んだり、鬱になったり、ひきこもったり、死んだりしている人が実在するなら、周囲に誰か突っ込んでやる人がいないのか?って思う。まあ「元気だせよ」と言ってはくれているのでしょうが、もう100億円のビジネス案件の勝負プレゼンのように理詰めで説得したらどうすかね?

 例えば、真剣に不細工なのが気になるなら、それこそ整形すりゃいいわけで、まず「こう変わろう」というトータル・コンセプトを考える。必要があれば、金払ってでもプロのスタイリストを雇う。セカンドオピニオンも取る。どうせ死ぬつもりならケチケチすんな。で、その為にはここをこう直すとこうなる、ご予算はいくらくらいかかる、手術失敗のリスクは○%とか徹底的に調べる。でも美容整形のうち95%くらいは本人が気にしているだけってケースらしいから、そこまでせんでも、ブサ系男女でもこんなにモテているというケースを山ほどあげたらいい。いや実際そうですから。びっくりするくらい美男美女のカップルというのは実は少ない。世間狭すぎるから見えてないんでしょ。それに対人好感度というのは、顔形の造形という静的データーよりも、「表情」という動的データー推移による影響度が非常に高いという事実ね。「笑うと愛嬌がある」「自信にあふれた物腰」とかいう動的推移ね。心理学ちょっとかじったら出てくる筈です。さらに見た目=就職=社会的成功なら、政治家や東電の経営陣や高級官僚は全員が全員ジャニーズ系のイケメンなのか?イケメン順に大臣やってるんか?です。逆じゃないのか。そこんところはどういう論理的整合性があるのか。あれはカネの力で〜っつったって、そのカネもブサだったら儲けられないんだろ?論理破綻してんじゃん。

 それにモテとかいっても、必要なのは同時期に一人いればいいだけ。同時に二人も三人も出てきちゃうとややこしいで〜。もめますよ。トラブりますよ。ヘタしたら血も流れるし人も死ぬ。一人がベスト。ということは、世界人口70億の半分が異性だとして35億中、34億9999万9999人には相手にされなくても良いのだ。成功率、いくらだ、0.0000000なんたらくらいの成功率でいいのだ。1勝35億(−1)敗で良いのだ。35億(−1)回フラれて良いのだ、てかそれがベストなのだ。世の中こんな簡単なタスクはちょっとないよ。

 さらに言ったる。カネでもモテでも「持たざる者」は「持てる者」の悩みや辛さを知らなさ過ぎ、不勉強過ぎ!なまじ美形に生まれてしまったら、どれだけ気を使うか。それで得する局面というのは、実はびっくりするくらい少ない。だって二人以上にモテたら、もう面倒臭いマネジメントをやらないとならないもん。先天的にか後天的にか、峰不二子タイプというか、銀座のホステスのようにそういうのが上手な人もいるけど、そうでない人も多い。下手に断ると逆恨みされるリスクがあるし、思いやりを示すと逆につけあがらせるし、可能な限り上手にやったとしても、相手次第ではストーカーになる。そうなりゃホラー映画の日々です。一生懸命努力して成功しても正味評価されることはマレで、見てくれだけだという逆ハロー評価がつきまとったり、ひどい場合は枕営業まがいの陰口を叩かれる。性犯罪の被害には遭いやすいわ、同性には嫉妬されるわ。お金だって、下手に稼いでしまったり、相続してしまったら、今度は腰が抜けるような税金食らうから、そのための対策に悩まないといけないわ、証券会社がいい加減な投資案件を持ってくるわ、わけわからん連中がピラニアのようにやってくるわ、いきなり知らない親族と称する人間が出てくるわ、子供は誘拐されるかもしれないわ。前に資産1000億円の親族(会社)内紛の事件をちらっとやったことがあるけど、もう戦争ですわ。ちょっと目を離したら勝手に名義書換えられるわ、蔵の中の家財資産(刀剣とか書画とか)を持ちだされるわ、腹心は抱き込まれるわ、スパイはおるわ。そこまで極端でなくても、多少でも羽振りがよかったら、会合の度に奢らないとならんわ、奉加帳は廻ってくるわ、寄付のお願いはやたら来るわ、そこで気前よくないとケチ呼ばわりされるわ。ステイタスなんかが伴うと、やたら結婚式には呼ばれるから、ただでさえ忙しくて乏しいプライベート時間が根こそぎ消滅するわ。

 もう一点。これがトドメなんだけど、拡大損害の最たるものは、自分がモテないと思い込むから、理想の恋愛モデルが現実離れした形に歪曲されることです。ネットやAVばっか見てるから、こんな可愛い子がこんな淫らな〜なんてありえないパターンを求めたり、経験不足の悲しさで恋愛観自体が幼稚過ぎるどころか、その非現実性が極端に肥大化する。つまり、良妻賢母や白馬の王子みたいな、いねーよ今時ってか、昔もいねーよそんなもん。美化しすぎ。これは要求水準が高過ぎるというのではなく、要求内容そのものがクソだということだと思う。「○○らしくしろ」と他人に言われたら怒るくせに、他人には「男(女)らしさ」を求めるというブラッディ、ファッキン、ガッデム自己中。寝言は寝てから言え。だいたいが大昔のカビの繁茂しまくった古いモデルで、家制度丸出しの「嫁」(女が家に入る)なんて言葉を好んで使いたがったりさ、てめーの家の宗教(真宗とか臨済とか)も知らない、家紋も知らない、氏姓の源平藤橘も知らないくせにさ。つまりは「人はなぜ恋をするのか」というド基礎が全然できてないから、ひたすら妄想全開の気持ち悪い奴になっていく。つまり、拡大損害の最たるものは、人格劣化だと思います。でも、それもこれも全部自分で招いてるんだで。

 そして、そもそも何が悪いのか?と遡っていけば、自分の弱点の精密な査定ができていないってことでしょう。自分の欠点把握が粗雑過ぎる。なんでもネガティブに捉えればいいってもんじゃない。ネガに捉えるほど、リアルだとか、正しいっぽく見えるというのは、中二病でしょ?「オトナなんか皆汚いんだ〜、皆死んじゃえばいいんだ」というのと、「俺なんか生きてる価値がないんだ」という、ほら、同じじゃん。なんなの、その僕の裸眼視力よりも悲惨なボヤヤンとした大雑把な映像は?

弱さの効用〜弱いからこそ強い

 ここは1-2:強さ(弱さ)とは何かという哲学的な〜って部分に該当するのですが、弱点があるからこそ強くなる、欠点は長所の原資でもあると。この部分は、過去のEssay 598:客観が凹(へこ)むと、主観が凸(でっぱ)る  物質的な欠落を、主観で補償しようとする現象についてやら「Essay 599:弱点(ハンデ)は容易に武器になりうること〜ハンデ(凹み)とは即ち「器」であり、なにかが溜まる」と重複するので、そっち読んでいただければ、、ってことですが、どうせ面倒くさいから読みませんよね、ここまで読むだけで大概疲れてますよね、すみません。簡略に書きます。

ド近眼の福音

 ド近眼になると、そのハンデを別のことで補おうとします。それがデカイんですよ、僕なんかそれで食ってるようなものです。

 例えばよく見えないから、視覚にあんまり頼ろうとしなくなります。自分の目で見えるものをあまり信じなくなる。でも外界の状況は正確に把握しないと場合によっては命に関わるから、別の面からフォローするようになる。あの裸眼視力画像をみたら分かるっしょ?こんな画像で生きてたらすぐ死にますわ。だから必死に補強する。一つは洞察力や推理力です。頭のなかで、可能なかぎり全体構造を把握し、なぜコレがココにあるのかを考え、だから目の前はこうなっているんじゃないかと考える。さらに、ならばこうなる筈だと推測する。いい脳味噌のトレーニングになります。

 これね、こっちに来て英語に苦労している諸兄ならば分かると思うのですが、英語が分からないから必死に考えますよね。なんでこの人は怒ってるんだ?とか、今何が起きているのだ?とか、言葉の意味内容がわからない分、全体の構造を考えようとする。だから英語が初歩的なレベルになればなるほど、毎日こちらで暮らしていたら、知恵熱が出るくらい脳味噌を酷使していると思います。ぐったり疲れたりしません?でも、それだけに頭の訓練が進んでいるから、知的情報処理能力は上がってるんだよ〜。英語よりも、むしろその方が後で役に立つよ。簡単に分かった気にならない(怖くてなれない)から、必死に考えるし、構造を考えるなかで、日本との差を分析するし、立体的な社会や文化把握ができるようになる。よく「旅をしろ」という理由は、おそらくは同じことでしょう。わからないから不安になる、不安になるから一生懸命考える、考えるから賢くなるし、見えないものも「あ、そういうことか」と見えてくる。これが洞察力や、抽象的思考能力の恰好なトレーニングになる。

 僕の場合は、それが法律学のように異様に概念弁別にやかましい領域をやるのに役に立ってます。頭のRAM領域も広がるし、このエッセイ一本くらいの情報量だったら同時に処理できるくらいに。だから書けるんだけど。どんなにややこしい概念関係になっても、整理するのに慣れてくる。登場人物が20人くらい出てきて利害対立している局面でも、わりとすっと把握できるようになる。だから、問題把握能力→解決能力も進化するし、これが弁護士実務でどれだけ役に立ったか。

 これが左脳的な面だとしたら右脳的なものも強化されます。
 細かいデテールが見えないから、直感的、印象的なイメージ把握に長けてくる。「こんな感じ」という感覚把握が上手くなる。エッセイ書いてても、大した苦労もなくオリジナルな比喩をひねり出せるのも、多分それだと思います。アポーツ(物品引き寄せ)じゃないけど、勝手に向こうから飛んでくる。それは子供の頃から蓄積している膨大な「こんな感じ」というデータベースがあるから、よく似た感じという「感覚検索」みたいなものが出来るからでしょう。「〇〇に似てる」「まるで○○みたいな」という脳内回路が出来てるんだと思います。だってそうしないと生きていけないもんね。

 あと、右脳なんだか左脳なんだか分からないけど、人の話を聞いて「それ嘘でしょ」というのを見破るのが、他人の表情を根拠にしなくなる。「黒目が右上に寄った時は」とか言われても見えないですから。その代わり、話の前後の辻褄が合わない、さっき言っていたことと違う、当然言うべきことを言わない、言うにしてもなんでここで口ごもるのか、とか、そういう周辺事情や全体的な整合性で見ていくようになります。これも、何千ページもある証人尋問調書のどことどこが整合しないとかいうのを発見する実務能力に役に立ったし、いろいろな局面で役に立ちます。これも頭の中に数十年分のパターンが詰まったデーターベースが出来ているのだと思います。

 それと半分盲人みたいなものだから、気配とかオーラとか雰囲気みたいなものに敏感になります。まあ、僕はもともとそういうのに鈍感なんですけど、それを多少は補強しているかな、と。ほかにも、「見えないから良い」というのも多くて、何もかもが見えてしまうよりも、何にも見えないから自覚的に意識のフォーカスを動かすようになります。これは知るべきこと、これは知らなくても良いことというフィルターが自然にかかっていると思います。「気にしない力」みたいなものが自然に増量されていて、これがメンタル管理に役に立っている。変な例だけど、幽霊とか全然見えないタチなんだけど、「どうせ見えないし」で最初から見ようとしてないって部分は大きいです。「あ、あそこに」とか言われても、もともとよう見えんから、まあどうでもいいやって投げやりになってて、あんま怖くないという(笑)。

 あとはですね、遠視視力に関係ない感覚、色覚とか、味覚とか、聴覚とか、触覚とか、そのへんは鋭敏になってると思う。他人に比べてどうかというのは比較のしようが無いから分からんけど、でも、それを楽しむ心のフォーマットというのは、多分強くなってると思います。特に形が見えない分、色に対する喜びは人一倍だと思います。毎週エッセイのタイトルの色を変えたくなるのも、色彩で遊ぶのがすごい楽しいからです。視覚が弱い分、音でも味覚でも他のチャンネルからハッピーになる回路が強化されているというのは感じます。オーストラリアに住んでる理由の一つも、空気が乾燥して太陽光線が強いから「風景の発色が鮮やか」という点が強いです。空が青い、緑がきれいというだけで、もう大抵のことはOKになってしまう。誰でもそうだと思うけど、僕の場合はもっと強いかも。

 ほんと、こうしてカウントしていくと、目が悪くてよかった〜とまでは思わないけど、結構お釣りが来るくらい得ているのですね。だんだんそれがわかってきたから、「まあ、見えなくてもいいか」って感じになる。もっとも、座頭市のとっつあんみたいに「目あきってのは不便だねえ」って境地までには達してないけど、ちょびっとそんな感じです。

ケーススタディ〜対人葛藤恐怖症 

 あとよく相談になったり、日本人の普通なのかもしれないけど、「和の民族」であるだけに、他者とのコンフリクト(葛藤、対立)が上手くマネージできず、それが弱点みたいになってるパターンです。喧嘩が好きとか、喧嘩上等系ではなく、できれば穏便に、できれば皆ニコニコ平和がいいなという、それはそれで滅茶苦茶正しいんですけど、でも他者との対立を過度に恐れるがゆえに、却って話がややこしくなっているというパターン。

擬似弱点、思い込みでは?

 これも同じことで、上から順にやっていけば、まず客観レベルでそれって本当に苦手なの?そう思い込んでるだけじゃないの?という。大体、世界レベルでそれをいうなら和の日本人はほぼ全員不得意でしょう。だったら日本人相互だったらそれほど優劣の差がつかないから、気にしなくていいんじゃないの?誰だってそうなんだからって視点が一つ。あなただけではないのよ、という。大体、ファシズムとか同調圧力とかいうのは、和を乱すをのを恐れる弱い心根の裏返しであり、日本がそうなりがちだというなら、皆弱っちーんだわね。また、そういう意味ではファシズムになったドイツやイタリアもそうなのかもしれない。一個人としては「ねえ、喧嘩はやめようよ」的な人が多いのかも(笑)。わからんけど。ただ、アングロ・サクソンはそのへんはガチに来ますよね。だから民主主義とかいう方法を編み出したし、機能させているし。対立を恐れてたら民主主義は死にますわ。

 ということで、対人〜とかいっても、日本人同士の場合はそんなに大きな差はないと思うぞ。弱いっつっても、100M走みたいに皆亀レベルだから、言うほど大きな段差があるわけではない。世界に出たらそんなもんじゃないから。

 ただね、海外に出ても日本人ばっかと群れていたら、日本の微細なフォーマットがそのまま適用されるから、あんまり変わらないです。対人〜って人は、日本人以外の外人さんの群れの中に居たほうが楽です。フォーマットが大雑把になるから。地図で言えば世界地図みたいに、ここにブラジルがあって、ここにチェコがあってって感じの。でも日本人同士になると、世田谷区区分地図とゼンリン住宅地図みたいに異様に縮尺が細かくなって、ちょっとした微差が拡大されて、「みんなと違う」とかいって悩むという。だもんで、自分でその縮尺フォーマットに自覚的になるといいかも。外人だろうが日本人だろうが「他人」という意味では同じなんだし、同じ距離感、同じ縮尺にしようと努めるとか。

苦手科目の攻略〜ワザの世界

 そして、「不得意科目が一番美味しい」という法則で、そのあたり対立マネジメントが出来るようになったら、人生変わるど。いっちょ本腰いれて、トコトン取り組んでみたらいいかも。それがむしろ得意ってくらいになったら、今までビビってあと一歩踏み込めなかったところを踏み込めるから、モノゴトの成就率は格段にアップするかもね。It's worth to tryです。

 やり方は、まあ色々思いつきますよね。もう逆療法でいっそのこと喧嘩をメシの種にするとか。弁護士なんかまさに喧嘩屋ですから。警察官もそうでしょ。ほかにも意外と多いのですよ。セキュリティとか警備員の仕事なんかは、普通以上に険悪な局面に接するから喧嘩慣れするでしょ。あるいは大企業の総務部とかになると、総会屋とかその種のトラブルシューティング業務があります。そんなこといえば、普通のショップの接客業だって、コールセンターだって、教師だって、「変な客」は普通にいるし、そこで険悪になることは日常でしょう。

 で、皆がそれでやれているのは何故か?といえば、この種の対立系って話が分かりやすいから、技術で対処しやすいのですね。「他人の心を開く」とか「説得する」とかいう技能はかなり難しいですけど、単なる攻撃防御だったら、こう来たらこう受けて、ああ来たらああ流してとか、もうパターンが職業技能としてできているのです。割りきってしまえばとっつきやすいし、習得も早い。「要は慣れ」って部分も多分にあります。スポーツみたいなもんなのね。そこで初歩的な「組み技」をやっておけば、日常生活でそこまでギャンギャンやりあうことも少ないので、大抵のことはビクつかなくなるでしょう。

 あとは過去回の喧嘩道入門にあれこれ書きましたが、法的救済を求めるとか、証拠集めをどうするとか、戦うに値しないものは即忘れるとか、いろいろなワザがあります。要するにこのあたりは単純にワザの世界なので、ちょっと真面目に学習したら、あとは大体OKでしょう。

 ほかにも色々あるけど、紙幅が尽きてきたのでワープして次いきます。

精密な査定

 次に弱点の「精密な査定」ですが、対立系が苦手っていっても、何から何まで苦手ってことはないと思いますよ。口喧嘩はOKだけど暴力系がダメとか、その逆とか。あるいはいずれの場合も、このくらいだったら問題ないけど、この地点を超えるとダメとか。そのあたりは正確に枠線で囲っていけると思います。

 それに対立系が嫌だとしても、なぜイヤなの?という原点部分があります。これは多分に深層心理や無意識に関係すると思うから難しいだろうけど、一般に人間には誰でも闘争本能や闘争快感というのはありますから。以前、すごーく温厚なご婦人がおられて、およそ対立を嫌われていて、言うべき時でも言葉を飲み込んでしまうという大人しすぎる人です。でも話をよく聞いてたら実は格闘系がお好きだという。ブルース・リーとかジャンキーチェンの隠れたファンで、ならばということで「北斗の拳」全巻を貸してあげたら狂喜して貪り読んではりました。だから「あちょー」系が嫌いなわけではないし、闘争があながちイヤってわけでもない。てか人によっては大好きだったりして。すごく気が弱い人なんだけどプロレスファンでもあるとかさ。

 じゃあ、対立系の何がイヤなのよ?という。
 これねー、実は深いところまで関連してると思います。子供の頃にイジメられてたツライ記憶が蘇るからとか、親に怒られた恐怖心とか、両親が喧嘩しているのを震えながら見てて、お母さんがいなくなってしまうかもという恐怖にかられていたとか、そうではなく逆に相手を叩きのめしてしまったという「苦い後味」があるからそれがトラウマになってるとか(矢吹丈が力石を殺したテンプルを打てなくなるみたいな)、なんかどっかに元ネタがあったりするんでしょうね。考えて思い着くなら、考えたらいいし、考えても分からなかったらカウンセリングなどの専門家のヘルプ。

 他にも威力的な恐怖はないのだけど、顔を真赤にして猿のように怒ってる人が醜悪で嫌だという、恐怖ではなく「嫌悪感」があるのだとか、上司や客に叱責されると、自分の「無力感」をまた思い出してしまうからイヤだとか。かつて負けた時の屈辱感と無力感がトラウマになるケースもあるけど、これもねー、どんなに強くなったとしてもそれ以上にハードな状況になったら同じように誰だってブザマに取り乱すわけで、要するに人間はそういうときにそういう反応をするという一般法則に過ぎない。そんなの「ワサビが効き過ぎたら涙が出てくる」のと同じ生理現象に過ぎないから、恥でもなんでもないです。

 仮に世界最強に男になったとしても、ライオンの集団に襲われたら号泣しながら逃げ惑うんだから同じことなんよね。僕だって、そういう局面になったら小便漏らして命乞いするだろうけど、別にそれが恥だとは思わない。徳川家康だって武田信玄軍と戦った時、恐怖のあまりウンコ漏らしてますからね〜。でもウンコ漏らしても、いけしゃあしゃあと天下くらい取れますし、死んだら東照大権現で神様になれるという。気にすんなよ。ヤンキーや暴力団の世界はまさにそれで、弱いものにはブイブイやってるけど、上の奴が出てきたら死ぬほどボコられ全人格的に屈服させられるわけですわね。彼らはその世界に慣れているから、そーゆーもんだと割り切れるんでしょ。だから昨日鼻水垂らして泣き叫んだとしても、翌日にはまたケロリとしてブイブイやってられるという。

闘争は義務でもあること

 長くなってるけど、もう思いつくまま、章立てせずに一気に書いちゃいますね。
 次に、喧嘩闘争の全てが悪いわけではないということ。必要悪である場合もあるし、ときには悪ではなく善ですらある。「権利のための闘争」「抵抗権」という言葉があるように、正義や権利というのは闘争という過程を経なければ実現しないことも往々にしてある。例えば時の権力が弱者を踏みにじったら、それは戦うべきだし、戦わなければならない。人の拳はなんのためにあるかです。西欧系はそのあたりを子供の頃からわりと叩きこむので、闘争技術にわりと長けていると思います。プレゼンやディベートが上手なのもそうだし、民主主義を形骸化させずに一人であってもおかしいと思ったら声を上げる、デモをする、絶対に退かない、妥協しないという姿勢を教えられる。

 そこでは闘争は、人間としての義務であり、正しいことでもあると。それゆえに、何が正しいか、どう戦うかについては厳密な作法があり、やれ武器は対等でなければならないとか、ルール適用はフェアでなければならないとか、そのあたりはやたら厳しい。闘争を肯定するからこそ、闘争のあり方については厳しい様式と美学があると意味では、武道や武士道に通じる。

人間の可塑性〜仲直りの原理

 もう一点、人間関係の可塑性です。粘土のようにこねくりまわせるし、どんな形にもなりうるということ。簡単にいえば、人は仲直りが出来るということです。こんなの夫婦や恋人だったら誰でも分かるというか、壮絶な大げんかをやるけど、でも仲直りもする。友達関係でも同じこと。

 僕らの世代はまだバーバリズムが残っていて、男の子同士だったら「とりあえず殴る」みたいな滅茶苦茶な部分もあったけど、でもガチに対立することを全然怖いとは思わない。全員がデフォルトでヤンキーで「なんだ、てめえ?」でやっていた、というのは言い過ぎですけど、まあ慣れているよね。誰でも「たしなみ」として喧嘩は出来る。これは上の世代にいくほどそうで、全共闘の団塊はやたら闘争が好きだし、すぐに喧嘩腰で議論するし、時には手が出る。さらに上の戦争世代になれば、親父が言ってたけど毎日最低一発はぶん殴られてた。忘れ物をしたといっては鉄拳制裁、声が小さいといってはゴツン、婦女子と一緒に歩いていたといってはボコボコ。さらにその上の、、もう幕末とかになるとすぐに刀抜いて殺しあったり、腹切ったり。ねえ、これのどこが和の民族なんでしょうねえ?

 まあ、そういった暴力沙汰が素晴らしいとは言わないけど、でも慣れておいたら、過度にビビリはしない。ドンパチやったあとでも、てかドンパチやるから結構仲良くなれるという人間の機微もわかる。このあたりは「人間という現象」の正しい理解として、ある程度はやっておいた方がいいんじゃないのかな?と。もちろん過度の体罰を美化するとか、一方的なパワハラ的なものに堕してはダメで、本質はあくまで対等な関係で「ちゃんと自分を出す」ことでしょう。そして自分を出す上での対立は不可避なものだから慣れておくってことです。

 でないと、怒りのエネルギーというのはすぐに発散すれば大したことないけど、貯めると饐(す)えて発酵してタールのようになって陰湿なイジメの燃料になったり、リンチ的な罵倒になったり、最後は通り魔になったりとか陰惨なことになりがち。不快な感情というのは、心の廃棄物みたいなものなんだから、適切に廃棄物処理をしないと、ほんと面倒なことになりますわ。

 でもって、対立するのを恐れたり、一旦喧嘩になったらもう人間関係が終わりになるようなものだったら、それはそもそも「人間関係」じゃないですよ。そこには「人間という現象」が存在していないもん。少なくとも自らの人間性を秤にかけて思い煩う価値はない。メシや給料のためにジッと我慢で堪えるというのは普通にあるけど、それは「ビジネスの方法論」であって、人間関係論ではないっしょ。混同したらあかんと思います。

弱点の効用〜顔色を窺う→他者観察に長けている

 最後に弱点の効用。近眼一つであれだけの福音があったんだから、対人恐怖もまた豊富な収穫物がある筈です。それに気づくといいですよ。例えば、上司に叱責されるのをあまりにも恐れるがゆえに、常に上司の顔色を窺うという卑屈な精神や人格になるというリスクもありますが、これってベクトルをちょびっと修正させてやれば陽転します。常にこの人は今何を考えているのかなと他人の気持ちを推し量る術に長けていくということは、そのまま「思いやりの深さ」にもつながるでしょ。今は、(叱責されまいという)自己保身目的にだけ使っているけど、他者を注意深く観察するという純然たる技術能力は進化しているのだから、それを他人のために使えば美徳になるじゃん。他者を観察するだけではなく、もう一歩突っ込んでいけば、他者を理解するという方向に踏み出すことも出来る。

 これがどれだけ爆発的な武器になりうるか、言うまでもないでしょう。他者を観察する、理解するというのは、あらゆる人間関係の基礎になるし、それは夫婦恋人関係でも、親子関係でも、部下との関係でもそうです。それを一般第三者に転じれば、「消費者のニーズを的確に察知する」というビジネス上得難き飛び道具をゲットすることでもある。これされ出来たら世界は制覇できたも同然ってなくらいです。

 ただし、これはポリッシュ(研磨)する必要があって、怖がってるという自己保身ばっかりに意識が集中していると、逆に他人の理解が進まなくなります。やろうと思えば出来るくらい豊富に情報はゲットできるのに、分析しようという気が全然ない。ひたすら我が身の安寧だけを求める。理解しようと思わない、思わないから理解できない、理解できないから益々ヒッチコック的に「いつ雷が落ちるか」と恐いという。

 あ〜あ、勿体無い。せっかく貴重なデーターが山ほどあるのに、それを的確に収集する技術も伸びているのに、それを分析・理解する気が全くないんだもん。宝の持ち腐れとはこのとです。

同病的理解、段階的理解

 また、自分が怖がっているからこそ、他の怖がっている人の気持ちがよく分かるという長所もあります。恐怖に鈍感な奴は、怖がる人の気持ちがイマイチわからんもんね。そこへいくと同病相哀れむじゃないけど、細かなところまで理解できるし、それが子育てや教育、部下の指導など、対弱者へのスキルになる。また、ビジネス的にいえば、安心、安らぎ、リラクゼーションなど時代が求めるエリアについて皮膚感覚で一日の長がある。

 が、これも両刃の剣で、やたら怖がってる人って、自分の恐怖心が先行するから、他者に対して無理解というのは対弱者にも同じだし、人間関係=恐怖関係みたいな妙な刷り込みパターンになるから、自分が上司や親になったら、同じように威迫的に接するという悪しきパターンがあるでしょう。これも同じことで、能力的には十分にあるのに、使おうとしないという。

 もっとも以上の理屈は、かなりちゃんと「顔色を窺える」人の場合です。恐怖心があまりにも強い場合、その顔色を窺うという行為すら出来ない、もう全然わけわからない〜って場合もあるでしょう。だったら取り敢えず、卑屈でもなんでもいいから防衛本能を最大限発揮して、全力で顔色窺ったらいいです。不用意な叱責を減らすという、とりあえずの効用はあるんだからやりやすいでしょう。でもって、それがある程度「ははあ」と読めるようになってきたら、今度は「理解」です。なんでここで怒るの?という。

 「相手の立場に立って考える」ってことですけど、ちゃんと相手の立場に立てるというのは、モノゴトの全体構造や客観理解を進ませます。自分にもノルマがありしんどいことがあるように、上司にもさらに過酷なノルマはあり、さらに年齢的な問題から体力や健康面での不快、育児や介護という家庭問題、経済問題があるのだと、そしてそれが具体的にどのくらいのしんどさ、どのくらいの苦痛を生んでいるのか、そして今やってる仕事は全体でどのくらいの位置づけになるのか、その全てを可能な限り精密に把握せよ、です。それがわかれば分かるほど、相手が理解できるし、怒るパターンが読めてくるし、怒るパターンが完全に読めた時は、それはもう怒られなくなっているということでもある。これっていいトレーニングになると思いますよ。この社会の理解にもつながるし、人間理解にもつながるし。

 それが見えるようになってくると、ああ、あのときわざわざ自分にこの仕事を振ってくれたのは、起死回生のチャンスを与えてくれたってこと、つまり好意でやってくれたわけか、それなのに俺はただイジメみたいに受け取って真面目にやらなかったわけで、そりゃ恩を仇で返されたような気分になっても無理はないよな、で「そりゃ怒るわなあ」って読めるようになったとき、ゴルゴ13のように自分を客観視できるようになってるってことで、生存率は高まるし、優秀なプロへの第一歩になっているという。

 以上、途中で道草食ってたから最後は駆け足になりましたけど、そんなところです。まだまだ掘り下げれば幾らでも出てくるけど、きりがないので。


 
文責:田村



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