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今週の一枚(2014/06/02)



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Essay 673:サイコロ一振りで何がわかる?

 
 写真は、Enmoreで、つい先週撮ったもの。
 もう6月、日本でいえば12月に相当するのですけど、晴れた時の陽射しは相変わらず強烈です。


経験論の意味

サイコロケース


サイコロを一回振りました。1が出ました。

そこで、
「そうか!このサイコロは1しか出ないんだ!」と思う。

以後、このサイコロを振る場合、「1が出る」という前提で全ての戦略を立てる。

あるいはもっと延長して
「およそこの世のサイコロというものは1しか出ないのだ」と思う。

以後、生涯にわたって、サイコロを振る局面になれば〜(以下同文)


これが妙なことはお分かりだと思いますし、そんな前提でやってたら命が幾つあっても足りないよってこともお分かりでしょう。

しかし、それをやってしまうのが我々だったりするのですね。この愛すべきアホンダラである僕も、あなたも、そこらへんの通行人Aも同じような過ちを犯してしまう。ああ。

なんでも代入可能

 サイコロは、数式におけるXのようなもので、何でも代入可能です。
 例えば、生まれて初めて恋をしたけど、相手が浮気者ですったもんだの末に破局になりました。そこで思う。もう女(男)なんか信じられない!と。そして二度と異性と付き合うことがなく、一生を終えたのでした。

 あるいは、生まれて初めて就職しました。ここがまた極めつけの漆黒ブラック会社でえらい目にあい、心身を蝕まれて退職しました。そこで思う、もう二度と就職なんかするもんか!と。そして〜(以下同文)。

 子供の頃に寿司を食べました。これが間が悪く半分腐りかけているようなひどいシロモノで、マズイわ、お腹を壊すわでさんざんの目に遭いました。そして、もう二度と寿司(生魚)は食べないぞ、、と。

 別ヴァージョンでは、外人さんが日本に来て寿司を食べました。これがよりにもよって酷い店で食べて、半分腐りかけで、えらい目に遭いました。もう二度と寿司は食べないぞと思うだけではなく、日本人の味覚は異常だ、こんなものを喜んで食っている民族は異常者集団だ、即刻地上から絶滅させなければならないと固く誓うのであった。

 オーストラリアに来てどっかの家にホームステイをしました。これがまた運が悪く、極めつけにヒドイところに入ってしまい、散々な目に遭いました。そこで二度とホームステイはするもんかと思う。のみならずオーストラリアなんか嫌いだ、オーストラリア人は悪党だと思う。のみならず(その2)、海外なんか嫌いだ、日本が一番だと思うのであった。

 :

 もう無限にバリエーションはあります。
 変数X。どなたでも代入可能、皆様のお越しをお待ち申し上げています。

 今回はこのことを考えてみましょう。

 この含蓄のあるエピソード(笑)から色々なことが引き出せるのですが、例えばいわゆる「経験論」というものの怖さを示しているとも言えるでしょう。

 非常に限られた経験をもとに全てを判断してしまうという。なまじ実際に経験しているだけに、それは骨身に染み、脳裏に刻まれるかもしれない。その強力な刻印を、ひとはトラウマと呼んだりもする。

 さらに止せばいいのにそれを他人に吹聴し、あまつさえ「指導」したりなんかして、誤謬がどんどん拡散していく。なんせ言ってる本人が体験しているので、それはときとして妙に説得的だったりします。こうなるとアホ・ウィルスを流行らせているようなものです。「友達がこう言ってた〜」と広がり、「友達の友達が〜」でさらに広がり、「ネットで〇〇と書いてあった」でパンデミックに陥るという。

 では、何が間違っているのでしょう?
 どうすれば、このアホウィルスから逃れられて、正気を保てるのでしょう?

サイコロケースがダメな理由

 まず、サイコロ1のケースがダメな理由を考えてみます。

サンプルケースの絶対量が少ない

 とりあえずツッコミいれたくなるのは、「そんなもん1回振っただけでわかるかい!?」ってことです。二回目を振ってみて3がでた時点で「1しか出ない」理論はガラガラと崩壊するわけで、実験回数=経験量=サンプルデーターの絶対量が不足している、ってことです。

 サンプルデーターが足りなくても推論をすることが許されるなら、なんでも言えますよね。今日が雨だったから、明日も明後日も、もう世界の終わりの日まで雨しかふらないんだってことでも言える。

 ではどの程度のサンプルデーターがあれば十分なのか?これは一概には言えません。そりゃ多ければ多いほど良いでしょうけど、とりあえずは「なんぼなんでも(○回だけで結論を出すのは早すぎるわ)」という常識的な線があるでしょう。では何が「常識的」かといえば、まあ常識は常識だよってことなんだろうけど、敢えていえば、これも「なんぼなんでも」で、幾らなんでもこれだけ偶然が続くというのは変だぞ、おかしいぞって気になるくらいの量です。例えばサイコロ振って1が出ました。また振ったら1、次も1、さらに1、その次も1、、、てなると、おいおい、ちょっと待てよって気になります。

 サイコロの場合、1が出る確率は6分の1、2回続けて1が出る確率は6の二乗分の1、3回は三乗、、、で、3回だと6*6*6で216分の1、4回連続は1296分の1、5回連続は7776分の1で、そりゃ無いことはないけど、なんぼなんでもおかしいぞ?という気になるでしょう。それが216分の1でそう思うか、7776分の1でそう思うかは個々人の感覚ですが、自ずと限界はあるでしょう。

 つまり純粋理論的、数学的に予想される値の範囲からズレている、異常と呼んでも良いくらい、「おかしいな、なんかあるぞ」と合理的に疑えるくらいのズレがあるかどうか、そのズレに意味があるかってことで、何のことはない、普通の科学の方法論ですわね。実験データーを発表し、ズレ(偏差)がどの程度あるか、それが「有意」かどうかを判断する。

 あるいは一般的な推論方法である帰納法・演繹法の使い方がアホであるとも言えます。帰納(きのう)は豊富なサンプルケースを分析して一定の法則性(一般解)を導き出すという蒸留抽出プロセスであり、演繹(えんえき)は抽出された一般法則を個々の事例に当てはめて推測するプロセスです。100回サイコロを振ってその全てが1だったら、1しか出ないんじゃないかという帰納的推論がなされ、さらにこれから先振ってみてもおそらくは1しか出ないのではないかという演繹的推論がなされる。しかし、これだけのことで、およそこの世のサイコロ全てが1しか出ないと決めつけるのは飛躍であり、それをしたいなら世界中のサイコロの過去の出目のデーターを取り寄せるとか、あるいは完全ランダムに幾つかのサンプルを採取してこないとならない。このサイコロだけが特殊なのかもしれないわけですから。

 これって別に科学的方法論を知悉してなくても、ごくごく常識的にモノを考えれば出てくることです。どってことないです。ということは、ここがダメダメだということを、わかりやすく普通の言葉でいえば「ちゃんと考えていない」ってことになると思います。「頭使えよ、頭」ってことですね。

全体構造が見えてない

 ただし、これって自然科学だったらまだ論理的に詰めやすいのですが、社会科学(経済の動向とか)や人文科学(恋するキモチとか)になると、とたんにメロメロになる傾向はあると思います。

 なぜかといえば、対象が社会とか、「いとをかし」の風情・情緒とか、曖昧模糊としてくるからでしょう。

 そもそもサイコロ事例でなんであの立論がスカタンであると一発でわかるかといえば、そのための前提条件があると思います。すなわち、サイコロというものは、「基本的にどれも同じ確率で目が出るように作ってある」という「正解」をいきなり知っているということもありますが、仮にそれを知らなくても、「正六面体であり」「各面に1〜6の番号が割り振られている」という前提は知っています。

 しかし、実際の社会ではそれすらわからないということが往々にしてあります。むしろわかって場合の方が少ない。

 実際の現場の感覚では、それがサイコロであるという認識もないまま、やたら闇雲に手足をバタバタさせていたら空間に1という数字が浮かんできました、みたいな感じでしか認識されないのかもしれない。だからどういう構造で数字が表示されるかということも知らず、また1〜6の数字になっていることもわからない。またサイコロ状の物体であることは認識できても、その面の全てが1になっているのだとカンチガイすることはありうるでしょう。

 これは何かといえば、「全体構造が見えてない」のが問題だということだと思います。

検証法

構造的理解〜なんでそうなるの?が言えるか

 では、よくわからないまま、その立論が正しそうなのか、それともスカなのかをどう判断したら良いかという実践論に移りましょう。

 思うに、上に述べた全体構造が見えてないのが問題ならば、その全体の構造がどれだけ見えているのかをツッコめばよく、それは「なんでそうなるのか?」を問うて納得のいく説明が返ってくるかどうかです。

 ここで「とにかく○○だったんだよ!」「私の体験はそうだった」だけしか言っていないならば、「Aさんがサイコロを一回振ったら1が出た」という事実しか述べてないわけです。いうならば「Bさんが交差点角のコンビニに行ってアイスクリームを買った」というナマの事実が一個ゴロンと転がってるだけなのと同じことです。「で、それで?」です。

 でもって、巷ではこれだけの事実をもとに、何らかの結論らしきものが語られたりするわけです。「このサイコロは1しか出ない」とか、「Bさんはアイスクリームしか食べない」とか。こういう話になった時点で、「なんでそうなるの?」をぶつけてみる。どうしてこのサイコロは1しか出ないのだろう?どういう理由と構造で1が出たのだろう?そこんとこどう考えているの?と。

 ここでサイコロの何たるかがわからず、「振る」という行為をすれば1という「結果」が出てくるという具合に単純化し、「それはそーゆーものなのだ」と結論を叩きつけるような感じだったら、あんまり全体構造が見えてないってことになります。

 ただし、その経験事実が非常に意味性に満ちていたら全体構造なんか分からなくても十分に衝撃的だということもありえます。例えば、「UFOを目撃した」とか「宇宙人に円盤に連れ込まれた」とかいうくらいの事実になると、なんでそんなところをUFOが飛んでいるの?宇宙人は何故そんなことするの?の説明がなくても、十分に意味ありげです(その事実自体は100%真実だとしたら)。もうちょい現実的な例をあげれば、殺人の犯行時刻・現場の近くの通りをAさんが歩いていたという事実はある程度意味ありそうですが、これだけだったら単なる通行人である可能性も大きい。しかし、「血まみれの包丁を持ってAが歩いていた」となったら、かなり意味性を持ってきます。なぜ歩いていたのか?の全体構造を問うまでもなく、「むむ、これは」という見逃せない話になります。

全体構造という「おはなし」の吟味 

 また全体構造というのは言えれば良いってものではなく、その構造理解が正確かどうかの検証も必要です。

 その昔、虹がどういうメカニズムで生じるのか自然科学知識が十分になかった頃にはいろいろな「おはなし」がありました。いわく「虹の終端の地面には財宝が埋まっている」とか。その輝きが地上に漏れて虹になって出ているのだと。この種の「おはなし」は沢山あります。というか、科学だってその種のおはなしの一類型と言えなくもない。

 サイコロケースでも、なんで1ばっかりなのかの「おはなし」は作れます。いわく、全ての面が1しか書かれていないからだ、曰くサイコロの神様がいて1しか出させないからだ、心が清らかな(邪悪な)者だけに1を出させるのだ。曰く、これはヤクザの使うイカサマサイコロで、1の反対側(底)に鉛を流し込んで重心をつくり、1が出やすいように細工しているからだ、などなど。

 でもこの種のおはなしというのは、クリエイティブ系な創作物であって、想像をたくましくしていけば幾らでも言える。どんなに荒唐無稽であっても、長編SFシリーズのようにフィクショナルな壮大な体系があったら、なんとなく「そういうもんかな」という気になる人もいるでしょう。

 例えば、死んだら、三途の川に脱衣婆がいたり、カロンの渡し守がいたり、閻魔大王がいたり、煉獄で審判を受けたり、でもって地獄当確が出たら、等活地獄やら黒縄地獄があって、、、とかなんとか。およそ教祖が聞いたら、「え、そうなの?」と言いそうな、巨大で壮麗なお話が構築されます。あるいは、陰謀史観と言われるものもあり、この世界を裏から支配している某邪悪な集団があり、それらが世界各国の枢要部を陰に陽に支配していて、例えば○○という事件はこれこれこういう事情で彼らが演出した茶番であり、○○は彼らに対立勢力が、、、とかいう、お話です。

 この種のおはなしで面白いのは、話が荒唐無稽になって、巨大になればなるほど、検証不能になっていくということですね。「神のお導き」とか「みほとけの御心(みこころ)」とか言われても、神様に電話かけて「本当っすか?」と聞くわけにもいかない。某邪悪なグループに「あなた達が全部支配してるんですか?」とメールで聞いてみるわけにもいかない(メアドなんか知らんし)。

 だから、40過ぎてから右肩が上がらなくなったのも、生活習慣や背骨が歪んでいるからではなく、「それは21歳のときにおろした水子の祟りです」「お母さんのことをまだ覚えているのですよ」「可哀想に成仏できないでまだ彷徨っているんです」とかまことしやかに言われてしまう。でもって、対処法として、例えば庭の北東の方角にこの塔やら壺を備えなさい、いまキャンペーン・セールで800万円のものが600万円になっていてお得ですよという話になったり。

 そういう「おはなし」を聞いて「なるほど、そうだったのか」と悟るのも、「てめえ、与太飛ばしてんじゃねえ」と怒るのも、あなたの自由意志です。ただね、ここまできたら「検証」というよりも、信じるか/信じないか、どういう世界観のもとの自分や人生をおいたらキモチ良いかという選択の問題になってしまいますよね。

他の可能性をどれだけ思いつけるか

 まあ、そこまで行く前に、まだまだやることはあります。
 とりあえずサイコロ一回ケースやら、たまたま食べたメシが美味いとかマズイとか、ホームステイが天国だった地獄だった程度のことなら、十分に論理的に検証可能でしょう。

 例えば、近所のラーメン屋に初めて行って食べたらマズかった!という場合、考えられる可能性は、
 (1)真実、ここのラーメンはマズい(腕がヘタとか食材をケチってるとか原因はともかく)
 (2)本当は美味いのだけど、たまたまその日に限ってマズかった(メインの料理人がお休みでバイト君だけでテキトーに作っていたなど)
 (3)たまたまそのメニューだけが美味しくなかっただけ(奇を衒ったスペシャルメニューが外していたとか)
 (4)自分の味覚だけが人と違っているような場合
 (5)心理的要因(店員の態度がムカつくとか、隣にヤクザが座っていたとか、心理的バイアスが非常に強く、いつものように味を検証できなかった)

 など、幾つもあります。
 僕もレストランガイドのページや、新規店開拓の場合には、上の点に留意して、
 ・最初はなるべくスタンダードなものを頼む。「素うどん」みたいに味のごまかしがきかず、ダシはちゃんとしてるか、麺の歯ごたえはどうかという、「それがダメなら全部ダメだろ」という根本部分がわかりやすいものを頼む。
 ・それか、「○○(店名)スペシャル」のように、お店の「これを食え」的イチオシを食べてみる。
 ・(こちらは)土日はシェフが休んでたりする場合もあるので、考慮する。
 ・待たされ時間とか、店員の動きなどをみて、誰かが無断欠勤してシフトがグチャグチャになって(ありがち)、十分な実力が発揮できていないかどうか(大口予約が入っててそっちに精力を奪われているとか)

 ・長期間にわたり味が変わらないのは高評価。こちらはシェフがボコボコ辞めたりするので、よほど定着率が良いのか、あるいは、高い給料を払ってでも常に一定レベル以上のシェフを雇おうというお店のポリシーの表れとして

 ・開店一年後に味が落ちるかどうか。こちらの不動産屋はアコギな部分もあって、最初の1年のテナント料は格安にして、客がついて経営が安定する2年目からドカンと家賃を上げるという手に出る所もあるという。これはお店が可哀想で、そこで値上げするか、あるいは食材のグレードやボリュームを落としたり、シェフの人件費を安くしたりして味が落ちる可能性がある。てか、よくある。この点は同情混じりに見てます。

新しい味覚問題

 また、食べ慣れていないものを食べる場合は、「Acquired Taste」=「獲得された味覚」要素があります。

 最初はとても食えたものじゃないと感じても、だんだん慣れるにしたがってその美味しさが分かり(獲得し)、最後には病み付きになるという食材は多い。むしろ、本当に好きになるものは、最初は拒否反応から入る場合が意外と多い(親友も、大好きな音楽も、最初は大嫌いだったりする)。

 ゆえに、「マズイ」「食えない」と思ったとしても、その理由が「不慣れだから」だったら、「こっちの落ち度」の可能性もある。
 いやあ、こっちに来てから思ったのですが、見知らぬ不慣れな食べ物でも、そもそも真実クソ不味かったら、その民族が数百数千年も食べ続けるわけがないではないか?と。それを食べているということは、やっぱどっか美味しい部分があるのだろう。それに人類社会ではどの領域でも平均100年に一人くらい天才が出現するだろう。ということは世界各地の料理界でも100年一人くらいの頻度で料理の天才が出現し、革命的な料理法を作り上げるだろう。2000年あれば20人の天才がグイグイと進化させているわけで、それでマズイというのは基本ないだろう。

 一方、真逆の要素もあります。
 例えばTPOというものがある。極寒の北極エリアで冷し素麺を食べても美味しくなさそうです。あれはミンミン蝉が鳴いて、すだれの外には照り返しの強い夏の庭がある、ちょい薄暗いくらいの日本家屋の畳の部屋で食べるから美味しいのであって、TPOが違うと味の本領が発揮できないということもある。炎天下の砂漠で鍋焼きうどんを食べるとか。その種のTPOが合ってないから不味く感じるというのはあるかも。

 さらに、民族料理といっても、本当は大して美味しくなくても、なんとなく惰性で食べてるということもあろう。また、TPO的価値がほとんどを占めるような場合もあるだろう。キャンプで食べるカレーやら、冬のカニ鍋など、それを「やっている」という遊興感やゴージャス感が大きく、味そのものについては実はあんまりよく分からないという場合もある。てっちり(ふぐ鍋)なんて、ふぐの魚肉それ自体は淡白すぎて味がほとんどないし、リアルにはポン酢(+もみじおろし)の味しかしないし、あれは「ふぐを食べている」というスペシャル感が美味しいのかもしれない。

 それを応用させれば、とある民族にとっては涙がでるほど嬉しいソウルフードであったとしても、それはそれにまつわる種々の付帯状況が美味しいのであって、味それ自体は大したことがないって可能性もある。

 このようにプラス・マイナス両方を考えて判断するほど間違いが少ないと思われます。

ステイ問題

 今は味覚に絞って書きましたが、こんなのなんでも同じことでしょう。ホームステイが詰まらなかったとしても、それは全然(英語で)社交的になれない、なろうとしても話題が貧弱で盛り上がれない自分のせいかもしれないし、真実良くないところであったとしても、それがレアケースなのか、全てそうなのかは自ずと別問題でしょう。そもそも、ステイ自体が100%ダメだったら、今日もなお世界各地でやられているステイは何なんだ?と。全員が全員地獄の苦しみを味わっているのか、それでも毎日新たに膨大な犠牲者が生まれつつあるとでも言うのか。さらに「楽しかった」とか言ってる人もいるけど、それらは全部ウソなのか。弱みを握られて無理やり言わされているのか。それとも異常感覚者なのか。

 さらに、全体構造でいえば、なにがどれだけ酷かったのかの内容によるけど、毎日暴行陵虐の限りを尽くされたってことはないだろう。そこまでいけばただの犯罪だし。「あんまり構ってくれない」といういう「かまってちゃん」的不満なのか、逆にあれこれルールが厳しいということなのか。しかし、そんなの個々の家庭のパーソナリティではないのか。それに、そんなにシステマティックにトラブルばっかり起こしながら、平均年収800万とか平均資産8000万円とか言われるシドニーのローカル住人が、たかだか週3万以下の「はした金」を儲けようとして割に合うのか?そこまで危ない橋を渡る必要や動機があるのか?

 さらに(その2)、オーストラリア人の中でホームステイをする人の数は、全人口比でいえば微々たるものであり、それは日本で外人留学生をステイさせている家比率よりは高いかもしれないが、全世帯がやってるわけではない。ほんの一部に過ぎないのに、その中でもわずか1件の体験、シドニーだったら人口440万人中の数人(家族)というサンプル比率4400000:数人で全てを語ろうというのは間違ってないか。オーストラリア人全員でいうなら22000000:1比率である。

 さらに(その3)、オーストラリアがダメ=海外全てダメだというのは、人口比で言えば2200万対70億人、わずか0.3%かそこらのサンプルケースで、よくぞ「全海外がダメ」という超大胆な結論まで導けるもんだね、すごいなってな感じ。

 自分のあたったステイ先=全シドニー=全オーストラリア=全海外(日本の以外の全地球)という具合に、もう「ひも理論」かなんかみたいに時空間がびしゃーっと潰れているとしか思えない世界観です。こんな屈曲率10000%みたいな眼鏡で見ながら何かやってそれで成功したら、そっちの方が奇跡でしょう。

見えているかどうか

 つまり種々の可能性をどれだけ考えられるか?思いつけるか?が大きなポイントになると。
 そのためには、世間が広く、知識が多く、全体にバランスがとれた世界観を持っているかどうかです。ちゃんと「見えている」かどうかですね。

 「見えている」には、量的質的いろいろなバリエーションがあります。量でいえば、「10は1の10倍」というのがちゃんと分かっていること。当たり前のことが当たり前に認識されているか、です。オーストラリアは日本の22倍の広さをもちますが、「日本の22倍」ということの意味がちゃんと分かってない場合が多い。実際地べたを車で旅行したらいいです。かくいう僕もそうで、タスマニア一周車で走って(それだけでトリップメーター3000キロいった)、かなりヘロヘロになりましたが、オーストラリア全図をみて、それすら下の方にオマケのようにある小島に過ぎないというのを見て、もうビックリというよりも、くらっと目眩がして、吐き気がしてきました。もう気が狂いそうなくらいデカイです。数量感覚が、ちゃんとそういう生理感覚で認識できるかです。いや、ほんま、一回車で3000キロぶっとーしで走ってみ?その上で、それの距離すら誤差レベルでしかないという事実を叩きつけられてみ?吐き気すんで〜、マジに。

 質的には、例えば日本人ですら10人いれば10人の個性があり、さまざまな考え方や性格があるのに、なぜに海外(外人)になると誰も彼もが同じになるのか。金太郎飴と言われる日本人社会ですらこれほどバリエーションに富んでいるならば、それ以外はもっと個性豊かなのは、普通に考えたら分かりそうなものです。「一を聞いて十を知る」というのは飛び抜けて聡明な人のことを言いますが、一件だけの事例で日本人以外の全人類を判断するんだから、「一を聞いて69億人を知る」わけで、どんだけ凄いんだ。

 10も10000000も「多い」という意味では同じとか、アメリカもマダガスカルも「日本ではない」という意味では同じという、超ひも理論みたいな物凄いべちゃ〜潰しをやってしまう。これはもう、「見えてない」というよりも、「見ようとしていない」といった方が正しいかもしれない。頭が悪いというよりも、頭を使おうとしていないと。だって、こんなもん「世界観」というほど大袈裟なものではなく、普通に考えればわかることでしょう。それが分からないというのは「普通に考えてない」としか思えないです。

 このように量質ともに「みんな同じ」という狭くて偏った世界観をもっていると、全体構造が見えない。見ようとしない。それが他の局面での判断に波及し、そこで又スカタンな認識を得て、さらにいっそう世界観が歪み、かくしてあらゆる局面で正答率が落ち、「こんな筈では」的期待はずれが多くなり、幸福のストライクゾーンがどんどん狭くなり、この世界での自分の居場所がどんどん小さくなり、山狩りに追われる裏山の小動物のようにどんどん追い詰められ、スパイラルに不愉快な人生になっていくという。怖いですね。ありがちだけど。やたら保守的な人とか、やたら決めつけたがる人って、その傾向があるかも。

経験論の怖さ

 このべちゃ潰しの「みんな同じ」的な発想法は、まさに「サイコロでたまたま1が出たら、1しか出ないと思い込む」というのと同じじゃんというのが、本稿のテーマでした。

主観的な衝撃に騙されない

 それは確かに主観的には掛け替えのない1回かもしれません。異性と付き合うのも、どっかに就職するのも、外国の家に住むのも、そう大量に経験することではない。自分にとっては人生の一大事でしょうし、その経験が全てを決するという心理もわからないではない。でも、主観的にいかにレアで、いかに重要であろうとも、客観的にはありふれた一事例に過ぎない。数千万とか億単位で今日も生じている普通の現象であって、そこでは夜空の星々のように無限のバリエーションに満ちている。自分のケースなどまさに大海の一滴に過ぎず、それで何がわかるというものでもない。

 こんなの頭では誰でも分かっていることでしょう。しかし、そんなクソ簡単なことが、ふとわからなくなるという。恐いですよね。

 何で分からなくなるのか?というと、やっぱり主観的な衝撃度が凄いからでしょう。
 やっぱり自分の体験した事実というのはデカい。ここまで理性の鏡を曇らせるほどに、それほどまでに経験というのは巨大な影響力を持つ、ということです。いくら理屈でわかっていても、現実に死ぬほど不味いものを食べさせられたら、もう二度と食べるもんかと思う。

 それは心情的には同意できますし、僕もそうでしょう。
 しかし、だからこそ、そこが勝負ドコロだと思うのです。なんぼ無理もないよ、それが自然だよ、それが素直な感情だよといっても、スカタンはスカタンなんだわね。間違ってるものは間違っているのだ。サイコロで1が出ただけに過ぎないのだ。

 物事をうまく切り回せる人というのは、そのあたりの割り切りが上手なのだと思います。精神的に強いのかもしれないけど、自分の感情がキーキー金切り声をあげるのを平然と(平然じゃないかもしれないけど)、無視できる。「うるせーな、一回ぽっちで何が分かる?」とガンガン進んでいける。そして、よりバランスの取れた、汎用性の高い法則なり、この世の扉を開く魔法の呪文(プロトコル)をゲットできる。

「魔法の呪文」「プロトコル(手順)」というのは、例えば「なるほど、こうすればいいのか!」とコツを会得することです。接客業などの場合、いろいろなお客さんが来るわけで、中にはとんでもない客がくる。そこでボロカス言われて傷ついて、それで辞めてしまったら呪文はゲットできない。「こんちくしょー」とか思いながらもやってるうちに、「ははあ」と段々見えてくる。この種のお客には権威的な物言いが有効だ(某セレブもご愛用とかそのあたり)、この種の愚痴っぽいお客はとことん親身に聞いてあげると不機嫌そうな顔は変わらないけど常連になってくれる、この手のタイプには丁寧な口調でどんどん強硬な方向に流していくとビビって脱落する(わかりました。ご意見もごもっともですが、なにぶん手前どもの一存では決めかねますので、弊社の顧問弁護士と相談の上、後日改めて内容証明郵便なり送らせていただきます、とか)。弁護士業もそうですが、人間相手の商売には絶対にと言っていいくらいの数々の「呪文」や技があります。

 はたまたお役所とか大企業のサラリーマンさん相手に交渉をする場合、相手個人を説得したり、威嚇したりしてもダメです。コツは彼/彼女に、いかに上司に報告書・稟議書を書きやすくしてあげるか、でしょう。大組織においてはそれが大事。幾ら個人的に親しくなって、泣き落としてもらい涙をしてもらっても、社に戻って「あの人、可哀想なんですよ」だけでは稟議が通るわけもない。「そりゃあしょうがないな」と誰もが思うようなもっともらしい客観的事実を伝えなければ。この応用ですけど、日本の民事訴訟の一定割合は税務対策でやられていたりしますよね。返せる見込みもない訴訟や執行をなぜやるかといえば、勝訴判決と執行不能調書(お金がないのでダメでーす証明)を揃えれば「やるだけやった」と株主にも言い訳がたつし、何よりも税務上その債権を損金で落とせる。アカデン(赤伝票)切れるってことです。

 これがいろいろなバリーションあって、オーストラリアの移民局に問い合わせるヴァージョンとか、シェアや家賃でもめた場合のヴァージョンであるとか、いろいろあるわけですね。ある日突然、自分の職場に見たこともない女性が幼子を抱きかかえて訪れ、「あなたの子よ。一回でいいから抱いてあげてちょうだい」と言われてしまった場合にはどう対処したら良いか?という「上級編」もあったりします(僕もようしらんけど)。世の中は呪文(技)に満ちてます。知ってるか知らないかで決まる場合が多く、ゆえに技は沢山持っておいたほうがいいし、技を仕入れるためにはサイコロは一回だけではなくある程度の回数振らなければならない、ってことですね。

 余談が過ぎましたが、以上、経験は非常に強い力を与えてくれますが、それゆえに副作用も強いという話でした。

 以下、オマケです。書いたら長くなりそうなので、付記的に。

良い経験はアクセル、悪い経験はブレーキになる

 経験で役に立つのは楽しい経験だと思います。楽しい思いをすれば「味をしめる」ということになり、次につながる。またやってみたいと思うし、それが経験数を増やし、経験数が増えれば魔法の呪文に到達する可能性も高くなる。

 逆に、不愉快な経験は、次につながらない。もう二度と、、と思うからブレーキになる。で、せっかくのチャンスをミスることになる。だから不快な経験を何かの基礎にしようと思うなら、かなり慎重な分析が必要だと思いますね。「もう二度と」と思うということは、自分の未来の可能性をそこで切り捨ててしまうことにも繋がりますから、くれぐれも慎重に、ってことです。たまたま最初に食った寿司がマズかったからといって、それで一生寿司を食わないというのは、やっぱり勿体無いと思うぞ。


 これを処世訓的にいえば、良い思い、楽しい思いを沢山しろってことになるかと思います。その快楽経験が次に進ませてくれるから。たとえそれがどんなに思い違いであろうが、間違いであろうが、数を重ねていけば確率的に平均値に近づいて、バランスがとれたものの見方になりますから。

 もっとも、競馬の初心者が最初に万馬券あてて味をしめ、人生崩壊の道を爆走するような場合もまさにコレなんですよね。そうならないために補助的原理としてカウンターを当てるならば、「調子に乗るな」ということでしょうね。英語でいえば、Don't push your luckです。

 ま、そのへんは経験的にも分かると思います。たまたま読んだ小説が滅茶苦茶おもしろくて、その著者の作品を乱読したりしますが、全巻読破したあとに、結局最初に読んだ作品だけが破格に面白かったとか(^^)。よくある話ですけど、そこでひるんでいたらフェバリットのものを辿りつけない。いいものをゲットしようと思ったら、無駄弾を惜しんではならないってことですか。

未経験は一回以下

 経験論は上記のようなリスクを伴いますが、だからといって何も経験しないで良いということではないです。経験しないということは、野放図に広がった滅茶苦茶な脳内世界観が是正される機会がないってことですから、いっちゃん恐ろしいです。

 サイコロ一回ケースでも、一回振れば、少なくとも、サイコロがどんなものか、どのくらいの重さかどんな手触りかが分かる。振るときはどんな気持ちになるかとかいうのも分かる。それはそれで大きな収穫です。

 土台やらなくても分かるなんてことはこの世に無いです。事前に予想したことは、必ずやどっかしら外れます。なぜなら、現実というのは途方も無い情報量があるのであって、それを全て事前に想定することは人間の脳味噌には不可能です。そもそも、未経験の知覚というのは想像することすらできない。もし、何かをやって、「まあ、思った通りだった」と思い、なんら新しい発見がなかったのならば、それは何かを見落としているか、意図的にか無意識的にか、自分の予想範囲以上のものを認識しようとしていないと思われます。最初に結論ありきみたいな。でも、絶対どっか違うはずで、それはどこか?です。

 こちらの就職では絶対的に経験者優遇です。優遇というか未経験だったらほぼ絶望に近いくらいで、なんでそんなに経験を重視するのか?といえば、やっぱりやったか/やらないかでは、認識や技量に巨大な差があるからです。でも、人は誰でも最初は未経験、どうしたらいいの?といえば、だからこそのインターンであり、だからこそのアプレンティシシップ(徒弟的見習い)でしょう。タラップ階段があるのだ。

 仕事でもなんでも同じことの繰り返しだあ〜って思うことがあるかもしれないし、僕ものべ1000人以上を相手に「同じこと」を繰り返していますが、「同じことの繰り返し」だとは思いません。これは前にも何度か書いたけど、人が違えば絶対なにか違います。てか全部違う。どっかで読んだ記憶があるのですが、プロの訓話として、何万回繰り返すことでも常に最初の一回目の新鮮さで臨めと。そこまではいかないけど、絶対なんか違うはずだという前提でやります。実際違うし。だから面白いんだけど。

 このように一回だけではかなり限られたものしか得られないけど、それでもゼロ回に比べたら雲泥の差です。だもんで、ウダウダ言ってないで、とりあえずやってみ、行ってみ、食ってみ、です。それで当たればめっけもんです。人生とは、めっけもん獲得競争みたいなもんなんだから。

経験とは古代遺跡のようなもの

 最後に、経験というのは、すぐにその場では理解できないことも多いです。ずいぶん時間が経ってから、「ああ、そういうことだったんだ」「いい経験させてもらったな」と理解できるという。どなたかの体験談でもありましたが、ワーホリで来てシドニー時代はイケてなくて悶々としていて、逃げるようにラウンドにでた。出た先で弾けて一皮むけたわけなんだけど、その視点でシドニー時代を振り返ると、実は良い経験を沢山していたんだって気づいたと。あの時期にものすごく伸びていたんだけど、でも、自分がそれが評価も賞味も出来てなかったと。

 経験というのは古代文字や古代遺跡のようなもので、発掘しただけで全てがわかるというものではない。それから、時間をかけてゆっくり「解読」していくもんだと思います。それはもう年取ってくると段々と親や教師や上司の有り難みがわかるのようなものでしょう。リアルタイムには「うっせーな」とひたすら鬱陶しいし、敵視すらするのですが、自分が逆の立場になってくると、今の自分に、逆恨みされるリスクを背負いながら、あそこまで他人のために踏み込んであれこれ言えるか?言う勇気があるか?というと全然なかったりして、ああ、俺はあそこで尋常ではない量の愛情を降り注いでもらっていたんだなってわかるという。

 過去の経験でも、通り一遍の表面的な解釈で分かった気になってることも多いと思います。未解読のまま放置されている宝石群もあるでしょう。あなたの頭のなかには、いつの日か解読されることを待っている経験記憶が、それこそ途方もないくらい埋蔵されているのかもしれません。



 
文責:田村



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